「もっともっと欲しい」の貪欲の経済から、「足るを知る」知足の経済へ。さらにいのちを尊重する「持続の経済」へ。日本は幸せをとりもどすことができるでしょうか、考え、提言し、みなさんと語り合いたいと思います。(京都・龍安寺の石庭)
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「いのち」と「脱原発」と「幸せ」と
2011年から2012年へつないで

安原和雄
今年(2011年)一年間を特色づけるキーワードとして何を挙げることができるだろうか。やはり「いのち」、「脱原発」、「幸せ」の三つを指摘したい。これまでも毎年交通事故死などで多くの人命が奪われてきたが、今年は「3.11」の大震災と原発惨事のため、死者、行方不明者は1万9000人余にのぼっている。いのち尊重と脱原発は待ったなし、というべきである。
 笑顔が話題をさらったのが、若きブータン国王夫妻の来日で、ブータンの国是である「幸せ」を追求するGNH(国民総幸福)政策も関心を集めた。日本としてこれら三つの課題を今後へどうつないでいくか、2012年の大きな宿題である。(2011年12月24日掲載。公共空間「ちきゅう座」、インターネット新聞「日刊ベリタ」に転載)

▽「いのち」と「脱原発」と

朝日新聞(2011年12月12日付夕刊)の以下の見出しの記事(大要)を紹介する。
*いのち見つめ「脱原発」 ― 子供たちのために
  宗教界はこれまで、原発問題に積極的に向き合ってきたとはいえなかった。しかし原発事故後の今、脱原発社会を目指す宣言が相次ぐ。エネルギーや環境、地域経済といった問題とは一線を画す、「いのち」の観点からの呼びかけだ。
 12月1日、全国104の宗派・団体が加盟する「全日本仏教会」(全仏、東京都港区)が仏教会全体に共通する考えとして「<いのち>を脅かす原子力発電への依存を減らす」という宣言文を採択した。戸松義晴・事務総長は「最終的にはすべての原発をなくしていくと、仏教者として訴えたい」と話した。全仏が原発に関して声明を出すのは初めてのことだ。
 それまでにも臨済宗妙心寺派が「将来ある子供たちのために一刻も早く原発依存から脱却し」「仏教で説く<知足>を実践し、持続可能な共生社会を作るために努力する」と宣言し、曹洞宗大本山永平寺(福井県)の僧侶で作る「禅を学ぶ会」が「原発を選ばないという生き方」と題したシンポジウムを開くなど、流れが生まれていた。

 日本カトリック司教団は11月8日、国内の全原発の即時廃止を呼びかけるメッセージを発表した。
 この動きを浄土真宗大谷派法伝寺(兵庫県)の長田浩昭住職は、複雑な思いで見守っている。長田さんは1993年に結成された「原子力行政を問い直す宗教者の会」世話人。会員は現在800人で、多くは長年原発の問題を訴えてきた仏教、神道、キリスト教の宗教者たちだ。福島原発の事故後、「自分たちにもっと力があったら、事故は止められたはずなのに」とみな落ち込んだという。
 会結成のきっかけは、福井県に建設された高速増殖炉「もんじゅ」の試運転開始だった。以来、宗教者の責任として原子力政策の問題点を指摘し、政策の転換を求めてきた。だが宗教界全体では少数派だった。(中略)

 福島の原発事故以来、長田さんには全国の寺や市民団体からの講演依頼が相次いでいる。「原発行政を問い直す宗教者の会」メンバーが原発の町の現実を伝えた2001年発行の『原発総被曝の危機』(遊学社)も10年ぶりに再編集され、出版された。長田さんは「全仏の声明で各教団が動けば、大きな力になる」と期待する。

<安原の感想> 「いのち」と「脱原発」とは相互不可分
 私が提唱する仏教経済学のキーワードとして以下の八つを挙げている。いのち、非暴力(=平和)、知足、簡素、共生、利他、多様性、持続性 ― である。これら八つのキーワードを現実の政治、経済、社会の中でどう生かし、実現していくか、が仏教経済学の目指すところである。

 しかし多くの僧侶を含む仏教者たちは、こういう現代感覚には無頓着とは言えないか。現実の問題に仏教者がどういう打開策を求めていくか。仏教者は自己満足の閉鎖的な思考から卒業してほしい。お布施稼ぎのための葬式仏教に甘んじ、それ以外に知恵を磨こうとしない仏教はもはや存在価値はないといっても過言ではないだろう。
 その意味では上述の脱原発を志向する仏教者たちの行動には敬意を表したい。いのちと脱原発は相互不可分の関係にある。原発に固執する限り、いのちは無視される。いのち尊重のためには脱原発以外の選択肢は考えられない。

▽「幸せ」ってなに?

 幸せをテーマにした新聞投書を紹介する。朝日新聞(2011年12月17日付)「声」欄に掲載された次の見出しの記事である。氏名は省略

*ブータンの「幸福度」に感銘(中学生 15歳 岐阜市)
 新婚のブータン国王夫妻が来日されて話題になった。僕はブータンの国民総幸福(GNH)という考え方に感銘を受けた。
 先進国では国民総生産(GNP)という経済的な豊かさの基準が重視されている。しかしブータンではGNHという独自の基準のもと、国民の幸せを最優先に政治を行っているそうで、国民の9割以上が「幸せ」と考えている。先進国が経済的な豊かさに固執するなか、そんな国の国王が国民に結婚を祝福されている映像に政治の本当の意味を見た気がした。
 経済的な豊かさが直接幸せにはつながらないことに日本人の多くが気づいていると思う。大震災が起こって国や政治への信頼も不安定な今、生産力より幸福感を求めることが国民のための政治になると思う。
 日本のリーダーのみなさんには、ブータンを見習い、国民の、とくに被災地のみなさんの幸福を一番に考えてもらいたい。

<補足> 上記の投書にGNP(=Gross National Product)という経済用語が出てくる。これは数年前まで使われていたが、現在その代わりとして国内総生産(GDP=Gross Domestic Product)が一般に使われていることを指摘しておきたい。なお国民総幸福はGNH=Gross National Happinessである。

<安原の感想> 幸せは自分で創っていくもの 
 中学生の素直な幸福感には「なるほど」と教えられるところが少なくない。豊かさと幸せとを異質のこととして捉えようという、その感覚は素晴らしい。「経済的な豊かさが直接幸せにはつながらないことに日本人の多くが気づいている」という認識も正しい。
 ただあえて指摘すれば、幸福の実現を日本のリーダーに期待するのはどうか。無理ではないだろうか。彼らの幸福感の押しつけではなく、自分にとって、我々にとって「幸せってなに?」と問いかけるところから、幸せは始まる。人から、ましてリーダーから与えられるものではなく、一人ひとりが自分で発見し、創っていくものであるにちがいない。

 大晦日(2011年)のNHK紅白歌合戦に出場する女流歌手、夏川りみが歌う「あすという日が」に次の一節がある。「幸せを信じて・・・」と。つまり幸せは人から与えられるのを待つのではなく、自分で信じて引き寄せるものだという趣旨だろう。

▽ 再生日本の目指すべき三本柱は

 中学生の新聞投書がテーマとして取り上げている「豊かさ」と「幸せ」とは、どう違うのか。通常は次のように理解されている。

 豊かさは「量の概念」で、GDP(国内総生産)で示される。一定期間(例えば1年間)に新たに作られるモノ、サービスの総量(主要項目は個人消費、政府支出、民間投資、輸出など)を指している。一方、幸せは「質の概念」で、GNH(国民総幸福)で示される。
前者のGDPは主要先進国が経済規模や経済成長を測る手段として使っているが、後者のGNHは、ブータンが独自に開発したもので、その国の政治、経済、社会、さらに生活の質を示している。
経済成長を追求し、GDPが増えれば、生産や消費も増えるが、それは資源エネルギーの浪費、自然環境の汚染・破壊につながる。GDPでは自然環境が良質であるか、汚染されているかを測ることはできないが、ブータンのGNHではその測定は可能である。だからGNHは自然環境の汚染・破壊の防止に貢献できる仕組みでもある。

 人間でいえば、GDPは体重という「量」を意味しており、一方GNHは人間力や品格などの「質」を表しているとみることもできる。GDP依存症(注)ともいえる日米欧の大国・先進国よりも、独自のGNHを掲げて、国民の幸せの実現を目指す小国・ブータンの方がはるかに賢明で先進的で、自然環境貢献型でもあると言えよう。
(注)朝日新聞(12月24日付オピニオン面「製造業から見た日本と世界」)は次のように書いた。「世界経済は混迷を深め、日本が果たして成長できるのか怪しくなるばかりだ」と。これは最近のメディアにみるGDP依存症すなわち経済成長依存症の一例である。

 「質」としての幸せを実現するためには、もちろん政治、経済、社会、さらに一人ひとりの生き方をどう変革していくか、その努力と活力が求められる。怠惰、無気力には幸せは近づいては来ないだろう。
 特に指摘したいことは、「いのち尊重」のためには「脱原発」が前提であるように、「幸せ」のためにはいのち尊重と脱原発が不可分の関係にある。つまり「いのち」、「脱原発」、「幸せ」は三位一体式に捉える必要がある。こういう認識と自覚こそが明日からの再生日本を創っていくに違いない。同時に再生日本の目指すべきものが「いのち」、「脱原発」、「幸せ」の三本柱でもあるだろう。多難ではあるが、そこに未来への希望を見出したい。

<参考>ブログ「安原和雄の仏教経済塾」に掲載した「いのち」、「脱原発」、「幸せ」に関連する記事の一部は次の通り。
*いのち・簡素尊重の循環型社会を ― 連載・やさしい仏教経済学(29)=2011年1月21日掲載
*なぜ原発ゼロを主張しないのか ― 終戦記念日の新聞社説に物申す=同年8月15日掲載
*GDPよりも国民総幸福の追求を ― 来日したブータン国王が残した課題=同年11月25日掲載


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TPP賛否で盛り上がった新聞投書
やはり参加疑問派に軍配を挙げたい

安原和雄
 野田首相は2011年11月中旬米国(ハワイ)で開かれたアジア太平洋経済協力会議(APEC)首脳会議でTPP(環太平洋経済連携協定または環太平洋パートナーシップ協定)への参加方針を表明した。これをきっかけに新聞投書で活発な賛成・疑問の論議が盛り上がった。
 賛成派の主張は、やや農業問題に集中した印象で、農業衰退に歯止めをかけるためにもTPPへの参加によって農業改革を進める必要があると唱えた。一方、疑問派は農業に限定しないで、むしろ日本経済や日本人の暮らしのあり方にまで視野を広げて論じている。もちろん意見は自由で、人それぞれでいいが、TPPはアメリカ主導型であることに着目すれば、やはり疑問派に軍配を挙げたい。(2011年12月17日掲載。公共空間「ちきゅう座」、インターネット新聞「日刊ベリタ」に転載)

新聞投書欄である朝日新聞の「声」、毎日新聞の「みんなの広場」に11月から12月にかけてTPPにかかわる多数の投書が寄せられた。その中からいくつかを投書の見出し付きで賛成派、疑問派別に以下に紹介し、最後に「安原の感想」を述べる。なお掲載新聞名、投書者の氏名は省略した。

(1)TPP参加賛成派の主張

*TPP参加で農業の大改革を(無職 男性 80歳 栃木県)
貿易立国を国是とする日本のTPPへの参加は経済拡大のために当然である。民主党のTPP慎重派は日本農業が壊滅すると強く反対している。慎重派は日本農業の現状を認識しているのだろうか。
農業の主役、コメ作の担い手は高齢化し、後継者も不足し、減反で広大な耕作放棄地が生まれ、農業はすでに壊滅状態にある。今まで農業改革のために巨額の資金が投入されたが、農業の衰退は止まっていない。
慎重派は、農業の現状を認識し、世界の農業を視野に入れ、TPP参加を機に農業の大改革を実施すべきだ。米作の再生には、農地の集約による経営規模の拡大が不可欠だ。日本農業の技術水準は世界の先端にある。経営規模を拡大すれば、競争力が強化され、コメの輸出も展望できる。

*TPP参加、日本経済に必要(会社員 男性 45歳 山形県)
日本は長く低成長とデフレにあえぎ、企業は超円高の影響で海外脱出の動きを見せ、産業の空洞化が起きている。国民は将来への不安から閉塞感を強めている。TPP交渉への参加は、日本の構造改革を進め、経済立て直しには必要であり、今後は交渉を通して日本にとって良いルール作りをしていくことが重要だ。
日本が何を守り、何を譲歩できるのかを考える必要がある。自由化で壊滅的な打撃を受けると言われる農業分野は、特に慎重を期す必要がある。今後は、国際競争力の強化や効率化などの改革を進めていかなければならない。また、自由化で今の医療制度が崩れるといった不安を取り除かねばならない。
10年以上先の日本を見据えながら、強くなる日本の将来に期待したい。

*TPPで大揺れは情けない(無職 男性 84歳 神奈川県)
首相の交渉参加表明を農業関係者や自民党などが批判している。だが、今のままでは高齢化が進む農業に未来はない。若い層に魅力ある農業にするには、より効率的で付加価値の高い農業に変えて競争力をつけることが必要で、それを妨げている様々な規制を緩めることが不可欠だ。そのためにこれまで、行政や農協はどれだけ尽力してきたのか。むしろ規制緩和を妨げ、先駆的な取り組みをしている農家の首を絞めてきたのではないか。
一方、自民党は自由経済支持ではなかったのか。首相の交渉参加表明に反対する国会決議に賛成できないとした小泉進次郎衆院議員を衆院議院運営委員会の委員から外したことは、責任政党としてとても信じがたい。TPPで大揺れする現在の姿は情けない限りだ。

*TPP反対の農業、振興策示せ(無職 男性 67歳 山形県)
農業界は、日本農業が壊滅すると大反対だ。しかし農業を自滅から救う振興策があるなら、農業界は示して下さい。それができなければ負け犬の遠ぼえだ。
2010年度農業白書によれば、、農業生産額は20年で3割減少した。若い人は農業を継がず、農業従事者の半数以上が高齢者で、耕作放棄地が増えている。これでは日本農業は自滅し、国民に食糧供給の責任を果たせない。
戦後、農業以外の産業は大変革を遂げたのに、農業は手厚い補助金に守られ、多くの農業者は経営改革を怠ってきたのではないか。その結果、畜産などを除き、稲作農家の1戸当たりの生産規模は昔と同じで、コメの価格が国際価格と桁違いに高くなった。
農業経営をする意志の強い農業者に農地を集中させるなど、農地解放に匹敵する大改革をしなければ、日本の農地は荒れ地に変わってしまうだろう。

(2)TPP参加疑問派の言い分

*TPP「経済優先」見直そう(医師 男性 56歳 群馬県)
脱原発か否か、TPP参加か否か。論の対立構造に根深く存在するのは、経済を最優先するかどうかということだ。
原発再稼働をせず、さらに原発輸出の動きも鈍くなれば、日本経済の成長は困難になろうし、国民生活の快適度は後退するだろう。TPPに参加しなければ、輸出依存度の高い我が国の製造業は苦境に立たされ、経済が冷え込む可能性は大きい。しかし国民が最も必要とするものは、果たして経済成長なのか。
TPPに参加すれば、米国流の市場原理主義が我が国の農業や医療分野を席巻する可能性は否定できない。食料安全保障や環境保全といった公益的機能を持つ農業や、国民の生命・健康に直接関わる医療に市場原理はなじまない。先進国の中でも低い食料自給率をさらに減らし、その上、遺伝子組み換えかもしれない輸入食物に依存するような生活になってもよいのだろうか。米国のように貧富によって医療の差が生じることとなってもよいのか。
国民の中には、快適性・利便性ばかり追求する物質的に豊かな生活から決別してもよいと思っている人も多いのではないか。

*TPP、美しい農村守れない(大工・農業 男性 60歳 長野県)
野田首相が交渉参加を表明した記者会見などで「美しい農村を断固守り抜く」と発言していることに、強い違和感を覚える。
参加の理由は、総合的にみて国益になると説明している。しかしいくら貿易全体で黒字になっても、国内の人々の暮らしが壊れては仕方がない。
農業再生の基本方針では「規模の集約化や拡大」に向けての政策を重点目標としているが、大規模化に成功した基幹農家だけが残っても、荒廃する農地はいっそう増えるように思える。大規模農家は効率の良い農地のみを耕作して、耕作されない荒廃した農地が増えるのではないか。
日本の食糧は、中山間地で中小農家が作る農作物に支えられてきた。大きな災害や気候変動が地球規模で起きたら、日本への食糧援助をしてもらえるだろうか。暮らしの基本的な必需品は自給できる力を持っていたい。
TPP参加と「美しい農村」の保全は矛盾しているのではないか。

*TPP 交渉力の落差は歴然(無職 男性 60歳 千葉県)
私は15年前、業界団体の事務局に出向中で、日米協議に内実をつぶさに知る立場にいた。日本に根づく商習慣を非関税障壁と決めつける米国流の交渉術に閉口し、日本の弱腰外交に切歯扼腕(せっしやくわん)したものだ。
米国は、国際ルールより国益を優先し、堂々と内政干渉してくる国だ。今の米国の緊急課題は輸出拡大であり、それによる雇用の拡大だ。そんな状況で日本の参加は、まさに飛んで火にいる夏の虫。現在の日本の外交力をもってTPP交渉に参加したところで我が国益を確保する勝算があるとは思えない。不平等な条件をのまされるだろう。先に米国と自由貿易協定(FTA)を結んだ韓国でも懸念が広がっているではないか。
TPP問題の本質は、貧富の差の拡大を招く市場原理主義的米国型資本主義の是非にある。米国主導の資本主義では、何度も金融危機を繰り返し、格差社会を拡大することは明らかだ。この際、対米追従を脱し、日本独自の資本主義を構築し、むしろ新興国と米国の懸け橋として日本が存在感を出す道を模索すべき時である。

*TPP参加 国民の熟考必要(主婦 53歳 静岡県)
近頃とみに生の声が聞かれない野田首相。泥の中に潜り込んでしまったかと思いきや。ひょっこり世界の舞台上に顔を出し、国際社会にとっては聞こえの良い発言が目立つ。
まさかTPPでも国民が置き去りのまま、事実だけが進行していくのではないかと、私は近頃恐ろしく不安な毎日を送っている。拙速に参加すれば、必ず大きなひずみと後悔が生じよう。
自国の生き残りにかける米国のわなにかかり、都合良くなすがままに吸い尽くされてしまいそうな予感がしてならない。
米国は早く早くとせっつく。セールスマンが質の悪い商品を買わせようとする時、締め切りを設け、もう二度と手に入らないのだからと詰め寄るものだ。
若い世代の雇用はTPPで解決するのか。まず国民にきちんと情報開示し、熟考させてほしい。

*普通に暮らせる幸せな国に(介護支援専門員 女性 51歳 千葉県)
通信大学で社会福祉を学んでいる。ある先生は子どもたちに「福祉」とは、「ふ・つうの く・らしの し・あわせ」と教えているそうで、特に今年は、この言葉の意味を考えさせられた。
自殺者3万人、貧困率16%、非正規雇用で生活がやっとの人、生活保護受給者の増加など、利益優先で搾取され放りだされた人たちの現状だ。血税はずる賢いキツネのような人たちに奪い取られ、必要な庶民には回ってきていない。タイの洪水や世界情勢の変化など、企業の国外進出が安全とも思えない。それより経済界が見捨てた人たちを大切な消費者の一人と考え、自分たちの給料を減らしてでも正規雇用を増やし、国内消費を増やすほうが良いと思う。
TPPの外圧で、硬直化したシステムをガラガラポンすると考えるのは危ない。日本が他人のことを思いやれる「普通に暮らせる幸せな国」になってほしいと願う。

(3)安原の感想 ― 主張に厚みのある疑問派に軍配

TPP賛成派の主張の要点は以下のようである。
米作の農業はすでに壊滅状態にあり、それは手厚い補助金に守られ、経営改革を怠ってきたためではないか。だから農地の集約による経営規模の拡大が不可欠で、それによって競争力が強化され、コメの輸出も展望できる、と。

新聞投書にうかがえるTPP賛成派の視点は農業(注)に集中している印象がある。しかも経営規模の拡大こそが決め手で、それによって競争力の強化を目指し、工業分野と同じ発想で、輸出を増やそうという意識が強い。
(注)TPPの対象範囲は、農業に限らない。すべての物品の関税撤廃を原則としているほかに金融、保険、公共事業への自由な参入、さらに医療の規制緩和、労働者の移動の自由化なども含まれる。国民生活や社会を守る制度・仕組みは国によって異なるが、例えば日本の食品安全基準を「非関税障壁」として緩和・撤廃をめざすものである。これにはアメリカの農業大国としての地位を守るほか、アメリカ流国内基準を海外に強要しようという狙いがあり、アメリカ主導であることは明確である。TPPが実現すれば、日本の食糧自給率は、現在の40%から10%台へ低下するという農林水産省の試算もある。

一方、TPP疑問派の言い分の大要は次のようである。
・国民が最も必要とするものは、果たして経済成長なのか。国民の中には、快適性・利便性ばかり追求する物質的に豊かな生活から決別してもよいと思っている人も多い。
・TPP問題の本質は、貧富の差の拡大を招く市場原理主義的米国型資本主義の是非にある。米国主導の資本主義では、格差社会を拡大することは明らかだ。
・TPPの外圧で、硬直化したシステムをガラガラポンすると考えるのは危ない。日本が他人のことを思いやれる「普通に暮らせる幸せな国」になってほしい。

TPP賛成派の関心が農業批判にやや特化しているのに比べて、疑問派は多面的で厚みのある主張となっている。それは経済成長への批判であり、市場原理主義的米国型資本主義の是非であり、他人のことを思いやれる「普通に暮らせる幸せな国」への願望である。なぜこのように捉え方が大きく異なるのか。
察するにTPP賛成派が産業や貿易の次元で考えているのに対し、疑問派は経済や暮らしのあり方の根幹にかかわる問題として受け止めようとしているためではないか。言い換えれば疑問派は日本の経済に限らず、日本人の暮らしのあり方を変更して米国流の好みに合わせていいのか、という懸念から出発しているためだろう。私(安原)としては、この疑問派の視点に賛成であり、軍配を挙げたい。


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あの日米開戦から70年を迎えて
戦争を扇動した新聞メディアは今

安原和雄
 日米開戦(1941年12月8日)から70年を迎えた。日米開戦までに中国大陸では日本軍の侵攻が進んでおり、日米開戦で戦線は太平洋にまで広がった。その結末は数え切れないほどの犠牲を積み重ねて、敗戦に終わった。
 あの戦争を扇動した新聞メディアは今、どういう姿勢なのかに関心を向けないわけにはいかない。残念なことに自省の念に駆られるメディアとそのことに無関心なメディアとに分かれている。さらに日米関係は今では「犯すべからざる国体」のような存在になっているという説も有力であり、その呪縛からどう脱却を図っていくか、取り組むべき課題は尽きない。(2011年12月9日掲載。インターネット新聞「日刊ベリタ」、公共空間「ちきゅう座」に転載)

▽ 「仕方がない」と「責任の底が抜けた国策」

 あの日米開戦から70年を迎えて新聞は何を訴えているか。まず読売新聞(2011年12月8日付)のコラム「編集手帳」(大要)を紹介する。

 石垣りんさんに『雪崩(なだれ)のとき』という詩がある。「平和」を山に積もった雪にたとえている。「戦争」の雪崩を引き起こしたのは、谺(こだま)のように響いたある言葉だという◆〈“すべてがそうなってきたのだから/仕方がない”というひとつの言葉が/遠い嶺(みね)のあたりでころげ出すと/もう他(ほか)の雪をさそって/しかたがない、しかたがない/しかたがない…〉◆いったん転がりだしたら止まらない戦争のありようを詩人の比喩は伝えている。日米開戦からきょうで70年になる。当時の国力差をみれば、航空機の生産力は日本の6倍、鉄は20倍、石油は740倍――言葉の谺とは怖いものである。

 もう一つ、毎日新聞(12月8日付)の「70年前の鏡」と題するコラム「余録」(大要)は以下のようである。

 「周囲は真珠湾の勝利にざわめいていたが、彼は浮かぬ顔をしていた……『えらいことになった。僕は悲惨な敗北を予感する。こんな有り様はせいぜい2、3カ月だろう』と沈鬱な声で言った」▲彼とは近衛文麿、70年前のきょう真珠湾攻撃の日の細川護貞による記録である。近衛は日中戦争では「国民政府を対手とせず」と声明してその泥沼化をもたらし、日米交渉に努力したものの南部仏印進駐で米国の石油禁輸を招く。日本の運命を決定づけた人だった▲「財布に1000円しかないのに1万円の買い物をしようという日本と、100万円をもって1万円の買い物をするアメリカとの競争でしょう。たちまちだめです」。こちらは昭和の動乱の原点、満州事変を仕掛けた軍人・石原莞爾の日米開戦間もないころの断言だ▲国民の多くが緒戦の勝報に熱狂していた中、その戦争への道を踏み固めた張本人たちの破滅の予言だ▲責任の底が抜けた国策が国民の運命を狂わせるのは当時だけでない。こう聞けば今度の原発災害を思い浮かべる方もいよう。日本人が危機にのぞんで自らを映してみなければならぬ70年前の鏡だ。

<安原の感想>「仕方がない」も「責任の底が抜けた国策」も返上の時
コラムが指摘していることは「仕方がない」という多くの日本人の発想であり、一方「国策」を遂行する国家権力の無責任振りである。これは過去の物語ではなく、今なお続いている。特に戦争を積極的に扇動した新聞メディアの責任は大きい。当時は戦争を遂行した大本営(天皇に直属して陸海軍を統帥した最高機関で、1945年の敗戦まで存続した)に逆らうことはできなかったという事情があったとはいえ、戦争を煽った責任は免れない。米軍の空爆によって日本列島の主要都市は廃墟となり、しかも日本人だけで300万人を超える戦争犠牲者を出したのだ。中国を含めアジア諸国民に強(し)いた惨劇と苦痛は計り知れないほど甚大である。今なお自省の心が必要であるだろう。

 東京新聞社説(12月8日付)は次のように書いた。
 「真珠湾での戦果に国民挙げて喝采した。圧倒的な国力の差がありながら、戦争に導いた責任は当然、政治や軍にあろう。国民の戦意をあおり立てた言論機関も、あらためて自責の念を深くせねばならない」
 朝日新聞社説(12月7日付)は以下のように指摘している。
 「真珠湾はさまざまに総括されてきた。日本では、圧倒的に強い米国に無謀な戦争を挑んだ理由が問われた。軍部の暴走か、政治の混迷に原因があるのか。メディアが火に油を注いだ国民の熱狂のためか」と。

 東京新聞社説が「言論機関も、あらためて自責の念を深くしなければならない」と書いているのに比べると、朝日社説は「国民の熱狂」に重点を置いていて、自己反省は弱い。毎日新聞社説(12月7日付)は「日米開戦70年 ― 歴史から学ぶ政治を」と題して論じながら、メディアとしての反省に言及するところは皆無である。
 もちろん毎日新聞コラムが指摘しているように「無責任な国策」には原発推進とその果ての原発災害も含まれる。だから「仕方がない」も「責任の底が抜けた国策」も敗戦以来70年も続いてきたのであり、今こそ返上するときである。容易な選択とは言えないとしても、返上によってやっと「70年の戦後」が終わるのであり、新たな「再生日本」の始まりと考えたい。

▽ アメリカの呪縛から離れて<戦後>を見直す

 東京新聞社説は「平和は人類の最大テーマである。われわれに課せられるのは戦争体験を風化させず、平和を守る責務であろう。平和をどう保つかが今後、試される。(中略)新たな戦いに国民が快哉(かいさい)を叫ぶことがあってはならない」と。
 また東京新聞の投書欄「発言」(12月8日付)で田中喜美子さん(編集者 81歳)は次のように指摘している。
「日本の戦後はどこが正しくどこがおかしかったのか。アメリカの呪縛から離れて私たちは客観的に<戦後>を見直すべき時期にきているのではないか」と。
 これは重要な問題提起と受けとめたい。アメリカの呪縛から離れて<戦後>を見直す、とは、具体的に何を指しているのか。そのヒントを発見するために、東京新聞(12月8日付)の国際政治学者坂本義和さんとのインタビュー記事「3.11と日米開戦70年 ― 日本の針路」の要点を以下、紹介する。

・(責任を問わぬ集団について)日本人は上の人間が下の人間の責任を問うことはあっても、下の人間が上の人間の責任を問う文化がない。とにかくこうなっちゃった、ということであきらめてしまう。例えば福島第一原発事故でも「原子力ムラ」という言葉が使われている。ムラは集団だから事故が誰の責任なのか分からなくなる、また分からなくする。決定権をもつ者の責任を問わない民主主義はあり得ない。
・(戦後の日米関係について)日米関係といっても、米国は世界を見ていて、その一部として日本を扱っている。他方、日本は米国が世界であるように見る傾向がある。米国に依存せず、もっと自立するには自主外交が必要だ。(中略)占領時代からの惰性が続いている。日米関係が「犯すべからざる国体」がごときものになっている。
・(3.11後の日本の課題について)すべての原発を早急に稼働停止して、自然エネルギーの実用化に国を挙げて全力を投入し、原発の輸出は止めること。ヒロシマ・フクシマの国としての決意を世界に示し、先進的非核社会というモデルを創り出すべきだ。経済成長で格差をなくすという考え方は、必ず限界にぶつかる。生き方を変えなければいけない。物質的な生活水準は下がるかもしれないが、「みんなで連帯して生きる」という発想に切り替えなければいけない。

<安原の感想> 日米関係という「犯すべからざる国体」から脱却を
 戦後の日米関係が「犯すべからざる国体」同然の存在になっているという指摘は説得力がある。なぜそういう現実に多くの日本人は甘んじているのか。それは責任を問わぬ日本的集団のあり方と深く関わっている。たしかに「下の人間が上の人間の責任を問う文化がない」からだろう。これは上述の「仕方がない」というあきらめの発想と重なり合っている。
 しかし「3.11」の福島原発大惨事をきっかけに変化が生じてきたとは言えないか。毎日のように見られるデモの波がその具体例である。下から上に物申すという姿勢が列島上に広がりつつある。そのめざすものは、原発の稼働停止であり、自然エネルギーの実用化であり、原発輸出の中止である。それは「先進的非核社会」構想につながっていく性質のものだろう。経済成長主義への疑問も生じてきている。かつての「豊かさ」よりも「幸せ」を求める生き方への変化である。
 これらはいずれも大きな変化で、方向は正しいが、果たして「アメリカの呪縛から離れて<戦後>を見直す」ことにつながるのかどうか。私(安原)の理解では日米安保体制(アメリカの対外戦略に日本が従う軍事・経済同盟)からの離脱を展望することが、すなわち「アメリカの呪縛」から離れることを意味するはずだが、どうだろうか。いかえれば「犯すべからざる国体」という呪縛から脱却し、自由になることである。

 1935年(昭和10年)生まれの私などが戦争中の小学生の頃、「チャンコロ(中国人の蔑称)をやっつけろ」と叫んでいたことを今いささかの恥じらいとともに想起する。分別もないままの無邪気な子どもの心理状況と、対外侵略戦争(ベトナム戦争のほか、最近のアフガン、イラクへの米軍侵攻)推進の土台ともいうべき「日米安保体制」を昨今の一部の学者やメディアが「国際公共財」などとうそぶいて、免罪符を与える心理状況とは大差ないだろう。前者は無知に基づく幼さであったが、後者は確信犯らしいからむしろ罪深いと言わざるを得ない。

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「99%の反乱」集会のスピーチ
真の民主主義と非暴力が合い言葉

安原和雄
「ウオール街を占拠せよ」というあの「99%の反乱」はいまなおアメリカを中心に続いている。月刊誌『世界』が紹介しているニューヨークでの集会のスピーチはなかなかユニークである。いきなり「I LOVE YOU」(みなさんを愛している)で始まり、やがて「私たちは、この地球上で最も強力な経済的・政治的な力にケンカを吹っかけた」と言い放つ。
 しかしこのケンカは暴力の行使ではない。暴力とは正反対で、真の民主主義と非暴力が合い言葉になっている。ケンカの相手は、1980年代以降、貧困・格差・不公正・不平等を広げてきた悪しき新自由主義路線そのものである。このケンカには新しい時代の幕開けを予感させるものがある。(2011年12月3日掲載。公共空間「ちきゅう座」、インターネット新聞「日刊ベリタ」に転載)

 月刊誌『世界』(2011年12月号・岩波書店刊)は、あの「ウオール街を占拠せよ」集会でナオミ・クラインさん(ジャーナリスト、活動家)が行ったスピーチを掲載している。題して「世界で今いちばん重要なこと」。「占拠せよ」集会とその運動の特質を理解するのに有益なスピーチと評価できるので、その要旨を(1)(2)で紹介する。

▽ 世界で今いちばん重要なこと(1) ― 「みなさんを愛している」

 I LOVE YOU(みなさんを愛している)
 私がそう言ったのは、みなさんから「I LOVE YOU」と言い返してもらうためだけではない。人に言ってもらいたいと思うことを、人にも言いなさい、それももっと大きな声で、ということ。

 私が確信をもって言えることは、世の中の1%の人は危機を望んでいるということ。人々がパニックや絶望に陥り、どうしたらいいか誰にもわからない、その時こそ、彼らにとっては自分たちの望む企業優先の政策を強行するまさに絶好のチャンスとなる。教育や社会保障の民営化、公共サービスの削減、企業権力に対する最後の規制の撤廃。これが経済危機のただ中にある今、世界中で起きていることなのだ。
 この企みを阻止できるものがひとつだけある。幸いなことに、それはとても大きなもの ― 99%の人びとだ。その人びとが今まさに、街頭に繰り出し、「ノー」の声を上げている。「お前たちのつくった危機のツケは払わない」と。

 「ウオール街を占拠せよ」の運動と、1999年にシアトルで世界の注目を集めたいわゆる反グローバリズム運動との類似を指摘する人は少なくない。しかしこの二つには重要な違いもある。反グローバリズム運動の標的は、世界貿易機関(WTO)や国際通貨基金(IMF)、G8などの首脳会談で、それは性質上一時的なもので、1週間しか続かない。だから抗議運動もまた一時的なものにすぎない。
 これに対し、「ウオール街を占拠せよ」の標的は固定していて、すぐに消えるものではない。しかもこの運動に期限はない。このことはきわめて重要だ。

 水平的で、真に民主的であることは素晴らしいことだ。この原則は、今後襲ってくる嵐にも耐えられる頑丈な組織や制度を築いていくという大変な仕事とも両立する。
 もうひとつ、この運動の正しい点は非暴力に徹していること。ショーウインドーを壊したり、通りで乱闘を繰り広げたりといった、メディアが大喜びしそうなイメージをいっさい提供していないこと。

 けれども10年の年月を隔てたことによる最大の違いは、1999年に私たちが資本主義と対決したとき、世界経済は好景気の絶頂にあったということ。経済ブームをもたらした規制撤廃には大きな犠牲が払われていることを、私たちは指摘した。労働基準、環境基準は切り下げられ、企業の力が政府より強くなるに従い、民主主義も損なわれた。しかし率直に言って、景気のいいときに強欲に基づく経済システムと闘おうとしても、人びとを説得するのは困難だ。
 10年後の今、もはや豊かな国など地球上から消えてしまった。居るのは沢山の金持ちだけだ。公共の富を略奪し、世界中の自然資源を使い尽くすことによって豊かになった人びとだ。今や経済的な惨事と生態学的な惨事が次々と連続的に起きるのが常態になってしまった。

<安原の感想> 独り一人が変革の担い手 ― 真の民主主義と非暴力が合い言葉
 スピーチはいきなり「I LOVE YOU」で始まった。たしかにユニークといえる。どういう含意なのか。
 同じ『世界』に現地報告「私たちは99%」を書いた大竹秀子さん(豊かな多文化共生とメディアの役割を探る非営利組織「ジパング」代表、ニューヨーク在住)は、次のように指摘している。

 「占拠せよ」の運動には、人を根源に向かわせるものがある。貧困や格差を変えられないのは、それがあってはいけないことと感じられなくなっているからだ。社会を変え、民主主義をあるべき姿に戻すには、まず自分から変わらなければならない。自分が変わり、人を変える。その可能性を見るからこそ、ナオミ・クラインは「アイ・ラブ・ユー」で始まる呼びかけを行った、と。
 「自分が変わり、人を変える」という姿勢に注目したい。参加する独り一人が主役であり、変革の担い手だ、という含意でもあるだろう。しかも真の「水平的な民主主義」と「非暴力」が合い言葉である。
 非暴力は、単に「反戦=平和」を意味するだけではない。いのちを軽視し、奪うもの(人権・福祉の軽視、貧困、失業、交通事故死などの構造的暴力)すべてを拒否し、いのちを生かす政治、経済、社会を創っていくことと理解したい。

 もう一つの真の「水平的な民主主義」とはどういう含意なのか。既存の多数決民主主義とどう異質なのか。以下、大竹さんの解説を手がかりに触れておきたい。
・総会の決議は多数決方式を採らず、全員の賛成を原則とする。51人の賛成が49人の声を消していいとは考えない。
・お互いの差異を認めながら、連帯をうたう。連帯することで1%を圧倒できるという決意表明だ。
・悪者の1%以外は誰も排除しない、全員の平等を認める民主主義に基づいている。

▽ 世界で今いちばん重要なこと(2)― 「あなたのことを気遣っている」

 今回こそ、運動を成功させなければならない。私が言いたいのは、この社会の底に流れている価値観を変えなければならないということだ。まさにこの場所で実現されつつある。私がここで気に入ったプラカードは、「I CARE ABOUT YOU」(あなたのことを気遣っている)だ。互いの視線を避けることを教える文化、「あいつらなんか死んじまえ」と平気で言うような文化にあって、このスローガンは真の意味でラディカルなものだ。

 最後にいくつか言っておきたい。
 重要でないのは次のようなことだ。
・どんな服装をしているか
・拳を振り上げるのか、それともピースサインを作るのか
・より良い世界への夢を、メディアに乗りやすい短いスローガンにして語れるかどうか

 反対に重要なこともいくつかある。
・勇気をもつこと
・道徳的基準をもつこと
・お互いをどう受けとめ、どう接するか

 私たちは、この地球上で最も強力な経済的・政治的な力にいわばケンカを吹っかけたのだ。それは怖いことで、この運動がますます力を付けていけば怖さも増していく。運動の標的をもっと小さなものにしたくなる誘惑に負けないよう、注意を怠らないことだ。
 この運動ではお互いを今後長い年月をかけて共に闘っていく同志と考えようではないか。この素晴らしい運動を、世界でいちばん重要なことだと受けとめようではないか。

<安原の感想> 新自由主義路線の転換を ― 「怖い相手」に異議申し立て
 スピーチは「私たちは、最も強力な経済的・政治的な力にケンカを吹っかけた。それは怖いこと」という認識を披露した。「力のある怖い相手」とは、何者なのか。それは言うまでもなく99%からケンカを吹っかけられている1%の富裕層である。しかしただの大金持ちではない。

 同じ『世界』の座談会「ほんとうの危機はどこにあるか?」(出席者は相沢幸悦・埼玉大学教授、倉都康行・国際金融アナリスト、山口義行・立教大学教授)が「怖い相手」に触れている。それに関連する発言を以下に紹介する。
・アメリカの所得配分構造のゆがみが非常に分かりやすく出ているから、若者が異議を申し立てて騒ぎ始めた。
・アメリカは資産インフレによってごまかし、ごまかしやってきた。それがもう効かないのだから、やはりアメリカという国の体質が劇的に変わらないと、確実に没落する。
・アメリカ型経済モデルが転換点に来ている。
・アメリカは一方で失業者を出しながら、他方で大儲けしている連中がいるという非常に分かりやすい矛盾だ。
・その矛盾はいま起こったのではなく、実はこの100年を見ると、1920年代は現在と全く同じ1%の富裕層と99%の苦しい人たちという構造だ。その矛盾が1928~29年にピークに達して大恐慌が起こり、戦争を含めた変転のあげく、やっと格差が是正され始めたのが1950~60年代だ。1970年代まではかなり平準化が進んでいたのに、80年代からフリードマン主義に始まる逆流が起きて、いままたそれが絶頂期にきている。自律的にこの格差や矛盾を修正するメカニズムは、おそらくない。
・その核心の問題が再噴出して、それに気づいた人たちが社会運動を起こしている。

 この座談会で指摘されている「アメリカ型経済モデル」「フリードマン主義」とは、新自由主義路線(注)を指しており、それが「力のある怖い相手」の実像である。新自由主義は効率追求第一主義の下で弱肉強食、不公正、不平等、多様な格差拡大、自殺者・貧困層増大を構造化させ、1%と99%との対立・矛盾を激化させてきた。だからこの新自由主義路線を根本から転換・是正しない限り、99%の側からの異議申し立ては止むことはないだろう。
 (注)新自由主義とは、市場原理主義と「小さな政府」(福祉や教育にも市場原理の導入を図る)を徹底させようとする新保守主義のこと。主唱者は米シカゴ大学のM・フリードマン(1912~2006年、1976年ノーベル経済学賞受賞)。主として日米英で実施されてきた。日本では中曽根政権時代に始まり、小泉政権時代に顕著になった。現野田政権にも引き継がれている。その意味では自民党政権も民主党政権も本質は変わらない。

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