「もっともっと欲しい」の貪欲の経済から、「足るを知る」知足の経済へ。さらにいのちを尊重する「持続の経済」へ。日本は幸せをとりもどすことができるでしょうか、考え、提言し、みなさんと語り合いたいと思います。(京都・龍安寺の石庭)
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「人間様あわれみの令」発布が必要
池波正太郎『おとこの秘図』を読んで

安原和雄
20年も前に読んだ池波正太郎の作品群が積み上げられているわが家の書棚からたまたま『おとこの秘図』(上中下=新潮文庫)を引き出して、読み直した。読後感をいえば、作品の筋書き、その展開がおもしろいだけではない。徳川幕府の綱吉(五代将軍)から吉宗(八代将軍)までが作品の時代背景となっているが、その描写が現代に見事に通じていることである。
 例えば、よく知られている綱吉の「生類あわれみの令」について「人間のみが疎外された。これを現代人は笑えるか」と問いかけている。そのうえ現代の車社会の中で人間は疎外され、多くの生命を奪われているではないか、と指摘している。これでは「人間様あわれみの令」こそが、この21世紀に必要ではないかというのが、私の読後感のひとつである。(2010年9月1日掲載。公共空間「ちきゅう座」に転載)

 以下、小説本文の一部とその読後感のいくつかを書きつづってみたい。

▽ 赤穂浪士切腹の是非をめぐって

 上野寛永寺の輪王寺宮(りんのうじのみや)・公弁法親王は、江戸城から寛永寺へもどり、側近の者にこうもらした。
 「将軍家は今日、赤穂の浪士たちの処分について謎をかけてまいられた。自分も、浪士たちを、この法衣の袖の下に隠してつかわしたい気もちにいつわりはないが、・・・なれど、浪士たちの中には、まだ年齢(とし)の若い、血気ざかりの者も多いそうな。さすれば、万一、いのちをたすけつかわしたがために、将来(ゆくすえ)をあやまる者もないとはいえぬ。そうなっては、せっかくの、こたびの義挙を汚すことにもなろう。心苦しゅうはあったが、これこそ弥陀(みだ)の大慈悲とおもい、将軍家の謎を、わざと解かずに帰ってまいった」と。

 当時の五代将軍・綱吉は切腹させるかどうか迷っていたとされ、法親王が「たすけておやりなされ」といえば、綱吉は、その一言をたよりに方法をめぐらすつもりでいたらしい。しかし輪王寺宮は、「天下御政道につき、いろいろとご苦心のほど、お察し申しあげる」といったのみで、この言葉で綱吉の肚(はら)も決まった。「喧嘩両成敗」の掟(おきて)を用いて切腹となったのである。

<安原の感想> 切腹、そして自らの責任を果たすこと
 上記の描写がどこまで史実に近いのかどうかは知らない。ただ素通りできないのは、浪士たちに切腹させてやるのが、「弥陀の大慈悲」という思考である。その理由として、次のことが挙げられている。浪士の中には若い血気ざかりの者も多く、いのちを助けられたために将来をあやまり、討ち入りという折角の義挙を汚すことにもなろう、と。
 もちろん浪士たち本人も切腹は当然と考えている。
 これを「切腹」そのものが存在しない21世紀の現代に翻訳すれば、どういう推論が成り立つか。切腹を自らの責任を果たすこと、と理解すれば、どうか。今日、多くの分野で責任回避、無責任主義が横行している。決して褒めた話ではない。現代こそ浪士たちの義挙と切腹にあやかり、現代にふさわしい自らの責任の取り方をもっと考えたい、と受けとめるのはどうか。

▽ おのれのことはおのれではわからぬもの

 小説の主人公・権十郎(若かりし頃の名)との以下のような対話を紹介する。

権十郎「さようかな・・・自分(おのれ)ではわからぬことよ」
太兵衛「はい、はい。何事も、おのれのことはおのれではわからぬもの。それが人という生きものの性(さが)なのでござりましょうな」
権十郎「おもしろいことを申される」
太兵衛「なればこそ、人は他人(ひと)のいうことに耳をかたむけねばならぬのでござります。他人の目に映る我が身を忘れてはなりますまい」
権十郎「はあ・・・」
太兵衛「あなたさまは、他人の申すことを、まことに素直にお聞き入れ下さいます。これは、あなたさまのご人徳と申すものでござりますよ」
権十郎は、はずかしいおもいがして顔を伏せた。

<安原の感想> 他人の言うことに耳を傾けるのは人徳
 ここで交わされている対話は、日常会話の一つにすぎぬ、と軽く受けとめるには、もったいないという印象がある。「他人の申すことを素直に聞き入れるのは、人徳と申すもの」とは、なかなかの含蓄に富む指摘である。小さな我欲、仏教でいう貪(とん=むさぼり)、瞋(じん=怒り)、痴(ち=無知、愚痴)の三毒にこだわる物言いが普通である。自分は正しい主張と思っていても、実はこの三毒のどれかに執着し、これをなかなか捨てられない。

 どうしたらよいか。他人様の言い分を、間違っていると感じても、まずは黙してそれに耳を傾けること。昨今、重視されている「聴く力」を大切にすること。ここで「素直に聞きいれるのは人徳」と想うのも一法かもしれない。聞き終わったら「なるほど」と相手の言い分をいったんは肯定してから、やおら「こういう見方、考え方はどうか」と反論に転じるのはどうか。
 しかしこの手法は「言うは易く、行うは難し」であることは間違いない。相手の言い分を途中で抑えて、つい横槍を入れたくなる。これは人徳ではない。やはり小さな我欲というべきだろう。

▽ 学問のみに熱中する子供は不健全に決まっている

 徳川の三代将軍・家光は、愛妾の桂昌院に向かって、四男の綱吉について「つとめて、聖賢の道を学ばせるように」と言ったものだから、桂昌院は異常な熱意を持って「学問でなくては、夜も日もあけぬ」という育て方をした。
 この桂昌院、現代の女性たちの中に生き返ってきたようではないか。

 学問のみに熱中する子供というものは、「不健全にきまっている・・・」
 子供のころは、まず感受性がするどく、みずみずしい小さな肉体そのものをもって、万象をたしかめるのがよいのだ。肉体のはたらきを無視して、頭脳ばかり使っていたのでは、奇型の子となるのが当然である。奇型の子は奇型の大人となる。
(中略)こうして綱吉はついに学問に淫(いん)してしまうことになる。
 だが学問はよくできても、世の中のことは「まったく知らぬ・・・」ままに成長を遂げることになった。

 ために綱吉は「仁、義、礼、智・・・」の道理をわきまえてはいても、たとえば「孝行」の実行といえば、自分の母の桂昌院のみへの孝行にとどまってしまう。他人の孝行などは、「自分の知らぬことじゃ」となる。
 「礼儀」については家来たちが自分に礼儀をつくすことは認めても、自分が主人として家来へ対する礼儀などは「どうでもよい」のである。
 おのれの「智識」はみとめても、他人の知能をみとめることはせぬ。こういう人物が将軍になった。たまったものではない。

<安原の感想> 奇型の子は奇型の大人となる
 この描写もまた現代に見事に通じている。「この桂昌院、現代の女性たちの中に生き返ってきたようではないか」という表現は、現代のお受験ママを念頭に置いていることはいうまでもない。
 「奇型の子は奇型の大人となる」は、現代への痛烈な批判となっている。お受験ママに尻を叩かれながら、受験競争に勝ち残り、目指す大学に合格したとして、その本人はいったいどういう人物に育っていくのか。
 しょせんは私利私欲中心の行動原理を超えることは不可能で、意欲があればなおさらのこと、出世主義者になってポスト(地位)を最高価値として、それに執着するのだろう。「世のため人のため」という利他主義からはほど遠い。これでは「奇型の大人」になり果てるほかないだろう。

▽ 「生類あわれみの令」で人間のみが疎外された

 徳川・綱吉の治世に「生類あわれみの令」という法令を発した。
「野良犬を出してはならぬ」から、次第に条例がきびしくなってきた。こんなはなしがある。
 江戸城の台所に猫が二匹死んでいたというので、台所頭(がしら)の侍が島流しになった。さらに自分の頬を刺した蚊を叩きつぶした侍が、それを密告され、これまた八丈島へ流刑されるという異常事態になった。
 ことに犬に対しては、呼びつけにしてはならぬ、お犬さまと呼べとか、野良犬が病気になったりすると、すぐさま犬医者が駈けつけて保護をする。野良犬は「御犬屋敷」へ保護される。収容された野犬が十万頭に及んだ。これらの犬のために幕府は年間二十万両もの莫大な予算を組んだ。人間のほうはたまったものではない。

 犬のみか、「鶏を絞め殺し、売買をしてはならぬ」という法令が出るようになった。江戸のみではない。全国の諸大名も、おのれの領国でこの法令に従わねばならぬ。「猟をしてはならぬ」というので、猪(いのしし)や狼(おおかみ)が大威張りで田畑を荒らしまわる。
 人間のみが疎外された。これを現代の人は笑いきれまい。多量の車輌に道を奪われ、生命を奪われながら、疎外されている人間を、政治は救い得ぬではないか。

<安原の感想> 「人間様あわれみの令」の発布が必要か
 犬や猫に限らない。いのちある多様な生き物を大切にすること自体は、仏教思想からいっても大変結構なことである。人間が他の動植物を支配して当然、という人間中心主義ではなく、人間、動植物それぞれのいのちは平等にして対等、という生命中心主義の立場からいえば、どのようないのちにしても大切である。
 ただ「生類あわれみの令」は度が過ぎた。人間と他の生き物は平等、というよりは、人間が一段と下位にみられた。池波正太郎の「人間のみが疎外された」という指摘はそういう意味だろう。これではたしかに「人間はたまったものではない」。

 それはそれとして、注目したいのは、綱吉の治世に、人間のみが疎外された事実を、現代の我々は果たして笑えるのか、という作家の問いかけである。
 「多量の車輌に道を奪われ、生命を奪われながら、疎外されている人間を、政治は救い得ぬではないか」という問題提起に現代人の我々がどういう答えを用意できるかである。車社会の下でいまなお年間約6000人のいのちが無造作に奪われている。
 どこに打開の糸口を見出せるだろうか。斜に構えた表現を使えば、現代版「生類あわれみの令」として「人間様あわれみの令」の発布が必要なのではないか。そうでもしなければ、人間のいのちの大切さを保障できないのではないか。


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コメント
この記事へのコメント
現代人の命は軽視されています。戦時中並みとも思えます。
真面目に働いても、衣食住に困るほどの給料しか貰えない人も多くなっています。
人類が常に進歩しているというのは嘘で、むしろ、退化しているのではないでしょうか。
更にいえば、このようにして人口を減らし、滅びへと向かっているのかもしれません。
2010/09/01(水) 21:06:22 | URL | 赤坂亭風月 #-[ 編集]
人類の進歩?
赤坂亭風月さん、コメントを頂戴しました。「人類が常に進歩しているというのは嘘」とは、その通りですね。同感です。
さてこのブログ「安原和雄の仏教経済塾」は今回すっかり模様替えしました。わたし自身は新築の家屋に引っ越したような気分です。今後とも率直なコメントをお願いします。
2010/09/03(金) 17:28:42 | URL | 安原和雄 #-[ 編集]
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