「もっともっと欲しい」の貪欲の経済から、「足るを知る」知足の経済へ。さらにいのちを尊重する「持続の経済」へ。日本は幸せをとりもどすことができるでしょうか、考え、提言し、みなさんと語り合いたいと思います。(京都・龍安寺の石庭)
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3.11後の望ましい「平成の変革」
神田明神で開かれた神儒仏講演会
      
安原 和雄
 「3.11」(東日本大震災、原発惨事)は、日本の近現代史上、何を意味しているのか。 大づかみに言えば、<明治維新>、<敗戦後の戦後改革>に次ぐ第三の <「3.11」後の平成の変革>を促して止まない。
 「平成の変革」とは、敗戦後の政治、外交、経済路線の質的変革であり、具体的には脱「原発」、脱「日米安保体制」、脱「経済成長主義」、脱「グローバリズム」さらに脱「私利私欲」型企業の実践にほかならない。この変革のありようを仏教経済学の視点(八つのキーワード=いのち尊重、知足、簡素、非暴力(=平和)、共生、利他、持続性、多様性)で考え、提案したい。(2011年8月1日掲載。公共空間「ちきゅう座」、インターネット新聞「日刊ベリタ」に転載)

講演会としては異色の「神儒仏合同講演会」が7月30日、神田祭で知られる神田明神(東京・千代田区外神田)の祭務所ホールで開かれた。講演者は、神道=藤井隆太・神田明神氏子総代/(株)龍角散社長=テーマ「生命関連企業の責任とセルフメディケーションについて」、仏教=安原和雄・足利工業大学名誉教授/仏教経済フォ-ラム副会長=テーマ「日本再生と企業倫理」、儒学=瀬口龍一・(公財)斯文会顧問/日立建機(株)名誉相談役=テーマ「孔孟に学ぶ企業倫理」の3人。
 吉津宜英・駒澤大学仏教学部教授/仏教経済研究所所長が講演の総括的な論評を行った。さらに奈良康明・東方研究会常務理事、大鳥居信史・神田明神宮司、前田専學・東方研究会理事長らが挨拶した。聴衆は約150名を数えた。

 以下、私(安原)の講演「日本再生と企業倫理」(要旨)を紹介する。

(1)日本の近現代史上、<第三の変革>という「巨大な質的変革」に直面

 <明治維新>後が目指したものは、富国強兵と対外侵略戦争。その悲劇的な結末がヒロシマ、ナガサキへの原爆投下、300万人を超える戦争犠牲者を出した上での敗戦であった。
 <敗戦後の戦後改革>は平和憲法による非武装、基本的人権・生存権の保障などを柱に始まった。しかしやがて日米安保体制、軍事化、原子力発電推進、経済成長主義、グローバリズム、企業の国際競争力の強化路線、さらに1990年代以降、市場原理主義による貧困と格差拡大が主流となっていく。平和憲法の望ましい理念は骨抜きとなった。
 そこへ「3.11」(2011年)東日本大震災と福島原発大惨事の衝撃が走り、日本列島にとどまらず、世界中を揺さぶっている。このため<第三の平成の変革>、つまりそれまで日本の外交、政治、経済、企業のあり方を律してきた枠組みが根本から見直しを迫られている。日本列島全体が大きな歴史的変化の波に洗われている、といえる。

(2)仏教経済学的視点― 八つのキーワード

 <第三の平成の変革>をどういう視点で進めるか。仏教経済学の視点を重視したい。私(安原)の唱える仏教経済学は、大学の経済学部で通常教えられている現代経済学とは異質で、以下のような「いのち尊重」など八つのキーワードを特質としている。かっこ内が現代経済学の特質

*いのち尊重=人間は自然の一員(いのち無視=自然を征服・支配・破壊)
(補足)現代経済学は、戦争や原発暴走でいのちが失われることには無関心。現代経済学者の一人、ケインズ(英国・1883~1946年)は「戦争も富の増進に役立つ」と指摘している。

*知足=欲望の自制、「これで十分」(貪欲=欲望に執着、「まだ足りない」)
*簡素=美、節約、質素(浪費=無駄、虚飾、華美)
*非暴力=平和。反戦、環境保全なども(暴力=戦争に限らず交通事故死などを含む多様な暴力も容認)
 (補足)「戦争反対、平和を!」と唱えるだけでは視野が狭い。一方、年間の交通事故死者は約5000人で負傷者は100万人を超えている。こういう事実を認識していない人が意外に多い。クルマを「持たない、乗らない」を原則としている私は「いのちに無関心な気楽な人たち」と感じる。

*共生=いのちの相互依存(孤立=いのちの分断、孤独)
*利他=慈悲、自利利他円満、「世のため、人のため」の行動(私利=利己主義、自分勝手)
*持続性=持続可能な「発展」(非持続性=持続不可能な「成長」)
*多様性=自然・生物と人間・地域・国の多様性、個性の尊重、寛容の精神(画一性=個性無視、非寛容)

(3)第三の<平成の変革> ― 日本国憲法(平和憲法)本来の理念の活用、すなわち「日本の再生」を意味する。

 なおここでの「再生」とは、「心を改めて正しい生活、道に入ること」という意。だから元の状態に帰ることを重視する「復旧」、「復興」とは異なる。ただし被災地での復旧、復興が必要であることはいうまでもない。

<平和憲法本来の理念>とは
*前文の平和生存権=われらは、全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から免れ、平和のうちに生存する権利を有することを確認する。
*9条=戦争の放棄、軍備及び交戦権の否認(=非武装・日本)
*13条=個人の尊重、生命・自由・幸福追求の権利の尊重
*25条=生存権、国の生存権保障義務
*27条=労働の権利・義務

 平成の変革について― 仏教経済学の視点(八つのキーワード)から考えると、何が見てくるか。
 平成の変革として次の5本柱の「脱」路線を挙げたい。
イ)脱「原子力発電」=太陽光・熱、風力、小型水力など再生可能な自然エネルギーへ
ロ)脱「日米安保体制」= 現行の日米安保条約から日米平和友好条約へ転換
ハ)脱「経済成長主義」=「豊かさ」から「幸せ」への転換
ニ)脱「グローバリズム」=「ローカリズム」のすすめ
ホ)脱「私利私欲」型企業=「社会的責任」型企業へ

 「脱」路線とそれが目指す方向の具体策は以下のとおり。同時に仏教経済学の八つのキーワードのうち関連するキーワードを挙げる。

イ)脱「原子力発電」=太陽光・熱、風力、小型水力など再生可能な自然エネルギーへ=いのち、知足、簡素、非暴力、共生、持続性、多様性

メルケルドイツ首相は議会演説で「福島が私を変えた」と言った。なぜ日本の政治家にそういうセリフが言えないのか。日本の菅首相は「脱原発」を明言したかと思うと、「私の個人的見解」と釈明したりする。最近は「減原発」などと言い始めている。

*脱「原発」とは何を意味するのか?
 今日、明日にも直ちに原発を廃止するという意味ではない。脱「原発」の最先端を走っているドイツにしても現在17基の全廃は約10年後の1022年までを目指している。
 一方、日本は54基のうち現在動いているのは10基程度にすぎない。しかも電気事業法で決められている13カ月ごとの定期点検のため、原発の営業運転を停止し、約1か月後に運転を再開するのが従来の例だが、運転再開に地元自治体が「ノー」といえば、再開できない。そういう自治体が増えている。このため来年5月頃には原発が全面停止になる可能性もある。そうなると結果的に日本が原発国では世界で最初に脱原発を実現させることになる。

*仏教者の怒り
 浄土真宗本願寺派住職(武蔵野大学教授)の山崎龍明さんは次のように書いている。
 「敦賀にある原発に<もんじゅ>、<ふげん>という菩薩の名を冠したことに、反対し,改名(かいめい)のための署名運動をした。(中略)原発の便利さとみせかけの豊かさから、今こそ決別すべき時だ。ブッダの説く少欲知足の経済学、分配の経済学への転換をはかるべき時だ」(WCRP=World Conference of Religions for Peace =世界宗教者平和会議日本委員会・2011年6月号)

ロ)脱「日米安保体制」=現行の日米安保条約から日米平和友好条約へ転換=いのち、非暴力、共生、利他、持続性、多様性

 日米安保体制は日本国平和憲法の基本理念に反する。安保は日本にとって「安心・安定装置」とバラ色に描くメディアもあるが、とんでもない誤解だ。安保は軍事同盟・経済同盟であることを見逃してはならない。

*軍事同盟としての安保体制
 安保条約3条(自衛力の維持発展)、5条(日米共同防衛)、6条(在日米軍基地の許与)などは対外侵略のため暴力装置として機能している。それがはっきりしたのはベトナム侵略戦争からで、沖縄の米軍基地がなければベトナム侵略は不可能だっただろう。アフガニスタン、イラクへの米軍の軍事侵攻も安保に基づく在日米軍基地がなければ、不可能だった。
3条(自衛力の維持発展)は憲法9条(非武装の規定)が骨抜きになった元凶である。また現在は「世界の中の安保」に変質し、従来の「極東」から「世界」に対象範囲を拡大している。

*経済同盟としての安保体制
 安保条約2条(経済的協力の促進)は、「自由な諸制度を強化する」、「両国の国際経済政策における食い違いを除く」、「経済的協力を促進する」などを規定している。「自由な諸制度の強化」とは新自由主義(経済面での市場原理主義)の実行を意味しており、また「両国の国際経済政策における食い違いを除く」は米国主導の政策実施にほかならない。
 だから経済同盟としての安保体制は、米国主導の新自由主義(金融・資本の自由化、郵政の民営化など市場原理主義の実施)による弱肉強食、つまり勝ち組、負け組に区分けする強者優先の原理がごり押しされ、自殺、貧困、格差、差別、疎外の拡大などをもたらす米日共同の経済的暴力装置となっている。それを背景に日本列島上では殺人などの暴力が日常茶飯事となっている。
 これが憲法13条の「個人の尊重、生命・自由・幸福追求の権利の尊重」、25条の「生存権、国の生存権保障義務」、27条の「労働の権利・義務」を蔑(ないがし)ろにしている元凶といえる。

*安保破棄の可能性
 こういう安保条約は解消する必要がある。そんなことができるのか、と諦めている人が多いように見えるが、その気になれば、できる。安保条約10条は、一方的破棄(=破棄の意思を相手国に通告すれば、一年後に条約は終了する)を定めている。この条項はあまり知られていないように思う。

*「地球救援隊」創設の構想
 この構想は、憲法9条の本来の理念を生かす非武装・日本、すなわち自衛隊の全面非武装化による「地球救援隊」(仮称)創設だ。例えば自衛隊は武装ヘリコプターを多数保有しているが、武器を取り外せば、「人道救助ヘリ」に質的変化する。
 私は10年近く前からこの構想を唱えているが、最近は同種の提案が増えている。ある大学の講義でこの構想を提案したら、女子学生は「賛成」が何人もいたが、男子学生は「理想論にすぎない」と保守的な反応であった。それ以来、21世紀は男性の時代ではなく、女性がリードしていく時代ではないかと思っている。

ハ)脱「経済成長主義」=「豊かさ」から「幸せ」への転換=いのち、知足、非暴力、簡素、共生、持続性

*「足るを知る経済」への転換
 現代経済学は経済成長至上主義で、プラス成長に執着しているが、「経済成長=豊かさ」という観念の奴隷となっている。「経済成長主義よ、さようなら」の時代であり、「足るを知る経済」への転換が必要ではないか。
経済成長とは何か。分かりやすく人間の例で言えば、毎年体重が増え続けることを意味している。その人が立派な人物か、幸せに暮らしているのか、は関係ない。毎年体重が増え続けて100㌔を超え、さらに150㌔を超えても「成長が続いている」と喜ぶのに等しい。健康を害することは明らかである。少年時代は体重が増える必要がある。日本経済で言えば、昭和30年代から40年代半ばの円切り上げまでの高度成長時代である。

*量の拡大から質の充実へ
 求めるべきは経済の量的拡大を意味する経済成長よりも「生活の質的充実」である。こういう主張は今では世界的には決して珍しいわけではない。米国ワールドウオッチ研究所編『地球白書2008~09』はつぎのように指摘している。

 時代遅れの教義は「成長が経済の主目標でなくてはならない」ということである。経済成長は自然資本(森林、大気、地下水、淡水、水産資源など自然資源のこと。人工資本=工場、機械、金融などの対概念として使われる)に対する明らかな脅威であるにもかかわらず、依然として基本的な現実的命題である。それは急増する人口と消費主導型の経済が、成長を不可欠なものと考えさせてきたからである。しかし成長(経済の拡大)は必ずしも発展(経済の改善)と一致しない。1900年から2000年までに一人当たりの世界総生産はほぼ5倍に拡大したが、それは人類史上最悪の環境劣化を引き起こし、(中略)大量の貧困を伴った。

ニ)脱「グローバリズム」=「ローカリズム」のすすめ=知足、簡素、共生、多様性、持続性

菅民主党政権になって突如、関税ゼロを原則とするTPP(Trans-Pacific Partnership=環太平洋パートナーシップ協定または環太平洋経済連携協定)問題が持ち上がった。一部例外品目を残す従来の貿易自由化と違って、関税ゼロによる完全自由化が原則である。農産物輸出大国のアメリカ、オーストラリアが狙っているのは人口の多い日本市場である。
 これこそ「平成の開国」で、グローバリズム(世界市場の開放、自由化)の典型であり、日本がTPPに正式参加すれば、食料自給率はさらに低下し、「壊国」に陥る恐れがある。グローバリズムに安易に乗るわけにはいかない。

*「食と農」の再生と食料自給率の向上
 日本はこれまでいのちを育てる産業の農業をおろそかにし、いのちを削る産業の工業をたくましく成長させてきた。日本社会にいのちを軽視する風潮がはびこっている一つの背景である。
 食料自給率が現在4割まで低下し、6割を海外に依存している先進国は日本だけである。「いのちの源」の大半を海外に依存しているのは異常である。それに近未来の世界的食料不足を考えると、いのちを支える食料をどう確保するかは、食料安全保障上も重要である。
そこへ「3.11」の大震災と原発惨事である。そういう悲惨な状況下でローカリズム(国内地域重視主義)に立って、食料自給率を高めながら、「食と農」をどう再生・充実させるか、緊急かつ重要な課題である。
 地産地消(その地域の農産物をその地域で消費すること)、旬産旬消(季節感豊かな旬ごとの農水産品を大切にすること)を基本に国内・地域で「生産と消費」、「人と人」との相互結びつきの環を再生・拡大し、地域経済を発展させていくことが重要である。地産地消、旬産旬消のすすめは、輸送や冷凍保存のためのエネルギーの節約にもつながり、ひいては環境汚染の抑制にも効果が期待できる。

ホ)脱「私利私欲」型企業=「社会的責任」型企業へ=いのち、知足、利他、共生、持続性、多様性

 「3.11」後の企業が私利私欲を克服し、社会的責任として貢献すべき新しい課題として次の三つを挙げたい。
・原発に代わる自然エネルギーの育成
・ローカリズムの振興、発展に尽力
・被災地の中小企業の援助・救済・再建

*お粗末な経団連会長・米倉弘昌住友化学会長
 経団連会長は「脱原発を進めるのであれば、電力が不足するから、国内投資を控えて、工場の海外進出を進めるほかない」と発言している。しかし電力が足りない国は海外でも多いわけで、脱原発派への一種の脅迫のような発言だ。財界首脳としてお粗末とはいえないか。
この発言は私利私欲中心の発想で、企業の社会的責任、つまり従業員はもちろん、顧客、地域、関連企業などとの絆を大切に育てていくという発想・実践とはかけ離れている。経団連が古い体質の重厚長大型産業の利益保護団体に成り下がっていることを示している。楽天の三木谷浩史会長・社長が経団連を脱会したのは理解できる。

*石油危機(注)当時の財界首脳
 (注)石油危機(オイル・ショック)とは、1973年と1979年の2回にわたって起きた石油の供給危機と価格の高騰。

 当時の財界首脳とは、私自身、財界担当経済記者として交流があった。批判すべきことは批判し、議論もした。当時の顔ぶれは、土光敏夫経団連会長、永野重雄日本商工会議所会頭、桜田武日本経営者連盟会長(日経連はその後経団連と合体)、木川田一隆経済同友会代表幹事(東京電力会長)で、私利私欲を超えたもっと広い視野と行動力があったように思う。

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脱「人間力の劣化」も
脱「人間力の劣化」も

 <3.11後の望ましい「平成の変革」>の記事は、平成の変革として脱「原子力発電」など5本柱の「脱」路線を挙げている。これに脱「人間力の劣化」という新たな柱を付け加えたい。
 というのは、以下のような信じ難い「光景」が国民の前にさらけ出されたからである。朝日新聞(7月30日付)は「海江田経産相、涙の国会答弁」という見出しでつぎのように報じた。

 「出処進退は自分で決めさせていただく。もうしばらくこらえてください。お願いします」。辞意を表明している海江田万里経済産業相が29日の衆院経済産業委員会で、いつ辞任するのかはっきりさせるよう迫られて泣き崩れる場面があった=泣いている顔写真付き。
 自民党議員から「出処進退を口にしたら辞めなければ価値を落とす。恥ずべきことだ」と追及された。海江田氏は「ポスト菅」の有力候補の一人だが、「私は自分の価値はどうでもいいですよ、本当に。私はいいです、自分の価値は」と声を詰まらせた、と。

驚いたのは、この程度の追及で、一国の大臣というポストにある男がだらしなく泣いたことだ。小中学生の喧嘩ではあるまいし、なぜ泣き崩れるのか、不可解というほかない。しかも「自分の価値はどうでもいいですよ」という自己卑下もいただけない。その背景には「人間力の著しい劣化」があるのではないか。この種の「人間力の劣化」が日本列島上に広がっているとすれば、笑っているわけにもいかない。5本柱の「脱」路線に加えて、新たに脱「人間力の劣化」も大きな課題として浮上してきた。まず「人間力の再生」から取り組まなければ、「平成の変革」=「日本の再生」も前へ進まないという印象だ。
仏教経済塾亭主
2011/08/01(月) 09:42:58 | URL | 仏教経済塾亭主 #-[ 編集]
power
個人個人により、考えは違う。
だから、政治家はその内容を比べあって、大衆が一個人を選出する。
この時の個人選びの意義について、我々は深く理解しなくてはならない。

この時、選ばれた一個人の考えは、大衆の考えであると決定される。
かくして、大衆の意思が一個人により明らかにされることになる。
権力の所在とは、そうしたものである。

日本人には意思がない。だが、恣意はある。
我が国の権力者は、恣意の権力者ではあっても、意思の権力者だとは見られていない。
だから、権力者の意思は恣意として当然抑えられる傾向にある。
大衆の意思決定の内容の表れとは信じられていないのである。

首相が短期間にくるくると変わる。政局が安定しない。国家百年の計が立たない。
我が国の政治が混乱するのは、個人と意思に関する西洋的解釈が国民の間に不足しているためと考えられる。
日本社会の混乱は、わが国民の頭の中の混乱の反映である。

カレル・ヴァン・ウォルフレンは、<日本/権力構造の謎>の中の <とらえどころのない国家> で、次の段落のように述べています。

国会両院以外に、国家の中核として権力を持っているらしく見える組織は、官僚と大企業である。だが、この両者のどちらにも、究極的な権力はない。ボスはたくさんいるが、ボス中のボスといえる存在はないし、他を統率するだけの支配力のあるボス集団があるわけでもない。首都が国の経済、文化の中心だという意味では、日本は高度に中央集中型の国と言える。東京は、パリやロンドンに負けず劣らず、”すべてのものがある”大都市である。大企業は、中央官庁の役人から離れないよう、本社あるいは重要な支社を東京に構える。主要教育機関も、ここに集中している。予算陳情のためには、地方自治体も国の中央官僚に取り入らなければならない。東京以外には、重要な出版産業も娯楽産業もほとんど存在しない。ところが、この地理的中心地には、政治の中核がないのである。 どの国についても、国家の実態をとらえるのは容易ではないが、日本の場合はとくに、バケツの中のウナギを素手でつかまえる、ということわざのたとえそのものである。指令の流れる経路、責任の中心、見え隠れする政策決定上の実際の動きなどが、すべて気が変になるほど、とらえどころがない。(引用終り)


http://www11.ocn.ne.jp/~noga1213/
http://page.cafe.ocn.ne.jp/profile/terasima/diary/200812

2011/08/01(月) 12:46:26 | URL | noga #sqx2p0JE[ 編集]
先生に同感です。

今こそ、仏教経済学的視点が必要です。
2011/08/01(月) 21:01:20 | URL | 赤坂亭風月 #-[ 編集]
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