「もっともっと欲しい」の貪欲の経済から、「足るを知る」知足の経済へ。さらにいのちを尊重する「持続の経済」へ。日本は幸せをとりもどすことができるでしょうか、考え、提言し、みなさんと語り合いたいと思います。(京都・龍安寺の石庭)
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強まる「首都直下型大地震」の懸念
地下鉄依存症から自らを解放する時

安原和雄
今なお東日本大震災・原発惨事への対応策が最大の焦点であることはいうまでもない。しかしあえて考えてみたい。首都直下型大地震発生の懸念が強まっており、それへの備えは大丈夫といえるのか、と。万一の場合、首都壊滅さらに犠牲者も数知れず、の事態に襲われる可能性もあるのだ。首都圏の皆さん、すこしのんびりしてはいないだろうか。
心配の根拠のない「杞憂」に終われば、有り難いが、どうもそうではないらしい。ではどう備えるか。といっても秘策があるわけではない。いのちを惜しむのであれば、便利な地下鉄への依存症から自らを解放することくらいしか知恵は浮かばない。(2011年8月22日掲載。公共空間「ちきゅう座」、インターネット新聞「日刊ベリタ」に転載)

▽ 首都圏直下型大地震の確率は70%

毎日新聞8月10日付夕刊(東京版)は、<「首都直下」強まる懸念>という見出しで次のような記事を掲載した。その要旨は以下のとおり。

東日本大震災(マグニチュード=M=9.0の巨大地震)は東日本の地殻にかかる力を変え、首都圏を含む一部の地域や活断層で地震を起こしやすい状態が続いている。専門家が懸念するのは、阪神大震災(M7.3)以上の被害が想定される首都直下型地震への影響だ。発生の可能性はどの程度高まっているのか。
中央防災会議は、東京近郊を震源とする首都直下地震について、M7級の18の地震を想定している。なかでも東京湾北部地震(M7.3)では、最悪のケーで死者1万1000人、全壊全焼の建物は85万棟と想定。関東大震災(1923年、M7.9)のようなM8級の地震より規模は小さいが、大きな被害が想定されている。
元来首都圏の地下構造は北米、フィリピン海、太平洋の3枚のプレート(岩板)が重なる地震の巣だ。地震調査委が大震災以前から公表しているM7級の直下型地震が、今後30年間に起きる確率は70%と十分に高い、と。

さらに毎日新聞同月12日付朝刊(東京版)は、<帰宅困難 対策が急務 「路上、満員電車並み」>の見出しで以下のような想定記事を載せている。この記事の要点は、直下型大地震で交通機関が途絶し、職場や買い物先から自宅に戻れなくなる「帰宅困難者」はどの程度の規模になるのか、である。

中央防災会議の想定によると、帰宅困難者は次の規模となっている。
*首都直下型地震(M7.3)では首都圏4都県で約650万人
*大阪の上町断層帯の地震(M7.6)では近畿2府4県で約200万人
*愛知の猿投(さなげ) ― 高浜断層帯の地震(M7.6)では東海3県で約96万人
三菱総研は「路上が満員電車並みの状態になる」と指摘している。

以上のように首都直下型大地震に見舞われる確率はこの30年間で70%というのだから、明日大地震に襲われるとしても不思議とはいえない。しかも最悪のケースで死者1万1000人という想定だから、決して他人事ではない。自分自身がその犠牲者の一人になる可能性はある。

▽ 外出時に首都直下型大地震に備えて、どうするか

ここでは問題を絞って考えてみたい。それは、<わたし自身>あるいは<あなた様>が外出時に見舞われるかもしれない直下型大地震に備えて、どうするかである。
<運を天に任(まか)せる>のも「無策の策」として有力といえるが、対策がないわけではない。あの「3.11」大震災のとき、私の友人の一人がたまたま首都圏地下鉄に乗っていて、地下鉄内に8時間も閉じこめられるという想定外の難儀に遭った。もちろん友人だけでなく沢山の乗客が不運にも地下で長時間自由を奪われたわけで、この事実はメディアもあまり伝えていない。
首都圏では地下鉄が縦横に走っている。それだけに首都直下型に襲われた場合、地下に閉じこめられたままで、脱出できないことになれば、犠牲者がどの程度の規模になるのか、予測がつかない。数知れないという大惨事につながることにもなりかねない。

この惨事に巻き込まれないための選択肢は果たしてあるのか。あることはあるが、限られている。それは交通機関の選択で、いのちを惜しむのであれば、地下鉄の利用をできるだけ控えることである。地下鉄以外ではJR線を利用するのが上策である。
日頃バス、自家用乗用車の利用者も多いが、万一の時は道路の大混雑、沿道のビル倒壊などで、立ち往生するほかなくなる。東日本大震災ではクルマに頼った人が津波に巻き込まれ、どれだけ多くの人が犠牲になったかを想起したい。
最後の頼りになるのは、自分の脚である。徒歩で自宅を目指すほかに手段はないから、日頃脚を鍛えておくことである。

▽ 便利重視の地下鉄依存症から閉じこめられる危険の少ないJRへ

さて万一に備えて、日頃地下鉄の利用を避けるためにはどうすればよいか。わたし自身はこれまでは拙宅近くの北千住駅(東京・足立区)を経て地下鉄で都心に向かっていたが、地下鉄を利用しないで、都心に行くコースに変更する。例えば東京駅周辺に行く場合、北千住駅で常磐線に乗り換え、終点の上野で山手線あるいは京浜東北線に乗って、東京駅まで行くコースである。早速実行してみた。
時刻は午後2時過ぎで、北千住駅の常磐線ホームに降りてみると、次の電車は何と20分後である。電力節約のため、いくつか間引き運転しているからである。時間つぶしのため駅構内の売店に立ち寄った。日刊ゲンダイ(8月19日付)の次のような見出しが目に飛び込んできた。関心をかき立てるような紙面で、早速一部買い求めた。

政治劣化を招いた怪しい集団
民主党現役幹部の多くを輩出した「松下政経塾」の本当の正体を知りたい
ポスト菅が彼らなら国は戦前回帰
民主党の中に松下政経塾党という別の党がある
頭でっかちの政治オンチばかり

以上の見出しが派手に並んで、野田財務相の大きな顔写真をあしらい、以下のような解説記事がついている。
松下政経塾が、にわかに注目を集めている。目下、ポスト菅の本命とかいわれる野田財務相が政経塾の一期生で、もし野田首相が誕生すれば、政経塾初の総理大臣となるからだ。
彼らの生活体験や思想は自民党より右側に位置しているのに、選挙の当選を狙って左派の多い民主党に乗り込んで、政権交代実現後の政治をゴチャゴチャに混乱させている、と。

以上の趣旨を目で追っているうちに常磐線電車が滑り込んできた。実はこの種の新聞はこれまで手にしたことはなかった。読んでみると、おもしろい。20分も電車を待たされたお陰であり、ご縁といえるかも知れない。

北千住駅から東京駅までの所要時間は、北千住駅での待ち時間を除くと、30分足らずである。これに比べると、地下鉄利用の方が少し時間短縮できるかも知れないし、便利なのだろう。現役のサラリーマンにとっては少しでも早く、という心理が働くことは否めない。しかし後期高齢者の我が身にとっては時間よりも安心・安全感が大切である。従来の地下鉄依存症から自らを解放し、万一の時、閉じこめられる危険の少ないJR線の利用になじむ必要があると思案している。

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なぜ原発ゼロを主張しないのか
終戦記念日の新聞社説に物申す

安原和雄
今年(2011年)の終戦記念日は昨年までとは性格を異にしている。いうまでもなく「3.11」(東日本大震災と原発惨事)という、戦後史上未経験の新事態の発生が背景にある。あるメディアは社説で提案している。「戦後は終わった。震災後という新しい時代の始まりだ。戦後復興と同じように、震災復興を通じ新しい日本を創ろう」と。
この提言には賛成であり、その基本は<脱原発=原発ゼロ>だと考える。しかし新聞社説は肝心の脱原発=原発ゼロに背を向けている。なぜなのか。これでは「新しい日本を創る」という歴史的事業もお題目に終わりかねない。新聞社説に物申すほかない。(2011年8月15日掲載。公共空間「ちきゅう座」、インターネット新聞「日刊ベリタ」に転載)

▽ 終戦記念日の新聞社説は何を論じたか

戦後66回目の終戦記念日(2011年8月15日)の大手紙の社説は何を書いたか。まず社説の見出しを紹介する。8月15日は新聞休刊日のため、社説は前日の14日付となっている。

*朝日新聞=終戦に思う 今、民主主義を鍛え直す
*毎日新聞=大震災と終戦記念日 「ふるさと復興」総力で
*東京新聞=終戦の日に臨み考える 新たな「災後」の生と死
*日本経済新聞=8.15 を思い、3.11後の日本を考える
*読売新聞=戦後66年 政治の「脱貧困」をめざせ

終戦記念日の新聞社説を読みながら、思うことは新聞は果たしてどこまで真実を伝えているのかである。真実を精一杯努力して報道しようとしないメディアに存在価値がないことはいまさら指摘するまでもない。
朝日新聞社説は末尾に次のように書いている。
「健全で利害から独立したジャーナリズムが果たすべき責任と役割は重い。情報を官僚らに独占、操作させず、生命や資産が脅かされる可能性のある人全員が共有する。失敗の歴史を忘却せず使命を果たしてゆきたい」と。

以上のような「ジャーナリズムの責任と役割」に言及しているのは、上記の5紙のうち朝日新聞だけである。そのことは評価したいが、いささかしっくりこないのは、次の指摘である。
「情報を・・・生命や資産が脅かされる可能性のある人全員が共有する」とここに「資産」が登場してくることだ。これは何を意味するのか。ジャーナリズムの仕事は、真実の追求よりも国民の資産の保全が仕事の一つだと言いたいのか。いうまでもなく日本国憲法29条は「財産権の保障」を定めている。だからといって「資産」に目配りを利かせることがジャーナリズムの重要な仕事といえるだろうか。
もう一つ、指摘すれば最近の新聞メディアには日本国憲法が保障する基本的人権、平和、非武装をややもすれば軽んじる傾向がある。メディアの多くは国家権力が憲法本来のこれら理念を空洞化させてきた戦後史を追認してきたのだ。これでは「ジャーナリズムの責任と役割」を事実上放棄してきたとはいえないか。

▽ 戦後は終わり、震災後という新しい時代の始まり

今年の終戦記念日の社説の特色は、昨年までと違って東日本大震災、原発事故にも言及していることである。

日本経済新聞社説は次のように指摘している。
「戦後は終わった。震災後という新しい時代の始まりである。ここを日本再生の転機と、とらえたい。戦後復興と同じように、震災復興を通じ新しい日本を創るという目標をかかげよう」と。この提言には基本的に賛同できる。さて問題は「新しい日本を創る」というその目標は何か、である。

*日経新聞社説は「成長と連帯」
日経社説は「成長と連帯」を挙げている。連帯、すなわち人々相互の絆は「新しい日本を創る」ためのエネルギーの源泉となるものであり、重要である。この連帯、絆を欠いていては「創る」ことは夢物語でしかないだろう。
一方、成長はどうか。経済中心の新聞らしく日経は今なお成長(=経済成長)に執着している。しかし経済成長とは、経済の量的拡大を意味するにとどまる。21世紀の今日の課題は、経済の質的改善(自然環境の保全、生活の質的向上、格差の是正、貧困の解決など)である。経済成長を目標に掲げることは、人間でいえば、成人になってもなお、体重が増え続けることを目指すに等しく、健康を損ねるという負の効果しか期待できない。

*毎日新聞社説は「ふるさと復興」
毎日新聞社説は「ふるさと復興」を掲げている。以下、その骨子を紹介しよう。
震災後、「ふるさと」という言葉が人々の心をつかんでいる。「生まれ育った土地」だけではない。自然や街、なじんだ顔、取り戻したい大切なものといった意味を込めて。
戦後の高度成長の陰でともすれば軽んじられてきたもの。市場価値では測れないが人生に欠かせないもの。それらが「ふるさと」という言葉に凝縮されているようだ。人のつながりを示す「絆」にも通じる。
今の日本の緊急の課題は、被災地の人々の「ふるさと」を取り戻すことだ。「ふるさと」を奪われた人々を支え続ける。そのために知恵と力を結集させなければならない。(中略)敗戦後の時代は「戦後」とくくられるが、この大災害が次の時代への転換をもたらすかもしれない。「ふるさと」の再発見も一つの要素になりうるだろう、と。

毎日社説は「ふるさと」で何をイメージしているのか。次の指摘に着目したい。
<戦後の高度成長の陰でともすれば軽んじられてきたもの。市場価値では測れないが人生に欠かせないもの。それらが「ふるさと」という言葉に凝縮されている>と。
これは市場価値、すなわちお金で買える商品・サービスとは異質の非市場価値 ― お金では買えないが、大切な価値で、その一つの具体例が絆 ― を重視しようという姿勢で、高度成長時代以来はびこってきた金銭万能主義からの転換を促す提案といえる。

*東京新聞社説は「心の復興」
東京新聞社説は、なかなかユニークである。次のように「心の復興」を唱えている。
目に見えない放射能との闘いは原発事故が長引くにつれ社会に疲労感を広げている。東日本大震災の影響で、東海、東南海など他の大地震が起きる可能性が高まったともいわれることもあって、一種の無常感さえ漂ってきた。(中略)震災と放射性物質の拡散は、ふだん人々が忘れている死を身近なものに感じさせた。しかし無力感や虚無感にとらわれることこそ、今は排すべきだ。
幕末の思想家、吉田松陰(注・安原)は二十九歳の若さで処刑された。処刑の前日、人間の寿命には長短があるが、「それにふさわしい四季がある」と述べ、明日死ぬわが身にも「四季はすでに備わっており、花を咲かせ実をつけているはずだ」(「留魂録」講談社学術文庫)と書きのこした。
生ある限り、自らの四季を豊かにする努力を惜しまない。それこそが新たな「災後」に、まず心の復興を成し遂げる一歩となるのではないか。
(注)吉田松陰(1830~1859年)は尊皇論者の長州藩士。萩(現在の山口県萩市)に松下村塾を開き、高杉晋作、伊藤博文ら多くの明治維新功労者を育てた。

以上のように3紙は「震災後の新しい日本を創る」ためのキーワードとして「連帯」(日経)、「ふるさと復興」(毎日)、「心の復興」(東京)を提案している。
3紙に比べると、読売社説は<日本の「政治の漂流」ばかりが際立っている>と指摘し、政治の現状批判に重点がある。さらに日米戦争中の軍指導部の失敗事例を引きながら、<「責任回避の楽園」の愚を繰り返しではなるまい>と強調している。この「責任回避の楽園」は戦後も続いている。特に原発を推進してきた「原発推進複合体」(その構成メンバーは東京電力など電力会社を中心とする政官財のほか、学者、メディアなどからなる。別名「原子力村」ともいう)は、その責任回避ぶりが顕著であるが、読売社説には責任回避への批判はうかがえない。まして「新しい日本を創る」ための積極的な前向きの提案はない。

▽ なぜ<脱原発=原発ゼロ>に触れないのか

朝日社説は福島第一原発の事故について次のように書いている。
原子力村の自己過信が招いた物語でなかったか。世界有数の地震国。大津波も襲う大地に54基もの原発を造った。さらに2030年までに14基以上増やし、総電力中の原子力を5割以上にする計画を立てていた。原発依存の過剰さが放置、容認されてきた。経済産業省や電力会社は、地震国の真実に目を塞いだ。都合のいい情報は伝えるが、不利なデータは隠す。さらにやらせ質問で世論を誘導。ウソを重ねた軍部の「大本営発表」顔負けだ、と。

以上の指摘は正しい。論理の道筋として、「だから敗戦後、軍部を解体したように、脱原発=原発ゼロ(注)を」と主張するのかと思えば、「でも原子力村だけの責任か」と話が逸れていく。
(注)脱原発=原発ゼロについて誤解がある。直ちに原発をゼロにするという意味ではない。脱原発(議会で承認済み)の先頭を走っているドイツも完全な脱原発は10年後の2022年である。

原発事故の真因として朝日社説は「原子力について民主的な熟議を怠ってきた」ことを挙げている。しかし「民主的な熟議」を抑えたのは、ほかならぬ原子力村の面々ではないか。朝日の社説自身、「やらせ質問で世論を誘導」(上述)と書いているではないか。
さらに朝日社説は<「閉鎖的な専門家システム」と「大半の国民の無関心」という「共犯関係」>を挙げている。積極的に反原発を唱えなかった「無関心な国民」はここではなんと共犯、すなわち犯罪者として認識されている。

しかしこの「国民の無関心」という指摘は事実に反するのではないか。以前から原発への根強い批判があったにもかかわらず、カネ(公金)をばらまきながら、それを封じ込めてきたのは原発推進派が陣取る「原子力村」である。注目すべきことに「3.11」後、「国民の無関心」に大きな変化が現れている。朝日新聞の世論調査では、段階的廃止への賛成が77%にものぼっているのだ。「無関心」どころか国民は「大いなる関心」を抱くに至っている。なぜ朝日社説はこのような変化に着目しないのか。これでは公正な報道とはいえないだろう。

朝日社説に限らない。5紙の社説を丁寧に読んでみたつもりだが、原発の問題を取り上げながら、今後の方向として脱原発=原発ゼロに触れている社説はゼロである。なぜなのか。震災復興の鍵は脱原発=原発ゼロが基本ではないのか。
すでに指摘したように「震災後の新しい日本を創る」ためのキーワードとして「連帯」(日経)、「ふるさと復興」(毎日)、「心の復興」(東京)が挙げられている。これらの提案は内部に原発を抱えていては、それこそ見果てぬ夢物語に終わるほかないと想うが、いかがだろうか。

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核廃絶・脱原発実現はいつの日か
広島・長崎の平和宣言を読み解く

安原和雄
広島、長崎の「原爆の日」は今年もめぐってきて、悲しみを新たにした。その悲しみは例年になく大きく広がった。その元凶は「3.11」の東日本大震災と福島原発惨事である。核兵器と原子力発電は核エネルギーとしてつながっている。だから核廃絶と脱原発も根っこは共通しており、そのキーワードは「核と人類は共存できない」である。
 核廃絶と脱原発が実現するのは果たしていつの日なのか。追求すべき目標は明確だが、実現の道程は単純ではない。広島・長崎の平和宣言を読み解くと、見えてくるものは何か。特に脱原発ではためらいもあり、原発の安全神話からの脱却も容易ではない。しかしそれでもなお脱原発を求めなければならない。(2011年8月9日掲載。インターネット新聞「日刊ベリタ」、公共空間「ちきゅう座」に転載)

▽ 広島平和宣言が訴えたこと ― 「核と人類は共存できない」

 2011年(平成23年)8月6日の「原爆の日」、松井一実・広島市長が行った広島平和宣言は従来とは異色である。「3.11」の東日本大震災と福島原発惨事の発生が昨年までと違って、「原爆の日」を一変させた。つまり従来の核兵器廃絶にとどまらず、脱原発をも視野に収めなければならない。そのキーワードは「核と人類は共存できない」である。宣言の中で原発事故に触れている部分の要点は以下の通り。 

 今年3月11日に東日本大震災が発生した。その惨状は、66年前の広島の姿を彷彿(ほうふつ)させるものであり、とても心を痛めている。広島は、一日も早い復興を願い、被災地の皆さんを応援している。

 また、東京電力福島第一原子力発電所の事故も起こり、今なお続いている放射線の脅威は、被災者をはじめ多くの人々を不安に陥れ、原子力発電に対する国民の信頼を根底から崩してしまった。そして、「核と人類は共存できない」との思いから脱原発を主張する人々、あるいは、原子力管理の一層の厳格化とともに、再生可能エネルギーの活用を訴える人々がいる。

 私たちは、「原爆は二度とごめんだ」、「こんな思いをほかの誰にもさせてはならない」という思いを新たにし、核兵器廃絶と世界恒久平和の実現に全力を尽くすことを、ここに誓う。
 
<安原の感想> 「脱核」への市長の願いが伝わってこない
 広島平和宣言の中で気になるのは次の表現である。
 <「核と人類は共存できない」との思いから脱原発を主張する人々、あるいは、原子力管理の一層の厳格化とともに、再生可能エネルギーの活用を訴える人々がいる>と。
 この宣言からは広島市民を代表する広島市長としての願いは伝わってこない。<「核と人類は共存できない」のだから核兵器廃絶と脱原発をめざしたい>となぜ言い切れないのか。なぜ「脱原発を主張する人々」といかにも他人事のように客観性をもたせるような表現になるのか。世論調査によると、約7割の人々が脱原発へ意識変化を遂げている。
 なぜ「原子力管理の一層の厳格化とともに・・・」と脱原発に曖昧で、原発推進を容認するかのような表現になるのか。核兵器と原発は同じ核エネルギーであり、異質の別物ではない。「脱核」の視点でつながっているのであり、広島市長の平和宣言としてはいささか物足りない。

▽ 長崎平和宣言が訴えたこと ― 安全神話をいつの間にか信じていた

 田上富久・長崎市長が8月9日行った長崎平和宣言のうち、原発事故に関連する部分を紹介する。その要点は「安全神話をいつの間にか信じていた」である。

 今年3月、東日本大震災に続く東京電力福島第一原子力発電所の事故に、私たちは愕然(がくぜん)とした。爆発によりむきだしになった原子炉。周辺の町に住民の姿はない。放射線を逃れて避難した人々が、いつになったら帰ることができるのかもわからない。

 「ノーモア・ヒバクシャ」を訴えてきた被爆国の私たちが、どうして再び放射線の恐怖に脅(おび)えることになってしまったのか。
 自然への畏(おそ)れを忘れていなかったか、人間の制御力を過信していなかったか、未来への責任から目をそらしていなかったか、私たちはこれからどんな社会をつくろうとしているのか、根底から議論をし、選択をする時がきている。

 たとえ長期間を要するとしても、より安全なエネルギーを基盤にする社会への転換を図るために、原子力にかわる再生可能エネルギーの開発を進めることが必要である。

 福島の原発事故が起きるまで、多くの人たちが原子力発電所の安全神話をいつのまにか信じていた。
 世界に2万発以上ある核兵器はどうか。核兵器の抑止力により世界は安全だと信じていないか。核兵器が使われることはないと思い込んでいないだろうか。1か所の原発の事故による放射線が社会にこれほど大きな混乱をひきおこしている今、核兵器で人びとを攻撃することが、いかに非人道的なことか、私たちははっきりと理解できるはずである。

<安原の感想> いまこそ安全神話を克服するとき
 ここでは<被爆地こそ「脱原発」発信を>という大見出しつきの毎日新聞(8月9日付)・記者の目(長崎支局/下原知広記者)を紹介する。その趣旨は以下の通り。

 田上市長は平和宣言で「原子力にかわる再生可能なエネルギー開発の必要性」を訴えるが、(中略)脱原発の文言を避けた。その歯切れの悪さは、原発依存にどっぷりつかってしまった日本の現実を示している気がしてならない。
「どのような社会を創っていくのか国民的議論が必要だ」。5月10日、今春の統一地方選で初当選した松井一実・広島市長の表敬訪問を受けた後の会見で、田上市長はそう述べた。世界に核兵器廃絶と放射線の脅威を訴えてきた市長の言葉としては歯切れの悪さが目立った。このとき「政府に脱原発を含めてエネルギー政策の転換を求めたい」と話していた松井市長も、6日の広島平和宣言で「脱原発」には踏み込まなかった。

 以上の「記者の目」が指摘するように両市長ともに「脱原発」を唱えることに明らかにためらっている。その背景に何があるのか。田上市長の「安全神話をいつの間にか信じていた」という状況認識は正しい。いまこそその安全神話を克服するときだが、田上市長自身、いまなお安全神話に囚われの身になっているのだろうか。

▽ ユニークな「2011年 みんなの平和宣言」

 「2011年 みんなの平和宣言」を紹介する。これは原子力資料情報室の共同代表・伴英幸さん発信のメールによるもので、なかなかユニークである。その全文は次の通り。これには賛同のメールが多数寄せられている。

66年前の今日、1発の原子爆弾が広島を焼き尽くした。
そして今、福島の4基の原子炉から漏れ出た放射能がふるさとの野や山に降り注ぎ、世界につながる川や海に流れ込んでいる。

「核と人類は共存できない」
あの地獄を生き延びた人間の叫びが「核抑止」と「核の平和利用」の言葉でかき消され、 声を奪われたヒバクシャを世界各地にうみだしている。

「過ちは 繰り返しませぬから」
平和公園の碑に刻まれた主語のない誓いは、核による「平和と繁栄」を国策にすることを許し、私たちは「放射能汚染」の加害側にたっている。

地球の恵みの中で私たちは育った。
そして科学と合理性の名の下に地球をむさぼり、進歩のためにと競い合った。

歩んできた道を振り返り、被爆地ヒロシマから私たちは宣言する。
地球を汚し、命を奪い、人間を破壊する核/原子力を私たちは拒否する。
暴力に仕える科学や法を、弱いものを犠牲とする文明を私たちは拒否する。
私たちは今ここから、地球のすべての生命が、共に在る未来に向かい、歩き始める。

2011年8月6日
原発・核兵器なしで暮らしたい人々
<問い合わせ>yuasa.masae@gmail.com

<安原の感想> 「地球のすべての生命」との堅い絆
 原文は「ます」調だが、上述の文体に変更したことを断っておきたい。さてこういうスタイルの平和宣言は昨年まではなかったように思う。「3.11」の大惨事が歴史的な意識変化を促したともいえるのではないか。
特に注目したいのは、末尾の「地球のすべての生命が、共に在る未来に向かい、歩き始める」である。直接の被害者に限定しないで「地球のすべての生命」として「核/原子力を拒否する」という視点が貴重である。その含意は、原爆/原発の被害者と「地球のすべての生命」とは堅い絆で結ばれ、連帯できるという認識であり、期待であるだろう。

 もう一つ、広島平和宣言、さらにこの「みんなの平和宣言」にも登場してくる「核と人類は共存できない」 ― この含蓄に富んだ名言は、「自らも被爆し、核兵器廃絶と被爆者擁護に半生をささげた故森滝市郎・広島大名誉教授が語った」ものだ(東京新聞8月7日付社説)。今では「核廃絶と脱原発」の意味で広範囲に認識されつつある。地球全体の認識として一日も早く定着することを願いたい。

ただこの平和宣言にあえて注文をつければ、なぜ「広島」に限定して、「長崎」に言及しないのか。冒頭の「66年前の今日、1発の原子爆弾が広島を焼き尽くした」に続いてつぎの趣旨の文言を加えれば、それで十分ではないか。
「その3日後、2発目の原爆が長崎に大惨事をもたらした」と。

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3.11後の望ましい「平成の変革」
神田明神で開かれた神儒仏講演会
      
安原 和雄
 「3.11」(東日本大震災、原発惨事)は、日本の近現代史上、何を意味しているのか。 大づかみに言えば、<明治維新>、<敗戦後の戦後改革>に次ぐ第三の <「3.11」後の平成の変革>を促して止まない。
 「平成の変革」とは、敗戦後の政治、外交、経済路線の質的変革であり、具体的には脱「原発」、脱「日米安保体制」、脱「経済成長主義」、脱「グローバリズム」さらに脱「私利私欲」型企業の実践にほかならない。この変革のありようを仏教経済学の視点(八つのキーワード=いのち尊重、知足、簡素、非暴力(=平和)、共生、利他、持続性、多様性)で考え、提案したい。(2011年8月1日掲載。公共空間「ちきゅう座」、インターネット新聞「日刊ベリタ」に転載)

講演会としては異色の「神儒仏合同講演会」が7月30日、神田祭で知られる神田明神(東京・千代田区外神田)の祭務所ホールで開かれた。講演者は、神道=藤井隆太・神田明神氏子総代/(株)龍角散社長=テーマ「生命関連企業の責任とセルフメディケーションについて」、仏教=安原和雄・足利工業大学名誉教授/仏教経済フォ-ラム副会長=テーマ「日本再生と企業倫理」、儒学=瀬口龍一・(公財)斯文会顧問/日立建機(株)名誉相談役=テーマ「孔孟に学ぶ企業倫理」の3人。
 吉津宜英・駒澤大学仏教学部教授/仏教経済研究所所長が講演の総括的な論評を行った。さらに奈良康明・東方研究会常務理事、大鳥居信史・神田明神宮司、前田専學・東方研究会理事長らが挨拶した。聴衆は約150名を数えた。

 以下、私(安原)の講演「日本再生と企業倫理」(要旨)を紹介する。

(1)日本の近現代史上、<第三の変革>という「巨大な質的変革」に直面

 <明治維新>後が目指したものは、富国強兵と対外侵略戦争。その悲劇的な結末がヒロシマ、ナガサキへの原爆投下、300万人を超える戦争犠牲者を出した上での敗戦であった。
 <敗戦後の戦後改革>は平和憲法による非武装、基本的人権・生存権の保障などを柱に始まった。しかしやがて日米安保体制、軍事化、原子力発電推進、経済成長主義、グローバリズム、企業の国際競争力の強化路線、さらに1990年代以降、市場原理主義による貧困と格差拡大が主流となっていく。平和憲法の望ましい理念は骨抜きとなった。
 そこへ「3.11」(2011年)東日本大震災と福島原発大惨事の衝撃が走り、日本列島にとどまらず、世界中を揺さぶっている。このため<第三の平成の変革>、つまりそれまで日本の外交、政治、経済、企業のあり方を律してきた枠組みが根本から見直しを迫られている。日本列島全体が大きな歴史的変化の波に洗われている、といえる。

(2)仏教経済学的視点― 八つのキーワード

 <第三の平成の変革>をどういう視点で進めるか。仏教経済学の視点を重視したい。私(安原)の唱える仏教経済学は、大学の経済学部で通常教えられている現代経済学とは異質で、以下のような「いのち尊重」など八つのキーワードを特質としている。かっこ内が現代経済学の特質

*いのち尊重=人間は自然の一員(いのち無視=自然を征服・支配・破壊)
(補足)現代経済学は、戦争や原発暴走でいのちが失われることには無関心。現代経済学者の一人、ケインズ(英国・1883~1946年)は「戦争も富の増進に役立つ」と指摘している。

*知足=欲望の自制、「これで十分」(貪欲=欲望に執着、「まだ足りない」)
*簡素=美、節約、質素(浪費=無駄、虚飾、華美)
*非暴力=平和。反戦、環境保全なども(暴力=戦争に限らず交通事故死などを含む多様な暴力も容認)
 (補足)「戦争反対、平和を!」と唱えるだけでは視野が狭い。一方、年間の交通事故死者は約5000人で負傷者は100万人を超えている。こういう事実を認識していない人が意外に多い。クルマを「持たない、乗らない」を原則としている私は「いのちに無関心な気楽な人たち」と感じる。

*共生=いのちの相互依存(孤立=いのちの分断、孤独)
*利他=慈悲、自利利他円満、「世のため、人のため」の行動(私利=利己主義、自分勝手)
*持続性=持続可能な「発展」(非持続性=持続不可能な「成長」)
*多様性=自然・生物と人間・地域・国の多様性、個性の尊重、寛容の精神(画一性=個性無視、非寛容)

(3)第三の<平成の変革> ― 日本国憲法(平和憲法)本来の理念の活用、すなわち「日本の再生」を意味する。

 なおここでの「再生」とは、「心を改めて正しい生活、道に入ること」という意。だから元の状態に帰ることを重視する「復旧」、「復興」とは異なる。ただし被災地での復旧、復興が必要であることはいうまでもない。

<平和憲法本来の理念>とは
*前文の平和生存権=われらは、全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から免れ、平和のうちに生存する権利を有することを確認する。
*9条=戦争の放棄、軍備及び交戦権の否認(=非武装・日本)
*13条=個人の尊重、生命・自由・幸福追求の権利の尊重
*25条=生存権、国の生存権保障義務
*27条=労働の権利・義務

 平成の変革について― 仏教経済学の視点(八つのキーワード)から考えると、何が見てくるか。
 平成の変革として次の5本柱の「脱」路線を挙げたい。
イ)脱「原子力発電」=太陽光・熱、風力、小型水力など再生可能な自然エネルギーへ
ロ)脱「日米安保体制」= 現行の日米安保条約から日米平和友好条約へ転換
ハ)脱「経済成長主義」=「豊かさ」から「幸せ」への転換
ニ)脱「グローバリズム」=「ローカリズム」のすすめ
ホ)脱「私利私欲」型企業=「社会的責任」型企業へ

 「脱」路線とそれが目指す方向の具体策は以下のとおり。同時に仏教経済学の八つのキーワードのうち関連するキーワードを挙げる。

イ)脱「原子力発電」=太陽光・熱、風力、小型水力など再生可能な自然エネルギーへ=いのち、知足、簡素、非暴力、共生、持続性、多様性

メルケルドイツ首相は議会演説で「福島が私を変えた」と言った。なぜ日本の政治家にそういうセリフが言えないのか。日本の菅首相は「脱原発」を明言したかと思うと、「私の個人的見解」と釈明したりする。最近は「減原発」などと言い始めている。

*脱「原発」とは何を意味するのか?
 今日、明日にも直ちに原発を廃止するという意味ではない。脱「原発」の最先端を走っているドイツにしても現在17基の全廃は約10年後の1022年までを目指している。
 一方、日本は54基のうち現在動いているのは10基程度にすぎない。しかも電気事業法で決められている13カ月ごとの定期点検のため、原発の営業運転を停止し、約1か月後に運転を再開するのが従来の例だが、運転再開に地元自治体が「ノー」といえば、再開できない。そういう自治体が増えている。このため来年5月頃には原発が全面停止になる可能性もある。そうなると結果的に日本が原発国では世界で最初に脱原発を実現させることになる。

*仏教者の怒り
 浄土真宗本願寺派住職(武蔵野大学教授)の山崎龍明さんは次のように書いている。
 「敦賀にある原発に<もんじゅ>、<ふげん>という菩薩の名を冠したことに、反対し,改名(かいめい)のための署名運動をした。(中略)原発の便利さとみせかけの豊かさから、今こそ決別すべき時だ。ブッダの説く少欲知足の経済学、分配の経済学への転換をはかるべき時だ」(WCRP=World Conference of Religions for Peace =世界宗教者平和会議日本委員会・2011年6月号)

ロ)脱「日米安保体制」=現行の日米安保条約から日米平和友好条約へ転換=いのち、非暴力、共生、利他、持続性、多様性

 日米安保体制は日本国平和憲法の基本理念に反する。安保は日本にとって「安心・安定装置」とバラ色に描くメディアもあるが、とんでもない誤解だ。安保は軍事同盟・経済同盟であることを見逃してはならない。

*軍事同盟としての安保体制
 安保条約3条(自衛力の維持発展)、5条(日米共同防衛)、6条(在日米軍基地の許与)などは対外侵略のため暴力装置として機能している。それがはっきりしたのはベトナム侵略戦争からで、沖縄の米軍基地がなければベトナム侵略は不可能だっただろう。アフガニスタン、イラクへの米軍の軍事侵攻も安保に基づく在日米軍基地がなければ、不可能だった。
3条(自衛力の維持発展)は憲法9条(非武装の規定)が骨抜きになった元凶である。また現在は「世界の中の安保」に変質し、従来の「極東」から「世界」に対象範囲を拡大している。

*経済同盟としての安保体制
 安保条約2条(経済的協力の促進)は、「自由な諸制度を強化する」、「両国の国際経済政策における食い違いを除く」、「経済的協力を促進する」などを規定している。「自由な諸制度の強化」とは新自由主義(経済面での市場原理主義)の実行を意味しており、また「両国の国際経済政策における食い違いを除く」は米国主導の政策実施にほかならない。
 だから経済同盟としての安保体制は、米国主導の新自由主義(金融・資本の自由化、郵政の民営化など市場原理主義の実施)による弱肉強食、つまり勝ち組、負け組に区分けする強者優先の原理がごり押しされ、自殺、貧困、格差、差別、疎外の拡大などをもたらす米日共同の経済的暴力装置となっている。それを背景に日本列島上では殺人などの暴力が日常茶飯事となっている。
 これが憲法13条の「個人の尊重、生命・自由・幸福追求の権利の尊重」、25条の「生存権、国の生存権保障義務」、27条の「労働の権利・義務」を蔑(ないがし)ろにしている元凶といえる。

*安保破棄の可能性
 こういう安保条約は解消する必要がある。そんなことができるのか、と諦めている人が多いように見えるが、その気になれば、できる。安保条約10条は、一方的破棄(=破棄の意思を相手国に通告すれば、一年後に条約は終了する)を定めている。この条項はあまり知られていないように思う。

*「地球救援隊」創設の構想
 この構想は、憲法9条の本来の理念を生かす非武装・日本、すなわち自衛隊の全面非武装化による「地球救援隊」(仮称)創設だ。例えば自衛隊は武装ヘリコプターを多数保有しているが、武器を取り外せば、「人道救助ヘリ」に質的変化する。
 私は10年近く前からこの構想を唱えているが、最近は同種の提案が増えている。ある大学の講義でこの構想を提案したら、女子学生は「賛成」が何人もいたが、男子学生は「理想論にすぎない」と保守的な反応であった。それ以来、21世紀は男性の時代ではなく、女性がリードしていく時代ではないかと思っている。

ハ)脱「経済成長主義」=「豊かさ」から「幸せ」への転換=いのち、知足、非暴力、簡素、共生、持続性

*「足るを知る経済」への転換
 現代経済学は経済成長至上主義で、プラス成長に執着しているが、「経済成長=豊かさ」という観念の奴隷となっている。「経済成長主義よ、さようなら」の時代であり、「足るを知る経済」への転換が必要ではないか。
経済成長とは何か。分かりやすく人間の例で言えば、毎年体重が増え続けることを意味している。その人が立派な人物か、幸せに暮らしているのか、は関係ない。毎年体重が増え続けて100㌔を超え、さらに150㌔を超えても「成長が続いている」と喜ぶのに等しい。健康を害することは明らかである。少年時代は体重が増える必要がある。日本経済で言えば、昭和30年代から40年代半ばの円切り上げまでの高度成長時代である。

*量の拡大から質の充実へ
 求めるべきは経済の量的拡大を意味する経済成長よりも「生活の質的充実」である。こういう主張は今では世界的には決して珍しいわけではない。米国ワールドウオッチ研究所編『地球白書2008~09』はつぎのように指摘している。

 時代遅れの教義は「成長が経済の主目標でなくてはならない」ということである。経済成長は自然資本(森林、大気、地下水、淡水、水産資源など自然資源のこと。人工資本=工場、機械、金融などの対概念として使われる)に対する明らかな脅威であるにもかかわらず、依然として基本的な現実的命題である。それは急増する人口と消費主導型の経済が、成長を不可欠なものと考えさせてきたからである。しかし成長(経済の拡大)は必ずしも発展(経済の改善)と一致しない。1900年から2000年までに一人当たりの世界総生産はほぼ5倍に拡大したが、それは人類史上最悪の環境劣化を引き起こし、(中略)大量の貧困を伴った。

ニ)脱「グローバリズム」=「ローカリズム」のすすめ=知足、簡素、共生、多様性、持続性

菅民主党政権になって突如、関税ゼロを原則とするTPP(Trans-Pacific Partnership=環太平洋パートナーシップ協定または環太平洋経済連携協定)問題が持ち上がった。一部例外品目を残す従来の貿易自由化と違って、関税ゼロによる完全自由化が原則である。農産物輸出大国のアメリカ、オーストラリアが狙っているのは人口の多い日本市場である。
 これこそ「平成の開国」で、グローバリズム(世界市場の開放、自由化)の典型であり、日本がTPPに正式参加すれば、食料自給率はさらに低下し、「壊国」に陥る恐れがある。グローバリズムに安易に乗るわけにはいかない。

*「食と農」の再生と食料自給率の向上
 日本はこれまでいのちを育てる産業の農業をおろそかにし、いのちを削る産業の工業をたくましく成長させてきた。日本社会にいのちを軽視する風潮がはびこっている一つの背景である。
 食料自給率が現在4割まで低下し、6割を海外に依存している先進国は日本だけである。「いのちの源」の大半を海外に依存しているのは異常である。それに近未来の世界的食料不足を考えると、いのちを支える食料をどう確保するかは、食料安全保障上も重要である。
そこへ「3.11」の大震災と原発惨事である。そういう悲惨な状況下でローカリズム(国内地域重視主義)に立って、食料自給率を高めながら、「食と農」をどう再生・充実させるか、緊急かつ重要な課題である。
 地産地消(その地域の農産物をその地域で消費すること)、旬産旬消(季節感豊かな旬ごとの農水産品を大切にすること)を基本に国内・地域で「生産と消費」、「人と人」との相互結びつきの環を再生・拡大し、地域経済を発展させていくことが重要である。地産地消、旬産旬消のすすめは、輸送や冷凍保存のためのエネルギーの節約にもつながり、ひいては環境汚染の抑制にも効果が期待できる。

ホ)脱「私利私欲」型企業=「社会的責任」型企業へ=いのち、知足、利他、共生、持続性、多様性

 「3.11」後の企業が私利私欲を克服し、社会的責任として貢献すべき新しい課題として次の三つを挙げたい。
・原発に代わる自然エネルギーの育成
・ローカリズムの振興、発展に尽力
・被災地の中小企業の援助・救済・再建

*お粗末な経団連会長・米倉弘昌住友化学会長
 経団連会長は「脱原発を進めるのであれば、電力が不足するから、国内投資を控えて、工場の海外進出を進めるほかない」と発言している。しかし電力が足りない国は海外でも多いわけで、脱原発派への一種の脅迫のような発言だ。財界首脳としてお粗末とはいえないか。
この発言は私利私欲中心の発想で、企業の社会的責任、つまり従業員はもちろん、顧客、地域、関連企業などとの絆を大切に育てていくという発想・実践とはかけ離れている。経団連が古い体質の重厚長大型産業の利益保護団体に成り下がっていることを示している。楽天の三木谷浩史会長・社長が経団連を脱会したのは理解できる。

*石油危機(注)当時の財界首脳
 (注)石油危機(オイル・ショック)とは、1973年と1979年の2回にわたって起きた石油の供給危機と価格の高騰。

 当時の財界首脳とは、私自身、財界担当経済記者として交流があった。批判すべきことは批判し、議論もした。当時の顔ぶれは、土光敏夫経団連会長、永野重雄日本商工会議所会頭、桜田武日本経営者連盟会長(日経連はその後経団連と合体)、木川田一隆経済同友会代表幹事(東京電力会長)で、私利私欲を超えたもっと広い視野と行動力があったように思う。

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