「もっともっと欲しい」の貪欲の経済から、「足るを知る」知足の経済へ。さらにいのちを尊重する「持続の経済」へ。日本は幸せをとりもどすことができるでしょうか、考え、提言し、みなさんと語り合いたいと思います。(京都・龍安寺の石庭)
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小日本主義のすすめ(2)
軍事的脅威論への疑問と持続的発展

安原和雄
以下は仏教経済塾に別途掲載(2005年12月25日付)の講演「小日本主義のすすめ(1)」について「コスタリカに学ぶ会」(正式名称「軍隊を捨てた国コスタリカに学び平和をつくる会」)会員からのE-メールでの質問、意見に安原がメールで考えを述べた補足文である。これは「<持続的発展>を日本国憲法の追加条項に 21世紀版<小日本主義>へ安原氏が提言」と題して、インターネット新聞「日刊ベリタ」(05年7月23日付)に掲載された。これを「仏教経済塾」に収録する。(05年12月26日記)

<補足文1>軍事的脅威をどうとらえるか
(05年6月29日)

 私の講演のなかで不足している部分を挙げておきたいと思います。それは次の点です。
 アメリカのような巨大な軍事力の行使はもちろん、保有自体が暴力であり、それがいのち、自然、暮らしを含む地球生命共同体への脅威になっているという点です。

 講演では非軍事的脅威が主要な脅威と指摘しましたが、実は上記のような軍事的脅威の存在も同時に指摘する必要があります。しかも巨額の軍事費は巨大な資源エネルギーの浪費であり、地球レベルでみれば、その資金を軍事費以外の貧困、飢餓、衛生、教育などの分野に回し、その改善を進めることは緊急不可欠の課題です。世界全体の軍事費は今や100兆円を超えています。その半分近くをアメリカが占めています。軍事費や戦争で稼ぐ産軍複合体にとっては笑いが止まらない話ですが、国民レベルでみれば、膨大な無駄遣いというべきです。

▽従来型脅威論に疑問符を

 以上の点は時間の制約もあり、講演では指摘しなかったと思いますが、大事なことです。脅威とは何かをめぐって意見は多様だと思いますが、他国からの軍事的脅威にどう対処するかという従来型の脅威論にこだわると、自衛を名目とする軍事力容認論、そして憲法9条改訂論につながっていきます。そういう脅威論に疑問符を抱くことから新しい発想、着想が生まれます。

 先制攻撃論に支えられたアメリカの巨大な軍事力、そのアメリカとの日米軍事同盟の存在そのものが今や地球、人類、中東・アジアにとって容認できない脅威となっていることを認識する必要があります。従って平和をつくっていくためには、平和への脅威をつくり出す日米軍事同盟、それを支える日米安保体制を解体しなければならないというのが私の基本的な認識です。以上は重要な点なので補足しておきます。


<補足文2>持続的発展にかかわる安原見解
(05年7月4日)

 小日本主義構想の中の「持続可能な発展」(Sustainable Development)すなわち「持続的発展」について私なりの考えを以下の4本柱を軸に述べます。
1)「持続可能な発展」とはどういう意味をもつ概念、思想なのか。
2)今日の平和観、平和運動はいかにあるべきか。
3)「持続可能な発展」を憲法に追加条項(修正条項)として盛り込むことはどういう意義をもつか。
4)改憲論が現実の政治日程にのぼっているときに憲法の修正条項を持ち出すのは疑問とはいえないか。小日本主義構想を実現させる道筋はどうか。

1)「持続可能な発展」はどういう意味をもつか

 国連主催の第1回地球サミット(1992年開催)が採択した「環境と発展のためのリオ宣言」で打ち出されて以来広く世界で知られてきた概念、思想で、その慨要は次のようです。
①人々の生活の質的改善を、その生活支持基盤となっている各生態系の収容能力の限度内で生活しつつ達成すること。従って経済成長主義、消費主義、拝金主義とは両立しないこと。
②「戦争は、持続可能な発展を破壊する性格を有する。平和、発展および環境保全は相互依存的であり、切り離せない」(リオ宣言)こと。従って戦争、テロ、紛争と持続的発展とは矛盾しており、決して両立しないこと。
③生活の質的改善、共生、循環、平和がキーワードとなっていること。いいかえれば持続的発展という思想、概念は地球環境の保全だけに限定して捉えないことが重要であること。

 具体的内容を列挙すれば、以下のようです。
・人類に限らず、地球上の生きとし生けるもののいのちの尊重
・長寿と健康な生活(食糧、住居、健康の基本的水準)の確保
・基礎教育の達成
・政治的自由、人権の保障、家庭内暴力や社会的暴力からの解放
・就業機会の保障と人的資源の浪費の解消
・特に発展途上国の貧困の根絶
・核兵器の廃絶、軍事支出の大幅な削減、軍事同盟の解消
・環境保全を中心とする新しい安全保障観の確立
・経済成長それ自体を目標にする呪縛からの解放
・公平な所得分配の実現
・景観や文化遺産、生物学的多様性、生態系の保全
・持続不可能な生産・消費・廃棄構造の改革と廃止
・再生不能な資源・エネルギーの収奪や浪費の中止、再生可能もしくは汚染を引き起こさないエネルギー資源への転換

▽持続的発展への新しい多様な脅威

 以上のような持続的発展の内容を補足し、21世紀的課題を指摘したのが第2回地球サミット(2002年南アフリカのヨハネスブルグで開催)で採択された「ヨハネスブルグ宣言」です。

 同宣言は、貧富の格差拡大、グローバリゼーションが招く不平等、基本的な必要物と施設(水、衛生施設、住まい、エネルギー、医療、食糧など)の不足のほか、飢餓、栄養不良、地球温暖化の悪影響による自然災害、生物多様性の喪失、砂漠化、大気・水・海洋の汚染、漁業資源の悪化、麻薬、組織犯罪、人種・宗教差別、エイズ、マラリア、武器・人身の売買、テロ、占領、軍事衝突など実に多様な脅威を持続的発展にとっての新たな脅威と指摘しています。

 以上のように包括的な概念であり、しかも21世紀の新しい地球規模の課題に取り組むためのキーワードとして理解されるべきものです。
 ただ以上の理解、認識が広く共有されているわけではありません。一例をあげれば、日本政府や経済界はしばしば「持続的経済成長」という言葉を使います。これは「持続可能な発展」を「地球環境の保全と経済成長との両立」ととらえるところから出てくる誤った理解です。上記のように「経済成長それ自体を目標にする呪縛からの解放」が持続的発展の1つの柱です。なぜなら量の拡大を意味する経済成長にそもそも持続性は期待できないし、不可能だからです。

2)今日の平和観、平和運動はいかにあるべきか。

 平和運動は一定の平和観に基づいています。だからどういう平和観に立つかがきわめて重要です。平和観には「平和=非戦、不戦」という従来の狭い平和観と、「平和=非暴力、反暴力」という今日的な広い平和観に大別できます。

 私は後者の広い平和観をとります。その意味するところは戦争、テロ(最近の平和学ではこれを「直接的暴力」と呼んでいます)がない状態が平和にとって基本的に重要なことですが、それに限るものではありません。人間性、生の営みの否定ないしは破壊、例えば自殺、交通事故死、凶悪犯罪、人権侵害、不平等、差別、失業、貧困、病気、飢餓―など(最近の平和学では「構造的暴力」と名付けています)が存在する限り平和とはいえません。

▽貪欲な経済成長は「構造的暴力」

 さらに貪欲な経済成長による地球上の資源エネルギーの収奪、浪費とそれに伴う地球環境の汚染、破壊(これも「構造的暴力」)が続く限り、平和な世界とはいえません。

 いいかえれば以上のような多様な暴力(「直接的暴力」と「構造的暴力」)を追放しない限り、真の平和はあり得ません。だから平和は守るものではなく、つくるべきものです。戦争さえなければ平和だと考えるのは、一面的です。

3)「持続可能な発展」を憲法に追加条項(修正条項)として盛り込むことの意義は何か

 以上のような広い平和観に立って多様な暴力を否定し、地球上の生きとし生けるもののいのちを等しく尊重し、真実の平和を確保するためのキーワードが持続的発展です。従って平和憲法が真の意味で平和の確保をめざすのであれば、憲法の中に「持続的発展」という文言を追加条項(修正条項という文言をこれまで使ってきましたが、誤解を避けるためには追加条項とした方が適切かもしれません)として織り込むことが不可欠です。具体的試案は以下の第9条と第25条の2つです。

▽第9条(戦争の放棄、軍備及び交戦権の否認)に関する追加条項

 「日本国民は、世界の平和と持続的発展のために、世界の核を含む大量破壊兵器の廃絶と世界の通常軍事力の顕著な削減に向けて努力する責務を有する」を新たに追加します。

<趣旨>現行の第九条の条文はそのまま活かして、さらに以上の文言を加えようという提案です。戦争と対立する概念である持続的発展を新たにうたうことによって戦争放棄という先駆的な理念の強化を図ると同時に、日本国民の国際貢献のあり方として核兵器の廃絶と世界の通常軍事力の顕著な削減に取り組む姿勢を明示します。

ここでの「世界の通常軍事力の顕著な削減に向けて努力する」とは、日本の戦力不保持の憲法理念が現実には日米安保体制と強大な軍事力保有によって空洞化しており、この理念を長期的視野で取り戻すことを意味します。これはコスタリカ・モデル(軍隊廃止)の日本への応用です。さらにこれをバネにして世界の軍縮を促進させるのに日本(市民レベルも含めて)が貢献することを意味しています。

▽第25条(生存権、国の生存権保障義務)に関する追加条項

 「すべての国民、企業、各種団体及び国は生産、流通、消費及び廃棄のすべての経済及び生活の分野において、地球の自然環境と共生できる範囲内で持続的発展に努める責務を有する」を新たに追加します。

<趣旨>この追加条項は従来の経済成長路線、消費主義、拝金主義という名の貪欲路線との決別を明確にし、脱「成長経済」(=簡素な経済)、地球環境の保全、資源エネルギーの節約などを柱とする「知足(足るを知る)路線」をめざすものです。
 第9条が安全保障、外交上の平和(=反「直接的暴力」)を志向するのに対し、第25条の追加条項は新たな経済社会上の平和(=反「構造的暴力」)の構築を意図しています。

若干補足すると、私は「廃棄物を大量に出さない簡素な暮らし・経済」への転換が平和を構築するうえで不可欠だと考えています。なぜなら廃棄物を大量排出する貪欲で浪費的な暮らし・経済は資源エネルギーの暴力的確保(例えばイラク攻撃の背景に石油確保があります)につながるからです。身近な例をあげれば、平然と飲食物を大量に食べ残す人たちの平和論、平和運動を私は信用しません。「もったいない」の心が欠落した平和運動は今や有効ではありません。

▽「平和環境立国・日本」としての戦略目標

 以上2つの追加条項は、持続的発展を軸に据える「平和環境立国・日本」としての戦略目標を世界に向けて宣言するものであり、この新しい憲法理念は、21世紀版小日本主義の大枠であり、その土台として位置づけられます。決して改憲を意図するものではありません。
 歴史的にみれば、近代の人権思想が当初から正当に広く受け容れられたわけではありません。同様に持続的発展という概念、思想に対しても不慣れのため戸惑いが見受けられます。新しい思想は常にそういう扱いを受けてきましたし、これからもそうでしょう。

 持続的発展に関する国際的な基本文書、『新・世界環境保全戦略ーかけがえのない地球を大切に』(原題はCaring for the EarthーA Strategy for Sustainable Living・第1回地球サミット前年の1991年発表)は「政府は憲法などで持続可能な社会の規範を明記すべきだ」とうたっていますが、まだ憲法に「持続的発展」という文言を採用した国はありません。そこで日本があえて先陣を切り、憲法に盛り込めば、人権思想をうたったアメリカ独立宣言(1776年)、フランス人権宣言(1789年)に匹敵する歴史的偉業になるだろうというのが私の夢です。

4)改憲論が現実の政治日程にのぼっているときに憲法の修正条項を持ち出すのは疑問ではないか。小日本主義構想を実現させる道筋はどうか。

この疑問、問題提起は現実の政治運動論にもつながるもので、それなりの道筋を見出すことは容易ではありません。走りながら考えるほかないことを承知のうえで、以下のことを指摘したいと思います。

▽長期戦略ビジョンと戦術
 小日本主義構想の中の上記1)、2)、3)の私の理解、提言は長期戦略ビジョンであり、「未来の設計図」(「コスタリカに学ぶ会」世話人の小倉志郎氏の表現)です。現下の問題は小泉政権の政策路線や2大政党制に取って代わるだけの長期ビジョンが欠落していることです。だから国民の多くは「どこかおかしい」と感じながらも、明確な将来展望が見出せないまま、悪しき現実に流されているのではないかというのが私の現状分析です。

 重要な点は小日本主義構想のような長期戦略ビジョンが適切かどうかです。このような長期戦略ビジョンをめぐる議論を展開し、その方向性を設定することこそ緊急の課題というべきです。

 たしかに長期戦略を実現させる戦術をどう考えるかは重要なテーマです。私は変革のための「未来の設計図」の提起そのものがバネとなって「意識改革」を触発する戦術としても機能するだろう、その可能性に期待します。政治情勢がわが方に有利になってから長期戦略ビジョンを打ち出すのは、順序が逆であり、それでは「百年河清を待つ」に等しいのではないでしょうか。長期戦略をもたないいわゆる抵抗勢力の次元にいつまでもとどまっているわけにはいきません。そこからいかに脱皮するかが今問われています。

多様な暴力のアンチテーゼ、すなわち「平和=非暴力」という広い平和観を志向する「持続的発展」を憲法に追加条項として盛り込むべきだという提案は、すでに3)で述べたように小日本主義構想の土台をなすものです。これを欠いては小日本主義構想の骨格が揺らいできます。だから持続的発展という概念、思想がもつ上記の戦略的価値を強調する必要があります。それを繰り返し強調することによって地球環境時代における「平和=非暴力」についての意識改革を促す戦術的効果を期待したいと思います。

▽日米安保体制と日米軍事同盟は「諸悪の根源」

 一方、日米安保体制すなわち日米軍事同盟の存在が諸悪の根源となっています。だから小日本主義構想はその重要な柱の一つに安保体制と軍事同盟の解体を掲げています。この解体は長期戦略であり、しかも持続的発展の重要な一環として位置づけられる性質のものです。これを提起することそのものが、「反平和」派が多数を占める現在の政治勢力配置図を「平和」多数派へと塗り替えるための戦術として機能する可能性があります。目下のところ、その実現が困難であることはいうまでもありません。しかし海外派兵、憲法9条改悪路線が進行しつつある「現在の今」という機会を逸したら、いつ提起することができるのでしょうか。

 参考までにいえば、世論調査(03年1月4日付毎日新聞)によると、日米安保維持派は全体の37%、一方、日米安保批判派は47%(「安保条約から友好条約にすべきだ」が33%、「安保条約をなくして中立を」が14%)というデータがあります。安保廃棄は困難ではあるが、現実的であり、空論とはいえないと思います。 

▽憲法9条の条文を守るだけで十分か

 講演での「憲法の修正条項」という表現が誤解を招いているようです。アメリカ合衆国憲法は次々と修正条項を加えることによって、よい方向に修正してきたと専門家は言っています。これに倣(なら)って新しく条項を追加するという意味で修正という表現を使いましたが、これは追加という表現に変更した方がわかりやすいようです。

 いずれにしても憲法に追加条項として「持続的発展」を盛り込むべきだという私の提案(私は憲法学者ではありません。素人だからこそ大胆な提案も可能だと自負しています。余談になりますが、「小さな専門家よりも大きな素人をめざす」という発想を大切にしたいと思っています)はすでに述べたように改憲ではありません。それどころか憲法の「平和=戦力不保持」の理念をどう活かすかが重要であり、持続的発展こそ活かす道だと考えます。平和憲法の理念を改悪しないで堅持すべきだという意味では「護憲派の中の護憲派」と自任しています。

 たしかに憲法9条条文の改悪を阻止することは当面の最重要な課題でしょう。しかし9条の条文をただ守れば、それでいいのかといえば、それだけでは平和理念を堅持するには不十分だと思っています。なぜならすでに3)で指摘したように日米安保体制、日米軍事同盟の強化を背景に9条は事実上骨抜きにされ、空洞化(注)しているからです。従来の平和運動が「戦争反対、9条を守れ」と繰り返し叫んできたにもかかわらずです。条文を守るだけでは空洞化の進行を阻止するのはむずかしいと思います。

 必要不可欠なことは、①9条条文を守ること、②平和理念の堅持、強化のために憲法に持続的発展を追加条項として織り込むこと、さらに③日米安保体制と日米軍事同盟を解体することーこの3本柱です。単に9条条文を守ればよいという考えでは、これからは戦争を阻止することも困難になるだろうと予測します。
(注)9条がなぜ空洞化しているのか。日米安保条約第3条で「日本の自衛力の維持発展」を定めており、歴代の保守政権はそれを忠実に実行し、憲法9条の戦力不保持の規定を無視してきたからです。
 小日本主義を最初に提唱した石橋湛山は日米安保と平和憲法との間のこの矛盾に気づき、日米安保よりも平和憲法の理念を優先させるべきだと主張していました。

▽9条改悪阻止の後に来るものは?

 問題は9条改悪を阻止できたとして(その可能性は大いにあります)、その先に何が待っているのかです。平和でしょうか、それとも戦争でしょうか。
 ここで戦後日本の戦争参加の歴史を概観してみましょう。アメリカの戦争に3度参戦しています。平和憲法のお陰で参戦の経験はないなどと考えるとしたら、お人好しもいいところです。

最初は朝鮮戦争です。いわゆる朝鮮特需によって第2次大戦後の日本経済は経済復興のきっかけを得ましたが、朝鮮特需はアメリカが発注する兵器の生産・修理(ここから戦後日本の兵器生産が再開されました)によってアメリカの戦争を支援したことを意味します。

2度目はアメリカのベトナムへの侵略戦争で、日米安保体制によって沖縄の巨大な米軍基地を許容し、それがベトナム戦争の支援基地として重要な役割を果たしました。沖縄の米軍基地が存在しなかったら、恐らくベトナムへの侵略戦争は困難だったでしょう。

3度目が今回のアメリカ主導のイラク攻撃への参戦です。ベトナム戦争と同様に沖縄の米軍基地が支援基地として重要な役割を担っていますが、この参戦は初の海外派兵によるもので、2度目までの戦争協力=参戦とは質的に異なっています。9条の条文は堅持されているにもかかわらずです。

▽後方支援という名の参戦

具体的にはイラク国内で自衛隊が派兵駐留している一方、インド洋に常時2隻の自衛艦を配置し、イラク攻撃に不可欠の石油を国民の血税を使って供給しています。私は後者の後方支援(注)の事実を重視します。この後方支援を日本が拒否していたら、アメリカのイラク攻撃に支障をきたしていたはずです。 
 (注)日本では多くの場合、後方支援は戦争への参加ではないという誤解があり、認識が甘すぎます。<前線での戦闘>と<後方支援=弾薬、石油、食料、医薬品、その他備品などの補給>とは表裏一体の関係にあります。後方支援なしには戦闘は不可能です。これは欧米の軍事論の常識です。なお日本は米国のアフガニスタン攻撃以来、後方支援を続けています。

 4度目の参戦はもちろん起こらないことを願いますが、9条改悪を阻止できたとしても参戦の可能性はあります。どういう形をとるでしょうか。例えばアメリカが北朝鮮を攻撃するケースです。この場合、日米安保体制と有事法制によって戦争に必然的に巻き込まれ、それが日本列島にどういう事態を引き起こすか、その先は想像力の問題です。

 重要なことは戦争放棄と戦力不保持の9条条文が改悪されないで、健在であるにもかかわらず、こういう事態に巻き込まれるということです。だからこそ9条条文を守るだけでは十分ではありません。骨抜きにされた9条の内実をどう正常化するか、先に述べた日米安保体制廃棄などの3本柱によって、戦争放棄、戦力の不保持を掲げる本来の平和理念を取り戻さなければなりません。

<補記>戦後日本は米国主導の戦争に3度参戦したと上述しましたが、湾岸戦争(1990~91年)も加えれば、4度になります。湾岸戦争では日本は合計130億ドルの援助支出(「湾岸での平和回復活動」という名目の援助資金)のほか、自衛隊掃海艇など6隻をペルシャ湾へ派遣しました。(05年12月26日記)
以上
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