「もっともっと欲しい」の貪欲の経済から、「足るを知る」知足の経済へ。さらにいのちを尊重する「持続の経済」へ。日本は幸せをとりもどすことができるでしょうか、考え、提言し、みなさんと語り合いたいと思います。(京都・龍安寺の石庭)
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「社長の品格」を決める条件は
ライブドア拝金主義に実刑判決

安原和雄
粉飾決算で不正な利益を荒稼ぎし、罪に問われた拝金主義・ライブドアの被告に次々と実刑判決が言い渡された。企業の犯罪、不祥事は1980年代のバブル時代から絶えることがない。厳しく問われているのは、「企業の品格」、「社長の品格」であり、同時に企業をどん欲な利益追求に走らせる自由市場原理主義そのものである。(07年3月25日掲載、同日インターネット新聞「日刊ベリタ」に転載)

 東京地裁は07年3月16日、証券取引法違反に問われたライブドア(LD)前社長のホリエモンこと、堀江貴文被告(34)に懲役2年6月の実刑判決、つづいて同月22日、同じく証取法違反でライブドア前取締役の宮内亮治被告(39)にも懲役1年8月の実刑判決を言い渡した。さらに同月23日、公認会計士(42)に懲役10月の実刑判決となった。

 堀江前社長に対する判決文は、次のように拝金主義を厳しく批判している。
 「粉飾により株価を不正につり上げて、LDの企業価値を実態よりも過大に見せかけ、人為的にLDの株価を高騰させ、同社の時価総額を短期間で急激に拡大させた。一般投資家をあざむき、その犠牲の上に立って、企業利益のみを追求した犯罪で、強い非難に値する」

 「企業経営者には高い倫理観と順法精神が求められるのであって、企業利益のみを追求し、法を無視することは許されない。まして上場会社には廉直かつ公正な、透明性のある経営が要請されている。堀江被告らは見せかけの成長にこだわり、短期的な企業利益のみを追求したものであって、そこには上場企業の経営者としての自覚はみじんも感じられない」

▽実刑判決を大手メディアはどう受け止めたか

 堀江被告に対する実刑判決をメディアはどう受け止めたか。大手6紙の3月17日付社説(見出し)を紹介しよう。
読売新聞=金銭至上主義が断罪された
朝日新聞=断罪された「錬金術」
毎日新聞=ルール無き拝金が断罪された
日本経済新聞=実刑判決だけでは量れぬ堀江被告の「罪」
産経新聞=断罪されたのは「軽さ」だ
東京新聞=断罪された虚業の実態

 拝金主義への批判が各紙社説の基調にうかがわれるが、ここではその背景分析に広がりをもたせている毎日新聞社説の一部を紹介しよう。以下のように述べているところが目についた。

 堀江前社長は刺客候補として05年の総選挙に登場した。その際、自民党の幹事長が「わが息子、わが弟」とまで言って持ち上げた。信条は「稼ぐが勝ち」で、カネがすべてという人物をヒーローのように扱い、もてはやしたことについても反省が必要だ。
 勝ち組・負け組、格差社会と堀江前社長の存在は、裏腹の関係にある。金銭欲が人を突き動かすのは否定できない。しかし、まじめに働くよりマネーゲームがほめそやされるのは、決していいことではない。
 ルール無視のどん欲は通用しないことを、実刑判決は、改めて私たちに示した。

 以上のメディアの論評をまつまでもなく、ルール無視のどん欲なマネーゲーム、つまり拝金主義が批判されるべきであることはいうまでもないが、問題はこの拝金主義をどういう広がりでとらえるかである。ライブドア社に局限されるあだ花にすぎないのか、それとももっと根は深いのかを問わなければならない。

▽負の悪循環を招く自由市場原理主義

 実刑判決について国民新党の亀井静香代表代行(05年総選挙広島6区で堀江刺客候補を破った)が語った次のコメント(3月16日付毎日新聞夕刊)が興味深い。
 「私に刺客として(堀江被告を)送ってきた自民党の責任ってないのかね。小泉純一郎前首相や武部前幹事長は頭を丸めたらいい」、さらに「何をやってもおカネを握った方が勝ちという風潮を作ったのが小泉改革である。目的のために手段を選ばないということはホリエモン君のやってきた仕事と共通している」と。
 
これは単に自民党を批判するだけでなく、拝金主義を助長した小泉改革そのものにも批判を浴びせた発言であり、的確なコメントといえる。ここで改めて考えたいのは、小泉改革とは、一体何だったのか、である。
 その旗印はアメリカ主導の自由市場原理主義である。ここでの「自由」とは、企業が市場で自由に、つまり公的規制から自由にどん欲に企業利益を追求し、増やしていくことを奨励するという意味である。憲法が保障している多様な自由、例えば思想、良心、表現、学問の自由― などとは無縁であるだけでなく、基本的権利にかかわる多様な自由と対立する位置にあることを認識する必要がある。

 そういう企業利益を追求するための手だてが民営化、自由化、公的規制の緩和・廃止を軸とし、勝ち残りをめざす激しい競争のすすめである。これは弱肉強食、勝ち組・負け組の選別に伴う格差拡大、非正規社員の増大、長時間労働、精神的抑圧感、過労死、自殺―など多くの弊害と悲劇を拡大させずにはおかない。これが、目下進行しつつある現実である。

 この負の悪循環を招く自由市場原理主義は小泉政権から安倍政権に変わっても大筋では継承されていることを見逃してはならない。自由市場原理主義を土壌とする利益至上主義=拝金主義は決して一企業のみにみられるあだ花ではなく、日本列島を汚染し続けて止むことがない、といっても誇張ではないだろう。

▽「社長の品格」その1―自らの「業」が深いと気づいたとき

 自由市場原理主義の基本路線に変更がない限り、「拝金主義よ、さようなら」と告別することも容易ではない。しかし個々の企業の立場からみれば、露骨な利益追求、拝金主義はお客様、消費者から見放されることもまた事実である。どうすべきか。ここで問われるのは「企業の品格」、「社長の品格」である。
 月刊誌『BOSS』(07年5月号)の特集「社長の品格」を手がかりに考えてみる。

 読んでみて「なるほど」と感じる記事を2つ紹介したい。どちらも実践的品格論である。1つは古田英明・縄文アソシエイツ社長の「〈私利私欲〉は副社長まで―社長に求められる条件」(要旨)である。

 儲けるだけの野蛮な経営者は、品格がなくてもできる。(中略)生命力の強さ、私利私欲の強さについて、エネルギーレベルが高いなどという言い方を耳にすることもあるが、これは仏教でいう「業」が深いということではないか。自らの「業」が深いと気づいた時に品格が生まれ始める。私利私欲を抑える術を得たとき、ようやく品格ある人間になれるといえるのではないか。
 歴史ある大企業で、すばらしい会社は、「俺が俺が」という私利私欲は副社長や専務で終わりにさせておいて、品位品格を担保できる人を社長にするというシステムが機能している。
(企業の)継続力、復元力を考えた時、何が一番必要かというと、会社の品格である。別の言葉で言えば、徳をもつということ。徳のある会社であるためには、やはり会社を代表するリーダーに品格がなければならない。

▽「社長の品格」その2―「淡泊にあらざれば志あきらかならず」

 もう1つは、SBIグループ代表の北尾吉孝氏の「時空を超えて私淑できる人間を持つこと」(要旨)である。

 企業に限らず、教育の現場も含めて、リーダーとしての資質を磨くという風土が社会全体になくなってしまった。(論語に)「君子は義に喩(さと)り、小人は利に喩る」というが、この利を優先して、義を後回しにしてしまっている。あるいは志と野心とを勘違いしている。
 志は非常に壊れやすいものだから、この志をどうやって保っていくかというと、まず私利私欲をなくすことだ。諸葛孔明(181~234年、中国・三国時代の軍略家)は戦場から息子に送った遺書の中で「淡泊にあらざれば志あきらかならず」といっている。淡泊でないと志を持続していくことができないということだと思う。
 企業のトップはきちんとした企業観をもつべきだ。企業は社会があって初めて存在し得る。決して株主のためだけの存在ではない。お客さま、取引先、地域社会、役職員など企業を取り巻くすべての利害関係者があってこそ存在できるのに、株主だけをクローズアップして考えると間違ってしまう。

 以上2つの品格論に私は次のことをつけ加えたい。「私利私欲、拝金主義をそそのかす自由市場原理主義の前に大手を広げて待った、をかけること、これが品格の決め手とはいえないか」と。

▽あの雪印乳業はいまどうしている?

 2000年6月から7月にかけて近畿地方を中心に発生した過去最大の集団食中毒事件(被害認定者数は13000人超)で苦境に追い込まれた雪印乳業は、今どうなっているのか。
 事件後の02年6月、長年の消費者運動の経験を生かして社外取締役に就任、雪印乳業の経営建て直しに取り組んできた日和佐信子氏は、「危機管理と広報」というテーマでの講演(経済広報センター発行の『経済広報』07年3月号に掲載)で企業不祥事の原因として次の諸点を挙げている。
①〈社会の常識〉と〈企業の常識〉が乖離(かいり)していること
②安全性よりも利益が優先されること
③リスクを隠したがること

同社は信頼回復のために〈社会の常識〉をどう社内に取り入れるかという視点に立って、企業倫理委員会によるチェック機能の導入など多様な試みを実施しているが、問題は〈社会の常識〉とは何を指しているのか、であろう。
 経済広報センターの「生活者の企業観に関するアンケート」調査(06年11月実施)結果(上記の『経済広報』に掲載)によると、生活者(消費者)が企業評価基準として「非常に重要」と考える上位3つは次の通りである。
①商品・サービスの高い質を維持している
②企業倫理が確立され、不祥事が起きにくい
③不測の事態が発生した際に的確な情報発信をしている

▽自由市場原理主義に歯止めをかけること

 以上のような〈社会の常識〉に対し、依然として利益を優先し、不祥事のリスクを隠したがるようでは適切な対応は不可能である。重要なことは、企業として自由市場原理主義に翻弄(ほんろう)されないことである。
 同氏が講演で次のように述べた点に着目したい。これは雪印乳業に限らず、すべての企業への適切な助言と受け止めたい。

 「雇用環境の変化をみると、正規社員が減り、非正規社員が増えている。つまり何か不満があれば、すぐに告発される環境にあるということで、だから企業経営は誰からみられても、どんな場合でも絶対に大丈夫、という正しいやり方、ルールに従ってきちんとやっていなければならない。そして今、企業倫理が問われている。法律さえ守っていればいいわけではない。そこがかつての社会状況と全く違っている」と。

 ここには自由市場原理主義路線の下で企業がどん欲な利益を追求する結果、低賃金の非正規社員が増大し、その非正規社員による告発―良質の告発であることが必要条件―が企業の野放図な利益追求を阻むという構図が浮かび上がってくる。
 自由市場原理主義に歯止めがかかれば、それは企業社会が企業倫理を取り戻し、健全な発展を遂げていくためにはむしろ歓迎すべきことである。


(寸評、提案歓迎! 下記の「コメント」をクリックして、自由に書き込んで下さい。実名入りでなく、仮名でも結構です)


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コメント
この記事へのコメント
実践的品格論
きれいごとの品格論と実践的品格論の二つがあると思いますが、今回提起されている品格論はまさに後者の実践的品格論の方だと読みました。

一つは、自らの「業」が深いと気づいた時に品格が生まれ始める。私利私欲を抑える術を得たとき、ようやく品格ある人間になれる、と仏教的視点から書かれていますが、気づくこと自体が至難ではないでしょうか。

もう一つは、諸葛孔明の「淡泊にあらざれば志あきらかならず」です。「なるほど」とうなづかせるところがあります。
その具体策として「企業は社会があって初めて存在し得る。決して株主のためだけの存在ではない」という企業観を身につけるべきだという提案は、その気になれば実践できます。

ただその場合、やはり株主の利益を最重視する自由市場原理主義にどう対決するかがカギでしょう。品格の決め手としてこの「自由市場原理主義」の前に立ちはだかって、「待った」をかけること、を挙げていますが、同感ですね。

ただ経営者としては「言うは易く行うは難し」がここでも当てはまります。困難であるが故に、それを実践していくところに品格が生まれてくる―のではないでしょうか。
決意と精進の欠けたところに品格など身につくはずもないでしょう。

毎日のようにテレビで経営トップたちが頭を下げて「反省とお詫び」の姿勢を見せていますが、「頭を下げればいいんだろう」という甘えさえ感じます。
ああいう無様な姿をさらすようでは「品格に縁なき衆生」のようにも思えますが、どうでしょうか。
2007/03/29(木) 13:43:49 | URL | WA. #-[ 編集]
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