「もっともっと欲しい」の貪欲の経済から、「足るを知る」知足の経済へ。さらにいのちを尊重する「持続の経済」へ。日本は幸せをとりもどすことができるでしょうか、考え、提言し、みなさんと語り合いたいと思います。(京都・龍安寺の石庭)
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なぜ〈仏教〉経済学なのか?
仏教経済学とみどりの思想(つづき)

安原和雄
 私は「平和・環境の党」結成をめざす「みどりのテーブル」の政策研究会(06年7月22日東京都内で開催)で「仏教経済学とみどりの思想」というテーマで講話した(その内容は「緑の政治がめざす変革構想」と題して、06年7月24日仏教経済塾に掲載)。引きつづき講話をめぐって参加者との間で質疑応答が行われた。〈質疑応答=Q&A〉の要旨を以下に紹介したい。(06年7月26日掲載)

▽経済の目的は民衆を幸せにすること

Q 現代経済学には数理経済学もあり、全体としてどういう学問なのかが素人にはどうもはっきりしないところがある。経済学者やいわゆるエコノミストたちが未来を含め、どんな問題に対しても発言しているが、その真意がはっきりしない。経済とはそもそも「経世済民」ではないのか。
A その通りで、英語のEconomyの訳語として「経済」があてられた。これは中国の経世済民(世を整え、民を救う)あるいは経国済民(国を整え、民を救う)という用語から「経」と「済」を抜き出してつくったものである。つまり経済の目的は「民」すなわち民衆を救うこと、いいかえれば、民衆を幸せにすることにある。数理経済学者などは数字をいじくり回している間に、この経済本来の目的を忘れてしまったのでないか。

 仏教経済学は、「民」を幸せにするには何が大事か、何をしなければならないか、を考える。しかも大切なことは、理念にとどまるのではなく、実践に取り組むことである。そのためには矛盾に満ちた現状の変革が必要である。

▽シューマッハーの仏教経済学に学ぶ

Q なぜ仏教経済学に関心を抱くようになったのか。
A 私は新聞社在職中、大蔵省(現財務省)、通産省(現経済産業省)、外務省、日本銀行、財界などの担当経済記者として取材に走り回っていた頃、現代経済学の影響下にあった。しかし特にあの1980年代後半のバブル期(地価、株価の急騰期、ただし物価水準は全体としてはそれほど上昇しなかった)と90年代のその後遺症は余りにも深かった。

 世を挙げて拝金主義が横行(銀行に巨大な不良債権が累積されたのも、拝金主義の成れの果て)し、その甚大な「負の効果」として企業倒産、失業、自殺が増大した。バブルに乗って失敗し、自らいのちを絶った知人も何人かいる。
 このため現代経済学はもはや経世済民という経済本来の目的を追求する経済学ではないことを経済の現場で実感するほかなかった。

 しかも時代は経済成長時代から地球環境時代へと急転回していた。地球温暖化に伴う異常気象はその具体例であり、現代経済学は、そういう新時代の矛盾打開に対応できないのが現状である。一方、地球規模でみると、飢餓に苦しむ人が10億人、安全な水を飲めない人が10億人と極端な貧富の格差が広がっている。これでは現代経済学は、もはや破綻というほかない。

 1990年春、仏教系の足利工業大学に転じた。同時に駒沢大学仏教経済研究所主催の仏教経済研究会にも参加するようになった。これが転機となって私の経済学観が急速に変わりはじめた。現代経済学を批判し、それを克服し得る新しい経済思想として私の目の前に登場したのがシューマッハー(ドイツの経済思想家、1911~1977年)の仏教経済学である。

 彼は著作『スモール イズ ビューティフル―人間中心の経済学』(講談社学術文庫1986年刊、英語版1973年刊)の中で次のように述べている。
 「仏教の八正道(注)の一つに〈正しい生活〉がある。したがって、仏教経済学があってしかるべきである」と。
(注)八正道=正しい見解、正しい決意、正しい言葉、正しい行為、正しい生活、正しい努力、正しい思念、正しい瞑想―である。

 また次のようにも指摘している。
 「仏教を選んだのは他意あってのことではなく、キリスト教、イスラム教、ユダヤ教のいずれの教えでも、ないしはその他の偉大な東洋の伝統的英知でもさし支えない」と。

 シューマッハーが言いたいことは、仏教経済学でなくても、キリスト教経済学あるいは東洋経済学でもよい、といえるが、それでもやはり仏教経済学が適切ではないか、であろう。
 こういう彼の思考の背景には早くから東洋思想やガンジー思想に惹かれたり、1955年ビルマ(現ミャンマー)政府の経済顧問として招かれ、3か月の滞在中、仏教信者と交友を深めたりしたこと―などが考えられる。
 仏教経済学の今後の課題は、シューマッハーの仏教経済学に学びながら、それをさらに発展させることにあると考えている。

▽本名は仏教経済学、別称が「知足の経済学」

Q 仏教経済学は宗教と経済学を結びつけようということのようだが、なぜ仏教でなければいけないのか。ほかの宗教ではダメなのか。
A そういう疑問はいろんな人から聞いているが、やはり仏教経済学という名称にはこだわりがある。仏教は執着を排し、「こだわるな!」と説いているが、ここではこだわってみたい。
 ただ私は仏教経済学の別称として「知足の経済学」、現代経済学の別称として「貪欲の経済学」を掲げている。後者について現代経済学者の一人、ジョン・M・ケインズ(1883~1946年。イギリスの経済学者で、主著は『雇用、利子および貨幣の一般理論』)が「(経済成長のためには)貪欲を神としなければならない」と述べているからである。この飽くなき欲望そのものの貪欲に対し、仏教は「もうこれで十分」という知足を対置しており、「知足の経済学」と呼ぶこともふさわしい。

 しかし知足は仏教経済学の八つのキーワード(注)の一つにすぎない。だから本名は仏教経済学、別称が「知足の経済学」と思っている。
(注)仏教経済学の八つのキーワード=いのち、知足(=足るを知る)、簡素、非暴力(=平和)、多様性、共生、利他、持続性

▽釈尊の教えに還り、大乗仏教の精神を摂取し活かしていく

Q それにしても、どうも仏教経済学という名称が気になる。仏教と聞いただけで、仏教経済学の入り口のところで拒否反応を示す人もいるのではないか。
A 仏教とは一定の距離を置きたいと考えている人が少なくないことは承知している。こういう拒否反応は当然でもある。なぜなら現下の仏教が本来の「仏の教え」を忘却して、多くのお寺、坊さんが葬式仏教にうつつをぬかして、お布施稼ぎに忙しいからである。これは坊さんたちの怠慢というべきだ。仏教の日常化の努力が不足している。

 しかしお寺さんたちが仏教経済学を担っていくわけではない。またお寺のための仏教経済学でもない。仏教界の現状への批判をそのまま、仏教経済学に向けられるのは筋違いであり、勘違いでもある。

 仏教経済学は現代経済学批判から出発してそれに取って代わる新しい21世紀の経済思想を構築することをめざしている。その場合、釈尊の教え(いのち尊重、少欲知足、平等、非暴力など)に還り、そこから出発して大乗仏教の精神(利他主義、共生、衆生済度など)を取り入れて、それを実践し活かしていく。誤解を恐れずにあえていえば、私は仏教の人文・社会科学化が求められていると考える。その重要な柱が仏教経済学の構築である。

▽神道やキリスト教と経済学との関係は?

Q 仏教経済思想の中身はよいように思えるが、神道と経済学との関係はどうか。
A 神道と仏教との違いについてまず説明したい。ひろ さちや著『仏教と神道』(新潮選書)によると、仏教は世界宗教、神道は民族宗教であり、その民族宗教の特色は以下の諸点である。
*自然発生的に成立した宗教
*特定の教祖はいない
*教義よりも祭祀・儀礼が重視されている
*政治的・軍事的支配者が、同時に宗教的支配者である
*個人の救済よりも、共同体の利益が優先される

 私は神道は、仏教のような広く深い教義がなく、一つの思想体系をなしてはいない点に着目したい。しかも神道は明治以降、国家神道として国家権力の管理下にあった。だから宗教と新しい経済学を結びつけるとき、神道を持ち出すのは適切とはいえない。

Q キリスト教経済学は考えられないか。
A シューマッハーも指摘しているように「キリスト教でもよい」といえる。ただ仏教とキリスト教との基本的な違いが一つある。
 それは仏教は「人間は自然の一員」にすぎず、この地球上の生きとし生けるものすべてのいのちは平等、対等であると考える。人間だけが格別上位にあって偉いわけではない。ところがキリスト教では人間は万物の霊長で、動植物など他の生き物より上位に位置づけられ、自然を支配、征服するのは当然と考える傾向がある。

 こういう違いがある以上、自然環境の保護、保全を重視する地球環境時代の21世紀にはキリスト教思想よりも仏教思想に立った仏教経済学の方がふさわしいと考えたい。

▽「仏教抜きの経済学は愛情のないセックスと同じだ」

Q 仏教という表現を使わないで、たとえばエコロジー経済学、共生経済学などはどうか。
A 環境経済学と称する経済学はすでにある。エコロジー経済学、共生経済学にしても一つの思想体系としてみた場合、視野が狭すぎるような気がしている。仏教経済学の一つの分野としてエコロジー経済学、共生経済学を位置づけることはできるが、その逆はあり得ないのではないか。

 繰り返しになるが、仏教経済学は現代経済学批判から出発している。その現代経済学はそれなりの体系をもっている。例えば人間観として利己主義的人間を想定して、理論をつくりあげている。これに対し仏教経済学は利他主義の人間を重視する観点から体系化を考える。
 エコロジー経済学にそういう体系化が期待できるだろうか。また共生経済学の共生は、上述したように仏教経済学の八つのキーワードの一つにすぎない。

Q 仏教経済学に代わる新しい経済学の可能性はないのだろうか。
A シューマッハーは仏教経済学について次のように喝破している。「仏教抜きの経済学は、愛情のないセックスと同じだ」と。
 最近の若者には「セックスになぜ愛情が必要なのか?」と思う人がいるかも知れない(このとき、「そんなことはないですよ」と若者の間から声が挙がった)が、それはともかく干からびた現代経済学と違って、仏教経済学は魂、思いやり、慈悲のこもった経済思想だとシューマッハーは強調したいのだろう。このように仏教経済学は現代経済学を超える次元で構想しており、すでに十分新しいのである。

▽仏教思想まで乗っ取られることを憂う

A ここで指摘したいことは、経済学史上、偉大な3人の経済学者と称される人物のことである。
 それはアダム・スミス(18世紀のイギリスの経済学者で、主著は『道徳感情論』、『国富論』)、カール・マルクス(19世紀のドイツの経済思想家、革命家で、主著は『資本論』)、そしてジョン・M・ケインズ(20世紀のイギリスの経済学者)の3人で、ともにそれぞれの時代が提起した課題に正面から取り組み、打開するための処方箋と未来図を描いた。そこに独創性、先駆性があった。だからこそ歴史に名を遺している。
 仏教経済学もそれなりに21世紀の課題―いのち尊重を第一とする地球環境時代の課題―に挑戦しようという気構えである。

 もう一つ指摘しておきたいことがある。それは21世紀が求める新しい経済思想でまたしても欧米人にしてやられるのではないかという懸念である。上述の偉大な3人の経済学者はいずれもヨーロッパ人である。まあそれはよいとして、例えばアメリカ人の自然環境保護の思想家には仏教に理解の深い人が登場してきている。

 明治維新以来すでに約140年経つが、日本は概していまだに欧米思想の後追いの域を脱出できないままである。このように我々日本人が欧米思想の後塵を拝したままの現状に甘んじて、仏教への前向きの理解をもう少しもたないと、このうえさらに日本の仏教思想まで欧米人に乗っ取られる可能性なしとしない。

 仏教に根ざした日本文化ともいうべき「もったいない」という言葉にしても、ケニアの自然環境保護活動家のマータイ女史(04年ノーベル平和賞受賞)が世界中に広める役割を担ってくれている(06年7月24日仏教経済塾に掲載の「緑の政治がめざす変革思想」参照)。これは日本人としてむしろ恥ずかしいことと言わねばならない。
 こういう体たらくが続くようでは、地球上での日本人の存在価値と貢献は果たしてどこまで可能なのか―このことを憂慮しないわけにはいかない。


(以上は仏教経済学をめぐる質疑応答に限った。しかも仏教経済塾への掲載に当たって説明に若干加筆補正した)

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コメント
この記事へのコメント
仏教経済学という名称について
始めまして。
安原さまがシューマッハに習って仏教経済学という名称で主張されていることは、ほとんど全面的に同意できます。これがなければ類としての人類の持続可能性はないとも言えるでしょう。

しかし、世界の人びとが有している独自の宗教の大切さもまた尊重されなければならないのは言うまでもない話です。日本人のぼくは、この名称にそんなに強い違和感はないし、仏教の平和的な考え方に同意する部分は多いのですが、人類、そして地球ができるだけ長く存続するために必要なこのような思想が仏教という名称で、特有の宗教を有している人以外に伝わり難いのは残念なような気がするのですが、いかがでしょうか?
2006/07/27(木) 03:51:41 | URL | tu-ta #1Nt04ABk[ 編集]
仏教経済学について
tu-taさん、貴重なコメントに感謝します。
ご指摘の点は「宗教間の対話」と深くかかわっているように思います。
ただいい意味での自己主張がなければ、そもそも対話は成立しないと思いますが、いかがでしょうか。

「物言えば唇寒し秋の風」が多くの日本人のスタイルですが、多少の誤解をあえて覚悟して、自己主張を試みてみよう、という日本人がもっと増えてもいいのではないでしょうか。
どうもわれわれ日本人は主張すべきことも、自由に主張しないで、何はさておき妥協を思案するという傾向があります。
これには海外から「顔の見えない日本人」という揶揄(やゆ)の声が聞こえてきます。

仏教経済学に対し、言い分があれば、キリスト教経済学、イスラム教経済学をそれぞれが主張し合ってみたら、いかがでしょうか。

対話は争いではなく、真理へのプロセスであるはずです。仏教経済学のその先には「地球経済学」とでも称すべき新しい経済思想が姿を見せてくれるのかもしれません。

その前に現代経済学なるものを批判する仕事があります。仏教経済学は現代経済学への批判に主眼があります。キリスト教、イスラム教への批判が中心テーマではありません。
この点をご理解下されば幸いに存じます。
2006/07/27(木) 15:22:18 | URL | 安原和雄 #-[ 編集]
どのようにこの価値を実現できるのでしょうか?
トラックバックさせていただいたブログに以下のように書かせていただきました。

==以下、引用==
このような価値の重要性については、いろいろ人がいろいろな言葉で解いている。それはもう言葉の過剰と言ってもいいくらいだ。

で、問題なのはそれを誰がどのように実現するのか?どのように可能にしていけるのか?ということだ。こんな形で考えを少しずつ広げていくという方法は、現にいろんな人がやっているし、とりあえず出来ることではある。しかし、そのような方法で本当に間に合って変化を準備できるのか?圧倒的な物量を有している、主流派経済にどう対抗していけるとうになるのか?そここそが問われているように思えてならない。
==引用ここまで==

上記の問題をどう考えたらいいのかというところで、思考が立ち止まってしまいます。現実には出来ることをやるしかないと開き直って行動しているのですが、出口の見えない閉塞感はぬぐえません。


これらの観点へのコメントをいただけたら幸いです。
2006/08/03(木) 04:10:21 | URL | tu-ta #8iCOsRG2[ 編集]
仏教経済学について
tu-taさん、再度のコメントに感謝します。難しい問題を提起されましたね。私がお答えできる立場にいるとも思えません。
ただ私のぼんやりした考えを述べさせていただくにとどめたいと思います。

結論からいえば、自分の信じることを実践する以外にないのではないでしょうか。その効果、評価は後世の判断にまつ以外にないと思っています。

いろいろの人がいろいろの言葉で解いている(あるいは説いている)というご指摘はその通りでしょう。しかしひょっとして「闇夜の鉄砲」になってはいないでしょうか。
本人は一所懸命だが、実は的はずれ、という落とし穴にはまっているのではないかと私も含めて常に自戒する必要があると思っています。いかがでしょうか。

「本当に間に合って変化を準備できるのか?」というご指摘は、どういう事態を想定されているのでしょうか。
歴史を振り返ってみれば、事態は当事者の予測を超えて急変することもあれば、その逆もあります。

私の経験でいえば、「ベルリンの壁(1989年)の崩壊」は予想外の急変に当たります。
「人事を尽くして天命を待つ」ともいわれるように、人事を超えて動くことは沢山ありますから、性急に事を構える必要はないようにも思います。いかがでしょうか。

重要なことは事態(あるいは歴史)の急変に機敏に対応できるように日頃から足腰を鍛えておくことです。できることなら首から上も鍛えておくに如かず、でしょうか。

息せき切って走っていると、転びます。ゆったり歩いていると、意外に大きな力が出てくるのではないでしょうか。
多分答えにはなっていないでしょう。ご容赦下さい。ご自愛を祈ります。
2006/08/04(金) 18:30:27 | URL | 安原和雄 #-[ 編集]
tu-taさんへ
tu-taさんへ安原さんが既に回答しておられますが、私から、表現を少し変えただけですが、参考意見を書かせていただきます。
ある考え方があり、それに基づく社会の将来像がある場合、それを実現するためには、いろいろな方法があると思います。特に、現在の社会に大改革を加えなければならないような将来像であれば、手順としては、その大改革の内容を、関係する人々に、「言論活動」を通じて、納得してもらうことが先ずは必要でしょう。そして、そのような方法は民主主義的な社会においては実行可能なものです。
言論活動以外の適当な方法が、私には思いつきません。このような方法を「とりあえず出来ること」と考えるのも一つの見解ですが、これを「我々にできる最善のこと」と、私は考えています。「間に合うかどうか」は、我々人間だけでなく、お釈迦さまでも判らないでしょう。「間に合わないかもしれない」と言う心配はとりあえず心の中に留めながら、tu-taさんが自信を持ってくださることを祈ります。
2006/08/06(日) 11:15:57 | URL | 並野一民 #-[ 編集]
コメントありがとうございます。
 安原さん、並野さん、丁寧なコメント、どうもありがとうございました。

 返答への適切なレスポンスができるかどうか、心もとないのですが、とりあえず考えたことを書かせていただきます。

 例えば、経済の新自由主義グローバリゼーション、少しだけ陰りがでてきているようにも見えますが、まだまだ圧倒的な力を持っていて、それは米国主導のミリタリズムと同伴しながら、いまでも世界を席巻しているように思います。

 南の村ではココナツのジュースより、コカコーラがもてはやされ、病気になったときに使おうと蓄えていた小額の貯金が、家に住む若者が欲しがるナイキのスニーカーやテレビに化けたりします。

キラキラした資本主義の魅力はまだまだ力を失っているようには思えません。

そのような状況の中で、急変に備えるだけでなく、変革を準備したいと思うのです。
 その変革をどのように準備するのか、柄谷さんの岩波新書「世界共和国へ」は、そのまま受け入れることはできないかもしれませんが、ひとつの討論の材料になるかもしれません。

 変革のための運動が問われているのだと思います。そのもっとも重要な部分は「言論活動」というか、人々に理解してもらうことだと思いますが、その戦略が考えられなければならないと思います。(戦略とかいう軍事用語を使わなければならないところが悲しいですね)

 資本主義の貪欲な物量は圧倒的です。マスコミも基本的には彼らが支配しているように感じます。それに、お金も権力ももたない市井の私たちがどのように対抗できるのか、ということを考える必要があると思うわけです。

以上、とりあえず考えたことを書かせていただきました。
2006/08/08(火) 03:27:25 | URL | tu-ta #8iCOsRG2[ 編集]
市場と仏教経済学
tu-taです。
またまた失礼します。

グローバル資本主義が壊れ始めています。いまこそ、仏教経済学(あるいはそれに類する考え方)の出番だと思います。しかし、それは同時に考えなければならない課題をいくつも持っていると思います。

このところ考えていることのメモをブログに書きました。

経済が縮減し人々が生活に困らないシステムを
http://tu-ta.at.webry.info/200811/article_25.html

ご笑覧いただけたら、幸いです。

そこから一部転載します。

====
仏教経済学は「足るを知る」というのを要求するが、そのモラルをどのように内在化できるのか。それが多くの人にとって、「押しつけ」としか捉えられないなら、社会主義の失敗と同様な結果をもたらす。

限りのある資源、公正だと多くの人が認めることができる分配のシステムを作ることが可能なのか。

市場にまかせるだけでは破綻がくることは、この間の事態が明らかにしている。一方で計画経済が成功したという話も聞いたことがない。どこで、そのバランスをとるのか、あるいは市場経済でも計画経済でもない新しいありかたがどこかに存在するのか。

そこに「持続可能性」「環境」「平和」「サブシステンス」「いのち」という視点。そのようなことに重きを置く社会への転換。

20世紀いっぱいをかけた社会主義運動の失敗は市場以外の要素での社会の運営が容易ではないことを示している。そこから何を学ぶことができるのか。

環境破壊的な労働から、持続可能性を創出し、いのちの尊厳を祝福できる労働へ。
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2008/11/27(木) 12:23:14 | URL | tu-ta #8iCOsRG2[ 編集]
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仏教経済学について、「安原和雄の仏教経済塾」というブログhttp://kyasuhara.blog14.fc2.com/で説明されている。
2006/07/29(土) 22:45:18 | 今日、考えたこと
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