「もっともっと欲しい」の貪欲の経済から、「足るを知る」知足の経済へ。さらにいのちを尊重する「持続の経済」へ。日本は幸せをとりもどすことができるでしょうか、考え、提言し、みなさんと語り合いたいと思います。(京都・龍安寺の石庭)
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仏教は信仰の宗教ではない
〈折々のつぶやき〉49

安原和雄
 想うこと、感じたこと、ささやかに実践していること ― などを気の向くままに〈折々のつぶやき〉として記していきます。今回の〈つぶやき〉は49回目。題して「仏教は信仰の宗教ではない」です。(09年2月22日掲載、公共空間「ちきゅう座」に転載)

 仏教者の佐々木 閑・花園大学教授のコラム「日々是(これ)修行」(朝日新聞夕刊=東京版・毎週木曜日付)は興味深く読ませていただいている。教えられるところが多く、感謝している。

▽「信仰ではなく信頼する」― 「釈迦は普通の人間だ」

 「信仰ではなく信頼する」というタイトルのコラム(09年2月12日付)の要旨を以下に紹介する。「釈迦は普通の人間だ」という指摘はきわめて示唆に富んでいる。

 お釈迦様の教えは素晴らしいが、だからといって私は、釈迦を完全無欠な超人だとは思っていない。釈迦も我々と同じ人間。そのことは歴史的事実である。その釈迦の前でひたすらひれ伏し、その言葉や行いの、なにからなにまで、すべてを一切疑うことなく受け入れる、そういう生き方が正しいとは思えない。
 この私の考えに、反発する人も多い。「宗教は、教祖様の言葉を理屈抜きで丸ごと信じるものだ。それができないのは、信仰がない証拠だ」という批判である。仏教が「信仰によって成り立つ宗教」なら、この批判は正しい。

 しかしそもそも釈迦の仏教は、信仰で成り立つ宗教ではない。仏教でも「信じなさい」とは言うが、それは「釈迦の説いた道が、自分を向上させることに役立つ」という事実を「信頼せよ」という意味である。仏教の「信」とは、信仰ではなく、信頼なのだ。この違いは大きい。

 釈迦自身は普通の人間だ。ただ常人よりもすぐれた智慧があって、「超越者のいない世界で、生の苦しみに打ち勝つ道があること」を独力で見つけ出した。それを私たちに教えてくれた。だから私たちは、その道を信頼する。釈迦という人物を信仰して「助けてください」と祈るのではない。釈迦が説いた、その道を「信頼して」、自分で歩んでいくのである。だから釈迦が完璧(かんぺき)な絶対者でなくても少しも構わない。道を信頼する気持ちがあれば、それだけで仏教は成り立つのである。

〈コメント〉信頼の上に成り立つ仏教経済学
釈迦を完全無欠な超人だとは思っていない。釈迦自身は普通の人間だ ― とさらりと言ってのけるのは、仏教者では珍しい。仏教の開祖、釈迦は歴史的な実在の人物であり、「完全無欠ではない」はその通りであるが、ここまで言い切る仏教者にお目にかかったことはない。しかも佐々木教授はつぎのようにも指摘している。
 仏教は信仰で成り立つ宗教ではない。仏教の「信」とは、信仰ではなく、信頼なのだ ― と。

 常識を覆すようなこの指摘にはハッとさせられるところがある。多くの人は「宗教は信仰」だと、深く考えた上でのことがどうかは別にして思いこんでいるところがある。たしかに信仰と信頼とは大きな質的な違いがある。信仰にとどまっている限り、それは宗教ではあるが、科学的とはいえない。仏教が信仰の域を出ない限り、私(安原)が唱道している仏教経済学も成り立ちにくい。しかし信仰ではなく、信頼と考えれば、その上に社会科学としての仏教経済学が浮かび上がってくる。

▽「釈迦の遺言は二本立て」― 仏教は「自分で修行する宗教」 

 「釈迦の遺言は二本立て」というコラム(09年2月19日付)も「なるほど」と心底納得できるところがある。目の前の霧が晴れる思いもする。特に仏教の特色として「自分で修行する宗教」を強調しているところに注目したい。以下に骨子を紹介する。

 釈迦は遺言を残している。弟子が「お釈迦様、あなたが亡くなったら、私たちは何を拠(よ)り所にして生きていけばよいのですか」と尋ねたときに答えた言葉だ。「私が死んだ後の拠り所は二つある。一つはお前たち自身。そしてもう一つは私の教えである」と言った。
 「悟りへの道順は教えておくから、それを頼りに自分で進んでいきなさい」と釈迦は言い残したのである。だから仏教は「自分で修行する宗教」になった。拠り所を二つしか言わなかったことに意味があるのだ。
 それが一つでなく、二つあるということも重要だ。もし「自分自身を拠り所にせよ」とは言わず、「私の教えだけが唯一の拠り所だ」と言ったとすると、弟子たちは、釈迦の教えを金科玉条として崇拝し、「それさえ守ればよい」と考え始める。言葉だけが権威化していく。

 それに対して、「お前たち自身もまた、修行の拠り所なのだ」と言われると、安易に教えを伏し拝むだけではすまなくなる。教えを受け取る自分のあり方が問われるからだ。「立派な教え」と「たゆまぬ自己改良」、この両者が対になってはじめて釈迦の遺言は実を結ぶ。
 世にすぐれた教えや思想は多いが、それを知るだけでは意味がない。自分で考え、実践する気概があってはじめて価値が出る。それが釈迦の遺言に込められたメッセージである。

〈コメント〉釈迦がこの21世紀に現存していれば
 仏教とは何か、と改めて問いかけてみると、その答えは簡単ではないが、ここには明快な一つの解答が用意されている。「二本立ての遺言」がそれである。一つは釈迦の悟りへの教えであり、もう一つは弟子たち自身の修行、すなわち「たゆまぬ自己改良」である。私(安原)はむしろ後者の修行、「自己改良」の重要性に着目したい。釈迦の真意もそこにあったのではないか。

 教えの言葉にこだわると、時代の変化に取り残されて、教えが教条化し、陳腐化を免れない恐れがあるだろう。昨今の仏教にはそういうかび臭さがつきまとっていると言えば、誤解だろうか。時代と共に歩むためには、それこそたゆまぬ修行、自己改良が不可欠である。今、仮にこの21世紀に釈迦が現存していれば、どう考え、実践するだろうかという発想も必要ではないか。そこには信仰ではなく、信頼を基礎にして想像力、構想力を豊かにしていく営みが求められる。知識の集積にすぎない単なるもの知りであることを仏教は歓迎しない。仏教はすぐれた実践者であることを求める。それが仏教の特質である。釈迦は類い希な偉大な教育者でもある。


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コメント
この記事へのコメント
一般法則論を読んでください
 「お前たち自身もまた、修行の拠り所なのだ」/「立派な教え」と「たゆまぬ自己改良」、この両者が対になってはじめて釈迦の遺言は実を結ぶ。

 「自燈明・法燈明」の意味は、こうですね。

 
 
2009/02/22(日) 14:26:30 | URL | 一般法則論者 #.PKXlONI[ 編集]
仏教も先生の指摘された視点で考えると、なかなか興味深いものです。
最近の仏教は、葬式だけのイメージしかありませんから。
2009/02/23(月) 07:51:47 | URL | 赤坂亭風月 #-[ 編集]
釈迦の遺言
一般法則論者さん、コメントに感謝します。「自燈明・法燈明」に言及されているところをみると、その道の専門家とお見受けしました。
ただ私としてはできるだけ専門用語に頼らないで、仏教的思考をどう広めるかを考えているところです。といってもなかなか容易なことではありませんが、今後ともご教示下されば有り難く思います。

赤坂亭風月さん、コメント有り難う。「最近の仏教は、葬式だけのイメージしかありません」という印象は、その通りです。これには当の仏教界にも責任があります。にもかかわらず残念ながらそのことに当事者たちが必ずしも気づこうとしないところがあります。
仏教の再生をどう図るか、仏教の再生が日本の再生と密接につながっているのではないかと最近考えるようになりました。「釈迦の遺言」の今日的意味はそこにあるような気がします。「遺言」は単に仏教者だけの専有物ではありません。
2009/02/23(月) 16:56:11 | URL | 安原和雄 #-[ 編集]
最も有望な処方箋
安原さんの提唱する「足るを知る経済(=仏教経済)」に対して「学問(経済学)と宗教(仏教)とは相反する性質のものだから『仏教経済』などいかがわしい」と言ってハナから理解しようとしない友人がいます。しかし、私は、どこまでも際限なく貨幣価値を獲得しようと競争する「自由主義経済」に対して、「足るを知る経済」こそ、今の世界の大問題である「貧富格差拡大」や「地球環境悪化」を解決する最も有望な処方箋だと感じています。そして、この処方箋を一刻も早く世界中に広めることが必要だと思います。
2009/02/26(木) 15:11:36 | URL | 白鵜 #-[ 編集]
仏教経済学の正統性
白鵜さん、たしか初めてと思いますが、コメントに感謝します。100万人に相当する応援歌をいただいたような気分です。
大学の経済学部で広く教えられている既存の現代経済学の固定観念にとりつかれた現代経済学者、エコノミストたち、それに経済学が分かったつもりになっている人にとっては、「仏教経済学ってなに?」などと怪訝な受け止め方が一般的なのでしょう。そういう人がまだ多いことは承知しています。

ただ参考までにいえば、世界的ベストセラーになった『スモール イズ ビューティフル』(講談社学術文庫)に仏教経済学と題する一章があります。これはケインズに代表される現代経済学を批判的に論じ、それと対比して仏教経済学がいかに今日の課題である資源エネルギーの節約、地球環境の保全などに貢献できるかを論じています。
筆者のシューマッハー(すでに故人)はドイツ生まれの経済思想家で、ビルマで仏教的生活に接して、仏教の魅力に感じ入り、仏教思想を新しい経済学と融合させました。そのうえ仏教経済学の正統性を築くのに尽力した人物ともいえます。

ご指摘のような疑問を抱いている人は、ベストセラーになったこの著作を多分読んでいないのではないでしょうか。時代は大きく動いており、それを読み解くには新しい発想、思想が不可欠ですが、既存の考えに囚われて身動きできなくなっている人々ともいえます。そこから抜け出すには自分で気づく以外に妙策はないのでしょう。時代と共に大道を歩むことはなかなかむずかしいですね。
2009/02/27(金) 15:03:13 | URL | 安原和雄 #-[ 編集]
仏教経済学ということについて
初めまして。仏教と経済学は関連がないのではないかという意見があるそうですが、それは仏教の無理解からくる妄言ですね。安原さんのブログにもあるように、仏教は「信仰の宗教」とは違うということができます。あくまで仏教は知恵、叡智の宗教です。本来の仏陀の教えは、超人的なものを信仰するという教えではないからです。ただ大乗仏教的には一応信仰ということを方便として認めています。親鸞もそのように自認していると言えます。
「仏教経済学」が知足の哲学に裏打ちされたものとして成立する学問的実際的方法を確立したとすれば、こんな叡智に富んだことはないからです。仏陀も知足の教えを説いていたという原始仏教の研究があるわけですから。
現代にこそ仏陀の真実の教えが現実的力を持たなければならないのですがね。現在の寺院仏教や僧侶にそれを期待しても無理な話ということになるでしょう。
仏教の根本に帰って考察することが求められているのでしょう。
2009/03/02(月) 22:43:00 | URL | 弥太 #-[ 編集]
仏教は叡智の宗教
弥太郎さん、コメントに感謝します。
・「仏教と経済学は関連がないのではないかという意見は、仏教の無理解からくる妄言」
・「仏教は知恵、叡智の宗教」
・「現代にこそ仏陀の真実の教えが現実的力を持たなければならない」

以上のご指摘には100%同感です。
目下世界中を右往左往させている世界大不況は貪欲(強欲)資本主義の成れの果てであり、その中長期的対応策には貪欲のアンチテーゼ、少欲知足の精神が不可欠です。
ただご承知のように貪欲から逃れられない現代経済学がいまなお勢力を保持しており、それとの思想的な対峙が求められています。今後ともご教示下されば幸いです。

2009/03/03(火) 16:32:09 | URL | 安原和雄 #-[ 編集]
最近統一教会に入会してしまった嫁に読んでもらい理解していただきたいです。
2014/05/13(火) 07:41:45 | URL | レオ #-[ 編集]
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