「もっともっと欲しい」の貪欲の経済から、「足るを知る」知足の経済へ。さらにいのちを尊重する「持続の経済」へ。日本は幸せをとりもどすことができるでしょうか、考え、提言し、みなさんと語り合いたいと思います。(京都・龍安寺の石庭)
スポンサーサイト
上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。
--/--/--(--) --:--:--| スポンサー広告| トラックバック(-) コメント(-)
意見不一致もよし、と考えよう
民主主義の原点と人間の器量

安原和雄
われわれは日本国憲法の下で「自由にして民主的な社会」に居を構え、暮らしていることになっている。それが建前でもあるが、実際は、首を傾げざるを得ない事例にしばしば直面する。その一例が意見の相違を嫌う風潮である。
 しかし考えてみれば意見の不一致、いいかえれば多様な意見の容認こそが自由な民主主義社会の原点ではないか。これを是認し、競い合うことによって、人間としての器量も磨かれるだろう。こういう思考のゆとりを否定したら、不自由な抑圧社会に向かって走ることにもなりかねない。(09年4月18日掲載、公共空間「ちきゅう座」に転載)

▽意見の不一致は民主主義の原点

 私が現役記者時代に書いた記事の整理をしていたら、つぎの一文(毎日新聞コラム「論説ノート」1988年12月25日付)が目に留まった。20年も昔の作で、題して「民主主義の原点」とある。その主旨は、意見の不一致はむしろ民主主義の原点と考えよう、ということだ。その要旨を以下に紹介する。  

 3度目の西ドイツ訪問をしたとき、これが民主主義の原点ではないかと感じたことがある。日独ジャーナリスト交流セミナーの席上、あるドイツ人記者がこういった。
 「conflict(コンフリクト)の上にこそ民主主義は成り立っているというのがヨーロッパ人の考え方だ。ところが非ヨーロッパ世界ではconfrontation(コンフロンテーション)しかない」と。
 また別のドイツ人から「日本人の意見に対し、こちらが意見を言うと、考えを発展させるのに役立つどころかむしろ妨げとなるらしい」という発言も飛び出した。

 例の日本人論の一つかと受け止めることもできようが、私はこれを軽く聞き流すわけにはいかなかった。コンフリクトは思想、感情、意見などの不一致を指しており、コンフロンテーションの方は、例えば東西対立のようにもっと緊張感を伴ったいわば敵対状態のことである。
 日本では意見の不一致を前提にしてもっと冷静に意見を述べ合うべきであるにもかかわらず、それが直ちに敵対関係に発展してしまうことがいかに多いことか。本島・長崎市長の「天皇に戦争責任はある」という発言を自民党などが撤回させようと動いたことは、その典型的な例であるといえよう。

 これでは「日本に民主主義そのものが存在しているのか」と海外から問われるとき、人権、平和、民主主義を掲げた現行憲法のもととはいいながら、自信をもってそうだとは答えにくい。(中略)コンフリクト(意見の不一致)もまたよし、考えたい。

▽今も変わらぬ? 日本の「非民主的・民主主義」

 意見の不一致を尊重しないで、いきなり敵対関係に近い状態になるという雰囲気は、決して20年前の昔話ではない。21世紀の今日でも余り変わっていないような印象がある。今も変わらぬ日本の「非民主的・民主主義」とでも呼んだらいいだろうか。一体どうすれば、ここからの脱出口を見出すことができるか。良策はあるのか。

脱出口(その1)― 愛語こそ天を動かす力がある

 脱出策の一つは、曹洞宗の開祖、道元(鎌倉時代の禅僧、1200~1253年)の「愛語」の実践であろう。つまり愛の言葉を与えることである。これは異性間の愛情のことではない。慈愛の心を持って、言葉を発せよ、という意である。
 道元は言っている。「向かいて愛語を聞くは、面(おもて)を喜ばしめ、心を楽しくす」(顔を合わせながら愛語を聞くと、聞いた人は非常に嬉しく思う)と。
 さらに「愛語よく回天の力あるを学すべきなり」(愛語こそ天を動かすような力があるんだ)と。(西片擔雪著『碧巌録提唱』上巻から)

 なかなか難しいことではあるが、まず相手の声に耳を傾ける。そしてお互いに非難の言葉を投げ合うことを抑えることである。加齢と共に人の意見を無視し勝ちになる。お互いに自戒したいところだが、気になるのは最近、実年の世代、さらに若い人の間でご都合主義の自己主張ばかりが突出して、「聴く」という基本動作が疎(おろそ)かになっていることである。

 脱出口(その2)― 謙虚に複眼的に物事を見ること

皆、一人ひとり矢を持っている。その矢が人を活かす矢か、人を殺す矢か、その違いはこちらに謙虚さがあるかないか、に尽きる。謙虚さを欠いた善は偽善だ。人を殺す矢になってしまう。謙虚さを持った善は人を活かす矢だ。自分は完全ではない、欠点だらけだ、と自分の至らなさ、不完全さを自覚するところから生まれ出る謙虚さが人を活かすのだ。
 謙虚さとは、自分の不完全性を自覚することによって、複眼的に物事を見ることができるということだ。謙虚さがないということは、複眼ではなく、一方的にものを見て、一方的に非難することだ。

 人を活かす剣になるか、人を殺す剣になるか、ひとえに使う人の人間性にかかっている。「物を失う者は小さく失う。信用を失う者は大きく失う。勇気を失う者はすべてを失う」というが、真の勇気とは、実は謙虚さから生まれてくる。(西片擔雪著『碧巌録提唱』下巻から)

 「勇気を失う者はすべてを失う」とは至言である。その勇気なるものが謙虚さから生まれてくるとすれば、謙虚に日常生活を振る舞わなければならない。しかしこれまた「言うは易く、行うは難し」で、口先宣言に終わりかねない。
 私(安原)は最近、政権交代を目指す政治家にしても、新しい時代を切り開かんとする変革者にしても、現体制の担い手たちとの間の競い合いは、政策にとどまらず、人間力、器量の腕比べでもあると考えている。新しい時代を担おうとする者は人間力、器量の点でもより魅力的でなければ勝負にならないような気がしている。この点が見落とされ勝ちになってはいないか。これでは破壊者にはなり得ても、新しい価値観の創造者にはなりにくいだろう。


(寸評、提案大歓迎! 下記の「コメント」をクリックして、自由に書き込んで下さい。実名入りでなくて結構です)
スポンサーサイト
コメント
この記事へのコメント
先生がご指摘する「相手の声に耳を傾ける」、「現体制の担い手たちとの間の競い合いは、政策にとどまらず、人間力、器量の腕比べでもある」について考えさせられました。

職場に置き換えてみると、会社に反対する考えの者を幹部連中が排除した結果、同じ方向での視点でしか物事を見られず、組織が弱くなっていると日々感じます。
そのような状態なのに、昨年結成されたばかりの労働組合に対し、会社のやり方に反対するとの理由から、潰しにかかろうとしているのですから呆れます。

2009/04/18(土) 19:15:36 | URL | 赤坂亭風月 #-[ 編集]
人間力の勝負
赤坂亭風月さん、毎度有り難う。
新しい時代を創ろうとする変革者にとって新しい時代にふさわしい政策構想は不可欠です。政策の競い合いは改めて指摘するまでもないことです。ところが自らの人間力を鍛える必要があるという感覚はほとんど見られないような気がします。
考えてみれば、肝心なことを忘れているいるわけです。心したいですね。

労働組合を毛嫌いする経営者は、自らの経営者としての識見が欠けていることを告白しているようなものです。憲法28条は「勤労者の団結権・団体交渉権その他団体行動権(=争議権)」を保障しています。恐らくその経営者は憲法を読んだことがないのでしょう。こういうタイプの経営者は消費者をも軽視する傾向があるでしょうから、企業の将来性に疑問があります。残念ながらそういう企業は少なくないように思います。
2009/04/20(月) 12:48:49 | URL | 安原和雄 #-[ 編集]
コメントを投稿する
URL:
Comment:
Pass:
秘密: 管理者にだけ表示を許可する
 
トラックバック
この記事のトラックバックURL
この記事へのトラックバック
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。