「もっともっと欲しい」の貪欲の経済から、「足るを知る」知足の経済へ。さらにいのちを尊重する「持続の経済」へ。日本は幸せをとりもどすことができるでしょうか、考え、提言し、みなさんと語り合いたいと思います。(京都・龍安寺の石庭)
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「いのちのための経済」を提唱する
鳩山首相初の所信表明演説を読んで

安原和雄
鳩山政権に対し、公共事業を削減して福祉・雇用などの予算増加を図るなど目先の政策には積極的だが、どういう経済社会をめさすのかという長期的ビジョンに欠けるという批判がある。そうだろうか。首相初の所信表明演説で「いのち」の大切さと、「人間のための経済」を説いた。首相としては「人間のための経済」は長期的ビジョンのつもりなのだろう。問題は長期ビジョンの有無ではなく、その質ではないか。
 「人間のための経済」は一見批判の余地のないビジョンのようだが、実はそうではない。21世紀の時代感覚からいささかずれている。なぜなら「人間のための経済」にこだわると、自然や動植物を含む地球全体の「いのち」を視野から遠ざけるからである。今こそ地球全体と人間の「いのち」を視野に収めた「いのちのための経済」を提唱するときではないか。(09年11月1日掲載。公共空間「ちきゅう座」、インターネット新聞「日刊ベリタ」に転載)

 首相所信表明演説(全文)を繰り返し読んだ。政権交代後初めてであり、さすがに変革(改革、転換を含む)の文言が多い。数えてみると、16回も使われている。当然であり、驚くにあたらない。むしろ私(安原)が注目したのは「いのち」が7回も出てくることである。自民・公明政権時代の所信表明演説との違いはここにあるのではないかという印象を受けた。
 鳩山演説の構成はつぎのようになっている。
一 はじめに
二 いのちを守り、国民生活を第一とした政治
三 「居場所と出番」のある社会、「支え合って生きていく日本」
四 人間のための経済へ
五 「架け橋」としての日本
六 むすび

▽「いのち」はどういう文脈で使われているか

 さて「いのち」はどういう文脈で使われているのか。その具体例を紹介する。なお文中の「いのち」のカギ括弧は私(安原)が付記した。

(その1)友愛政治の原点
 青森県に遊説に参った際、大勢の方々と握手させていただいた中で、私の手を放そうとしない、一人のおばあさんがいられた。息子さんが職に就けず、自らの「いのち」を絶つしか道がなかった、その悲しみを、そのおばあさんは私に対して切々と訴えられた。毎年3万人以上の方々の「いのち」が、絶望の中で絶たれているのに、私も含め、政治家にはその実感が乏しかったのではないか。おばあさんのその手の感触。その目の中の悲しみ。私には忘れることができないし、断じて忘れてはならない。社会の中に自らのささやかな「居場所」すら見つけることができず、「いのち」を断つ人が後を絶たない、しかも政治も行政もそのことに全く鈍感になっている、そのことの異常を正し、支え合いという日本の伝統を現代にふさわしい形で立て直すことが、私の第一の任務である。
 かつて、多くの政治家は、「政治は弱者のためにある」と断言してきた。大きな政府とか小さな政府とか言うその前に、政治には弱い立場の人々、少数の人々の視点が尊重されなければならない。そのことだけは、私の友愛政治の原点として、ここに宣言させていただく。
(その2)国民の「いのち」と生活を守る政治
 本当の意味での「国民主権」の国づくりをするために必要なのは、まず、何よりも、人の「いのち」を大切にし、国民の生活を守る政治である。

 以上のように「いのち」を大切にする基本姿勢を述べた上で、年金、医療、介護、子育てや教育、生活保護、障害者支援、先住民族の歴史や文化の尊重 ― などについて多面的に言及している。

▽鳩山演説は「人間のための経済」を提唱

 一方、鳩山演説は「人間のための経済」への転換を提唱している。「人間のための経済」とは何を目指すのか。その具体例を紹介する。

(その1)強者優先、経済合理性の追求は成り立たない
 市場における自由な経済活動が、社会の活力を生み出し、国民生活を豊かにするのは自明のことである。しかし、市場にすべてを任せ、強い者だけが生き残ればよいという発想や、国民の暮らしを犠牲にしても、経済合理性を追求するという発想がもはや成り立たないことも明らかだ。

(その2)暮らしの豊かさと安心を求めて
 私は、「人間のための経済」への転換を提唱したいと思う。それは、経済合理性や経済成長率に偏った評価軸で経済をとらえるのをやめようということである。経済面での自由な競争は促しつつも、雇用や人材育成といった面でのセーフティネットを整備し、食品の安全や治安の確保、消費者の視点を重視するといった、国民の暮らしの豊かさに力点を置いた経済、そして社会へ転換させなければならない。
 年金、医療、介護など社会保障制度への不信感からくる、将来への漠然とした不安を拭い去ると同時に、子ども手当の創設、ガソリン税の暫定税率の廃止、さらには高速道路の原則無料化など、家計を直接応援することによって、国民が安心して暮らせる「人間のための経済」への転換を図っていく。そして物心両面から個人消費の拡大を目指していく。

(その3)「緑の産業」と「コンクリートから人へ」
 内需を中心とした安定的な成長を実現することが極めて重要となってきた。世界最高の低炭素型産業、「緑の産業」を成長の柱として育てあげ、国民生活のあらゆる場面における情報通信技術の利活用の促進や、先端分野における研究開発、人材育成の強化などにより、科学技術の力で世界をリードするとともに、今一度、規制のあり方を全面的に見直し、新たな需要サイクルを創出する。
 公共事業依存型の産業構造を「コンクリートから人へ」という基本方針に基づき、転換していく。暮らしの安心を支える医療や介護、未来への投資である子育てや教育、地域を支える農業、林業、観光などの分野で、しっかりとした産業を育て、新しい雇用と需要を生み出す。

(その4)「地域主権」改革の断行
 「人間のための経済」を実現するために、私は、地域のことは地域に住む住民が決める、活気に満ちた地域社会をつくるための「地域主権」改革を断行する。

▽「人間のいのち」、「人間のための経済」にひそむ限界

 以上のように鳩山演説は、「いのち」の大切さを力説しながら、他方で「人間のための経済」への転換を説いている。この鳩山演説を読んで直ちに感じた疑問は、「いのち」とは何を指しているのか、である。「いのち」といえば人間に限らず、自然界の動植物など生き物すべての「いのち」を視野に収める「広いいのち観」もあるが、鳩山演説では「人間のいのち」に視野を限定している。ここではあくまでも人間が中心であり、「狭いいのち観」である。といってももちろん「人間のいのち」を尊重することそれ自体に異論はない。

鳩山首相はつぎのように述べている。
 毎年3万人以上の方々の「いのち」が、絶望の中で絶たれているのに、私も含め、政治家にはその実感が乏しかったのではないか ― と。
 「友愛政治」を説く政治家として当然の反省であろう。自民・公明政権時代には多数の自殺者への思いやりはほとんどうかがえなかったのに比べれば、評価できる。
 「コンクリートから人へ」という民主党政権のスローガンも悪くはない。「人間のための経済」の一環として位置づけることもできよう。公共事業という名の、人間を軽視したコンクリートづくめの政治をもはや受け容れることはできない。

しかし日米同盟、在日米軍再編問題となると、途端に曖昧な姿勢が顕著になる。焦点の米軍普天間基地(沖縄)の移設については所信表明でつぎのように述べた。 
 在日米軍再編については、安全保障上の観点も踏まえつつ、過去の日米合意などの経緯も慎重に検証した上で、沖縄の方々が背負ってこられた負担、苦しみや悲しみに十分に思いをいたし、地元の皆さまの思いをしっかりと受け止めながら、真剣に取り組んでいく ― と。

 民主党はたしかマニフェスト(政権公約)などで普天間基地移設について「県外、国外移転」をうたっていたはずだが、ゲーツ米国防長官の来日以来、それが不明確になってきている。マニフェストにこだわる民主党にしては不可解というほかない。軍事基地こそ「人間のいのち」と深くかかわっているにもかかわらず、八方美人的な姿勢に終始している。そこに鳩山演説の「人間のいのち」と「人間のための経済」に限界を感じる。

▽「いのちのための経済」を求めて(1) ― 生命中心主義の潮流

 「人間のための経済」に限定しないで、もっと視野を広げて、「いのちのための経済」を追求するときである。なぜそういえるか。
 まずいのち(生命)尊重(=生命中心主義)と人間尊重(=人間中心主義)とは質的に異なっていることを指摘したい。仏教思想ではいのちとは人間に限らず、地球上の生きとし生けるものすべてのいのちを指している。人間も動植物も平等であり、人間だけが格別上位に位置しているわけではない。これが仏教思想の生命中心主義であり、平等観である。 これに対し人間を万物の霊長として自然、動植物を支配する位置に押し上げているのがキリスト教的人間中心主義といえる。キリスト教の世界である欧米では生きとし生けるものすべてのいのちではなく、「人間のいのちの尊厳」がしばしば強調される。

 以上のようないのち尊重(=生命中心主義)という考え方が20世紀末からの新しい大きな世界的な潮流になってきていることに着目したい。
 一例を挙げれば、1982年の国連総会で採択された「世界自然憲章」の前文は、「あらゆる生物はかけがえのないものであり、人間にとって価値があるかないかに関係なく、それ自体、尊敬に値する。また人間以外の生物をそのように価値あるものとして承認するためには、人間が道徳的な行動規範をもたなければならない」と述べている。

 もう一つ、国際自然保護連合(IUCN)、国連環境計画(UNEP)、世界自然保護基金(WWF)の共同報告『新・世界環境保全戦略 かけがえのない地球を大切に』(Caring for the Earth―A Strategy for Sustainable Living 1991)を紹介したい。「生命共同体の尊重と保全」について次のように述べている。
 「互いの人々および地球に対し、私たちが示すべき尊重と思いやりは、持続可能な生活様式のための倫理という形で表現される。この倫理は、(中略)この惑星を人間と分かち合っている他のすべての生物に、私たちが責任をもっていることを強調している。そして自然は人間の必要を満たすために守るだけでなく、本来それ自体、保護されなければならないものであるとしている。(中略)すべての生物種と生態系は、人間にとって利用価値のあるなしにかかわらず尊重しなければならない」と。

 世界自然憲章のなかの「あらゆる生物は、人間にとって価値があるかないかに関係なく、それ自体、尊敬に値する」、さらに『新・世界環境保全戦略』の「自然は本来、それ自体保護されなければならない」という認識は、自然を人間にとっての手段と考える人間中心主義ではなく、生命中心主義を尊重する思想の表明である。そういう生命中心主義の思想は今では国連などの場で国際的に認知されてきていると理解できよう。
 『新・世界環境保全戦略』が発表された翌年(1992年)の第一回地球サミット(ブラジルのリオデジャネイロで開催)で採択されたリオ宣言にキーワードとして「持続可能な発展」(=持続的発展・Sustainable Development)という概念、思想が盛り込まれたが、その持続的発展は人間中心主義ではなく、生命中心主義と深く結びついているものと理解したい。

▽「いのちのための経済」を求めて(2) ― 簡素な緑の経済を

 以上のような世界の新しい思想的潮流に着目すれば、「人間のための経済」ではなく、「いのちのための経済」への転換をこそ提唱しなければならない。それが21世紀にふさわしい経済の在り方といえよう。では「いのちのための経済」とはどういうイメージの経済だろうか。私(安原)はその骨格としてつぎの5本柱を挙げたい。
(1)人間に限らず、自然、動植物を含めて、地球上の生きとし生けるものすべてのいのちを尊重すること。
(2)平和=非戦という狭い平和観を超えて、平和=非暴力という広い平和観に立つこと。
(3)平和的共存を重視すること。ただし世界の人々だけの平和的共存に限らず、広く人間と自然との平和的共存も重視すること。
(4)軍事力神話の時代は終わったという認識に立って、非武装の立場を打ち出すこと。
(5)「簡素な緑の経済」をつくる構造変革をすすめること。

 ここでは(1)と(5)について素描するにとどめる。
(1)「地球上の生きとし生けるものすべてのいのち尊重」について
 現代はもはや人間のいのちだけを守ることは困難な時代となっている。なぜなら地球は人間のいのちも自然(生態系)のいのちも合体した広大な生命共同体であり、その共同体丸ごとのいのちを守らなければ、人間のいのちも安全も危ういからである。
 巨大な様々な自然災害が人間社会に襲いかかり、数え切れないほどの多くの人命が犠牲になっている。自然からの逆襲が始まったのである。人間が文明の美名の下に自然を開発・汚染・破壊し、自然のいのちを犠牲にしてきたことの報いともいえる。今日の地球環境保全時代とは、そういういのちの再生をどのようにして達成するかが最重要な課題となってきた時代である。すべてのいのちを尊重する思想と実践を共有することから再生を開始する以外に妙手はない。

(5)「簡素な緑の経済」について
 望ましい平和経済のあり方として「簡素な緑の経済」(=低炭素経済社会)の構築を提唱する。その基本となるのが脱「石油浪費経済」であり、エネルギー(日本は石油の9割を中東地域に依存)の大量海外依存型構造を変革することである。そのためには経済全体を環境破壊・浪費型の生産・消費から環境保全・節約型へと変革しなければならない。
 石油確保に固執することは、しばしば武力行使を伴う。アメリカのイラク攻撃と日本の協力・参戦の背景に「石油資源の確保は国益」という考えがひそんでいる。恒常的な石油不足時代の到来は遠い未来のことではない。武力行使も含めて石油争奪戦が激化し、石油価格が高騰する。そういう持続的経済とは両立しない石油浪費経済の行く末を示す兆候はすでに顕著になっている。
 原子力エネルギーも安全とは無縁であり、リスクが大きすぎる。だからこそエネルギー源が豊富で国産可能な自然エネルギー(風力、太陽光発電など)への転換を急がなければならない。 

 簡素な経済は、脱「経済成長」をめざすが、決して貧しい社会ではない。経済成長とは、生産・消費の量的拡大を意味するにすぎず、生活の質的充実とは無縁である。簡素な経済とは、質の充実した社会、分かりやすくいえば、「いのち、非暴力を重視し、住み良い、生きがいのある社会」にほかならない。
 これは自民・公明政権時代の破綻した新自由主義(=市場原理主義)路線とは異質の「いのちのための経済」をつくっていく変革路線であることを強調したい。


〈ご参考〉安原和雄の論文〈「いのちの安全保障」を提唱する ― 軍事力神話の時代は終わった〉(足利工業大学研究誌『東洋文化』第25号、2006年1月刊)が上の記事の下敷きとなっている。

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コメント
この記事へのコメント
脱「経済成長」に関し、不安に思う人が今もかなりいますが、果たして、経済成長が幸福に繋がるのかと思います。
毎年かなりの自殺者を出し、それに対し、「他人に迷惑を掛けるから良くない。」と言う人もいますが、そうしなければならないほど追い詰められていたことを忘れてはいけません。
そうした意味で、簡素な経済には賛成です。
2009/11/01(日) 21:15:43 | URL | 赤坂亭風月 #-[ 編集]
大事なことが曖昧
約1万4千字の鳩山首相所信表明演説を判り易く解説していただき感謝します。ご指摘のように、平和、日米同盟については、とても「曖昧」で、今後、新政権が具体的にどうするのか見えてきません。私たちが十分監視して行かねばならないことがよくわかりました。
2009/11/03(火) 19:56:45 | URL | 並野一民 #-[ 編集]
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