「もっともっと欲しい」の貪欲の経済から、「足るを知る」知足の経済へ。さらにいのちを尊重する「持続の経済」へ。日本は幸せをとりもどすことができるでしょうか、考え、提言し、みなさんと語り合いたいと思います。(京都・龍安寺の石庭)
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『国家の品格』を批評する 
 失った品格を再生できるか

 安原和雄
 ベストセラーとして話題を呼んでいる藤原正彦著『国家の品格』を批評する―と題して私(安原)は、「仏教経済フォーラム」(寺下英明会長、安原和雄副会長)月例会(2006年5月10日、日本記者クラブ内で開催)で報告した。
 「品格はきわめて重要であるが、日本はいったん失った品格を果たして再生できるか」が中心テーマである。以下に報告の趣旨と私なりの疑問、主張などを紹介したい。一語でいえば、良書である。しかし悪書でもある。同書を読み解いた上で私なりの「21世紀版品格再生の4つの条件」を提案したい。(2006年5月13日掲載、同日インターネット新聞「日刊ベリタ」に転載)

▽「品格ある国家」とは―その4つの指標

 品格とはなにを指しているのか。『国家の品格』は次の4つを挙げている。
①独立不羈(どくりつふき)
 自らの意志に従って行動のできる独立国であること。アメリカの植民地状態から脱出すること。日本の40%という極端に低い食糧自給率(注)を高めること。誇りと自信を取り戻すこと
(注)参考までにいえば、先進国の食糧自給率(カロリーベース)は英約70%、独約90%、一方、米、仏は100%を超えており、食糧輸出国である。

②高い道徳
 日本人は昭和の初め頃まで高い道徳心を持っていたが、戦後痛めつけられ、最近では市場経済によりはびこった金銭至上主義に徹底的に痛めつけられた。「高い道徳という国柄を保つこと」、そのためには日本固有の<情緒と形>を取り戻すこと

③美しい田園
 美しい田園が保たれていることは、金銭至上主義に冒されていない、「美しい情緒」がその国に存在する証拠。さらに農民が泣いていない、農民が安心して働いている証拠である。経済原理だけでなく、<祖国愛>や<惻隠(そくいん)の情(弱者、敗者、虐げられた者への思いやり、そして共感と涙)>が生きていること。田園が荒れれば、日本の至宝ともいえる<もののあわれ>や美的感受性などの情緒も危殆(きたい)に瀕する。

④天才の輩出 
 学問、文化、芸術などで天才が輩出していること。そのためには役に立たないもの(文学、哲学、数学など)や精神性を尊ぶ土壌、美の存在、さらに神・仏あるいは偉大な自然に跪(ひざまず)く心が必要である。市場原理主義はこれらすべてをずたずたにする。

▽武士道精神を取り戻そう!と呼びかける

 『国家の品格』のキーワードのひとつが、以下のような日本固有の<情緒と形>である。
*情緒=「もののあわれ」(=人間の儚さ、悠久の自然の中で移ろいゆくものに美を発見してしまう独特な感性)、さらに自然への畏怖心、跪く心、つまり「自然との調和」観―など日本人が古来から持つ美しい情緒である。
*形=武士道精神。武士道は鎌倉時代以降、多くの日本人の行動基準、道徳基準として機能してきた。この武士道は<日本人の形>となっており、慈愛、誠実、忍耐、正義、勇気、惻隠の情、名誉、恥さらに「金銭よりも道徳を上にみる」、「卑怯なことはいけない」、「大きな者は小さな者をやっつけてはいけない」という精神、生き方を指している。

 ところが、武士道精神はすでに昭和の初期頃から失われつつあった。戦後は武士道精神はなくなったが、多少は息づいており、いまのうち日本人の形として取り戻さねばならない、と訴えている。いいかえれば日本は昭和の初め頃から品格を失いはじめ、戦後はそれがほぼ決定的になった。「経済成長による繁栄の代償」として品格を失った。だから品格の再生を図るのが急務だ、と言いたいのである。
 次のようにも述べている。「日本は金銭至上主義を何とも思わない野卑な国々とは、一線を画す必要がある。国家の品格をひたすら守ること。経済的斜陽が一世紀ほど続こうと、孤高を保つべきだ。たかが経済なのである」と。

 以上のような品格の重要性、その品格の再生を図ろうという呼びかけには原則的に同意できる。

▽「自然との調和」観、人間中心主義の抑制、グローバリズムへの批判

 『国家の品格』の中で大筋で同意できる認識、主張のいくつかを以下に列挙する。これが私が「良書」と考える理由である。

*欧米人と日本人の自然観の違い
 欧米人にとって自然は、人類の幸福のために征服すべき対象だ。しかし太古の昔から日本人で、「自然を征服すべき」などと思った輩は一人もいない。自然に聖なるものを感じ、自然と調和し、自然とともに生きようとした。そういう非常に素晴らしい自然観があった。「人類の幸福のために自然を征服する」などというのは、人間の傲慢だ。それでは地球環境は破滅に向かってまっしぐらとなる。

*人間中心主義と人間の傲慢
 「人間の命は地球より重い」というのは人間中心主義から生まれた偽善のレトリックだ。人間中心主義は欧米の思想だ。その裏側には「人間の傲慢」が張り付いている。日本の美しい情緒は人間の傲慢を抑制し、謙虚さを教えてくれる。環境問題などを考えると、この謙虚さはこれからどんどん重要になっていく。

*小学校での英語必須科目化は日本を滅ぼす
 小学校から英語を教えることは、日本を滅ぼす最も確実な方法だ。日本から国際人がいなくなる。英語は話すための手段にすぎない。国際的に通用する人間になるには、表現する手段よりも内容を整える方がずっと重要である。英語はたどたどしくてもよい。内容を豊富にするにはきちんと国語を勉強すること、とりわけ本を読むことが不可欠である。

*21世紀はローカリズムの時代
 アメリカ主導のグローバリズムは冷戦後の世界制覇を狙うアメリカの戦略にすぎない。最大の問題は、グローバリズムが世界をアメリカ化、画一化してしまうこと。文化や社会をも画一化してしまう。
 世界の各民族、各地方、各国家に生まれた伝統、文化、文学、情緒、形などを世界中の人々がお互いに尊重しあい、それを育てていくこと。21世紀はそういうローカリズムの時代である。

*資本主義の勝利は幻想
 弱肉強食に徹すれば、組織は強くなる。しかし社会は安定性を失う。資本主義的個人は、それぞれが私利私欲に従い、利潤を最大化するように努める。それが「神の見えざる手」に導かれて、全体の調和がとれ、社会全体が豊かになる。最近では一歩進んで「市場原理主義」になった。市場原理主義の前提は「まず公平に戦おう」。公平に戦って、勝った者が全部とる。
 しかしこの論理は、「武士道精神」によれば、「卑怯」である。強い者が弱い者をやっつけることは卑怯である。市場原理主義はそんなことに頓着しない。

*徹底した実力主義は間違い
 「実力主義を導入すべきだ」と言ったら、カッコ良い。しかしこれを徹底したらどうなるか。例えば同僚は全員がライバルになる。いつも敵に囲まれているという非常に不安定な、穏やかな心では生きていけない社会になってしまう。
 徹底した実力主義には反対である。終身雇用や年功序列を基本とした社会システムを支持する。

▽「人を殺してはいけない」は論理では説明できないか?

 第二章(「論理」だけでは世界が破綻する)は、論理・合理一辺倒の欠陥を衝(つ)いている。数学者らしい著者のユニークな視点であろう。その一つとして「最も重要なことは論理では説明できない」、すなわち「<人を殺してはいけない>は論理では説明できない。駄目だから駄目なのだ」と指摘している。
 数年前に生徒から「なぜ人を殺してはいけないのか」と聞かれて、教師が答えられなかった、という教育の現場で実際に生じた問題である。生徒の疑問にどう答えるか。

 参考までに仏教の開祖、お釈迦様の説くところを紹介したい。
*B・R・アンベードカル著/山際素男訳『ブッダとそのダンマ』(光文社新書)から。ダンマとは法、真理、本質、道徳性を意味する。
・「正しい行為の規範を教えよう。殺すなかれ、殺させるなかれ、殺すことを認めるなかれ、強きも弱きも生きとし生けるいかなるものにも暴力を振るうなかれ」
・「他人は殺しても、自分は決して殺すまい」

*中村 元訳『ブッダの真理のことば』(ダンマパダ・岩波文庫)から。『法句経』の名で知られる。
・「すべての者は暴力におびえる。すべての(生きもの)にとって生命は愛(いと)しい。己(おの)が身にひきくらべて、殺してはならぬ。殺さしめてはならぬ」(第10章 暴力・参照)

釈尊が説くように、「すべての(生きもの)にとって生命は愛しい」のだから、「他人のいのちを奪おうとする者は、まず自らのいのちを絶ってからにするがよい」と私(安原)なら主張したい。「まず自分の愛しいいのちを奪ってから、その後他人のいのちを奪えるのであれば、奪ってみよ」と。これは教え=道徳であり、同時に論理でもあるのではないか。

▽疑問点(その1)―「自由、平等より、日本人固有の<情緒や形>が上位にある」か?

『国家の品格』には大いなる疑問点も少なくない。これが「悪書」と考える理由である。以下、それを概観したい。

 まず著者は「自由は不要」であり、「平等もフィクション」だと断ずる。例えば次のようである。
・自由の強調は「身勝手の助長」を意味し、必要な自由は「権力を批判する自由だけだ」
・嫌な奴をぶん殴る自由も、立ち小便する自由も、私には愛人と夢のような暮らしをする自由すらない。
・「人間はすべて平等」などといっても、子どもでも「ウソ」と分かっている。
・私は小学校の時から勉強はめざましくできたが、女性には一向にもてなかった。
・夫婦喧嘩では女房にすらかなわない。
・人の能力はなにひとつ平等ではない。
・平等というのは欧米のひねり出した耳当たりの良い美辞にすぎない。

 著者が自由、平等をこういう次元で本気でとらえているとすれば、著者の説く「日本固有の美しい情緒」とは、自身が無縁とはいえないか。これでは「甘ったれ」という印象さえ受ける。参考までに日本国憲法に定める自由と平等を紹介したい。

*自由について
 奴隷的拘束及び苦役からの自由(第一八条、)、思想及び良心の自由(第一九条)、信教の自由、国の宗教活動の禁止(第二〇条)、集会・結社・表現(言論、出版その他一切の表現)の自由(第二一条)、居住・移転・職業選択の自由、外国移住・国籍離脱の自由(第二二条)、学問の自由(第二三条)―を挙げている。
 自由は歴史的に血と汗を流して獲得した所産であり、著者の説く「自由=身勝手」とは異質のものである。

*平等について
 法の下の平等=人種、信条、性別、社会的身分または門地により、政治的、経済的または社会的関係において差別されない。貴族の制度は認めない。勲章など栄典の授与は、いかなる特権も伴わない(第一四条)。家庭生活における両性の平等(第二四条)―の2つである。
 平等とは「法の下の平等」であり、男女(男はいくら頑張っても子どもは産めない。そのことを女性は誇りに思って欲しい)、個性、能力、経験などが同じだという意味ではない。差異があるのは、むしろ望ましく、そこに多様性が生まれる。

 ここでのなによりの疑問点は「自由、平等より、日本的な<情緒や形>が上位にある」とみていることである。この発想は日本が欧米よりすぐれていると言いたいのであろう。しかし上下、優劣でみる問題ではない。そういう見方は危険である。<情緒や形>をこれまで軽視してきたことを見直さなければならないが、だからといって歴史的な概念、思想である自由、平等をないがしろにするわけにはいかない。両者を並存あるいは融合関係でとらえることが必要ではないか。

▽疑問点(その2)―「武士道の精神は戦争廃絶を可能にする」か?

 著者は戦争阻止あるいは戦争廃絶の可能性について次のように指摘している。
・人類の当面の目標は2度と大戦争を起こさないこと。大戦争に巻き込まれないこと。論理や合理だけでは戦争は防げない(論理とは「自己正当化のための便利な道具」でしかないから)。日本人の持っている美しい情緒や形が戦争を阻止する有力な手だてとなる。
・武士道の卑怯を憎む心があれば、弱小国に侵攻することをためらう。惻隠の情があれば、女、子ども、老人しかいない街に大空襲を加えたり、原爆を落としたりするのをためらう。
・美的感受性があれば、戦争がすべてを醜悪にしてしまうことを知っているから、戦争をためらう。
・日本人の美しい情緒の源にある<自然との調和>も、戦争廃絶という人類の悲願への鍵となる。

 つまり著者は日本特有の「武士道の精神」「もののあわれ」、さらに「自然との調和」観が戦争阻止あるいは廃絶を可能にするという認識に立っている。そう期待したいところだが、現実には残念ながら「無い物ねだり」とはいえないか。
 著者も指摘するように武士道精神は「すでに昭和の初期頃から失われつつあった」のであり、戦後はそれこそ経済成長至上主義と最近の市場経済原理主義、拝金主義の横行とともに事実上消滅に近い状態となっている。

 実は新渡戸稲造著『武士道』(英文の初版は1899年=明治32年発行)が、次のようにすでに明治末期に武士道死滅への懸念を隠していなかったことを承知しておく必要がある。
 「めざましいデモクラシーの滔々たる流れは、それだけで武士道の残滓(ざんし)を飲み込んでしまうに十分な勢いをもっている。西欧文明はわが国古来の訓育の痕跡を消し去ってしまったのだろうか。一国民の魂がそれほど早く死滅してしまうものとすれば、まことに悲しむべきことである」と。

 一方、「自然との調和」観も、経済成長に伴う開発という名の自然破壊によって相当歪められたものに変質している。

 著者の戦争観にも疑問がある。満州事変(1931年)以降の日中戦争に関する「中国侵略は無意味な<弱い者いじめ>だった。武士道精神からいえば、もっとも恥ずかしい、卑怯なこと。日本歴史の汚点だ」という著者の認識はその通りである。しかし日米戦争については「独立と生存のため致し方なかった」と述べている。
 満州事変に始まり、敗戦で終わるいわゆる15年戦争は全体として計り知れない過ちの連続ととらえるべきであり、前半は「汚点」であり、後半は「やむを得なかった」という性質のものではない。
 しかも「ヒットラーと同盟を結ぶという愚行を犯した」とも述べている。「ヒットラーと同盟」は日独防共協定調印(1936年)、日独伊3国同盟調印(1940年)などの軍事同盟を指しており、これを踏み台にして太平洋戦争(1941~45年)へ突入していった。同盟が愚行であるなら、太平洋戦争も同じく愚行ではないのか。

▽疑問点(その3)―気にかかる「日本の神聖なる使命」感?

 「日本の神聖なる使命」とか、「世界を救うのは日本人」など大上段に振りかぶった表現がお好きらしい。次のように述べている。
・日本人はこれら(=武士道、もののあわれ、自然との調和)を世界に発信しなければならない。欧米をはじめとした、未だ啓(ひら)かれていない人々に、本質とは何かを教えなければならない。それこそが<日本の神聖なる使命>なのだ。
・ここ4世紀ほど世界を支配してきた欧米の教義は、破綻を見せ始めた。世界は途方に暮れている。この世界を本格的に救えるのは、日本人しかいない。

 大東亜戦争(太平洋戦争を当時日本はこう呼んでいた)の名分、「八紘一宇」(注1)路線にみる当時の「日本の使命」について著者の言及はない。これを今の時点でどう考えるか。当時、<美しい情緒と形>はすでになくなっていた。使命感を煽ると、その使命感が歪められた自国中心のナショナリズム(注2)と連動しやすい。そういう使命感ほど対立、災厄を招くものはない。
 ブッシュ米大統領に象徴されるキリスト教原理主義と「自由と民主主義のダンピング(=質の劣化)輸出」推進のイデオロギーとが一体化した使命感が、目下どれほど世界に惨劇をもたらしているかを見逃してはならない。

(注1)「八紘一宇」(はっこういちう)の八紘は四方と四隅。一宇は一つの家屋。日本書紀に基づく語とされる。「全世界が一家のようであること」という意である。太平洋戦争時、日本の海外侵略を正当化する標語として用いられた。
(注2)著者は愛国心をナショナリズムとパトリオティズムの2種類に分けて、後者の祖国愛を広めようと呼びかけている。
・ナショナリズム(自国中心の愛国心)=自国の利益のみを追求するという、あさましい、不潔な思想、国益主義。戦争につながりやすい。
・パトリオティズム(祖国愛)=自国の文化、伝統、情緒、自然をこよなく愛する美しい情緒。戦争阻止の有力な手だてとなる。

▽疑問点(その4)―「国民は永遠に成熟しない」という認識を是認できるか?

 これは一種の愚民論ではないか。次のように述べている。「民主主義の根幹は国民主権=主権在民であり、その大前提は国民が成熟した判断をできることだが、国民は永遠に成熟しない。だから<真のエリート>が必要」と。なぜ国民は永遠に成熟しないと考えるのか。その具体例は次のようである。

・1933年、独裁者ヒットラーのナチス党が民主的な選挙で第一党になった。第一次大戦後ワイマール憲法は主権在民、三権分立、議会制民主主義をうたった画期的な憲法だったが、その憲法下でドイツ国民はヒットラーを選んだ。だから民主国家で戦争を起こす主役は、たいてい国民なのだ。
・イラク戦争を支持したアメリカ人は開戦時に76%だった。

 こういう事実を踏まえて、暴走の危険を原理的にはらむ民主主義を抑制するのは、エリート以外にいないし、そのエリートには次の2つの条件が必要、という主張を展開している。
①哲学、歴史などの教養を身につけて、圧倒的な大局観、総合判断力をもっていること
②「いざ」となれば、国家、国民のために喜んで命を捨てる気概があること

 私(安原)は、国民を一部のエリートと多数の愚民とに分ける二分法には賛成できない。品格なき輩がエリート面をすることほど卑しい振る舞いはない。①の条件は一人でも多くの国民が身につけるときであり、それをエリートと呼ぶ必要はない。②の条件を備えたエリートなるものは、そもそも必要ではない。
 結局国民一人ひとりのレベルを上げていくこと、つまり「国民一人ひとりの品格」を育てていく以外に道はないだろう。残念ながら「歴史は繰り返す」という懸念はあるものの、愚民論に立つかぎり、将来への展望は開けない。

▽品格の再生は歴史的な大事業

 ではどうするか。品格の再生は不可欠であり、容易ならざる歴史的な大事業といえる。ここでは品格の中核ともいうべき本来の武士道精神、さらに「もののあわれ」、「自然との調和」観―『国家の品格』にいう日本の<情緒と形>―をどう再生発展させるか、端的にいえば21世紀版品格のありようを考えてみたい。これは真の意味での構造変革に立ち向かうことを促さずにはおかない。

 誤解を避けるために、とりあえず次の2点を指摘しておきたい。
 まず『国家の品格』という書名の「国家」にはいわゆる国家主義の臭いがつきまとっている。「政治家の品格」、「企業人の品格」も含めて「国民の品格」という認識の方が望ましい。
 次に悪用される武士道の罠である。「武士道というは、死ぬこととみつけたり」で知られる『葉隠』(江戸時代の佐賀鍋島藩士の武士としての心構えを説いたもの)は、戦争中、軍国主義鼓吹の教典として使われ、国民は「忠君愛国」すなわち「天皇のために死ね」と教え込まれた経緯がある。
 これは『葉隠』が説く武士道の誤用であるが、武士道はこのように歪められ、悪用される懸念があることを承知しておくことが大事である。(拙論「武士道を今日に読み直す―経営倫理を求めて」=駒沢大学仏教経済研究所編『仏教経済研究』第27号、1998年刊・参照)

▽21世紀版品格再生の4つの必要条件

 さて21世紀版品格再生のための必要条件として次の4つを提唱したい。逆に本来の武士道精神を中核とする品格が再生できれば、4つの条件を実現できる。そういう相互依存関係にある。

①日米安保=日米軍事同盟を解体すること
 『国家の品格』は、日本がアメリカの植民地状態から脱出し、独立国になることを説いているが、それを妨げている元凶は、日米安保=軍事同盟である。ところが同書には安保=軍事同盟への言及はない。
 「在日米軍の再編」にみられるように日米安保=軍事同盟の強化によって世界を股にかけた「戦争への道」へ進みつつある。日米安保=軍事同盟はいまや世界の脅威(=予防戦争、先制攻撃論に立つ軍事力の行使)へと変質しつつある。ここに着目し、それを拒否しなければ、武士道にみる品格の再生はあり得ない。
 徳川3代将軍家光と親交があった禅僧・沢庵(1573~1645年)は剣の極意を「剣禅一如」の精神で「刀を用いて人を殺さず、刀を用いて人を生かす」と説いた。いわゆる活人剣(注)である。21世紀版活人剣は軍事同盟そのものの解体に向かわなければならない。

(注)活人剣は、殺人を目標とする凶器の剣、すなわち殺人剣を昇華させて剣術を剣道へと高めた。その活人剣は「無刀の心」に相通じるところがある。剣道の柳生新陰流に「人をきる事はなるまじき也。われはきられぬを勝とする也」があり、これを「無刀の心」と名づける。沢庵の指導によるものとされている。
これは今日風にいえば、非武装の精神にほかならない。武士道の再生を今日の時代に考えるのであれば、活人剣と無刀の心に込められた非武装の理念をどう継承発展させるかが緊急な課題というべきであろう。
(松原泰道著『沢庵 とらわれない心』廣済堂出版・参照)

②戦力不保持(=非暴力)の憲法9条の理念を生かすこと
 『国家の品格』は、戦争の廃絶・阻止の重要性を強調している。ところが憲法9条には一切言及していない。
 ノーベル賞受賞作家の大江健三郎氏らが呼びかけ人となって誕生した、憲法9条を守るための「九条の会」(2004年6月結成)は、その後全国各地域・分野別に次々と増えて、06年4月現在、4700を超えている。私は非武装=非暴力をうたう憲法9条の理念の擁護と活用に本来の武士道精神再生の芽生えをみてとりたい。

③市場原理主義を棄てること
 『国家の品格』は、「美しい田園」の重要性を強調する一方、金銭至上主義、市場原理主義を批判している。同感である。美しい田園を再生し、食糧自給率を高めることは不可欠である。
 そのためには1980年代の中曽根政権時代に始まった公的規制の緩和・廃止、自由化、民営化を推進し、一握りの勝ち組と大多数の負け組に区分けし、人間性や社会の安定性を破壊する市場原理主義―アメリカの植民地状態の経済版ともいえる―を軌道修正し、社会的市場経済(環境、農業、中小企業、福祉、教育などの重視)へ転換していくことが求められる。

④経済成長主義に立つ石油浪費経済に決別し、簡素な経済を追求すること
 石油浪費経済は石油資源確保のために戦争(=暴力の行使)を誘発しやすい。自然環境保全の重要性、資源エネルギーの有限性に着目すれば、もはや貪欲な経済成長を追求する時代ではない。貪欲は拝金主義をはびこらせて、品格とは両立しない。知足の精神を重視する簡素な経済の追求こそが品格ある市民、企業、社会をつくっていく。


(感想、批判、提案を歓迎! 下記の「コメント」をクリックして、自由に書き込んで下さい。実名入りでなく、仮名でも結構です)

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コメント
この記事へのコメント
強力な解毒剤
藤原正彦氏の「国家の品格」は、友人が「良い本だから」とプレゼントしてくれていたのですが、実は、私は、まだを読んでいません。題名が私の趣味に合わないので、他の本を先に読んでいるところでしたが、安原さんの評論を読んで私の直感が当ったような感じを持ったしだいです。
それはそれとして、奇しくも、安原さんが書かれたのと同日の東京新聞(夕刊)「大波小波」欄に、やはり「国家の品格」書評が「売れている理由」と題して、載りました。小さなコラムですから、安原さんのように詳しい評ではありませんが、このコラムの筆者「二百万部の品格」さんは、「何のことはない、分かりやすさがすべての鍵なのだ。」と切り捨て、且つ、藤原氏の論理を「擬似論理にす
ぎない」と酷評しています。
そんな内容の本が200万部も売れているとすれば、良かれ悪しかれ世の中への影響はあるはずで、今回の安原さんの評は、特に悪影響に対する強力な「解毒剤」なるだろうと信じます。ぜひ、多くの人々にこのブログを読んでもらいたいと思います。
2006/05/15(月) 23:25:49 | URL | 並野一民 #-[ 編集]
武士道精神について
並野一民さん、適切なコメントに感謝します。

この本は一読する限り大変面白くつくられているだけに批判のし甲斐があるというものでしょう。
ある研究会で話題になったことですが、「この本は右からの小泉批判だ」という指摘もありました。残念ながら「左からの小泉批判」のベストセラーがないことです。

まあ右か左か、という議論はさておいて、私自身は本来の、つまり歪められたものではない、武士道精神の
再生には関心があります。
その意味では新渡戸稲造著『武士道』をしっかり読み直す必要があります。藤原氏の著作には武士道の一つとして「正義」を挙げていますが、新渡戸著『武士道』には「義または正義」となっており、その説明の中心は「義」に置かれています。

ここで問題は儒教の「義」と欧米思想の「正義」とがどう違うのか、そこが問題です。正義の名目で戦争を始めることが多い事実に注目する必要があります。
「義と正義について論ぜよ」というテーマは、今後の大問題のような気もしています。
2006/05/16(火) 12:25:28 | URL | 安原和雄 #-[ 編集]
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