「もっともっと欲しい」の貪欲の経済から、「足るを知る」知足の経済へ。さらにいのちを尊重する「持続の経済」へ。日本は幸せをとりもどすことができるでしょうか、考え、提言し、みなさんと語り合いたいと思います。(京都・龍安寺の石庭)
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説法・日本変革への道(全容)
説法・日本変革への道

 安原和雄
 仏教経済学の視点からどのような日本変革論が可能だろうか。2005年10月26、7日の両日、浄土宗の教化高等講習会が栃木県下で開かれ、私は、「いのちの尊重と仏教経済学ー地球環境時代をどう生きるか」と題して講演した。参加者は関東地区から集まったお坊さんたちで、以下は、坊さんならぬ一介の仏教経済学徒が講演の趣旨を織り込んでまとめた「説法・日本変革への道」(全容)である。この日本変革論は小泉首相の改革路線とは180度異質であることを強調したい。(別稿で要約を掲載)

Ⅰ.仏教の社会的責任(BSR=Buddhist Social Responsibility)
 最近、企業の社会的責任(CSR=Corporate Social Responsibility)が厳しく問われるようになった。03年1月スイスで開かれた世界経済フォーラム年次総会(通称ダボス会議)で「企業は貪欲に利益を追求するだけでよいのか」という声が相次いで飛び出した。短期利益や株価だけを重視する米国式経営の限界が米企業の数々の不祥事で表面化したためである。日本企業の不祥事が相次いでいる今日、CSRは日本でも日常用語になった観がある。

 仏教が社会的存在である以上、企業同様に社会的責任が問われるべきではないだろうか。私は05年10月中旬「安原和雄の仏教経済塾」に「企業人はカネの奴隷か」という一文を載せた。読者からの感想に「権威あるお寺のお布施もカネ次第になっている現状では仏教はどこまで有効なのか」があった。もっともな疑問である。
 私はCSRにヒントを得てBSR(仏教の社会的責任)という新語をつくった。葬式仏教にとどまらず、現世において仏の教えが日常生活の中に浸透していくこと、さらに衆生済度の思想を生かして人助け、世直しのために貢献することが仏教の社会的責任とはいえないか。そういう視点から仏教経済学の特質は何か、仏教経済学からどのような日本変革への道筋を引き出すことができるかを考える。

Ⅱ.仏教経済学(「知足の経済学」)と現代経済学(「貪欲の経済学」)の比較
実は肝心のビジネスマンたちと仏教経済学はまだ縁が浅い。「仏教経済学って、なに?」という反応が普通である。仏教経済学は現代経済学とどう異なるのか。双方の経済学の特質を以下に説明したい。

▽仏教抜きの経済学は愛情のないセックス?
 仏教経済学は地球環境時代の経済思想であり、一方、現代経済学は経済成長時代のそれである。第2次世界大戦後の大きな時代区分として経済成長時代と地球環境時代を考える。経済成長によって豊かさを追求してきたのが経済成長時代で、日本では1990年頃、バブル崩壊とともに終わった。そしてわれわれはいま地球環境時代に生きている。
 地球環境時代とは、どういう時代なのか。地球環境の汚染・破壊によって、地球上の人間・動植物も含めた生きとし生けるものすべての「いのち」の生存基盤が破局に直面している。最近頻発する異常気象、自然大災害はその具体的な現れである。この現状を地球環境の保全と再生によってどう打開するかが緊急の至上命題となっている、そういう今日の時代を指している。

 破局をもたらしたものは、現代経済思想(注)であり、それに基づく経済成長路線であった。経済成長の旗振り役を務めた現代経済学者たちの責任は大きい。現代経済学はすでに破産したともいえる。だから地球環境時代にふさわしい新しい経済思想を構築しなければならない。それが仏教経済思想である。
 (注)現代経済思想とは、イギリスの経済学者、ジョン・M・ケインズ(1883~1946年、主著は『雇用、利子および貨幣の一般理論』・1936年)のケインズ経済学(財政赤字による経済成長主義)、最近の自由市場原理主義(ブッシュ米大統領・小泉首相チームによる弱肉強食の経済思想)などを指している。

 著書『スモール イズ ビューティフル』(講談社学術文庫)で「仏教経済学」を提唱したことで知られるドイツ生まれの経済思想家、E・F・シューマッハーは「仏教抜きの経済学は愛情のないセックスと同じだ」と言った。これはなにを意味するのか。仏教経済学がめざすものはいのち、安らぎ、慈しみそのものであり、一方、現代経済学は愛情のないセックスにたとえられると主張したいのだろう。

▽第一の特質はいのちの尊重
 さて仏教経済学の第一の特質は、いのちの尊重である。地球は人間、自然(生態系)のいのちからなる広大な生命共同体であり、その共同体丸ごとのいのちが危機にさらされている。だから、仏教経済学はいのちの尊重を前面に掲げる。釈迦の説法は「すべての者は暴力におびえる。すべての〈生きもの〉にとって生命は愛(いと)しい。己(おの)が身をひきくらべて、殺してはならぬ。殺させしめてはならぬ」である。しかし現代経済学にはそもそもいのちの尊重という発想はない。視野の外に置かれている。
自然と人間の関係について仏教経済学は、人間を自然の一員としてとらえるのに対し、現代経済学の立場では人間が自然を征服・支配し、破壊することになる。

 欲望についてはどうか。仏教経済学は釈迦が説いた知足(足るを知るこころ)を重視する。ここが仏教経済学のもうひとつの特色である。このため私は「知足の経済学」とも呼称する。一方現代経済学についてはイギリスの経済学者、ケインズが「豊かさを追求するためにはまだまだ貪欲を必要とする」と述べたことから私は「貪欲の経済学」とも名づける。
 きずなについては仏教経済学は地球・自然・動植物と人間、人間同士の共生、いいかえれば相互依存関係にあると認識し、相互のきずなが深まることを期待する。これは聖徳太子の和の精神の今日的な実践でもあるだろう。しかし現代経済学はもともと地球・自然との共生は視野になく、人間も個人主義の立場から孤立、分断状態、つまりきずななどと無縁の世界ととらえる。
競争はもちろん必要で、競争のない社会は停滞する。だが競争には善い競争と悪い競争がある。仏教経済学は野球のイチロー、ゴルフの宮里藍にみられる 「自分との競争」をすすめる。個性を競い合ってこそ連帯感も広がるからである。これは善い競争の一例である。これに反し、現代経済学は企業のリストラ(人員整理)にみられるように人間を手段視し、弱肉強食をすすめる。これは悪い競争である。

▽利他主義? それとも利己主義?
 経済学はその理論体系の中でどういう人間観を想定しているかが重要である。既存の現代経済学は利己主義、すなわち自己利益の最大化こそ合理的と考える人間像を想定しているが、仏教経済学は利他主義、すなわち「世のため人のため」にも尽くしたいという本性が備わっている人間像を視野に入れている。
 貨幣観はどうか。仏教経済学は、GDP(国内総生産)では表示できない非貨幣価値(=市場では入手できない非市場価値)、例えば地球上の生きとし生けるものすべてのいのち、太陽光熱、地球、大気、土壌、森林、水脈、生態系などの自然環境、さらにいのちあるものへの慈しみ、思いやり、共生と連帯感、生きがい、働きがい―などを重視する。一方現代経済学は貨幣価値(=カネとの交換で市場で入手できる市場価値)しか視野になく、「カネこそわが命」という考えから、拝金主義に走らざるをえない。

 さて地球環境時代のキーワードである持続性、すなわち持続可能な「発展」(=Sustainable Development=1992年の国連主催の第1回地球サミットで打ち出された)はどうか。そのポイントは、①量の拡大から質の充実への転換、②戦争、テロなど一切の暴力の拒否であり、いわば21世紀の平和志向そのものである。
 現代経済学は、持続不可能な「成長」を重視する。だから経済成長至上主義=石油浪費経済をむしろ奨励し、それに歯止めをかけることができない。石油浪費経済を止めないかぎり、地球の一部地域に偏在し、有限資源である石油の暴力的確保に走りやすい。石油浪費経済に執着するアメリカのイラク(世界第2位の石油埋蔵量)攻撃の狙いに石油確保があることがそれを示している。日本がイラク攻撃を支援しているのも石油確保(石油の9割を中東地域に依存)が背景にある。
 現代経済学者、ケインズは「災害も戦争も富の増進に役立つ」と言った。現代経済学は暴力、すなわち自然からの逆襲である災害も、国家の暴力行為である戦争も肯定するのである。なぜなら災害も戦争も破壊の跡の復興景気を当てにできるからである。しかしこういう経済に持続性は期待できない。

▽持続性を重視する仏教経済学
 一方、持続可能な発展、すなわち持続性を重視する点が仏教経済学の特色である。だから脱「経済成長主義」=脱「石油浪費経済」のすすめを説く。この立場は「経済成長主義よ、さようなら」「ゼロ成長でも十分」(注)と考える。
(注)ゼロ成長の意味はしばしば誤解されるが、これは経済活動がゼロになるという意味ではない。経済活動がゼロになれば、人間は生きていけない。そうではなく、GDP(国内総生産)の伸びがゼロ%、いいかえればGDPの規模が横ばいに推移するという意味である。現在日本のGDPは年間約500兆円で、毎年これだけの規模の新たな富がつくり出されることを指している。

 そういう経済は「平和=簡素と非暴力」につながる。なぜなら有限資源の石油の浪費を止めれば、石油の暴力的確保は必要がなくなるからである。さらに過剰な生産・消費・廃棄を招く経済成長主義に告別すれば、簡素な経済(シンプルエコノミー)の構築も期待できるからである。「簡素すなわち非暴力」(シューマッハーの言葉)であることを認識することが大切である。

Ⅲ.平和(=いのち・簡素・非暴力)な暮らし・経済をつくろう
 仏教経済学が唱える「日本変革への道」は(A)簡素な暮らし(シンプルライフ)、経済(シンプルエコノミー)に切り替え、定着させること、(B)平和、いいかえればいのちを大切にし、簡素、非暴力をめざすこと―の2本柱からなる「日本グリーン化構想」である。
 具体的には循環型社会づくり、財政・税制のグリーン化(高率環境税の早期導入と消費税の廃止など)、農業再生と食糧自給率向上、人命・環境破壊型くるま社会の構造改革、化石燃料(石油、石炭など)から自然エネルギー(太陽光熱、風力、水力など)への大転換、ワークシェアリング(仕事の分かち合い、就業機会の確保)の導入、健康人を増やす社会・医療改革、自衛隊の全面改組による非武装「地球救援隊」(仮称)の創設―などを視野に収めた日本変革プランである。いうまでもなくこれは小泉首相が進めている改革とは異質の変革路線である。
 ここでは次の3点に絞って考えたい。
(1)「いただきます」「もったいない」「お陰様で」の復活・普及
(2)健康な人を増やす社会・医療改革
(3)自衛隊全面改組による非武装「地球救援隊」の創設

(1)「いただきます」「もったいない」「お陰様で」の復活・普及
 私は日本の仏教的文化に根ざした「いただきます」「もったいない」「お陰様で」を日常用語として復活・普及させることを提唱したい。これは知足の精神の日常的な実践であり、自然と人間、人間同士の共生を自覚することであり、そしていのち尊重、節約、感謝のこころを日常の暮らしの中で大切にしようと言いたいのである。

▽何をいただくのか?
 食事前に唱える「いただきます」の含意を十分に理解している日本人が少なくなった。何をいただくのか。動植物のいのちをいただくという意味である。人間は動植物のいのちをいただいて自分のいのちをつないでいるのだから、そこに感謝の気持ちが生じるのは当然のことである。また不必要に食べ物を摂取しすぎないこと、すなわち節約の心も大切である。千利休(注)は「食は飢えぬほどにて事足れり」という至言を残している。
 (注)千利休(1522~1591年)は、安土桃山時代の茶人で、簡素・清浄な茶道を大成した。

 大量の食べ残しは動植物のいのちをゴミと同じ感覚で捨てることを意味するから、ひいては人間のいのちをも粗末に扱うことになる。「いただきます」の含意を正しく理解することは、モラルの再生のためにも不可欠である。
 もう一つ大事なことは、折角いただいたいのちをどう生かすかである。もちろん「世のため、人のため」に生かすことであり、これが大乗仏教の利他主義の原点となる。

▽「もったいない」を世界語に
 毎日新聞社の招きで、2005年2月に来日したケニアの環境保護活動家(ケニア副環境相)でノーベル平和賞(04年)を受賞したワンガリ・マータイ女史は、国連など世界中で「日本語の〈もったいない〉という言葉を世界語にしたい」と繰り返し説いている。地球環境保護のために資源・エネルギーを節約するには、〈もったいない〉ほど簡潔にして適切な言葉はない、という認識からである。
多くの日本人が忘れかけていたこの日本独自の言葉がもつ深い価値を遠いアフリカからやってきた人の口から改めて指摘されるとは、日本人としていささか恥ずかしいが、廃語にしてしまうのは、それこそもったいない話である。
 「お陰様で」は、人間は自分独りで生きているのではない、先祖とのつながりのお陰であり、自然からの恵みや人々の有形無形の支えによって生かされ、生きていることに気づき、感謝するこころの表白である。

(2)健康な人を増やす社会・医療改革
 仏教には病と共存、という考え方もある。現世では心ならずも病とともに生きざるを得ない人々も少なくない。私自身、少年時代にイヤというほど大病を患った。その体験からできることなら多くの人たちが健康であることを願っている。最近医療ミスが頻発しており、患者の側に立ったぬくもりのある治療体制の確立が急務であると同時に、健康人を増やすこと、これが望ましい医療改革の道である。
 ところが厚生労働省が05年10月19日、公表した「医療制度構造改革試案」は従来通り負担の増加が中心となっている。こういう財政重視に偏した医療改革は改革の名に値しない。健康人を増やすためには医療改革は同時に社会改革(教育や働き方の改革)を伴うプランでなければならない。

▽「健康のすすめ」の改革案
 以下、「健康のすすめ」を柱とする改革案を提唱したい。
*高齢者は原則無料
 70歳以上の高齢者の医療費窓口負担は現在1割となっているが、高額所得者は別にして原則無料とする。高齢者が病気勝ちになるのは自己責任とはいえない。無料は老後の安心のための配慮である。
*健康奨励策の導入
 1年間に1度も医者にかからなかった者は、健康奨励策として例えば医療保険料の一部返還請求の権利を持つ。健康人を増やすためには多様な健康奨励策の実施が望ましい。これは努力すれば、それなりの結果をもたらすという仏教の善因善果(因果応報のひとつ)の適用でもある。

*「いのち・食・健康」教育の重視
 「いのちと食と健康」の密接な相互関連について家庭や学校で小学生から教育する。さらに含蓄ある「いただきます」「もったいない」「お陰様で」の言葉を家庭や学校で理解する機会をつくる。学校での教育担当者として定年退職者、大病体験者、ボランティアなどを積極的に活用する。
*働き方の改革
 ワークシェアリング(仕事の分かち合い)の導入による労働時間の短縮、就業機会の保障があって初めて暮らしに安心とゆとりを確保できる。ところが現実は自由市場原理主義に立つ小泉改革路線の中で企業の人減らし、残業増大、労働強化を背景にサラリーマンの間に病気や過労死が増えている。労働者の約6割が「仕事で強いストレスを感じている」というデータ(厚生労働省調べ)もある。この現状を改善しなければ、健康人を増やすことはできない。

*自己責任の原則を導入
 健保本人の自己負担は2割(03年4月から3割に引き上げられた)に戻す一方、糖尿病など生活習慣病は、自己負担を5割に引き上げる。生活習慣病は仏教でいう精進を忘れて、生活習慣の改善を怠ったことも一因であり、自己責任の原則を適用する必要があるだろう。
*精進のための猶予期間
 自己責任原則の導入は2年の猶予期間(自己負担が増える生活習慣病などを精進=自助努力、治療などで克復する期間)の後、実施する。

 以上の改革は長期的に健康人を増やす効果を持つだろう。その結果、医療費が削減され、かりに一部の病院が倒産しても、それは健康な社会のあかしとしてむしろ歓迎すべきことである。

(3)自衛隊全面改組による非武装「地球救援隊」(仮称)の創設を
 日本の政策選択の重要な柱として非武装の「地球救援隊」創設を提唱したい。既存の現代経済学、すなわち「貪欲の経済学」は「戦争は富の増進に役立つ」として武力行使を容認する。しかし仏教経済学、すなわち「知足の経済学」は、人間・自然を含む多様ないのちの共生を希求する立場から武力行使を含む暴力を拒否する。この仏教経済学から自衛隊の戦力なき組織への全面改組という方向が必然的に導き出されてくる。

▽なぜ非武装の地球救援隊なのか
 第1は今日の地球環境時代における脅威は多様である。脅威をいのち、自然、日常の暮らしへの脅威ととらえれば、主要な脅威は、地球生命共同体に対する汚染・破壊、つまり非軍事的脅威である。非軍事的脅威は地球温暖化、異常気象、大災害、疾病、貧困、社会的不公正など多様で、これら非軍事的脅威は戦闘機やミサイルによっては防護できないことは改めて指摘するまでもない。もちろん軍事力の直接行使が地球、自然、人命、暮らしへの破壊行為であることはいうまでもない。

 第2は世界の軍事費は総計年間1兆ドル(約110兆円)超の巨額に上っており、限られた財政資金の配分としては不適切であり、巨大な浪費である。この軍事費を大幅に削減し、非軍事的脅威への対策費として平和活用すれば、大きな効果が期待できる。にもかかわらず巨額の軍事費を支出し続けることは、軍事力の保有による軍事的脅威を助長するだけでなく、むしろ戦争ビジネスに利益確保の機会を与える負の効果しかない。

第3は「9・11テロ」(2001年アメリカの政治、軍事、経済の中枢部を攻撃した同時多発テロ)以降、テロの脅威が独り歩きしているが、数年来のテロの背景にアメリカの世界戦略、外交、軍事政策に対する反発、報復があることを認識する必要がある。いいかえればアメリカの先制攻撃論に支えられた強大な軍事力を梃子とする覇権主義が、世界における脅威となっている側面を見逃すべきではない。このアメリカの戦略、政策を根本から転換しないかぎり、テロ対策として軍事力を行使することは、むしろ暴力と報復の悪循環を招くにすぎない。

 以上から今日の地球環境時代には「軍事中心の安全保障」観はもはや有効ではないどころか、むしろ世界に脅威を与え、「百害あって一利なし」である。武力に依存しない対応策、すなわち地球の生命共同体としてのいのちをいかに生かすかを時代が求めている。それは「いのちの安全保障」とも称すべき新しい安全保障観であり、そこから登場してくるのが非武装の地球救援隊構想である。

▽地球救援隊構想の概要(理念、目標、達成手段)
*地球のいのち・自然を守り、生かすために平和憲法9条の理念(戦争の放棄と戦力の不保持)を具体化する構想であること。
*地球救援隊の目的は軍事的脅威に対応するものではなく、地球規模の非軍事的な脅威(大規模災害、感染症などの疾病、不衛生、貧困、劣悪な生活インフラなど)に対する人道的救助・支援さらに復興・再生をめざすこと。
*活動範囲は内外を問わず、地球規模であること。特に海外の場合、国連主導の国際的な人道的救助・支援の一翼を担うこと。
*地球救援隊の積極的な活用によって、国と国、人と人の間の信頼感が高まり、軍事的脅威の顕著な削減を実現できるという認識に立っていること。

*自衛隊の全面改組を前提とする構想だから、自衛隊の装備、予算、人員、訓練、教育などの根本的な質の改革を進めること。
 装備は兵器を廃止し、人道救助・支援に必要なヘリコプター、輸送航空機、輸送船、食料、医薬品、建設資材・機械類などに切り替える。特に台風、地震、津波など大規模災害では陸路交通網が寸断されるため、空路による救助・支援が不可欠となる。それに備えて非武装の「人道ヘリコプター」(注)を大量保有する。
 防衛予算(現在年間約5兆円)、自衛隊員(現在定員約25万人)を大幅に削減し、訓練は戦闘訓練ではなく、救助・支援・復興のための訓練とする。
 特に教育は大切で、いのちの尊重、利他精神の涵養、人権感覚の錬磨に重点を置き、「いのちの安全保障」を誇りをもって担える人材を育成する。
 (注)新潟県中越地震(04年10月発生、死者51人、負傷者4795人、住宅被害12万9041世帯)、パキスタン地震(05年10月上旬発生、死者5万人超と伝えられる)では陸路交通網が寸断され、ヘリ活用が救助・救援の重要な手段となったことが実証された。

*NPO(非営利団体)、NGO(非政府組織)などと緊密な協力体制を組むこと。
*必要な新立法を行うこと。例えば現行の自衛隊法は自衛隊の主な行動として防衛出動、治安出動、災害派遣の3つを定めているが、このうち災害派遣を継承発展させる方向で新立法を行う。自衛隊法、有事関連諸法は廃止する。

▽仏教と憲法の平和思想を生かして
 地球救援隊創設は、暴力による混乱と破壊に満ちた世界を暴力のない平和な世界につくり直すために、日本が仏教と憲法の平和思想を生かして、先導的な役割を果たそうという構想である。
 ただこの構想を実現させるにはいくつかの条件が必要である。具体的には憲法9条の改悪を阻止すること、戦争の策動基地となっている日米安保・日米軍事同盟を解体し、在日米軍基地を完全撤去すること、東アジア平和同盟を発足させること―などである。そのためには国民一人ひとりの現状打破と変革への強い選択意志が不可欠である。    

 上述の3つの変革プランの達成に仏教が貢献すること―それが仏教の社会的責任といえる。このような社会的責任への自覚なくして、仏教の今後の発展が期待できるとは考えられない。最近「憲法9条を守る会」結成の動きが仏教界にも広がりつつあることは大いに歓迎したい。
以上
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コメント
この記事へのコメント
100%賛成です。

特に、「健康のすすめ」の改革案は、いますぐ実施すべきだし、実施可能だと思います。
「生活習慣病にかかってしまうのは自己管理の甘さ」というご指摘、まさにそのとおりですね。日頃の心がけ次第で、かからずにすむ種類の病気なんですから。

ところで、先生は喫煙についてはいかがお考えですか?
日本では残念ながら、まだまだ、受動喫煙の害についての認識が甘いなあ、と感じております。
喫煙は自分と他人の命を粗末にすることにつながり、非暴力の考え方に反しますよね。

今後、「健康のすすめ」改革案に、喫煙についても項目を入れていただければうれしいなあ、というのが私の個人的な希望です。もしよろしければご検討ください。
2005/10/29(土) 21:48:28 | URL | marujun #e0p7.LDY[ 編集]
喫煙の弊害について
素敵な提案に感謝します。喫煙の弊害について、「健康のすすめ」の改革案に重要な1項目として盛り込むことを考えましょう。

日本全体では喫煙率は徐々に低下し、いまでは半分以下になっているはずです。東京の私鉄では全面禁煙になっているし、新幹線などでも禁煙車が増えています。歓迎すべき傾向ですね。

そのうち喫煙者は自己管理能力がないことを理由に企業が採用したがらないという時代がやってくるでしょう。「喫煙者=自己管理能力不足=仕事力・競争力欠如」という公式が一般化するのもそう遠い先のことではないと予測します。

非情な言い方(この辺りは、あの非情な小泉流に似ていますか?)になりますが、失業したくなかったら、きっぱりとタバコを止めなさい、と忠告したい気分です。私自身はもう30年も昔にタバコを捨てました。

気になるのは、最近若い女性の間に喫煙者が増えているらしいことです。受動喫煙によって、喫煙しない周囲の人に悪影響があるのはもちろん、自分自身の健康にも悪影響があることを認識していないのでしょうか。

「私の勝手でしょ」(最近の若い人がよく口にしますが、自由と勝手とは質が異なることが分かっていないようですね)では済まないと思いますが、いかがでしょうか。
2005/11/01(火) 10:45:57 | URL | kyasuhara #-[ 編集]
ニュージーランドでは、子供が隠れてマリファナを吸っても親は小言を言う程度ですが、タバコを吸っているのを見つけると顔色を変えて本気で怒り出すそうです。タバコの方が深刻な依存症/中毒になり、なかなかやめられず、より健康への被害が大きいからです。

本気で国が禁煙を奨励するなら、喫煙者の保険の本人負担も5割にするとか、タバコ税を増税して福祉に回すとか、有無を言わさず喫煙者を減らす策を練ってほしいなー、と思います。

2005/11/01(火) 14:42:53 | URL | marujun #e0p7.LDY[ 編集]
タバコ増税について
ニュージーランドでは、そういうことですか。一つ勉強になりました。タバコ増税はよい提案です。いずれこのテーマも環境税を含めて、望ましい税制(減税、増税を総合して全体として増税にならないような税制)の1つの柱として取り上げましょう。

小泉政権はいわゆる小泉改革の仕上げの段階に入ったようですが、その2本柱が憲法9条の改悪と消費税の大幅引き上げを含む増税です。

9条改悪は日米がともに世界規模で戦うための地ならしです。一方戦争には増税がつきものです。小泉改革なるものがいよいよ正体を現してきたと受け止めなければなりませんね。

先の総選挙(9.11)で「小泉改革」を無頓着に評価して、自民党圧勝の後押しをした人たちの多くが、実はやがて犠牲者の列に加えられていくことに気づくべきときです。

しかし気づいたときは、時すでに遅しとなっていることが多いことも歴史は教えています。どうなりますか。
2005/11/02(水) 10:10:05 | URL | kyasuhara #-[ 編集]
小泉自民党に投票した「多数派の」人々は、自分たちが9条改悪と増税にゴーサインを出したのだということに、まだまだ気づいていない、ということが問題ですよね。いったいいつ、気づくのでしょう?

こんなふうになってしまった背景としてはマスコミの責任が大きいと思います。保身、つまり結局目先のお金のために情報操作を行ってきたようなものですよね。だからこそ、誰がどうやって大テレビ局を買収しようとも、いまさら同情も非難も感じない・・・というか。どっちもどっち、ですよね。
2005/11/02(水) 16:22:05 | URL | marujun #e0p7.LDY[ 編集]
マスコミの責任
「マスコミの責任が大きい」という説には、その通りだと思います。先の総選挙を「小泉劇場」と煽ったのもマスコミだったといえます。

特に大新聞の責任がこれからは厳しく問われることになります。早い話が今日(05年11月3日)の朝日新聞の社説です。「首相候補への試金石 阿倍人気」と題した社説は、要するに何を主張したいのかが曖昧(あいまい)の印象を与えながら、その実、批判力欠落の見本のような社説となっています。

第一に次期首相と決まったわけでもない人物を世論調査で候補のトップになったというだけで、社説でとりあげること自体が奇妙です。よいしょ、したい気持ちでもあるのでしょうか。

第二に「首相の靖国神社参拝では、推進派の急先鋒に立ってきた」と社説で書きながら、それをさして批判するでもない。これは従来の朝日の社説の「公式参拝は疑問」の主張とは異なっていませんか。

第三に「政治家が信念に基づいて発言をするのが悪いとは思わない」とまで言い切っていますが、大丈夫ですか。これでは「信念として侵略戦争に賛成だ」とのたまう政治家を批判できなくなりませんかねー。平和憲法の精神が欠落した社説といえるように思いますが、違いますか?

第四に政治家にはバランス感覚が大切、と主張したいようですが、政治家のバランス感覚とは何ですか。対立する意見の間で双方の言い分がともによく分かるという意味ですか。そういう政治家の本音は保身でしょう。

21世紀の政治家たるものは、平和憲法の理念と適切な歴史観(過去の侵略戦争を厳しく反省すること)を身につけていることが最低必要条件です。

最近の大新聞の姿勢はジャーナリズムの基本である権力批判に腰が引けています。これに比べると地方紙の方が批判力が健在なのがまだまだ少なくないような印象があります。

大新聞没落の時代が始まったということでしょうか。これではインターネット情報があふれる中で、大新聞は読まれなくなるでしょう。権力にすり寄ることは、ジャーナリズムの自殺行為だということに気づかないんでしょうか。

ヤレヤレ、とため息をつきたくなるような時代の足音が高まりつつあるようにも見えます。そういう時代への抵抗勢力(小泉改革のせいで、悪の代名詞のような響きをもっていますが)はこれからは再評価されるべきですね。
2005/11/03(木) 12:44:39 | URL | kyasuhara #-[ 編集]
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