「もっともっと欲しい」の貪欲の経済から、「足るを知る」知足の経済へ。さらにいのちを尊重する「持続の経済」へ。日本は幸せをとりもどすことができるでしょうか、考え、提言し、みなさんと語り合いたいと思います。(京都・龍安寺の石庭)
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諸悪の根源「日米安保」に着目しよう
野田首相を金縛り状態にしている背景

安原 和雄
 米海兵隊の垂直離着陸輸送機オスプレイ配備に向けたデモ隊の「反対の叫び」を聴きながら、もどかしさを抑えることができない。なぜなのか。それは日本の政治経済を律している「日米安保」の存在が必ずしも国民、市民の間の共通認識になっていないからである。
 野田首相は「日米安保」の僕(しもべ)として金縛り状態に陥っている。一方、メディアの姿勢も日米同盟批判派から同盟堅持派、同盟懸念派などに至るまで四分五裂の状態で、「日米安保」への批判で一貫しているわけではない。諸悪の根源としての「日米安保」に今こそ着目するときである。(2012年7月26日掲載。公共空間「ちきゅう座」、インターネット新聞「日刊ベリタ」に転載)

 米海兵隊の垂直離着陸輸送機MV22オスプレイが7月23日米海兵隊岩国基地に陸揚げされた。この新事態に市民、民衆の大きな反対、疑問の声が響き渡っている。
琉球新報(沖縄)と大手紙(本土)社説はどう論じたか。まず社説の見出しを紹介する。
*琉球新報社説(7月24日)=オスプレイ陸揚げ/国民を脅かし安保か 日米関係破壊する愚行
*東京新聞社説(同上)=オスプレイ搬入/米政府になぜ物言わぬ
*朝日新聞社説(同上)=オスプレイ配備/強行は米にも不利益
*日本経済新聞社説(同上)=国はオスプレイの安全確認に力を尽くせ
*読売新聞社説(7月25日)=オスプレイ搬入/日米は同盟悪化避ける努力を
*毎日新聞社説(7月21日)=オスプレイ/米国にモノ言わぬ首相
なお毎日新聞社説は24~26日には社説で改めて論じてはいない。

 以下、上述の各紙社説の要点を日米安保との関連でどう論じているかを中心に紹介する。

(1)琉球新報=日米安保そのものに欠陥があり、改定を米側に提起するのが筋
・国民の命と暮らしを脅かし、破壊しかねない暴挙と言うほかない。このような本末転倒な安全保障政策が許されていいはずがない。
・森本敏防衛相は、普天間で10月から本格運用する米政府の計画の見直しを求める考えがないことをあらためて強調した。森本氏は「抑止力に穴をあけてはいけない」とも述べた。
・これでは安全性をおざなりにしたまま再稼働を強行した原発政策と何ら変わりはない。
・日本政府は「口出しする権利がない」とするが、これは統治能力を放棄するにも等しい。日米安全保障条約の事前協議制度は日本側の発言権を確保するためにあるが、事前協議の対象となる「装備の重要な変更」と主張できない根拠は何なのか、明確に説明すべきだ。仮に事前協議の対象でないとするならば、日米安保そのものに欠陥があるのであり、改定を米側に提起するのが筋だろう。

<安原の短評> 琉球新報社説は日米安保改定派
 巨大な米軍基地の存在に苦しむ沖縄の新聞らしく日米安保改定論を持ち出している。日米安保条約が米軍基地の存在を許容しているからである。基地問題を打開するには日米安保の是非そのものに目を向ける安保改定派となるほかない。沖縄では「反安保」志向は日常の感覚といえるのではないか。ここが本土の一般紙との大きな相違点だろう。

(2)東京新聞=唯々諾々と従うだけが同盟関係ではない
・この国の政府は一体、日本国民と米政府のどちらを向いて仕事をしているのか。
・政府は、オスプレイ配備を認める理由に日米安全保障条約を挙げている。
・日本国民が安全性に不安を覚える航空機の配備を強行すれば、米政府や米軍に対する不満や不信感が高まり、条約上の義務である基地提供に支障が出る可能性がある。
・前原誠司民主党政調会長ら日米同盟重視派からも搬入延期を求める意見が出たのも、同盟関係が傷つきかねないとの懸念からだ。
・唯々諾々と従うだけが同盟関係ではない。今、問われているのはオスプレイの安全性だけでなく、米政府に追随し、物を言おうとしない日本政府のふがいなさである。

<安原の短評>東京社説は日米同盟批判派
 本土紙の中では東京新聞は良心派としての地位を保ち続けている。「唯々諾々と従うだけが同盟関係ではない」という指摘は、まさに「良心派」の物言いである。言い換えれば安保批判派ではあるとしても、安保改定派さらに安保破棄派とはいえない。しかし今や安保(=日米同盟)批判派の存在価値は限りなく大きい。

(3)朝日新聞=日米同盟の根幹に影響しかねないリスク
・国内ではオスプレイの安全性への懸念がますます強まっているが、日米両政府は普天間配備と本土での飛行訓練計画は変えていない。
・だがそれは日米同盟の根幹に影響しかねないリスクをはらんでいる。米政府はそこを十分に理解すべきだ。
・市街地に囲まれた普天間で、万一の事故がおこればどうなるか。仲井真弘多(ひろかず)沖縄県知事が、すべての米軍基地の「即時閉鎖撤去」というように、日米同盟の土台が不安定になるのは間違いない。
・「アジア回帰」を進める米国の戦略にとっても、大きなマイナスだ。
・クリントン国務長官は「オスプレイの沖縄配備は、米軍による日本防衛や災害救援の能力を高める」という。だが、それ以前に安全保障の基盤が揺らいでは、元も子もない。

<安原の短評> 朝日社説は日米同盟維持派
 「日米同盟の根幹に影響しかねないリスクをはらんでいる」という朝日社説の指摘はその通りだろう。問題は朝日社説がこの指摘をどういう視点から訴えているのかだ。最後の「安全保障の基盤が揺らいでは、元も子もない」が示唆するのは、日米同盟の存続こそが不可欠という同盟維持派としての期待、願望にほかならない。

(4)日本経済新聞=在日米軍の抑止力向上は歓迎する
・米軍のオスプレイは本当に危険ではないのか。政府は安全確認にさらなる努力を尽くすべきだ。
・中国の海洋進出、北朝鮮の首脳交代などで東アジアの安保環境の先行きは極めて不透明だ。オスプレイは米海兵隊が使用中の輸送ヘリCH46を速度、航続距離、搭載重量のすべてで上回る。抑止力を高める効果が見込める在日米軍の能力向上は歓迎したい。
・問題は今年になって2回も墜落事故を起こしたことだ。オスプレイが陸揚げされた岩国基地(山口県)や10月に配備が予定される普天間基地(沖縄県)の周辺住民が不安を抱くのも無理はない。
・政府がなすべきことは、ささいな情報もすぐ公開し、丁寧に説明することだ。不都合な話を隠したり、小出しにしたりすることがかえって疑惑を深めることは原発事故で十分経験したはずだ。
・野田佳彦首相のこれまでの対応には苦言を呈したい。「(日本が)『どうしろこうしろ』という話ではない」といってすませるのでは無責任だろう。

<安原の短評> 日経社説は米軍抑止力向上派
 野田首相への苦言を社説に織り込むところなどは芸の細かいところをのぞかせている。しかし社説の本音は、「オスプレイ配備によって在日米軍の抑止力向上の効果が期待できることは歓迎」にある。要するに戦争のための実戦力を高く買っているわけで、この実戦力はどこで試されることになるのか、目が離せない。

(5)読売新聞=日本側から日米同盟を揺るがすことがあってはならない
・そもそも、事故が絶対に起きない航空機はあり得ない。安全性については感情的にならず、冷静に議論する必要がある。
・肝心なのは、日米同盟の重要性を踏まえ、オスプレイの安全性を十二分に確認するとともに、10月の沖縄・普天間飛行場への配備を予定通り実現することだ。
・飛行性能に優れたオスプレイの配備は、在日米軍の抑止力を高めることも忘れてはなるまい。
・疑問なのは、民主党の前原政調会長が「沖縄、山口の民意を軽く考えすぎている」などと語り、オスプレイの配備延期を公然と求めていることだ。政府、与党の足並みが乱れていては、地元の理解を広げることは到底できない。
・日本側から日米同盟を揺るがすことがあってはならない。

<安原の短評> 読売社説は日米同盟堅持派
 「事故が絶対に起きない航空機はあり得ない」は、安全性に疑問符が投げかけられているときにいささか乱暴な認識ではないか。真実を書かない社説もあり得る、と言い張るに等しい。「日本側から同盟を揺るがしてはならない」は米国への忠実な僕(しもべ)たれ、と言いたいのか。同盟堅持派としても、その心配りは度が過ぎてはいないか。

(6)毎日新聞=米国にモノ言わぬ首相
・オスプレイは開発段階から事故が相次ぎ、4月にはモロッコ、6月には米フロリダ州で墜落事故が起きた。沖縄や山口、訓練空域下の各県で安全性への懸念が広がっている。
・10月に本格配備される沖縄の米軍普天間飛行場を抱える宜野湾市長ら沖縄の首長が相次いで配備中止を政府に申し入れ、全国知事会も安全が確認されないままの国内配備に反対する緊急決議を採択した。
・普天間飛行場は住宅密集地にある「世界一危険な基地」(ラムズフェルド元米国務長官)だ。フェンスを隔てて小学校が隣接し、04年には近くの沖縄国際大学に同飛行場所属の輸送ヘリが墜落、炎上した。オスプレイの事故におびえながら暮らさなければならない周辺住民の不安、苦しみは察するるに余りある。
・野田首相は「配備は米政府の方針であり、(日本から)どうしろこうしろと言う話ではない」と語った。(中略)危険性を理由に移設することになっている普天間にオスプレイを配備しようというのも、これを容認する首相発言も、沖縄の実情を無視した対応で、無神経すぎる。

<安原の短評> 毎日社説は日米同盟懸念派
 日米同盟を壊すなどという大それた志向とは無縁ではあるが、日米同盟が抱える問題点をひとつ一つ懸念しないわけにはいかないという姿勢である。その意味では懸念派といえるかも知れない。抑止力向上派や同盟堅持派に比べれば、良心的といえるが、日米安保改定派や日米同盟批判派にまで踏み切るほど腹が据わっているようには見えない。

▽諸悪の根源「日米安保」から脱する道

 朝日新聞(7月17日付)は「オスプレイ見直し要請否定」という見出しで、以下のように報じた。
 野田首相は16日、米軍が沖縄に配備予定の新型輸送機オスプレイについて「配備は米政府の方針であり、同盟関係にあるとはいえ(日本から)どうしろこうしろという話では基本的にはない」と述べ、日本側から見直しや延期は要請できないとの認識を示した。フジテレビのニュース番組に出演して語った。

 私(安原)はこの記事を一読したとき、脳裏に「奴隷の言葉」という表現が浮かんでくるのを抑えることができなかった。一国の宰相たる人物が口にすべき表現だろうか。その背景にはいうまでもなく日米安保体制(=現行日米安保条約の正式名称は「日本国とアメリカ合衆国との間の相互協力及び安全保障条約」、1960年6月23日発効)が厳然と存在し、それが諸悪の根源となっている。ここで日米安保体制(=日米同盟)なるものについて学習し直してみたい。

(1)日米安保体制は軍事同盟と経済同盟の2本立てとなっている
 野田首相の言からは、対米従属国家「日本」と表現するほかないが、その従属国家「日本」を金縛り状態にしているのが軍事同盟と経済同盟の2本柱である。

*日米の軍事同盟
 軍事同盟は安保条約3条「自衛力の維持発展」、5条「共同防衛」、6条「基地の許与」などから規定されている。1996年の日米首脳会談で合意した「日米安保共同宣言―21世紀に向けての同盟」で「地球規模の日米協力」をうたった。「安保の再定義」といわれるもので、解釈改憲と同様に条文は何一つ変更しないで、日米安保の対象区域が従来の「極東」から新たに「世界」に広がった。
 この点を認識しなければ、最近、なぜ日本の自衛隊が世界各地へ自由に出動しているのか、その背景が理解できない。

*日米の経済同盟
 経済同盟は2条「経済的協力の促進」で規定されている。2条では「自由な諸制度を強化する」「両国の国際経済政策における食い違いを除く」「経済的協力を促進する」などを規定しており、新自由主義(市場原理主義)を実行する裏付けとなっている。
1980年代から日米で始まり、特に21世紀に入り、顕著になった失業、格差、貧困、人権無視をもたらす新自由主義路線から転換し、内需主導型経済の再生に取り組まない限り、日米両国経済の正常化はあり得ない。
 具体的には「1%(富裕層)と99%(中間層や貧困層)の対立構造」を是正するために、例えば富裕層の富を増税などで吸い上げ、中間層や貧困層に減税や社会保障の充実などで還元することが不可欠である。

(2)日米安保から日米平和友好条約へ転換可能
*日米安保の一方的破棄は可能
 今注目すべきは、日米安保条約は、国民多数の意思で一方的に破棄することができることである。10条(有効期限)「条約は、いずれの締約国も終了させる意思を相手国に通告でき、その後1年で終了する」と定めているからである。この条項を活用して日米安保を破棄して、新たに日米平和友好条約への転換を促すときである。
 野田首相にみる異常な対米従属振りから脱するためには、日米安保の呪縛から自らを自由に解放することが必要条件である。この一点を重視するとき、日本の未来への明るい展望を期待することができるだろう。


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経済記者が想う「小沢新党」の発足
反消費増税、脱原発の姿勢を評価

安原 和雄
 大手メディアの社説にみる論評では「小沢新党」の評判はすこぶる悪い。まるで仲間から嫌われている非行少年団の旅立ちのような印象を受ける。果たしてそうだろうか。
 小沢新党のめざす政策の二本柱は、反消費増税であり、脱原発である。この政策目標のどこが不可解なのか。この目標をどこまで貫くかどうかという課題は残されているとしても、目標そのものは正当である。長い間、経済記者の一人として、政治、経済を観察してきた体験からして、私はそのように新党発足を評価したい。感情を交えた好き嫌いの判断で採点するのは避けたい。(2012年7月14日掲載。インターネット新聞「日刊ベリタ」、公共空間「ちきゅう座」に転載)

▽ 新聞社説は小沢新党をどう論じたか

 小沢新党に関する主要4紙の社説の見出しとその大意を紹介し、私(安原)の感想を述べる。
*朝日新聞社説(7月12日付)=小沢新党 ―「人気取り」がにおう
*毎日新聞社説(同上)=小沢新党結成 スローガンだけでは
*読売新聞社説(同上)=小沢新党 大衆迎合の色濃い「生活第一」
*日本経済新聞社説(同上)=有権者と信頼関係を築けるか
 なお東京新聞社説は12~14日付では取り上げていない。

(1)朝日新聞社説は<小沢新党 ―「人気取り」がにおう>という見出しで、次のように指摘している。

 民主党を除名された小沢一郎氏のグループが、新党「国民の生活が第一」を旗揚げした。
 代表に選ばれた小沢氏は、結党大会で「反消費増税」「脱原発」などを訴えた。
 結局、「反消費増税」にしても「脱原発」にしても、まじめな政策論ではなく、単なる人気取りではないのか。

<安原の感想> 政治は「人気取り」ではないのか
 朝日の社説は<「反消費増税」にしても「脱原発」にしても、まじめな政策論ではなく、単なる人気取りではないのか>としているが、これには違和感を抱くほかない。
 なぜ「まじめな政策論ではない」と言いきれるのか。現下の最大の政策テーマであり、消費増税や原発推進に国民の大多数が賛成しているわけでは決してない。
 しかも「単なる人気取り」という指摘も不思議である。政治はしょせん「人気取り」だろう。それは有権者、国民大衆の希望、願い、期待に応えるという意味である。それが民主政治ではないのか。それとも朝日社説は日本国民を責任感の欠落した「愚民」と認識しているのか。

(2)毎日新聞社説は<小沢新党結成 スローガンだけでは>という見出しで、以下のように論じている。

 小沢氏が言う通り、「国民の生活が第一」は政治の要諦だ。「増税前にすべきことがある」との主張も間違っていないし、「自立と共生」を理念とし、国民、地域、国家の主権を確立するとした新党の綱領も妥当な内容だろう。ただし、「反増税と脱原発」のスローガンだけで納得するほど有権者は単純ではない。

<安原の感想> たしかに「有権者は単純ではない」
 小沢氏には多くの点で共感を覚えながらもなお、どこかに欠点がないかとあえて探しているという印象が残る社説である。「有権者は単純ではない」はその通りである。「単純」はしばしば「馬鹿」を暗示する。いうまでもなく有権者はそれとは異質であってほしい。
 しかし政治の主張、スローガンは、大学研究者に多い意味不明の論文ではないのだから、単純、明快でなければならない。「反増税と脱原発」はその典型である。しかしこの単純、明快なスローガンに込められている含意は、地球規模の広がりと新時代の創生を示唆している。だからその価値は限りなく大きい。

(3)読売新聞社説は<小沢新党 大衆迎合の色濃い「生活第一」>と題して、次のように指摘している。

 新党の発足に高揚感は乏しい。何しろ「壊し屋」と称される小沢氏の4度目の新党であり、新鮮味に欠ける。
 国民の生活本位と言うのなら、具体的かつ丁寧に説明してもらいたい。有権者へのアピールを意識して、大衆迎合的なスローガンを唱えるだけでは無責任である。

<安原の感想> 大衆迎合はむしろ歓迎できる
 「新鮮味に欠ける」という指摘は、正しいだろうか。経済記者としての私などは「4度目の新党」という、その「しぶとさ」にむしろ感心する。たしかに「壊し屋」なのだろう。しかし新しく創りもするのだから、同時に「建設家」でもあるのではないか。
 「大衆迎合的なスローガンは無責任」という表現にも違和感が残る。「迎合」とは本来、弱者としての大衆が強者である権力に「気に入るように迎合」するという意味であり、逆に権力が大衆に迎合するのではない。それを承知で、小沢新党が政治を一新して、大衆に「生活第一」で「迎合」するのであれば、それはこれからの民主政治の一つのあり方となるかも知れない。無責任どころか、むしろ歓迎できるのではないか。

(4)日本経済新聞社説は<有権者と信頼関係を築けるか>という見出しで、以下のように論じている。

政党にとって重要なのは政策である。同時に有権者との間に絆がなければならない。新党はそれだけの信頼を築けるだろうか。
 次期衆院選に向けて新党は反増税と反原発を旗印に据える方針だ。
 民主党は抵抗勢力がいなくなり、野田佳彦首相が党内をまとめやすくなった。社会保障と税の一体改革を巡る3党合意で構築した自民、公明両党との枠組みも活用し、「決める政治」を推し進める絶好の機会だ。

<安原の感想> 「決める政治」はそれほど価値があるのか
 この日経社説の主眼は後段の「民主党は抵抗勢力がいなくなり、野田首相が党内をまとめやすくなった」にある。だから<「決める政治」を推し進める絶好の機会だ>が社説の言いたいところだ。各紙社説ともに小沢嫌いに満ちているが、この社説は特に露骨である。
 しかし「決める政治」それ自体は、それほど価値のあることだろうか。問題は何を決めるかである。間違ったことを決めて、それをごり押しされては迷惑するのは国民である。反増税と反原発の小沢抵抗勢力がいなくなった後の民主党のめざすところは、増税と原発の推進である。「決める政治」の中身はこれである。これを歓迎する国民は決して多くはない。これでは民主党の命運も事実上尽きたというほかないだろう。

▽ 新聞にみる「読者の声」が示唆すること

 まず<読者も「民主党は終わった」>と題する東京新聞7月12日付「応答室だより」を紹介しよう。これは読者の声を収録したもので、その大意は以下の通り。

 消費増税法案をめぐり民主党が分裂後、同党に失望してさじを投げる読者の投稿が目立っている。埼玉県越谷市の70代男性は「三年前の政権交代の期待は見事に裏切られた。民主党は事実上終わった。一日も早く『主権在民』の政府誕生を望む」と総括している。
 批判はもっぱら、次の選挙までは上げないと公約したはずの消費増税に、自民、公明両党と組んで政治生命を懸けるという野田首相らに集中。これに反対して新党を結成した小沢元代表グループには期待する意見も届いた。
 一方、民主党分裂を機に政界再編成を求める横浜市の80代男性は、「官僚の振り付けで動く民主、自民、公明党で構成する『官僚翼賛会』と、この党と対極線上に位置する『国益第一義党』に再編すればいい。とりあえずは前者が多数党だが、後者も小沢新党を軸に勢力を増大し政権党に成長してほしい」と記している。

 これに東京新聞読者の「発言」(7月14日付)をつけ加えておきたい。「小沢新党は国会に必要」と題して、次のように指摘している。

 新党を結党した小沢代表の動きに多くのメディアは否定的である。だが、現下の重要課題である消費増税と原発について、国民の声が国政の場に届かない状況にある。そう考えると、反増税、反原発を主張する勢力が国会の場に必要であることは明らかである。その意味でも小沢新党には期待してやまない。
 
 もう一つ、「国民をだまして消費増税とは」(7月13日付朝日新聞の読者「声」)を届けたい。その要旨は次の通り。

 民主党を除名された小沢一郎元代表が11日、新党「国民の生活が第一」を旗揚げし、民主党は分裂した。「国民との約束を守ろう」と主張した人たちが党を離れ、「今は消費増税だ」と主張する人たちが党に残る。何とも不思議だ。税制という国民にも国家にも最重要な政策で政権公約が守られない。これでは何のための選挙だったのかと思う。
 民自公の3党合意は「社会保障は後回しにして、まずは増税を」ということのようだ。増税だけでは国民の反発を招くので、社会保障という隠れみのを使っていたのだ。これでは国民をだまして増税をしたと言わざるをえない。
 小沢新党の旗揚げで参院での消費税法案の行方はどうなるか。現状のままでは「増税成りて信義滅ぶ」という事態となる。

<安原の感想> メディアは健全な批判精神を取り戻すとき
 紹介した「読者の声」は、きわめて健全であると評価したい。これに比べれば上述の各紙社説の質はいささか見劣りするのではないか。一昔前には社説を一読者として読んでみたとき、「なるほど勉強になった。こちらの気づかないことを見事に指摘している」という読後感が残ったものだ。
 ところが現状はどうか。社説執筆者は「勉強不足」、あるいは「偏見、思いこみ」に囚われているのではないか、という印象が消えない。なぜなのか。それは社説執筆者の姿勢、いいかえれば国家権力を含む権力者を批判するのか、それとも読者一般に向かってお説教を垂れるのか、にかかわってくる。有り体にいえば、後者のお説教が多すぎるのだ。
 これではメディアの健全な批判精神の衰微というほかない。今ここで踏みとどまって、健全な批判精神を取り戻さなければ、新聞メディアの存在価値そのものが問われるだろう。


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「グリーン経済」で経済の再生を
「リオ+20」が示唆する地球の未来

安原 和雄
「グリーン経済」とは何を含意しているのか。改めて問い直したい。そのイメージはすでに確定しているとは言えない。一方に「持続可能な成長の重要な手段」という経済成長派のイメージもあれば、他方に「GDP(国内総生産)に代わる指標のあり方」、つまり経済成長にこだわらない脱経済成長主義の立場からの経済再生もある。
 どちらの立場を支持するにしても、無視できない事実は、地球の収容力や生態系に限界があり、この限界を認識して、新しい経済の再生をどう模索していくかである。その目指すものがグリーン経済であり、先の「リオ+20」が示唆する地球の未来でもある。(2012年7月5日掲載。公共空間「ちきゅう座」、インターネット新聞「日刊ベリタ」に転載)

 毎日新聞(7月2日付)が環境特集「<リオ+20>会議の評価と今後の課題を聞く」を組んでいる。その大意を以下に紹介する。登場人物名とそれぞれの談話のタイトルは次の通り。

(1)平松賢司氏(外務省地球規模課題審議官)=日本の主張、各国に共有された
 国連でグリーン経済への移行について文書で合意したのは初めてだ。グリーン経済が持続可能な成長の重要な手段の一つと認識されたことは、将来に向け重要な一歩になった。日本が主張した資源効率性の高い都市づくりや防災政策の重要性も共有された。
 グリーン経済への移行が各国の自主的な取り組みに委ねられたことに批判はあるが、(中略)皆が望むものは得られない。今回の合意は妥当な線だ。
 欧州連合(EU)は、グリーン経済に移行するための具体的な目標を定める各国共通のロードマップ(行程表)作成を主張したが、途上国にグリーン経済に懐疑的な見方がある以上、現実的ではない。金融危機や財政難で先進国には途上国への資金提供の余裕はない。

 成果文書を具体化させる今後のプロセスが重要だ。1992年の地球サミット当時は先進国、途上国という二分法があったが、今は中国やブラジルなどの新興国が台頭している。新興国は意図的に途上国の利益を代表する立場をとったが、今後は経済成長に見合った役割を果たすよう働きかけ続けなければならない。途上国もそれを望んでいる。
 エネルギー消費が少ない技術を導入することが、途上国にとって将来の発展につながり、コストも低くなることを粘り強く訴えていく。公害を経験し、世界をリードする省エネ技術を持つ日本だからこそできる。

(2)佐藤正弘氏(京都大准教授 環境・資源経済学)=グリーン経済へ転換迫られる
 成果文書のグリーン経済の位置づけは、今年1月の原案段階から大きく後退した。だが世界はいずれグリーン経済への転換を迫られるだろう。
 グリーン経済の考え方に共通しているのは、森林、土壌、水、漁業資源といった生態系がかかわる自然資本をベースにした新しい経済の確立だ。
 自然は地球上で最大の生産者であり、経済は生態系の機能によって支えられている。土壌は人類への食糧供給を支え、森林は水を蓄え洪水を防止し、気候を調節する。ところがこれまで人類は自然の貢献を正当に評価せず、かけがえのない資本を食いつぶしてきた。新興国も加わった世界消費の急激な増大により、生態系は限界を迎えている。

 ではどのように新しい経済を構築していくのか。まず地球の収容力の限界と自然資本の価値を正当に評価すること。リオ+20でも、それらを組み入れた、GDP(国内総生産)に代わる指標のあり方が議論された。さらに自然資本を保持しながら機能を持続的に受けられるようにする。
 例えば良質な水を安定的に確保するために、莫大なお金とエネルギーを使って貯水・浄水施設を造る代わりに、上流の流域生態系を保全し、水の保全や浄化を促進する。気候の安定のために、設備更新で二酸化炭素排出量の削減を図るだけでなく、熱帯雨林を保全し、吸収力を高める。
 資源の効率的な利用、さらに資源を必要としない生活様式や社会への転換も重要だ。政府、企業だけでなく、消費者やNGO(非政府組織)などを巻き込んだ取り組みが不可欠だ。

(3)アブドン・ナババン氏(先住民バタク族・注)=もっと土着の文化の尊重を
 (注)バタク族は、インドネシア・スマトラ島北部にあるトバ湖(1103平方キロ)周辺の山岳地帯で暮らしている。人口は約150万人。

 伝統的な稲作や野菜の栽培、湖での漁に加え、生態系を守りながら森でマンゴー、バナナ、コーヒーなどを育て、自給自足の生活を送ってきた。「持続可能な開発」を私たちは何百年も前から実践してきた。低炭素社会、有機農業、グリーン経済もだ。
 ところが約15年前に政府が製紙パルプ業のトパ・パルプ・レスタリ社に私たちの森の1000平方キロ分の伐採権を与えた。森林減少で湖に流入する土砂が増え、さらに別の企業が魚の養殖を始めたため、水質が悪化し、漁に影響している。山では金の採掘も行われ、バタク族の生活圏は狭まり、自給自足の生活が脅かされている。

 持続可能な開発に文化の尊重は不可欠だ。それを欠いた開発は植民地主義だ。日本企業も国内では日本の文化を尊重するのに、海外で開発事業を行うときは、そこに根付く土着の文化を尊重していないのではないか。この点で成果文書は文化の尊重をもっと強調してほしかった。企業進出によって失われた土地や森、湖、川、生態系を自由に使う権利の回復も勝ち取りたかった。
 国連総会で「先住民の権利宣言」が07年に採択されたが、先住民の権利を保護する方向に動いていない。成果文書にも具体的な施策は盛り込まれなかった。今後も各国政府が先住民の権利を積極的に保護するよう訴えていく。

<安原の感想> 経済成長とは異質のグリーン経済

 「国連でグリーン経済への移行について文書で合意したのは初めてだ」という平松氏の指摘はその通りだろう。肝心なことは、新たに浮上してきた「グリーン経済」とは、そもそもどういう性質の経済なのか、言い換えれば経済成長と不可分の経済なのか、それとも経済成長とは異質の経済なのか、である。
 平松氏(外務省審議官)は「グリーン経済は持続可能な成長の重要な手段の一つ」と指摘している。多くのメディア報道も、この認識を前提に論評を加えている。「自然環境の保全や天然資源の循環利用によって、将来にわたって持続可能な経済成長を実現しようとするもの」という指摘は、その具体例である。これはどこまでも経済成長への迷妄から離れられない経済成長執着派の立場である。

 私見では「持続可能な発展(開発)」は成り立つが、「持続可能な経済成長」は夢物語にすぎない。というのは発展は質的概念で、人間で言えば、人間力(人格、器量など)の充実を意味しており、これに対し経済成長は量的概念で、人間の場合、体重が増えることを意味している。前者の人間力充実には際限がないとしても、後者の体重が際限なく、無限に増えつづけることはあり得ない。

 もう一つは、上述の佐藤氏(京都大准教授)とナババン氏(先住民)の立場である。両氏の主張のどこにも「経済成長」への言及を見いだすことはできない。これは経済成長のことをうっかり忘れたというわけではない。二人の思考の枠組みはそもそも経済成長という概念とは異質といえるだろう。

 佐藤氏は次のように述べている。「どのように新しい経済を構築していくのか。まず地球の収容力の限界と自然資本の価値を正当に評価すること。リオ+20でも、それらを組み入れた、GDP(国内総生産)に代わる指標のあり方が議論された」と。つまりグリーン経済は、「GDPに代わる指標のあり方」とかかわっており、GDP拡大を意味する経済成長とは異質なのだ。
 ナババン氏(先住民)の次の指摘も見逃せない。「持続可能な開発に文化の尊重は不可欠だ。それを欠いた開発は植民地主義だ。日本企業も国内では日本の文化を尊重するのに、海外で開発事業を行うときはそこに根付く土着の文化を尊重していない」と。つまり土着文化を尊重しない植民地主義は、土着文化を尊重するグリーン経済とは両立し得ないという認識である。
 私(安原)は、脱成長主義、土着文化の尊重を前提とするグリーン経済を支持し、その発展を期待したい。


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