「もっともっと欲しい」の貪欲の経済から、「足るを知る」知足の経済へ。さらにいのちを尊重する「持続の経済」へ。日本は幸せをとりもどすことができるでしょうか、考え、提言し、みなさんと語り合いたいと思います。(京都・龍安寺の石庭)
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消費税上げをめぐる朝日記者対論
「増税は深刻な事態招く」に軍配

安原 和雄
同じ新聞社内の記者が実名で賛否を論じ合うのは珍しい。朝日新聞は消費税引き上げを巡って記者対論を実践した。批判派は「消費増税は深刻な事態を招く」と論じ、一方容認派は「消費増税を先送りする口実は、もう許されない」と譲らない。 
 私自身、現役経済記者時代には覆面座談会は何度も試みたが、そういう紙面作りから大きく踏み出して、消費税問題担当のベテラン記者が名乗りを上げて議論し、賛否の主張を明確にする姿勢は評価に値する。私としては批判派に軍配を挙げたい。(2012年8月31日掲載。公共空間「ちきゅう座」、インターネット新聞「日刊ベリタ」に転載)

朝日新聞(8月29日付)が消費税引き上げについて新しい紙面作りを試みている。題して「消費増税どう考える 本社論説委員と経済部デスクが議論」で、引き上げ賛成派は田中雄一郎・論説委員、反対派は大海英史・経済部次長(デスク)。
議論の主な内容は「家計への負担」、「景気への影響」、「今後の見通し」などで、以下、見出しと議論の大意を紹介する。なお(1)(2)(3)の見出しは紙面上のそれと同一とは限らない。

(1)デフレ下の増税は深刻な事態招く(反対派・経済部デスク)、もう先送りは許されない(賛成派・論説委員)

経済部デスク:社会保障の維持と財政再建は必要だが、「まず消費増税」でいいのか。国民の暮らしの目線から考えると、問題が多すぎる。
まず多くの家庭が負担増に耐えられるのか。大和総研の試算を紹介したい。4人家族で年収500万円の場合、消費税率が10%になった後の2016年は11年に比べて年間約33万円も負担が増える。この金額は給与が1カ月分なくなるほど重い。75歳以上の夫婦で年収240万円なら約14万円の負担増だ。
論説委員:最も気にかけるべきは、働く現役世代のうち、中・低所得の家庭への影響だろう。経済を活性化して所得を増やし、無職や非正規労働の人たちがしっかりした仕事につけるよう経済・雇用政策が重要だ。規制緩和の徹底や予算配分の見直しが不可欠だ。

経済部デスク:増税よりもそちらが先ではないのか。
論説委員:政府の取り組みが不十分なのは、その通りだ。でも逆に尋ねたい。いつになったら増税できるのか。「まず経済を立て直せ」、「行政改革でムダを削るのが先」との主張はもっともだが、増税を先送りする口実にもなってきた。もう許されない。
日本の財政状況は、危機に見舞われた欧州各国よりもひどい。「日本の国債は日本の金融機関が主に買っているから大丈夫」と言われるが、ひとたび危ないとみれば容赦なく売るだろう。国債が急落して金利が上昇すれば、暮らしも財政の立て直しもますます苦しくなる。だから社説では「経済再生、行革と増税を同時並行で進めよ」と主張している。

経済部デスク:消費増税が財政再建につながるということ自体が疑わしい。増税で景気が悪化すれば、税収が減るおそれがある。(中略)国内ではデフレが続いている。特に地方は工場が撤退して雇用が失われており、増税は深刻な事態を招く。

(2)歳出削減の計画を示せ(経済部デスク)、最大の弱者はツケを回される将来世代(論説委員)

経済部デスク:負担増を国民に求めるなら、歳出削減について基本計画を立て、毎年の借金(国債)をこれだけ減らしていくという約束が欠かせない。そこを決めずに増税すると、税収が増えた分だけ都合良く使う「財政のモラルハザード(規律の欠如)」が起きる。心配していたら、案の定だ。
論説委員:民主、自民、公明3党がそろって公共事業の拡充に動き出したことだね。
経済部デスク:そうだ。消費増税は借金を減らすのが大きな目的なのに、法律の付則に「増税で財政にゆとりができた分、防災などの分野に資金を重点的に配分する」という項目が入った。
論説委員:防災は重要だが、各党の姿勢は「はじめに金額ありき」。近づく総選挙への対策なのだろう。民主党政権も、整備新幹線の新規着工や高速道路の凍結区間の工事再開など、大型事業を次々と決めてきた。バブル崩壊後の景気対策で公共事業をやみくもに増やし、財政の悪化を招いた反省はどこへいったのか。またばらまくのなら、消費増税などしない方がましだ。
経済部デスク:だから安易に増税を認めちゃだめなんだ。

論説委員:歳出の見直しといえば、最大の課題は国の一般会計予算の3割、26兆円余りを占める社会保障費だ。高齢化に伴い毎年1兆円前後増えていく。どう考えるか。
経済部デスク:年金や医療、介護などの将来像をはっきりさせ、「これだけのお金が必要だから増税したい」と訴えるべきだ。社会保障費は抑えざるをえないだろうが、将来像がなければどうなるか。来年度の予算編成では生活保護費が削減の標的にされている。日本医師会と切り結んでも診療報酬を下げるという覚悟は示さず、結局は削りやすい弱者にしわ寄せがいく。
論説委員:その点は私も懸念する。最大の弱者は、声も上げられず、私たちが使うお金のツケを回される将来世代だ。

(3)消費税は社会保障財源にふさわしい(論説委員)、裕福な人にもっと負担して貰う(経済部デスク)

論説委員:消費税は、誰もが消費に応じて負担すること、その結果、税収が安定していることが特徴だ。だから皆で支えあう社会保障の財源にふさわしい。
経済部デスク:消費税以外の税が手つかずなのが問題だ。具体的には所得税や相続税の扱いだ。収入や財産が多い人が税金も多く払う。それが社会保障に回り、お年寄りや収入の少ない人たちを支える。そうした「再分配」機能が重要だ。
論説委員:消費税には、所得の少ない人ほど負担割合が高くなる「逆進性」がある。それを補うため、他の税による再分配が欠かせないのは確かだ。
経済部デスク:消費増税で中・低所得者の生活は苦しくなる。ゆとりある人の増税を避けるのは不公平だ。
論説委員:所得税と相続税の強化は賛成だ。ただ、「社会保障の財源は所得税や相続税でまかなえばよい」との意見には注意する必要がある。消費税5%分、13.5兆円の税収を得るには、所得税ならすべての納税者の税率を2倍にしなければならない。相続税は税収自体が1.4兆円ほどにすぎず、やはり限界がある。

経済部デスク:消費増税はいずれ避けられないと思う。しかし国民が納得できる手順を欠いたまま、「決める政治」と言われても信頼は得られない。消費増税の前に、既得権益に切り込んで歳出を減らす。裕福な人にもっと負担してもらう。そうしないと政治不信がますます強まり、負担増は難しくなる一方だ。
論説委員:国と地方の借金残高は1千兆円に近づき、我が国の経済規模の2倍。10%への消費増税でも財政再建は道半ばだ。増税が遅れると、その分、将来の負担が重くなってしまう。もちろん、歳出の見直しや税収増につながる経済活性化策に政府がどこまで踏み込んでいるか、しっかり目を光らせていく。

<安原の感想> 反「新自由主義=市場原理主義」に軍配
ユニークな社内記者対談である。しかも相反する意見の持ち主、すなわち「新自由主義=市場原理主義」派と反「新自由主義=市場原理主義」派による言論戦である。どちらに軍配を挙げたらいいのか。私(安原)としては、やはり後者の反「新自由主義=市場原理主義」派を支持したい。言い換えれば、論説委員説よりも経済部デスクの主張に親近感を覚える。

まず論説委員は消費増税に関連して以下のように指摘している。「新自由主義=市場原理主義」の合い言葉は「規制緩和」と「増税」である。まず増税を、の印象が強い。
・規制緩和の徹底
・いつになったら増税できるのか。
・増税を先送りする口実は、もう許されない。

一方、経済部デスクは消費増税について次のように主張している。
・「まず消費増税」でいいのか。国民の暮らしの目線から考えると、問題が多すぎる。多くの家庭が負担増に耐えられるのか。
・来年度の予算編成では生活保護費が削減の標的にされている。結局は削りやすい弱者にしわ寄せがいく。
・収入や財産が多い人が税金も多く払う。それが社会保障に回り、お年寄りや収入の少ない人たちを支える。そうした「再分配」機能が重要だ。
・消費増税の前に、既得権益に切り込んで歳出を減らす。裕福な人にもっと負担してもらう。そうしないと政治不信がますます強まる。

反「消費増税」のキーワードは「国民の暮らしの目線」、「家庭が負担増に耐えられるか」、「弱者にしわ寄せ」、「収入や財産が多い人が税金も多く」などである。こういう視点を大事と考え、実践や変革に移す工夫をするのが反「新自由主義=市場原理主義」にほかならない。


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日本再生の道―お任せ主義 さらば
戦後67年の終戦記念日に想うこと

安原和雄
戦後67年目の終戦記念日「8.15」が巡ってきた。大手メディアの社説を読んでみたが、そこには生気の乏しい停滞感が漂っている。その中で読むに値するのは東京新聞である。社説「未来世代へ責任がある/戦争と原発に向き合う」と同時に大特集「日本再生の道 ― お任せ主義 さらば」を掲載している。
 その社説や大特集に浮かび上がってくるテーマは、脱原発、脱経済成長であり、さらに<日本流の「無責任の体系」を変えられるか>、<デモの中から模索する「日本再生の道」>である。これを手がかりに日本の今後の望ましい進路を考える。(2012年8月17日掲載。公共空間「ちきゅう座」、インターネット新聞「日刊ベリタ」に転載)

▽ 終戦記念日にメディア社説は何を論じたか

 終戦記念日の8月15日付の大手メディア社説は何を論じたか。これまで各紙共に毎年終戦記念日の社説では戦争・反戦・平和問題を辛抱強く取り上げてきたが、この調子では「戦後100年」の「終戦記念日」も、相変わらず社説で論じるのだろうか。それに異議を申し立てる必要はないとしても、ここら辺りで呼称の変更も含めて発想の転換が必要ではないか。例えば発展志向の「平和記念日」に。

終戦記念日の大手メディアの社説は以下の通り。
*東京新聞=未来世代へ責任がある/戦争と原発に向き合う
*朝日新聞=グローバル化と歴史問題/戦後67年の東アジア
*毎日新聞=体験をどう語り継ぐか/終戦記念日に考える
*読売新聞=「史実」の国際理解を広げたい/日本の発信・説得力が問われる
*日本経済新聞=「いつか来た道」にならないために
なお東京新聞社説は16日付でも「実感される平和とは/戦争と原発に向き合う」と題して論じている。

5紙社説の読後の率直な印象をいえば、何を主張したいのか、その趣旨の不分明な内容が少なくない。ここでは一つひとつの社説の紹介は省略して、東京新聞の社説(15日付)に限って紹介する。その大要は以下の通り。

 毎週金曜夜に恒例となった首相官邸前の反原発デモは、ロンドン五輪の晩も、消費税増税法成立の夜も数万の人を集めて、収束どころか拡大の気配です。政府の全国十一市でのエネルギー政策意見聴取会でも原発ゼロが七割で「即廃炉」意見も多数でした。
 二〇三〇年の原発比率をどうするのか。原発ゼロの選択は、われわれの価値観と生活スタイルを根元から変えることをも意味します。その勇気と気概、覚悟があるか、試されようとしています。

(内なる成長信仰なお)
 それまで散発的だった各地の反原発抗議行動の火に油を注いだのは、関西電力大飯原発の再稼働を表明した野田佳彦首相の六月八日の記者会見でした。安全確認がおざなりなうえに、「原発を止めたままでは日本の社会は立ちゆかない」と、再稼働の理由が経済成長と原発推進という従来の国策のまま。「夏場限定の再稼働では国民の生活は守れない」とまで踏み込んでいました。
(中略)フクシマ後も、われわれの内なる成長信仰は容易には変わらないようです。

(倫理と規範と人の道)
 経済以上に忘れてはならない大切なものがあります。倫理や規範、あるいは人の道です。作家村上春樹さんは、昨年六月、スペイン・バルセロナのカタルーニャ国際賞授賞式のスピーチで、福島原発事故をめぐって「原発を許した我々は被害者であると同時に加害者。そのことを厳しく見つめなおさないと同じ失敗を繰り返す」と語りました。

 村上さんの悔恨は、急速な経済発展の途上で、「効率」という安易な基準に流され、大事な道筋を見失ってしまったことでした。核爆弾を投下された国民として技術と叡智(えいち)を結集、原発に代わるエネルギーを国家レベルで追求、開発する。それを日本の戦後の歩みの中心命題に据えるべきだった。そんな骨太の倫理と規範、社会的メッセージが必要だった。世界に貢献できる機会になったはずだったというのです。

 日本の原発は老朽化の末期症状から大事故の危険性があり、廃炉の研究も十分には進んでいません。毎日大量に生み出される低レベル放射性廃棄物で三百年、高レベルだと十万年の厳重な隔離管理が必要です。人知が及ばない時空、利便や快適な生活のために危険な放射性廃棄物を垂れ流しているとすれば、脱原発こそが、われわれの未来世代に対する倫理であり、人の道だと思えるのです。

(成長から脱成長へ)
 千年に一度の大震災と原発事故は、人々を打ちのめしましたが、日本が受け入れてきた西洋文明や思想、科学技術について考える機会ともなりました。文明の転換期のようです。成長から脱成長の時代へ。

<安原の読後感> 多様な脱原発への道を求めて
 東京新聞社説のユニークなところは、経済成長を批判しながらも従来型の成長批判にとどまってはいない点である。脱原発のためには脱経済成長も不可欠である。しかし脱成長で世論の足並みが揃っているわけではない。そこで脱原発のための新しい尺度が求められる。それが社説の説く「倫理、規範、人の道」である。
 これはたしかに新しい脱原発論と言える。ただ大事なことは「脱成長」か「倫理、規範、人の道」か、という二者択一ではないだろう。両者を共に視野に収めて、多様な脱原発への道を求めていくことこそが必要とは言えないか。

▽ 澤地:松本対談「お任せ主義 さらば」を読んで

 東京新聞(8月15日付)は、2頁全面を埋め尽くした対談を載せている。そのタイトルは<戦後67年 日本再生の道>で、内容は「素人デモ 希望を託す」、「お任せ主義 さらば」からなっている。登場人物は作家の澤地久枝さん(注1)とリサイクルショップ「素人の乱」5号店店主の松本哉(注2)さん。対談のうち、「お任せ主義 さらば」を中心にその大意を、私(安原)なりの理解による(1)日本流の「無責任の体系」を変えられるか(2)混沌の中から新しいものを生み出していく― の2本柱で以下、紹介する。

(注1)澤地久枝さんは1930年東京生まれ。中央公論社を経て作家に。著作は「妻たちの二・二六事件」、「密約 外務省機密漏洩事件」など多数。原発事故後「さようなら原発集会」の呼びかけ人となる。
(注2)松本哉(はじめ)さんは、1974年東京生まれ。大学卒業とともに「貧乏人大反乱集団」を結成。東京・高円寺を中心にした風変わりな街頭デモが知られるようになる。著書に「貧乏人の逆襲!」。

(1)日本流の「無責任の体系」を変えられるか
澤地:敗戦の時に世直しができなかったのは、戦争に負けた責任をあいまいにしたからです。「一億総懺悔(ざんげ)」という言葉が象徴的です。
戦争責任は、九九対一ぐらいの圧倒的な差で国のトップにあるのに、国民みんなが同じように懺悔しなければならない、というふうに言った。それで昭和天皇の責任は問われなかった。政治学者の丸山真男さんがいう「無責任の体系」が戦後政治に後を引いていくことになります。
今度の原発事故も誰も責任を取っていません。今度こそ原発依存体制をつくってきた政府や企業の責任はっきりさせないと。私は日本が世界に先駆けて、原発を含めて核に依存するものと一切縁を切る国になったらいいと思う。
松本:原爆を落とされた国です。本来なら、そんな国にならないといけない。

澤地:今、脱原発デモが盛んなのは、高度成長期から経済の長い停滞が続き、みんなが中流と思う社会構造が崩れている、実生活で追い詰められている、という条件が重なってのこと。日本はもう負けを認め、バンザイしたらいいと思う。でも日本人には負けを認めたくないという思考がある。
松本:それはどういうことですか。
澤地:撤退が苦手ということなんです。太平洋戦争で言えば、開戦から半年後に大敗し、その後も負けが続く。日本軍は補給のことは考えていなかった。負け戦の情報を陸軍と海軍で共有しない。こんなばかげたことが、終戦になるまで、延々と行われていた。

松本:経済成長にしがみつく今も似ていませんか。バブル崩壊で破綻したのに、まだ成長できると突き進み、そして原発事故です。それでも「成長、成長」と言っている。いつ負けに気づくんですかね。
澤地:過去の過ちから学んで決断する、その勇気がない。原発だって全部止められる。だけど誰が責任者か分からない。歴史を転換させるためには今度こそ負けを認めるべきです。

<安原の感想> 原発事故の責任は「負けを認めること」
 ここでのテーマは、日本流の「無責任の体系」、つまり失敗や事故の責任を誰も取ろうとはしないという悪しき伝統は変わるのか、それとも変わらないのか、だ。その答えは変えるべきである。自然に変わるわけではないのだから、意図して変革しなければならない。
 そのためには澤地さんが指摘している「今度こそ原発依存体制をつくってきた政府や企業の責任はっきりさせること」が不可欠である。それに松本さんの「まだ成長できると突き進み、そして原発事故。いつ負けに気づくのか」も重要だ。特に「負けを認める」という姿勢はこれまでにはない新しい視点といえる。そこから新しい出口を求めていく。

(2)混沌の中から新しいものを生み出していく
松本:原発みたいに嫌なものには嫌だと言って、自分たちの手で生活圏をどれだけ作れるかということが初めて問われている気がする。地域での人間関係や居場所づくりとか、を放棄しないでいけば、世の中を変えられるんじゃないか。
日本中の僕と同世代の人たちが面白い場所をつくっている。カフェとか、飲み屋とか、アートスペースとか。非正規雇用が増えた九〇年代にフリーターをしていた人が、自由に生きた経験から、この五年ほどでいろんな場所を作り、コミュニケーションの拠点になっている。
高度成長期から失ってきた地域のつながりとか、居場所といったものを若い人がもう一度つくり始めている。これは大きな希望じゃないか。
澤地:これまでの世の中のあり方からみれば、はみ出したように見えていた人の方が、重要だという時代になってきた。孤立してつぶされるんじゃなくて、広がっていく時代なんですね。

松本:社会主義も資本主義も結局は、強大なシステムです。これまでそのシステムに自分を任せようとしていたんじゃないですか。僕らは散々、お上に切り捨てられた世代だから、「自分たちでやる」「人任せは無理だよ」と思っている。
この前のデモには、百二歳のおばあちゃんが車いすで参加してくれました。うれしかったですね。
澤地:そういうつながり、いいわね。日頃の付き合いからデモをやれるのが一番。ご近所さんで声掛け合って「ちょっと行ってきます」みたいな感じでね。

松本:僕は混沌とした中(なか)じゃないと、新しいものは生まれないと思う。すべてが整然とした世の中が嫌で嫌で。世の中がよくなったとしても、みんなが同じ考えや意見を言っているのは、意持ちが悪い。いつだって間違ったことを言う人がいて、だらしない人もいる方が本当はいいんです。
澤地:それが人間社会でしょ。みんながビシッと同じになったらおかしい。
松本:日本の脱原発運動も脱原発で一つになれるのなら、いろんな立場や考え方の人がどんどん集まってほしい。みんなで、ガチャガチャ言い合いながら。
脱原発に揺れている人は大勢います。原発は危ないと心配しながらも、脱原発の生活が見えないから原発推進側に取り込まれてしまう。だからこそ、僕らは安心して子供を育てられて、老後も不安のない、持続可能な生き方をやる。そんな生き方が世の中で大きく見えてきたら、揺れている人も脱原発に傾いてくるんじゃないですか。
有象無象がガチャガチャと、何回でもデモをやんなくちゃいけない、そういう時代です。

<安原の感想> デモの中から模索する「日本再生の道」
 ここでは松本節(ぶし)が自由奔放にはじけているという印象がある。例えば次のようである。
・僕は混沌とした中じゃないと、新しいものは生まれないと思う。
・いつだって間違ったことを言う人がいて、だらしない人もいる方が本当はいいんです。
・有象無象がガチャガチャと、何回でもデモをやんなくちゃいけない、そういう時代です。

 「混沌とした中」、「間違ったことを言う人」、「だらしない人もいる」、「有象無象がガチャガチャと」などの発言は従来の有識者には縁遠い。それをためらいもなく、言ってのける辺りは、新しい風を感じる。しかもこれらの発言は単なる思いつきではない。
 上述の「僕らは安心して子供を育てられて、老後も不安のない、持続可能な生き方をやる」という発言から分かるように「持続可能な生き方」をキーワードにした生活信条は地に足が着いている。言い換えれば、デモの中から「日本再生の道」を模索する新しい挑戦でもあるのだろう。


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「核と人類は共存できぬ」を掲げて
広島・長崎の平和宣言は訴える

安原和雄
 例年のこととはいえ、8月の広島・長崎の平和宣言には耳を傾けないわけにはゆかない。本年の平和宣言は何を訴えたか。広島では「核と人類は共存できない」という人類としての悲願を前年に続いて強調した。何度繰り返しても過ぎることのない悲願である。
 一方、長崎では「長崎を核兵器で攻撃された最後の都市」にするための具体策として「北東アジア非核兵器地帯」実現を説いた。これも目新しい提言とは言えないが、繰り返し強調することに遠慮は禁物である。脱原発と同様に核兵器廃絶も、その実現には想像を超える持続力が求められる。(2012年8月9日掲載。公共空間「ちきゅう座」、インターネット新聞「日刊ベリタ」に転載)

▽ 広島平和宣言(要点)― 議論進む「核と人類は共存できない」

広島平和宣言は2012年8月6日、広島市の平和式典で松井一実市長によって読み上げられた。その要点は以下の通り。

世界中の皆さん、とりわけ核兵器を保有する国の為政者の皆さん、被爆地で平和について考えるため、是非とも広島を訪れてください。

平和市長会議は今年、設立30周年を迎えました。2020年までの核兵器廃絶を目指す加盟都市は5,300を超え、約10億人の市民を擁する会議へと成長しています。その平和市長会議の総会を来年8月に広島で開催します。核兵器禁止条約の締結、さらには核兵器廃絶の実現を願う圧倒的多数の市民の声が発信されることになります。
核兵器廃絶の願いや決意は、必ずや、広島を起点として全世界に広がり、世界恒久平和に結実するものと信じています。

2011年3月11日は、自然災害に原子力発電所の事故が重なる未曾有の大惨事が発生した、人類にとって忘れ難い日となりました。今も苦しい生活を強いられながらも、前向きに生きようとする被災者の皆さんの姿は、67年前のあの日を経験したヒロシマの人々と重なります。皆さん、必ず訪れる明日への希望を信じてください。私たちの心は、皆さんと共にあります。

あの忌まわしい事故を教訓とし、我が国のエネルギー政策について、「核と人類は共存できない」という訴えのほか様々な声を反映した国民的議論が進められています。日本政府は、市民の暮らしと安全を守るためのエネルギー政策を一刻も早く確立してください。また、唯一の被爆国としてヒロシマ・ナガサキと思いを共有し、さらに、私たちの住む北東アジアに不安定な情勢が見られることをしっかり認識した上で、核兵器廃絶に向けリーダーシップを一層発揮してください。

<安原の感想> 原発も核兵器同様に「いのち」への脅威
「核と人類は共存できない」というキーワードは昨年の広島平和宣言でも指摘された。今回で二度目の登場である。時代の苦悩と願望を端的に表現するこのキーワードは、平和運動を率いた被爆者、故森滝市郎氏の言葉とされる(8月6日付毎日新聞社説<原爆の日/「核との共存」問い直そう>から)。
「核と人類は共存できない」という認識を前提にするからには、そこから導き出される提言は自ずから定まってくる。その一つは核兵器廃絶であり、もう一つは脱原発である。ところが広島平和宣言は前者の「核兵器廃絶」については明言しているが、後者の「脱原発」の表現は避けている。以下のように指摘するにとどまっている。
「日本政府は、市民の暮らしと安全を守るためのエネルギー政策を一刻も早く確立してください」と。

ここには何度読み返してみても「脱原発」の文言は読み取れない。原爆にからむ平和宣言の中で脱原発を明言することは「広島市長としての立場」を超えているという配慮なのだろうか。それは「過剰配慮」とはいえないか。
平和とは、単に戦争がない状態を意味するにとどまらない。広く「いのち」(生命)を尊重し、守るという意と理解したい。こういう平和観に立てば、核兵器も原発も「いのち」への脅威であることに変わりはない。「過剰配慮」はこの際、返上して欲しい。

▽ 長崎平和宣言(要点)― 「北東アジア非核兵器地帯」実現を

長崎平和宣言は2012年8月9日、長崎市の平和式典で田上富久市長によって行われた。その要点は以下の通り。

 世界には今も1万9千発の核兵器が存在しています。地球に住む私たちは数分で核戦争が始まるかもしれない危険性の中で生きています。
 長崎を核兵器で攻撃された最後の都市にするためには、核兵器による攻撃はもちろん、開発から配備にいたるまですべてを明確に禁止しなければなりません。「核不拡散条約(NPT)」を越える新たな仕組みが求められています。

 その一つが「核兵器禁止条約(NWC)」です。2008年には国連の潘基文事務総長がその必要性を訴え、2010年の「核不拡散条約(NPT)再検討会議」の最終文書でも初めて言及されました。今こそ、国際社会はその締結に向けて具体的な一歩を踏み出すべきです。

 「非核兵器地帯」の取り組みも現実的で具体的な方法です。すでに南半球の陸地のほとんどは非核兵器地帯になっています。今年は中東非核兵器地帯の創設に向けた会議開催の努力が続けられています。私たちはこれまでも「北東アジア非核兵器地帯」への取り組みをいくどとなく日本政府に求めてきました。政府は非核三原則の法制化とともにこうした取り組みを推進して、北朝鮮の核兵器をめぐる深刻な事態の打開に挑み、被爆国としてのリーダーシップを発揮すべきです。

 核兵器は他国への不信感と恐怖、そして力による支配という考えから生まれました。次の世代がそれとは逆に相互の信頼と安心感、そして共生という考えに基づいて社会をつくり動かすことができるように、長崎は平和教育と国際理解教育にも力を注いでいきます。

 東京電力福島第一原子力発電所の事故は世界を震撼させました。福島で放射能の不安に脅える日々が今も続いていることに私たちは心を痛めています。長崎市民はこれからも福島に寄り添い、応援し続けます。

<安原の感想> 長崎を核兵器で攻撃された最後の都市に
「長崎を核兵器で攻撃された最後の都市」にするためには何が求められるか。いうまでもなく核兵器の廃絶である。しかしこの廃絶が難問である。廃絶への道筋を長崎平和宣言は具体的に指摘している。
まず現行の「核不拡散条約(NPT)」は核の廃絶のためには有効ではない。だからそれを越える以下のような新たな仕組みが求められる。
・「核兵器禁止条約(NWC)」の締結
・「非核兵器地帯」の実現=「北東アジア非核兵器地帯」への取り組みなど
・日本の非核三原則の法制化(三原則は核兵器を持たず、作らず、持ち込ませず、とする日本政府の基本方針。昭和43=1968年佐藤栄作首相が国会で言明。ただし米軍の核兵器を「持ち込ませず」は有名無実化されてきた。法制化は骨抜きを防ぐ手段として有効)

野田首相は広島、長崎平和式典に出席し、「首相あいさつ」の中で次のように述べた。<「核兵器のない世界」をめざして「行動」する情熱を世界中に広めていくこと、非核三原則を堅持していくことを改めて誓う>など。しかしこれと同じようなセリフは例年歴代首相が記念式典で述べてきたもので、誠意の欠落した挨拶の見本といえる。

首相の挨拶よりも、長崎市長の次の指摘に期待をかけたい。
「核兵器は他国への不信感と恐怖、そして力による支配という考えから生まれました。次の世代がそれとは逆に相互の信頼と安心感、そして共生という考えに基づいて社会をつくり動かすことができるように、長崎は平和教育と国際理解教育にも力を注いでいきます」と。ここには21世紀のキーワードともいうべき「相互の信頼と安心感、そして共生」、とくに対立を超える「共生」の感覚がどこまで広がっていくかに注目したい。


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