「もっともっと欲しい」の貪欲の経済から、「足るを知る」知足の経済へ。さらにいのちを尊重する「持続の経済」へ。日本は幸せをとりもどすことができるでしょうか、考え、提言し、みなさんと語り合いたいと思います。(京都・龍安寺の石庭)
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仏教の「共生と慈悲」を重視するとき
競争・格差社会が先鋭化するなかで

安原和雄
 仏教は「共生と慈悲」の重要性を説いてやまない。その共生と慈悲という仏教の基本的な教えが最近、重視されつつある。背景には企業の生き残りをかけた飽くなき私利追求が現代の競争・格差社会を先鋭化させ、生きづらくしているという事情がある。だから「世直し」のために「共生と慈悲」が注目されつつあるのだ。
地球規模のグローバル化路線は「共生と慈悲」と果たして両立するのか。国境を越えた企業の私利追求が眼目なら、両立は難しいだろう。東大が呼びかけた秋入学も大学のグローバル化をめざすものだが、「共生と慈悲」への視点が希薄であれば、期待値は小さい。(2012年1月25日掲載。公共空間「ちきゅう座」、インターネット新聞「日刊ベリタ」に転載)

 以下、浅草寺(東京都台東区浅草)主催の仏教文化講座の一つ、渡辺章悟・東洋大学文学部教授「慈悲は共生社会の原理となりうるか」(小冊子『浅草寺』2011年11、12月号所収)の要旨を紹介する。その上で私(安原)の感想を述べる。

(1)「共生」について
 現在、「共生」は手垢(てあか)がしみついたくらいに多くの場面で使われている。しかしその意味や歴史はどこまで理解されているだろうか。共生とは何か。共生社会とはどのような社会なのか。

*現代社会の対立と不平等の下で
 現代社会では社会の矛盾や倫理の崩壊が顕(あらわ)になっており、その根底には現代社会のさまざまな対立と不平等が錯綜(さくそう)している。そこには対立と調和、つまり富む者と貧しき者、健常者と障害者が共に生きていくという意味での共生、また世代間の共生とか、男女の性による差別と共生などが求められている。

*「自然との共生」が大きなテーマに
 私たちは自然の中で生きているわけだから、その一員としてこの環境世界を守っていかなければならない。環境としての自然が破壊されると、私たち自身も深刻な危機に直面する。これは私たち人間が引き起こした問題が、自身に返ってきているということだから、人間がどういう形で自然と共生していくか、環境問題として大きなテーマになっている。

*競争・格差社会が先鋭化するなかで
 共生がなぜこれほど注目されるようになったのか。地球や地域の環境の悪化、そして今までの価値が必ずしも絶対的ではなくなり、ある意味では崩壊してしまった。したがっていろいろなひとが多様な価値観を持っていて、なかなかうまく生きていくことができない。また競争社会、格差社会がますます先鋭化していく。こういう社会であるからこそ、共生が叫ばれるわけで、つまり失われた共生社会のなかで、共生が求められてきている。

*共生は「縁起(えんぎ)の世界」
 すべてのものが互いに関係を持ちながら存在する結びつきの世界を仏教では「縁起の世界」という。通俗的な「縁起が良い、悪い」の縁起ではなく、例えば「私」そのものが、いろいろな関係性をもって存在している。その依存関係によってのみ存在していることを「縁起」という。
 たとえば今日私が食べた天ぷらそばに、インドネシアの海で獲れたエビが入っていたとする。さらにそば粉は中国、小麦粉はアメリカ、醤油の材料である大豆はブラジルそれぞれの産物であり得るわけで、そういう地球規模の依存関係の連鎖の中で生きていることを指している。

(2)「慈悲」について
 「慈悲」という仏教用語は一般には馴染みが薄い。しかし仏教としては慈悲をきわめて重視する。慈悲とは分かりやすくいえば、他人の苦しみに同情して、これを救済しようとすることであり、慈悲を見失った社会は殺伐とするほかない。慈悲は共生社会のキーワードともいえる。

*一つのいのちの連続として
 「いのち」について普通は、「私」とか「あなた」とか、個体としての生命を意識していて、これを中心に考えている。しかし私たちがここにいるのは、私たちの親、そのまた親と、過去から今、さらに将来へとずっと続いているためだと考えれば、私たちの存在も、一つのいのちの連続としてある。祖先を崇拝するのは、そういう形でいのちをいただいているという考え方が根底にあるからだ。それが連続する個体としての生命にほかならない。

*大きな生命連鎖のなかで
 いのちを大いなる「いのち」として捉えれば、個としての「いのち」ではなく、自分のいのちがさらに大きな生命連鎖のなかで連綿と続いていて、自分と人間だけではないものとの広い結びつきが考えられる。
 「いのち」という存在が縦横に結びついて相互に影響関係を持ちながら存在する、総体としての「大きないのち」である。私たちはそれぞれがいのちの群として、大きな生命のリンクのなかで、一瞬を生きているという気がする。私たちは自分を個人として考えているにすぎないが、同時に、私たち自身は人間として「大いなるいのち」のなかにあるといえる。

*仏教は慈悲を重視する
 いのちの連続を積極的に意識する考え方が仏教のなかにある。それが「慈悲」ではないか。慈悲は一体感や、連続した「いのち」への意識という意味で重要である。「慈」と「悲」はそれぞれ二つの別の言葉で、「慈」は、他者に利益(りやく)や安楽を与えること、「悲」はうめき、哀(あわ)れみという意味だ。つまり慈と悲は、他人の苦しみに同情して、これを救済しようとすることともいえる。

*慈悲は共生社会実現のための力に
 経典『法華経』にも「世間を利益することを共感をもって実践する」とある。このように共に生きて共にそれを感じとっていく、見捨てないとか、触れ合いをつづけるというところが、この慈悲の実践ではないか。慈悲とその基盤にある「共感・共苦」こそ、異なった立場の存在が互いに分かり合い、互いが融和し、協力できる第一歩ではないか。
 仏教の慈悲の思想によって、どういう地域の人、どのような身上であっても、民族、宗教、見解が異なっていても、必ずや共生社会を実現していくための力になると考える。

<安原の感想> 慈悲、共生とグローバル化は両立できるか

(1)いのち軽視と貪欲は「慈悲と共生」とは両立しない
 仏教の説く慈悲と共生は、上述の「大いなるいのち」として「人間と動植物と自然」が存続していくために不可欠の条件となっている。言い換えれば、慈悲と共生を軽視するところにいのちの営みはあり得ない。
 その意味では生存そのものを危険にさらす原子力発電も、「1%の富裕層」に対し「99%の反乱」を誘発させる新自由主義路線(=市場原理主義)も、「慈悲と共生」に背を向けている。
 多国籍企業など大企業、大資本による国境を越えたグローバル化も、めざすところは大衆を犠牲にする飽(あ)くなき私企業利益の追求であり、「慈悲と共生」に反している。「慈悲と共生」に反するどころか、破壊してやまないのが、巨大な軍事力を振りかざす米国流の世界における覇権主義、単独行動主義への固執である。
 いずれも表看板はグローバル化であるが、共通しているのは、いのちの軽視と貪欲そのものの行動であり、「慈悲と共生」とは両立しない。

(2)大学グローバル化の波紋
 さて大学のグローバル化をどう考えるか。最近大きなニュースとして報道された東京大学の秋入学の話題である。
 それによると、東大は、5年後に秋入学へ全面移行する方針を明らかにした。米国など海外の大学は秋入学が主流で、その国際標準に合わせるためである。京都大など旧6帝大に加え、筑波大、東京工業大、一橋大、早稲田大、慶応大の計11校に参加するよう呼びかけて、波紋を巻き起こしている。

 波紋の一つ、現役東大生の反応が興味深い。朝日新聞(1月21日付)によると、賛否相半ばしており、反対意見の「留学する気がない人には関係なく、周りに行きたいという人はあまりいない」が率直なところだろう。
 朝日新聞社説(1月21日付)は「東大の秋入学 学生のための国際化を」という見出しで「留学を増やし、国際感覚を育みたい」と論じた。毎日新聞社説(同日付)も「教育改革のステップに」と題して「グローバル人材を求める経済界も巻き込んで論議は加速しそうだ」と指摘した。つまり秋入学のめざす合い言葉は「大学のグロ-バル化」である。

 大学のグローバル化は、何を意味するのか。多国籍企業など大企業、大資本による国境を越えたグローバル化への人材供給をめざすとすれば、仏教の説く慈悲、共生と果たして両立できるだろうか。
 多様な人的レベルで国際交流を深めることを意味する国際化は歓迎すべきことである。しかし昨今の企業のグローバル化は、飽くなき私利追求が念頭にあり、歓迎に値する国際化とは異質である。慈悲、共生への共感を見失った企業のグローバル化なら、危険な臭いがつきまとう。グローバル化だからといって単純に是認できる時代ではもはやない。


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五木寛之著『下山の思想』を読んで
変革を迫られる「登頂」後の生き方


安原和雄
 『下山の思想』に次の指摘がある。私たちは、すでにこの国が、そして世界が病んでおり、急激に崩壊へと向かいつつあることを肌で感じている。それでいて、知らないふりをして暮らしている、と。この認識は大部分は真実と認めないわけにはゆかない。ではこの現実にどう立ち向かうのか。
 登山にたとえれば、21世紀のこの時代は従来の登山重視の時代から下山重視の時代へと大転換を遂げつつある。だから「登頂」後の下山の時代をどう認識し、どう生きるかが新しいテーマとして登場してきた。言い換えれば、日本人一人ひとりの時代認識と生き方そのものが歴史的変革を迫られているのだ。(2012年1月14日掲載。公共空間「ちきゅう座」、インターネット新聞「日刊ベリタ」に転載)

 『下山の思想』(幻冬舎新書、2011年12月刊)は多くの読者を得ているらしい。毎日新聞(2012年1月4日付)の派手な記事広告には日本史上著名な仏教思想の先達である法然(ほうねん)、親鸞(しんらん)、日蓮(にちれん)、道元(どうげん)など、すべての人々は山を下りた、とある。この指摘自体も興味深いが、私(安原)にとっては同じ記事広告の中の「成長神話の呪縛を捨て、人間と国の新たな姿を示す画期的な思想」という文言に心が動いた。だから読んでみる気になった。
 まず本書の大要を紹介する。その上で感想を述べたい。

(1)なぜ下山に関心をもつのか。
 登頂したあとは、麓(ふもと)をめざして下山する。永遠に続く登山というものはない。この下山こそが本当は登山のもっとも大事な局面である。
 これまで登山行きのオマケのように考えられていた下山のプロセスを、むしろ山に登ることのクライマックスとして見直してみたい。

 登山が山頂を征服する、挑戦する行為だとする考え方は、すでに変わりつつあるのではないか。そしていま、下山の方に登山よりもさらに大きな関心が深まる時代に入ったように思われる。
 安全に、しかも確実に下山する、というだけのことではない。下山のなかに、登山の本質を見いだそうということだ。下山の途中で、登山者は登山の努力と労苦を再評価するだろう。下界を眺める余裕も生まれてくるだろう。自分の一生の来し方、行く末を思う余裕もでてくるだろう。

 その過程は、人間の一生に似てはいないか。壮年期を過ぎた人生を「林住期(りんじゅうき)」とみて、そこから「遊行期(ゆぎょうき)」にいたるプロセスを人間のもっとも人間的な時代と考える。下山は「林住期」から「遊行期」(注)への時期だ。そこに人生のつきせぬ歓(よろこ)びと、ひそかな希望を思う。
 (注)古代インドに人生を次の四つに分ける思想がある。「学生期(がくしょうき)」「家住期(かじゅうき)」「林住期」「遊行期」の四つ。

(2)再生の目標はどこにあるのか
 いま、私たちは未曾有の大災害に見舞われ、呆然としてなすすべがない有様だ。福島原発が直面する現実は、数年で解決されるような問題ではない。しかし私たちは二度の核爆弾の被災のなかからたくましく立ち上がってきた民族である。どんなに深い絶望からも、人は立ちあがらざるをえない。

 しかし、とそこでふと思う。私たちの再生の目標は、どこにあるのか。なにをイメージして復興するのか。それは山頂ではない、という気がする。ふたたび世界の経済大国という頂上をめざすのではなく、実り多い成熟した下山をこそ思い描くべきではないのか。
 戦後、私たちは敗戦の焼け跡の中から、営々と頂上を目指して登り続けた。そして見事に登頂を果たした。頂上をきわめたあとは、下山しなければならない。それが登山というものなのだ。

 下山の時代、ということは、言いかええれば「成熟期」ということではあるまいか。戦後の半世紀は、「成長期」だったと思う。
 私は沈む夕日のなかに、何か大きなもの、明日の希望につながる予感を見る。日はいやいや沈むわけではない。堂々と西の空に沈んでいくのだ。それは意識的に「下山」をめざす立場と似ている。
 そのめざす方向には、これまでと違う新しい希望がある。それは何か。

(3)新しい物差しをもって
 「少年よ、大志を抱け」というクラーク先生の言葉(注)は、私たち世代には耳になじみのある声である。彼の考える「大志」とは、末は博士か大臣か、といった出世主義をめざす生き方ではなかった。神の御前(みまえ)に、それにふさわしい生き方をめざせ、と熱烈なクリスチャンであるクラーク先生は若者たちをはげましたのだろう。
 (注)ウイリアム・スミス・クラーク(1826~1886)は米国の教育家。1876年(明治9年)来日、札幌農学校の初代教頭となり、内村鑑三、新渡戸稲造らの学生に深い感化を及ぼした。離日の際、残した「Boys, be ambitious」(少年よ大志を抱け)は有名。

 大志にもさまざまな目標がある。私たちも大志を抱くべきだ。しかしそれは果たしてどのような国の姿だろうか。経済力ではあるまい。軍事力でもないだろう。国力の物差しはどこにあるのか。
 この国が中国にGDP(=国内総生産)で抜かれるまで、米国に次ぐ世界第二位の経済大国であったことはじつにすごいことだった。しかしそこには相当な無理があった。その証拠が年間3万3、4千人の自殺(注)が十数年も続いていることだろう。
 以前、ブータンを訪れたとき、現地の人から「日本の経済発展に心から敬意を表する。しかしどうしてあれほど自殺者が多いのか」と聞かれて返事に困ったことがある。
 (注)2012年1月10日、警察庁によると、昨年2011年の自殺者数(速報値)は3万513人と14年連続で3万人を超えた。自殺者数は1998年に3万人を突破してから、2003年に過去最高(3万4427人)を記録し、ずっと3万人台で推移している。

 私たちは、新しい社会をめざさなければならない。経済指数とは別の物差しをさがす必要があるだろう。
 節電の運動が普及して、街は暗い。しかし最近ようやく夜の濃(こ)さを再発見したような気がして、節電の街があまり不安ではない。
 このあたりで一休みして、落ち着いて下山のプランを練り直すこともできそうだ。どこへ下山するのか、その先に何があるのか。さまざまに想像すると、かすかな希望の灯が見えてくるような気がする。

(4)第二の敗戦と「下山のとき」を生きる
 いま私たちは戦後最大の試練に見舞われている。原発事故の行方は不明だが、どんなに好意的に見ても、あと半世紀は後遺症は続くだろう。この国は二度目の敗戦を迎えたのではないか。国対国の戦争ではない。
 今回の東日本大震災が、この国の第二の敗戦だと、みな心の底では感じているはずだ。このところメディアは「自粛ムード」から一転して、反「自粛ムード」へと方向転換した。いつまでも頭をたれてばかりはいられない、という考えだろう。復興の第一歩は、全国の消費を活性化することだ、という意見には一理ある。
 活性化することは重要で、それは生きる者たちの責任でもある。しかし同時に、私たちは災害の実態と、その責任を明らかにする義務も負っている。

 時代は「下山のとき」である。登山といえば山に登ることだけを考え勝ちである。しかし下山に失敗すれば、登山は成功とはいえない。急坂を登り、重い荷物を背負って頂上をめざすとき、人は周囲を見回す余裕はない。必死で山頂をめざすことに没頭しているからだ。
 しかし下山の過程は、どこか心に余裕が生まれる。遠くを見はるかすと、海が見えたり、町が見えたりする。足もとに咲く高山植物をカメラで撮ることもある。岩の陰から顔を出す雷鳥(らいちょう)に目をとめるときもある。

 私たちの時代は、すでに下山にさしかかっている。実りある下山の時代を、見事に終えてこそ新しい登山へのチャレンジもあるのだ。
 少子化は進むだろう。輸出型の経済も変わっていくだろう。強国、大国をめざす必要もなくなっていくだろう。ちゃんと下山する覚悟のなかから、新しい展望が開けるのではないか。下山にため息をつくことはないのだ。

<安原の感想>(1) ― 「下山することの価値」に着目
 時代は「下山のとき」、という認識が本書『下山の思想』の出発点であり、ユニークな視点となっている。たしかに著者の五木さんも指摘するように、山に登ることは三つの要素、すなわち山に登ること、山頂をきわめること、さらに下山すること、が切り離しがたくつながっている。ところが下山することの価値はこれまでほとんど無視されてきた。その盲点に着目したのが本書の魅力である。

 この盲点に光を照らすためには次のような「ローマ帝国崩壊」に関する著者の図太い歴史観が支えとなっている。その骨子は以下のようである。

 私たちは歴史について、ある偏(かたよ)った先入観を抱いているようだ。それは時代の変化が、一朝(いっちょう)にしておこるように思っている点である。例えばローマ帝国の崩壊という。ある日、大きな事件がおこって、たちまちにして帝国が滅びたように考える。これは明らかに間違ったうけとり方だ。
 「ローマは一日にしては成らず」という。
 だとすれば、同時に、「ローマは一日にして滅びず」ともいえる。歴史は一夜にして激変はしない。長い時間をかけて変化がきざし、それが進行する、と。

 さらに以下のように説きすすめてもいる。

 下山の時代がはじまった、といったところで、世の中がいっせいに下降しはじめるわけではない。長い時間をかけての下山が進行していくのだ。
 戦後半世紀以上の登山の時代を考えると、下山も同じ時間がかかるだろう。しかし、下山の風は次第にあちこちに吹きはじめている。いつか人々は、はっきりとそのことに気づくようになるはずだ、と。

<安原の感想>(2) ― 脱「経済成長」と脱「軍事力」と
 上述のように「下山の時代」の到来を繰り返し説いている。では下山時代の特質はどのように認識したらよいのか。
 その一つは経済力、軍事力の否定である。例えば次のように指摘している。
・私たちも大志を抱くべきだ。しかしそれは果たしてどのような国の姿だろうか。
・経済力ではあるまい。軍事力でもない。
・私たちはふたたび世界の経済大国という頂上をめざすのではない。
・輸出型の経済も変わっていく。強国、大国をめざす必要もなくなっていく。

 これは「経済力と軍事力」の神話の否定であり、いいかえれば脱「経済成長」と脱「軍事力」を意味し、脱「日米安保体制」にもつながっていく。もともと日米安保は日米間の経済同盟(経済成長と経済協力の同盟)であり、同時に軍事同盟(在日米軍基地を足場とする対外軍事侵攻と日米軍事力の一体化をめざす同盟)である。だから、経済成長や軍事力を否定する以上、やがて脱「日米安保」となるほかない。「経済力と軍事力」の神話の否定はもちろん脱「原子力発電」にもつながっていく。

<安原の感想>(3) ― 夜の濃さの再発見、そして心の余裕を
 もう一つはGDP(経済成長を測るモノやサービスの量を示す概念)では把握できない非経済的、非市場的価値の重視である。例えば以下の指摘に注目したい。
・下山は「林住期」から「遊行期」への時期だ。そこに人生のつきせぬ歓びと、ひそかな希望を思う。
・日は堂々と西の空に沈んでいく。それは意識的に「下山」をめざす立場と似ている。
・(大震災と原発惨事のため)節電の運動が普及して、街は暗い。しかし夜の濃さを再発見したような気がして、節電の街があまり不安ではない。
・下山の過程は、どこか心に余裕が生まれる。遠くを見はるかすと、海が見えたり、町が見えたりする。

 人生のつきせぬ歓び、ひそかな希望、堂々と西の空に沈んでいく日(太陽)、暗い街で夜の濃さの再発見、心の余裕 ― などはいずれも経済成長とは無関係であるが、精神的充実感を味わうのに大切な要素である。経済成長や日米安保への精神的奴隷ともいえる惰性的な生き方から精神の離脱をめざし、「生き生きと生きよう!」というのが「下山の思想」のもう一つの提案と受け止めたい。


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本土紙と沖縄紙との隔たりの大きさ
2012年元旦「社説」を吟味する

安原和雄
主要メディアの2012年元旦社説を読んだ。元旦社説はメディアの年頭の辞であり、本年の主張に関する心構えという意味合いも秘めている。だからそれなりに力のこもった作品になるはずだが、なぜか本年の大手紙社説には光る色彩が不足している。思うに時代や権力に対する図太い批判力が萎えているためではないか。
 大手紙の批判力への疑問が提示されるようになってすでに久しいが、これに比べれば沖縄紙の年頭社説には教えられるところが少なくない。本土紙と沖縄紙との隔たりを念頭に置きながら元旦社説を吟味する。(2012年正月2日掲載。公共空間「ちきゅう座」、インターネット新聞「日刊ベリタ」に転載)

 まず大手紙のうち3紙と沖縄の琉球新報の元旦社説の見出しを紹介する。次の通りである。一見して、3紙は何を論じたらよいのか、苦心している様子がうかがえる。一方沖縄の琉球新報の主張は明快である。
*毎日新聞=2012年激動の年 問題解決できる政治を
*読売新聞=「危機」乗り越える統治能力を ポピュリズムと決別せよ
*朝日新聞=ポスト成長の年明け すべて将来世代のために
*琉球新報=新年を迎えて 平和と人権尊ぶ世界を 問われる沖縄の自治力
 以下順次、その要点を吟味する。

(1)毎日新聞社説 ― 「いよいよ我々国民の出番である」
 その要点を紹介すると、以下のようである。

 民主政治の問題解決能力を高めるためにどうするか。(中略)政治家が説明、説得、妥協の術を使い果たし、それでも問題解決ができない場合は、いよいよ我々国民の出番である。他に選択肢のない民主政治の中で、どの党とどの政治家が優れた判断力と強い情熱を持って彼らにしかできない仕事をしてきたか、また、する意思と能力があるのか。国民にしかできない有権者としての判断を下し、問題解決を後押ししようではないか、と。

<安原の感想>ここでは「国民の出番」がキーワードらしい。民主政治のイロハを説いているのだろうが、時機をみて、「さあ、これから出番だ」というものだろうか。民主政治は最初から徹頭徹尾、国民の出番によってのみ成り立っているのではないのか。途中から国民が参加する民主政治とはどこの国の民主政治なのか。

 次の社説の文章も分かりにくい。
 手間も時間もかかる。だが、「政治という仕事は、情熱と判断力の両方を使いながら、堅い板に力をこめて、ゆっくりと穴を開けていくような仕事」(マックス・ウェーバー)なのである。「実際のところ、民主主義は最悪の政治形態と言うことができる。これまでに試みられてきた民主主義以外のあらゆる政治形態を除けば、だが」(ウィンストン・チャーチル)。2人の先達の至言をこの正月、改めてかみしめたい、と。

<安原の感想>高校生の社会科の学習ならともかく、21世紀の日本において、今どき、社説の中にマックス・ウェーバー(1864~1920、ドイツの社会経済学者で、著作『プロテスタンチズムの倫理と資本主義の精神』が知られる)とウィンストン・チャーチル(1874~1965、第二次大戦時の英国首相)という歴史上の人物が罷り出なければならない必然性がつかみにくい。

(2)読売新聞社説 ― ポピュリズムと決別せよ
 あれもこれも、とこれほど網羅的に問題点を取り上げている社説も珍しい。その骨子は次のようである。

・復興を進めて経済を成長軌道に乗せたい
・消費税率引き上げによる財政再建を
・負担減と給付増を求めるような大衆に迎合する政治(ポピュリズム)と決別を
・アジア重視に転じた米国との同盟の深化と南西方面の防衛力向上を
・沖縄問題解決のために野田首相も沖縄に出向き、知事らを本気で説得せよ
・TPP(米国主導の環太平洋経済連携協定)参加はピンチではなく、再生へのチャンス
・安全が確認できた原発から再稼働していくこと。再稼働が進まないと、企業が海外移転を図り、産業空洞化に拍車を掛ける
・消費税、沖縄、TPP、原発の各課題は、いずれも先送りできない

<安原の感想>以上のようにどこに焦点があるのか、分かりくい内容だが、しかし丁寧に読み直してみると、そこに一貫した意図を感じないわけにはいかない。それは野田政権を全面的に支持し、叱咤激励しようという姿勢である。消費税引き上げから日米同盟深化、TPP参加、原発の再稼働に至るまで全面的な「よいしょ」で、激励される方が気恥ずかしくなるような熱の入れようでもある。まさしくポピュリズムへの嫌悪、言い換えれば大衆蔑視にほかならない。
 しかし今や大衆が歴史をつくり、政治、経済を動かす時代である。「ウオール街の占拠」から日本も含めて世界に広がった「99%の反乱」は、その最近の具体例である。しかも肝心の野田政権の支持率は急落し、野田政権に世論は背を向けつつあるのだ。過剰な「よいしょ」はかえって「贔屓(ひいき)の引き倒し」にならないか。社説自体が自己矛盾に陥っている印象さえ否めない。

(3)朝日新聞社説 ― ポスト成長の年明け
 朝日新聞の元旦社説の見出しは「ポスト成長の年明け ― すべて将来世代のために」である。ここから社説のキーワードは「ポスト成長」と読み取ることができる。その骨子は以下のようである。

・戦後ずっと続いてきた「成長の時代」が、先進国ではいよいよ終わろうとしている
・昨秋、ブータンから来日した国王夫妻を人々は大歓迎した。(中略)物質的な充足よりも心の豊かさを求めてGNH(国民総幸福)を掲げるブータンの国是に、ひとつの未来を見いだしたからだろう
・草食系の若者たちが登場したのは、ポスト成長の環境変化に適応して進化したからではないか――。みずほ総合研究所がこんな新説を唱えている
・地球大での環境や資源の限界を考えても、低成長に適応していくことは好ましい
・「ゼロ成長への適応」と「成長への努力」という相反するような二つの課題を、同時にどう達成するのか。歴史的にみて、経験したことのない困難な道である
・そのさい、「持続可能性」を大原則とすることを提案する。何よりも、将来世代のことを考えるためだ

<安原の感想>「ポスト成長」を掲げるからには、脱成長つまり「成長主義よ、さようなら」という明確な告別宣言かと期待して読んでみたら、そうではない。例えばブータンの「GNH(国民総幸福)」について「ひとつの未来」と述べている。いいかえればあくまで選択肢の一つにすぎないという認識である。
 草食系の若者たちの登場の背景として「ポスト成長」の環境変化への適応、進化だ、という見方は興味深い。彼ら若者たちはとっくに経済成長主義には見切りをつけているのではないか。それは諦(あきら)めではなく、むしろ健全な生き方だろう。社説も「地球大での環境や資源の限界を考えても、低成長に適応していくことは好ましい」と指摘しているではないか。もっともここでは「低成長」ではなく「脱成長」と表現すべきだろう。 

 どうも朝日社説は「ポスト成長」を模索しながら経済成長主義を超えられないようだ。それは<「ゼロ成長への適応」と「成長への努力」という相反するような二つの課題を、同時にどう達成するか>という問題提起に見出すことができる。くだいて言えば「成長しないで成長していく」という矛盾そのものの謎に等しい。世界人口は今や70億人となったが、この謎解きができる者が一人でもいるだろうか。
 「持続可能性」は大事な原則である。この原則を維持するためには「脱成長」に潔く踏み切ったらいかがか。
 経済成長主義は人間でいえば、体重を増やすことを最優先する生き方である。逆に脱成長とは人間でいえば、体重を増やすことに関心を抱かず、人間力や品格を磨くことといえよう。少年時代はともかく、大人になってからも体重を増やそうと励むのは、どこかアンバランスな異常神経である。

(4)琉球新報社説
 沖縄の琉球新報社説の見出しは「平和と人権尊ぶ世界を 問われる沖縄の自治力」である。この見出しからすでに本土の大手3紙の社説とは異質な主張をうかがわせる。その大要は以下の通り。

民主主義の真価示せ
 日米両政府が解決を急ぐべきは、「世界一危険」とされる米軍普天間飛行場の返還問題だ。基地が住民の敵意に囲まれることを回避し沖縄返還にこぎ着けた先人の知恵、教訓を生かせば、普天間返還は必ずや実現できるだろう。日米は民主主義の真価を世界に示してもらいたい。

社会的罪自覚を
 政権、政党は、新しい時代に適合した政治理念や社会経済システムを国民に分かりやすく示すべきだ。
 インドの非暴力主義の指導者、マハトマ・ガンジーは90年近く前、「七つの社会的罪」として「理念なき政治」「労働なき富」「道徳なき商業」「人間性なき科学」などを掲げた。
 脱原発運動をリードする京都大学助教の小出裕章氏も引用しているが、「原発安全神話」を振りまいてきた歴代政権や電力会社、学者の罪深さを思うと、ガンジーの言葉は示唆に富む。
 政治の迷走、暴走はもうしまいにしたい。「アラブの春」を教訓に、世界各地で民主主義と人間の尊厳が最大限尊重される「国境なき春」の到来を願ってやまない。

<安原の感想>以上の社説にみるキーワードは「民主主義」であり、ガンジーの「七つの社会的罪」である。米軍基地の返還交渉で苦悩を抱える沖縄にふさわしいキーワードではないだろうか。
 ここでの民主主義とは、アメリカ大統領リンカーンの有名な演説、「人民の人民による人民のための政治」が念頭にあるのだろう。沖縄への基地返還は民主主義の原点に関わっている。民主主義の故郷、アメリカは何を迷っているのか、という心の叫びであるに違いない。
 底知れない大きな災害をもたらした「原発安全神話」それ自体が実は暴力そのものであり、ガンジーの非暴力主義に相反する。同時に災害も神話もガンジーの唱える「社会的罪」にほかならないのだから、それを自覚することから出直すほかない。
 リンカーンとガンジーを今一度学び直したい。この社説はそのことを訴えている。それにしても本土紙と沖縄紙とはなぜこのように懸け離れているのか。


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