「もっともっと欲しい」の貪欲の経済から、「足るを知る」知足の経済へ。さらにいのちを尊重する「持続の経済」へ。日本は幸せをとりもどすことができるでしょうか、考え、提言し、みなさんと語り合いたいと思います。(京都・龍安寺の石庭)
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葬式仏教と拝金僧侶たち
<折々のつぶやき>9

 安原和雄
 このごろ想うこと、感じたこと、ささやかに実践していること―などを気の向くままに記していきたい。<折々のつぶやき>9回目。(06年3月5日掲載)

〈折々のつぶやき〉4回目で「BSRのすすめ」を書いた。
BSR(Buddhist Social Responsibilityの略語)とは、仏教の社会的責任を意味する新語で、私の造語である。なぜBSRのすすめなのか。その背景には次のような事情がある。

最近、企業の社会的責任(CSR=Corporate Social Responsibility)が厳しく問われるようになった。「企業は貪欲に利益を追求するだけでよいのか。もっと顧客、取引先、地域、従業員などに企業活動の成果を還元してはどうか」という声が高まってきた。名門企業を含む日本企業の不祥事が相次いでいる今日、CSRは日常用語になった観がある。
 仏教が社会的存在である以上、企業同様に社会的責任が問われるべきである。「お寺のお布施もカネ次第になっている。仏教はどこまで有効なのか」という疑問、批判の声が高まっており、この声をもはや軽視することはできなくなってきた。

宗派にもよるのだろうが、葬式を体験した人々の話によると、坊さんがお布施を横柄な態度で具体的な金額を突きつけて要求する。末木文美士著『仏教vs.倫理』(ちくま新書)でも次のように書いている。
 「葬式仏教は評判がよくない。戒名料をはじめ、ちょっとお経を読んでもらうだけで、お布施を包まなければならない。(中略)『お志でけっこうです』といいながら、額が少ないと、露骨にいやな顔をして、『信心が足りない』などと嫌みをいう。それも尊大ぶって偉そうにふんぞり返って、まったく感じが悪い、等々、どこに行ってもおかしいほど同じようなお寺の悪口が聞かれる」(p79)と。

 これでは葬式仏教とともに堕落した拝金僧侶たちの群れというほかないだろう。なぜこのような醜態をさらすようになったのか。
 今日のような賭博場と化した「カジノ資本主義」下では多くの人が「カネ、カネ」と目の色を変えてうろついているのだから、坊さんといえども、いまや聖職ではなく、煩悩にまみれた世俗の凡人の一員でしかない。といってしまえば、それまでだが、それほどの煩悩にとりつかれた坊さんにわざわざお経を読んでもらう価値はない。葬式仏教そのものに意味がないことにはならないだろうか。

 悪評の背景として、私の唱えるBSR(仏教の社会的責任)感覚が欠落していることを指摘できる。
 お布施には法施(法=真理の施し)、財施(モノ、カネの施し)、無畏施(不安や恐怖を取り除く施し)の3つがある。ところが現在、寺への財施が中心になっている。坊さんによる法施、無畏施への精進が不足している。人助けをめざす仏教の衆生済度の精神はどこへいったのか。

 それに寺の建築物などを簡素にしてはどうか。豪勢さを維持しようとしたらカネもかかる。それを誇示して権威を保つことを考える時代はとっくに終わっている。簡素こそ美しく、価値も無限に高いのである。

 もう一つ、競争の導入が必要な時代になっていることを考えてみるときである。江戸時代の檀家制度にいまなお依存した無競争のシステムだからこそ、お布施を強要できるのである。そういう悪しき仕組みは改革しなければならない。そのためには小泉首相流の表現を借りれば、「檀家制度をぶっ壊す」ことが求められる。事実、崩壊がすでに始まっている。

 お寺さんの間でお客様へのサービスのあり方をめぐって競争を繰り広げざるを得ない時代の新しい波はすぐそこまで押し寄せてきている。寺の生き残り競争時代の始まりである。それを自覚しなければ、寺そのものが「無用の長物」視されるだろう。その昔、織田信長が命じた比叡山焼き討ちも、その引き金となったのは腐敗堕落した僧侶たちであった。そういう歴史に無知で、仏教界全体が変革の波に洗われようとしていることに気づかないようでは修行不足の怠惰な坊さんたちというほかない。 
 時代の新しい足音に鈍感なる者たちよ、去れ!


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コメント
この記事へのコメント
こんにちは
http://jump.sagasu.in/goto/blog-ranking/で取り上げられていたので見にきちゃいました。またみにきますね~。
2006/03/05(日) 21:51:47 | URL | 名無し #-[ 編集]
「葬式仏教と拝金僧侶たち」に同感!と思っていた矢先、今朝の新聞に、「お布施を装い所得隠し」と、東京葬祭の脱税記事。
葬儀の読経の仕事を紹介した僧侶から受け取ったリベートを、休眠状態にある宗教法人を買収して、それを隠れ蓑にお布施の名目で移し、非課税の所得に見せかけて、税負担を免れていたのだという。
グルとなって悪さをする、堕落した一部の拝金僧侶たちは、尊敬すべき僧侶に一目も二目も置く我々庶民への裏切りであり、仏教の社会的責任など意識したこともないのではないかと思う。
キャバレー、クラブなどで、金離れの良いのは、坊主と葬儀屋だと聞いたことがあったが、然もありなんである。

休日の電話勧誘に気が滅入ることがある。一番多いのがお墓の勧誘、そして互助会入会の誘いが、夫々日に2度もあることがある。
病院、葬儀屋、僧侶、霊園・寺院墓地・・・、人の死をめぐる流れの中に、カネ・カネ・カネの亡者たちがグルとなっていたとしたら、仏様も浮かばれないし、良心的な僧侶にも申し訳ないのではないか。
2006/03/06(月) 18:08:14 | URL | h.y. #-[ 編集]
「坊主丸儲け」という言葉があるように、昨今の日本では、残念ながら、宗教法人という言葉のイメージが既にうさんくさいですよね。ブッダの教えを忠実に守り、質素で研ぎ澄まされた生活を送りながら衆生を救うために日夜尽力されているお坊様(だけじゃなくてもちろん宗教を問わずすべて)へのせめてものサポートが、本来宗教法人という制度だと思うのですが。今のままではかなり多くの場合、ただの治外法権じゃないでしょうか。

宗教法人として認められるための条件について以前調べてみたことがあります。詳しいことは忘れてしまいましたが、本当の社会貢献をすることや、簡素な生活を守ること、そしてドネーション(寄付)についても規定を厳しくすべきだと思います。

インドで山の中腹の洞窟に一人で住んでいる出家僧を何度か訪ねたことがあります。服は腰に巻いた布だけ。強靭な痩せた身体と伸びた髭。そしていたずらっぽく輝く魅力的な瞳。誰が見ていようと見ていまいと、毎日一人で朝夕洞窟の中を清め、美しい声で吟誦しながら祭壇で決められた儀式を行い、その合間には彼の噂を聞きつけ訪ねてくる人々の相談にのっています。驚くほど頭がよく、深い叡智と慈悲に溢れ、直感にすぐれ、洞窟に住んでいるのに世界中のことをなぜかなんでも知っています。

彼のもとを訪れる人の多くは祭壇に小さな花輪か、小さなお菓子か、小銭を供え、彼の祝福を受けて満足そうに帰って行きます。彼は、人々が何を供えたか、または何も供えなかったのか、見てさえいません。

私は彼にお菓子とチャイ(紅茶)をごちそうになり、いろんな話をしました。

日本で彼と同じような生活をしている人は、ホームレスと呼ばれるでしょう。でも、「私のお葬式をしてもらいたいお坊さんは誰だろう?」と考えた時に、思いついたのは彼でした。
2006/03/06(月) 21:14:02 | URL | marujun #e0p7.LDY[ 編集]
葬式仏教と拝金僧侶たち
「檀家制度をぶっ壊せ」との趣旨には賛成。「寺の生き残りの競争時代が始まった」兆候は確かに見られるが、問題は今の寺のやり方にさほど疑問を抱かない大衆が多いという日本の気風。いわゆる「世間」が現行の慣習を容認し、高い戒名料を払うことをPrestigeと考え、「煩悩に取り付かれた坊さんにわざわざお経を読んでもらうこと」を有難いとしている限り、「法施」と「無畏施」の精神が欠如した坊主は堂々と生き残るのではなかろうか。
 僕も女房もこんな世間に合迎する積りはないから、遺言書には「葬式時に坊主は呼ぶな、焼いた骨を墓へ生める時は読経は不要、墓堀料金だけを払って埋めてもらえ」と書かれている。
2006/03/07(火) 08:47:12 | URL | T.T. #-[ 編集]
折々のつぶやき(9)
今の世の中、坊主もひどいが、もっと悪いのは神社の神主。体験談を披露します。
僕は6年前に田舎へ引っ越し住民登録をした時、まず町役場から「どこどこの部落(町内会)へ入れ」と指示され、それに従い26戸で構成される近所の部落に加入した。この部落には部落長、副部落長、会計、宮総代という4人の役員が居り、部落の全家庭が毎年交代で何れかの役を引き受けている。問題は「宮総代」という役員だ。部落(町内会)へ入ると自動的に、近所の神社の氏子にされる(ひどい話だ)。氏子を束ねて神社のために働くのが宮総代の仕事。具体的には、秋祭り、年末及び新年と年3回強制的にお布施集めをする。これは神主家族の生活費である。部落民はそれに対し何ら疑問を抱かず、神様への捧げものとして喜んで応じる。毎回領収証にあたる、お札をもらって有難く、家内安全を祈願して家の中に飾る。僕が住んでいる地域だけでなく、おそらく日本中の神社には昔から、こういうがっちりした集金組織が出来上がっているのだろう。これに疑問を抱き、お布施を拒否することは「神のたたりが怖い」と、信じ込んでいるのだろう。年3回のお布施集めに際し、我が家では「お札は要らない。我が家は神様に守ってもらう必要性はない。でも集金ノルマが達成できないと貴方(宮総代)が困るだろうから、定額は支払う」と言って、田舎でのんびりした生活をennjoyさせてもらうための税金だと思って支払っている次第である。
2006/03/09(木) 07:47:07 | URL | T .T. #-[ 編集]
檀家制度をぶっ壊すのはいいのですが、先祖のお墓はどうすればいいのでしょうか。
2006/09/20(水) 00:12:08 | URL | #-[ 編集]
 そもそも神も仏も霊魂も死後の世界も実在せず、人間の想像の産物に過ぎないと子供のうちから教えるのが良いのではないでしょうか?
2007/08/03(金) 23:26:11 | URL | 理系 #-[ 編集]
大乗戒をたもてば無畏
僕は僧です。坊主丸儲けだとおっしゃるなら、どうぞ僧におなりなさい。
丸儲けの僧がうらやましいのでしょ?
さ、さ。遠慮なさらずにどうぞどうぞ。

ちなみに法施と無畏施は同じこと。
法に従い戒を持(たも)つなら、それこそが無畏。
法も無畏も自己の外にあるのではなく自己の内にあり、また自己の内にあるのではなく自己の外にあるものなのです。
内にあって外になく、外にあって内にあるってことです。

すべては心によって出来ている

橋本顕正(40)僧

古来より倭民族は人生のあらゆるものに神をみてきた。いわゆる八百万(やおよろず)の神。
自然はもちろん、かまど、便所、天井などすべてに神が宿るとし、それらを大切にしてきた。
神を信じない現代人は、だからものを大切にしないし、感謝もできない。
また仏は実在人物です。
教科書にも載っています。
2500年前に実在したゴータマ・シッタルタ(ネパール人)。
縁を説き、ものある事の難しさをしらしめました。いわゆる『有り難い』と言うこと。
現代人は縁の有り難いことを知らないから先祖に感謝することができないのです。

2008/01/13(日) 22:21:38 | URL | 橋本顕正 【僧】 #Hy3g.Oak[ 編集]
拝読しました。おっしゃる通りです。
ですが、小生も個人的に取材してみると、お寺の世界もまた一つの別世界としてあるようで、いい僧もいれば悪い僧もいて、変な所もあればいい所があるのが実態でしょうか。
いずれにせよ、最後に残るのはご自分の親族であり、また自身もいつか確実にお亡くなりになります。
お水の一杯でもお供えして、手を合わす。寺も俗も、仏教でも神道でも、我々日本人はいつの時代もそこからだと思いますな。案外、おしえより身近な実践が不毛な論争をしてる現代の我々の課題かもしれませんな。
2009/04/08(水) 20:43:38 | URL | ピエール #-[ 編集]
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