「もっともっと欲しい」の貪欲の経済から、「足るを知る」知足の経済へ。さらにいのちを尊重する「持続の経済」へ。日本は幸せをとりもどすことができるでしょうか、考え、提言し、みなさんと語り合いたいと思います。(京都・龍安寺の石庭)
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今こそ「生活者主権」の確立を
「生活者、消費者が主役」とは

安原和雄
 福田首相は、1月4日の年頭記者会見で「生活者、消費者が主役に」と語った。首相発言の真意は今ひとつ不明だが、首相の発想自体は悪くない。貧困層が増えるなど国民生活が混乱、不安に陥っている今こそ「生活者を重視する生活者主権」の確立を求めるときだと考える。
 あのバブル経済が崩壊した1990年代の初頭に政府が「生活大国計画」を打ち出し、また首相が「生活者主権の確立」を唱えたこともある。生活者、生活者主権とは何を意味しているのか、この機会に生活者主権のあり方を提案したい。(08年1月10日掲載、同日インターネット新聞「日刊ベリタ」に転載)

 福田首相の記者会見での生活者、消費者に関する発言内容はつぎの通り(朝日新聞1月4日付夕刊東京版)。
 「安全で安心な社会、活力と希望に満ちた持続可能な社会を作っていくためには、政治も行政もこれまでの発想、やり方を大きく転換し、生活者、そして消費者の立場にたったものへと変わっていかなければならない。本年を生活者、消費者が主役へと転換するスタートの年にしたい」

▽宮沢内閣時代に生活者・消費者重視を唱える

政府作成の文書で、生活者・消費者重視に言及したのは1992年、宮沢喜一内閣が策定した「生活大国五か年計画ー地球社会との共存をめざして」(計画期間・92~96年度)である。このプランを今読み返してみると、日本政府が「生活大国」というビジョンを掲げた時代もかつてあったのか、という懐かしい思いにも駆られる。

同計画は、まず生活大国を「国民一人ひとりが豊かさとゆとりを日々の生活の中で実感でき、多様な価値観を実現するための機会が等しく与えられ、美しい生活環境の下で簡素なライフスタイルが確立された社会」と定義づけたうえで、それを実現するための政策運営の基本方向としてつぎのように指摘している。
「個人を尊重することを基本として、単なる効率の優先から社会的公正にも十分配慮した視点へ、また生産者中心から生活者や消費者をより重視した視点へと転換させていかなければならない。その際、個人においてライフスタイルの変革が求められているとともに、企業についても意識の転換を進め、二十一世紀に向けた企業行動への変革を行うことが求められている」

さらにつぎのようにも述べている。
「これまでは、経済成長の成果が結果として国民生活の向上に還元されてきたが、今後は経済活動の過程においてより直接的に生活の質の向上が図られるようにすることが重要である。このため、生産のためだけではなく、ゆとりある暮らしのためにも時間を配分すること、フローの所得だけではなく、生活環境などストック面の充実を図ること、東京への過度の集中を是正し、各々の地域の特色ある発展を図ることなど、さまざまなバランスが見直されなければならない」

 以上の文章でまず注目すべきことは「生産者中心から生活者や消費者を重視した視点への転換」を指摘している点である。いいかえれば生産者、すなわち企業よりも生活者、消費者という国民大衆を重視するという姿勢を打ち出した。その上で、「ゆとりある暮らしの実感」、「多様な価値観の実現」、「美しい生活環境」、「簡素なライフスタイル」、「効率優先から社会的公正への転換」、「生活の質の向上」、「地域の特色ある発展」―など、言葉の上だけにせよ、歓迎すべき結構な政策目標が並んでいる。
 この政策目標が実現していれば、21世紀初頭の今日のような「人間の尊厳を失った貧しい国・ニッポン」というイメージとは異質の素敵なニッポンへ向かって進んでいたに違いない。しかし現実は逆の方向に走った。

▽「生活者主権の確立」を強調した細川首相

宮沢内閣の退陣による自民党一党支配の崩壊を受けて、93年8月登場した細川首相(首相就任前に臨時行政改革推進審議会=第3次行革審の「豊かなくらし部会」部会長歴任)は、生活者優先と生活者主権の確立を強調した。細川首相の著書『日本新党・責任ある変革』の中でつぎのように述べている。

 「これまでの生産者優先の経済、社会システムは、戦後の荒廃から今日の繁栄をもたらしたという側面もある。だが、経済的には大国となったいま、そのシステムを生活者優先に転換して、生活者主権の確立を果たさなければならない」
 ここには「生活者主権の確立」という文言が盛り込まれており、宮沢政権時代の生活大国計画よりも一歩進んだ印象を与えた。問題は、それにどういう意味を込めているのかである。つぎのように述べている。
 
「生活者主権を確立する基本原則は、規制の緩和、撤廃である。つまり生活者の選択肢を広げ、豊かさを実感できる社会を実現していくためには、これまでのような生産者・供給者側優先の政治、経済、社会の仕組みを改革して、生活者・需要者側を優先する経済体制へと構造転換していかなければならない」

 生活者優先、すなわち生活者主権の確立の中心軸に置かれているのが、なんと公的規制の緩和、撤廃である。これでは生活者優先の名の下に、今日の無惨な日本経済社会を招いた小泉政権以降の新自由主義路線(=市場原理主義)による規制の緩和・撤廃への橋渡しを演じたにすぎないとはいえないか。

 細川政権後の村山首相は、94年9月、衆参両院本会義で行った所信表明演説で「生活者重視等の視点に立った配分の再検討」などと生活者重視の表現を使ってはいるが、「生活者重視等」とわざわざ「等」という官僚的文言をつけ加えたところに腰の引けた印象があり、結局言葉だけに終わった。

▽消費者主権、そして生活者主権とは

 消費者主権は、消費者が主人公としてあたかも主権を行使するかのように経済社会の方向づけを行うことを意味している。これは政治用語の国民主権、すなわち国民一人ひとりが主役として主権を行使する、つまり選挙で自由に投票することなどによって一国の政治の方向を決めることを念頭においている。
 これと同じように、生活者主権は、生活者がまさに主役として、生活者の豊かさを実現するためにあたかも主権を行使するかのように経済社会のありようを方向づけていくものである。

 それでは消費者と生活者とはどう違うのか。消費者という用語は、消費者主権と並んで既存の現代経済学の教科書に載っているが、生活者、生活者主権という表現は教科書に登場してこない。なぜだろうか。生活者、生活者主権は現代経済学(市場価値=貨幣価値のみを視野に置いている)をはみ出した概念といえるからである。

 私(安原)は消費者、生活者の違い、特質をつぎのようにとらえたい。
*消費者=市場でお金と交換に財・サービス(市場価値=貨幣価値)を入手し、消費する人々を指している。広い意味の消費者には個人(家計)に限らず、企業、政府も含まれるが、消費者主権という場合の消費者にはカネの裏付けのある個人消費者に限るのが普通である。
*生活者=消費者よりも広い概念で、国民一人ひとりすべてを指す。だから消費者はもちろん、企業経営者、自由業者、労働者、生産者(農業者など)、それ以外の老若男女、さらに購買力を持たない赤ん坊も含めて、いのちある人間はすべて生活者といえよう。一人の生活者が現実には消費者であり、同時に労働者であるなど多様な顔を持っているケースは多い。

 このような生活者はお金をいくら出しても市場では入手できないが、生活を豊かにするために不可欠の非市場価値=非貨幣価値(いのち、地球環境、自然の恵み、生態系、利他的行動、慈悲、ゆとり、生きがい、働きがい、連帯感など)にかかわる点が消費者とは質的に異なる。

▽「生活者の4つの権利」を提案する

 さて消費者主権、生活者主権とは具体的になにを指しているのか。まず消費者主権についてケネディ米大統領は1962年(昭和37年)、「消費者の利益保護に関する教書」の中で、つぎのような「消費者の4つの権利」を提起した。これらの権利の行使が消費者主権の具体的な内容である。ただいずれも消費行動に関連した権利であることに留意したい。
(1)安全の権利
(2)情報を得る権利
(3)選択の権利
(4)意見を述べる権利

このうち安全の権利は、「健康や生命に関して危険な商品販売から保護される権利」で、その具体化の一例がPL(Product Liability・製造物責任=商品の欠陥が原因で消費者が生命、身体、財産上の損害を被った場合の製造業者の責任のこと)制度である。欧米の多くの先進国に著しく遅れて、日本では94年6月、やっとPL法が成立し、95年夏から施行されるというまことに遅い対応ぶりであった。
 それはともかく「消費者の4つの権利」の提唱が日本の消費者保護基本法の制定(1968年)に大きな影響を及ぼしたことは間違いない。消費者運動の活性化にも寄与した。

しかしいのちが粗末に扱われ、貧困層が増え、労働者の権利が軽視され、ニセ物が横行し、その上地球環境の汚染・破壊が進みつつある21世紀初頭の今日、この「消費者の4つの権利」ではもはや不十分であり、現実の変化に対応できない。だから生活者主権の確立という視点からこれを発展させる必要がある。そこで私は、つぎのような「生活者の4つの権利」を提案したい。この権利の行使が生活者主権の具体的な内容となる。

(1)生活の質を確保する権利(いのち尊重のほか、非暴力=平和を含む生活の質的充実を図る権利、消費しないことも含む真の選択権など)
(2)ゆとりを享受する権利(時間、所得、空間、環境、精神の5つのゆとりの享受権)
(3)地球環境と共生する権利(「持続可能な経済社会」づくりへの積極的な関与権)
(4)参加・参画する権利(望ましい生産・供給のあり方や政府レベルの政策決定への参加・参画権)

 以上、4つの権利は相互にからみ合っており、現行の平和憲法のつぎの条項の理念を具体化させようとする実践でもある。
*前文の平和共存権
*9条の「戦争放棄、軍備および交戦権の否認」
*13条の「個人の尊重、生命・自由・幸福追求の権利の尊重」
*18条の「奴隷的拘束および苦役からの自由」
*25条の「生存権、国の生存権保障義務」
*27条の「労働の権利・義務、労働条件の基準、児童酷使の禁止」
 (ブログ「安原和雄の仏教経済塾」に1月2日付で掲載した「08年元旦〈社説〉を読んで」を参照)

▽生活者主権の目指すもの―消費者よりも生活者こそが主役

 生活者主権が目指すものは何か。まず生活者の4つの権利について説明する。

(1)生活の質を確保する権利について
 「生活の質」を充実させるためには、いのちが蔑(ないがし)ろにされる現状ではなによりも「いのちの尊重」、「非暴力=非戦を含む平和」が大前提となる。その上で、(2)の「ゆとり享受」、(3)の「地球環境との共生」― が実現していくことが必要である。
また「消費しないことも含む真の選択権」が掲げてあるが、これはどういう意味か。消費者主権の中の「選択の権利」は、個々の生産物やサービスの間の選択を意味しており、消費増大への志向はあっても、消費抑制という観念はない。これと違って生活者主権の中の選択権は、消費を追い求めないという選択も肯定している。いいかえれば消費の増大こそ豊かさだと思いこむ「消費主義」病を克服し、仏教の知足(=足るを知ること)の精神、簡素な暮らし(シンプルライフ)のすすめにほかならない。

(2)ゆとりを享受する権利について
 ゆとりは、大別すれば、以下の5つが考えられる。
*時間のゆとり(非貨幣価値)=労働時間の大幅な短縮、ゆったりした自由時間の確保
*所得のゆとり(貨幣価値)=生存権を保障できるだけの所得の余裕
*空間のゆとり(貨幣価値と非貨幣価値)=生活関連の社会資本による公共空間、街並みの美しさ、美しい自然・景観の保全・創造、働きやすい職場空間の確保など
*環境のゆとり(非貨幣価値)=生命共同体としての地球環境の保全(地球温暖化防止など)、循環型社会の構築とその保全、 きれいな空気・水の確保、多様な動植物との共生など
*精神のゆとり(非貨幣価値)=こころの余裕と意欲、健康、利他主義の実践、個性の尊重、生きがい、働きがい、絆(きずな)・連帯感など
 以上の大半がお金では入手できない非貨幣価値であることに着目したい。

(3)地球環境と共生する権利について
 地球環境の汚染・破壊(地球温暖化など)をいかに防止するかが最優先課題となっている今日の地球環境時代に不可欠の権利である。この共生権は、「持続可能な発展=Sustainable Development」(1992年の第1回地球サミットが打ち出したキーワード)を追求する権利でもある。
地球環境と共生することも、循環型社会すなわち「持続可能な経済社会」づくりを追求することも、今や一人ひとりにとって義務というべきかもしれないが、明確な自覚に基づく行為の裏付けがなければ、しょせん絵に描いた餅にとどまるので、やはり行使すべき権利として位置づけた方が適切であろう。

(4)参加・参画する権利について
生産・供給のあり方や政策決定への参加・参画権を掲げている。まず生産・供給への参加とは、企業が生産・供給するモノ・サービスの内容、あり方に注文をつけていくことであり、さらに例えば農薬を使わない自然食品の生産に自ら携わることである。
 一方、政策決定への参画のためには、選挙のときの一票にとどまらず、政府・行政の政策決定過程への日常的な発言、関与のシステムが必要になってくる。

 以上のように生活者主権がめざすものは、第一に消費者よりも生活者こそが主役だという点である。福田首相は「生活者、消費者が主役」と指摘したが、両者を並列してとらえる姿勢ではあまり成果は期待できない。消費者が主役で、生活者は端役に追いやられる可能性があるからである。
 第二に豊かさの再定義を求めている。それは消費の量的増大を豊かさの尺度としていた従来型「浪費のすすめ」から転換して、「生活の質の充実」、「参加・参画権の行使」を実践していくことを意味している。

▽生活者主権の事例―地球温暖化防止、薬害肝炎被害者の救済など

 生活者主権の視点から、最近の具体例を考える。
*地球温暖化防止について
 08年7月開かれる北海道洞爺湖サミット(主要国首脳会議)の中心テーマは地球温暖化の防止である。このテーマこそ、生活者主権を行使すべき典型例といえる。生活者の4つの権利がそのままかかわる課題である。特に政策決定への「参加・参画権」行使の成否が問われる。

 地球温暖化は特に第二次大戦後の経済成長と過剰消費主義の産物であり、この経済成長、過剰消費主義からの根本的な転換なしには的確な対応はできない。にもかかわらず政府、経済界ともに積極的な姿勢がうかがえない。
 日本の温室効果ガス(二酸化炭素=CO2など)の京都議定書(1997年)による排出削減目標(1990年比6%削減)が目下のところ達成できないだけでなく、逆に増えている。肝心の経済界は「日本経団連自主行動計画」に執着し、「できることを実施する」というにとどまり、必要な削減目標数値を掲げること、さらにCO2排出を抑制するための環境税を導入することに難色を示している。政府も掛け声だけで、及び腰である。

*インド洋での給油問題について
福田政権が最重要課題としている海上自衛隊によるインド洋での米軍艦船などへの給油(07年11月1日以降中止)再開は、補給支援特別措置法が1月11日成立し、可能となると伝えられる。このテーマは生活者主権の視点からどうとらえられるだろうか。
 1月9日行われた福田首相と民主党の小沢代表との党首討論は「低調」などとメディアの評判はよくないが、私(安原)は給油問題については興味深く聴いた。
 福田首相は「自衛隊による給油は、テロ撲滅の一環としての国際平和協力であり、憲法9条が禁止している武力行使にはあたらない」と述べた。これに対し、小沢代表は「油がなければ戦争はできない。給油は兵站(戦争に必要な弾薬、油、食料などの支援補給)の一部である」として「憲法違反」という趣旨を指摘した。

 このやりとりでは福田首相の発言は「偽」で、小沢代表の指摘は「真」であり、こちらに軍配を挙げたい。給油は米軍主導の戦争への協力であることは明らかであり、すでに給油のために200億円を超える血税を浪費している。戦争協力としての給油そのものが憲法違反であり、国民主権上はもちろん生活者主権からみても容認できない。

*薬害肝炎被害者の救済について
 薬害肝炎被害者救済法案が1月8日衆院本会議で全会一致で可決された。これによって被害者側が要求していた「一律救済」の方向で解決に向かい、5年に及ぶ被害者たちの訴訟の努力が実ることになる。被害者ら原告団が求めていた国の責任と謝罪については、法案の前文につぎの文言(要旨)が盛り込まれた。
 「政府は、感染被害者に甚大な被害が生じ、その被害の拡大を防ぐことができなかったことに責任を認め、被害者と遺族の方々に心からおわびすべきである」

 被害者総数は全国で350万人ともいわれ、これまで放置してきた政府の責任は大きい。「一律救済」をしぶっていた政府が、それを受け容れざるを得なくなったのは、被害者たちが生活者主権 ― 生活者主権という意識はなかったにせよ、結果として― の中の政策決定への参加・参画権を行使(訴訟)することによって政府の政策変更を勝ち取った成果といえるのではないか。


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新テロ法再可決とメディアの姿勢
安原和雄
 海上自衛隊によるインド洋での米艦船などへの給油を再開するための給油新法(=新テロ法)は08年1月11日、衆院本会議で再議決され、自民、公明両党などの3分の2以上の賛成で可決・成立した。私(安原)はこのブログで「今こそ〈生活者主権〉の確立を」と題して国民主権上からも生活者主権の視点からも給油再開は容認できないと書いた。

 新法成立について大手メディア6紙社説(ただし産経のみは主張)はどう論じているか。見出しを紹介する。

*朝日=給油新法成立 禍根を残す自衛隊再派遣
*毎日=新テロ法再可決 今回は非常手段と心得よ 「3分の2」避け合意形成努力を
*読売=新テロ法成立 政治再生へどう踏み出すか 民主党も責任ある対応を
*日経=与野党は「恒久法」合意へ議論深めよ
*産経=新テロ法成立 国際社会と共同歩調を 国益の実現に必要な再可決
*東京=給油新法成立 努力なき再可決を憂う

 給油再開に賛成なのか、それとも疑問視することも含めて反対なのか―この一点でみる限り、6紙の論調はつぎのように分かれている。

*賛成派=読売、日経、産経(ただし日経は「恒久法」制定に重点がある)
*条件付き賛成派=毎日
*疑問視派=朝日、東京

 疑問視する東京新聞の論調が簡潔にして要を得ているので、以下に要旨を紹介する。

 参院の「ノー」の意思が衆院の再可決で即座にひっくり返った。賛成の世論が広がりをみせていないにもかかわらず。与党側が合意形成への努力を尽くさず、給油新法成立に突き進んだのは遺憾だ。
 しかし再可決という手段をとってまでも、急ぐべきだったのか。
 昨年の選挙で直近の民意が反映された参院の意思を「数の力」で葬り去ることになるのだから。
 最近の世論調査では、給油再開反対が賛成を上回る傾向にあった。
 新法の内容も腑(ふ)に落ちない。給油活動がテロ抑止やアフガニスタン復興に本当に役立つのかという一番知りたい部分に納得のいく説明はなかった。
 私たちは「初めに再可決ありきでは困る」と注文してきた。
 国論が二分したまま、自衛隊を送り出すことは決して好ましいことではない。

 以上の東京新聞社説も触れているように最近の世論調査では、給油再開反対が賛成を上回っている。こういう民意を汲み上げた社説を書いているのは朝日と東京だけである。
 一方、国益論に言及しているのが読売、産経、毎日である。しかしほとんどその国益の中味を説明していない。
 民意重視派は給油再開を疑問視し、これに対し国益配慮派は「給油再開に反対が多い」という民意を無視し、給油再開に好意的という構図になっている。

 民意を軽視し、国益を振りかざす姿勢が何をもたらすか。国益は本来、国家権力の利益、権益を指しており、それをジャーナリズムが多用するのは、権力批判を忘れて、権力にすり寄る姿勢といわざるを得ない。このような古い国益の再定義が必要である。「民意から離れた国益はあり得ない」と。

 民意と切り離された古い国益論にこだわる限り、福田首相の「生活者、消費者が主役」という記者会見での発言もしょせん空手形に終わるだろう。給油再開を機に権力をどう監視するかが改めて問われる。メディアが国益論に執着していると、それこそ「禍根を残す」(朝日の見出し)ことになるだろう。


2008/01/12(土) 15:16:29 | URL | 安原和雄 #-[ 編集]
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2008/01/23(水) 14:04:20 | あらかじめサーチ!
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