「もっともっと欲しい」の貪欲の経済から、「足るを知る」知足の経済へ。さらにいのちを尊重する「持続の経済」へ。日本は幸せをとりもどすことができるでしょうか、考え、提言し、みなさんと語り合いたいと思います。(京都・龍安寺の石庭)
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真面目な僧侶との対話
<折々のつぶやき>12

安原和雄
 しばらくインターネットとは無縁の田舎へこもっていたため、つぶやくことを忘れていました。今回は「<つぶやき>9の葬式仏教」につづいてお寺の話題です。
 仏教界の前途に大きな懸念を抱くQさんは、浄土真宗の僧侶Aさんと最近葬式仏教について対話する機会がありました。その体験からいえば、この世には<つぶやき>9で紹介したような横柄な坊さんだけではなく、真面目で腰の低い坊さんもいることが分かったといいます。以下はその対話のあらましです。(06年4月2日掲載)

Q:最近葬式仏教の評判が急角度で低下しつつあります。宗派によっては横柄な態度で葬式のお布施を一方的に要求します。これはおかしい。これでは寺への批判、不満は高まるばかりで、坊さんが自ら墓穴を掘っていることに気づいていないようですね。
A:たしかにひどい宗派があります。お布施が高すぎるのではないでしょうか。

Q:真言宗の場合など葬式に最低3人の坊さんがやってくる。地域によって違うのかもしれませんが、1人でお願いしようとしても、3人が決まりだという。お客さんである遺族
の気持ちなど無視するという結果になっていますね。近隣の寺から3人が集まってくるわけで、これでは寺の談合ではないでしょうか。
A:1人に比べ、3人だと当然お布施も高くなります。それに戒名料が高いのではないでしょうか。戒名に「院」の号を使うと、さらに高くなります。

Q:戒名に「院」を使うかどうかで戒名料が異なるのも勝手な話です。仏教の基本思想として「万人平等なり」と唱えた釈尊がいま健在なら何とおっしゃるだろうか。決して「結構、結構」とは言わないはずでしょう。
A:真宗では戒名に院号をつけるかどうかはお客さんに聞くことにしています。亡くなった人の性格などもよく聞いて、戒名を考える場合が多い。また無理に戒名をつける必要もないでしょう。俗名のままでもよい。希望があれば、そのようにしており、費用も少なくて済みます。

Q:横柄な僧侶が多いのは、江戸時代以来の檀家制度のうえにあぐらをかいているからでしょう。お寺側が増長していると、檀家制度もそのうち壊れてくるのではないでしょうか。
A:とくに東京辺りでは最近いろんな宗派の人が集まっているから、特定の宗派にこだわって葬式を出すのがむずかしくなってきています。他宗派の人が真宗式の葬式を希望すれば、もちろんそれに応じています。注文を受けてあちこちに出張する「出前僧侶」への需要はこれから大いに伸びると思いますよ。

Q:葬式仏教の自由化のすすめということになりますか。いま政・官・財(業)界はもちろん、教育、医療の分野でも改革の波に洗われていますが、今度はお寺さんの改革ということでしょう。当然の成り行きといえますね。ただ鈍感な「井の中の蛙」のような坊さんが少なくないようですから、時代の新しい足音を聴きとるだけの器量があるかどうか、そこが問題ですね。
 そういえば、最近若手の僧侶らの間で次の言葉が流行していると伝えられます(『朝日新聞』06年3月19日付天声人語)。「ボーズ・ビー・アンビシャス」(坊さんよ大志を抱け)と。古い因習を突き破ろうとする若手の革新的な坊さんたちに期待しましょう


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コメント
この記事へのコメント
葬儀も商品
坊さんが取り仕切る葬儀も今の世においては商品の一種と見ざるを得ません。自由主義経済体制下、需要と供給の法則が働き、供給側、即ち、坊さんが有利な状況にあるかぎり、坊さんの横暴は続くと思います。需要側、即ち、遺族たちも葬儀の選択肢を沢山持ち、ただ坊さんの言うままにならない努力が必要です。例えば、坊さんを呼ばずに、「手作り」の「お別れ会」や「偲ぶ会」などをする工夫もできるでしょう。遺族たちが、「世間並みにしたい。」と言う見栄を張らなければ、坊さんに頼らずとも、故人にふさわしい葬儀を営めるのではないかしらん。
2006/04/06(木) 09:28:56 | URL | 並野一民 #-[ 編集]
真面目な僧侶との対話
僕自身宗教には余り関心がない。従ってか、或いは世間常識に欠けるためか、仏教にいろいろな派があって葬式への対応に大きな違いがあるとは実感として知らなかった。たまたま僕の家系は浄土真宗であり、また女房の実家も偶然にも浄土真宗のため、ここに登場する「真面目な僧侶」が普通の坊主だと思っていた。
両家のお寺は何れも立派な構えをしているが、寺の改築とか何かの行事で寄付を請求されたことはなかった。親たちの葬式もReasonableな線でやってくれた記憶がある。仏教の世界でも、これから勝ち組、負け組
に分かれてくるかも知れない。坊主も時代の流れを読まないと、長い伝統ある自分たちの宗派を潰してしまうことになりかねない。
2006/04/07(金) 08:59:27 | URL | T.T. #-[ 編集]
同感です。
「仏経」でも、10年位前に、この問題を取上げたことがありますが、尻切れトンボになってしまいました。
ところで、「葬式仏教」は、江戸の「檀家制度」から始まったとありますが、最近の研究では、鎌倉仏教の発展自体が、葬送儀礼の実践を通じて成し遂げられたものだという考え方が有力になっています。
たぶん、「祖霊を迎えて祭る」というのが葬式仏教のきわめて特異な日本的儀礼だと思いますが、これはインド仏教本来のあり方とは全く違うのではないかと思います。
ですから、「葬式仏教」の問題は、単にお寺の経済的基盤を揺るがすという問題ばかりでなく、日本の仏教のあり方そのものを根底から覆すような危険な要素をはらんでいるということでしょう。
従って、この問題を考える場合、かなり周到な準備とそれなりの覚悟が必要かと思います。
2006/04/14(金) 11:59:18 | URL | T.Ken #-[ 編集]
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