「もっともっと欲しい」の貪欲の経済から、「足るを知る」知足の経済へ。さらにいのちを尊重する「持続の経済」へ。日本は幸せをとりもどすことができるでしょうか、考え、提言し、みなさんと語り合いたいと思います。(京都・龍安寺の石庭)
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自立力を失った日本に未来はない
農業と教育の危機から抜け出す道

安原和雄
 わが国の食料自給率は4割程度で、米欧の先進諸国と比べて格段に低い。いのちの源の大半を海外に依存して、農業の自給力=自立力を失った状態が続いている。一方、若者たちの自立力の弱さも最近顕著になってきており、自立を促す教育を求める声が高まっている。わが国の土台ともいうべき農業と教育が直面しているこのような危機的状況から脱出する道は何か。
 まず自立力を失った日本に希望の持てる未来はないことを認識しなければならない。しかもその背景に「いのち軽視」の風潮が広がっていることを理解する必要がある。自立力の再生をどう図っていくか。総選挙後の新政権が取り組むべき緊急かつ重要な課題となってきた。(09年8月23日掲載、公共空間「ちきゅう座」に転載)

 毎日新聞(09年8月21日付)に注目すべき記事が二つ載っている。一つは経済面のコラム「経済観測」で柴田明夫・丸紅経済研究所所長が論じいている〈日本は「農業」を捨てたのか〉、もう一つは総合面の「09衆院選 私はこう見る 教育改革」欄で尾木直樹・法政大キャリアデザイン学部教授が〈若者の自立を支えよ〉と求めている一文である。この農業と教育にかかわる二つの記事が指摘している問題点は相互に連関していると考える。またそういう風にとらえなければ、現下の日本が直面している農業と教育の危機的状況を的確に認識することは、むずかしいのではないか。まず二つの記事の大要を紹介する。

▽農業の危機 ― 日本は「農業」を捨てたのか

 農林水産省は11日、08年度の食料自給率(カロリーベース)が41%となったと発表した。食料自給率は国内で消費している食料のうちどの程度国内生産でまかなったかを示す数字で、60年代に80%近かった自給率は98年には40%と半分になった。米国の128%、フランス122%、ドイツ84%、英国70%と比べ極端に低い。
 主要国における食料・農業の位置づけを日本と比べると、改めて驚かされる。人口1億2700万人の日本の穀物生産量は1000万トン程度なのに対し、人口6000万人の英国は日本の3分の2の国土で3000万トンの穀物を生産している。工業国のイメージのドイツは8200万人の人口で5500万トンの穀物を生産している。日本の10倍以上の人口を抱える中国の穀物生産は日本の50倍の5億トンだ。しかもこれら諸国の国内総生産(GDP)は世界上位5カ国に入る経済大国だ。

 「農業をおろそかにする国は滅びる」という考えが欧州には根付いているという。欧州の国々は農業を犠牲にしてまで経済大国になろうとはしなかった。改めて日本という国を振り返ると、ひたすら工業化による経済大国を目指す一方、「農業」を切り捨ててきたのではないかと疑いたくなる。それは自然に対する畏敬(いけい)の念や他人に対する思いやりの文化をも失ってきた道でもある。現在の世界的な経済危機と食料危機は日本にとって「農業」を根本的に立て直す好機といえよう。(以上引用)

 ここで大事な指摘を拾いあげると、以下の諸点である。
・農業をおろそかにする国は滅びる
・日本は工業化による経済大国を目指す一方、農業を切り捨ててきた
・それは自然に対する畏敬の念や他人に対する思いやりの文化を失ってきた道でもある

▽ 教育の危機 ― 若者の自立を支えよ

 多くの日本人は、高校の授業料を払うことを「当然」と思い込んでいるが、世界の大勢は無償化だ。日本は79年に国際人権規約の社会権規約を批准したが、「高等教育の無償化」を定めた条項の批准は留保いている。締約国160カ国で、留保しているのは、マダガスカルと日本だけだ。
 すべての国民に高校卒業程度の教育を受ける機会を保障することは、国家の利益でもある。今回の衆院選で「高校の実質無償化」という政策が出てきたのは遅すぎるくらいだ。
今の政治からは「国が教育に責任を持つ」との強い意思を感じない。重要なのは、若者が精神的に自立し、常識を持った大人として生きていく力を高める教育の実践なのだ。

 日本の若者の精神状態は危機的だ。「トイレにこもって食事する大学生がいる」という話を聞き、学生465人にアンケートしたところ、11人が「経験がある」と回答し、驚愕(きょうがく)した。「一緒に食事する友人がおらず、ひとりで食べている姿を見られると『友人がいないことの証明』になるから」だという。人として生きていく力が衰弱している、というほかない。
 今の大学生の振る舞いは幼稚で、しばしば20年前の中学生と同じに見える。若者が自立して生きる力を失った国に未来はない。目先の学力を向上させる前に、自立を促す教育が求められている。(以上引用)

 ここでの要点をまとめると、以下のようである。
・政治から「国が教育に責任を持つ」との強い意思を感じない
・日本の若者の精神状態は危機的で、人として生きていく力が衰弱している
・若者が自立して生きる力を失った国に未来はない

▽「自立力喪失」の背景 ― 「いのち」の軽視

 以上、二つの主張に共通している点は、前者の「農業をおろそかにする国は滅びる」であり、後者の「若者が自立して生きる力を失った国に未来はない」である。どちらも日本という国の現状と未来に危機感を抱き、警告を発している。その共通のキーワードは「自立力の喪失」である。農業の自給率が他の先進国に比べて異常に低水準にあり、食の大半を海外に依存している状態は、農業の自給力=自立力の喪失にほかならない。

 考えてみれば、農業も教育もともに「いのち」を育てる事業である。農業(畜産、水産、林業などを含む)はいのちある動植物を育て、一方、教育はいのちある人間を育てる。一国のあり方の土台を築くのが農業と教育である。それが危機的状況にあることは、いのちそのものが危機状態に陥っていることを意味する。しかも日本列島上にいのち軽視・無視の風潮がはびこってきたのは、昨日や今日のことではない。

 その背景として指摘できるのは、いうまでもなく工業化の異常な肥大ぶりである。一口に言えば、工業は農業や教育と違って、いのちを削る産業である。いのちを育てる産業ではない。エネルギー源や原材料を見れば、いのちとは無縁であることは明らかだろう。
欧州が「農業をおろそかにする国は滅びる」と考え、工業化を進める一方、農業を厳然と保持してきたのは、恐らく「いのちの産業」への深い洞察に導かれたためではないか。
日本ではその洞察に無知であった。工業化に伴う目先の小利を優先させて、いのち軽視への道を進んできた。その結果、今、日本そのものが危機に陥っている。
 外国産の食べものが安く買えるのであれば、輸入すればいいという安易な自由貿易推進の発想も背景にあるわけで、これには現代経済学者の市場原理主義的考え方にこだわる責任も大きい。もう一つ指摘すれば、市場原理主義的思考にはそもそも「いのちの尊重」という発想そのものが欠落している。

▽ 打開策は(1) ― 「田園価値」の尊重へ転換を

 「いのちの尊重」を軸に据えて、日本の再生をどう図っていくかが総選挙後の重大な課題となってきた。
 まず食料自給率を高めながら、「食と農」をどう再生・充実させていくか。地産地消(その地域の農産物をその地域で消費すること)、旬産旬消(季節感豊かな旬ごとの農水産品を大切にすること)を基本に国内・地域で「生産と消費」、「人と人」との相互結びつきの環を再生・拡大し、地域経済を発展させていくことが重要である。
 そのためには「価格と所得の保障システム」も必要だろう。自然を相手の農業は、生産効率を高める余地のある工業とは質的に異なり、しかもわが国特有の国土地勢条件の制約を受けて、米国型の模倣にすぎない大規模農業には限界があるからである。つまり労働集約型産業であり、多くの労働力を吸収できる。「食と農」の分野こそこれからの成長産業という見方も十分成り立つだろう。

 もう一つ、「田園価値」尊重へと転換していくことの重要性を強調したい。
 水田、棚田、里山、森林、河川などからなる田園には米、野菜、果物、山菜、淡水魚など食料の生産・供給のほかに、多様な外部経済機能(=「外部経済」効果、つまり市場メカニズムを経ないで暮らしや経済活動に及ぼすプラスの影響、効果)があることを見逃してはならない。その主な柱はつぎの通り。
*国土・生態系の保全機能=自然のダム機能、地下水の補給、豊かな生態系の保全など
*自然・環境の保全機能=美しい田園、きれいな川の保全、大気の浄化、汚水の分解、静かな環境の形成と維持など
*社会的、教育的、文化的機能=都市と農山村の交流、児童農園での体験学習、コメ文化(日本酒と和食の文化=料理、食器などの多様性)など

 米、野菜などの食料は市場メカニズムを経て、供給される市場価値であるが、後者の国土・生態系の保全機能など外部経済機能は市場メカニズムを経ないで、働いているので価格で表示されることはなく、非市場価値である。つまりいくらお金を積んでも購入できない貴重な資産である。私(安原)は、田園が持つこの多様な非市場価値を「田園価値」と呼んでいる。農水省の試算ではこの田園価値は、食料生産全体の価値(価格)よりもはるかに巨額なものである。
 農業の衰勢と共に失ってきたとされる「自然に対する畏敬の念」や「他人に対する思いやり」の日本本来の文化もこの田園価値と重なり合っている。

 このような日本の優れた田園価値は他国には例を見ないもので、日本国憲法9条(戦争放棄、非武装、交戦権の否認)と並んで世界に誇るべき「日本の宝」である。この日本の宝を尊重し、守り、再生する方向へどう転換していくか、総選挙後の大きな課題である。

▽ 打開策は(2)― 自立を促す教育へ

 毎日新聞(09年8月22日付)にもう一つ、興味深い記事が載っている。「ひと」欄に登場した武藤敏郎さんの教育論である。武藤さんは1966年旧大蔵省(現財務省)入りし、事務次官、日銀副総裁を経て現在大和総研理事長。最近母校の開成学園の理事長に就任した。開成学園は東大合格者数日本一を続けている高校で、武藤さんが「私は教育のプロではないから」と謙遜して語った教育論はざっとつぎのようである。

・50年前の自分の中高時代について
 「塾なんかには行かず、ボートレースや運動会など学校行事に明け暮れ、仲間と協力することの大切さや全体への貢献を学んだ。当時は質実剛健をたたき込まれた」
・最近の学生たちの印象について
 「とても洗練されている。小学生から受験の準備をして、安定した生活を目指すのが現代。やりがいがあっても家庭を犠牲にするような職場を選ぶ、なんてはやらないね」(そんな風潮に不満もある)
・人材育成について
 「青白い秀才を育てるのが教育ではない」(社会に貢献できる人材育成へのこだわりを見せる)
 記事は「学ぶこと、自分を鍛えることの面白さを発見できる教育現場作りを目指している」と結んでいる。

 教育の望ましいあり方への抱負として読むと、「仲間と協力することの大切さ」「社会に貢献できる人材育成」「自分を鍛えることの面白さ」など共感できる部分も少なくない。しかし相手の高校生は受験競争に勝ち抜くことを目指す秀才たちである。しかも社会へ出て「安定した生活」を目標にしているというわけだから、「質実剛健」「仲間との協力」「社会への貢献」「自分を鍛えること」が念頭にある理事長・武藤さんの期待とはどうかみ合うのか、そこが読みとれない。
 一方、「若者の自立を支えよ」と唱えている尾木教授は、「目先の学力を向上させる前に、自立を促す教育」を求めている。つまり受験重点の教育に疑問を感じている。最近の若者の「トイレにこもって食事をする」という生態を見れば、自立を促す教育は必要不可欠である。とはいえ、大事な点は、その「自立力」とはどのような性質のものなのか。

 私(安原)の直観だが、ここでも田園価値に関連して触れた「自然に対する畏敬の念」や「他人に対する思いやり」など日本本来の文化と重なり合う自立力が求められる。これは自然や他者との「共生のなかでの自立力」であるだろう。そうでなければ競争に打ち勝つ自己本位の実力を自立力と錯覚しかねない。自利本位の競争力という価値観は、あの新自由主義=市場原理主義の破綻とともに重視すべきものではなくなっている。この認識を共有したい。


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コメント
この記事へのコメント
個人的には、今の若者が無駄と思うのか、古典を読まないことにも原因があると考えます。
長い間、残ってきたものであり、そこには本当に得るものがあると思います。
2009/08/23(日) 18:29:29 | URL | 赤坂亭風月 #-[ 編集]
田園価値にしみじみ
私は千葉(船橋市)9カ月、青森(青森市郊外)3カ月位の割合で生活していますので、「田園価値」というのはしみじみ感じます。
でも、田舎は、ますます暮らしにくくなっているんですね。
最近、五所川原市(津軽平野北部の中心地)の叔母が訪ねてきたのですが、旧商店街はご存知の「シャッター通り」、買い物は郊外の巨大スーパーまで行かねばならないとのこと。結局クルマがなければ、買い物もままならない。大規模店舗により、地域はズタズタにされているわけです。
太宰治の生家がある金木町は五所川原市に統合されましたが、病院なども旧金木町地域としての救急医療体制は崩壊してしまっているとのこと。

昔のようにせめて数万人単位のまちがそこそこ自立的な生活圏となるように、地域を再構築できないものでしょうか。自然から切断された生活を送る人間は、どうしても心が貧しくなって、貨幣的価値しか信じられなくなってしまうのでは、と感じています。
2009/08/24(月) 18:00:32 | URL | C.S. #-[ 編集]
頭をなでる違和感
尾崎好美選手(28)が陸上世界選手権ベルリン大会の女子マラソン(09年8月23日)で2位の銀メダルを獲得しました。メダルは1995年以来というから、これはこれで大ニュースです。大変な功績です。しかしその偉業を伝える新聞やテレビを見ていささか違和感を感じました。それはこういうことです。
ある新聞は、山下佐知子監督(45)が、ゴール後の尾崎選手の頭をなでながら「頑張ったね」と褒めた、と伝えています。またあるテレビでは同監督が尾崎選手のことを「この子は・・・」と語っていました。これ、ちょっとおかしく感じませんか。褒めるのは当然です。しかし頭をなでたり、「この子は・・・」と呼ぶのに違和感を感じませんか。

尾崎選手は年齢28歳の立派な大人です。頭をなでたり、「この子は」と言ったりするのは小学生の子どもに対する行為ではないでしょう。外国人の選手の場合は考えられないことです。このコメントは「自立を促す教育を」というテーマに関連して考えているわけで、まだ自立できていない小学生の頭をなでて褒めるのは理解できます。監督の目には、尾崎選手はまだ自立できていないと映っているのでしょうか。それともスポーツ界での特殊事情でもあるのでしょうか。
そうだとしても世界の一流選手を衆人環視のなかで子ども扱いするのはいかがなものでしょうか。「自立を促す教育を」と唱えるのは容易ですが、日本的精神風土のもとでの実践となると、容易ではないな、と考えこんでしまいました。
2009/08/25(火) 12:24:45 | URL | WA #-[ 編集]
映像詩「里山」を観て
赤坂亭風月さん、C.S.さん、WAさん、コメントありがとう。
NHKのドキュメンタリー映像詩「里山(さとやま)」を映画館で観てきましたので、その宣伝に一役買いたいと思います。ブログ掲載の記事「自立力を失った日本に未来はない」に日本が誇るべき田園価値の話が出てきますが、この多様な田園の一角を担っているのが里山です。

少し畏(かしこ)まった言い方をすると、里山はつぎのようにとらえることができます。
「原生の自然と人里をつなぐ暮らしの場を“里山”という。古くより日本人は、自然を畏敬しつつ、ほかの生き物たちとせめぎ合い、生態系を破壊しないように自然を利用する知恵を育ててきた。自然と対峙し、対話することで、人が支配者として自然を守るのではなくあくまでも“共生”すること。そして樹木や小石に宿る神々を感じつつ、途絶えることのない営みを続けてきた結果、里山という生活圏を作り上げた」(映画館で求めたパンフレット『里山』から)
またつぎのような表現もできましょう。
「いのちの廻る音が聞こえる。はるかむかし、森と人が交わした約束がかけがえのないいのちの王国を生んだ。そこには、優しく、ときには荒々しく繰り広げられる、自然と人間のいのちの循環があった」(同上『里山』から)

私は2時間近くの間、映し出される映像詩に決して飽きることはなく、むしろ美しすぎるとも感じました。里山の変化に富んだ四季の風景を観ながら、「いのちと自然との深い絆」を想いもしました。
私自身、昭和20年代、田舎での高校生の頃まで里山で暮らしていました。雑木林に入って木の葉をかき集めてきては、それを燃料に風呂を沸かしていました。当時はガスはまだ普及していなかったし、木の葉や薪(まき)が唯一の燃料で、茸(きのこ)を採る楽しみもありました。

しかし今、その里山は荒れて、壊れています。茸採りや木の葉を集めに雑木林に分け入る者は誰もいないからです。
半世紀も昔の里山の光景を思い浮かべながら、今、都会暮らしに慣れている自分を「これでいいのか」と客観的に見つめるもう一人の自分がいます。
ともかく必見の映画であることを強調したいと思います。
2009/08/25(火) 17:30:47 | URL | 安原和雄 #-[ 編集]
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