「もっともっと欲しい」の貪欲の経済から、「足るを知る」知足の経済へ。さらにいのちを尊重する「持続の経済」へ。日本は幸せをとりもどすことができるでしょうか、考え、提言し、みなさんと語り合いたいと思います。(京都・龍安寺の石庭)
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「世間」という名の呪縛
<折々のつぶやき>8

 安原和雄
 このごろ想うこと、感じたこと、ささやかに実践していること―などを気の向くままに記していきたい。<折々のつぶやき>8回目。(06年2月26日掲載)

 阿部謹也・一橋大学名誉教授(元学長)が月刊誌『公研』(06年2月号)に「もう一つの拉致問題」と題して、次のような趣旨の興味深いエッセイを書いている。

 「日本も民主主義国家になったという人がいる。(中略)しかし欧米に比べると、この国にはまだ個人の自己表現に大きな限界がある。戦後一応は個人が解放されたといわれる。しかし実際には日本の個人はまだ<世間>の前で自己を主張できない存在である。(中略)明治以降日本人は欧米から学び、欧米の技術を我がものとし得た自信から人間関係についても欧米の個人がそのまま現在の日本に生きていると考えがちである。(中略)しかし現実には欧米の個人と日本の個人には決定的な違いがある。その違いが<世間>に対する際に露呈している。<世間>の問題を離れて今日の日本の諸問題を考えることはできないのである」と。

 具体例としていまだに故郷に戻れないハンセン病患者、イラクでテロリストに捕らえられた日本人3人の男女に対する政府やマスコミの対応―などをあげている。
 私はかねてより彼の世間論には関心を寄せてきた。我々日本人の思考と行動の様式を読み解くキーワードのひとつといえるからである。世間という名の呪縛の中で自由な思考も行動もままならない―それが我々日本人の日常の姿といっても過言ではない。

 身近な例をあげればきりがない。かつて企業社会に「他社見合い」という言葉があった。他社の流儀に合わせて行動すれば、万事穏便に済むという発想である。しかし今どきこういうやり方に縛られていると、企業なら倒産するだろう。
 一方、サラリーマン諸氏は権利である年休をとるのもままならない。だから実体は半分程度しか消化しない。欧米の完全消化に比べ半分だから、私は日本の企業社会を「半人前社会」と呼んでいる。最近の競争優先の企業社会になってくると、この傾向は一段と顕著になっているのではないかと想像できる。これも企業、職場という名の世間による呪縛の一例である。

 組織の意思決定方式として「全会一致」が依然残っている。異を唱える行動を歓迎しない方式である。この考え方の背景には多様性を認めようとしない暗黙の了解がある。それぞれの個性を尊重しない方式といっても差し支えないだろう。
 いいかえれば自由ではなく、画一性を貴ぶ方式だから、権力に悪用されると、ファシズムに身をゆだねることになりかねない。当事者たちはその危険性に気づこうともしないのだから、お人好し集団といえるのかもしれない。

 この「全会一致」の話を聞くと、思い出すその昔のエピソードがある。アメリカの自動車メーカー、GMの経営者会議でひとつの提案が出され、賛否を問うたとき、「この案で大いに儲けよう」、「競争会社をあっといわせよう」などと賛成意見がつづいた。最後の番となった議長氏は次のように発言した。
 「私も賛成といえば、全員一致となる。私たちはこのアイデアについて一方的見方しかできなくなっている。このような意思決定は危険である。したがって来月まで棚上げしたい」と。1か月後の経営者会議で再び賛否を問うたところ、今度は否決されたのである。

 これだけゆとりある「急がば回れ」式の意思決定をただいま実行している組織が日本社会でどれだけあるだろうか。日本の歴史を振り返ってみると、集団行動、集団思考の過ちを何度も犯してきたし、いまも犯しつつある。具体例をいくつかあげると―、
▽明治憲法下の戦前版
*戦争へ突入していった大政翼賛体制
▽平和憲法下の戦後版
*対外経済摩擦を引き起こした集中豪雨型輸出
*自然環境の破壊を招いたリゾート開発ブーム
*巨額の借金を累積させつつあるにもかかわらず、後は野となれ、山となれ、といわんばかりの無責任な高速道・空港・ダムづくり
*いまや世界に脅威を与える危険な存在となった日米安保体制(=日米軍事同盟)が日本の安全のために必要だという錯覚、思い込み―などなど。
 いずれも「世間様が・・・」という横並びの自己埋没型感覚で「進め、進め」と旗を振り合ってきたし、いまも「やむを得ないか」と、その惰性は止むところがない。

 そういえば「自民党をぶっ壊す」と元気のよかった小泉純一郎首相も「世間をぶっ壊す」とはついに口にしなかった。なぜなのか? 
 「世間」の陰で、それを操り、利益を稼ぎ、ほくそ笑んでいる者がいることを折々に考え、つぶやきたい。真の改革者なら、「空気」と思われている、この「世間」をどう改革するか―これが真の構造改革である―は避けて通れない課題である。本当のところは小泉首相は改革者ではなく、抵抗勢力のリーダーなのだろう。


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コメント
この記事へのコメント
(^0^)こんにちは
はじめましてかな?http://jump.sagasu.in/goto/blog-ranking/←を見ていたら、この記事が載っていたので思わずきてしまいました!
2006/02/26(日) 06:34:40 | URL | 紗江 #-[ 編集]
「世間」による呪縛の一例として、サラリーマンの権利である年休をとるのもままならないとする、日本の企業社会を批判し、ゆとり社会を提言する「世間という名の呪縛」は、世間の枠から飛び出してみる、とする「異風・年賀状」とともに大変教えられました。
この「折々のつぶやき」は、100年前に夏目漱石が、日常の出来事を日記風に書き綴った、(世間でいう小説と違った小説)「草枕」に重ねることが出来ます。
私にはなかなか難しいのですが、「草枕研究」を引用すれば、「とかくこの世は住みにくい」で始まる草枕は、どうも、世間との折り合いが悪く、不満だらけの主人公「余」を借りて、いかに住みやすくするか、の提言だという。
そして、第12章に「余のこの度の旅行は、俗情を離れてあくまで画工になりきるのが主意であるから・・・」とあるが、この物語の主人公「余」は、本当の画工である必要がないわけで、ただ普通のサラリーマンとして働いている人が、2週間の休暇を貰って、その間だけ画工になりきって生活してみるという風に解釈されるという。

サラリーマンを引退した私も、実は休暇を取らなかった一人で、今も冠婚葬祭、世間相場を気にしたりしています。
えらそうに言えませんが、世間は日本社会に隠された構造で変えていかねばならないと私も思います。
小泉首相は「世間をぶっ壊す」とは口にしなかった。なぜなのか?
一時、自爆はしましたが、あのいでたちで世間をつぶそうとしたホリエモンに共感したとき、口にしたようにも思いますが・・、しなかったですね。
2006/02/26(日) 18:20:36 | URL | h.y. #-[ 編集]
<折々のつぶやき>8
半沢君から転送を受けて仏教経済学のホームページを見せてもらいました。取敢えず<折々のつぶやき>8を読ませてもらいました。非常に面白い。No1からのBackNumberをこれから時間をかけて読んでみます。楽しみだ。
2006/02/26(日) 19:49:04 | URL | 戸松孝夫 #-[ 編集]
「出る杭になれ」などと、たとえば入社式などで若者に発破をかけるオジサンたちが時折いようとも、そういってるオジサンたち自身がみんな右へ倣えであり、発破を真に受けて信念を主張した若者はなぜか叩かれる・・・という不思議な光景を会社時代何度も見、経験しました。

若者同士の間であっても「空気読めよ~」といった表現が正論としてまかり通る困った日本社会ではありますが、それでもたまに、鮮やかに、見事に、その流れを覆す人っていますよね。

思い切って風穴を空けてみれば、その風の心地よさに共感する人は意外にたくさんいるものだと思います。

このブログもそんなひとつじゃないかなー(^o^)

私もがんばります!
2006/02/28(火) 08:40:47 | URL | marujun #e0p7.LDY[ 編集]
世間論
阿部謹也氏の「世間」論にはかねてから注目していたので安原氏の認識と指摘に同感します。
問題は阿部氏の問題提起が「世間」になかなか理解されないことです。
氏が日本人の嫌がるところを鋭く衝いたのが先駆的すぎるのだと思います。時間をかけての浸透を期待します。安原・阿部対談でも誌上?で実現してもらえませんか。
2006/02/28(火) 23:06:54 | URL | KH #-[ 編集]
永遠のテーマかも
「出る杭は打たれる。」「長いものには巻かれろ。」「寄らば大樹の陰。」「分をわきまえる。」「見ざる、聴かざる、言わざる。」「さわらぬ神に祟りなし。」「和をもって尊しとなす。」「小異を捨てて、大同につく。」「赤信号、みんなで渡れば怖くない。」などなど、ニュアンスに微妙な違いはあれど、世間に合わせて生きるのが利口な生き方であることを教える諺が新旧とりまぜて存在し、且つ、それらが今でもちゃんと通用しているのが日本だと思います。その中の、1400年も前、聖徳太子の時代からのものなど、今でも人気が高いもので額になっているものを良く見かけます。このように文化として根づいた「世間の呪縛」ですから、これが解消されるには、1000年くらいはかかると覚悟した方が良いのではないでしょうか。
2006/03/01(水) 09:34:09 | URL | S.O. #-[ 編集]
世間
日本で生を得て30数年間、僕は集団行動、集団思考、画一性を貴ぶ方式、暗黙の了解は人間として社会生活を営む当然の常識として何ら疑問を抱くことはなかった。30歳台の後半、個人の多様性が尊重される海外で6年間生活している間に、世間の呪縛がない気楽さにすっかり魅せられてしまった。1970年代の後半に帰国したが、当時の日本人の一般感覚から見れば外国でspoilされた人間が、横並び自己埋没型サラリーマン社会に戻ってきたわけだ。(続く)
2006/03/03(金) 11:28:53 | URL | T.T. #-[ 編集]
世間(2)
(続編)ここで世間を思い出し、世間にloyalになろうとしなかったことが僕がサラリーマン出世街道から放り出された原因であろう。日本を代表して海外で活躍する国際人を育てあげる使命を負っていた筈の総合商社においてすら当時はこんな状況だった。あれから1/4世紀、僕は今、田舎で隠遁生活を送っている。21世紀になり、日本人の意識も国際化されていると思っていたのだが、やっぱり今でも「世間」という妖怪が健在なのだろうか。S.O.氏が言われるようにこの妖怪が死滅するまであと千年かかるのでしょうか。気が遠くなりますね。

























2006/03/03(金) 11:59:53 | URL | T.T. #-[ 編集]
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