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「もっともっと欲しい」の貪欲の経済から、「足るを知る」知足の経済へ。さらにいのちを尊重する「持続の経済」へ。日本は幸せをとりもどすことができるでしょうか、考え、提言し、みなさんと語り合いたいと思います。(京都・龍安寺の石庭)
持続可能な未来に向けて踏み出そう
大震災2年、大手紙社説が論じたこと

安原 和雄
 東日本大震災から2年を経た3月11日、大手紙社説はどう論じたか。目を引いたのは、東京新聞社説で、次の書き出しから始まっている。「風化が始まったというのだろうか。政府は時計の針を逆回りさせたいらしい。二度目の春。私たちは持続可能な未来へ向けて、新しい一歩を刻みたい」と。
キーワードは「持続可能な未来」である。地球環境保全のための「持続可能な発展」も広く知られているが、ここでの「持続可能な未来」は、脱原発をめざす合い言葉となっている。ところが安倍政権の原発容認路線は目先の利害に囚われて、「持続可能な未来」に背を向けている。(2013年3月11日掲載。公共空間「ちきゅう座」、インターネット新聞「日刊ベリタ」に転載)

 大手紙社説は東日本大震災から2年の2013年3月11日、どう論じたか。大手5紙の社説の見出しは以下の通り。
*朝日新聞社説=原発、福島、日本 もう一度、共有しよう
*毎日新聞社説=震災から2年 原発と社会 事故が再出発の起点だ
*讀賣新聞社説=再建を誓う日 政府主導で復興を加速させよ 安心して生活できる地域再生を
*日本経済新聞=東日本大震災2年㊦ 福島の再生へ現実的な行程表を
なお日経社説は前日の3月10日付で「東日本大震災2年㊤ 民間の力を使い本格復興へ弾みを」と題して論じている。
*東京新聞社説=3.11から2年 後退は許されない

 以下、5紙社説の大意を紹介し、<安原の感想>を述べる。
▽ 朝日新聞社説
 東京電力福島第一原発で、いま線量計をつけて働く作業員は一日約3500人。6割以上が地元福島県の人たちだという。「フクシマ3500」の努力があって、私たちは日常の生活を送っている。
 事故直後は、「恐怖」という形で国民が思いを共有した。2年経ち、私たちは日常が戻ってきたように思っている。だが、実際には、まだ何も解決していない。私たちが「忘れられる」のは、今なお続く危機と痛みと不安を「フクシマ」に閉じ込めてしまったからにすぎない。福島との回路をもう一度取り戻そう。
 原発付近一帯を保存し、「観光地化」計画を打ち上げることで福島を語り継ぐ場をつくろうという動きも出ている。いずれも、現実を「見える化」して、シェア(共有)の輪を広げようという試みだ。

<安原の感想> 福島との回路をもう一度
 <私たちが「忘れられる」のは、今なお続く危機と痛みと不安を「フクシマ」に閉じ込めてしまったからにすぎない>という上述の指摘は、さり気ないが、重い。だからこそ<福島との回路をもう一度取り戻そう>という呼びかけは重要である。
 日常生活の場を捨てざるを得ない直接の被災者たちと、私(安原)のような東京に住む間接の被災者との間には生活感覚として同一とはいえない。しかしシェア(共有)の輪を広げようという試みは重要であるし、私自身、その感覚は共有できるのではないかと感じている。

▽ 毎日新聞社説 
 高レベル放射性廃棄物は、地下数百メートルの安定した地層に埋める考えだ。しかし、放射能が十分に下がるまでの数万年間、地層の安定が保たれるかは分からない。原子力発電環境整備機構が最終処分地を公募しているが、応じた自治体はない。
 その結果、全国の原発には行き場のない使用済み核燃料がたまり続けている。未来にこれ以上「核のごみ」というツケを回さないためにも、できるだけ速やかな「脱原発依存」を目指すべきだ。
 ところが、安倍政権は原子力・エネルギー政策を3.11以前に戻そうとしているかのようだ。象徴的なのが原発にまつわる審議会の人選だ。 

<安原の感想> 遠ざけられる脱原発派
 末尾の「原発にまつわる審議会の人選だ」は次のことを指している。
 経済産業相の諮問機関、総合資源エネルギー調査会総合部会(原発を含む中長期のエネルギー政策を審議する)では民主党政権時代、24人の委員のうち7人が脱原発派だった。しかし安倍政権下では15人の委員に絞られ、脱原発派は2人に減らされ、原発立地県の知事も新たに加わった。安倍政権下では脱原発派は遠ざけられているのだ。
 脱原発派の排除は権力の傲慢さの表れである。政権に限らず、企業など他の組織も同じで、重要人事をみれば、そのトップの器量の度合い、傲慢度を推察できる。

▽讀賣新聞社説
 東日本大震災から2年を迎えた。国民みんなで改めて犠牲者の冥福を祈りたい。再起に向けた歩みは遅れている。政府が主導し、復興を加速しなければならない。被災者たちは津波の再来に不安を覚えながら、仮設住宅から水産加工場などに通う。
 「収入と安全安心をどう両立させればいいか」。石巻でよく聞かれる言葉は切実だ。復興策が議会や住民の反発を招き、辞職した町長もいる。それぞれの自治体と住民がジレンマに苦しみながら、「街の再生」を模索した2年だったと言えよう。
 被災地のプレハブの仮設住宅には、今も約11万人が暮らす。不自由な生活にストレスや不安を訴える住民が増えていることが懸念される。安定した生活が送れる新住居に早く移れるよう、自治体は復興住宅の建設を急ぐべきだ。

<安原の感想> 軍事費の一部を被災者へ
 データを補足しておきたい。避難生活を送る被災者は31万5000人を下らない。うち約16万人が、東京電力福島第一原子力発電所の事故が起きた福島県の避難者である。
 避難生活を余儀なくされている人々は31万人を超える、という数字を一見しただけでいかに多くの人々が無惨な日常生活を今なお強いられているかが分かる。いうまでもなく、これは決して自己責任とはいえない。善良な犠牲者である。
 軍事など右傾化路線推進に熱心な安倍政権に注文したい。軍事費の一部を被災者へ再配分してはどうか。それが「民」へ心寄せる政治家の心得ではないか。

▽ 日本経済新聞社説
 安倍政権ができて2カ月以上たつのに、民主党政権が決めた廃炉や除染の工程表はそのままだ。政府は現実を踏まえて工程表を作り直し、被災者が希望を持てるように、生活再建や地域再生を含めた大きな見取り図を示すときだ。
 前政権が「原発敷地内で事故は収束した」と宣言してから1年3カ月。福島原発の状況に大きな進展はなく、むしろ廃炉への道のりの険しさを浮き彫りにした。
 廃炉は40年間に及ぶ長期戦になり、炉の冷却が不要になる時期も見通せない。それだけに、2~3年先に達成可能な目標が要る。それがないと、避難を強いられた住民は将来への不安を拭えない。被曝(ひばく)と闘いながら懸命に働く3千人の原発作業員の士気を保つためにも、政府と東電は新たな目標を示すべきだ。

<安原の感想> いのちへの無責任な犯罪
 上述の末尾の「政府と東電は新たな目標を示すべきだ」という指摘は、願望としては分かるが、現実に可能なことなのだろうか。日経社説自体が「廃炉は40年間に及ぶ長期戦になり、炉の冷却が不要になる時期も見通せない」と指摘しているではないか。
 原発に関する限り、あれこれ恣意的な願望を述べることにどれほどの実質的な意味があるだろうか。原発には身勝手な恣意を受け付けない悪魔性が潜んでいる。それを軽視して、目先の算盤勘定で原発推進を唱導するのは、人類とそのいのちに対する無責任な犯罪とはいえないか。

▽ 東京新聞社説
 デンマーク南部のロラン島を訪れた。沖縄本島とほぼ同じ広さ、人口六万五千人の風の島では、至る所で個人所有の風車が回り、「エネルギー自給率500%の島」とも呼ばれている。デンマークは原発をやめて、自然エネルギーを選んだ国である。ロラン島では、かつて栄えた造船業が衰退したあと、前世紀の末、造船所の跡地に風力発電機のブレード(羽根)を造る工場を誘致したのが転機になった。当時市の職員として新産業の育成に奔走した現市議のレオ・クリステンセンさんは「ひとつの時代が終わり、新しい時代への一歩を踏み出した」と振り返る。
 二度目の春、福島や東北だけでなく、私たちみんなが持続可能な未来に向けて、もう一歩、踏み出そう。そのためにも福島の今を正視し、決して忘れないでいよう。

<安原の感想>「持続可能な未来」という希望
 結びの「福島の今を正視し、忘れないでいよう」という呼びかけに双手を挙げて賛同したい。何のためにか。いうまでもなく「私たちみんなが持続可能な未来に向けて踏み出す」ためにほかならない。単なる進軍マーチ程度の呼びかけと受け止めるわけにはゆかない。「持続可能な未来」という希望をただの夢想に終わらせないで、地球と人類といのちのためにどこまでも大切にしたい。
 そのモデルの一つがデンマークという小国であるところも新しい時代の息吹を感じさせる。もはや軍事力を振り回す大国の時代ではない。いのちと希望を育む小国時代の到来といえよう。


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「皆のため」という大欲に生きること
いただいた恩を返してバランスをとる

安原和雄
 2013年3月は、私にとって満78歳の誕生月である。気がついてみれば、この高齢に辿り着いているわけで、ここまで生きのびてきたのかという感慨も湧いてくる。最近、年齢相応に脚にしびれを感じるが、幸い歩行困難というほどではない。これからなお10年、いや20年程度は生き抜いてみようという意欲も捨てがたい。
だからといって私利私欲に囚われていると、生きることの充実感は遠のいてゆくに違いない。これまでいただいた多くの恩を返してバランスをとること、さらに自分中心の「小欲」でなく、「皆のため」、「社会のため」という「大欲」に生きることはできないか。(2013年3月3日掲載。公共空間「ちきゅう座」、インターネット新聞「日刊ベリタ」に転載)

 以下は日本経営道協会代表・市川覚峯氏(注)の著作『仏道を歩む』からの紹介である。
(注)市川覚峯(いちかわかくほう)氏は長野県生まれ。44歳の時より「日本人の美しい心の復興」への志を立て、比叡山、高野山などで千二百日の修行を重ねた。下山後、「心と道の経営」の活動を推進している。著書に『いのち輝かせて生きる』、『修行千二百日』など多数。

(1)何のために働いているのか ― 衣食のためか、名利(めいり=名誉と利益)のためなのか

 人々は忙しく血眼になって、朝早くから夜遅くまで働いているが、いったい何のために働いているのであろうか。
 美しい衣装を身に着け、おいしいものを味わい、住み心地のいい家に住むためであろうか。車に乗って、東へ西へと駆け回るのは名誉を得たいからか、利益のためなのか。
 そうした忙しい、心が亡びた日々の中で人間としての尊厳を見出し得るであろうか。己の名利のみに心を労する者に真の歓喜は望めない。

 時には立ち止まり、人としての生き方を見つめ、自分は何のために、何を実現しようとして働いているのか、自己の生きる目的とは何か、人はどう生きたらいいのか、社会の中にどう関(かか)わるべきか、考え見つめ直すべきである。

<安原の感想> 仏道の脱皮・成長を期待したい
 「あなたは何のために働いているのか」と正面から問いかけられたら、即答に戸惑う人も多いに違いない。失業者、非正規労働者が、労働力人口の3割以上にも脹らんでいる現状ではこの質問はいささか酷かも知れない。働く意欲も能力もありながら働く機会から排除されている人が多いこの時代をどう改革していくか。
 仏道も従来型のお説教にとどまっているだけでは心に訴えることができるだろうか。改革を目指す仏道へと脱皮・成長していくことが期待される。

(2)多くの人の恩に報いるため人世のために尽くそう ― いただいた恩を返してバランスをとるため人を幸せにしよう 

 私たちは今日までいろいろな人の恩を受けて生きてきている。
生んでくれ、育ててきてくれた父母の恩。
いろいろなことを教えてくださった先生や人生の師である方から受けた恩。
また、共にはげまし、学び、向上しあった友人、仲間たちの恩。
自分を導き引き上げてくださった先輩や上役たちの恩、など限りない「おかげ」の力をもって今日こうして生き、活動している。

 こうした返しきれない多くの恩に報いるために、多くの人々を幸せに導くよう世のため人のために尽くしていかなくてはならない。そうしないと人生の借りばかり多く残って、バランスが合わないまま死んでいくことになる。

<安原の感想> 恩にどう報いるか
 「恩に報いる」といえば、今どき「なぜ恩なのか」という戸惑いと反論が返ってくるかも知れない。特に若い世代に、そういう批判や無関心が広がっているかもしれない。「恩」という表現に馴染めないのであれば、金銭に換算できない「人生の借り」をお返しすること、と考えればいいのではないか。
 父母や先生などから受けた「恩」、共に励まし合った仲間たちの恩、先輩や上役たちの恩は、金銭では評価できないし、「返しきれない多くの恩」といえるだろう。

(3)自分中心の欲を捨て皆のために尽くす ― 私利私欲を抱いていると、いつまでも幸せになれない

 仏が説法を説かれるのは人々に自分中心的な小さな観念を捨て去らせるためである。「自分が」、「俺が」と我(が)を前面に出し、私利私欲に生きて、その結果、苦しみ迷っている状況からは逃れなさい、と仏は教えている。
 そのためには自分中心の欲=「小欲」でなく、皆のため、社会のためという大きな欲=「大欲」をもち、人世のために生きることである。

 自分の働きかけや活動で世の中が良くなったり、人が幸せになり、他人のよろこぶ姿を見て、自分も幸せになっていくものだ。それこそ真の幸せの道である。

<安原の感想> 「真の幸せの道」とは
 「社会のためという大欲に生きる」ことは、たしかに「真の幸せの道」であるに違いない。ところが現実には目先の私利私欲にこだわり、苦しみ迷う生き方が少なくない。
いつも不思議に思うことがある。私は居住地(東京都内)の私鉄駅ではエスカレーターには乗らないで、階段利用に努めている。しかし階段を歩いて上る人は私以外にはほとんどいない。特に若者たちに警告したい。エスカレーター依存症は、足腰を弱めて、将来の寝た切り予備軍になりかねないよ、と。一人ひとりは楽(らく)をしているつもりだろうが、これでは「社会のために大欲に生きる」姿勢からは遠いとはいえないか。


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日米首脳会談後の日米同盟の行方は
大手メディアと沖縄紙が論じたこと

安原和雄
 安倍首相の訪米による初の日米首脳会談後の日米同盟は何を目指すのか。メディアはどう論じているか。新聞社説の見出しを紹介すると、「懐の深い同盟を」、「安全運転を外交でも」、「アジア安定へ同盟強化を」、「同盟強化というけれど」、「犠牲強いる同盟」など日米同盟強化論から同盟批判まで多様である。
 この新聞論調から見えてくるのは、日米同盟そのものが大きな転機に直面しているという事実である。特に沖縄紙からは「長年にわたって沖縄が強いられている構造的差別を解消する方向に直ちにかじを切ってもらいたい」という切実な声が伝わってくる。「日米軍事同盟時代の終わり」の始まりを示唆しているとはいえないか。(2013年2月25日掲載。公共空間「ちきゅう座」、インターネット新聞「日刊ベリタ」に転載)

 本土の大手5紙と沖縄の琉球新報の社説は日米首脳会談をどのように論評しているのか。まず各紙社説の見出しは以下の通り。なお東京新聞は2月25日付、他の各紙は24日付である。
*朝日新聞=TPPは消費者の視点で 懐の深い同盟関係を
*毎日新聞=「安全運転」を外交でも TPPで早く存在感を
*讀賣新聞=アジア安定へ同盟を強化せよ TPP参加の国内調整が急務だ
*日本経済新聞=同盟強化へ首相が行動するときだ
*東京新聞=日米首脳会談 同盟強化というけれど
*琉球新報=日米首脳会談 犠牲強いる“同盟”は幻想
 以下、各紙社説の要点を紹介し、それぞれに安原のコメントをつける。

▽朝日新聞社説
 日米同盟が大切であることには、私たちも同意する。だからといって、中国との対立を深めては、日本の利益を損なう。敵味方を分ける冷戦型ではなく、懐の深い戦略を描くよう首相に求める。
 首相は、軍事面の同盟強化に前のめりだった。首脳会談では、防衛費の増額や、集団的自衛権行使の検討を始めたことを紹介し、日米防衛協力の指針(ガイドライン)見直しの検討を進めると述べた。一方で、中国を牽制(けんせい)した。
 そういう首相と、米国側の姿勢には温度差があった。オバマ大統領は記者団の前で「日米同盟はアジア太平洋地域の礎だ」と語ったが、子細には踏み込まず、「両国にとって一番重要な分野は経済成長だ」と力点の違いものぞかせた。
 いまは、経済の相互依存が進み、米国は中国と敵対したくない。米中よりも日中のあつれきのほうが大きく、米国には日中の争いに巻き込まれることを懸念する声が強い。

<安原のコメント>「結びつき」を阻む策謀
 朝日社説は次のようにも指摘している。「日米同盟を大切にしつつ、いろんな国とヒト、モノ、カネの結びを深め、相手を傷つけたら自身が立ちゆかぬ深い関係を築く。日中や日米中だけで力みあわぬよう、多様な地域連携の枠組みを作るのが得策だ。対立より結びつきで安全を図る戦略を構想しないと、日本は世界に取り残される」と。
 「結びつきで安全を図る戦略」は一つの選択肢といえよう。従来とかく日米安保体制を足場にして、「結びつき」に背を向ける対立抗争を好んだ。その陰には米日両国好戦派の軍産複合体の策謀が潜んでいた。この策謀を果たしてどこまで抑え込むことが出来るかが「安全を図る戦略」のカギとなる。

▽毎日新聞社説
 日米同盟を基軸に「強い日本」を目指すという安倍外交が、本格的なスタートを切った。北朝鮮の核開発や尖閣諸島をめぐる中国との対立など深刻な不安定要因を抱える日本にとって、今ほど外交力が試される時はない。その基盤となるのが米国との連携である。必要なのは、「強固な日米同盟」を背景にした賢明で注意深い外交だ。
 日本から対立をあおるようなことはしない。領土をめぐる問題は力ではなく対話で解決する。この2点を日米両首脳が世界に向かって発信したことを、中国は重く受け止めるべきだ。一方、日米同盟強化は他国とことさら対立するためではなく、アジアに安定をもたらすためのものでなければならない。安倍氏にはタカ派色を抑制しながら、現実主義的な外交をこれからも続けてもらいたい。外交の「安全運転」は、米国が望んでいることでもある。

<安原のコメント> 「強固な日米同盟」と「外交の安全運転」
前段に「強い日本」、「強固な日米同盟」という認識が強調されている。しかも日米同盟に支えられた「強い」であり、「強固」である。「強い精神力」という意味だろうか。そういう理解はここではむずかしい。やはり軍事力に支えられた「強い日本」であり、「強固な日米同盟」と理解できる。
しかし一方では「日本から対立をあおるようなことはしない」、「日米同盟強化は他国とことさら対立するためではなく、・・・」という釈明が付け加わっている。これが<外交の「安全運転」を>とつながっている。「強い日本」と「外交の安全運転」とが表裏一体の関係にある。軍事力のみに依存する時代ではもはやないということか。

▽讀賣新聞社説
 オバマ米政権も、安倍政権との間で日米関係を再構築することがアジア全体の安定につながり、自らのアジア重視戦略にも資する、と判断しているのだろう。
 焦点だった日本の環太平洋経済連携協定(TPP)交渉参加について、日米両首脳は共同声明を発表した。全品目を交渉対象にするとの原則を堅持しながら、全ての関税撤廃を事前に約束する必要はないことを確認した。首相は訪米前、「聖域なき関税撤廃を前提とする交渉参加には反対する」との自民党政権公約を順守する方針を強調していた。
 公約と交渉参加を両立させる今回の日米合意の意義は大きい。成長著しいアジアの活力を取り込むTPP参加は、安倍政権の経済政策「アベノミクス」の成長戦略の重要な柱となり、経済再生を促進する効果が期待されよう。

<安原のコメント> アベノミクス始動の必要条件
 「いよいよアベノミクス始動」へ、という大いなる期待を込めた社説である。しかし本当のところ、どこまで期待できるのだろうか。アベノミクスとは、「大胆な金融政策」、「機動的な財政政策」、「成長戦略」という3本の柱からなっている。とくに日本銀行には物価上昇率2%を目標に金融緩和を進めることを期待している。
重要なことは新規需要をどこに求めるかである。首相の頭にあるのは、成長著しいアジアの活力を取り込むためのTPP参加である。しかしあえて指摘すれば、なぜ国内需要に目を向けないのか。例えば300兆円ともいわれる大企業中心の内部留保を賃金として還元することだ。これこそがアベノミクス始動の必要条件であるべきではないか。

▽日本経済新聞社説
 今回の訪米で日米関係を強める道筋を敷くことはできた。だが、それが実を結ぶかどうかは、今後の行動にかかっている。その最たるものが、環太平洋経済連携協定(TPP)の交渉への参加問題だ。そもそも、日米両国にとっての最大の課題は、台頭する中国にどう向き合い、協力を引き出していくかである。TPPはそのための経済の枠組みだ。両国は同様に、外交・安全保障面でも協力の足場を固めなければならない。
 日米同盟を深めるためには、言葉だけでなく、行動が必要だ。米国の国防予算は大幅に削られようとしている。米軍のアジア関与が息切れしないよう、日本として支えていく努力が大切だ。では、どうすればよいのか。まずは、安倍首相が会談でも約束した日本の防衛力強化だ。日本を守るための負担が減れば、米軍はアジアの他の地域に余力を回せる。

<安原のコメント>「日本の防衛力強化」は疑問
 「日本の防衛力強化」というお人好しの主張もいい加減にして貰いたい ― この日経社説を一読して得た印象である。かつて経済記者は防衛力(=軍事力)の強化にはそれなりの距離をおいて観察していたものだ。なぜなら日常の国民生活に貢献しない軍需生産が活発になれば、民生圧迫で、経済の不健全化を招くと考えたからである。
 しかし最近は発想に変化が生じているらしい。「日米同盟深化」を大義名分として「日本の防衛力強化」に乗り出せ、とそそのかしているだけではない。「日本を守るための負担が減れば、米軍はアジアの他の地域に余力を回せる」と負担の肩代わりまで提案している。「防衛力強化」論は、好戦派の意図するところで、それとは一線を画して、なぜ軍縮への提唱を試みようとはしないのか、不思議である。

▽東京新聞社説
 民主党政権時代に日米関係が悪化し、自民党政権に代わって改善したという幻想を振りまくのは建設的ではない。
 首相が同盟の信頼を強めるというのなら、むしろ安保体制の脆弱(ぜいじゃく)性克服に力を入れるべきである。それは在日米軍基地の74%が集中する沖縄県の基地負担軽減だ。国外・県外移設など抜本的な解決策を模索し始める時期ではないか。住民の反発が基地を囲む同盟関係が強固とは言えまい。
 中国の台頭は日米のみならず、アジア・太平洋の国々にとって関心事項だ。首相が尖閣諸島をめぐる問題で「冷静に対処する考え」を伝えたことは評価したい。毅然(きぜん)とした対応は必要だが、緊張をいたずらに高めないことも、日米同盟における日本の重い役割だ。

<安原のコメント> 中国にどう対応するか ― 日中米ソ平和同盟へ
 中国にどう対応し、アジアの平和をどう確立するかを思案するとき、「悲劇の宰相」として知られる石橋湛山(1884~1973年)を想い起こさずにはいられない。湛山は「日中米ソ平和同盟」を提唱したことで知られる。日米間の日米安保条約を中国、ソ連にまで広げ、相互安全保障条約に格上げする構想で、現在なら、南北朝鮮の参加も視野に入れたい。
 目下のところ、残念ながらこのような構想には目が届かず、目先の対立抗争に神経をとがらせているのは、決して智慧ある所業とはいえない。社説が指摘するように「緊張をいたずらに高めないことも、日米同盟における日本の重い役割」だとすれば、湛山流の平和同盟志向は、「戦争放棄」の平和憲法を持つ日本の歴史的役割とはいえないか。

▽琉球新報社説
 懸案の普天間問題で日米両首脳は、名護市辺野古移設の推進方針で一致した。だが、県内移設は知事が事実上不可能との立場を鮮明にし、県内全41市町村長が明確に反対している。日米合意自体が有名無実化している現実を、両首脳は直視すべきだ。
 首相の日米同盟復活宣言は、基地の過重負担の軽減を切望する県民からすれば、対米追従路線の拡充・強化としか映らない。長年にわたって沖縄が強いられている構造的差別を解消する方向に直ちにかじを切ってもらいたい。
 首脳会談で、辺野古の埋め立て申請時期に触れなかったことが、沖縄に対する免罪符になると考えているとすれば、思い違いも甚だしい。日米安全保障体制が沖縄の犠牲の上に成り立っている状況を抜本的に改善しない限り、日米関係の強化も完全復活も、幻想にすぎないと自覚すべきだ。

<安原のコメント> 構造的差別の解消を
 冒頭で紹介した琉球新報社説の見出しを再録すれば、<日米首脳会談 犠牲強いる“同盟”は幻想>となっている。なぜ首相の日米同盟復活宣言は幻想なのか。それはこの宣言からは「長年にわたって沖縄が強いられている構造的差別」を解消する方向がみえてこないからである。ここでの構造的差別とは、沖縄県民にとっての米軍基地の加重負担であり、対米追従路線の拡充・強化であり、さらに沖縄の犠牲を強いる日米安保体制そのものから生じている。
 沖縄に見るこの構造的差別は、基地と無関係に暮らす本土のかなりの人々には実感しにくいことは否めないかも知れない。私(安原)自身は、かつて軍事問題担当記者として沖縄の米軍基地を訪ねたというささやかな体験があることを付記しておく。


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デフレ不況脱出のカギは賃上げ
企業内部留保の還元を社員にも

安原 和雄
 信用金庫の経営トップが「デフレ不況脱出のカギは賃上げであり、逆に給与を削減すれば、消費が減り、企業の業績も悪化する」と指摘している。これは大企業経営者たちの「賃上げは、コスト負担増となって経営を圧迫する」という賃金抑制策への反旗というべきだろう。
 どちらに軍配を挙げるべきだろうか。前者の賃上げ是認説に賛成したい。率直に採点すれば、後者の大企業経営者群は怠惰な集団である。これに反し、前者の信用金庫トップこそが勤勉な存在といえる。勤勉な発想は日本経済の再生、発展に貢献できると評価したい。(2013年2月7日掲載。公共空間「ちきゅう座」、インターネット新聞「日刊ベリタ」に転載)

▽ 異色経営者の賃上げのすすめ

 城南信用金庫(本店・東京都品川区)理事長の吉原 毅(つよし)氏は、デフレ不況脱出のカギは所得増、つまり「賃上げ」であり、いいかえれば企業内部留保の還元を社員にも、と指摘している。他方、企業が好む「賃金抑制」は内需を落ち込ませるという現状認識を率直に語っている。異色経営者の「賃上げ説」を「しんぶん赤旗・日曜版 2013年2月3日付」から紹介する。その大要は以下の通り。

 アベノミクスに欠けているのは、賃上げと、雇用の安定のための政策だ。金融緩和で日銀がお金をいくら供給しても、実際に社会の中でお金が回らなければ、景気は良くならない。
一番問題なのは、賃上げのできる企業でさえ、上げていないことだ。利益を上げている企業や内部留保の大きい企業は、そのもうけを社員にも還元すべきだ。そのためにもいま発想の転換が必要だ。本当の競争力を強くするのは、目先の利益を追いかけるコスト削減ではない。

 国内外で価格競争が激しくなり、企業はコストカットのために賃金を抑え、正社員を減らして非正規社員を増やしてきた。
 その結果、国民の購買力が落ちてしまった。雇用の安定がなければ、結婚して子供をつくろうという前向きの意欲も起こらなくなる。少子化もますますひどくなっている。
 各企業は先行きが不透明だから、コスト削減は当然というかもしれない。しかしみんなが給与を削減すれば、消費が減り、日本全体の内需が落ち、企業の業績も悪化する。これが「合成(ごうせい)の誤謬(ごびゅう)」で、大局的観点から見ないと、物事は失敗する。

 消費税増税も反対だ。いま需要が減ってモノが売れないために景気が悪いのに、消費税を上げたらますます需要が落ち込む。
 安さを競うのではなく、他にはない製品・サービスを産み出して、新しい需要をつくることが必要だ。この方向しか日本の生きる道はないと思う。
 いま私たちも(金融機関として)お金を貸すだけでなく、それを使って、こういうことをやりましょうと、ビジネスの提案に相当力を入れている。

 これからは就業斡旋(あっせん)もするつもりだ。城南信金の主催で「よい仕事おこし」フェア第2弾を8月6、7日に東京国際フォーラムで行うが、そこでは求職中の人と中小企業との出合いの場を設ける。
 うちの経営方針は「人を大切にする、思いやりを大切にする」である。長い目で見れば、その方がはるかに企業の発展につながるということは、歴史が示している。

▽ 経営者は<反「合成の誤謬」>を実践する能力を

 吉原理事長は、企業経営者でありながら、私企業の枠を超えて、いわば公共の視点を強調しているところがユニークといえるのではないか。大企業をはじめ、多くの企業が不況を口実にして企業の目先の損得にこだわり、内に閉じこもる傾向が強いのと対照的である。理事長発言の具体例をいくつか挙げてみよう。

(1)賃上げのできる企業でさえ、賃金を上げていないことは問題だ。利益を上げている企業や内部留保の大きい企業は、そのもうけを社員にも還元すべきだ。(利益の還元重視=安原の一言コメント。以下同じ)
(2)各企業は先行きが不透明だから、コスト削減は当然というかもしれない。しかしみんなが給与を削減すれば、消費が減り、日本全体の内需が落ち、企業の業績も悪化する。これが「合成の誤謬(ごびゅう)」で、大局的観点から判断しないと、物事は失敗する。(「合成の誤謬」を超えて)
(3)消費税増税も反対だ。いま需要が減ってモノが売れないために景気が悪いのに、消費税を上げたらますます需要が落ち込む。(消費税増は悪税)
(4)うちの経営方針は「人を大切にする、思いやりを大切にする」である。長い目で見れば、その方がはるかに企業の発展につながる。(人間尊重の経営)

<安原の感想>「合成の誤謬」から脱出して不況克服を!
 ここでは「合成の誤謬」をどう評価すべきかに触れておきたい。吉原理事長は次のように指摘している。
 各企業は先行きが不透明だから、コスト削減は当然というかもしれない。しかしみんなが給与(コスト)を削減すれば、消費が減り、日本全体の内需が落ち、企業の業績も悪化する。これが「合成の誤謬(ごびゅう)」で、大局的観点から見ないと、物事は失敗する、と。

 合成の誤謬とは、企業経営上の個々の現象、行動(例えば不況対策としての賃金の引き下げ)は間違ってはいないように見えても、日本経済全体としては、矛盾(賃金引き下げによる消費の減退、景気の悪化)が深まる、という意味である。
 「合成の誤謬」を避けるためには、給与の削減は好ましくないのである。だからこそ有能な経営者は賃上げを目指して<反「合成の誤謬」>を実践するだけの能力と決断力を身につけなければならない。
 しかし現状ではあえて賃下げを拒否し、賃上げを実践できる経営者は少ない。そのことがかえって不況からの脱出を困難にしている。「合成の誤謬」から脱出し、不況克服を図ろうではないか。「人」、「思いやり」を大切にする「人間尊重の経営」を心掛けるためには企業経営者の広い見識と柔軟な決断力が不可欠である。


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アベノミクスは人びとの生活を破壊
新政党「緑の党」が安倍政権を批判

安原和雄
 2012年夏発足した新政党「緑の党」が最近、安倍政権を手厳しく批判する姿勢を打ち出した。「アベノミクスは人々の生活を破壊する」というのだ。正論であり、支持したい。ただ「緑の党」といってもまだ広く知れ渡っているわけではない。
 しかしその政策は、変革意欲にあふれている。「いのち」尊重を軸に脱「経済成長」、脱「原発・放射能」、脱「軍事同盟・日米安保」を目指すだけではない。重要な政策については官僚などにゆだねないで、<市民自ら決定し、行動する「参加する民主主義」実践>の旗を掲げている。今2013年夏の参院選で果たしてどれほどの存在感を印象づけることが出来るか、そこに注目したい。(2013年2月3日掲載。公共空間「ちきゅう座」、インターネット新聞「日刊ベリタ」に転載)

▽ 「緑の党」がアベノミクスを批判

 「緑の党」は2013年1月末日、「アベノミクスは人びとの生活を破壊する」と題して、安倍政権を批判する見解を公表した。その内容は以下の通り。

  安倍政権は、アベノミクスと呼ばれるデフレ脱却・経済再生の政策を華々しく打ち出してきている。この政策は(1)公共事業(「機動的な財政出動」)、(2)大胆な金融緩和、(3)成長戦略 の「3本の矢」から成り、その第1弾として緊急経済対策が決定された。

 緊急経済対策は、補正予算案として国が10.3兆円(基礎年金の国庫負担分を含めると13.1兆円)を出し、自治体なども合わせた事業費が20兆円に上るという大がかりなもので、その中心は4.7兆円を費やす公共事業である。「防災・減災」のために、老朽化した道路や橋の改修に取り組むが、必要性に疑問のあるものなどが含まれ、従来型の公共事業の全面的な復活が目論まれている。また、緊急経済対策には「成長による富の創出」や「暮らしの安心」のための支出も含まれているが、後者には自衛隊の装備強化まで入っている。

 安倍政権は、公共事業中心の財政出動が民間の投資や雇用の増加に波及し、景気回復をもたらすとしている。しかし、バブル崩壊後の90年代にも採られたこの手法は、まったく効果がなく巨額の借金だけを積み残した。今回も、主たる財源を7.8兆円の国債発行に求めており、そのため本年度の国債発行額は52兆円にまで増え、すでに1000兆円に達している政府債務はますます膨らむ。
 それによって長期金利が上昇し、国債の利払い額が雪だるま式に増える危険がある。

 安倍政権は、財政出動と同時に無制限の金融緩和(注)を進めるために、日銀と政策協定を結び、日銀に2%の物価上昇率目標(インフレ・ターゲット)を定めて無制限の資金供給を行なうように強要した。
しかし、すでに日銀による金融緩和は十分すぎるほど行なわれているが、企業や個人による資金需要が低調なため、金融機関の手元に大量の資金が滞留している。安倍政権の狙いは、政府が増発する国債を金融機関がいったん購入し、それを日銀に全額買い取らせることによって財政赤字を穴埋めさせることにある。これは、日銀が戦時中に国債を直接引き受けたのと同様で、財政赤字の膨張に対する歯止めは失われる。

 安倍政権のブレーンたちは、日銀の無制限の資金供給や大胆な金融緩和によるインフレの進行が予想されると、企業は投資のための借入を増やし、個人はモノを早めに買おうとするから経済が活性化し景気が回復すると説いている。しかし、この20年間で日本の物価上昇率が2%を越えたのは、消費税を5%に引き上げた97年と食料品やガソリンの値段が急騰した08年だけだ。金融緩和に伴う円安の進行は、自動車や電機部門の企業の輸出を伸ばしその株価を上昇させるが、やがて燃料など輸入価格の上昇を引き起こす。
 インフレが人びとにもたらすのは、食料品や燃料の値上がりと消費増税分の価格への転化だけであり、けっして給料が上がったり生活が楽になったりするわけではない。
 それは、2000年代に入って、企業利益が好調な時期にあっても働く人々の所得はむしろ低下していた事実を見れば明らかだ。

 安倍政権は、アベノミクスが景気を回復させて実質GDPを2%押し上げ、60万人の雇用を創出すると豪語している。しかし、すでに経済成長の時代は終わり、仮に一時的に経済成長しても、増えるのは低賃金の非正規雇用と正社員の長時間労働だけなのだ。
 また、「借金を増やさずに社会保障を拡充するために消費税率を引き上げる」と言いながら、国債増発で借金を増やし、社会保障は拡充どころか削減しようとしていることも批判されるべきだ。

 いま求められている経済政策は、従来型の公共事業の復活でも国債増発を支える金融緩和でもない。私たちは、質の良い雇用と仕事を再生可能エネルギー、農業と食、医療・介護・子育ての分野で創り出し、地域のなかでモノと仕事と資金が回る循環型経済をめざしていく。

(注)金融緩和:(1)金利の引き下げや (2)民間の金融機関から国債などを日銀が買い取ることによって、市場に回る通貨を増やすこと。現在、金利はゼロに近く、(1)は限界に達しており、(2)の施策が取られようとしている。

▽ 「緑の党」はどういう政党か

 「緑の党」は2012年7月結成された新政党で、地方議員はかなりの数で活躍しているが、衆参両院の議員はまだいない。2013年7月の参議院選挙に候補者を立て、議席獲得をめざす。同党の共同代表4氏は次の通り。
*すぐろ奈緒(なお)=東京都・杉並区議会議員
*高坂 勝(こうさか・まさる)=東京都・『減速して生きる ダウンシフターズ』著者
*長谷川羽衣子(はせがわ・ういこ)=京都府・NGOe-みらい構想代表
*中山 均(なかやま・ひとし)=新潟県・新潟市議会議員

 この「緑の党」はどういう政策を掲げているのか。同党の「緑の社会ビジョン」によると、その骨子は以下の通りである。
(1)経済成長優先主義から抜け出し、「いのち」を重んじ、自然と共生する循環型経済を創り出す。
(2)プロの政治家、官僚、専門家に重要な決定を預ける「おまかせ民主主義」にサヨナラし、市民が自ら決定し、行動する「参加する民主主義」を実践する。
(3)原発のない社会、エコロジカルで持続可能な、公正で平等な、多様性のある社会、平和な世界をめざす。
(4)いのちと放射能は共存できない!「地産・地消」の再生エネルギーで暮らす。
(5)競争とサヨナラし、スロー・スモール・シンプルで豊かに生きる。
(6)すべての人が性別にとらわれず、「自分らしく」生きられることをめざす。
(7)平和と非暴力の北東アジアを創る。沖縄と日本本土の米軍基地をなくし、徹底的な軍縮を進め、軍事同盟としての日米安保のすみやかな解消を図る。

▽ メール交換による活発な党内議論

 緑の党は、メール交換によって活発な党内議論を繰り広げている。その典型例が憲法をめぐる意見交換である。以下にその一例を仮名で紹介する。なおメールによる意見交換は実名で行われている。

*信州竜援塾のNさん(男性)から
 憲法についての私見です。9条だ、96条だ、xx条だという運動からは、そろそろ卒業しなければなりません。「xx条を守ろう!」という運動から「憲法で想定した日本国の姿を実現しよう!」という、運動に転換しませんか。
 憲法を守るべきは天皇、官僚、議員、公務員です。末端公務員の体育教師が、弱者である生徒に日常的に暴力をふるうことが容認されるような組織のあり方を、日本国憲法は想定していません。国家と企業がぐるみになって地方を中央に隷属させ、金の力で無理無体を押し通し、挙句に大事故を起こしても国家や企業が責任を取らなくてもいいような社会を日本国憲法は想定していません。

 ところが現実は、憲法が想定するのとは正反対の政策が堂々とまかり通っています。となれば憲法の内容などほとんだ知らない大半の人のなかでは、「ろくでもない憲法だから、何の役にも立たない」と考える人が、日々少しづつ増えています。
 みどりの党には従来の護憲政党のような「9条を守る」運動ではなく、「憲法が想定する社会の実現」を掲げていただきたい。

*「緑の大阪」豊中のYさん(女性)の返信
 貴重なご意見ありがとう。私は、10年ほど前から、大阪の北摂地域にて「活かそう憲法!北摂市民ネットワーク」という会をつくって、現在の憲法の実現に向けて活動して来ました。

 Nさんがおっしゃるとおり、憲法を「守る」べきは、天皇、官僚、議員、公務員です。しかし、その守るべき議員が「憲法9条」をないがしろにして、軍備を増強し「国防軍」にしようとしています。
 私は、最低限このような動きに対して黙っているわけにはいきません。安易に、「憲法を創る」という改憲派の議論に巻き込まれるわけにはいかないと思っています。実現すべきは、「憲法」の「基本的人権の尊重」であり、「平和主義」であり、「国民主権」です。

 更に言えば、私はこの「憲法」の理念を活かし発展させるべく、「緑の党」の理念に賛同し、活動をしています。今の「憲法」の基本が「個人の尊厳」なら、「緑の党」の基本的なスタンスは、「命の尊厳」であると思っています。その意味で、安倍内閣などの改憲派とは一線を引いて、「緑の党」の社会的ビジョンの実現に向けた活動を行うべきだと思っています。

今の「安倍政権」の改憲の動きは止めるべきです。「安倍政権」の憲法9条・憲法96条改悪の動きを止める意味で「守る」という言葉を使いました。決して憲法を守る活動だけをしている訳ではありません。

<安原の感想> 変革力を持続させる存在感のある政党へ

 右翼反動の安倍政権をしっかり批判する立場を打ち出している政党としては、日本共産党以外では「緑の党」を挙げたい。緑の党は伸びてほしい政党であり、新しい時代を創る意欲に燃える政党、という評価もできる。
 緑の党の特質としては、アベノミクス(安倍政権の経済成長策などのデフレ脱却・経済再生の政策)への批判も見逃せないが、同時に注目すべきは、「緑の社会ビジョン」である。そこには「いのち」尊重を軸に脱「経済成長」、脱「原発・放射能」、脱「軍事同盟・日米安保」などを掲げている。このことはめざす政策のあり方として重要である。

 それだけではなく、「自分らしく」という主張に注目したい。<「おまかせ民主主義」にサヨナラし、市民が自ら決定し、行動する「参加する民主主義」の実践>を宣言すると同時に、<すべての人が性別にとらわれず、「自分らしく」生きられることをめざす>としている。この姿勢が<公正で平等な、多様性のある社会、平和な世界をめざす>こととつながっている。

 政党の政策論に「自分らしく」という発想を盛り込むところなど、いかにも緑の党らしい。一人ひとりの日常的な生き方と、政党として目指すべき政策とが切り離せない形でつながっているところが既存の政党とは異質といえる。だからこそメール交換による活発な党内議論も可能となり、これは新しい政治スタイルと評価できるだろう。
 ともかくユニークで存在感があり、変革力を持続させる政党に成長していくことを期待したい。


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日本再生めざして非暴力=平和力を
「いかされている」ことに学ぶとき

安原和雄
他人様のお世話にならず、自力で生きたいと想っている人が案外多いのではないだろうか。健気(けなげ)な生き方ともいえるが、この発想には無理がある。人間は独りでは生きられない。自然環境や他人様のお陰で「ともにいきる」のであり、もう一歩進めて、「いかされている」と考えたい。
出口を見失ったかにみえる日本の再生をどう図っていくか、安倍政権の軍事力中心の右傾化による打開策は正しくない。非暴力=平和力の思想を今こそ高く掲げて広め、実践していくときである。(2013年1月25日掲載。公共空間「ちきゅう座」、インターネット新聞「日刊ベリタ」に転載)

 先達の芹川博通(注)著『「ともにいきる」思想から「いかされている」思想へ 宗教断想三十話』(=改訂版・2013年1月刊・北樹出版)に学ぶ機会を得た。同著作『三十話』の内容は実に豊かで、ねじり鉢巻きの心境で読んだ。読後感の一端を以下、仏教を中心に述べる。<>内は著作からの引用文である。
(注)芹川博通(せりかわ ひろみち)氏は1939年生まれ。淑徳短期大学名誉教授。多くの大学の講師を歴任。文学博士。比較思想学会前会長、日本宗教学会評議員。著書は『芹川博通著作集』(全8巻、北樹出版)ほか多数。

(1)「ともにいきる」から「いかされている」へ ― 仏教の自然観と環境倫理

 <近代科学のめざましい発展が自然破壊や環境汚染をもたらし、その規模も広域化し深刻なものとなり、人類の生存そのものを脅かす状況となってきている。この原因をひとことでいえば、近代科学文明のよってたつ人間中心の世界観・自然観によるものである。そこで諸宗教の自然観を究める必要があり、諸宗教のなかから仏教の自然観を概観すると、大別して二つに分けることができる。

 その一つは、人間と自然の生命共同体説、草木成仏説などで、これらは人間は自然と「ともにいきる」とする環境倫理の思想を示している。この仏教の自然観は、人間中心の見解ではなく、両者(自然と人間)を同等とみる考えに基づいている。
 もう一つは、山の神、樹の神、山岳信仰、太陽神、自然即仏(しぜんそくぶつ)などで、こうした仏教の自然観に立つなら、人間は自然によって「いかされている」という環境倫理思想へ展開していく。
 この二つはともにすぐれた環境倫理思想だが、人間が今日直面する人類生存の危機を認識するならば、人間と自然の関係は、「ともにいきる」思想をさらにすすめて、人間が自然によって「いかされている」という思想こそが重要であり、この思想は人間中心主義の完全な放棄である・・・>(第16話から)

(安原の感想)「生かされている」という認識と思想の重要性
ここでの「いかされている」(=生かされている)思想は、残念ながら昨今の日本では余り注目されない。とくに右傾化をすすめる安倍政権の登場とともに、この感覚はほとんど重視されないような印象がある。独りよがりになって、「自分一人で生きている」と錯覚していながら、その誤認に気づかず、傲慢な姿勢の輩が目立つ昨今である。だからこそ「いかされている」という客観的事実の認識と思想の重要性を大いに強調しなければならない。

(2)不殺生の思想と仏教 ― 平和思想のいしずえ

 <アヒンサーとは、生きものを傷つけたり、あるいはその生命を奪うことを罪深い行為と意識し、これを避けること。「不殺生」とか「不傷害」と訳される。
 インド独立運動の指導者、ガーンディー(1869―1948年)はアヒンサーに立脚する「非暴力主義」の哲学を展開した。その非暴力主義は、(中略)むしろ積極的に「暴ならざる力」をもとめようとするものだった。したがって彼の思想を「無抵抗主義」と訳してはならない、といわれる。
 アヒンサーが慈悲や施与の精神と固く結びつくと、人間と自然の共生、世界各国の共存・共生といった現代の問題や、世界平和を考えるいしずえの思想として、アヒンサーの思想は再び脚光を浴びることになるのではないか。>(第17話から)

(安原の感想)非暴力と平和力と
インド独立運動の指導者、ガーンディーがアヒンサーに立脚する非暴力主義にこだわっていたことはよく知られている。しかし彼の非暴力主義は決して単純ではない。
 まず抵抗力を持たないような「無抵抗主義」ではない。抵抗力は十分備わっている。
 次に上述の<むしろ積極的に「暴ならざる力」をもとめようとするもの>とは何を含意しているのか。ここが彼の抵抗力の真髄といえるかも知れない。
 「暴ならざる力」はつまり「平和を求め、つくる力」であり、いうまでもなくそれは暴力とは異質である。視点を広げれば、「暴ならざる力」は慈悲や施与の精神であり、人間と自然の共生であり、世界各国の共存・共生であり、さらに世界平和の追求である。

 こうして非暴力と平和力は相互に深く結びついている。これは日本国憲法9条(戦争放棄、軍備及び交戦権の否認)などにうたわれている平和力をどう実践していくかにかかわってくる。
 近隣諸国の思慮を欠いた些細な挑発に乗らないことである。一方、挑発を期待しているかにみえる日本国内の一部の好戦派には自粛を求めたい。特に最近、老人に無責任な好戦派が目立つ。自らのいのちを賭けて戦う意思も気力もないご老体はお静かに願いたい。

(3)仏教の「自他共に立つ経済倫理」 ― 自利利他行

 <大乗仏教の経済倫理の一つに、大乗菩薩の「自利利他行」があげられる。菩薩の使命はみずから仏(ほとけ)になることを目指して努力しながら(自利行)、衆生救済のための修行を優先的に行うこと(利他行)。つまり自利利他の両面を兼ね備えた行為が菩薩の実践道であり、この菩薩道が大乗仏教である。
 このように大乗菩薩の自利利他行より導き出されたものが「自他共に立つ経済倫理」・「共生の倫理」である。日本仏教では、大乗仏教の精神を説いた最澄(767―822年)の「己(おの)れを忘れて他を利するは、慈悲の極みなり」が輝いている。

 (中略)現代世界のように、格差社会の語が使われるイデオロギー色のうすらいだ自由な経済社会に適合する言葉でいうと、生産者はみずからの利潤追求を唯一の目標とするのではなく、「消費者の利益を優先する経済」の樹立を指向し、この理念を世界に発信しなくてはならない。これは「消費者と生産者の共生の経済倫理」ということもできる。一例をあげると、「良い品を安く」である。
 この思想は、仏教の経済倫理の一つの到達点といえる。ここで残された課題は、これを実現するための仏教の経済理論の構築が不可欠になってくる。>(第20話から)

 なお(第20話)の末尾に仏教と経済に関する8著作が紹介されており、その一つとして、<安原和雄「二十一世紀と仏教経済学と」上・下『仏教経済研究』37・38号、駒澤大学仏教経済研究所、2008-09年>が挙げられている。

(安原の感想)日本再生を目指して「忘己利他」の実践を
ここで「自利利他行」をどう実践していくかが大きな課題として浮上してくる。仏教専門家の多くも、知識としての「自利利他行」を理解しているとしても、それが果たして日常の実践として生かされているのかどうか。日常の実践を欠いているとすれば、最澄(日本における天台宗の創始者)の「忘己利他」(もうこりた)も価値半減とはいえないか。
 昨今、日本人の質的劣化が目立ち何かと話題を呼んでいる。経済の分野ではかつてのような経済成長が期待できず、それが質的劣化の背景にあるとみる考え方もある。しかしそれは狭い経済主義に囚われた錯覚であり、真相は日本人の多くが「忘己利他」の理念と実践を忘却しているためではないか。「忘己利他」の日常的な実践を一人ひとりがどう広めていくか、今後の日本の再生と発展にとって差し迫った大きな課題というべきである。


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病縁で多くを学び、古希を迎える
人を思いやる心を忘れないでいたい

安原和雄
私(安原)にとって得難い「心の友」、清水秀男さんから新年の心境を綴ったメールが届いた。題して「病縁で学んだ多くのこと」で、三つを挙げている。それは、生かされていることの有り難さ、「当たり前」こそが幸せの原点、残された生をお役に立つべく、―である。
「病縁」とは「歩行困難」という病魔との苦闘を指している。病魔には拒否反応を示すのが普通だが、彼はそれをむしろ「病縁」と前向きに受け止め、そこから「人を思いやる心を忘れないでいたい」という心境に辿り着いた。しかも気づいてみれば古希を迎える。病がのさばり、苦しんでいる人の多い時代である。「病縁」とどう付き合うか、参考にしたい。(2013年1月15日掲載。インターネット新聞「日刊ベリタ」、公共空間「ちきゅう座」に転載)

「病縁によって多くの学びをさせて頂きました」という清水さんの心境を以下に紹介し、そして末尾に私の感想文を添える。

▽ 古希を迎える大きな節目

竹にも節があるように、人生にも節がある。今年は私にとって、古希を迎える大きな節目の年です。5年前病縁に出会い、4年間は手術の連続でありましたが、幸いにも天のご加護と多くの方々の暖かいご支援と激励のお蔭で、昨年来小康を得て、古希を迎えることが出来ますことは、誠に感慨深いものがあります。

*病縁を通じて学んだこと(その一)=生かされていることの有り難さ
病縁を通じて、多くの学びをさせて頂きました。本当に有難いと思っています。
一つは、多くの方々と物のお蔭で「生」があり、“生かされている”ことの有難さを実感したことです。
 あらためて味わった阪神・淡路震災の記念碑文に書かれた言葉は胸に響きました。

「失ったものも 多かったけれど/大切なことも沢山学んだ/
人は一人では生きていけない/一人の力では生きていけない/
誰かを助け 誰かに助けられ 生きていくものだ/
一人の生命の大きさを/人々の心のあたたかさを/
人を思いやる自分自身の心を 忘れないでいたい」

*病縁を通じて学んだこと(その二)=「当たり前」こそが幸せの原点
二つは、食べたり、排泄したり、歩いたり、坐ったり、寝たり、笑ったり、泣いたり、呼吸したりする「当たり前」と思っていた日常生活は、実は「当たり前ではない」何物にも代え難い素晴らしいものであり幸せの原点であることに、傲慢な私は病によって初めて気がついたことです。
闘病中に深く共鳴・共感した詩があります。
それは、骨肉腫の為に右足を膝から下で切断、後に両肺に悪性腫瘍が転移したために32歳の若さで夭折された内科医の井村和清さんが、亡くなる約一ヶ月前に体験を踏まえ、自分の子供達にも「当たり前の大切さ」が分かる人間になって欲しいという願いをこめて書いた手紙の中の詩です。

 その一節を紹介します。
「こんな素晴らしい事をみんなは何故、/喜ばないのでしょう/あたりまえである事を・・・手が2本あって、足が2本ある/行きたい所へ自分で歩いてゆける/
手を伸ばせば何でもとれる/音が聞こえて声がでる/こんな幸せはあるでしょうか/
しかし誰もそれを喜ばない/あたりまえだと笑って済ます/
食事が食べられる/夜になると、ちゃんと眠れ、/そして又朝が来る/
空気を胸いっぱいに吸える/笑える、泣ける、叫ぶ事もできる/走りまわれる/
みんな、あたりまえのこと/こんな、素晴らしい事を、みんなは決して喜ばない/
そのありがたさを知っているのは/それを無くした人達だけ・・・」

*病縁を通じて学んだこと(その三)=残された生をお役に立つべく
三つは、今・此処に生きていることだけが確かな事実であり、人の一生は今・今・今・・・の連続であること。そして、死は生の延長線上にあるのではなく、死を背負って毎日生きていること。
従って、今・此処の瞬間を完全燃焼させて悔いなく生き切ることの大切さを身に沁みて感じたことです。

「今一度の命なりせば いとおしみ いとおしみつつ 今日を生きなん」

孔子(注)の古希に当たる七十の心境「心の思うままに振舞っても道をはずさなくなった」には程遠いですが、竹の様に如何なる状況にも耐えて“しなう”柔軟心を持ち、せめて「不惑」を目指して、折角頂いた残された生を、少しでもお役に立つべく、一歩一歩大地を踏みしめながら歩み、全うして参りたいと思っています。
本年が、“希望に満ちた安穏な年”であることを祈念いたします。

(注)孔子(こうし・前552~前479)=中国、春秋時代の学者、思想家。諸国を遍歴し、仁の道を説いて回った。後世、儒教の祖として尊敬され、日本の文化にも古くから大きな影響を与えた。弟子がまとめた言行録「論語」が有名。

▽ <安原の感想> 「病を友に」という心境に

清水さんからの新年のメールを読みながら、決して他人事とは思えない心境に浸っていた。実はわたし自身、病とは縁が切れない。縁が深いともいえる。
小学生から中学生の頃、関節リュウマチという病魔にとりつかれた。小学4年生から中学2年生の頃まで毎年冬になると決まって、1か月以上も寝たきりの状態で苦しんだ。両親が病床の枕元で涙に暮れていたのを、つい昨日のことのように思い出す。

病魔をどう追放するか。高校に入学した年の春から病気退治のために取り組んだのが毎朝の冷水摩擦である。父の「お前は身体が弱いから、冷水摩擦で鍛えろ」の一声で、納得し、始めた。当時は水道はなく、戸外の井戸水を汲み上げて使っていた。冬になっても上半身、裸になって励行した。当時は雪もよく降ったが、雪よりも寒風の方が辛かった。寒風に裸身をさらす、そのお陰と信じているが、高校3年間、病気で休むことはなかった。

病魔の方が恐れをなしたかと想いながら、古希も過ぎて、八十路(やそじ)の坂にかかる今、やはり現実は甘くはなかった。脚にしびれを感じるようになったのである。冬の寒い夜には外出を控えるようにしている。腰部脊柱管狭窄症という病名で、杖をつきながら歩いている、同病のご老体がいかに多いことか。私は最近「病と共に」、いやそれ以上に「病を友に」という心境になり始めている。

「病を友に」とはどういう含意か。
一つは若い頃と違って高齢者なのだから、病を無理に排除しようとはしないこと。それにこだわるとかえって苦しみが増すのではないかと思案している。
もう一つ、「人を思いやる心」を大切にすること。清水さんは、病縁を通じて学んだこと=生かされていることの有り難さ、を感じながら、「人を思いやる自分自身の心を忘れないでいたい」と述べている。同感である。
自分一人が頑健であっても周囲の人が病気に苦しんでいれば、決して幸せを味わえないだろう。むしろ苦しみを共有し、相手を思いやることによって、幸せも共有できると考えたい。


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「混迷の時代」をどう乗り切るか
2013年元旦社説を論評する

安原和雄
朝日新聞の年頭社説が「混迷の時代の年頭に」と題しているように、たしかに日本の現況は混迷を深めている。この混迷をどう克服するのか、あるいは乗り切ることが出来るのかが今年の大きな課題というほかない。社説の論調も混迷の時代を象徴するかのように多様である。自信に支えられた社説を見出すのは難しい。
そういう多様な社説からあえて一つを選び出すとすれば、東京新聞社説の「人間中心主義を貫く」を挙げたい。ただ欲をいえば、むしろ人間に限らず自然環境(動植物)を含む「いのち中心主義」という視点を重視したい。今年はこの「いのち」がこれまでにも増して何かと話題として浮かび上がってくるのではないか。(2013年1月2日掲載。公共空間「ちきゅう座」、インターネット新聞「日刊ベリタ」に転載)

まず大手5紙の2013年元旦社説の見出しは以下の通り。
*朝日新聞=混迷の時代の年頭に 「日本を考える」を考える
*毎日新聞=2013年を展望する 骨太の互恵精神育てよ
*讀賣新聞=政治の安定で国力を取り戻せ 成長戦略練り直しは原発から
*日本経済新聞=国力を高める① 目標設定で「明るい明日」を切り開こう
*東京新聞=年のはじめに考える 人間中心主義を貫く

以下、各紙社説の要点を紹介し、それぞれに安原のコメントをつける。
▽ 朝日新聞社説
新年、日本が向き合う課題は何か、日本はどんな道を選ぶべきか ―。というのは正月のテレビの討論番組や新聞の社説でよく取り上げるテーマだ。でも私たちが抱える、うんざりするような問題の数々は、「日本は」と国を主語にして考えて答えが見つかるようなものなのか。
年末の選挙戦には「日本」があふれていた。「日本を取り戻す」(自民党)、「日本再建」(公明党)、「したたかな日本」(日本維新の会)・・・・・。でも未来の日本についてはっきりしたイメージは浮かび上がらなかった。

<安原のコメント> 不思議な社説という印象
繰り返し読んでみたが、今ひとつ真意が読み取れないというもどかしさが残る不思議な社説である。「混迷の時代の年頭に」が社説の見出しになっている。たしかに「混迷の時代」であることは否定できない。
しかし社説そのものも混迷してはいないか。<「日本を考える」を考える>という見出し自体、混迷を誘っている。社説は個人好みの文学作品ではないはずだから、明快に論じてほしい。もっとも「日本」という言葉が政治の場では安易に使われる傾向にあることは否めない。

▽ 毎日新聞社説
互恵の精神は、国と国との関係にも応用できる。日本外交の当面の最大の課題は、中国とどう向き合うか、にある。尖閣諸島をめぐる対立は、中国側の領海、領空侵犯で武力紛争の可能性まで取りざたされるに至っている。戦後一回も戦争しなかったわが国の平和力を今一度点検し、どうすれば最悪の事態を回避できるか、国民的議論が必要だ。
戦後の平和を支えてきたのは、二度と侵略戦争はしないという誓いと、現実的な抑止力として機能する日米安保体制であろう。係争はあくまでも話し合いで解決する。もちろん、適正な抑止力を維持するための軍事上の備えは怠らない。そのためには日米安保体制の意義、機能を再確認しておくことが大切だ。

<安原のコメント> 驚くべき日米安保推進論
驚くほどの日米安保体制賛美論である。「現実的な抑止力としての日米安保体制」、「軍事上の備えを怠らない」、「日米安保体制の意義、機能を再確認しておくことが大切」などの指摘は、手放しの「日米安保」賛美論というほかない。
毎日新聞社説はかつては安保批判論を主張していたように記憶しているが、いつからなにがきっかけで、これほどの安保推進論に転換したのか。米国を「主犯」とする地球規模での侵攻作戦を日本が実質的に支えてきた政治的、軍事的基盤がほかならぬ安保体制であることは「常識」と思うが、どうか。

▽ 讀賣新聞社説
先の衆院選で、「原発ゼロ」を無責任だとして否定した自民党が大勝したことで、安倍政権には、原子力を含む電源のベストな組み合わせを早急に検討することが求められよう。太陽光や風力など再生可能エネルギーは、水力を除けば、全発電量の1%強にすぎない。すぐに原発に代わる主要電源として利用できると期待してはならない。
世界は引き続き原発を活用し、増設する。特に中国は、十数基を運転させ、50基以上の原発建設を計画している。首相は安全な原発の新設へ意欲を示したが、有為な人材を確保・育成するうえでも、次世代型原発の新設という選択肢を排除すべきではない。成長の観点からは、原発のインフラ輸出も促進したい。

<安原のコメント> 自然エネルギーに活路を
これほど徹底した原発推進論も珍しいのではないか。「いい度胸」と褒めてみたい誘惑に駆られるが、そうはいかない。有無を言わせぬ推進論に固執すれば、こういう主張もあり得るだろう。しかし今さら指摘するまでもないが、「新聞の使命は権力批判」である。この視点にこだわる立場としては到底受け入れることはできない。
もう一つ、疑問がある。それは再生可能エネルギーの将来性をどう考えるかである。現状では確かに規模は小さい。しかし太陽光、風力など再生可能な自然エネルギーに日本は恵まれている。いのちにかかわる危険な原発よりも、自然エネルギーに活路を見出したい。

▽ 日本経済新聞社説
日本の国の力がどんどん落ちている。国内総生産(GDP)はすでに中国に抜かれた。強みを発揮してきた産業も崩れた。巨額の赤字を抱える財政は身動きが取れない。政治は衆院選で自民党が大勝したものの、夏の参院選まで衆参ねじれの状況は変わらない。手をこまぬいていては、この国に明日はない。
経済再生のための目標をどこに置くのか。国民総所得(GNI)という指標を新たな物さしにしてみてはどうか。「投資立国」の勧めである。GDPに海外投資の利益を加えたのがGNIだ。ただGDP自体が増えない限り、GNIの大幅な拡大も望めない。

<安原のコメント>「明るい明日」は期待できるか
日経社説の見出しは<目標設定で「明るい明日」切り開こう>である。その社説は吉田茂元首相の「日本国民よ、自信を持て」ということばで結んでいる。しかし何にどのように自信を持てばいいのか。そこが分からなければ「明るい明日」も期待できない。
社説は「投資立国」を勧めている。言い換えればカネ稼ぎに精を出せ、と言いたいのか。カネがなければ、人生もままならない。といってカネさえあれば幸せになるという保証があるわけではない。カネはあくまで手段にすぎない。国の財政で言えば、予算という名なのカネを国民の幸せのために使わなければならない。

▽ 東京新聞社説
新しい年を人間中心主義の始まりに―が願い。経済は人間のためのもの。若者や働く者に希望を与えなければならない。まず雇用、そして賃金。結婚し、子どもを持ち家庭を築く、そんな当たり前の願いが叶(かな)わぬ国や社会に未来があるはずはない。それゆえ人間中心主義が訴え続けられなければならない。
西欧の近代は自然を制御、征服する思想。今回の大震災はその西欧の限界を示した。近代思想や経済至上主義ではもう立ち行かない。自然と共生する文明のあり方を模索すべきではないか。近代文明を考え直す。そこに人間中心主義が連なっている。

<安原のコメント> 人間中心主義からいのち中心主義へ
東京新聞社説の結びは次の趣旨となっている。「満州事変から熱狂の十五年戦争をへて日本は破局に至った。三百万の多すぎる犠牲者をともなって。石橋湛山の非武装、非侵略の精神は日本国憲法九条の戦争放棄に引き継がれた。簡単には変えられない」と。
東京新聞社説が「人間中心主義」を唱道する視点は他紙の社説に比べれば、ユニークである。ただ、人間中心主義には自ずから限界がある。というのは人間中心主義は、例えば人間の欲望のままに地球環境の破壊をもたらしているからだ。だから私は「いのち中心主義」を強調するときだと考えている。ここでは人間が主役ではなく、いのちが主役である。
人間に限らず、自然(動植物)にもいのちが生きているからである。そのお陰で人間は生かされている。今年の年間テーマとして重視されるのは恐らく「いのち」ではないだろうか。


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今こそ「小日本主義」を広めるとき
安倍首相の「危機突破内閣」に抗して

安原和雄
安倍首相が舵取り役の「危機突破内閣」が発足した。先の総選挙で自民党は大勝したとはいえ、内実は決して安泰ではない。タカ派のイメージが強すぎる。それをむしろ「よいしょ」と支える論調もある。
101歳という高齢でなお健在の日野原重明・聖路加国際病院理事長の苦言にむしろ耳を傾けたい。それは軍事力を棄てる「小日本主義」のすすめである。これは敗戦後間もない頃、首相の座にあった石橋湛山の持論で、日米安保体制下で軍事力重視の強国へと暴走しかねない安倍政権をどう抑え込むかが今後の注目点にならざるを得ない。民意による批判、監視の目を光らせる時である。(2012年12月27日掲載。インターネット新聞「日刊ベリタ」、公共空間「ちきゅう座」に転載)

▽ メディアは安倍政権発足をどう論じたか

まず大手紙(12月27日付)の社説を紹介しよう。
*朝日新聞=安倍内閣発足 再登板への期待と不安
*毎日新聞=第2次安倍内閣 「自民の変化」示す政治を
*讀賣新聞=第2次安倍内閣 危機突破へ政権の総力挙げよ 「強い経済」取り戻す知恵が要る
*日本経済新聞=安倍自民の力結集し政治の安定を
*東京新聞=第2次安倍内閣発足 謙虚さをいつまでも

上記の社説の見出しからそれなりに推測できるような内容の社説といえる。読まなくとも社説の筋は読み取れると言っては失礼だろうか。むしろ注目したいのは社説ではなく、讀賣新聞(27日付)一面に掲載された橋本五郎特別編集委員の署名入り記事、「拝啓 安倍晋三様 非情の宰相であれ」である。その骨子は以下の通り。

「政治とは可能性のアート(芸術・技術)である」。鉄血宰相、ビスマルクの言葉です。安倍さんには5年前、不本意にも退場せざるを得なかった挫折の経験がある。ならばこそ「芸術としての政治」を見せてほしい。
安倍さんには「タカ派」のイメージが付きまとっている。海外からも「右傾化」との指摘がある。そんな単純なレッテル張りを気にする必要はない。
国益を守ることには毅然とした「タカ派」でなければならない。その一方で決して一本やりの強硬路線ではなく、戦略的な「しなやかさ」が求められる。
心配なことは、安倍さんが優しいことで、マキャベリは、君主は「憎まれることを避けながら、恐れられる存在にならねばならない」と書いている。
安倍さんが仕えた小泉純一郎さんの政治の特徴は「四つのない」にあった。一度決めたら「変えない」。事を決するにあたり「迷わない」。人の意見を「聞かない」。人に「頼まない」。小泉さんに倣い、確信したなら断固、非情に振る舞ってください。

<安原の感想> タカ派首相は平和憲法理念になじまない
我がニッポンもついに鉄血宰相、ビスマルク(1815~1898年、ドイツの政治家。1871年ドイツ統一を達成、帝国初代宰相となる。社会主義運動を弾圧する一方、社会政策を推進)を持ち上げる記事が登場する時代へと変化したのか、という思いが消えない。日本版ビスマルクの行動スタイルは、以下の4つに集約できる。
・「右傾化」というレッテル張りを気にする必要はないこと
・国益を守ることには毅然とした「タカ派」であること
・君主(日本では首相)は「恐れられる存在」になること
・元首相、小泉流の「非情の振る舞い」が重要であること

これら行動スタイルの勧めは、日本をどこへ誘(いざな)おうとしているのか。その一つは人権、平等、民主主義の否定あるいは一層の弱体化であり、それにとどまらない。平和、非戦への脅威も高まる。いずれも日本国憲法の基本理念の骨抜きに通じかねないだろう。安倍首相のタカ派ぶりがどこまで進むか、監視の目が離せない。タカ派首相は、日本国憲法の民主主義、平和などの基本理念とはどこまでもなじまないことを強調しておきたい。

▽ 日野原翁の「小日本主義」のすすめ

101歳の日野原重明・聖路加国際病院理事長(注)は毎日新聞朝刊(12月24日付、聞き手は伊藤智永記者)で「今こそ<小日本主義>を」と題して一問一答形式で安倍政権の選択すべき路線について注文をつけている。日本の敗戦(1945年)後、首相の座についた石橋湛山(1884~1973年)がこの記事で紹介されているが、その湛山は小日本主義につながる「小国主義」を唱えたことで知られる。一問一答の趣旨を以下に紹介する。
(注)日野原重明(ひのはら・しげあき)氏は、山口県生まれ。キリスト教牧師の家庭で育ち、京大大学院修了(医学博士)。聖路加国際病院長を歴任、予防医学や終末医療などの功績で文化勲章を受章。

(1)「非戦」に徹すれば、誰も日本を攻撃しない
問い:大陸国家・中国は、経済大国になるにつれ海洋への軍事圧力を強めている。
日野原:湛山は帝国主義の時代に、領土・勢力拡張政策が経済的・軍事的にいかに無価値であるかを論証し、領土は小さい「小日本」でも、「縄張りとしようとする野心を棄てるならば、戦争は絶対に起こらない、国防も用はない」と喝破した。日本が軍備を完全になくせば、どこの国が攻撃しますか。湛山は「道徳的位置」の力と言っている。
問い:無防備で対処する?
日野原:そう、裸になることよ。
問い:沖縄の米軍基地も・・・
日野原:サイパンかグアムへ移す。資源もない丸裸の沖縄なら、世界の非難があるのに、誰が手出しできますか。できやしない。
問い:自衛隊は?
日野原:専守防衛に徹し、海外派遣は災害の救助に限定する。
問い:旧社会党の非武装中立論に似てますね。しかしあれは非現実的な政策だったとして、歴史的に否定された。
日野原:よく似ているけど、社会党は中途半端だった。もっと徹底してやるんだ。私は今また、そういう運動を世界中に起こしたいよ。ドイツの哲学者カントが晩年、「永遠平和のために」という本を書いたでしょ。そこで「非戦」という思想に到達している。休戦協定や平和条約で「不戦」を取り決めるだけでは不十分なんだ。

(2)湛山の「小国主義」は小欲を棄てて大欲をめざす途
問い:領土には心の問題も絡む。韓国人にとって竹島は、植民地化の記憶と重なる歴史認識問題のシンボルです。
日野原:日本側が純粋な心を示して解きほぐすしかない。それが愛というものよ。
問い:必要なのは、愛だと。
日野原:愛の徹底には犠牲がある。寛恕。自分が自分の過ちを許すように、相手の心も大らかに許す。今の政治や外交には愛がないね。損得条件の話ばかりで、精神がない。
問い:排外的なナショナリズムが勢いづいている。
日野原:日本も多民族国家になることが必要だ。中国、韓国、米国、インドなど世界中の人たちと血が混じり合っていかないと。民族のよろいを脱ぎ捨てて、裸になる。大和魂だけ言ったって、世界には通じない。
問い:小日本主義には、経済成長否定かと反発もある。
日野原:湛山の「小国主義」には、国内に縮こまるという意味では全然ない。外に領土や軍事力をひろげるのでなく、人材をどんどん輸出して世界に人も心も開いていく。日本の資源は人間だから。帝国主義時代に、「(植民地主義)の小欲に囚(とら))われ、(平和貿易立国の)大欲を遂ぐるの途を知らざるもの」と看破したんだから、偉いもんだ。全然古びていない。むしろ、今の政治の世界にこそ現れてほしい。

<安原の感想> 今こそ「小日本主義」を広めるとき
政治記者の首相会見での質問をテレビで見る限り、骨太さや鋭さにいささか欠けてはいないか。穏当な質問が目立つ。首相の心情としてタカ派的思考があることは明白なので、なぜそこにメスを入れる気構えで問いつめないのか、不満が残る。
「首相はドイツの鉄血宰相をどう評価するか」といささか意表を突く問いかけがあれば、なおおもしろい。安倍首相が平然と自身の「鉄血宰相論」を開陳すれば、賛否はさておき首相株は高騰したかも知れない。

小日本主義論にしても同様である。首相としてこれに同調する姿勢は想像できないが、質問してみる価値は十分ある。小日本主義論すなわち「小国主義」には二つの今日的視点がある。
その一つは不戦ではなく、非戦であること。ドイツの哲学者カントの徹底した「永遠平和論」がその源(みなもと)である。もう一つは植民地主義に囚われる小欲ではなく、平和貿易立国という大欲への途である。この大欲は軍事力を背景にしない。平和憲法の非武装という理念を生かす平和貿易立国の途であり、「小日本主義」を広める道である。
安倍政権はこれら小国主義には背を向けるだろう。半面、日米同盟すなわち日米安保体制の維持・拡充には異常な熱意を見せており、そのことが安倍政権の希望的願望に反して自らの寿命を縮めるほかないだろう。

参考資料:安原和雄「二十一世紀版小日本主義のすすめ―大国主義路線に抗して」(足利工業大学研究誌『東洋文化』第24号、2005年1月)

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『風力発電が世界を救う』を読んで
エネルギー新時代とチャレンジ精神

安原和雄
 原子力発電が魅力も存在価値も失ったいま、頼りにすべきは、もはや再生可能エネルギー、すなわち風力、太陽光、小規模水力による発電、さらに農林畜産業の廃棄物によるバイオマス発電などである。なかでも著作『風力発電が世界を救う』は、エネルギー新時代の四番打者として「風力発電」をすすめている。
再生可能エネルギーの新時代を築いていくことは、もはや避けることのできない歴史の必然ともいえる。だからこそチャレンジ精神で新時代に向き合う以外に選択の余地は残されていない。(2012年12月4日掲載。インターネット新聞「日刊ベリタ」、公共空間「ちきゅう座」に転載)

牛山 泉(注)著『風力発電が世界を救う』(2012年11月、日本経済新聞出版社刊)を読んだ。「日本は潜在的な風力発電大国/ものづくり技術を結集せよ/年率20%強で成長するビッグビジネスの全貌を、第一人者が解き明かす」という触れ込みで、以下、その大意を紹介し、私(安原)の感想を述べる。
(注)牛山泉(うしやま・いずみ)氏は1942年長野県生まれ。71年上智大学大学院理工学研究科博士課程修了。2008年足利工業大学長、現在に至る。1970年代から一貫して風力発電の研究開発に携わっている。

▽「エネルギー新時代の四番打者」をめざして

*原発ゼロなら再生可能エネルギー60%が必要
日本政府による原発への討論型世論調査などで、国民の多くは「原発ゼロ社会」を望んでいることが明らかになった。
再生可能エネルギーの加速度的な普及拡大は、エネルギー安全保障戦略の上からもきわめて重要で、エネルギー自給率わずか4%という危機的な状況から抜け出すことにつながる。再生可能エネルギーが60%以上を占めることは風力も太陽光も、あるいは水力も地熱もバイオマスもすべてが国産だから、結果的にエネルギー自給率も60%以上になる。

*風力発電はいまや堂々たる主要電源
日本ではあまり知られていないが、2011年末現在、世界の風力発電の累積設備容量は2億5000万kwを超えている。これは原発250基分もの設備容量に相当する。2009年と2010年には、世界で約4000万kw、つまり100万kw級原発や大型火力発電40基分にも相当する風力発電が設置されている。世界の風力発電は2010年まで10年以上にわたって年率20%以上の伸びを続けてきた。風力発電はいまの時代の要請にかなっているからこそ、その導入量が突出しているのだ。
原発は世界で435基、約4億kwが運転中であるが、風力発電の累積設備容量はこの半分をはるかに超えている。この10年、発電技術の主役は風力発電であり、2020年には風力が原発の設備容量を抜き去っているはずである。風力発電は、もはや新エネルギーという範疇ではなく、堂々たる主要電源になっている。
風力は地球上どこにも遍在するエネルギーである。低コスト、建設の早さ、そして陸上から洋上への展開など、まさに再生可能エネルギーの本命で、世界が期待ずる「エネルギー新時代の四番打者」といえる。

<安原の感想> 「四番打者」を育てる責任
わが国には、自分たちの力では未来を変えることができないという無力感がある。講演の折にも、「将来はどうなるんですか?」という質問が多い。これに対し、私は「あなたはどうしたいんですか」と逆に問い返している。未来は予測するものではなく創りだすものなのだ。

以上は著作の「はじめに」で著者が力説している一節である。「未来は創りだすもの」という発想には私(安原)も大賛成である。我々日本人の多くは、もの知り、言い換えれば知識のレベルで生きている。しかしこれではしょせん傍観者の域を抜け出せない。重要なことは新しい時代をどう創り出していくのか、その変革の主体としてどう行動していくかであるだろう。著者が指摘する上述の「新時代の四番打者」を育てる責任を一人ひとりが自覚するときである。

▽ 風力発電が日本経済を支える

*風力産業こそ「日本の希望」の一つ
日本では若者の働き口が少ない。文部科学省の調査では、2012年3月に大学を卒業した学生の4人に1人に当たる約12万8000人が安定した職に就いていない。「大手企業を中心に採用は減り、高学歴の人でも就職が厳しくなっている。上位校の学生ほど、中小企業を敬遠して就職浪人を選択するから、就職率は下がる」とは大学の就職担当者の話。
12年版厚生労働白書には、「若者は前世代が築いた社会資本から恩恵を受けており、高齢者の現役時代より恵まれている」などと書かれているが、前世代が作ったインフラ(道路、通信情報施設、学校など)は若い世代がメンテナンス(維持)しなければならない。前世代は膨大な借金を作り、増税や原発のツケまで回してくる。その面倒を見るのは若い世代なのだから、恵まれているどころか、ますます悲観的な状況というのが本質ではないか。
では日本に希望はないのか。これを救う手だての一つがまさに再生可能エネルギー産業、特に風力発電産業なのだ。

*裾野の広い機械組み立て産業
火力や原子力などの大型発電所と比べると、風力発電は小さくてかわいらしいイメージを抱きがちである。しかし大型の風力発電機は部品点数が2万点に近い工業製品である。したがって風力発電機は自動車と同様の組立産業による生産物である。しかも自動車は3万点ほどの小さな部品が多いのに対し、風力発電は部品が大きくて種類も多い。高度な工業力が必要な上に労働集約的な組立工程を必要とする。
東日本大震災と津波、福島原発事故によって宮城・福島・茨城各県の漁民は失職したり、転職を考えている人もいる。洋上風力発電が本格化すれば、洋上風車の建設補助をしたり、メンテナンス要員を安全確実に輸送す漁民の操船技術が生きるはずである。
秋田県には2012年現在、108基の風車が設置されており、道県別では7位である。近年、秋田県沿岸に1000基の風車を設置しようというNPOの活発な動きがある。今後は風力発電関連の大企業を秋田に誘致する希望もある。
日本海側に巨大な洋上風車群ができて、そのための風車製造と保守部品の製造が連続して行われれば、風車の寿命が来たときには、更新用風車の量産が期待できる。
これから地域分散型のエネルギーシステムが構築され、スマートコミュニティーが各地に展開されていくだろう。地域のエネルギー源として、また開発途上国用のコミュニティー電源として秋田発や福島発の中小型風車を供給できるだろう。

*最大50万人の雇用波及効果
再生可能エネルギーへの期待が高まっている。エネルギー構造を変えることは、日本経済に大きな負担をかけるという懸念もあるが、決してそんなことはない。
日本では20年以上も「人余り経済」が続いており、代替エネルギーの導入によって他産業の人手が不足するような状況ではない。それどころか代替エネルギー開発は新規雇用を産み、デフレ圧力や雇用不安を和らげ、消費が刺激される効果が期待される。
現実の「人余り経済」の下では、他産業の生産力を犠牲にしないから、ある試算によれば、新産業の導入による雇用創出とその波及効果で、雇用が30万~50万人、消費が1兆~2兆円拡大すると見込まれる。
再生可能エネルギーは、休耕地における太陽光・風力発電、水路を使った小規模水力発電、農林畜産業の廃棄物によるバイオマス発電など、いずれも農業と親和性が高い。電気は生野菜と同様、保存が難しく、送電ロスもあるから、近隣で利用するほうが望ましい。エネルギー構造を転換することは農村地域での雇用拡大になる。

<安原の感想> チャレンジ精神で立ち向かうとき
もちろん産業構造の転換は苦痛を伴うであろう。しかし日本企業は過去何度もピンチをチャンスに変えてきた。排ガス規制や石油危機は、小さくて省エネ効果の高い日本製品を躍進させる契機になった。日本で初めてアメリカの自動車殿堂入りしたのは、不可能とまでいわれた世界一厳しいカリフォルニアの排ガス規制をCVCCエンジンをクリアしたホンダのシビックではなかったか。それを想起すれば、不況のいまこそチャレンジ精神を発揮すべきである。

以上は著者が本書で強調している一節である。たしかにエネルギーと産業構造の転換の渦中で悲運に頭を抱える企業、人々も少なくないに違いない。しかし進む方向が間違っているわけではない。再生可能エネルギーの新時代を築くことは、もはや避けることのできない歴史の必然と理解すべきである。だからこそチャレンジ精神で立ち向かう以外に選択の余地は残されていない。


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衆院選後の日本経済はどうなるか
脱「GDP主義」へ転換を求めて

安原和雄
 大方の予測を超えた衆院解散に政財界人に限らず、多くの国民が驚いた。関心を抱かざるを得ないのは混迷を深めている日本経済が衆院選後にどうなるのか、その行方である。論議の的となるべきは目先の短期的な景気動向ではなく、中長期的な日本経済の姿、構図である。このテーマは21世紀・日本の真の豊かさ、幸福とは何かを改めて問い直すことでもあるに違いない。
 時代がいま求めているこのテーマの一つは経済成長主義を批判し、脱「GDP主義」への転換を求めることである。さらに貧困や格差拡大をもたらしている市場原理主義(新自由主義路線)を打破していくこと、など課題は多い。(2012年11月17日掲載。公共空間「ちきゅう座」、インターネット新聞「日刊ベリタ」に転載)

 日本経済の変革を視野に収めた最近の著作として今松英悦、渡辺精一(注)共著<そして「豊かさ神話」は崩壊した ― 日本経済は何を間違ったのか>(2012年10月、近代セールス社刊)が目に付く。その大意を以下に紹介し、私(安原)のコメントをつける。

(注)今松英悦(いままつ・えいえつ)氏は1949年岩手県生まれ、毎日新聞経済部、論説委員などを歴任。金融審議会、財政制度等審議会の委員なども務める。現在、津田塾大学非常勤講師。著書に『金融グローバリゼーションの構図』(近代セールス社)、『円の政治経済学』(同文館出版)など。
渡辺精一(わたなべ・せいいち)氏は1963年埼玉県生まれ、毎日新聞大阪経済部などを経て、2003~2010年『週刊エコノミスト』編集次長としてマクロ経済、エネルギー分野などを担当。2012年毎日新聞川崎支局長。著書に『なぜ巨大開発は破綻したか―苫小牧東部開発の検証』(日本経済評論社)。

▽ 「豊かさ神話」の崩壊(1)― 乗り越える経済社会の4原則

 20世紀型ともいえる「豊かさ神話」が崩壊したいま、その「豊かさ神話」を乗り越える経済社会の原則は、どのようなものなのか。本書は以下の4原則を挙げている。

* 脱GDP主義への道
 原則の第一は国内総生産(GDP)を豊かさや幸福度の指標にしないこと。
 石油危機の少し前に朝日新聞の連載記事「くたばれGNP」と題する連載記事が話題になった。当時はGDPではなく、GNP(国民総生産)が経済規模を量る指標として用いられていた。
 いまGDPに代わる指標をつくろうという動きが見られる。経済協力開発機構(OECD)は、GDPに代わる幸福度を量る指標として「より良い暮らし指標」(ベターライフインデックス)を発表した。これは所得のみならず、住宅、教育、安全、環境、生活満足、ワークライフバランスなどの指標から構成されている。日本は所得や安全ではOECD加盟国の中で上位に位置しているが、ワークライフバランスは最下位に近く、生活満足や環境も下位である。
 GDPには無駄な浪費も、環境破壊的な投資も含まれる。そのようなGDPを疑うことなしには、新たな経済社会は始まらない。

* 市場に翻弄されない社会に
 原則の第二は、市場を制御する機構を備えた経済システムを構築すること。
 適正な価格の決定や円滑な取引、さらに経済運営の効果を高めるために市場の役割は重要だ。ただすべてのことを市場にゆだねれば、バブルの生成や崩壊、過剰なまでの経済の金融化などの重大な弊害が生じる。例えば雇用や教育、医療など人々の社会生活にかかわる分野を市場による競争原理にさらすことは控えるべきだ。賃金にしても、人々が憲法の保障する「健康で文化的な最低限の生活」を維持できるものでなければならない。それなしには人々は先行きに不安を覚える。
 リストラという名の人員整理や非正規雇用の促進、賃金引き下げには歯止めをかける必要がある。市場原理に絶対の信認を置き、自助努力を基本とした政策の結果が、いまアメリカや日本で深刻化している格差や貧困の問題だ。そこから脱出するには市場に翻弄されない社会を築いていかねばならない。

* 維持可能な発展を実現するシステムを
 原則の第三は国内レベルだけでなく、地球レベルで「維持可能な発展」を実現できる社会システムをめざすこと。
 維持可能な発展をめざすことでは、1992年の国連環境開発会議(地球サミット=ブラジルのリオデジャネイロで開催)で世界各国が考えを共有した。しかしそれから20年後の「リオプラス20」(2012年6月再びリオで開催)ではむしろ経済成長への道を追求することが前面に出た。
 そこで、どうするのか。まず先進国は浪費型経済に終止符を打たねばならない。先進国はエネルギー過剰消費をすぐにやめるべきだ。豊かさや幸福度をGDPのみで測るのではなく、働き方や環境、時間の使い方なども加味すれば、モノの消費中心の生活態度から脱却できる。
 原子力発電は即時に、あるいは遅くとも段階的に廃止すべきである。経済成長のために原発を維持、あるいは増設していくことは、地球を維持不可能なものにしてしまう。
 維持可能性という点から食糧や農業も今のままというわけにはいかない。維持可能な経済社会という以上、食に直接つながる農業は地域を支える産業と位置づける必要がある。

*「小さな政府」政策との決別
 原則の第四は「小さな政府」政策との決別である。
 財政は国民の安心な生活のためにある。必要な財政規模の政府は、小さな政府論者が批判する「大きな政府」とは違う。「適正な規模の政府」なのだ。では健全かつ適正な規模の政府にするにはどうすればいいのか。まず予算のうち歳出の中身を抜本的に見直す必要がある。
 公共事業費はこれまでかなり圧縮されてきたが、ダム事業のように十分手の入っていないところがある。エネルギー関連でも原発の立地促進費や高速増殖炉もんじゅ向けの予算などは大幅に削れる。防衛費もアメリカ軍向けのおもいやり予算や自衛隊の攻撃型装備向け予算も本来おかしなものだ。
 ただそれだけで必要なお金を捻出するのは容易ではない。そこで税金を払う能力がある法人や個人を優遇してきた税制を元に戻す必要がある。
 小さな政府政策に歯止めをかけ、転換を実現していくためには地方政府とも言われる地方自治体を強化していくことも欠かせない。合併により自治体の規模を大きくするこれまでの政策を大転換し、身近な仕事を担っている基礎自治体といわれる最小の単位は、住民が実感できる規模まで小さくすることが必要だ。

▽ 「豊かさ神話」の崩壊(2)― 真の豊かさを手に入れるために

 本書は末尾で「真の豊かさを手に入れるために」という見出しで、以下のように指摘している。

 「失われた20年」と言われたバブル崩壊後の経済社会停滞の中で、成長神話がいかにむなしいものであったか。一方、所得を増やさなければ、豊かになれないという固定観念から抜け出し、それを乗り越えた社会を築いていくことは、上述の4つの原則に示されているように希望に満ちた試みなのだ。

 経済成長率を高めれば豊かになる、幸福になるというわけではない。これまでのように過剰消費にうつつを抜かす必要はない。エネルギーの消費構造がその典型だ。東日本大震災以降、企業、家庭ともに消費量は低下しているが、それで大きな支障が出ているだろうか。電車やオフィスビルの中は、夏でも寒いことがいまも少なくない。
 原子力発電を全面停止、さらに全面廃棄に持っていくことは、低エネルギー社会を築くことにもつながる。モータリゼーションもオール電化も過剰エネルギー消費社会の象徴なのだ。

 人々の生活がどれほど自然環境に依存しているかをみると、先進国は資源供給や廃棄物処理で過剰なまでに地球を酷使していることが明らかになっている。仮に世界中がアメリカと同じ消費水準を謳歌するとすれば、地球が5つ必要とも言われている。こうした状況が維持可能なわけはない。
 これまでの経済学では、いまの経済活動を継続していくという前提で政策が考えられる。ビジネス・アズ・ユージュアル(BAU)というこの前提のもとでは、状況は何も変わらない。それを打破し、真の豊かさ、幸福を手に入れる社会を築いていく活動こそがいま求められている。

▽ <安原の感想> 21世紀型豊かさ、幸せを求めて

 大手紙(11月 16日付)の書籍広告欄に『幸せのタネをまくと、幸せの花が咲く』が話題の新刊として紹介されている。その骨子は、「うまくいかないのは、運が悪いからではありません」、「誰に悩みを打ち明けるか、どんな所に身を置くかによって人生はガラリと変わる」など。ここでは個人レベルの主観的な幸せ論に重点がある。まさに従来型の幸せ論の具体例といえるのではないか。

 これと比べて、著作<そして「豊かさ神話」は崩壊した>は、どのように異質なのか。すでに紹介したように新しい21世紀型豊かさ、幸せ観は次の4つの原則の上に築かれる。
*脱GDP主義への道
*市場に翻弄されない社会に
*「維持可能な発展」を実現するシステムを
*「小さな政府」政策との決別

 これら4つの原則は以下の3つの「道」原則に集約することもできるのではないか。
*脱GDPへの道
*脱新自由主義(=脱市場原理主義)への道(=市場に翻弄されない社会に、「小さな政府」政策との決別 ― の2原則を脱新自由主義というひとつの組み合わせとして捉える)
*「維持可能な発展」=「持続可能な発展」(Sustainable Development)への道

 ここでは脱新自由主義への道と「持続可能な発展」への道に触れておきたい。
 まず脱新自由主義とは、あの悪名高き新自由主義路線による異常な格差、貧困をどう是正していくかを指している。すなわち日本経済社会を担う主役である労働者、サラリーマンたちの賃金を含む労働条件を悪化させながら、他方、一部の企業経営者報酬や大企業の内部留保を巨大化させるアンバランスにどうメスを入れるかである。新自由主義路線の根本的な変革・改善なくして、日本経済の再生はあり得ない。

 もう一つ、地球環境保全のための「持続可能な発展」への道は人類生存のためにも重要である。ただ最近は地球環境保全への熱意は薄らいできており、初心に返って、これをどう再活性化させるかが今後の課題である。なお本書は原語Sustainable Developmentの訳語として「維持可能な発展」で一貫させている。これも理解できるが、「持続可能な発展」の訳語が一般的ではないか。


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『縮小社会への道』が訴えること
いのち尊重、脱原発、脱経済成長を

安原和雄
 経済は常に拡大・発展していくものだと思い込んでいる政・財界人や経済学者たちからみれば、21世紀は経済が縮小していくほかない時代だという問題提起は驚愕に値するかも知れない。しかし考えてみれば人間の一生も同じではないか。成長期を経て高齢化が進めば、身体も衰え、しぼんでいく。「縮小社会への道」は必然の成り行きというべきである。
 大切なことは、この冷厳な現実を認め、新しい世界を築くためにどういう手を打っていくかである。その答えは、案外平凡であるが、平易な道ではない。何よりも現平和憲法の理念を生かし、いのち尊重を軸に据える。しかも脱経済成長、脱日米安保、脱原発を推進するほかない。新しい時代の始まりである。(2012年11月3日掲載。公共空間「ちきゅう座」、インターネット新聞「日刊ベリタ」に転載)

 縮小社会研究会代表・松久 寛編著『縮小社会への道 原発も経済成長もいらない幸福な社会を目指して』(日刊工業新聞社刊、2012年4月)はなかなか刺激的な著作である。毎日新聞(10月14日付)書評欄に中村達也評「人口減少社会のこれからを透視するための貴重なたたき台」が掲載された。
 本書の目次は以下の通りで、これを一読するだけで、異色の問題意識がそれなりに浮かび上がってくる。例えば第2章「成長の限界点」の内容は、「成長路線は破滅への道」という問題意識で貫かれており、今なお成長主義に執着している経済界などの認識とは180度異なっているのが読み取れる。

第1章 脱原発は縮小社会への入り口=安全神話の崩壊、原発事故は文明の岐路
第2章 成長の限界点=成長路線は破滅への道、成長の限界と今日の危機、成長至上主義から縮小社会への移行、海外の事例から見た縮小社会への道
第3章 持続可能な社会と縮小社会=経済の縮小は持続可能の必要条件、大量消費・経済成長との両立へのむなしい願望
第4章 再生可能エネルギーの可能性=石油時代の終わり、太陽光発電と風力発電、エネルギー消費の削減が先決
第5章 縮小社会の交通と輸送=自動車技術の限界、自動車の小型低速化、交通の縮小
第6章 縮小社会の技術=産業の縮小技術、生活者の縮小技術
第7章 日本経済の縮小=人口縮小の経済的影響の比較 ― 日本とスウェーデン、2060年の日本経済 ― 四つのシナリオ
第8章 日本の社会保障の縮小=社会保障システムの危機、抜本的な社会保障改革

以下では縮小社会とはどういうイメージなのかを中心に紹介し、私(安原)の感想を述べたい。

▽縮小社会のイメージ(Ⅰ)― 成長至上主義から縮小社会への移行

(1)ローマクラブの「成長の限界」
今から40年前の1972年にローマクラブは「成長の限界」というレポートをまとめた。それによると、資源の枯渇が年々急速に進み、工業成長を低下させ、2050年ごろには資源の大半が底をつく。これとは逆に人口や汚染は2050年ごろまで拡大を続けるため、一人当たりの工業生産や食料供給は2020年に限界に達し下降に転じていく。
すなわち経済・工業成長は2020年以降、次第に破綻していくという将来予測である。この予測は決して荒唐無稽とはいえない。

(2)事態は危険水域に入っている
今日の事態は以下のように危険水域に入っている。
*資源は予想通り枯渇プロセスをたどり、人口・食料問題に加え温暖化問題が世界的に深刻化している。
*ITやバイオなどの分野では科学技術は速いペースで展開し、人々の科学技術に対する期待は高まり、将来は科学技術が解決してくれるという幻想が脹らんだ。しかし福島原発事故のように、科学技術の負の側面は巨大であるがゆえに深刻化する。原発以外にも、ITやバイオ技術などは未知の要素を含んでおり、事故が起きればその影響は計り知れない。
*BRICS(ブラジル、ロシア、インド、中国)などにも拡大・成長主義が広まった。他方、先進諸国では経済成長が鈍化する中で失業が増加し、金融危機が頻発するようになった。財政赤字にあえぐ国が多い。

(3)21世紀前半は縮小社会への移行に伴う苦しみ
21世紀前半の過渡期の世界は、資源枯渇、環境悪化、巨大事故、財政悪化という危機がより深刻化し、以下のように世界中の人々が震え上がるような恐怖感を味わうだろう。
*巨大企業の独占化が進行し、一方、市場の縮小が進む。巨大資本や各国は食料、資源をめぐる争いを激化させる。
*飽食に慣れた人々は生活レベルを下げることに同意せず、成長志向は容易に止まらない。原発を導入・拡大してでもエネルギーを確保して成長を求める傾向は強まり、再び深刻な原発リスクは高まる。
*二酸化炭素(CO2)削減の世界的な停滞が、ヒートアイランド化や地球生命絶滅の危機を引きおこし、深刻化する。世界の海水面の数メートル上昇で沿岸の巨大都市のかなりの面積の水没が懸念される。

▽縮小社会のイメージ(Ⅱ)― 人間に優しい共生社会

(1)新しい時代としての縮小社会
成長至上主義時代は18世紀後半の産業革命に始まり、化石資源を源(みなもと)に拡大型大量消費社会を成り立たせてきたが、21世紀末の化石燃料の枯渇とともに、その300年余りの歴史を終える。それに先立つ21世紀前半の過渡期には、人類が生存を維持できる可能性を極限化で必死に追い求めた末、「生存維持を最優先する社会構造」としての縮小社会の姿が明確になっていくだろう。
この縮小社会は「人間に優しい共生社会」といえるが、その姿は脱原発、平和、環境、幸せの追求など多様である。

(2)縮小社会への道を歩みはじめた国々
 以下の諸国を挙げることができる。

*脱原発へと歩み始めたドイツ、イタリア
2011年3月の福島原発事故を受けて、ドイツは1980年以前に建設された7基の原発の即時停止・廃棄を決定し、新しい原発も2020年~30年には廃棄して脱原発に進むという新政策を決めた。地震国・イタリアではすでに1987年、国民投票(72%の賛成)で脱原発を決めた。しかしその後、4箇所の原発新設を打ち出していたが、福島原発事故後、2011年4月、原発再開方針の無期限凍結(断念)を決めた。
なおオーストリアは原発を違法と定め、スイスも廃止している。「原発やります」の姿勢を崩していない日本とは大きな違いである。

*人間に優しい社会・スウエーデン
スウエーデンには「人々がほどほどに格差なく仲良く暮らし(ラーゴム)、悲しみが社会を襲うときは、それを皆で分かち合う(オムソーリ)」という伝統があり、北欧諸国の共同体精神をよく表現している。北欧の人々は政府を信頼して収入の大半を政府に託す。政府はその付託に答えて国民福祉を真面目にやり遂げる。物質的な豊かさと経済効率よりも「人間に優しい社会」が必要である。失業者や弱者も誇りを持ってゆとりのある生活を送れることは縮小社会の必須課題だ。

*平和・環境回復をめざすコスタリカ
コスタリカは軍隊を廃止した国で、国家予算の3割を教育文化につぎ込んでいる。ある女の子は「憲法に違反している」と訴え、海外派兵を止めさせた。環境危機に直面し、国を挙げて自然回復に取り組んだ経験を持っている。人は自然や生きものを正しく理解したときに親しみが深まり優しさが生まれる。そして子どもたちのためにも豊かな自然を残していこうとする素朴で肯定的なコスタリカ国民の人生観が作られた。

*ヒマラヤ山脈に位置する幸せの国・ブータン
ブータンは成長至上主義システムを意図的に受け入れず、共生社会を維持していこうとしている。野菜中心の自給自足経済を基本にする敬虔な仏教国である。国の基本は「ゆっくりやるべし」で、GNP(国民総生産)ではなく、GNH(Gross National Happiness)すなわち国民の幸せを第一に大切にしている国として有名である。
ではこの国の幸せとはどんなものか。ある村では鶴の飛来を妨げるという理由で電線を設置せず、電気を導入しなかった。電気がある生活より鶴がいる自然との共生を村民は望んでいる。ブータンの「幸せ」の基準は、物質的に豊かになった日本に足りないもの、さらに共生が目指すものは何かを教えてくれる。

<安原の感想>日本の未来図は「いのち尊重と平和・脱成長・脱安保・脱原発」
「縮小国家」という新たな尺度で日本を評価すれば、どういう未来図が浮かび上がってくるだろうか。21世紀末をめざして縮小国家に進むことが歴史の必然であり、正しい針路選択であるとすれば、この問いかけに無関心ではあり得ない。米国は軍事超大国から大幅に軌道修正して、軍事縮小国家に転換しない限り、「21世紀の落第生」という運命を辿るほかないのではないか。その米国と日米安保体制という悪しき絆で一体化し、自主性も独自の智慧も喪失している「我がニッポン」の将来図はどうか。

著作『縮小社会への道』は軍隊を捨てた国・コスタリカと並べて「日本にも平和憲法があるが」という見出しで、次のように指摘している。
世界大戦で侵略・軍国主義に走った日本が再び狂気に陥らないように、アメリカは日本に軍隊はおろか交戦権も持たせなかった。こうしてできたのが憲法9条の平和条項だ。憲法前文では「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した」とある。この憲法を愛し支持する国民は多い。しかるにその後日本は軍隊を持ち、コスタリカの行き方と180度逆になってきていることを大変残念に思う、と。

この見解にはもちろん賛意を表したい。日米安保体制を解消して、平和憲法前文の生存(=いのち)尊重と9条本来の反戦、平和の理念に立ち返り、その理念をどう生かし、具体化していくか。日本にとってこの「いのち尊重と平和」こそが「脱成長と脱安保と脱原発」と並んで、縮小社会へ向けての基本的課題でなければならない。


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続発する沖縄での米兵女性暴行
日米安保と米軍基地がある限り

安原和雄
またもや沖縄で米兵による女性暴行事件が起こった。沖縄はいうまでもなく、本土でも多くの人が怒っている。こういう悲劇の続発を防ぐためには何が必要か。事件の背景に広大な米軍基地が存在し、それを容認する日米安保体制が存続する限り、悲劇は絶えないだろう。だから日米安保と米軍基地そのものを廃絶すること以外に続発防止の決め手はあり得ない。
 新聞社説はこの事件をどう論じているか。残念ながら足並みが揃っているわけではない。事件発生を批判する点では一致しても、その背景にある日米安保、米軍基地そのものを批判する姿勢は乱れているのが現状である。(2012年10月19日掲載。公共空間「ちきゅう座」、インターネット新聞「日刊ベリタ」に転載)

 沖縄での米兵女性暴行について本土の大手紙と沖縄地元の琉球新報は社説でどのように主張したか。本土の主要紙と琉球新報の見出しは次の通り。次いで社説(大要)を紹介し、私(安原)のコメントを試みる。

*東京新聞(10月18日付)=米兵女性暴行 沖縄に基地がある限り
*毎日新聞(同上)=相次ぐ米兵事件 米政府は深刻さ自覚を
*朝日新聞(同上)=米兵の犯罪 沖縄の怒りに向きあう
*読売新聞(10月19日付)=沖縄米兵事件 再発防止へ実効性ある対策を
*琉球新報(10月18日付)=米兵集団女性暴行/卑劣極まりない蛮行 安保を根本から見直せ

(1)東京新聞社説(大要)
 沖縄県知事は、官房副長官を首相官邸に訪ね、「(在沖縄米軍基地は)安全保障上必要だから理解してくれと言われても、こういう事件が起きると無理な話だ」と強く抗議した。
 知事に代表される県民の怒りは当然だ。日米両政府に加え、日本国民全体が重く受け止め、自分の痛みとして感じる必要がある。
 米軍基地は周辺地域の住民にさまざまな負担を強いる。平穏な生活を脅かす日々の騒音や事故の危険性、米国の戦争に加担する心理的圧迫、それに加えて、今回のような米兵の事件、事故などだ。

 日米安全保障条約で、日本の安全と、極東の平和と安全を維持するために日本に駐留する米軍が、日本国民の生命を脅かす存在にもなり得ることは否定しがたい。
 在日米軍基地の約74%は沖縄県に集中する。米軍の世界戦略に加え、本土では基地縮小を求める一方、沖縄での過重な基地負担を放置することで平和を享受してきたわれわれ本土側の責任でもある。

<コメント> 日米安保は生命を脅かす存在に
今回の暴行事件に関連して、後述するように朝日、読売社説には日米安保への言及は見られない。毎日社説はわずかに「日米安保体制そのものをむしばむ」と表現している。これに比べると、東京社説は明快である。「日米安全保障条約で、日本の安全と、極東の平和と安全を維持するために日本に駐留する米軍が、日本国民の生命を脅かす存在にもなり得る」とまで言い切っている。沖縄を論じる場合、安保に言及しない社説はもはや読むに値しないというべきだろう。

(2)毎日新聞社説(大要)
 沖縄県知事は17日、防衛相に「正気の沙汰ではない。綱紀粛正という生やさしい言葉でなく、もっと厳しい対応を強く米側に申し入れてほしい」と求めた。
 仲井真知事は防衛相に「日米地位協定を改定しない限り、彼らは基本的に日本の法律は守らなくていいことになっている」と改定を求めた。

 沖縄では、米海兵隊の垂直離着陸輸送機MV22オスプレイの配備強行や、米軍普天間飛行場の移設難航で、日米両政府や米軍への不満が高まっている。背景には、沖縄に米軍基地が集中することによる過重な負担がある。
ルース駐日米大使は事件について「米政府は極めて強い懸念を持っている」と述べたが、相次ぐ事件は、米軍への信頼を失わせ、日米安保体制そのものをむしばむ。米政府と米軍は事態の深刻さを自覚すべきだ。

<コメント>沖縄県知事「正気の沙汰ではない」
 知事の「正気の沙汰ではない」という抗議の声は穏やかではない。これは「怒り」そのものである。怒りの行き着く先は何か。「沖縄に米軍基地が集中することによる過重な負担」をどう改善するかである。それは「日米安保」への不信の表明でもあり、ゆくゆくは安保破棄まで進まなければ、収まらないだろう。毎日社説末尾の「日米安保体制そのものをむしばむ」という懸念にいつまでもしがみついている時だろうか。

(3)朝日新聞社説(大要)
 沖縄では、1995年に米海兵隊員3人による少女暴行事件がおき、県民の怒りが燃え上がった。だがその後も、米兵による犯罪はなくならない。性犯罪に限っても、この10年余りで中学生への強姦や強制わいせつ、ほかにも強姦致傷、今年8月にも強制わいせつ致傷の事件がおきた。被害者が泣き寝入りし、表に出ない事件もあるとみられている。
 沖縄には、安全への心配がぬぐえぬ新型輸送機オスプレイが配備されたばかりだ。不信が募っているときの、この卑劣な事件である。

 日本と米国の協調は大切だ。そのことを多くの人が感じている。だが、今回の事件が火種となって、再び沖縄で反基地の思いが爆発することは十分に考えられる。日米両政府は真剣に対策を講じる必要がある。
 沖縄で米兵による事件が多いのは、国土の面積の0.6%にすぎないこの島に、在日米軍基地面積の約74%が集中している現実が根底にある。沖縄の負担をどう分かつか。沖縄の外に住む一人ひとりが考えなくてはならない。

<コメント>「日米の協調は大切」が本音
 朝日社説も「沖縄では、米軍による犯罪はなくならない」などと米軍基地への批判的な姿勢を見せてはいる。しかし一番主張したい本音は「日本と米国の協調は大切だ」ではないか。だからこそ「今回の事件が火種となって、再び沖縄で反基地の思いが爆発することは・・・日米両政府は真剣に対策を講じる必要」につながる。朝日社説の主眼は日米安保是認論、いやむしろ賛美論ともいえる。

(4)読売新聞社説(大要)
 8月には、那覇市で在沖縄米兵による強制わいせつ事件が発生したばかりだ。こうした不祥事が繰り返されるようでは、日本の安全保障に欠かせない米軍の沖縄駐留が不安定になろう。今回の事件は、米軍の新型輸送機MV22オスプレイが沖縄に配備された直後だったため、県民の反発が一段と高まっている。

 ただ、暴行事件への対応とオスプレイの安全確保は基本的に別問題であり、それぞれ解決策を追求するのが筋だろう。
 仲井真知事は日米地位協定の改定を改めて主張している。だが、今回の事件捜査では、起訴前の米兵引き渡しなどを制限する地位協定が障害とはなっていない。
 日米両政府は従来、地位協定の運用の改善を重ね、具体的問題を解決してきた。それが最も現実的な選択であり、同盟関係をより強靱(きょうじん)にすることにもつながろう。

<コメント>「自立国・ニッポン」はどこへ
 読売社説の主眼は日米同盟関係を「より強靱に」することにある。「不祥事が繰り返されるようでは、日本の安全保障に欠かせない米軍の沖縄駐留が不安定に」という指摘がそれを示している。「日本の安全保障は米軍の沖縄駐留」にかかっているという認識であるから、ここまでくれば「日米安保依存症」も極まった、というほかない。「自立国・ニッポン」への意欲も視野もどこかへ投げ捨てたのか。

(5)琉球新報社説(大要)
 米軍は事件のたびに綱紀粛正や兵員教育による再発防止を約束するが、何が変わったというのか。現状は基地閉鎖なくして米兵犯罪の根絶は不可能だと、米軍自らが自白しているようなものだ。
 女性は安心して道を歩けない。米兵は沖縄を無法地帯と考えているのか ―。県婦人連合会の平良菊会長はこんな疑問を抱きつつ「危険なオスプレイが縦横無尽に飛んで、危険な米兵が地上にうようよしているのが今の沖縄か。人権蹂躙(じゅうりん)も甚だしい」と述べた。同感だ。
 ことし8月にも那覇市で女性への強制わいせつ致傷容疑で米海兵隊員が逮捕された。復帰後の米軍関係の刑法犯は5747件(2011年12月末現在)に上る。米国はこうした現状を恥じるべきだ。
 在日米軍には日米安保条約に基づき「日本防衛」の役割がある。しかし県民には苦痛をもたらす暴力組織としての存在感が大きい。

 日米安保体制を容認する保守系首長も、垂直離着陸輸送機MV22オスプレイを強行配備した日米両政府に抗議し、万が一墜落事故が起きた場合には「全基地閉鎖」要求が強まると警告する。
 
<コメント> 日米安保と米軍基地への批判
琉球新報社説は沖縄の地元紙にふさわしく日米安保体制と米軍基地そのものへの疑問と批判が尽きない。「基地閉鎖なくして米兵犯罪の根絶は不可能」、「在日米軍は日米安保条約に基づき・・・、県民には苦痛をもたらす暴力組織」、「女性は安心して道を歩けない。米兵は沖縄を無法地帯と考えているのか」などの指摘にそれをうかがうことができる。日米安保なき日本再生は沖縄から始まる。すでに始まりつつあると認識したい。


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「日中韓の共同体」構想を提言
毎日新聞「記者の目」に想うこと

安原和雄
毎日新聞の「記者の目」に人目を引く主張が掲載された。国境を越える共同体、欧州連合(EU)に学んでアジアの日本、中国、韓国の3カ国も共同体作りに乗り出せ、という提言である。
提唱者の記者自身、「日中韓共同体は夢物語と思うだろう」と指摘している。たしかにこれまで日中韓共同体構想は論議されることはなかった。しかし歴史は自然現象ではない。新たに創造していくものでもある。共同体構想が実を結べば、争乱の絶えないアジアで平和を可能にするに違いない。それは日本国憲法本来の平和理念をアジアで根付かせることにもつながるだろう。(2012年10月12日掲載。インターネット新聞「日刊ベリタ」、公共空間「ちきゅう座」に転載)

 毎日新聞(10月3日付)「記者の目」が「欧州から見た領土問題 日中韓は共同体作り目指せ」という見出しで論じている。筆者はブリュッセル支局の斎藤義彦記者で、なかなかユニークな主張なので、紹介したい。その要点は以下の通り。

(1)日中韓は共同体作り目指せ
 遠く欧州連合(EU)の本拠地ブリュッセルから見ると、日中韓の対立は歯がゆく思える。EUは互いに殺し合ってきた歴史を越え、債務危機を機に統合を深めている。100年かかってもいい。日中韓は共同体をめざすべきだ。それ以外、安定し繁栄した東アジアの将来はない。

 安直にEUモデルを輸入できるとも思わない。EUも冷戦時は体制の壁は乗り越えられなかった。しかしEUの平和と安定が示すのは、日中韓の国境の垣根を低くし、連携を強め、人の交流を進め、共同体を作ることこそが東アジアに平和と安定をもたらすという可能性だ。

 日中韓共同体は夢物語と思うだろう。しかしそれを語るのは私だけではない。日本をよく知るEU高官は、日中の対立が欧州共同体(EC)が発足して間もない1970年代の地域対立に「似ている」と話す。
 その後、統合を深め「緊張を管理するメカニズムを見つけざるを得なかった」EUの歴史をあげ、日中韓にも「利害対立を調整できる外交的な構造が不可欠だ」と指摘した。EUをよく知る日本政府関係者も「EUが対立を和らげた歴史に学ばざるを得ない」と認めた。

(2)日中韓共同体は反米ではない
 誤解してほしくないのは、日中韓共同体は反米ではない点だ。EUに反米の国など存在しない。むしろ不要とも言われる北大西洋条約機構(NATO)を維持し、欧米の結束を守っている。

 一方、日米同盟は魔法のつえではない。パネッタ米国防長官が9月に訪中した際、尖閣問題で自制を呼びかけるだけに終始したのを見てわかる通り、米国は暴力から日本を守ってはくれるが、日中韓の将来まで決めてはくれない。

 やがて中国も成長が鈍化し、非民主的な体制への市民の不満は高まる。その爆発を私は恐れる。韓国は北朝鮮という重い荷物を抱える。

 日本では総選挙が近づき、対中・対韓強硬派が勢いを増している。だが強硬派に長期展望はあるのか。対処療法ではなく、100年先の日中韓の平和と安定を語る政治家に私なら投票する。

<安原の感想> 平和憲法の理念をどう持続させるかが鍵
 日中韓共同体というこれまで論じられたことのない構想をどう評価するか。「実現までに100年かかってもいい」という未来構想だから、いささかの戸惑いを覚えるが、未来構想だからこそ逆に自由な感想も許されるだろう。

*平和憲法か日米安保か
 私の関心事からいえば、平和憲法、あるいは日米安保がどうかかわってくるのかが焦点となるほかない。長期展望として平和憲法の理念をどう持続させるかが鍵である。一方、日米安保の持続性は歓迎できない。言い換えれば日米安保を解消する共同体でなければならない。この視点を忘却した日中韓共同体構想は、歓迎できる代物(しろもの)とは言えないだろう。

 現状認識をいえば、戦後体制の二つの顔、すなわち日米安保と平和憲法のうち、日米安保の乱暴な振る舞いが巨大化し、一方の平和憲法の存在感は根強いものがあるとしても、現状は満足できるものではない。その背景には民主党の政権誕生とその後の変質、右傾化があり、それを煽るかのような大阪市の橋下一派、「日本維新の会」の台頭がある。自民党など保守勢力も右傾化に悪乗りするのに忙しいという印象がある。

*注目点は次の総選挙
 こういう右傾化の動きに対して、批判的な左派には日本共産党、社民党など、それに新政党として最近発足した「緑の党」が加わっている。しかし目下のところ、右傾化の流れが強く、左派からの批判の声は、残念ながら遠吠えの感さえ否めない。

 問題はこの政治勢力地図が今後どのような展開を辿ることになるのかである。当面の着目点は次の総選挙ではないか。総選挙でこの左右の政治地図を多少なりとも塗り替えることができないようでは「暗い時代」が続くという予感がある。平和憲法の理念は吹っ飛んでしまいかねない時代の始まりとなるかも知れない。それを歓迎するのは、多くの廃墟と無数の犠牲者を産み出す対外戦争を好む米国の例の軍産複合体(これには日本版軍産複合体も一枚噛んでいる)である。

*歴史的大勝負へ
 こうみると、次の総選挙は図式的にいえば、「左派勢力」対「右派勢力プラス軍産複合体」の歴史的大勝負になるだろう。左派が脱原発勢力のほか、「ウオール街の反乱」にみる99%の日本版「市民、民衆」とどれほど握手できるかも重要な要素である。これには日本の命運と未来がかかっている。

 以上のような視点を考慮しないまま、未来の日中韓共同体構想を論じても、それは単なる頭脳遊技に終わる懸念がある。


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喜寿を迎えてなお過激に生きる
知識、見識よりも胆識をめざして

安原和雄
 喜寿を迎えることができたのはやはり感謝しなければならない。しかし浮かれているわけにも行かない。今後の人生をどう生きるつもりかと問われれば、いのちある限り過激に生きたいと思案している。知識、見識を広くし、深めるのもよいが、あえていえば胆識をめざしたい。
 胆識とは時代の変革にかかわっていく実践を指している。目下最大のテーマはどういう安全保障観を打ち出すかである。横行している軍事的安全保障は混乱と破壊を招くだけであり、それとは異質の真の「平和=非暴力」を築く「いのちの安全保障」を提唱したい。これこそ21世紀版胆識の実践といえよう。(2012年9月25日掲載。インターネット新聞「日刊ベリタ」、公共空間「ちきゅう座」に転載)

▽ 喜寿を迎えて想うこと

(1)知識、見識よりも胆識をめざして
 私(安原)は2012年喜寿(77歳)を迎えた。心したいのは、喜寿と共にどういう生き方に努力するか、である。あえていえば、21世紀を過激に生きることをめざしたい。
 稲盛和夫・日本航空名誉会長は先日、再建後の日航の株式再上場後、NHKのインタビューに答えて「これからの日本に必要なものは蛮勇だ」と語った。大量の人員整理に蛮勇を振るったことなどが胸中に去来したに違いないが、これからの日本の変革のためには、蛮勇よりもむしろ「胆識」(たんしき)の重要性を指摘したい。

 胆識とは聞き慣れない表現だが、ご存知の知識、見識よりも新たに胆識を21世紀という時代が求めているともいえよう。知識、見識に比べて胆識はどう違うのか。単純化して言えば、以下のようである。
*知識=大学生レベルのもの知り
*見識=本質をとらえる、すぐれた判断力。知識を活用し、生かすこと
*胆識=胆力と見識。実行力を伴う見識(デジタル大辞泉による。普通の辞書には載っていない)
 私の理解では、21世紀版胆識は仏教経済思想に支えられた「いのちの安全保障」の実現を求めて模索を続けることにほかならない。

(2)「いのちの安全保障」の特質はなにか。
 「いのちの安全保障」(安原の構想)とは、まず「軍事的安全保障」(軍事力重視の現在の日米安保体制がその具体例)を拒否する。さらに「人間の安全保障」(国連「人間の安全保障委員会」報告書=2003年国連事務総長に提出=人間、経済成長、市場経済の重視など)を超える次元で構想する。新しい「いのちの安全保障」の柱は次の六つである。
1.人間にかぎらず、自然、動植物を含めて、地球上の生きとし生けるものすべてのいのちを尊重すること。
2.平和=非戦という狭い平和観を超えて、平和=非暴力という広い平和観に立つこと。
3.人間と自然の平和共存権を重視すること。
4.非武装中立の立場を打ち出すこと。
5.平和のための「簡素な経済」をつくる構造変革をすすめること。
6.思想的基盤として仏教経済思想を据えること。

(3)日米安保体制の呪縛から自らを解放するとき
 21世紀を過激に生きるとはなにを意味するのか。あえて一つだけ挙げれば、日米安保体制の呪縛から自らを解放することである。いいかえれば米国離れを促進させることである。これは反米を意味しない。真の意味での日米平和友好関係を新たにつくっていくことにほかならない。
 端的にいえば、日米安保体制はいまや「諸悪の根源」であり、「百害あって一利なし」である。なぜそういえるのか。
*日米安保条約は日本の自衛力増強を明記しており、平和憲法の誇るべき理念(非武装の九条など)と矛盾している。
*安保条約によって日本列島に巨大な在日米軍基地網がつくられており、こうして日本列島が米国の大義なき戦争を自動的に支援する不沈空母としての機能を果たしている。
*日米安保体制を背景に日本は在日米軍基地を許容することによって、米国の海外での大量殺戮に手を貸してきた。

 以上は日米安保体制の素描にすぎない。しかし八つのキーワード ― いのち、非暴力(=平和)、知足、共生、簡素、利他、多様性、持続性 ― を尊ぶ仏教経済思想の立場からは日米安保体制はとても容認できない。過激の英訳radical は根源という意味だから、過激に生きることは、呪縛、固定観念、常識にとらわれず、自由な境地になって根源を問い直しながら生きようと精進を重ねることである。これは私なりの「21世紀版ご奉公」のつもりである。もちろん米国の国家権力とそれに追随する僕(しもべ)たちへの奉公ではない。いのちを慈しみ、暴力や貪欲を排し、さらに共生、簡素な暮らし・経済、利他的行動、多様性、持続性を心から願っている人々へのご奉公である。

▽ 古稀を境に考えたこと

(1)座右の銘「老いてますます過激に」
 私は2005年古稀(70歳)を迎えた折に、「できるだけ過激に生きることを心構えとしたい」と題する以下のような一文を書いた。そう考えたのは、ザ・ボディショップ創業者のアニータ・ロディックさん(当時63歳)の座右の銘「老いてますます過激になる」(『朝日新聞』05年11月19日付be版)を目にしたのがきっかけである。以下のような想いは今(2012年現在)もなお変わってはいない。

 ザ・ボディショップは日本も含めて53カ国に店舗があり、世界的に知られる天然化粧品企業である。その経営方針は利益第一主義を排し、動物実験反対、環境保護、人権擁護、従業員の個性尊重であり、創業者の彼女自身が社会活動家でもある。私はこの経営方針に以前から注目し、足利工業大学教員時代に経済学講義で企業の社会的責任というテーマで何度も取り上げた。
 日本の明治時代の財界指導者、渋沢栄一は自ら「論語・算盤」説、つまり企業にとって利益追求よりも企業活動の成果の社会還元こそ重要だという経営方針を実践したことで知られる。ロディックさんは、「おんな渋沢栄一」という印象がある。

(2)「おもしろく」生きた高杉晋作
 過激に生きるとは、どういう生き方なのか。歴史上の人物として例えば幕末の長州藩志士、高杉晋作をあげたい。高杉は29歳という短い生涯だったが、その辞世の句は「おもしろきこともなき世をおもしろく」である。知友が見守る中で、こう書き遺(のこ)して息絶えたというが、ここには混乱、激動、変革の幕末期を精一杯「おもしろく」生き抜いたという心情がよく表れている。
 この句を21世紀の今日、魅力あるものと思うのは「楽しく」といわずに「おもしろく」という表現を使ったことである。楽しくとおもしろくはどう違うのか。

 「楽しく」は安全地帯に身を置いた保守、受身、消費を連想させる。すでに出来上がっているものを楽しむという発想である。一方、「おもしろく」は危険をも辞さない自由、挑戦、創造のイメージがある。そこにはロマン、志、さらにまだ出来上がっていないものを新たにつくっていく未来志向をうかがわせる。
 高杉がこの違いを意識してあえて「おもしろく」といったかどうかは分からない。しかし幕藩体制という既存の秩序をたたき壊すことに挑戦し、新しい日本を創造するために生きたことは、たしかにおもしろい人生であり、「わが人生に悔いなし」と思ったに違いない。これが過激に生きた人物、すなわち歴史における胆識実践の一例である。


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「原発ゼロ」をめざす新エネルギー戦略
賛否に分かれる大手紙社説が論じたこと

安原和雄
 政府は「原発ゼロ」を目標とする新エネルギー戦略を決めた。その目標は「2030年代に原発ゼロ」である。一方ドイツは日本の原発惨事から教訓を得て、10年後の2022年に完全「脱原発」をめざしている。この決断に比べれば、日本は今から20年以上も後というのんびりした足取りである。
新エネルギー戦略を大手紙社説はどう論じたか。その視点は賛否両論に分かれている。東京、朝日、毎日の3紙社説は賛成派であり、一方、読売、日経の社説は「原発ゼロ」に異議を唱えている。脱原発への道は平坦ではない。(2012年9月16日掲載。インターネット新聞「日刊ベリタ」、公共空間「ちきゅう座」に転載)

 政府は2012年9月14日、関係閣僚らによるエネルギー・環境会議を開き、2030年代の「原発ゼロ」をめざす新エネルギー戦略を決めた。この新エネルギー戦略をめぐって大手紙社説(9月15日付)はどう論じたか。大別すれば、賛成派(東京、朝日、毎日)と反対派(読売、日経)に分かれている。各紙社説の見出しは以下の通り。
<賛成派>
*東京新聞社説=もっと早く原発ゼロへ ― 政府のエネルギー方針
*朝日新聞社説=原発ゼロを確かなものに ― 新エネルギー戦略
*毎日新聞社説=実現への覚悟を持とう ― 原発ゼロ政策
<反対派>
*読売新聞社説=「原発ゼロ」は戦略に値しない 経済・雇用への打撃軽視するな ― エネルギー選択
*日本経済新聞社説=国益を損なう「原発ゼロ」には異議がある

 以下、各紙社説の要点を紹介し、<安原のコメント>をつける。

(1)東京新聞社説の要点=電力に依存し過ぎた暮らし方を変える
 世界三位の経済大国が原発ゼロを掲げたことは、国際的にも驚きだろう。持続可能な社会をともに目指そう。二〇三〇年代にと言わず、もっと早く。
 「ゼロ」というゴールは、曲がりなりにも示された。意見聴取会やパブリックコメントなどを通じて、国民の過半が選んだ道である。もちろん、平たんではない。消費者も、電力に依存し過ぎた暮らし方を変える必要に迫られている。だが、私たちには受け入れる用意がある。
 全国に五十基ある原発のうち、今動いているのは、関西電力大飯原発3、4号機の二基だけだ。それでも、暑かったことしの夏を乗り切った。私たちは、自信をつけた。二〇三〇年までに原発はゼロにできると。

<安原の感想> 持続可能な社会のために
 東京社説は、新戦略を具体化するには、市民参加が何より大切であり、さらに原発ゼロ達成は、社会と暮らしを変えるということ、すなわち持続可能で豊かな社会をともに築くということと指摘している。当然の指摘である。しかしゼロ達成が「二〇三〇年までに」ではいかにも遅すぎるのではないか。国民の多くは「直ちにゼロ」を求めている。そうでなければ持続可能な社会を築くことは無理であろう。

(2)朝日新聞社説の要点=「原発ゼロは現実的でない」という批判を排す
 野田政権は当初、全廃には慎重だったが、最終的に「原発稼働ゼロを可能とする」社会の実現をうたった。原発が抱える問題の大きさを多くの人が深刻に受け止めていることを踏まえての決断を評価したい。
 どのような枠組みを設ければ、脱原発への長期の取り組みが可能になるだろうか。一つの案は、法制化だ。原子力基本法の見直しだけでなく、脱原発の理念を明確にした法律があれば、一定の拘束力が生じる。見直しには国会審議が必要となり、透明性も担保される。
 「原発ゼロは現実的でない」という批判がある。しかし、放射性廃棄物の処分先が見つからないこと、原発が巨大なリスクを抱えていること、電力会社が国民の信頼を完全に失ったこと、それこそが現実である。
 簡単ではないが、努力と工夫を重ね、脱原発の道筋を確かなものにしよう。

<安原の感想> 「懲りない面々」を封じ込めるとき
 「原発ゼロは現実的でない」という批判がある ― という指摘は軽視できない。前向きの改革の脚を引っ張ろうとするグループはつねに見え隠れしている。この曲者たちの正体は何か。原発推進に利益を見いだしているグループ、すなわち原発推進複合体(電力会社を中心とする経済界のほか、政、官、学、メディアなどからなる複合体)を担う「懲りない面々」である。これを封じ込めなければ、「原発ゼロ」は夢物語に終わるだろう。

(3)毎日新聞社説の要点=原発拡大路線を180度転換
 政府が2030年代に「原発ゼロ」を目指すことを明記した新しいエネルギー・環境戦略をまとめた。従来の原発拡大路線を180度転換させる意義は大きい。
 新戦略は、「原発に依存しない社会の一日も早い実現」を目標に掲げた。40年運転制限の厳格適用、安全確認を得た原発の再稼働、新設・増設を行わない、という3原則を示したうえで、「30年代に原発稼働ゼロが可能となるよう、あらゆる政策資源を投入する」とした。
 「脱原発」か「維持・推進」か。国論を二分した議論に、政府が決着をつけたものとして評価したい。国民的議論を踏まえた決定だ。安易な後戻りを許さず、将来への責任を果たすため、国民全体が実現への覚悟を持つ必要があるだろう。
 脱原発には、再生可能エネルギーの普及拡大や節電・省エネの促進が欠かせない。そのための規制改革や技術開発への支援策づくりを急ぐよう求めたい。

<安原の感想> 「2030年代にゼロ」は雲散霧消の危うさも
 「国論を二分した議論に、政府が決着をつけたものとして評価したい」という採点は甘すぎるのではないか。ドイツは日本の原発惨事を見て、10年後の2022年の完全「脱原発」を決めた。この素早い決断に比べれば、日本は「2030年代に原発ゼロ」というのだから、間延びしているだけではない。「2030年代にゼロ」という20年以上も先の方針自体、どこで雲散霧消となるか分からないという危うさもある。

(4)読売新聞社説の要点=日米同盟にも悪影響避けられぬ
 電力を安定的に確保するための具体策も描かずに、「原子力発電ゼロ」を掲げたのは、極めて無責任である。
 原発の代替電源を確保する方策の中身も詰めずに、約20年先の「原発ゼロ」だけを決めるのは乱暴だ。
 経団連の米倉弘昌会長は、「原発ゼロ」方針について、「雇用の維持に必死に頑張っている産業界としては、とても了承できない。まさに成長戦略に逆行している」などと、厳しく批判した。
 米国が、アジアにおける核安全保障政策のパートナーと位置づける日本の地位低下も心配だ。日本が原発を完全に放棄すれば、引き続き原発増設を図る中国や韓国の存在感が東アジアで高まる。日米の同盟関係にも悪影響は避けられまい。

<安原の感想> 経団連会長や日米同盟は神聖な存在なのか
 原発ゼロという選択に対し「無責任」、「乱暴」という感情に囚われた言葉を投げつける。これではまるで不良少年の乱闘騒ぎのような雰囲気である。しかも経済界代表の経団連会長の肩を持ち、同時に「日米同盟に悪影響も」と一種の脅迫めいた言辞も辞さない。経団連会長や日米同盟(=日米安保体制)を侵すことのできない神聖な存在と考えているらしいが、いまやこれをも批判の対象にすべき存在とはいえないのか。

(5)日本経済新聞社説の要点=原子力の放棄は賢明ではない
 政府は「2030年代に原子力発電所の稼働をゼロ」とするエネルギー・環境戦略を決めた。「原発ゼロ」には改めて異議を唱えたい。
 間際になってぶつけられた異論や懸念を踏まえて調整した結果、エネルギー戦略はつぎはぎだらけで一貫性を欠く。選挙を控え「原発ゼロ」を打ち出したい打算が政策判断をゆがめている。
 福島第1原発事故を経て原子力への依存は減る。しかし原子力の放棄は賢明ではない。資源小国の日本は積極的に原発を導入し、石油危機以降は、原子力と天然ガス火力などを組み合わせ脱石油依存の道を歩んだ。
 今は自然エネルギーをもうひとつの柱として伸ばし、電力の安定供給と温暖化ガスの排出削減をともに実現すべき時だ。原子力の維持は国民生活や産業の安定をかなえる有用な選択肢だ。かつての化石燃料依存に戻るのはいけない。

<安原の感想> 時代錯誤もはなはだしい国益論
日経社説の見出しは<国益を損なう「原発ゼロ」には異議がある>となっている。ここで使われている「国益」とは何を意味するのか。辞書によれば「国家の利益」である。市民、民衆、大衆の意志、希望である脱原発に背を向けるのが目下の「国益」という認識らしい。しかしこういう国益論を今振りかざすのは、いささか古すぎないか。国益論で脱原発の動きを封じ込めようとするのはしょせん時代錯誤の所業にすぎない。


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辻井喬の「入亜脱従属」論を読んで
カギは平和憲法理念の活用にこそ

安原和雄
 詩人、作家の辻井 喬の「入亜脱従属」論が示唆に富む。アジアの大国・中国と日米安保体制下の同盟国・アメリカ、この両大国と日本は今後どう付き合っていくのが望ましいかがテーマとなっている。「入亜脱従属」論が示唆するところは、日本の進むべき道として、中国との交流を深めながら、一方、日米安保体制からどう離脱を図っていくかである。
 実現のカギとなるのがわが国平和憲法の理念をどう活用するかである。そのためには「日米安保体制があるから安心という時代は終わり、わが国は独立国としてどのような判断と政策を持つべきか」が重要と問いかけている。(2012年9月8日掲載。公共空間「ちきゅう座」、インターネット新聞「日刊ベリタ」に転載)

(1)辻井 喬の<「入亜脱従属」の構想>

 論壇月刊誌『世界』(2012年10月号・岩波書店刊)の特集「日中国交回復40年 ― 対立を越えるために」の一つ、辻井喬(注1)論文<新世紀の日中関係への展望―「入亜脱従属」の構想>に注目したい。
(注1)つじい・たかし=詩人、作家。1927年東京生まれ。日本芸術院賞などを受賞。日本文藝家協会副理事長、日本中国文化交流協会会長など。

<「入亜脱従属」の構想>の要点を、以下紹介する。
 政治体制はそのままに、新しく市場主義を導入することに成功した中国の経済は、新世紀に入って大いに躍進している。
 一方、世界の旧来の自由市場経済は、グローバリズムの負の影響もあって行き詰まっている。第二次世界大戦後の″秩序″と考えられてきた、アメリカを唯一の超大国とし、アメリカ通貨を世界の基軸通貨とする体制の矛盾は、アジア諸国の経済発展、イスラム諸国の民主化などの結果、大きく変わる必要が唱えられるようになった。
 世界はいま、「戦争と革命の世紀」と呼ばれる百年の後で、新しい秩序を模索していると言っていいのかもしれない。
 その中で中国が採用している社会主義市場経済の成功は、世界の指導者の強い関心の的になっている。
(中略)
 中国経済の大躍進は、経済のみならず日中関係の外交、産業、個別政策、文化交流等の分野に大きな影響を及ぼす時代に入っていることが分かる。アメリカとの間に安全保障条約があるから安心であるとしていた時代は終わり、わが国は独立国としてどのような判断と政策を持っていなければならないかが問われる時代に入ったと考えるべきではないか。
 その際、経済大国として平和憲法を持っているのはわが国だけということが、諸種の判断の大きな砦であることを強調しておきたい。この平和憲法の下にあってこそ、わが国がもう一度アジアのなかのひとつの国として参入することが可能になると言っていい。
 それをスローガン的に言えば、「入亜脱従属」の時代に入った。逆の方向から言えばアジアのなかの一員になりながら、平和的な独立性を持った国となるためにこそ、現在の平和憲法は有用であるということであるだろうか。

(2)堤 清二の構想<″市民の国家″に改造を>

 毎日新聞経済部編『揺らぐ日本株式会社 政官財50人の証言』(1975年毎日新聞社刊)にはわが国政官財の有力者50人とのインタビュー記事が掲載されている。今から40年近くも前のインタビューは、当時毎日新聞経済記者だった私(安原)が主として担当した。証言者の一人として堤 清二(注2)が登場している。
(注2)つつみ・せいじ=インタビュー当時、西武百貨店社長、西友ストアー会長など西部流通グループの代表。当時の若手財界人の中では体制内反逆者ともいえる特異な存在として知られていた。

 堤発言の要点は以下の通り。
 このインタビュー記事はかなり長文であり、記事中の小見出しも「″市民の国家″に改造を」、「経済界は没落の一途」、「自己の陣営に厳しく」となっている。ここでは市民国家論の骨子を、安原との一問一答形式で紹介する。

安原:企業の社会的責任が経営者の基本的行動様式の基準になり得なかったとあなたは指摘している。それは日本産業風土の特殊性によるものか、それとも資本主義体制の本質的欠陥が出てきたものと考えるか。
堤:それに答えるのは、実はこわい。資本主義が社会的有用性を持っていたころはプラスの役割を果たした。しかし現在、資本主義の社会的な役割は一段階を終えたのではないかというイヤな予感がする。新しい時代の資本主義に関するビジョンが生まれない限り、今日みられるデメリット(欠陥)が出続ける危険性がある。公害、インフレ、資源問題などがそのデメリットで、これはケインズ経済学の破産にもつながっていく問題だ。

安原:公取委の大企業分割論など独禁法強化の動きに対し、経済界は「今の自由主義経済にとって自殺行為」と反対している。独禁法強化は日本資本主義の延命策であるはずだが、経済界の目にはそうではないと映るらしい。これでは経済界はかつての公害問題で犯したのと同じ愚を繰り返すのではないか。
堤:まさにその通りだ。資本主義の役割が一段階終わったとすると、次の資本主義は混合経済だろう。公経済の分野がひろがって、それと私経済との混合による新しい資本主義になっているのに、日本の経営者はいまなおアダム・スミス当時の自由主義経済を頭に描いている。財界だけがタイム・カプセルに入って凍結されていたわけだ。
しかしアダム・スミスを読み直してみると、スミスさえ、自由競争には限界があるとして、企業家の自己抑制などの必要を強調している。日本のえらい方は自己流にスミスを読み違えているとしか思えない。とにかく自由にやらせるのが自由主義経済だといっていたのでは大衆から見放される。

安原:公経済の分野が広がっているということだが、どの程度の公権力の介入ならよいと考えるか。
堤:いまの国家は、市民社会のための装置だ、という認識をもつべきだ。市民社会のための政府であれば、介入も市民社会のための介入になるので、企業にとっても歓迎すべき介入になるはずだ。介入が是か非かではなく、介入する国家の体質が市民社会のためになっているかどうかが問題だ。しかしいまの政府が現実にそうなっているとは思えないので、市民社会のための国家に改造していく必要がある。そして介入の仕方、分野、度合いについて介入を認める立場で注文をつけていく。

<安原の感想> 「入亜脱従属」のカギは平和憲法の活用
 辻井 喬に続いてなぜ堤 清二が登場してくるのか。ご存知の方には蛇足とも言えるが、両者は同一人物で、本名・堤のペンネームが辻井である。同一人物というだけではない。辻井の最新の<「入亜脱従属」の構想>は、実は堤の40年も前の「市民国家論」をさらに発展させたものとも評価できるからである。
 かつて堤が説いた市民国家論は「市民のための国家」であり、言い換えれば、「資本主義のための国家」ではない。また資本主義を担う「企業家たちのための国家」でもない。そういう含意の市民国家論が21世紀の今、<「入亜脱従属」の構想>として発展した姿形でよみがえってきたと受け止めたい。

 しかも<「入亜脱従属」の構想>は「アメリカとの間に安全保障条約があるから安心であるとしていた時代は終わり、わが国は独立国としてどのような判断と政策を持つかが問われる時代に入った」という、まさに今日的な新しい状況認識に立って打ち出されている点に着目したい。
 その<「入亜脱従属」の構想>の具体的な柱として次の諸点を挙げることができる。
・経済大国として平和憲法を持っているのはわが国だけということ。
・それが諸種の判断の大きな砦であること。
・平和憲法の下でこそ、わが国がもう一度アジアのなかのひとつの国として参入することが可能になること。
・平和的な独立性を持った国となるためにこそ、平和憲法は有用であること。

 以上から読み取れるのは、反戦・平和を目指すわが国平和憲法の存在価値を高く評価すると同時に「入亜脱従属」のカギは平和憲法の活用にかかっていることを力説し、さらに脱「日米安保体制」をも示唆していることである。これらの諸点を見逃すことはできない。


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消費税上げをめぐる朝日記者対論
「増税は深刻な事態招く」に軍配

安原 和雄
同じ新聞社内の記者が実名で賛否を論じ合うのは珍しい。朝日新聞は消費税引き上げを巡って記者対論を実践した。批判派は「消費増税は深刻な事態を招く」と論じ、一方容認派は「消費増税を先送りする口実は、もう許されない」と譲らない。 
 私自身、現役経済記者時代には覆面座談会は何度も試みたが、そういう紙面作りから大きく踏み出して、消費税問題担当のベテラン記者が名乗りを上げて議論し、賛否の主張を明確にする姿勢は評価に値する。私としては批判派に軍配を挙げたい。(2012年8月31日掲載。公共空間「ちきゅう座」、インターネット新聞「日刊ベリタ」に転載)

朝日新聞(8月29日付)が消費税引き上げについて新しい紙面作りを試みている。題して「消費増税どう考える 本社論説委員と経済部デスクが議論」で、引き上げ賛成派は田中雄一郎・論説委員、反対派は大海英史・経済部次長(デスク)。
議論の主な内容は「家計への負担」、「景気への影響」、「今後の見通し」などで、以下、見出しと議論の大意を紹介する。なお(1)(2)(3)の見出しは紙面上のそれと同一とは限らない。

(1)デフレ下の増税は深刻な事態招く(反対派・経済部デスク)、もう先送りは許されない(賛成派・論説委員)

経済部デスク:社会保障の維持と財政再建は必要だが、「まず消費増税」でいいのか。国民の暮らしの目線から考えると、問題が多すぎる。
まず多くの家庭が負担増に耐えられるのか。大和総研の試算を紹介したい。4人家族で年収500万円の場合、消費税率が10%になった後の2016年は11年に比べて年間約33万円も負担が増える。この金額は給与が1カ月分なくなるほど重い。75歳以上の夫婦で年収240万円なら約14万円の負担増だ。
論説委員:最も気にかけるべきは、働く現役世代のうち、中・低所得の家庭への影響だろう。経済を活性化して所得を増やし、無職や非正規労働の人たちがしっかりした仕事につけるよう経済・雇用政策が重要だ。規制緩和の徹底や予算配分の見直しが不可欠だ。

経済部デスク:増税よりもそちらが先ではないのか。
論説委員:政府の取り組みが不十分なのは、その通りだ。でも逆に尋ねたい。いつになったら増税できるのか。「まず経済を立て直せ」、「行政改革でムダを削るのが先」との主張はもっともだが、増税を先送りする口実にもなってきた。もう許されない。
日本の財政状況は、危機に見舞われた欧州各国よりもひどい。「日本の国債は日本の金融機関が主に買っているから大丈夫」と言われるが、ひとたび危ないとみれば容赦なく売るだろう。国債が急落して金利が上昇すれば、暮らしも財政の立て直しもますます苦しくなる。だから社説では「経済再生、行革と増税を同時並行で進めよ」と主張している。

経済部デスク:消費増税が財政再建につながるということ自体が疑わしい。増税で景気が悪化すれば、税収が減るおそれがある。(中略)国内ではデフレが続いている。特に地方は工場が撤退して雇用が失われており、増税は深刻な事態を招く。

(2)歳出削減の計画を示せ(経済部デスク)、最大の弱者はツケを回される将来世代(論説委員)

経済部デスク:負担増を国民に求めるなら、歳出削減について基本計画を立て、毎年の借金(国債)をこれだけ減らしていくという約束が欠かせない。そこを決めずに増税すると、税収が増えた分だけ都合良く使う「財政のモラルハザード(規律の欠如)」が起きる。心配していたら、案の定だ。
論説委員:民主、自民、公明3党がそろって公共事業の拡充に動き出したことだね。
経済部デスク:そうだ。消費増税は借金を減らすのが大きな目的なのに、法律の付則に「増税で財政にゆとりができた分、防災などの分野に資金を重点的に配分する」という項目が入った。
論説委員:防災は重要だが、各党の姿勢は「はじめに金額ありき」。近づく総選挙への対策なのだろう。民主党政権も、整備新幹線の新規着工や高速道路の凍結区間の工事再開など、大型事業を次々と決めてきた。バブル崩壊後の景気対策で公共事業をやみくもに増やし、財政の悪化を招いた反省はどこへいったのか。またばらまくのなら、消費増税などしない方がましだ。
経済部デスク:だから安易に増税を認めちゃだめなんだ。

論説委員:歳出の見直しといえば、最大の課題は国の一般会計予算の3割、26兆円余りを占める社会保障費だ。高齢化に伴い毎年1兆円前後増えていく。どう考えるか。
経済部デスク:年金や医療、介護などの将来像をはっきりさせ、「これだけのお金が必要だから増税したい」と訴えるべきだ。社会保障費は抑えざるをえないだろうが、将来像がなければどうなるか。来年度の予算編成では生活保護費が削減の標的にされている。日本医師会と切り結んでも診療報酬を下げるという覚悟は示さず、結局は削りやすい弱者にしわ寄せがいく。
論説委員:その点は私も懸念する。最大の弱者は、声も上げられず、私たちが使うお金のツケを回される将来世代だ。

(3)消費税は社会保障財源にふさわしい(論説委員)、裕福な人にもっと負担して貰う(経済部デスク)

論説委員:消費税は、誰もが消費に応じて負担すること、その結果、税収が安定していることが特徴だ。だから皆で支えあう社会保障の財源にふさわしい。
経済部デスク:消費税以外の税が手つかずなのが問題だ。具体的には所得税や相続税の扱いだ。収入や財産が多い人が税金も多く払う。それが社会保障に回り、お年寄りや収入の少ない人たちを支える。そうした「再分配」機能が重要だ。
論説委員:消費税には、所得の少ない人ほど負担割合が高くなる「逆進性」がある。それを補うため、他の税による再分配が欠かせないのは確かだ。
経済部デスク:消費増税で中・低所得者の生活は苦しくなる。ゆとりある人の増税を避けるのは不公平だ。
論説委員:所得税と相続税の強化は賛成だ。ただ、「社会保障の財源は所得税や相続税でまかなえばよい」との意見には注意する必要がある。消費税5%分、13.5兆円の税収を得るには、所得税ならすべての納税者の税率を2倍にしなければならない。相続税は税収自体が1.4兆円ほどにすぎず、やはり限界がある。

経済部デスク:消費増税はいずれ避けられないと思う。しかし国民が納得できる手順を欠いたまま、「決める政治」と言われても信頼は得られない。消費増税の前に、既得権益に切り込んで歳出を減らす。裕福な人にもっと負担してもらう。そうしないと政治不信がますます強まり、負担増は難しくなる一方だ。
論説委員:国と地方の借金残高は1千兆円に近づき、我が国の経済規模の2倍。10%への消費増税でも財政再建は道半ばだ。増税が遅れると、その分、将来の負担が重くなってしまう。もちろん、歳出の見直しや税収増につながる経済活性化策に政府がどこまで踏み込んでいるか、しっかり目を光らせていく。

<安原の感想> 反「新自由主義=市場原理主義」に軍配
ユニークな社内記者対談である。しかも相反する意見の持ち主、すなわち「新自由主義=市場原理主義」派と反「新自由主義=市場原理主義」派による言論戦である。どちらに軍配を挙げたらいいのか。私(安原)としては、やはり後者の反「新自由主義=市場原理主義」派を支持したい。言い換えれば、論説委員説よりも経済部デスクの主張に親近感を覚える。

まず論説委員は消費増税に関連して以下のように指摘している。「新自由主義=市場原理主義」の合い言葉は「規制緩和」と「増税」である。まず増税を、の印象が強い。
・規制緩和の徹底
・いつになったら増税できるのか。
・増税を先送りする口実は、もう許されない。

一方、経済部デスクは消費増税について次のように主張している。
・「まず消費増税」でいいのか。国民の暮らしの目線から考えると、問題が多すぎる。多くの家庭が負担増に耐えられるのか。
・来年度の予算編成では生活保護費が削減の標的にされている。結局は削りやすい弱者にしわ寄せがいく。
・収入や財産が多い人が税金も多く払う。それが社会保障に回り、お年寄りや収入の少ない人たちを支える。そうした「再分配」機能が重要だ。
・消費増税の前に、既得権益に切り込んで歳出を減らす。裕福な人にもっと負担してもらう。そうしないと政治不信がますます強まる。

反「消費増税」のキーワードは「国民の暮らしの目線」、「家庭が負担増に耐えられるか」、「弱者にしわ寄せ」、「収入や財産が多い人が税金も多く」などである。こういう視点を大事と考え、実践や変革に移す工夫をするのが反「新自由主義=市場原理主義」にほかならない。


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日本再生の道―お任せ主義 さらば
戦後67年の終戦記念日に想うこと

安原和雄
戦後67年目の終戦記念日「8.15」が巡ってきた。大手メディアの社説を読んでみたが、そこには生気の乏しい停滞感が漂っている。その中で読むに値するのは東京新聞である。社説「未来世代へ責任がある/戦争と原発に向き合う」と同時に大特集「日本再生の道 ― お任せ主義 さらば」を掲載している。
 その社説や大特集に浮かび上がってくるテーマは、脱原発、脱経済成長であり、さらに<日本流の「無責任の体系」を変えられるか>、<デモの中から模索する「日本再生の道」>である。これを手がかりに日本の今後の望ましい進路を考える。(2012年8月17日掲載。公共空間「ちきゅう座」、インターネット新聞「日刊ベリタ」に転載)

▽ 終戦記念日にメディア社説は何を論じたか

 終戦記念日の8月15日付の大手メディア社説は何を論じたか。これまで各紙共に毎年終戦記念日の社説では戦争・反戦・平和問題を辛抱強く取り上げてきたが、この調子では「戦後100年」の「終戦記念日」も、相変わらず社説で論じるのだろうか。それに異議を申し立てる必要はないとしても、ここら辺りで呼称の変更も含めて発想の転換が必要ではないか。例えば発展志向の「平和記念日」に。

終戦記念日の大手メディアの社説は以下の通り。
*東京新聞=未来世代へ責任がある/戦争と原発に向き合う
*朝日新聞=グローバル化と歴史問題/戦後67年の東アジア
*毎日新聞=体験をどう語り継ぐか/終戦記念日に考える
*読売新聞=「史実」の国際理解を広げたい/日本の発信・説得力が問われる
*日本経済新聞=「いつか来た道」にならないために
なお東京新聞社説は16日付でも「実感される平和とは/戦争と原発に向き合う」と題して論じている。

5紙社説の読後の率直な印象をいえば、何を主張したいのか、その趣旨の不分明な内容が少なくない。ここでは一つひとつの社説の紹介は省略して、東京新聞の社説(15日付)に限って紹介する。その大要は以下の通り。

 毎週金曜夜に恒例となった首相官邸前の反原発デモは、ロンドン五輪の晩も、消費税増税法成立の夜も数万の人を集めて、収束どころか拡大の気配です。政府の全国十一市でのエネルギー政策意見聴取会でも原発ゼロが七割で「即廃炉」意見も多数でした。
 二〇三〇年の原発比率をどうするのか。原発ゼロの選択は、われわれの価値観と生活スタイルを根元から変えることをも意味します。その勇気と気概、覚悟があるか、試されようとしています。

(内なる成長信仰なお)
 それまで散発的だった各地の反原発抗議行動の火に油を注いだのは、関西電力大飯原発の再稼働を表明した野田佳彦首相の六月八日の記者会見でした。安全確認がおざなりなうえに、「原発を止めたままでは日本の社会は立ちゆかない」と、再稼働の理由が経済成長と原発推進という従来の国策のまま。「夏場限定の再稼働では国民の生活は守れない」とまで踏み込んでいました。
(中略)フクシマ後も、われわれの内なる成長信仰は容易には変わらないようです。

(倫理と規範と人の道)
 経済以上に忘れてはならない大切なものがあります。倫理や規範、あるいは人の道です。作家村上春樹さんは、昨年六月、スペイン・バルセロナのカタルーニャ国際賞授賞式のスピーチで、福島原発事故をめぐって「原発を許した我々は被害者であると同時に加害者。そのことを厳しく見つめなおさないと同じ失敗を繰り返す」と語りました。

 村上さんの悔恨は、急速な経済発展の途上で、「効率」という安易な基準に流され、大事な道筋を見失ってしまったことでした。核爆弾を投下された国民として技術と叡智(えいち)を結集、原発に代わるエネルギーを国家レベルで追求、開発する。それを日本の戦後の歩みの中心命題に据えるべきだった。そんな骨太の倫理と規範、社会的メッセージが必要だった。世界に貢献できる機会になったはずだったというのです。

 日本の原発は老朽化の末期症状から大事故の危険性があり、廃炉の研究も十分には進んでいません。毎日大量に生み出される低レベル放射性廃棄物で三百年、高レベルだと十万年の厳重な隔離管理が必要です。人知が及ばない時空、利便や快適な生活のために危険な放射性廃棄物を垂れ流しているとすれば、脱原発こそが、われわれの未来世代に対する倫理であり、人の道だと思えるのです。

(成長から脱成長へ)
 千年に一度の大震災と原発事故は、人々を打ちのめしましたが、日本が受け入れてきた西洋文明や思想、科学技術について考える機会ともなりました。文明の転換期のようです。成長から脱成長の時代へ。

<安原の読後感> 多様な脱原発への道を求めて
 東京新聞社説のユニークなところは、経済成長を批判しながらも従来型の成長批判にとどまってはいない点である。脱原発のためには脱経済成長も不可欠である。しかし脱成長で世論の足並みが揃っているわけではない。そこで脱原発のための新しい尺度が求められる。それが社説の説く「倫理、規範、人の道」である。
 これはたしかに新しい脱原発論と言える。ただ大事なことは「脱成長」か「倫理、規範、人の道」か、という二者択一ではないだろう。両者を共に視野に収めて、多様な脱原発への道を求めていくことこそが必要とは言えないか。

▽ 澤地:松本対談「お任せ主義 さらば」を読んで

 東京新聞(8月15日付)は、2頁全面を埋め尽くした対談を載せている。そのタイトルは<戦後67年 日本再生の道>で、内容は「素人デモ 希望を託す」、「お任せ主義 さらば」からなっている。登場人物は作家の澤地久枝さん(注1)とリサイクルショップ「素人の乱」5号店店主の松本哉(注2)さん。対談のうち、「お任せ主義 さらば」を中心にその大意を、私(安原)なりの理解による(1)日本流の「無責任の体系」を変えられるか(2)混沌の中から新しいものを生み出していく― の2本柱で以下、紹介する。

(注1)澤地久枝さんは1930年東京生まれ。中央公論社を経て作家に。著作は「妻たちの二・二六事件」、「密約 外務省機密漏洩事件」など多数。原発事故後「さようなら原発集会」の呼びかけ人となる。
(注2)松本哉(はじめ)さんは、1974年東京生まれ。大学卒業とともに「貧乏人大反乱集団」を結成。東京・高円寺を中心にした風変わりな街頭デモが知られるようになる。著書に「貧乏人の逆襲!」。

(1)日本流の「無責任の体系」を変えられるか
澤地:敗戦の時に世直しができなかったのは、戦争に負けた責任をあいまいにしたからです。「一億総懺悔(ざんげ)」という言葉が象徴的です。
戦争責任は、九九対一ぐらいの圧倒的な差で国のトップにあるのに、国民みんなが同じように懺悔しなければならない、というふうに言った。それで昭和天皇の責任は問われなかった。政治学者の丸山真男さんがいう「無責任の体系」が戦後政治に後を引いていくことになります。
今度の原発事故も誰も責任を取っていません。今度こそ原発依存体制をつくってきた政府や企業の責任はっきりさせないと。私は日本が世界に先駆けて、原発を含めて核に依存するものと一切縁を切る国になったらいいと思う。
松本:原爆を落とされた国です。本来なら、そんな国にならないといけない。

澤地:今、脱原発デモが盛んなのは、高度成長期から経済の長い停滞が続き、みんなが中流と思う社会構造が崩れている、実生活で追い詰められている、という条件が重なってのこと。日本はもう負けを認め、バンザイしたらいいと思う。でも日本人には負けを認めたくないという思考がある。
松本:それはどういうことですか。
澤地:撤退が苦手ということなんです。太平洋戦争で言えば、開戦から半年後に大敗し、その後も負けが続く。日本軍は補給のことは考えていなかった。負け戦の情報を陸軍と海軍で共有しない。こんなばかげたことが、終戦になるまで、延々と行われていた。

松本:経済成長にしがみつく今も似ていませんか。バブル崩壊で破綻したのに、まだ成長できると突き進み、そして原発事故です。それでも「成長、成長」と言っている。いつ負けに気づくんですかね。
澤地:過去の過ちから学んで決断する、その勇気がない。原発だって全部止められる。だけど誰が責任者か分からない。歴史を転換させるためには今度こそ負けを認めるべきです。

<安原の感想> 原発事故の責任は「負けを認めること」
 ここでのテーマは、日本流の「無責任の体系」、つまり失敗や事故の責任を誰も取ろうとはしないという悪しき伝統は変わるのか、それとも変わらないのか、だ。その答えは変えるべきである。自然に変わるわけではないのだから、意図して変革しなければならない。
 そのためには澤地さんが指摘している「今度こそ原発依存体制をつくってきた政府や企業の責任はっきりさせること」が不可欠である。それに松本さんの「まだ成長できると突き進み、そして原発事故。いつ負けに気づくのか」も重要だ。特に「負けを認める」という姿勢はこれまでにはない新しい視点といえる。そこから新しい出口を求めていく。

(2)混沌の中から新しいものを生み出していく
松本:原発みたいに嫌なものには嫌だと言って、自分たちの手で生活圏をどれだけ作れるかということが初めて問われている気がする。地域での人間関係や居場所づくりとか、を放棄しないでいけば、世の中を変えられるんじゃないか。
日本中の僕と同世代の人たちが面白い場所をつくっている。カフェとか、飲み屋とか、アートスペースとか。非正規雇用が増えた九〇年代にフリーターをしていた人が、自由に生きた経験から、この五年ほどでいろんな場所を作り、コミュニケーションの拠点になっている。
高度成長期から失ってきた地域のつながりとか、居場所といったものを若い人がもう一度つくり始めている。これは大きな希望じゃないか。
澤地:これまでの世の中のあり方からみれば、はみ出したように見えていた人の方が、重要だという時代になってきた。孤立してつぶされるんじゃなくて、広がっていく時代なんですね。

松本:社会主義も資本主義も結局は、強大なシステムです。これまでそのシステムに自分を任せようとしていたんじゃないですか。僕らは散々、お上に切り捨てられた世代だから、「自分たちでやる」「人任せは無理だよ」と思っている。
この前のデモには、百二歳のおばあちゃんが車いすで参加してくれました。うれしかったですね。
澤地:そういうつながり、いいわね。日頃の付き合いからデモをやれるのが一番。ご近所さんで声掛け合って「ちょっと行ってきます」みたいな感じでね。

松本:僕は混沌とした中(なか)じゃないと、新しいものは生まれないと思う。すべてが整然とした世の中が嫌で嫌で。世の中がよくなったとしても、みんなが同じ考えや意見を言っているのは、意持ちが悪い。いつだって間違ったことを言う人がいて、だらしない人もいる方が本当はいいんです。
澤地:それが人間社会でしょ。みんながビシッと同じになったらおかしい。
松本:日本の脱原発運動も脱原発で一つになれるのなら、いろんな立場や考え方の人がどんどん集まってほしい。みんなで、ガチャガチャ言い合いながら。
脱原発に揺れている人は大勢います。原発は危ないと心配しながらも、脱原発の生活が見えないから原発推進側に取り込まれてしまう。だからこそ、僕らは安心して子供を育てられて、老後も不安のない、持続可能な生き方をやる。そんな生き方が世の中で大きく見えてきたら、揺れている人も脱原発に傾いてくるんじゃないですか。
有象無象がガチャガチャと、何回でもデモをやんなくちゃいけない、そういう時代です。

<安原の感想> デモの中から模索する「日本再生の道」
 ここでは松本節(ぶし)が自由奔放にはじけているという印象がある。例えば次のようである。
・僕は混沌とした中じゃないと、新しいものは生まれないと思う。
・いつだって間違ったことを言う人がいて、だらしない人もいる方が本当はいいんです。
・有象無象がガチャガチャと、何回でもデモをやんなくちゃいけない、そういう時代です。

 「混沌とした中」、「間違ったことを言う人」、「だらしない人もいる」、「有象無象がガチャガチャと」などの発言は従来の有識者には縁遠い。それをためらいもなく、言ってのける辺りは、新しい風を感じる。しかもこれらの発言は単なる思いつきではない。
 上述の「僕らは安心して子供を育てられて、老後も不安のない、持続可能な生き方をやる」という発言から分かるように「持続可能な生き方」をキーワードにした生活信条は地に足が着いている。言い換えれば、デモの中から「日本再生の道」を模索する新しい挑戦でもあるのだろう。


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「核と人類は共存できぬ」を掲げて
広島・長崎の平和宣言は訴える

安原和雄
 例年のこととはいえ、8月の広島・長崎の平和宣言には耳を傾けないわけにはゆかない。本年の平和宣言は何を訴えたか。広島では「核と人類は共存できない」という人類としての悲願を前年に続いて強調した。何度繰り返しても過ぎることのない悲願である。
 一方、長崎では「長崎を核兵器で攻撃された最後の都市」にするための具体策として「北東アジア非核兵器地帯」実現を説いた。これも目新しい提言とは言えないが、繰り返し強調することに遠慮は禁物である。脱原発と同様に核兵器廃絶も、その実現には想像を超える持続力が求められる。(2012年8月9日掲載。公共空間「ちきゅう座」、インターネット新聞「日刊ベリタ」に転載)

▽ 広島平和宣言(要点)― 議論進む「核と人類は共存できない」

広島平和宣言は2012年8月6日、広島市の平和式典で松井一実市長によって読み上げられた。その要点は以下の通り。

世界中の皆さん、とりわけ核兵器を保有する国の為政者の皆さん、被爆地で平和について考えるため、是非とも広島を訪れてください。

平和市長会議は今年、設立30周年を迎えました。2020年までの核兵器廃絶を目指す加盟都市は5,300を超え、約10億人の市民を擁する会議へと成長しています。その平和市長会議の総会を来年8月に広島で開催します。核兵器禁止条約の締結、さらには核兵器廃絶の実現を願う圧倒的多数の市民の声が発信されることになります。
核兵器廃絶の願いや決意は、必ずや、広島を起点として全世界に広がり、世界恒久平和に結実するものと信じています。

2011年3月11日は、自然災害に原子力発電所の事故が重なる未曾有の大惨事が発生した、人類にとって忘れ難い日となりました。今も苦しい生活を強いられながらも、前向きに生きようとする被災者の皆さんの姿は、67年前のあの日を経験したヒロシマの人々と重なります。皆さん、必ず訪れる明日への希望を信じてください。私たちの心は、皆さんと共にあります。

あの忌まわしい事故を教訓とし、我が国のエネルギー政策について、「核と人類は共存できない」という訴えのほか様々な声を反映した国民的議論が進められています。日本政府は、市民の暮らしと安全を守るためのエネルギー政策を一刻も早く確立してください。また、唯一の被爆国としてヒロシマ・ナガサキと思いを共有し、さらに、私たちの住む北東アジアに不安定な情勢が見られることをしっかり認識した上で、核兵器廃絶に向けリーダーシップを一層発揮してください。

<安原の感想> 原発も核兵器同様に「いのち」への脅威
「核と人類は共存できない」というキーワードは昨年の広島平和宣言でも指摘された。今回で二度目の登場である。時代の苦悩と願望を端的に表現するこのキーワードは、平和運動を率いた被爆者、故森滝市郎氏の言葉とされる(8月6日付毎日新聞社説<原爆の日/「核との共存」問い直そう>から)。
「核と人類は共存できない」という認識を前提にするからには、そこから導き出される提言は自ずから定まってくる。その一つは核兵器廃絶であり、もう一つは脱原発である。ところが広島平和宣言は前者の「核兵器廃絶」については明言しているが、後者の「脱原発」の表現は避けている。以下のように指摘するにとどまっている。
「日本政府は、市民の暮らしと安全を守るためのエネルギー政策を一刻も早く確立してください」と。

ここには何度読み返してみても「脱原発」の文言は読み取れない。原爆にからむ平和宣言の中で脱原発を明言することは「広島市長としての立場」を超えているという配慮なのだろうか。それは「過剰配慮」とはいえないか。
平和とは、単に戦争がない状態を意味するにとどまらない。広く「いのち」(生命)を尊重し、守るという意と理解したい。こういう平和観に立てば、核兵器も原発も「いのち」への脅威であることに変わりはない。「過剰配慮」はこの際、返上して欲しい。

▽ 長崎平和宣言(要点)― 「北東アジア非核兵器地帯」実現を

長崎平和宣言は2012年8月9日、長崎市の平和式典で田上富久市長によって行われた。その要点は以下の通り。

 世界には今も1万9千発の核兵器が存在しています。地球に住む私たちは数分で核戦争が始まるかもしれない危険性の中で生きています。
 長崎を核兵器で攻撃された最後の都市にするためには、核兵器による攻撃はもちろん、開発から配備にいたるまですべてを明確に禁止しなければなりません。「核不拡散条約(NPT)」を越える新たな仕組みが求められています。

 その一つが「核兵器禁止条約(NWC)」です。2008年には国連の潘基文事務総長がその必要性を訴え、2010年の「核不拡散条約(NPT)再検討会議」の最終文書でも初めて言及されました。今こそ、国際社会はその締結に向けて具体的な一歩を踏み出すべきです。

 「非核兵器地帯」の取り組みも現実的で具体的な方法です。すでに南半球の陸地のほとんどは非核兵器地帯になっています。今年は中東非核兵器地帯の創設に向けた会議開催の努力が続けられています。私たちはこれまでも「北東アジア非核兵器地帯」への取り組みをいくどとなく日本政府に求めてきました。政府は非核三原則の法制化とともにこうした取り組みを推進して、北朝鮮の核兵器をめぐる深刻な事態の打開に挑み、被爆国としてのリーダーシップを発揮すべきです。

 核兵器は他国への不信感と恐怖、そして力による支配という考えから生まれました。次の世代がそれとは逆に相互の信頼と安心感、そして共生という考えに基づいて社会をつくり動かすことができるように、長崎は平和教育と国際理解教育にも力を注いでいきます。

 東京電力福島第一原子力発電所の事故は世界を震撼させました。福島で放射能の不安に脅える日々が今も続いていることに私たちは心を痛めています。長崎市民はこれからも福島に寄り添い、応援し続けます。

<安原の感想> 長崎を核兵器で攻撃された最後の都市に
「長崎を核兵器で攻撃された最後の都市」にするためには何が求められるか。いうまでもなく核兵器の廃絶である。しかしこの廃絶が難問である。廃絶への道筋を長崎平和宣言は具体的に指摘している。
まず現行の「核不拡散条約(NPT)」は核の廃絶のためには有効ではない。だからそれを越える以下のような新たな仕組みが求められる。
・「核兵器禁止条約(NWC)」の締結
・「非核兵器地帯」の実現=「北東アジア非核兵器地帯」への取り組みなど
・日本の非核三原則の法制化(三原則は核兵器を持たず、作らず、持ち込ませず、とする日本政府の基本方針。昭和43=1968年佐藤栄作首相が国会で言明。ただし米軍の核兵器を「持ち込ませず」は有名無実化されてきた。法制化は骨抜きを防ぐ手段として有効)

野田首相は広島、長崎平和式典に出席し、「首相あいさつ」の中で次のように述べた。<「核兵器のない世界」をめざして「行動」する情熱を世界中に広めていくこと、非核三原則を堅持していくことを改めて誓う>など。しかしこれと同じようなセリフは例年歴代首相が記念式典で述べてきたもので、誠意の欠落した挨拶の見本といえる。

首相の挨拶よりも、長崎市長の次の指摘に期待をかけたい。
「核兵器は他国への不信感と恐怖、そして力による支配という考えから生まれました。次の世代がそれとは逆に相互の信頼と安心感、そして共生という考えに基づいて社会をつくり動かすことができるように、長崎は平和教育と国際理解教育にも力を注いでいきます」と。ここには21世紀のキーワードともいうべき「相互の信頼と安心感、そして共生」、とくに対立を超える「共生」の感覚がどこまで広がっていくかに注目したい。


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諸悪の根源「日米安保」に着目しよう
野田首相を金縛り状態にしている背景

安原 和雄
 米海兵隊の垂直離着陸輸送機オスプレイ配備に向けたデモ隊の「反対の叫び」を聴きながら、もどかしさを抑えることができない。なぜなのか。それは日本の政治経済を律している「日米安保」の存在が必ずしも国民、市民の間の共通認識になっていないからである。
 野田首相は「日米安保」の僕(しもべ)として金縛り状態に陥っている。一方、メディアの姿勢も日米同盟批判派から同盟堅持派、同盟懸念派などに至るまで四分五裂の状態で、「日米安保」への批判で一貫しているわけではない。諸悪の根源としての「日米安保」に今こそ着目するときである。(2012年7月26日掲載。公共空間「ちきゅう座」、インターネット新聞「日刊ベリタ」に転載)

 米海兵隊の垂直離着陸輸送機MV22オスプレイが7月23日米海兵隊岩国基地に陸揚げされた。この新事態に市民、民衆の大きな反対、疑問の声が響き渡っている。
琉球新報(沖縄)と大手紙(本土)社説はどう論じたか。まず社説の見出しを紹介する。
*琉球新報社説(7月24日)=オスプレイ陸揚げ/国民を脅かし安保か 日米関係破壊する愚行
*東京新聞社説(同上)=オスプレイ搬入/米政府になぜ物言わぬ
*朝日新聞社説(同上)=オスプレイ配備/強行は米にも不利益
*日本経済新聞社説(同上)=国はオスプレイの安全確認に力を尽くせ
*読売新聞社説(7月25日)=オスプレイ搬入/日米は同盟悪化避ける努力を
*毎日新聞社説(7月21日)=オスプレイ/米国にモノ言わぬ首相
なお毎日新聞社説は24~26日には社説で改めて論じてはいない。

 以下、上述の各紙社説の要点を日米安保との関連でどう論じているかを中心に紹介する。

(1)琉球新報=日米安保そのものに欠陥があり、改定を米側に提起するのが筋
・国民の命と暮らしを脅かし、破壊しかねない暴挙と言うほかない。このような本末転倒な安全保障政策が許されていいはずがない。
・森本敏防衛相は、普天間で10月から本格運用する米政府の計画の見直しを求める考えがないことをあらためて強調した。森本氏は「抑止力に穴をあけてはいけない」とも述べた。
・これでは安全性をおざなりにしたまま再稼働を強行した原発政策と何ら変わりはない。
・日本政府は「口出しする権利がない」とするが、これは統治能力を放棄するにも等しい。日米安全保障条約の事前協議制度は日本側の発言権を確保するためにあるが、事前協議の対象となる「装備の重要な変更」と主張できない根拠は何なのか、明確に説明すべきだ。仮に事前協議の対象でないとするならば、日米安保そのものに欠陥があるのであり、改定を米側に提起するのが筋だろう。

<安原の短評> 琉球新報社説は日米安保改定派
 巨大な米軍基地の存在に苦しむ沖縄の新聞らしく日米安保改定論を持ち出している。日米安保条約が米軍基地の存在を許容しているからである。基地問題を打開するには日米安保の是非そのものに目を向ける安保改定派となるほかない。沖縄では「反安保」志向は日常の感覚といえるのではないか。ここが本土の一般紙との大きな相違点だろう。

(2)東京新聞=唯々諾々と従うだけが同盟関係ではない
・この国の政府は一体、日本国民と米政府のどちらを向いて仕事をしているのか。
・政府は、オスプレイ配備を認める理由に日米安全保障条約を挙げている。
・日本国民が安全性に不安を覚える航空機の配備を強行すれば、米政府や米軍に対する不満や不信感が高まり、条約上の義務である基地提供に支障が出る可能性がある。
・前原誠司民主党政調会長ら日米同盟重視派からも搬入延期を求める意見が出たのも、同盟関係が傷つきかねないとの懸念からだ。
・唯々諾々と従うだけが同盟関係ではない。今、問われているのはオスプレイの安全性だけでなく、米政府に追随し、物を言おうとしない日本政府のふがいなさである。

<安原の短評>東京社説は日米同盟批判派
 本土紙の中では東京新聞は良心派としての地位を保ち続けている。「唯々諾々と従うだけが同盟関係ではない」という指摘は、まさに「良心派」の物言いである。言い換えれば安保批判派ではあるとしても、安保改定派さらに安保破棄派とはいえない。しかし今や安保(=日米同盟)批判派の存在価値は限りなく大きい。

(3)朝日新聞=日米同盟の根幹に影響しかねないリスク
・国内ではオスプレイの安全性への懸念がますます強まっているが、日米両政府は普天間配備と本土での飛行訓練計画は変えていない。
・だがそれは日米同盟の根幹に影響しかねないリスクをはらんでいる。米政府はそこを十分に理解すべきだ。
・市街地に囲まれた普天間で、万一の事故がおこればどうなるか。仲井真弘多(ひろかず)沖縄県知事が、すべての米軍基地の「即時閉鎖撤去」というように、日米同盟の土台が不安定になるのは間違いない。
・「アジア回帰」を進める米国の戦略にとっても、大きなマイナスだ。
・クリントン国務長官は「オスプレイの沖縄配備は、米軍による日本防衛や災害救援の能力を高める」という。だが、それ以前に安全保障の基盤が揺らいでは、元も子もない。

<安原の短評> 朝日社説は日米同盟維持派
 「日米同盟の根幹に影響しかねないリスクをはらんでいる」という朝日社説の指摘はその通りだろう。問題は朝日社説がこの指摘をどういう視点から訴えているのかだ。最後の「安全保障の基盤が揺らいでは、元も子もない」が示唆するのは、日米同盟の存続こそが不可欠という同盟維持派としての期待、願望にほかならない。

(4)日本経済新聞=在日米軍の抑止力向上は歓迎する
・米軍のオスプレイは本当に危険ではないのか。政府は安全確認にさらなる努力を尽くすべきだ。
・中国の海洋進出、北朝鮮の首脳交代などで東アジアの安保環境の先行きは極めて不透明だ。オスプレイは米海兵隊が使用中の輸送ヘリCH46を速度、航続距離、搭載重量のすべてで上回る。抑止力を高める効果が見込める在日米軍の能力向上は歓迎したい。
・問題は今年になって2回も墜落事故を起こしたことだ。オスプレイが陸揚げされた岩国基地(山口県)や10月に配備が予定される普天間基地(沖縄県)の周辺住民が不安を抱くのも無理はない。
・政府がなすべきことは、ささいな情報もすぐ公開し、丁寧に説明することだ。不都合な話を隠したり、小出しにしたりすることがかえって疑惑を深めることは原発事故で十分経験したはずだ。
・野田佳彦首相のこれまでの対応には苦言を呈したい。「(日本が)『どうしろこうしろ』という話ではない」といってすませるのでは無責任だろう。

<安原の短評> 日経社説は米軍抑止力向上派
 野田首相への苦言を社説に織り込むところなどは芸の細かいところをのぞかせている。しかし社説の本音は、「オスプレイ配備によって在日米軍の抑止力向上の効果が期待できることは歓迎」にある。要するに戦争のための実戦力を高く買っているわけで、この実戦力はどこで試されることになるのか、目が離せない。

(5)読売新聞=日本側から日米同盟を揺るがすことがあってはならない
・そもそも、事故が絶対に起きない航空機はあり得ない。安全性については感情的にならず、冷静に議論する必要がある。
・肝心なのは、日米同盟の重要性を踏まえ、オスプレイの安全性を十二分に確認するとともに、10月の沖縄・普天間飛行場への配備を予定通り実現することだ。
・飛行性能に優れたオスプレイの配備は、在日米軍の抑止力を高めることも忘れてはなるまい。
・疑問なのは、民主党の前原政調会長が「沖縄、山口の民意を軽く考えすぎている」などと語り、オスプレイの配備延期を公然と求めていることだ。政府、与党の足並みが乱れていては、地元の理解を広げることは到底できない。
・日本側から日米同盟を揺るがすことがあってはならない。

<安原の短評> 読売社説は日米同盟堅持派
 「事故が絶対に起きない航空機はあり得ない」は、安全性に疑問符が投げかけられているときにいささか乱暴な認識ではないか。真実を書かない社説もあり得る、と言い張るに等しい。「日本側から同盟を揺るがしてはならない」は米国への忠実な僕(しもべ)たれ、と言いたいのか。同盟堅持派としても、その心配りは度が過ぎてはいないか。

(6)毎日新聞=米国にモノ言わぬ首相
・オスプレイは開発段階から事故が相次ぎ、4月にはモロッコ、6月には米フロリダ州で墜落事故が起きた。沖縄や山口、訓練空域下の各県で安全性への懸念が広がっている。
・10月に本格配備される沖縄の米軍普天間飛行場を抱える宜野湾市長ら沖縄の首長が相次いで配備中止を政府に申し入れ、全国知事会も安全が確認されないままの国内配備に反対する緊急決議を採択した。
・普天間飛行場は住宅密集地にある「世界一危険な基地」(ラムズフェルド元米国務長官)だ。フェンスを隔てて小学校が隣接し、04年には近くの沖縄国際大学に同飛行場所属の輸送ヘリが墜落、炎上した。オスプレイの事故におびえながら暮らさなければならない周辺住民の不安、苦しみは察するるに余りある。
・野田首相は「配備は米政府の方針であり、(日本から)どうしろこうしろと言う話ではない」と語った。(中略)危険性を理由に移設することになっている普天間にオスプレイを配備しようというのも、これを容認する首相発言も、沖縄の実情を無視した対応で、無神経すぎる。

<安原の短評> 毎日社説は日米同盟懸念派
 日米同盟を壊すなどという大それた志向とは無縁ではあるが、日米同盟が抱える問題点をひとつ一つ懸念しないわけにはいかないという姿勢である。その意味では懸念派といえるかも知れない。抑止力向上派や同盟堅持派に比べれば、良心的といえるが、日米安保改定派や日米同盟批判派にまで踏み切るほど腹が据わっているようには見えない。

▽諸悪の根源「日米安保」から脱する道

 朝日新聞(7月17日付)は「オスプレイ見直し要請否定」という見出しで、以下のように報じた。
 野田首相は16日、米軍が沖縄に配備予定の新型輸送機オスプレイについて「配備は米政府の方針であり、同盟関係にあるとはいえ(日本から)どうしろこうしろという話では基本的にはない」と述べ、日本側から見直しや延期は要請できないとの認識を示した。フジテレビのニュース番組に出演して語った。

 私(安原)はこの記事を一読したとき、脳裏に「奴隷の言葉」という表現が浮かんでくるのを抑えることができなかった。一国の宰相たる人物が口にすべき表現だろうか。その背景にはいうまでもなく日米安保体制(=現行日米安保条約の正式名称は「日本国とアメリカ合衆国との間の相互協力及び安全保障条約」、1960年6月23日発効)が厳然と存在し、それが諸悪の根源となっている。ここで日米安保体制(=日米同盟)なるものについて学習し直してみたい。

(1)日米安保体制は軍事同盟と経済同盟の2本立てとなっている
 野田首相の言からは、対米従属国家「日本」と表現するほかないが、その従属国家「日本」を金縛り状態にしているのが軍事同盟と経済同盟の2本柱である。

*日米の軍事同盟
 軍事同盟は安保条約3条「自衛力の維持発展」、5条「共同防衛」、6条「基地の許与」などから規定されている。1996年の日米首脳会談で合意した「日米安保共同宣言―21世紀に向けての同盟」で「地球規模の日米協力」をうたった。「安保の再定義」といわれるもので、解釈改憲と同様に条文は何一つ変更しないで、日米安保の対象区域が従来の「極東」から新たに「世界」に広がった。
 この点を認識しなければ、最近、なぜ日本の自衛隊が世界各地へ自由に出動しているのか、その背景が理解できない。

*日米の経済同盟
 経済同盟は2条「経済的協力の促進」で規定されている。2条では「自由な諸制度を強化する」「両国の国際経済政策における食い違いを除く」「経済的協力を促進する」などを規定しており、新自由主義(市場原理主義)を実行する裏付けとなっている。
1980年代から日米で始まり、特に21世紀に入り、顕著になった失業、格差、貧困、人権無視をもたらす新自由主義路線から転換し、内需主導型経済の再生に取り組まない限り、日米両国経済の正常化はあり得ない。
 具体的には「1%(富裕層)と99%(中間層や貧困層)の対立構造」を是正するために、例えば富裕層の富を増税などで吸い上げ、中間層や貧困層に減税や社会保障の充実などで還元することが不可欠である。

(2)日米安保から日米平和友好条約へ転換可能
*日米安保の一方的破棄は可能
 今注目すべきは、日米安保条約は、国民多数の意思で一方的に破棄することができることである。10条(有効期限)「条約は、いずれの締約国も終了させる意思を相手国に通告でき、その後1年で終了する」と定めているからである。この条項を活用して日米安保を破棄して、新たに日米平和友好条約への転換を促すときである。
 野田首相にみる異常な対米従属振りから脱するためには、日米安保の呪縛から自らを自由に解放することが必要条件である。この一点を重視するとき、日本の未来への明るい展望を期待することができるだろう。


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経済記者が想う「小沢新党」の発足
反消費増税、脱原発の姿勢を評価

安原 和雄
 大手メディアの社説にみる論評では「小沢新党」の評判はすこぶる悪い。まるで仲間から嫌われている非行少年団の旅立ちのような印象を受ける。果たしてそうだろうか。
 小沢新党のめざす政策の二本柱は、反消費増税であり、脱原発である。この政策目標のどこが不可解なのか。この目標をどこまで貫くかどうかという課題は残されているとしても、目標そのものは正当である。長い間、経済記者の一人として、政治、経済を観察してきた体験からして、私はそのように新党発足を評価したい。感情を交えた好き嫌いの判断で採点するのは避けたい。(2012年7月14日掲載。インターネット新聞「日刊ベリタ」、公共空間「ちきゅう座」に転載)

▽ 新聞社説は小沢新党をどう論じたか

 小沢新党に関する主要4紙の社説の見出しとその大意を紹介し、私(安原)の感想を述べる。
*朝日新聞社説(7月12日付)=小沢新党 ―「人気取り」がにおう
*毎日新聞社説(同上)=小沢新党結成 スローガンだけでは
*読売新聞社説(同上)=小沢新党 大衆迎合の色濃い「生活第一」
*日本経済新聞社説(同上)=有権者と信頼関係を築けるか
 なお東京新聞社説は12~14日付では取り上げていない。

(1)朝日新聞社説は<小沢新党 ―「人気取り」がにおう>という見出しで、次のように指摘している。

 民主党を除名された小沢一郎氏のグループが、新党「国民の生活が第一」を旗揚げした。
 代表に選ばれた小沢氏は、結党大会で「反消費増税」「脱原発」などを訴えた。
 結局、「反消費増税」にしても「脱原発」にしても、まじめな政策論ではなく、単なる人気取りではないのか。

<安原の感想> 政治は「人気取り」ではないのか
 朝日の社説は<「反消費増税」にしても「脱原発」にしても、まじめな政策論ではなく、単なる人気取りではないのか>としているが、これには違和感を抱くほかない。
 なぜ「まじめな政策論ではない」と言いきれるのか。現下の最大の政策テーマであり、消費増税や原発推進に国民の大多数が賛成しているわけでは決してない。
 しかも「単なる人気取り」という指摘も不思議である。政治はしょせん「人気取り」だろう。それは有権者、国民大衆の希望、願い、期待に応えるという意味である。それが民主政治ではないのか。それとも朝日社説は日本国民を責任感の欠落した「愚民」と認識しているのか。

(2)毎日新聞社説は<小沢新党結成 スローガンだけでは>という見出しで、以下のように論じている。

 小沢氏が言う通り、「国民の生活が第一」は政治の要諦だ。「増税前にすべきことがある」との主張も間違っていないし、「自立と共生」を理念とし、国民、地域、国家の主権を確立するとした新党の綱領も妥当な内容だろう。ただし、「反増税と脱原発」のスローガンだけで納得するほど有権者は単純ではない。

<安原の感想> たしかに「有権者は単純ではない」
 小沢氏には多くの点で共感を覚えながらもなお、どこかに欠点がないかとあえて探しているという印象が残る社説である。「有権者は単純ではない」はその通りである。「単純」はしばしば「馬鹿」を暗示する。いうまでもなく有権者はそれとは異質であってほしい。
 しかし政治の主張、スローガンは、大学研究者に多い意味不明の論文ではないのだから、単純、明快でなければならない。「反増税と脱原発」はその典型である。しかしこの単純、明快なスローガンに込められている含意は、地球規模の広がりと新時代の創生を示唆している。だからその価値は限りなく大きい。

(3)読売新聞社説は<小沢新党 大衆迎合の色濃い「生活第一」>と題して、次のように指摘している。

 新党の発足に高揚感は乏しい。何しろ「壊し屋」と称される小沢氏の4度目の新党であり、新鮮味に欠ける。
 国民の生活本位と言うのなら、具体的かつ丁寧に説明してもらいたい。有権者へのアピールを意識して、大衆迎合的なスローガンを唱えるだけでは無責任である。

<安原の感想> 大衆迎合はむしろ歓迎できる
 「新鮮味に欠ける」という指摘は、正しいだろうか。経済記者としての私などは「4度目の新党」という、その「しぶとさ」にむしろ感心する。たしかに「壊し屋」なのだろう。しかし新しく創りもするのだから、同時に「建設家」でもあるのではないか。
 「大衆迎合的なスローガンは無責任」という表現にも違和感が残る。「迎合」とは本来、弱者としての大衆が強者である権力に「気に入るように迎合」するという意味であり、逆に権力が大衆に迎合するのではない。それを承知で、小沢新党が政治を一新して、大衆に「生活第一」で「迎合」するのであれば、それはこれからの民主政治の一つのあり方となるかも知れない。無責任どころか、むしろ歓迎できるのではないか。

(4)日本経済新聞社説は<有権者と信頼関係を築けるか>という見出しで、以下のように論じている。

政党にとって重要なのは政策である。同時に有権者との間に絆がなければならない。新党はそれだけの信頼を築けるだろうか。
 次期衆院選に向けて新党は反増税と反原発を旗印に据える方針だ。
 民主党は抵抗勢力がいなくなり、野田佳彦首相が党内をまとめやすくなった。社会保障と税の一体改革を巡る3党合意で構築した自民、公明両党との枠組みも活用し、「決める政治」を推し進める絶好の機会だ。

<安原の感想> 「決める政治」はそれほど価値があるのか
 この日経社説の主眼は後段の「民主党は抵抗勢力がいなくなり、野田首相が党内をまとめやすくなった」にある。だから<「決める政治」を推し進める絶好の機会だ>が社説の言いたいところだ。各紙社説ともに小沢嫌いに満ちているが、この社説は特に露骨である。
 しかし「決める政治」それ自体は、それほど価値のあることだろうか。問題は何を決めるかである。間違ったことを決めて、それをごり押しされては迷惑するのは国民である。反増税と反原発の小沢抵抗勢力がいなくなった後の民主党のめざすところは、増税と原発の推進である。「決める政治」の中身はこれである。これを歓迎する国民は決して多くはない。これでは民主党の命運も事実上尽きたというほかないだろう。

▽ 新聞にみる「読者の声」が示唆すること

 まず<読者も「民主党は終わった」>と題する東京新聞7月12日付「応答室だより」を紹介しよう。これは読者の声を収録したもので、その大意は以下の通り。

 消費増税法案をめぐり民主党が分裂後、同党に失望してさじを投げる読者の投稿が目立っている。埼玉県越谷市の70代男性は「三年前の政権交代の期待は見事に裏切られた。民主党は事実上終わった。一日も早く『主権在民』の政府誕生を望む」と総括している。
 批判はもっぱら、次の選挙までは上げないと公約したはずの消費増税に、自民、公明両党と組んで政治生命を懸けるという野田首相らに集中。これに反対して新党を結成した小沢元代表グループには期待する意見も届いた。
 一方、民主党分裂を機に政界再編成を求める横浜市の80代男性は、「官僚の振り付けで動く民主、自民、公明党で構成する『官僚翼賛会』と、この党と対極線上に位置する『国益第一義党』に再編すればいい。とりあえずは前者が多数党だが、後者も小沢新党を軸に勢力を増大し政権党に成長してほしい」と記している。

 これに東京新聞読者の「発言」(7月14日付)をつけ加えておきたい。「小沢新党は国会に必要」と題して、次のように指摘している。

 新党を結党した小沢代表の動きに多くのメディアは否定的である。だが、現下の重要課題である消費増税と原発について、国民の声が国政の場に届かない状況にある。そう考えると、反増税、反原発を主張する勢力が国会の場に必要であることは明らかである。その意味でも小沢新党には期待してやまない。
 
 もう一つ、「国民をだまして消費増税とは」(7月13日付朝日新聞の読者「声」)を届けたい。その要旨は次の通り。

 民主党を除名された小沢一郎元代表が11日、新党「国民の生活が第一」を旗揚げし、民主党は分裂した。「国民との約束を守ろう」と主張した人たちが党を離れ、「今は消費増税だ」と主張する人たちが党に残る。何とも不思議だ。税制という国民にも国家にも最重要な政策で政権公約が守られない。これでは何のための選挙だったのかと思う。
 民自公の3党合意は「社会保障は後回しにして、まずは増税を」ということのようだ。増税だけでは国民の反発を招くので、社会保障という隠れみのを使っていたのだ。これでは国民をだまして増税をしたと言わざるをえない。
 小沢新党の旗揚げで参院での消費税法案の行方はどうなるか。現状のままでは「増税成りて信義滅ぶ」という事態となる。

<安原の感想> メディアは健全な批判精神を取り戻すとき
 紹介した「読者の声」は、きわめて健全であると評価したい。これに比べれば上述の各紙社説の質はいささか見劣りするのではないか。一昔前には社説を一読者として読んでみたとき、「なるほど勉強になった。こちらの気づかないことを見事に指摘している」という読後感が残ったものだ。
 ところが現状はどうか。社説執筆者は「勉強不足」、あるいは「偏見、思いこみ」に囚われているのではないか、という印象が消えない。なぜなのか。それは社説執筆者の姿勢、いいかえれば国家権力を含む権力者を批判するのか、それとも読者一般に向かってお説教を垂れるのか、にかかわってくる。有り体にいえば、後者のお説教が多すぎるのだ。
 これではメディアの健全な批判精神の衰微というほかない。今ここで踏みとどまって、健全な批判精神を取り戻さなければ、新聞メディアの存在価値そのものが問われるだろう。


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「グリーン経済」で経済の再生を
「リオ+20」が示唆する地球の未来

安原 和雄
「グリーン経済」とは何を含意しているのか。改めて問い直したい。そのイメージはすでに確定しているとは言えない。一方に「持続可能な成長の重要な手段」という経済成長派のイメージもあれば、他方に「GDP(国内総生産)に代わる指標のあり方」、つまり経済成長にこだわらない脱経済成長主義の立場からの経済再生もある。
 どちらの立場を支持するにしても、無視できない事実は、地球の収容力や生態系に限界があり、この限界を認識して、新しい経済の再生をどう模索していくかである。その目指すものがグリーン経済であり、先の「リオ+20」が示唆する地球の未来でもある。(2012年7月5日掲載。公共空間「ちきゅう座」、インターネット新聞「日刊ベリタ」に転載)

 毎日新聞(7月2日付)が環境特集「<リオ+20>会議の評価と今後の課題を聞く」を組んでいる。その大意を以下に紹介する。登場人物名とそれぞれの談話のタイトルは次の通り。

(1)平松賢司氏(外務省地球規模課題審議官)=日本の主張、各国に共有された
 国連でグリーン経済への移行について文書で合意したのは初めてだ。グリーン経済が持続可能な成長の重要な手段の一つと認識されたことは、将来に向け重要な一歩になった。日本が主張した資源効率性の高い都市づくりや防災政策の重要性も共有された。
 グリーン経済への移行が各国の自主的な取り組みに委ねられたことに批判はあるが、(中略)皆が望むものは得られない。今回の合意は妥当な線だ。
 欧州連合(EU)は、グリーン経済に移行するための具体的な目標を定める各国共通のロードマップ(行程表)作成を主張したが、途上国にグリーン経済に懐疑的な見方がある以上、現実的ではない。金融危機や財政難で先進国には途上国への資金提供の余裕はない。

 成果文書を具体化させる今後のプロセスが重要だ。1992年の地球サミット当時は先進国、途上国という二分法があったが、今は中国やブラジルなどの新興国が台頭している。新興国は意図的に途上国の利益を代表する立場をとったが、今後は経済成長に見合った役割を果たすよう働きかけ続けなければならない。途上国もそれを望んでいる。
 エネルギー消費が少ない技術を導入することが、途上国にとって将来の発展につながり、コストも低くなることを粘り強く訴えていく。公害を経験し、世界をリードする省エネ技術を持つ日本だからこそできる。

(2)佐藤正弘氏(京都大准教授 環境・資源経済学)=グリーン経済へ転換迫られる
 成果文書のグリーン経済の位置づけは、今年1月の原案段階から大きく後退した。だが世界はいずれグリーン経済への転換を迫られるだろう。
 グリーン経済の考え方に共通しているのは、森林、土壌、水、漁業資源といった生態系がかかわる自然資本をベースにした新しい経済の確立だ。
 自然は地球上で最大の生産者であり、経済は生態系の機能によって支えられている。土壌は人類への食糧供給を支え、森林は水を蓄え洪水を防止し、気候を調節する。ところがこれまで人類は自然の貢献を正当に評価せず、かけがえのない資本を食いつぶしてきた。新興国も加わった世界消費の急激な増大により、生態系は限界を迎えている。

 ではどのように新しい経済を構築していくのか。まず地球の収容力の限界と自然資本の価値を正当に評価すること。リオ+20でも、それらを組み入れた、GDP(国内総生産)に代わる指標のあり方が議論された。さらに自然資本を保持しながら機能を持続的に受けられるようにする。
 例えば良質な水を安定的に確保するために、莫大なお金とエネルギーを使って貯水・浄水施設を造る代わりに、上流の流域生態系を保全し、水の保全や浄化を促進する。気候の安定のために、設備更新で二酸化炭素排出量の削減を図るだけでなく、熱帯雨林を保全し、吸収力を高める。
 資源の効率的な利用、さらに資源を必要としない生活様式や社会への転換も重要だ。政府、企業だけでなく、消費者やNGO(非政府組織)などを巻き込んだ取り組みが不可欠だ。

(3)アブドン・ナババン氏(先住民バタク族・注)=もっと土着の文化の尊重を
 (注)バタク族は、インドネシア・スマトラ島北部にあるトバ湖(1103平方キロ)周辺の山岳地帯で暮らしている。人口は約150万人。

 伝統的な稲作や野菜の栽培、湖での漁に加え、生態系を守りながら森でマンゴー、バナナ、コーヒーなどを育て、自給自足の生活を送ってきた。「持続可能な開発」を私たちは何百年も前から実践してきた。低炭素社会、有機農業、グリーン経済もだ。
 ところが約15年前に政府が製紙パルプ業のトパ・パルプ・レスタリ社に私たちの森の1000平方キロ分の伐採権を与えた。森林減少で湖に流入する土砂が増え、さらに別の企業が魚の養殖を始めたため、水質が悪化し、漁に影響している。山では金の採掘も行われ、バタク族の生活圏は狭まり、自給自足の生活が脅かされている。

 持続可能な開発に文化の尊重は不可欠だ。それを欠いた開発は植民地主義だ。日本企業も国内では日本の文化を尊重するのに、海外で開発事業を行うときは、そこに根付く土着の文化を尊重していないのではないか。この点で成果文書は文化の尊重をもっと強調してほしかった。企業進出によって失われた土地や森、湖、川、生態系を自由に使う権利の回復も勝ち取りたかった。
 国連総会で「先住民の権利宣言」が07年に採択されたが、先住民の権利を保護する方向に動いていない。成果文書にも具体的な施策は盛り込まれなかった。今後も各国政府が先住民の権利を積極的に保護するよう訴えていく。

<安原の感想> 経済成長とは異質のグリーン経済

 「国連でグリーン経済への移行について文書で合意したのは初めてだ」という平松氏の指摘はその通りだろう。肝心なことは、新たに浮上してきた「グリーン経済」とは、そもそもどういう性質の経済なのか、言い換えれば経済成長と不可分の経済なのか、それとも経済成長とは異質の経済なのか、である。
 平松氏(外務省審議官)は「グリーン経済は持続可能な成長の重要な手段の一つ」と指摘している。多くのメディア報道も、この認識を前提に論評を加えている。「自然環境の保全や天然資源の循環利用によって、将来にわたって持続可能な経済成長を実現しようとするもの」という指摘は、その具体例である。これはどこまでも経済成長への迷妄から離れられない経済成長執着派の立場である。

 私見では「持続可能な発展(開発)」は成り立つが、「持続可能な経済成長」は夢物語にすぎない。というのは発展は質的概念で、人間で言えば、人間力(人格、器量など)の充実を意味しており、これに対し経済成長は量的概念で、人間の場合、体重が増えることを意味している。前者の人間力充実には際限がないとしても、後者の体重が際限なく、無限に増えつづけることはあり得ない。

 もう一つは、上述の佐藤氏(京都大准教授)とナババン氏(先住民)の立場である。両氏の主張のどこにも「経済成長」への言及を見いだすことはできない。これは経済成長のことをうっかり忘れたというわけではない。二人の思考の枠組みはそもそも経済成長という概念とは異質といえるだろう。

 佐藤氏は次のように述べている。「どのように新しい経済を構築していくのか。まず地球の収容力の限界と自然資本の価値を正当に評価すること。リオ+20でも、それらを組み入れた、GDP(国内総生産)に代わる指標のあり方が議論された」と。つまりグリーン経済は、「GDPに代わる指標のあり方」とかかわっており、GDP拡大を意味する経済成長とは異質なのだ。
 ナババン氏(先住民)の次の指摘も見逃せない。「持続可能な開発に文化の尊重は不可欠だ。それを欠いた開発は植民地主義だ。日本企業も国内では日本の文化を尊重するのに、海外で開発事業を行うときはそこに根付く土着の文化を尊重していない」と。つまり土着文化を尊重しない植民地主義は、土着文化を尊重するグリーン経済とは両立し得ないという認識である。
 私(安原)は、脱成長主義、土着文化の尊重を前提とするグリーン経済を支持し、その発展を期待したい。


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「グリーン経済」は何をめざすのか
「リオ+20」が世界に残した課題

安原 和雄
 野田首相をはじめ先進国の首脳が、不参加の態度で軽視した国連主催の「持続可能な開発会議」が世界に残した課題は何か。それは「グリーン経済」(緑の経済)、すなわち環境保護と経済成長の両立をめざす試みの成否である。
 20年前の第一回地球サミットは地球環境保全のために、「持続可能な発展」という新しい概念を打ち出した。これは経済成長に否定的だったが、今回はむしろ経済成長のすすめとなっている。同時に今回は「貧困の撲滅」を掲げている。それだけ世界に貧困が広がっているわけで、「撲滅」のスローガンはむしろ看板倒れに終わる可能性が消えない。(2012年6月25日掲載。公共空間「ちきゅう座」、インターネット新聞「日刊ベリタ」に転載)

▽ 大手新聞社説はどう論じたか

 ブラジル・リオデジャネイロで6月22日(日本時間23日)まで開かれた国連主催の「持続可能な開発会議」(リオ+20)について大手紙は社説でどう論じたか。まず社説の見出しを紹介する。
*東京新聞(6月24日付)=リオ環境宣言 フクシマが教えている
*毎日新聞(同上)=リオプラス20 緑の経済へと進めよう
*読売新聞(同上)=リオ+20 環境を守る責任は新興国にも
*日本経済新聞(同上)=環境の危機を主要国は改めて直視せよ
 なお朝日新聞は6月25日までの社説では論じていない。

 日経社説が「環境の危機を主要国は改めて直視せよ」と論じているように、国際会議についてこれほど批判的、悲観的な言辞が目立つ社説も珍しい。いくつか具体例を挙げれば、以下のようである。
*東京新聞=これは、何だ、と言いたいような、国連持続可能な開発会議の幕切れだった。10年後では遅すぎる。明日にでも首脳が集まって、仕切り直しをするべきだ。
*毎日新聞=先進国と途上国との妥協の末に採択された成果文書「我々が望む未来」は具体的な目標や施策に欠け、かけがえのない地球を将来の世代に伝える明確な道筋は描けなかった。
*読売新聞=成果は極めて乏しかったと言うしかない。最大の焦点だった「グリーン経済」に移行する世界共通の工程表策定はできず、各国の自主的取り組みに委ねることになった。
*日経新聞=成果は乏しかった。(中略)地球環境の悪化に歯止めがかからないのは、資源の消費や開発の加速に比べ、対策のスピードや規模が不十分だからだ。気温上昇で北極の海氷は薄くなり森林は減り続け、世界の5人に1人がなお極度の貧困にある。

 もう一つ、先進主要国の首脳、オバマ米大統領、メルケル独首相、キャメロン英首相、さらに日本の野田首相らの不参加が目立ったことは軽視できない。主要先進国で参加したのはオランド仏大統領のみであった。このように先進主要国の首脳がほぼ軒並み不誠実な態度を見せつけるようでは、会議が盛り上がりを欠くのは当然の成り行きであっただろう。

▽ 不思議な朝日新聞社説の姿勢

 それにしても不思議なのは、社説で論評しない朝日新聞の姿勢である。念のため25日付まで3日間の朝日社説のテーマ(2本立て)を紹介すれば、以下のようである。
*6月23日=小沢氏の造反 大義なき権力闘争だ/大学改革 減らせば良くなるのか
*同月24日=住民投票 民意反映の回路増やせ/子育て支援 小規模保育を生かそう
*同月25日=電力自由化 規制なき独占では困る/沖縄慰霊の日 戦争の史実にこだわる

 以上のような6つの社説はいずれも緊急性を要するものばかりとは判断しにくい。野田首相らは不参加だったとはいえ、世界の100カ国を超える首脳らを含めて5万人近い人々が集まった10年に一度の国際会議である。その会議閉幕の機会を捉えて朝日新聞としての論評を加えるのは、メディアとして当然のことと思うが、なぜ無視したのか。不可解という印象が残る。

 想像にすぎないが、どのテーマを取り上げるかを決める論説室内の司令塔が不在のためなのか。論説委員それぞれの自主性に委ねるのは新しい方式と言えるかもしれない。それなら「社説」と銘打つのは疑問である。「主張」あるいは「論説」として署名入りの記事にすべきである。新聞社としての主張という意味の「社説」はもはや投げ捨てる時代ともいえるだろう。「没個性」に甘んじているときではない。かつて大手紙の論説室に籍を置いていた一人としてそう考えたい。

▽ グリーン経済とは(1)― 新聞社説にみる主張

 今回の「リオ+20」でキーワードとして浮かび上がったのが「グリーン経済」である。「グリーン経済」とはどういう含意なのか。各紙の社説(6月24日付)から紹介する。

*東京新聞社説=環境保護と経済成長を両立させる「グリーン経済」への移行は、「持続可能な開発のための重要な手段の一つ」と言葉を濁し、具体的な開発目標は、2015年までに策定するとしただけだ。

*毎日新聞社説=経済活動に伴う生物資源の利用や温室効果ガスの排出は地球の許容量を超える。一方で世界人口は70億人を超え、貧富の差は拡大した。だからこそグリーン経済への移行が必要だ。国連環境計画は世界の国内総生産(GDP)の2%を毎年、再生可能エネルギーや省エネなどに上手に投資すれば、世界経済はグリーンに移行でき、雇用創出や途上国の貧困対策につながると分析する。
東日本大震災と福島第一原発事故で自然の猛威とエネルギー多消費社会の危うさを知った日本は、グリーン経済への移行で世界の先導役となるべきだ。

*読売新聞社説=石油など化石燃料への依存度を減らし、環境関連産業を育成しながら低炭素社会へと転換していく「グリーン経済」の構築は、世界全体の課題といえよう。
しかし状況は大きく変わった。急速な経済発展を遂げた中国、インドなど新興国の排出量が増え続け、中国は米国を抜いて世界一の排出国となった。それにもかかわらず、中国の温家宝首相は今回の会議でも、自国を「大きな途上国」と位置付け、先進国が責任を果たすべきだとの姿勢を崩さなかった。

*日本経済新聞=リオ+20で持続可能な開発の道筋が示せたとは言えない。地球環境や貧困は人類の生存がかかる安全保障の問題といえる。先進国に中国、インド、ブラジルなどを加えた主要国はいま一度、危機を直視し真剣に対策にあたる必要がある。

▽ グリーン経済とは(2)― 「持続可能な発展」と「貧困の撲滅」と

 上述の東京新聞社説は、環境保護と経済成長を両立させる「グリーン経済」への移行は、「持続可能な開発のための重要な手段の一つ」と指摘している。
 ここでの「持続可能な開発」とは英語のSustainable Developmentを指しており、「持続可能な発展」(=持続的発展)と日本語に訳すのが望ましいと考える。この概念は、第一回地球サミット(国連環境開発会議=1992年6月、ブラジルのリオデジャネイロで開催)が採択した「環境と発展のためのリオ宣言」が打ち出して以来、世界で広く知られるようになった。

 その意味するところは、二つある。一つは、今後何世代にもわたって、永続的に地球環境の保全を果たさなければ、人類は滅びるだろうということ。もう一つは、地球環境の保全とともに豊かな国も、貧しい国も共に「生活の質」を向上させていく必要があるということ。このことは従来の経済成長路線、つまりプラスの経済成長によって「量の豊かさ」を追求していく路線が行き詰まり、それを根本から転換させなければならないことを示唆している。

 「持続可能な発展」を構成する柱を列挙すれば、以下のように多様である。
・生命維持システム ― 大気、水、土、生物 ― の尊重
・人類に限らず、地球上の生きとし生けるもののいのちの尊重
・長寿と健康な生活(食糧、住居、健康の基本的水準)の確保
・雇用の確保、さらに失業・不完全就業による人的資源の浪費の解消
・特に発展途上国の貧困の根絶
・核兵器の廃絶、軍事支出の大幅な削減、軍事同盟の解消
・景観や文化遺産、生物学的多様性、生態系の保全
・持続不可能な生産・消費・廃棄構造の改革と廃止
・エネルギーの節約と効率改善、再生可能もしくは汚染を引き起こさないエネルギー資源 への転換
・環境の質の確保と文化的、精神的充足感の達成

 以上のように発展(Development)という概念は、軍事から環境に至るまで多様な側面から捉えられている。しかし経済成長が一つの柱として掲げられていないことに注意したい。これはGDP(国内総生産)や所得が増えることは、発展や生活の質のごく一面を示すにすぎない。それどころか自然や環境を破壊しながらGDPや所得が増えることは、発展や生活の質的充実にとってむしろマイナスと理解されているのである。

 だから本来の「持続可能な発展」は経済成長とは両立しないが、今回「グリーン経済」と共に経済成長への期待が広がっているのはなぜか。採択された宣言「我々が望む未来」の次の指摘が見逃せない。
 「グリーン経済のためには持続可能な発展と貧困の撲滅こそ重要である」と。わざわざ「貧困の撲滅」を基本的テーゼの「持続可能な発展」と同列に置いて強調している。それだけ世界中に以前にも増して貧困が広がっており、その貧困対策のためには経済成長も必要だというメッセージなのだろう。しかし経済成長はむしろ新たな貧富の格差を拡大するとしても、貧困の撲滅を達成できる保証はない。


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「ソーラー地球経済」をめざして
脱原発後の新しい国造りへ転換を

安原 和雄
 脱原発をめざすのか、それとも原発再稼働なのか、その二者択一が問題なのではない。原発再稼働は時代錯誤もはなはだしい所業で、脱原発はもはや自明の理である。日本が今考え、めざすべきことは脱原発後の新しい国造りにどういうイメージを描くかである。
 それは太陽エネルギーを活用する「ソーラー地球経済」の一翼を率先して担っていくことであるだろう。石油など化石燃料はやがて枯渇することを視野に収めれば、不滅の太陽エネルギーの活用以外に選択肢はあり得ない。目先の小利を棄てて、長期的な大局観に立つ大利こそ今求められる。(2012年6月15日掲載。公共空間「ちきゅう座」、インターネット新聞「日刊ベリタ」に転載)

ヘルマン・シェーア著/今泉みね子訳『ソーラー地球経済』(2001年12月・岩波書店刊)を読み直す機会があった。10年も前の著作の大意を紹介しながら、将来のソーラー地球経済の歴史的意義を考えたい。
(注)ヘルマン・シェーア氏(1944~2010)はベルリン自由大学で博士号(経済学と社会学)を取得。ドイツ連邦議会議員、ヨーロッパ議会議員、ユーロソーラー(ヨーロッパ太陽エネルギー協会)会長などを歴任。2010年10月14日に原子力関連についてテレビ出演直後、心臓発作で急死と伝えられる。著書は『ソーラー地球経済』のほか『太陽戦略』など多数。
訳者の今泉さん(1948~)は環境問題ジャーナリスト、翻訳家。講演会「福島がドイツをかえた・・・急転換したドイツの原発のエネルギー政策」(2011年10月)などで活躍。

▽ 日本こそソーラー経済のモデル国に

まず今泉さんの著者評、書評を「訳者あとがき」から紹介する。
*推理小説を読むように謎がとけてくる
本書は、環境問題にたずさわっている者(訳者)にとっても、「目からうろこがおちる」思いをさせてくれる。なぜ経済のグローバル化が進むのか、企業はどんどん合併するのか、失業が増えるのか、都市がすさび離農が増えるのかといった問題の本質はエネルギー源にあること、そしてこのまま進んだらどうなるのか、それを変えるにはどうしたらよいのかを、筋道をたてて解説してくれるからだ。世界で行われているエネルギー産業の内幕も見えてくる。一見かたい内容なのに、推理小説を読むように次々と謎がとけてくるのだ。

*人類はソーラー資源の利用を急ぐとき
講演であふれるほどのエネルギーをみなぎらせた彼(シェーア氏)は「化石資源は50年後にしろ、100年後にしろなくなるのはたしかだから、人類はソーラー資源を利用するしか道はない。戦争や暴力や大きな環境災害を防ぐには、ソーラー資源の利用を急がなければならない。それをどれだけ速く実現させるかに人類の未来はかかっている」と声を張りあげていた。

*日本はソーラー経済にぴったりの国
日本は化石資源に乏しいけれど、太陽、風力、地熱、波力に恵まれ、モンスーン気候のおかげで植物はどんどん育つ、ソーラー経済にぴったりの国である。それだけに本書は政治家、自治体関係者、企業、環境関係者、いやすべての人にとって必読の書だと信じている。日本が世界に率先してソーラー経済を実現させれば、資源を他国に頼らないですむようになるかもしれないのだから。

<安原の短評> 求められる発想の大転換
念のため再説すれば、ここでの「ソーラー」とは、太陽光・熱だけでなく、風力、地熱、水力、波力などの再生可能エネルギー、さらに光合成で育つ植物資源などを指している。幸い日本はこれらのソーラー資源には恵まれており、上述のように「日本こそソーラー経済にぴったりの国」という表現も決して誇大ではない。ソーラー経済のモデル国をめざすべく、発想の大転換を図るときである。

▽ 「目に見える太陽の手」で実現を

ではソーラー地球経済とはどういうイメージなのか。本書は以下の七つのテーゼにまとめている。その大要を紹介する。
(1)生存の危機から脱却できる唯一の道
世界文明が生存の危機から脱却できる唯一の道は、再生可能資源への転換をすみやかに導入し、経済活動すべてを化石資源に依存せずに行えるようにすることである。
(2)転換の効果は産業革命に匹敵
ソーラーエネルギー・原料への転換は、世界社会の未来を保証するために、画期的な価値をもつだろう。その深くて幅広い効果は、産業革命のそれに匹敵する。
(3)人間に合った発展が可能に
化石の本流に打ち勝つことのできる、新たなソーラーの本流によってはじめて、経済のグローバル化はエコロジー面でも持続可能になる。ソーラーが本流となってはじめて、化石経済の破壊的な推進力、経済構造と社会文化の画一化を阻止できて、持続的で、多様性に富み、人間に合った発展が可能になる。

(4)経済発展をエコロジーの循環とともに
人類が安全に、社会的に生きていけるようにするためには、経済発展をエコロジーの循環、地域の経済構造、文化、公共機関に再び連結させるフィードバックは欠くことができない。このようなフィードバックはソーラーエネルギー・原料を基礎としてのみ、再び可能である。
(5)ソーラー資源は利用者にやさしい
化石エネルギーが経済性にすぐれているとされているが、そのエネルギー連鎖全体をみると、経済効率の優越性は神話でしかない。再生可能エネルギーは、その利用の連鎖がはるかに短いために経済効率において有利ですらある。ただし、そのためには在来型のエネルギー産業が公共から受ける無数の優遇措置を廃止しなければならない。ソーラー資源は在来型のエネルギーよりも潜在的には効率がよく、利用者にやさしくなれるし、そのお陰でより経済的に使うことができる。

(6)ソーラー資源の利用・市場化を優先する
経済秩序においては、変えることのできない自然の法則を、変えることのできる市場法則よりも優先させなければならない。たとえば食物も含む地域のソーラー資源の利用・市場化を、これら以外の等価値の商品よりも市場で優先すべきである。
(7)「目に見える太陽の手」によって実現
ソーラー地球経済においてのみ、すべての人間の物質的要求を満たし、それによって、真に等しい普遍の人権という理念を未来につたえ、多様な文化をもつ世界社会を取り戻すことができる。「市場の見えざる手」をもってしては不可能なことが、「目に見える太陽の手」によって実現する。

▽ <安原の感想> 「太陽の手」と「いのち尊重」の両立をめざして

ソーラー地球経済を支えるキーワードは「目に見える太陽の手」である。言い換えれば「太陽の手」によって価格や資源配分が決まっていく。これは卓抜な提案というべきである。
一方、現存の自由市場経済は「見えざる手」によって価格や資源配分が左右される。しかも現実には市場の寡占化によって大企業の支配力が強まる。その行き着く先が貪欲な新自由主義(市場原理主義)路線であり、それを担う「1%の超リッチ」と呼ばれる富裕層が地球規模で「99%の大衆反乱」(「ウオール街を占拠せよ」から始まった)による批判を浴びたのは昨年のことである。

米国に代表される貪欲な新自由主義者たちは対外侵略戦争を行使して恥じないだけではない。弱肉強食、不平等、格差拡大、貧困層増大 ― という巨大な不公正を広げながら私利をほしいままにしてきた。このような新自由主義路線はしぶとく生き残りを策しているが、もはや寿命は尽きようとしている。それでは目を転じて、新自由主義に代わる人間中心主義であれば、充分であり、肯定できるのだろうか。

上述の<(7)「目に見える太陽の手」・・・>に「すべての人間の物質的要求を満たし、・・・普遍の人権という理念を未来につたえ、・・・」とある。これは人間中心主義であり、人間賛歌でもある。当然の認識、主張のようにみえるが、欲をいえば、そこに不満、疑問が残る。なぜ「いのち」、つまり人間に限らず、地球上の動植物も含む「生きとし生けるもののいのち」ではないのか。
私の唱える仏教経済学は、人間尊重に限らず、太陽からの恵みはもちろんのこと、広く「いのち」を尊重し、感謝する。なぜならこの地球上で人間が独力で生きることはできない。動植物のいのちをいただきながら、それとの相互依存関係の下でのみ生存できるからである。

石油など化石資源からソーラー資源への全面的転換がやがて不可避だとすれば、いずれ「太陽の手」を活用する以外の妙手はあり得ない。肝心なことは、一方に「太陽の手」、他方に人間中心主義を超える「いのちの尊重」、この両者をいかに両立させていくかである。難問ではあるが、これ以外に人類が生き残る道はないことを「ソーラー地球経済」は示唆している。


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原爆と原発は人類の過ちである
全廃に向けて猶予は許されない!

安原 和雄
 「反原発」の運動や著作は最近増えてきた。このことは歓迎したいが、どこか物足りない印象も拭えない。なぜなのか。それは「原爆と原発」を一体として捉え、論じなければならないという視点が弱いからだろう。その点、最近の著作『原爆と原発』が「原爆・原発は人類の過ち、全廃に向けて猶予は許されない!」として「共に全廃すべきだ」と力説しているところを大いに買いたい。
 原発推進派の原発への執着ぶりも目に余るが、その執拗さを打破するためにも「共に全廃」という視点が不可欠とは言えないか。(2012年6月5日掲載。インターネット新聞「日刊ベリタ」、公共空間「ちきゅう座」に転載)

 落合栄一郎(注)著『原爆と原発』(2012年5月、鹿砦社・ろくさいしゃ刊)を読んだ。副題に「放射能は生命と相容れない ― 原爆・原発は人類の過ち、全廃に向けて猶予は許されない!」とある。本書の特色は「原爆と原発」を一体として論じているところにある。
(注)落合氏は1936年生まれ、東京大学助教の後、海外へ。カナダ、アメリカの大学などを経て、カナダ・バンクーバー9条の会(日本国憲法9条の理念を生かす会)などに関与。数年来、「持続可能性」、「平和」、「原発」、「文明」の基本問題についてインターネット紙「日刊ベリタ」に寄稿(約200稿)している。

『原爆と原発』の大要を以下、6項目に分けて紹介し、それぞれに<安原の短評>をつける。

(1)化石燃料や原子力は今後1世紀はもたない
化石燃料にしろ、ウランにしろ、その地球上での存在量は有限である。すなわち使えばなくなるし、再生することはできない。それがいつ枯渇するかは、人類の使用速度と存在量に依存するが、遠くない将来になくなることは目に見えている。
現在の経済体制、企業体制としては、なるべく儲かる化石燃料や原子力を使っていたい。しかし長く見積もっても今後1世紀はもたないだろう。このことは、現経済体制の枠組みに取り込まれている人たちには見えないようであるが、自明のことである。

<安原の短評> 意図的盲目症
「化石燃料や原子力は今後1世紀はもたないことは、現体制の枠組みに取り込まれている人たちには見えない」という指摘は的確である。真実を認識すれば、そこに責任を伴うことになる。だから日本のリーダーの多くは、事実(真実)を観ようとはしないのだ。意図的盲目症に陥っている。

(2)核兵器生産を継続する経済効果
冷戦時代の核兵器は抑止効果が主目的であったが、冷戦は一応解消し、ロシアも中国も、経済的には欧米と対立する体制ではない。すなわち政治的には核兵器の必要性は薄らいだ。しかし大国の核兵器の実質的削減は、始まっていない。大きな要因は、核兵器産業への経済効果である。特に大規模兵器は、国家機関が国民の税によって買い取るものであり、国家が安泰であるかぎり、取りはぐれはない。
こうした権益を軍需産業が手放すのを渋るのは当然であろう。現在の新自由主義に毒された市場経済では、金融などを支配する大企業家が政治世界を動かす立場にある場合が多く、例えばアメリカでは大企業、特に金融企業が政治の中枢に食い込んでいる。

<安原の短評>軍需産業の権益
なぜ核兵器の実質的削減が進まないのか。軍需産業がその権益を手放そうとしないからである。その元凶は例の「軍産複合体」の存在である。国民の税金によって軍需産業の権益が保障される限り、戦争勢力としての「軍産複合体」の肥大化はつづく。「軍産複合体」に解体の大鉈(なた)を打ち込むのはいつのことか。

(3)「原子力=悪」のイメージ払拭と原発設置に加速
戦後の日本人には、原爆の恐ろしさの体験から、「原子」の言葉に拒否反応する「原子(または核)アレルギー」なる症候が蔓延していた。そこでアイゼンハワー米大統領は、1953年12月8日(太平洋戦争開戦記念日)に国連で、演説「平和のための原子」を行って、「原子力=悪」のイメージ改善に努めた。
ところがその直後、1954年3月、ビキニ環礁でのアメリカの水爆実験に日本漁船が遭遇し、死の灰をかぶり、船員一人が死亡、日本人の「反原子」感情はかき立てられた。このためアメリカ政府は、「原子力の安全神話」を吹聴した。しかも1973年に始まる「オイルショック」(中東産油国での原油産出制限と石油価格急騰)で危機に瀕した日本では、原子力発電設置が加速された。

<安原の短評>「経済成長」が錦の御旗
原子力は危険だからこそ、その安全神話をことさら吹聴する必要があった。しかも1973年に始まる「オイルショック」が原発推進派にはまたとない追い風となった。「経済成長」が錦の御旗として高く掲げられた。つまりは経済成長のための原発であり、だからこそ原発批判の声はかき消されるように小さくなっていった。

(4)原発はどうしても必要と言えるのか
原発のべネフィット(利益)は、コストよりも大きいだろうか。ベネフィットの価値を決めるのは、代替エネルギーがないこと、原発がなければ日本は生きられないこと ― なのかどうかにかかっている。2011年夏の電力需要ピーク時に、不足の事態が起きる可能性があると、電力会社は主張した。
しかし企業や消費者の努力もあって、全原発のうちわずかに25%ぐらいしか稼働していなかったにもかかわらず余力を残して乗り切った。2012年5月には稼働原発はついにゼロ基になったが、日本中で停電などは起きていない。これでも原発はどうしても必要といえるのか。

<安原の短評>稼働原発はゼロに
原発再稼働に執念を抱く原発推進派は、電力不足を声高に叫び、電気料金値上げまで持ち出している。自制心という正常な神経とは無縁らしい。しかし稼働原発は5月以来目下、ゼロになっているが、停電は起きていない。国民の間にも節電の心構えは広がっている。節電に困るのは国民ではなく、むしろ電力会社ではないのか。

(5)原発廃棄で大多数の国民の生活は
原発廃棄は、電力会社と、その権益に与(あずか)る政治家や「原子力村」に群がる官僚や学者たち、交付金に潤う地元の自治体、それによって雇用を得ている人々にとってのみ不利なだけであろう。
大多数の国民には大した不利益をもたらさないどころか、より安心な生活ができるようになろう。したがって地元の経済・雇用の機会の増大などの施策を充分に施すこと、例えば自然エネルギー開発へカネを注ぐことによって経済活性化、雇用増大を実現することによって、原発廃棄の不利を克服すべきである。

<安原の短評>より安心な生活へ
「原発廃棄は、大多数の国民にはより安心な生活ができるようになる」という指摘は重要である。もちろん原発廃棄のままでよいわけではない。新エネルギー源として再生可能な自然エネルギー(太陽光・熱、風力、地熱、小型水力など)の開発活性化が不可欠である。そのためにこそ知恵と技術力と資金を有効活用したい。

(6)原爆と原発は地球上の生命と相容れない
原発を維持する隠れた理由の一つに、それがいざという場合に核兵器製造に転用できる可能性があることだ。原発は原爆同様、地球上の生命と相容れない上に、人類全体にとって経済的にも、環境の面からも望ましくないし、必要もない。
なるべく早く原爆も原発も地球上から抹殺すべきである。特に日本の場合には、地震その他の天災、施設の老朽化などの理由により、現存原子炉はすべて安全な状態に速やかにもっていく必要がある。

<安原の短評>原爆も原発も全廃へ
「原発は核兵器製造に転用できる可能性がある」という示唆に着目したい。この点は専門家には知られていることだが、日本では「原爆は悪」、しかし「原発は善」という誤解が広がっていた。この誤解を吹き飛ばしたのが「3.11」の原発大惨事である。「原発は原爆同様、地球上の生命と相容れない。だから共に全廃へ」という認識を広く共有したい。


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野坂昭如の「田植え」を読んで
農業を棄てた自分の「今」を想う

安原和雄
 田植えの季節がめぐってきた。野坂昭如の田植え観、さらに農業・製造業論、反原発論はなかなかユニークである。日本は農業を軽視し、棄てたからこそ、製造業も衰退へ向かっているという主張には納得できる。
 私自身、農家の生まれでありながら、田舎での農業を棄てて、東京暮らしを続けている一人である。この選択が間違っていたとは思わない。しかし農業を棄てた、その埋め合わせを、「今」の自分として成し遂げつつあるのかと自問すれば、「さて」と心底揺らぐほかない。(2012年5月25日掲載。公共空間「ちきゅう座」、インターネット新聞「日刊ベリタ」に転載)

▽ 「農を棄て、製造業も衰退」へ

 毎日新聞に連載中の野坂昭如の「七転び八起き」に「田植え」と題した記事(2012年5月12日付)がある。記事の主見出しは「農を棄て、製造業も衰退」である。私自身、農家の生まれで、小中学生の頃、当然のこととして田植えに励んでいた。それだけにこの記事を、我が人生のこれまでの来(こ)し方と重ね合わせて興味深く読んだ。記事の大要を以下、紹介する。

*食いものを粗末にしない、この当たり前
 米づくりは田植えに始まり、稲穂垂れるまで続く。だが個人で出来ることではない。農全般、特に米づくりは集落の力が必要なのだ。水田の造成、管理、収穫の技術は代々伝えられる。田植えにしろ、収穫にしろ、土に拠(よ)って生きる者同士がそれぞれ知恵を出し合い、助け合って生きてきた。共同作業も多い。自然とのつきあい方、食いものについて粗末にしない。このあたり前が農と共にあった。

*都市中心の歪(いびつ)な姿を生んだ農の崩壊
 昭和42年、お上(かみ)は日本に米が余ったと発表。日本人の米離れが言われ、減反政策が始まった。つまり米は作るな、米はいらないということ。この減反政策と生産調整が進むにつれ、農の崩壊が加速していく。戦争に負けて、食糧不足だ、農民は国民のため米を増産せよといわれ、作れば今度は作るなという。農民の気持ちを無視した政策がもてはやされた。農の崩壊は地域の過疎化を招き、都市中心の歪な姿を生んだ。

*製造業の衰退は農業の衰退から
 それでも高度成長の頃は、農を放棄しながら経済大国日本を築いた。今、その経済はどうか。日本の要である製造業にも翳(かげ)りが見えている。ぼくは農業の衰退も無関係ではないと思っている。日本の製造業を支えてきたのは職人気質でもある。農から遠ざかり、手塩にかける技、創意工夫する力の育つ土壌が失われ、知恵の伝承が断たれる。製造業の衰退の危機はこんなところにも原因があるのではないか。

*放射能による作付け制限に消費者こそ危機感を
 東北は日本の米づくりの基盤である。放射性物質による汚染の懸念から作付けが制限されている地域がある。水田は一度でも作付けしないと荒れて使い物にならなくなる。葦(あし)や葛(くず)、猛々(たけだけ)しい雑草のおい繁(しげ)る休耕田、耕作放棄地の姿ほど怖ろしく不気味なものはなかった。本来なら瑞々(みずみず)しい水田の季節に、放射能による作付け制限を、消費者こそ危機感をもって考える必要がある。

▽ <安原の感想> 消費者としての危機感に着目

 田植えの季節である。60年以上も昔のこと、雨の中、蓑(みの)を着て、田植えに取り組む幼い自分の姿が浮かんでくる。小学生の頃から、家で飼っていた牛を使って田んぼを耕すことを父の教えで習い始めた。農家生まれの自分としては、農業を継ぐのは当然のことと思っていた。他の選択は夢にも考えたことはなかった。
 しかし人生は分からない。小学4年生の頃、関節リュウマチという病魔に取りつかれたのだ。医者も「普通は老人病であり、子どもには珍しい」と首を傾げていたが、中学2年まで毎冬、この病に襲われた。医者の次の一言が私の人生行路を大きく変えた。「息子さんには農業は無理だな」と。

 地元の高校へ進学、まず病弱な身体を鍛え直さなければならない。父の勧(すす)めもあり、戸外にあった井戸の水を使って毎朝、冷水摩擦を始めた。当時は冬になると、雪が多かったが、降りしきる雪の中でも上半身裸になって、冷水摩擦は欠かさなかった。
 お陰で高校3年間、病気で休むことはなかった。しかしもはや農業への関心は失っていた。東京の大学へ進む道を選び、このとき私は農家生まれでありながら農業を棄てたのだ。

 今でも年に一度は郷里へ帰省するが、その都度実感する。野坂の上述の指摘、「雑草のおい繁る休耕田、耕作放棄地の姿ほど怖ろしく不気味なものはない」を。この不気味さは、自分の目で観た体験がなければ理解できないだろう。

 何よりも見逃せないのは、次の洞察である。
 一つは「製造業の衰退は農業の衰退から」という認識である。高度成長の過程を経て、これまで「農業の衰退から製造業の興隆・発展へ」というイメージが広がり、常識になっていた。安い農産品は米国など海外から輸入すればよい、という安易な国際分業論である。この結果、食糧の自給率は4割という先進国では例をみないほどの危機的な低水準に落ち込んでいる。
 生命(いのち)の源である農業を軽視するところに製造業(工業)も永続しない。しかも金融(マネー)重視の新自由主義(=市場原理主義)的路線が製造業の衰退に拍車をかけてもいる。

 もう一つは「(原発)放射能による(水田の)作付け制限を、消費者こそ危機感をもって考える必要がある」という指摘である。ここに「消費者」が登場してくることに着目したい。経済用語である消費者は、購買力を持つ日本国民一人ひとりを指している。これに対し農業、製造業は産業別の分業の違いであり、それぞれに国民全員がかかわっているわけではない。
 原発惨事が日本国民全体の生死にかかわっていることは今では「常識」として認識されつつある。しかし「消費者」としての日本国民全体の危機であるという野坂流の視点を打ち出したのは、平凡に見えて、実は優れた認識とはいえないか。消費者だからこそ消費と共に危険な放射性物質を体内に摂取せざるを得ないという運命的危機から逃れられないという含意を汲み取ることが出来る。これは「消費者としての日本国民よ、決起せよ」という野阪節の叫びでもあるだろう。


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原子力発電は仏道とあいいれない
「いのちの尊重」と「足るを知る」を

安原和雄
仏教者の集まりである全日本仏教会の「反原発」宣言文、「原子力発電によらない生き方を求めて」が話題を呼んでいる。そのキーワードは「いのちの尊重」と「足るを知る」である。悲惨な原発事故が「いのちの尊重」に反することは言うまでもない。
 ではどういう生き方が望ましいのか。「もっともっと欲しい」という貪欲な生き方が原発推進と重なっていたことを考えれば、貪欲を否定する知足(足るを知る)の生き方へと転換していくほかない。知足は貧しさを意味しない。むしろ謙虚な充足感につながる、と理解したい。反原発は日常の暮らしのあり方にも自主的な新たな選択を促すだろう。(2012年5月14日掲載。公共空間「ちきゅう座」、インターネット新聞「日刊ベリタ」に転載)

 月刊誌『世界』(岩波書店刊・2012年6月号)は「原発は仏の道とあいいれない 過ちへの反省から出発を」という見出しのインタビュー記事を載せている。語るのは河野太通(こうの・たいつう)全日本仏教会(全日仏)前会長(注)。
(注)河野僧侶は1930年生まれ。現在、臨済宗妙心寺派管長。「3.11」当時、全日仏会長のポストにあった。著書に『床の間の禅語』(禅文化研究所)、『闘う仏教』(共著、春秋社)など多数。

▽ 原発をめぐる全日本仏教会前会長との一問一答

 以下、インタビュー記事の大要を紹介する。

*仏教者として発言をしなければ
 問い:臨済宗妙心寺派として昨2011年9月、脱原発を求める声明を出し、さらに全日仏会長として昨年12月、「原子力発電によらない生き方を求めて」(別項・参照)という宣言文を出した。
 河野:私は、仏の教えの基本は生命の尊厳と人権の尊重だと言ってきた。(中略)原発事故が起きて、現在も数万人以上の人々が故郷に帰れないままでいる。そこで、まず会長談話として原発によらない生活の創造を世に問うた。それから脱原発声明や宣言を出した。誰かが言うのを待つのではなく、気づいた者が勇気を持って言わなくてはならない。正しいことだと思っていても、周囲の目をうかがって、沈黙しているうちに戦争へ流れていった、かつてとの共通点を思う。

*時代の都合で変わらない生き方を求めて
 問い:全日仏の宣言文に「誰かの犠牲の上に成り立つ豊かさを願うのではなく、個人の幸福が人類の福祉と調和する道を選ばなければならない」とある。こうした考えと脱原発、あるいは過去の戦争を反省する姿勢は一体のものなのか。
 河野:戦争中に一番、我々の尻を叩いて軍国主義を叩き込んだ先生が、(敗戦後)「これからは民主主義の時代だ」と言って、リンカーンの言葉を「ガバメント オブ ザ ピープル・・・」なんて英語で説く。その先生は戦争中、「(日本が)戦争に勝てばアメリカ人も日本語を話すようになる」なんて言っていた。それで教師を、大人を、信用できなくなった。
 その先生はただその時代に置かれた立場、いわば都合があって、「英語なんて必要ない」と言っていたにすぎない。だから、また都合が悪くなれば、この先生はまた言うことが変わるのではないか。(中略)時代に翻弄されない生き方というものがあるのか、考えた。

 もう一つ、自分にとって衝撃だったことがある。仏教は、ことさらに人命の尊重を説く宗旨である。人間のみならず、動物や一木一草に到るまでの生命の平等の自覚から出発した教えで、それを説く仏教僧が、生命を奪う鉄砲を担いで戦争に加わっていた。衝撃だった。私は生命を尊重する生き方を求めて仏の道に身を投じた。ところがその仏教団が戦争に加担し、若者たちの尻を叩いていた。私は僧になることを迷った。その迷いは長く続いた。

*いまなお原発を動かそうという人間の欲望は恐ろしい
 問い:そうした戦争への反省があっての脱原発なのですね。
 河野:私は、原発も戦争も同じだと思う。一握りだったけれど、国策としての戦争に勇気をもって警告し反対していた人たちがいた。しかしそれが多くの声にならず、大きな流れを作れずに破局へと向かっていく。その点で原発と戦争には同じ流れがある。
 原発の危険性はもう誰もが分かっているはずなのに、「世界最高水準の安全性」などと言って再稼働させようとしている。原発で利潤を生んできた歯車を再び回そうとしている。 原子力発電は核発電です。ウランを使って電気を作れば、あとに、すさまじい放射能を帯びた汚染物が残る。これを無害無毒にする技術を人間は持っていない。事故によって未来にわたる大量の汚染物質という負の遺産を子孫に残していく。それが分かっていながら、まだ原発を動かそうと言う。人間の欲望は恐ろしいものです。

 原発をつくる金や、「安全」にするために何千億円もかけるのであれば、それを再生可能な自然エネルギーの開発と研究と普及に使った方がよい。今回の事故の反省から出発して、世界一の自然エネルギー国にする。そうなればいい。

*若者よ、生命の尊厳という仏教の基本理念を腹に据えて
 問い:脱原発という社会的な発言には勇気が必要ではないか。若い仏教者の方々はどうですか。
 河野:生命の尊厳と人権の尊重という仏の教えの基本理念を、仏の道に入る若者はしっかりと腹に据えてほしい。何より勇気をもって発言と行動をしてほしい。戦時中だけでなく、今でも立場の都合で本当のことを言わなくなる人はいくらでもいる。
 世間には言いたいことも言えない人はいっぱいいる。お勤めの人は大変です。上役の目もある。家族も養わないといけない。一番気にしなくていい仏教者がはっきりとものを言うべきだ。何を気にかけることがあるか、国法に触れる悪事を犯さないかぎり、住職になればずっと住職だ(笑い)。
 生命と人権を守るために、正しいことを言うために、住職というものがあるのだと思ってほしい。

*「足るを知る」質素な生活に
 問い:原発の再稼働に反対する世論が広がっているが、一方では「江戸時代に戻るのか」とか、「真っ暗な中で生活するわけにはいかない」という政治家もいる。
 河野:真っ暗はおどかしだが、私なんか少々暗くても大丈夫ですな。なにしろ戦争中は灯火管制で真っ暗でしたからな。むしろ、昼間から電灯を煌々(こうこう)とつけている現在のほうが異常なのだ。
 原子力発電の恐ろしさを知らずに、電気を使い放題に使ってきた私たちがまず、反省していかなければならない。江戸時代には戻らないにしても、なんぼか始末した、質素な生活になったほうがいいのではないか。仏教で言うところの「足るを知る」です。

▽ 全日仏の宣言文「原子力発電によらない生き方を求めて」

 参考までに河野太通氏が会長だった時の全日本仏教会の宣言文「原子力発電によらない生き方を求めて」(2011年12月1日付)を紹介する。その大要は以下の通り。

<宣言文>
 東電福島第一原子力発電所事故による放射性物質の拡散により、多くの人々が住み慣れた故郷を追われ、避難生活を強いられています。避難されている人々はやり場のない怒りと見通しのつかない不安の中、苦悩の日々を過ごされています。また、乳幼児や児童をもつ多くのご家族が子どもたちへの放射線による健康被害を心配し、「いのち」に対する大きな不安の中、生活を送っています。
 広範囲に拡散した放射性物質が、日本だけでなく地球規模で自然環境、生態系に影響を与え、人間だけでなく様々な「いのち」を脅かす可能性は否めません。

 日本は原爆による世界で唯一の被爆国であり、多くの人々の「いのち」が奪われ、また、一命をとりとめられた人々は現在もなお放射線による被曝で苦しんでいます。同じ過ちを人類が再び繰り返さないために、私たち日本人はその悲惨さ、苦しみをとおして「いのち」の尊さを世界の人々に伝え続けています。

 全日本仏教会は仏教精神にもとづき、一人ひとりの「いのち」が尊重される社会を築くため、世界平和の実現に取り組んでまいりました。その一方で私たちはもっと快適に、もっと便利にと欲望を拡大してきました。その利便性の追求の陰には、原子力発電所立地の人々が事故による「いのち」の不安に脅かされながら日々生活を送り、さらには負の遺産となる処理不可能な放射性廃棄物を生み出し、未来に問題を残しているという現実があります。
 だからこそ、私たちはこのような原発事故による「いのち」と平和な生活が脅かされるような事態をまねいたことを深く反省しなければなりません。

 私たち全日本仏教会は「いのち」を脅かす原子力発電への依存を減らし、原子力発電に依らない持続可能なエネルギーによる社会の実現を目指します。誰かの犠牲の上に成り立つ豊かさを願うのではなく、個人の幸福が人類の福祉と調和する道を選ばなければなりません。
 私たちはこの問題に一人ひとりが自分の問題として向き合い、自身の生活のあり方を見直す中で、過剰な物質的欲望から脱し、足ることを知り、自然の前で謙虚である生活の実現にむけて最善を尽くし、一人ひとりの「いのち」が守られる社会を築くことを宣言します。

2011(平成23)年12月1日
財団法人 全日本仏教会

▽ <安原の感想> 「いのちの尊重」、「足るを知る」を実践するとき

 インタビュー記事と宣言文に盛り込まれているキーワードは二つある。「いのちの尊重」と「足るを知る」である。
 例えばインタビュー記事に「生命の尊厳と人権の尊重という仏の教えの基本理念を、仏の道に入る若者はしっかりと腹に据えてほしい。何より勇気をもって発言と行動をしてほしい。戦時中だけでなく、今でも立場の都合で本当のことを言わなくなる人はいくらでもいる」とある。
 ここには単に「生命の尊厳」を認識するだけでなく、その認識を生かすよう「勇気をもって発言し、行動してほしい」と実践の大切さを強調している。

 「足るを知る」=「知足」も重要である。宣言文に「自身の生活のあり方を見直す中で、過剰な物質的欲望から脱し、足ることを知り、自然の前で謙虚である生活の実現にむけて最善を尽くすこと」とある。
 「生命の尊厳」と同様に「知足」(「もうこれで十分」と受け止める謙虚な充足感)も日常の実践が重要である。
 私が提唱している仏教経済学に八つのキーワード、すなわち<いのちの尊重、非暴力(=平和)、知足、共生、簡素、利他、多様性、持続性>がある。これらのキーワードにはインタビュー記事、宣言文に出てくる「いのちの尊重」、「知足」も含まれている。

 もう一つ見逃せないのは、戦争と原発の問題である。
 インタビュー記事に「私は、原発も戦争も同じだと思う。一握りだったけれど、国策としての戦争に勇気をもって警告し反対していた人たちがいた。しかしそれが多くの声にならず、大きな流れを作れずに破局へと向かっていく。その点で原発と戦争には同じ流れがある」と。
 この指摘にも同感である。原発でさらに破局を拡大させないためには、5月5日以来全面停止中の原発の再稼働を許さないことである。それは戦争の悲惨な犠牲を繰り返さない決意と重なっている。


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今こそ「奴隷」に「さようなら」を
平和憲法施行から65周年を迎えて

安原和雄
2012年5月3日、あの敗戦後の廃墟と混乱の中で施行された現行平和憲法は65年の歳月を重ねた。大手紙の憲法観は乱れ、護憲派、改憲派に分かれている。しかし戦争放棄と共に人権尊重を掲げる優れた憲法理念は、あくまで守り、生かさなければならない。
 特に強調すべきことは、憲法18条(奴隷的拘束からの自由)をどう生かすかである。現下の政治、経済、社会状況は多くの若者や労働者を事実上の奴隷状態に追い込んでいる。これがかつての経済大国ニッポンの成れの果てと言えば、誇張に過ぎるだろうか。今こそ「奴隷状態」に「さようなら」を告げるときである。(2012年5月4日掲載。公共空間「ちきゅう座」、インターネット新聞「日刊ベリタ」に転載)

 2012年5月3日付の大手紙社説は憲法施行65周年を迎えて、どう論じたか。主要5紙社説の見出しを紹介する。
*東京新聞=人間らしく生きるには 憲法記念日に考える
*朝日新聞=憲法記念日に われらの子孫のために
*毎日新聞=統治構造から切り込め 国のかたちを考える ⑤論憲の深化
*読売新聞=憲法記念日 改正論議で国家観が問われる 高まる緊急事態法制の必要性
*日本経済新聞=憲法改正の論議を前に進めよう

 以上の見出しからも察しがつくように、本来の憲法理念をどう生かすかを中心に論じている「理念尊重」派が東京、朝日である。一方、読売と日経は明らかに現行憲法に不満を抱く改憲論に立っている。両派に比べ中立の立場を匂わしながら、「論憲」という名の改憲姿勢であるのが毎日といえよう。
私(安原)自身は、「理念尊重」派に属している。観念的な「理念尊重」ではない。21世紀、特に「3.11」(2011年3月の大震災と原発大惨事)以後の日本再生は、「理念尊重」をどう具体化していくかにかかっている。憲法理念を軽視するようでは日本再生は正道を踏み外すことになるだろう。

▽ 人間らしく生きる ― 憲法25条の生存権

 ここでは「人間らしく生きる」視点を重視する東京新聞社説の大要を以下に紹介する。

 哲学書としては異例の売れ行きをみせている本がある。十九世紀のドイツの哲学者ショーペンハウアーが著した「幸福について」(新潮文庫)だ。次のようにも記されている。
 《幸福の基礎をなすものは、われわれの自然性である。だからわれわれの福祉にとっては健康がいちばん大事で、健康に次いでは生存を維持する手段が大事である》
 生存を維持する手段。まさしく憲法の生存権の規定そのものだ。「健康で文化的な最低限度の生活を営む権利」を保障した第二五条の条文である。

 大震災と原発事故から一年以上も経過した。だが、岩手・宮城のがれき処理が10%程度というありさまは、遅延する復旧・復興の象徴だ。原発事故による放射能汚染は、故郷への帰還の高い壁となり、今なお自然を痛めつけ続けてもいる。
 肉体的な健康ばかりでなく、文化的に生きる。主権者たる国民はそれを求め、国家は保障の義務がある。人間らしく生きる。その当然のことが、危機に瀕(ひん)しているというのに、政治の足取りが重すぎる。
 生存権は、暮らしの前提となる環境を破壊されない権利も含む。当然だ。環境破壊の典型である原発事故を目の当たりにしながら、再稼働へと向かう国は、踏みとどまって考え直すべきなのだ。

 国家の怠慢は被災地に限らない。雇用や福祉、社会保障、文化政策、これらの社会的な課題が立ちいかなくなっていることに気付く。例えば雇用だ。

◆50%超が不安定雇用
 若者の半数が不安定雇用。こんなショッキングな数字が政府の「雇用戦略対話」で明らかになった。二〇一〇年春に大学や専門学校を卒業した学生八十五万人の「その後」を推計した結果だ。
 三年以内に早期離職した者、無職者やアルバイト、さらに中途退学者を加えると、四十万六千人にのぼった。大学院進学者などを除いた母数から計算すると、安定的な職に至らなかった者は52%に達するのだ。高卒だと68%、中卒だと実に89%である。予想以上に深刻なデータになっている。

 労働力調査でも、完全失業者数は三百万人の大台に乗ったままだ。国民生活基礎調査では、一世帯あたりの平均所得は約五百五十万円だが、平均を下回る世帯数が60%を超える。深刻なのは、所得二百万円台という世帯が最も多いことだ。生活保護に頼らざるをえない人も二百万人を突破した。
 とくに内閣府調査で、「自殺したいと思ったことがある」と回答した二十代の若者が、28・4%にも達したのは驚きだ。「生存を維持する手段」が瀬戸際にある。もはや傍観していてはならない。

 一九二九年の「暗黒の木曜日」から起きた世界大恐慌で、米国は何をしたか。三三年に大統領に就任したルーズベルトは、公共事業というよりも、実は大胆な失業救済策を打ち出した。フーバー前政権では「ゼロ」だった失業救済に、三四年会計年度から国の総支出の30%にもあたる巨額な費用を投じたのだ。
 当時、ヨーロッパでも使われていなかった「社会保障」という言葉自体が、このとき法律名として生まれた。「揺りかごから墓場まで」という知られたフレーズも、ルーズベルトがよく口ずさんだ造語だという。

 翻って現代ニッポンはどうか。社会保障と税の一体改革を進めるというが、本音は増税で、社会保障の夢は無策に近い。「若い世代にツケを回さないため」と口にする首相だが、今を生きる若者の苦境さえ救えないのに、未来の安心など誰が信用するというのか。ルーズベルトの社会保障とは、まるで姿も形も異なる。

◆現代人は“奴隷”か
 十八世紀の思想家ルソーは「社会契約論」(岩波文庫)で、当時の英国人を評して、「彼らが自由なのは、議員を選挙する間だけのことで、議員が選ばれるやいなや、イギリス人民はドレイ(奴隷)となり、無に帰してしまう」と痛烈に書いた。
 二十一世紀の日本人は“奴隷”であってはいけない。人間らしく生きたい。その当然の権利を主張し、実現させて、「幸福の基礎」を築き直そう。

▽ <安原の感想> 脱「奴隷」から日本の再生は始まる

 東京新聞社説の末尾の指摘は「刺激的」であり、かつ「挑発的」でもある。<二十一世紀の日本人は“奴隷”であってはいけない。人間らしく生きたい。その当然の権利を主張し、実現させて、「幸福の基礎」を築き直そう>と。
 憲法18条(奴隷的拘束からの自由)に「何人も、いかなる奴隷的拘束も受けない」とある。この憲法の条項をどれだけの人が理解し、脳裏に刻みつけているだろうか。「刺激的」とは、「えっ? そんなことが憲法に書いてあるの」と驚く人が少なくないだろうからだ。一方、「挑発的」とは、黙っていていいのか。変革のために立ち上がれ、と促しているとも理解できるからだ。

 何をどう変革するのか。上記の社説にそのデータが満載である。変革とは、少なくとも以下のような悪しき現実を改善することだ。
・若者の半数が不安定雇用
・完全失業者数は三百万人の大台に乗ったまま
・一世帯あたりの平均所得(約五百五十万円)を下回る世帯数が60%超
・生活保護に頼らざるをえない人も二百万人を突破
・「自殺したいと思ったことがある」二十代の若者が、28・4%にも

 多くの人は今や「豊かさ」よりも「幸せ」を求めて生きている。その幸せを実現させるための第一歩は「自分は奴隷に甘んじているのではないか」と自覚することから始まるにちがいない。つまり脱奴隷への道を見すえることだ。
 そのための必要条件として、脱原発との連携が不可欠であるだろう。考えてみれば、原発推進のための原発複合体(政官財のほか学者、メディアなどが構成メンバー)そのものが民衆・市民を奴隷的拘束状態に閉じ込める装置として機能してきた。当初から反原発の少数派は別にして、原発容認の多数派は、奴隷状態に置かれていることに無自覚であった。
 しかし「3・11」を境に反原発の少数派が多数派に成長した。つまり脱奴隷への道を着実に歩みつつある。もはや逆流はあり得ないだろう。いったん自覚した奴隷が再び無自覚の奴隷へと転落することはあり得ない。ここから日本の再生が始まる。


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「おまかせ民主主義」にサヨナラ
日本の民主主義をどう建て直すか

安原和雄
 国民一人ひとりが民主主義の権利を行使しないで一部の人に任せてしまう「おまかせ民主主義」にサヨナラという気運が広がり始めた。しかもわが国の民主主義を建て直すにはどうしたらよいかに関心が集まりつつある。
 2013年参議院選挙に初名乗りすることをめざす「みどりの未来」(現在、地方議員を主体とする政治組織)の「みどりの未来ガイドブック」(政策案内書)が「おまかせ民主主義」の改革について解説している。行き詰まった現在の民主党政治の打破をめざす新風であり、その行方に注目したい。(2012年4月25日掲載。公共空間「ちきゅう座」、インターネット新聞「日刊ベリタ」に転載)

▽ 「おまかせ」をどう克服するか

 湯浅誠さん(反貧困ネットワーク事務局長)が朝日新聞(4月13日付)オピニオン欄でインタビューに答えて、〈「おまかせ」はダメ、主権者の力を示し、一つずつ変えたい〉と以下のように語っている。

 「議会制民主主義には改善すべき点が多々ありますが、複雑なものを無理にシンプルにしよう、ガラガラポンしてしまおうという欲求の高まりには危機感を覚えます」
 ― 橋下徹(大阪市長)現象、ですね
「橋下さんが支持を集めているのは『決めてくれる人』だからで、その方向性は問われません。『おまかせ民主主義』の延長に橋下さんへの期待がある。
 ― 政治家にならないのですか。
日本の民主主義の現状は危機的です。『おまかせ』の回路を何としても変えたい。主権者としての力を示したい。

 このインタビュー記事の中に「おまかせ民主主義」という指摘が登場していることに着目したい。この「おまかせ民主主義」という表現は、最近目に付くようになってきた。その顕著な一例は、2012年7月に環境政党「緑の党」を旗揚げし、2013年参議院選挙に初名乗りすることをめざす「みどりの未来」(現在、地方議員を主体とする政治組織)で、その「みどりの未来ガイドブック」が「おまかせ民主主義にサヨナラ」と題してくわしく解説している。

 「おまかせ民主主義」とはどういう含意なのか。それを克服するためには何が必要なのか。その骨子は以下の通りである。
(1)民主主義の3原則
 民衆(市民)が主権者であるためには、以下の3原則が必要不可欠
①情報公開なくして民主主義なし=情報が不正確で部分的であれば、妥当な決定もできない。
②熟議なくして妥当な決定なし=市民やNGOの多様な意見が表明され議論されることで、妥当な決定が可能となる。
③民意が届く決定システムを=決定の影響を最も受ける当事者の民意が優先的に配慮されるべきである。

(2)福島原発事故で露呈した日本民主主義の貧困
①情報秘匿(市民には知らせない)=電力需給の逼迫を煽るための電力会社の恣意的な数値と情報操作。原発コストを低くするための情報操作など
②説明責任の放棄(決定・判断の理由を適切に適切に説明しない)=事故直後から多用される「ただちに影響はない」は説明責任放棄の象徴
③形骸化する公開議論やメディア=審議会、学会での原発反対の専門家やNGOを排除する姿勢など
④意見表明のための公共空間の規制=デモ(パレード)への過剰規制など
⑤国民投票・住民投票への無関心=決定権限は政府、政党、専門家、業界にあるとして、脱原発の民意無視など
⑥民意を反映・活性化させない選挙制度=民意をねじ曲げる小選挙区制を堅持し、比例代表制を無視など

(3)参加民主主義へ
①正確かつ全面的な情報公開のために=市民が参加する自立したメディアの発展と育成など
②開かれた公共的議論のために=利害当事者から独立した公共的議論の場の確保など
③民意が届く決定システムのために=現行の小選挙区制から比例代表制への転換、国民投票や住民投票など直接投票促進のための制度改革など
④自由・分権・平等を保障する政党内民主主義=政党の決定と異なる意見を表明する権利など

(4)責任を引き受ける民主主義へ
*なぜ「おまかせ民主主義」だったのか
・外交、平和、軍事などの「アメリカへのおまかせ」
・「官僚主導の経済成長へのおまかせ」の体質は依然として払拭できていない
・閉鎖集団化(原子力村!)と自己中心主義・孤独化
・集団も個人も、私的利益の視点からの政府への不満・批判に終始し、公共的議論が衰退*「参加」とは「責任を引き受ける」こと
・「おまかせ」して物事がうまく行く時代は終わった。社会全体の共通利益のためには、決定権を一部に「おまかせ」してきた市民が、参加する権利を獲得すること
・参加民主主義とは、他者との対話・論争・熟議によって「共通の利益のための決定」というプロセスの責任を引き受けること

▽「おまかせ民主主義にサヨナラ」のキーワード

 以上の「おまかせ民主主義にサヨナラ」の中から「サヨナラ」を実現するためのキーワードを抽出すると、以下のようである。

 情報公開、熟議、民意、説明責任、国民投票、住民投票、比例代表制、自立したメディア、公共的議論、参加と責任を引き受けること、などが挙げられる。これらのキーワードの中で注目すべきは、熟議、自立したメディア、公共的義論、参加と責任である。

*熟議とは
まず熟議とはどういう含意か。上述の「(1)民主主義の3原則」に②「民主主義の熟議なくして妥当な決定なし=市民やNGOの多様な意見が表明され議論されることで、妥当な決定が可能となる」とある。たしかに民主主義のためには熟議、すなわち市民やNGOなどの多様な意見表明と議論が不可欠である。これまで日本社会には多様な要求はあったが、ややもすれば言いっぱなしで、その是非をめぐる熱心な議論は少なかった。
*自立したメディア
 新聞、テレビなどメディアは、政府などの権力の意向に追随するのではなく、批判的視点を堅持しなければならない。それが「自立したメディア」本来の姿勢であるが、現状はそうではない。テレビはいうまでもなく、昨今は大手メディアまでも権力にすり寄る姿勢が目立つ。これでは「おまかせ民主主義にサヨナラ」はとても無理で、むしろ「サヨナラ」の足を引っ張ることになりかねないだろう。
*公共的議論
 公共的議論という表現自体、日本では馴染みにくい。何を含意しているのか。「(3)参加民主主義へ」の②に「開かれた公共的議論のために=利害当事者から独立した公共的議論の場の確保」とある。例えば脱原発をめぐる議論では、利害当事者の「電力会社を含む原発推進複合体」は参加資格なし、である。それは当然として、ではいわゆる良心的、中立的な立場の有識者であれば、公共的議論が可能なのか。未知の分野への試みとして評価したい。
*参加と責任
 「(4)責任を引き受ける民主主義」という発想も目新しい。今では「参加」は常套句にさえなっている。しかし「参加」しながら、それに伴う「責任」を参加者ひとり一人が引き受けるという観念は従来薄かった。今後はどうか。例えば脱原発はむろん正しい。重要なことは脱原発路線に参加、つまり賛成しながら、どう責任を引き受けるのか。それは仮に電力が不足すれば(電力会社に都合のいい電力不足説は論外として)、節電に協力し、それを受け入れるということだろう。こういう責任感覚は原発大惨事以降、広がりつつある。

<安原の感想> 脱「おまかせ民主主義」と脱原発を求めて

 次のような新聞記事の一節を紹介する。
 「日本は、えらい人にやってもらう『水戸黄門』文化がいまだに色濃い。自分たちで金を出し合って雇う『七人の侍』的要素が、必ずしも広がらない」
 一進一退、あきらめずにやるしかないと菅は思う。(4月24日付朝日新聞の「ニッポン 人・脈・記」から)

 文中の菅とは、市民運動から政界入りした菅直人前首相を指している。「水戸黄門」と「七人の侍」の対比が適切かどうかはさておき、興味深い指摘である。「水戸黄門」文化とは、いいかえれば「おまかせ民主主義」の雰囲気がある。
 「3.11」後の脱原発を軸とする日本の変革をどう進めるか。その有力な手法、行動、知恵となるのが脱「おまかせ民主主義」であることは間違いない。
 例えば電力不足と節電をどう理解し行動するかである。現在定期検査で停止中の原発を運転再開しないと、電力不足が生じるので、脱原発は現実的ではないというのが民主党政権、大企業、電力会社などの言い分である。これに対し、朝日新聞(4月24日付)世論調査(近畿=京都、大阪の2府、滋賀、兵庫、奈良、和歌山の4県が対象)によると、「節電や一時的な計画停電が必要になってもよいか」の問いに「なってもよい」の答えが77%に上る。節電志向は圧倒的多数派である。
 つまり脱原発を前提に節電の心構えは広がりつつあるのだ。このことは「おまかせ民主主義」にサヨナラの気運が高まりつつあるともいえるのではないか。


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