「もっともっと欲しい」の貪欲の経済から、「足るを知る」知足の経済へ。さらにいのちを尊重する「持続の経済」へ。日本は幸せをとりもどすことができるでしょうか、考え、提言し、みなさんと語り合いたいと思います。(京都・龍安寺の石庭)
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なぜ原発ゼロを主張しないのか
終戦記念日の新聞社説に物申す

安原和雄
今年(2011年)の終戦記念日は昨年までとは性格を異にしている。いうまでもなく「3.11」(東日本大震災と原発惨事)という、戦後史上未経験の新事態の発生が背景にある。あるメディアは社説で提案している。「戦後は終わった。震災後という新しい時代の始まりだ。戦後復興と同じように、震災復興を通じ新しい日本を創ろう」と。
この提言には賛成であり、その基本は<脱原発=原発ゼロ>だと考える。しかし新聞社説は肝心の脱原発=原発ゼロに背を向けている。なぜなのか。これでは「新しい日本を創る」という歴史的事業もお題目に終わりかねない。新聞社説に物申すほかない。(2011年8月15日掲載。公共空間「ちきゅう座」、インターネット新聞「日刊ベリタ」に転載)

▽ 終戦記念日の新聞社説は何を論じたか

戦後66回目の終戦記念日(2011年8月15日)の大手紙の社説は何を書いたか。まず社説の見出しを紹介する。8月15日は新聞休刊日のため、社説は前日の14日付となっている。

*朝日新聞=終戦に思う 今、民主主義を鍛え直す
*毎日新聞=大震災と終戦記念日 「ふるさと復興」総力で
*東京新聞=終戦の日に臨み考える 新たな「災後」の生と死
*日本経済新聞=8.15 を思い、3.11後の日本を考える
*読売新聞=戦後66年 政治の「脱貧困」をめざせ

終戦記念日の新聞社説を読みながら、思うことは新聞は果たしてどこまで真実を伝えているのかである。真実を精一杯努力して報道しようとしないメディアに存在価値がないことはいまさら指摘するまでもない。
朝日新聞社説は末尾に次のように書いている。
「健全で利害から独立したジャーナリズムが果たすべき責任と役割は重い。情報を官僚らに独占、操作させず、生命や資産が脅かされる可能性のある人全員が共有する。失敗の歴史を忘却せず使命を果たしてゆきたい」と。

以上のような「ジャーナリズムの責任と役割」に言及しているのは、上記の5紙のうち朝日新聞だけである。そのことは評価したいが、いささかしっくりこないのは、次の指摘である。
「情報を・・・生命や資産が脅かされる可能性のある人全員が共有する」とここに「資産」が登場してくることだ。これは何を意味するのか。ジャーナリズムの仕事は、真実の追求よりも国民の資産の保全が仕事の一つだと言いたいのか。いうまでもなく日本国憲法29条は「財産権の保障」を定めている。だからといって「資産」に目配りを利かせることがジャーナリズムの重要な仕事といえるだろうか。
もう一つ、指摘すれば最近の新聞メディアには日本国憲法が保障する基本的人権、平和、非武装をややもすれば軽んじる傾向がある。メディアの多くは国家権力が憲法本来のこれら理念を空洞化させてきた戦後史を追認してきたのだ。これでは「ジャーナリズムの責任と役割」を事実上放棄してきたとはいえないか。

▽ 戦後は終わり、震災後という新しい時代の始まり

今年の終戦記念日の社説の特色は、昨年までと違って東日本大震災、原発事故にも言及していることである。

日本経済新聞社説は次のように指摘している。
「戦後は終わった。震災後という新しい時代の始まりである。ここを日本再生の転機と、とらえたい。戦後復興と同じように、震災復興を通じ新しい日本を創るという目標をかかげよう」と。この提言には基本的に賛同できる。さて問題は「新しい日本を創る」というその目標は何か、である。

*日経新聞社説は「成長と連帯」
日経社説は「成長と連帯」を挙げている。連帯、すなわち人々相互の絆は「新しい日本を創る」ためのエネルギーの源泉となるものであり、重要である。この連帯、絆を欠いていては「創る」ことは夢物語でしかないだろう。
一方、成長はどうか。経済中心の新聞らしく日経は今なお成長(=経済成長)に執着している。しかし経済成長とは、経済の量的拡大を意味するにとどまる。21世紀の今日の課題は、経済の質的改善(自然環境の保全、生活の質的向上、格差の是正、貧困の解決など)である。経済成長を目標に掲げることは、人間でいえば、成人になってもなお、体重が増え続けることを目指すに等しく、健康を損ねるという負の効果しか期待できない。

*毎日新聞社説は「ふるさと復興」
毎日新聞社説は「ふるさと復興」を掲げている。以下、その骨子を紹介しよう。
震災後、「ふるさと」という言葉が人々の心をつかんでいる。「生まれ育った土地」だけではない。自然や街、なじんだ顔、取り戻したい大切なものといった意味を込めて。
戦後の高度成長の陰でともすれば軽んじられてきたもの。市場価値では測れないが人生に欠かせないもの。それらが「ふるさと」という言葉に凝縮されているようだ。人のつながりを示す「絆」にも通じる。
今の日本の緊急の課題は、被災地の人々の「ふるさと」を取り戻すことだ。「ふるさと」を奪われた人々を支え続ける。そのために知恵と力を結集させなければならない。(中略)敗戦後の時代は「戦後」とくくられるが、この大災害が次の時代への転換をもたらすかもしれない。「ふるさと」の再発見も一つの要素になりうるだろう、と。

毎日社説は「ふるさと」で何をイメージしているのか。次の指摘に着目したい。
<戦後の高度成長の陰でともすれば軽んじられてきたもの。市場価値では測れないが人生に欠かせないもの。それらが「ふるさと」という言葉に凝縮されている>と。
これは市場価値、すなわちお金で買える商品・サービスとは異質の非市場価値 ― お金では買えないが、大切な価値で、その一つの具体例が絆 ― を重視しようという姿勢で、高度成長時代以来はびこってきた金銭万能主義からの転換を促す提案といえる。

*東京新聞社説は「心の復興」
東京新聞社説は、なかなかユニークである。次のように「心の復興」を唱えている。
目に見えない放射能との闘いは原発事故が長引くにつれ社会に疲労感を広げている。東日本大震災の影響で、東海、東南海など他の大地震が起きる可能性が高まったともいわれることもあって、一種の無常感さえ漂ってきた。(中略)震災と放射性物質の拡散は、ふだん人々が忘れている死を身近なものに感じさせた。しかし無力感や虚無感にとらわれることこそ、今は排すべきだ。
幕末の思想家、吉田松陰(注・安原)は二十九歳の若さで処刑された。処刑の前日、人間の寿命には長短があるが、「それにふさわしい四季がある」と述べ、明日死ぬわが身にも「四季はすでに備わっており、花を咲かせ実をつけているはずだ」(「留魂録」講談社学術文庫)と書きのこした。
生ある限り、自らの四季を豊かにする努力を惜しまない。それこそが新たな「災後」に、まず心の復興を成し遂げる一歩となるのではないか。
(注)吉田松陰(1830~1859年)は尊皇論者の長州藩士。萩(現在の山口県萩市)に松下村塾を開き、高杉晋作、伊藤博文ら多くの明治維新功労者を育てた。

以上のように3紙は「震災後の新しい日本を創る」ためのキーワードとして「連帯」(日経)、「ふるさと復興」(毎日)、「心の復興」(東京)を提案している。
3紙に比べると、読売社説は<日本の「政治の漂流」ばかりが際立っている>と指摘し、政治の現状批判に重点がある。さらに日米戦争中の軍指導部の失敗事例を引きながら、<「責任回避の楽園」の愚を繰り返しではなるまい>と強調している。この「責任回避の楽園」は戦後も続いている。特に原発を推進してきた「原発推進複合体」(その構成メンバーは東京電力など電力会社を中心とする政官財のほか、学者、メディアなどからなる。別名「原子力村」ともいう)は、その責任回避ぶりが顕著であるが、読売社説には責任回避への批判はうかがえない。まして「新しい日本を創る」ための積極的な前向きの提案はない。

▽ なぜ<脱原発=原発ゼロ>に触れないのか

朝日社説は福島第一原発の事故について次のように書いている。
原子力村の自己過信が招いた物語でなかったか。世界有数の地震国。大津波も襲う大地に54基もの原発を造った。さらに2030年までに14基以上増やし、総電力中の原子力を5割以上にする計画を立てていた。原発依存の過剰さが放置、容認されてきた。経済産業省や電力会社は、地震国の真実に目を塞いだ。都合のいい情報は伝えるが、不利なデータは隠す。さらにやらせ質問で世論を誘導。ウソを重ねた軍部の「大本営発表」顔負けだ、と。

以上の指摘は正しい。論理の道筋として、「だから敗戦後、軍部を解体したように、脱原発=原発ゼロ(注)を」と主張するのかと思えば、「でも原子力村だけの責任か」と話が逸れていく。
(注)脱原発=原発ゼロについて誤解がある。直ちに原発をゼロにするという意味ではない。脱原発(議会で承認済み)の先頭を走っているドイツも完全な脱原発は10年後の2022年である。

原発事故の真因として朝日社説は「原子力について民主的な熟議を怠ってきた」ことを挙げている。しかし「民主的な熟議」を抑えたのは、ほかならぬ原子力村の面々ではないか。朝日の社説自身、「やらせ質問で世論を誘導」(上述)と書いているではないか。
さらに朝日社説は<「閉鎖的な専門家システム」と「大半の国民の無関心」という「共犯関係」>を挙げている。積極的に反原発を唱えなかった「無関心な国民」はここではなんと共犯、すなわち犯罪者として認識されている。

しかしこの「国民の無関心」という指摘は事実に反するのではないか。以前から原発への根強い批判があったにもかかわらず、カネ(公金)をばらまきながら、それを封じ込めてきたのは原発推進派が陣取る「原子力村」である。注目すべきことに「3.11」後、「国民の無関心」に大きな変化が現れている。朝日新聞の世論調査では、段階的廃止への賛成が77%にものぼっているのだ。「無関心」どころか国民は「大いなる関心」を抱くに至っている。なぜ朝日社説はこのような変化に着目しないのか。これでは公正な報道とはいえないだろう。

朝日社説に限らない。5紙の社説を丁寧に読んでみたつもりだが、原発の問題を取り上げながら、今後の方向として脱原発=原発ゼロに触れている社説はゼロである。なぜなのか。震災復興の鍵は脱原発=原発ゼロが基本ではないのか。
すでに指摘したように「震災後の新しい日本を創る」ためのキーワードとして「連帯」(日経)、「ふるさと復興」(毎日)、「心の復興」(東京)が挙げられている。これらの提案は内部に原発を抱えていては、それこそ見果てぬ夢物語に終わるほかないと想うが、いかがだろうか。

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コメント
この記事へのコメント
直視の能力
福島原発震災の被害の実態が徐々に顕在化しつつありますが、その被害の全貌と深刻さは今もって計り知れません。安原さんが批判するような各紙の社説の腰抜けぶりは、各社の論説委員たちが、原発被害の深刻さを直視しようとしないか、直視する能力さえ失っているからではないでしょうか。
2011/08/16(火) 19:09:41 | URL | 並野一民 #-[ 編集]
自宅で朝日、読売、会社で日経の新聞社説を読みますが、最近では読んでいてストレスを感じます。どうもジャーナリストとしての批判精神が足りないように思えます。
2011/08/16(火) 22:31:18 | URL | 赤坂亭風月 #-[ 編集]
メディアの体質
知人が、昭和41年7月25日付の朝日新聞社説のコピーを送ってくれました。「原子力発電と増殖炉の開発」というタイトルで、「原子力委員会が長期的展望のもとに動力炉開発に着手する決意をしたことは、まことに喜ばしいことである」と結ばれています。
人間だれでも過ちは犯します。問題は、それに気づいたときにきちんとした説明責任を果たすことです。それが日本のマスメディアにはできない体質になっているようです。
2011/08/17(水) 09:51:40 | URL | 永井 浩 #-[ 編集]
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