「もっともっと欲しい」の貪欲の経済から、「足るを知る」知足の経済へ。さらにいのちを尊重する「持続の経済」へ。日本は幸せをとりもどすことができるでしょうか、考え、提言し、みなさんと語り合いたいと思います。(京都・龍安寺の石庭)
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山岡鉄舟の修身二十則に学ぶ
〈折々のつぶやき〉44

安原和雄
 想うこと、感じたこと、ささやかに実践していること―などを気の向くままに〈折々のつぶやき〉として記していきます。今回の〈つぶやき〉は44回目。題して「山岡鉄舟の修身二十則に学ぶ」です。(08年12月12日掲載、公共空間「ちきゅう座」に転載)

▽まずは、嘘を言うべからず

 幕末の傑物、山岡鉄舟(1836~88年)の没後120周年記念特別展が臨済宗の禅寺・全生庵(ぜんしょうあん=所在地は東京・台東区谷中)で開催され、それを拝観した折りにいただいたのが、鉄舟の「修身二十則」である。その全容はつぎの通り。まず最初に「嘘を言うべからず」を掲げている。

一、嘘を言うべからず
一、君の御恩忘れるべからず
一、父母の御恩忘れるべからず
一、師の御恩忘れるべからず
一、人の御恩忘れるべからず
一、神仏ならびに長者を粗末にすべからず
一、幼者を侮るべからず
一、己に心よからず事 他人に求めるべからず
一、腹をたつるは道にあらず
一、何事も不幸を喜ぶべからず
一、力の及ぶ限りは善き方に尽くすべし
一、他を顧して自分の善ばかりするべからず
一、食する度に農業の艱難をおもうべし 草木土石にても粗末にすべからず
一、殊更に着物を飾りあるいはうわべをつくろうものは心濁りあるものと心得べし
一、礼儀をみだるべからず
一、何時何人に接するも客人に接するよう心得べし
一、己の知らざることは何人にてもならうべし
一、名利のため学問技芸すべからず
一、人にはすべて能不能あり、いちがいに人を捨て、あるいは笑うべからず
一、己の善行を誇り人に知らしむべからず すべて我心に努むるべし

 以上、ざっと一読して、「幕末か、古いなあー」という印象を得た人は、その人自身、道を踏み外した人生を送る可能性があることを反省した方がよいだろう。表現はたしかに古いが、そこに盛り込まれている心は、今こそ玩味し、実践するに値すると考えたい。

▽21世紀版「修身」を考える(その1)― 恩とお陰様で

 昨今の日本社会は倫理、道徳、モラル ― と表現は多様だが、要するに人間としての道に反する言動があまりに多すぎる。もちろん身分社会での上下間の秩序を律するモラルではない。この21世紀における平等対等の人間社会における倫理にほかならない。それをあえて「修身」といってもいいだろう。

 「嘘を言うべからず」を冒頭に挙げているところなどは、120年以上も昔の鉄舟が、今日の日本列島上のごまかし、偽装、不祥事の多発、日常化を心眼で見抜いていたのではないかと思わせるではないか。平気で「嘘をつく」習慣が広がっていることを改めて痛感する。
 その筆頭が残念ながら我等が宰相、麻生太郎首相である。去る10月30日発表した「追加経済対策」の一つ、例の「定額給付金」(すでに旧聞に属するようなお話しになっている)には所得制限を付けず、全世帯が対象、と言明した。ところがその後「豊かなところに出す必要はない」などと、前言をひるがえした。もみにもんだ末、高額所得者は「辞退も」というややこしいことになった。
 結果的に首相は嘘をついたことになる。なぜ嘘をつくのか。この人、倫理観とは無縁の思考様式らしい。山岡鉄舟が現存していれば、免許皆伝の無刀流の刃が頭上にキラリと光り、躍るのではないか。チョンマゲがついていれば、バサリと切り落とされるだろう。

 つぎに多様な「御恩」が列挙されている。今日風にいえば、「お陰様で」という感謝の心と理解できる。弱肉強食の熾(し)烈な競争の中ではカネを稼いで自力で生きるほかないと考えている人が少なくない。
 しかし「自力で生きる」というのは、勝手な思い込みにすぎない。この現世では誰一人として、自力で生きている人はいない。他人様のお陰で、人、動植物、自然環境など多様な存在との相互依存関係の下でのみ、生きている。
 考えてもみよう。例えば食物をお金で買い求める場合、それを生産してくれる人がいることが前提である。お金を食べるわけにはいかない。そういう相互依存関係の事実を認識し、感謝することが「恩」であり、「お陰様」である。

▽21世紀版「修身」を考える(その2)― 「幼者を侮るな」

 いささかの意外感に駆られるのは、「幼者を侮るべからず」をわざわざ挙げていることである。「父母への恩」なら、常識的だが、「幼者を侮るな」は修身のあり方としては珍しいような気がする。幼者は未来の親であり、父母である。国の礎として宝物であることは間違いない。未来へ向かって進む子どもの生命力や成長力を評価する感覚とすれば、これはまさに現代的感覚とはいえないか。
 昨今親殺しが多発しているが、一方、子どもを犠牲にする事件も後を絶たない。医療事故も含めての惨事である。鉄舟はそういう21世紀初頭の惨状を予見していたわけではないだろうが、現代への切ない警告にも響く。

 「食する度に農業の艱難をおもうべし」は、農業国であった当時では、当たり前の感覚ともいえるが、ここには命の源である農業への感謝の心をうかがわせる。しかも農民たちの日常の苦労への共感がこめられている。食べ残しや汚染食物が広がる今日の飽食・日本にこそ、本来のあるべき農業への感謝や共感が必要なときではないか。

 もう一つ、今日、十二分に味わってみるべきは「人にはすべて能不能あり、いちがいに人を捨て、あるいは笑うべからず」である。こういう考え方に接すると、鉄舟は心底、人間は平等対等であり、それぞれの価値に上下はないという思想を身につけていたのではないか、と思える。
 鉄舟が建立した禅寺、全生庵の「全生」は、人間としての生命を全うする、という意味である。この全生にこめられている含蓄と人間の平等対等の思想とは結びついている。現代の我々日本人の多くは、残念ながら120年前の鉄舟よりも相当に退歩し、しかも本道から逸(そ)れているとはいえないか。


(参考:「安原和雄の仏教経済塾」に11月3日付で「山岡鉄舟と新リーダーの質」を掲載しています)

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コメント
この記事へのコメント
修身二十則、人として大切なことです。
誰もがこうした心持ちならば、どれほど暮らし易くなることでしょうか。
2008/12/12(金) 20:56:43 | URL | 赤坂亭風月 #-[ 編集]
人としての道
赤坂亭風月さん、またまたコメントをいただきました。
短文ながら、適切なことばとして受け止めました。ご指摘の「人として大切なこと」と「暮らしやすくなること」とはたしかにつながっており、表裏一体の関係にあるともいえます。

それはそれとして「赤坂亭風月」のことを友人に話したら、「ずいぶん洒落たペンネームだなあー」と感心していました。この名前にどういう心、想いを込めているのか、差し支えなければ明かしていただけませんか。あくまでも差し支えなければ、の話です。
お大事に。
2008/12/13(土) 14:13:47 | URL | 安原和雄 #-[ 編集]
まず「赤坂」は私の生まれ故郷です。高校二年の夏まで住んでいましたので、地域への懐かしさがあります。
当時の故郷は、映画『ALWAYS 三丁目の夕日』のように、地域において人との繋がりがありました。
「亭」は、江戸戯作の作者、また落語も好きですので、そこより取りました。
「風月」ですが、これは赤坂に住んでいた頃の家はかなり古く、隙間風がいつも入ってきており、そこから、「風」を使いました。「月」は旧暦関係です。
この筆名には、故郷や江戸に対する思い入れがあります。
2008/12/13(土) 20:28:26 | URL | 赤坂亭風月 #-[ 編集]
赤坂亭風月とは?
風月さん、早速の返信に感謝します。なるほど、そういう意味でしたか。筆名に込められた貴兄の思い入れの深さ、教養の幅が伝わってきます。道理で洒落た筆名になっていることがうなずけます。

映画「ALWAYS 三丁目の夕日」は私も観ました。その感想がこのブログに「三丁目の夕日 〈折々のつぶやき〉3」(06年1月13日付)というタイトルで載っています。よろしかったら覗いてみて下さい。
ご自愛祈っています。
2008/12/13(土) 22:08:44 | URL | 安原和雄 #-[ 編集]
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