「もっともっと欲しい」の貪欲の経済から、「足るを知る」知足の経済へ。さらにいのちを尊重する「持続の経済」へ。日本は幸せをとりもどすことができるでしょうか、考え、提言し、みなさんと語り合いたいと思います。(京都・龍安寺の石庭)
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保守派のユニークな「脱原発」論
日本こそが世界に先駆けて全廃を

安原和雄
 脱原発論が急速に広がりつつあるが、保守派の脱原発論は稀少価値といえるのではないか。その人物が旧皇族出身となると、興味が湧いてくる。しかも「3.11」後に脱原発派に宗旨替えしたのではなく、若い高校生の頃からだというから、筋金入りである。
 脱原発の理由として<原発には「和」と「愛」がない>を強調しているところもなかなかユニークであり、並ではない。といっても精神論に終始しているわけではない。原発に関する五つの「嘘」を解明し、<日本こそが世界に先駆けて全廃を>と呼びかけ、原発全廃へのシナリオを具体的に描いている。これでは原発推進派も脱帽するほかないだろう。(2011年7月23日掲載。インターネット新聞「日刊ベリタ」、公共空間「ちきゅう座」に転載)

▽ 保守派がなぜ原発に反対なのか

保守派を自任する竹田恒泰さん(注)の著作『原発はなぜ日本にふさわしくないのか』(小学館、2011年6月刊)が話題を呼んでいる。保守派の脱原発論が珍しいこと、さらに皇族出身であることがその背景にある。
(注)竹田さんは昭和50年、旧皇族・竹田家に生まれる。明治天皇の玄孫にあたる。現職は作家、慶應義塾大学講師(憲法学)。『語られなかった皇族たちの真実』(小学館)で、平成18年、第15回山本七平賞を受賞。『怨霊になった天皇』(小学館)、『日本はなぜ世界でいちばん人気があるのか』(PHP新書)など著書多数。

 竹田さんは著作の「はじめに」で保守派の自分がなぜ脱原発派であるのかについて次のように書いている。

 私は、皇統保守であり、皇室をお守りし、日本の素晴らしさを受け継いでいくために、著作や講演を通じて活動しているが、明白に「原発に反対」だ。なぜなら「原発には愛がない」からだ。
 私の反原発は、今回の事故がきっかけではなく、高校生の頃からの一貫した主張である。いまこそ、日本から原発を徐々になくすべきだと考えている。こう言うと、「それは保守の考え方ではない」と多くの方が反論される。しかしこれは保守の考え方と矛盾しない。それどころか本来、保守であればこそ、反原発でなければおかしいのである。
 (中略)まずは、保守も革新も、右翼も左翼も、先入観を排し、ニュートラルな観点から原子力発電とその運用が日本で起こしてきた問題を知ってください。その上で、本当に原発が日本にあって良い存在なのかを見つめ直そう。

 竹田さんは著作の中で原発に関する嘘について次の五つを挙げている
嘘① 核兵器を持つためには原発が必要 ― (正解)原発はなくても核兵器はつくれる
嘘② 原発が止まったら電気が足りなくなる ― (正解)原発の割合30%のカラクリ
嘘③ 少量の放射線は身体に良い ― (正解)放射線が身体に良いわけがない
嘘④ 原発の発電コストは安い ― (正解)いろいろ抜けている原発のコスト
嘘⑤ 二酸化炭素を出さない原発は地球を救う ― (正解)原子力は石油文明の一形態にすぎない
 以下では五つの嘘のうち②④を紹介したい。

▽ 原発に関する嘘 ― (1)「原発が止まったら電気が足りなくなる」のか?

 「原発が止まったら電気が足りなくなる」はかなり流布している説である。しかし本書は以下の点を挙げてこの説に反論し、「原発分の30%の電力が不足することにはならない」と指摘している。

 日本の電気の約30%は、原子力により賄われている。ではいますべての原発を停止した場合、どのくらい電気が足りなくなるか。単純に「30%足りなくなる」というわけではない。なぜなら各種の発電ごとに設備稼働率が大きく異なるからである。
 「発電施設の運用実態」をみると、夜から早朝までの時間帯は電力需要が低いため、多くの発電施設は止まっている。しかし原発だけは同じ出力で運転し続けていることがわかる。原発は一年間を通じて出力調整が「できない」のだ。原発はウラン燃料を臨界状態に保ち、その発熱により電気を取り出す発電方式であり、臨界は一つ間違うと核暴走になる危険性があるため、昼に出力を高めて、夜に出力を絞るといった出力調整ができない。
 定期点検を終えて炉を立ち上げると、一年間そのままの出力で運転が継続される。ちなみにチェルノブイリ原発(旧ソ連)の事故は原発を止めるときに起こった。

 原発はベース電源にしかならない。電気は貯めることができないため、発電した瞬間に消費しなくてはいけない。そのため夜間の最低電力需要のところまでしか原発をつくることはできないのだ。フランスでは総発電力の7割以上を原子力で賄っているが、これは地続きの欧州各国に原発の電気を売っているから可能なことであり、通常どの国も原発は3割程度までしか設置できない。
 夜間は主に原発だけが稼働していて、朝方になると徐々に火力発電を立ち上げ、昼から夕方にかけて水力発電を起動させる。夜になると水力と火力を止めていき、深夜はほぼ原発だけが動いている状態に戻る。このため原発の稼働率が高くなり、最新の2010年の実績では67.3%だった。原発以外の発電施設の稼働率は、毎年水力は2~3割程度、火力は4~5割程度と低い。

*すべての原発を止めても停電は起きない
 以上から日本中の原発をすべて止めたとしても、直ちに30%の電気が不足することにはならない。普段止めている火力発電や水力発電を立ち上げればよいのだ。
では原発をすべて止めた場合、どの程度電力不足が生じるかを考えてみたい。このためには発電量ではなく、電力需給が最大となる日の最大電力を、原子力を除いた発電設備だけでどれだけ賄うことができるかをみればよい。
2009年、日本の火力、水力、原子力のすべてを稼働させると、2億3664万㌔㍗を発電できる。このうち火力と水力発電の合計の設備容量は1億8779万㌔㍗だ。一方、同年の最大電力需要は8月7日で、1億5913万㌔㍗だった。ということは火力、水力の発電量だけで、最大電力需要を賄うことができて、なお約2900万㌔㍗も余る計算である。つまり原発を止めれば、停電が起きるというのは真っ赤な嘘なのだ。

▽ 原発に関する嘘 ― (2)「原発の発電コストは安い」は本当なのか?

 原発の発電原価は他の発電原価に比べて割安という説も原発推進派の言い分であるが、これも正しくない。本書の指摘は以下のようである。

 2003年に電気事業連合会が公表した「モデル試算による各電源の発電コスト比較」によると、1㌔㍗時当たりの発電原価は、原子力5.3円、液化天然ガス6.2円、石油火力10.7円、水力11.9円となっている。
 問題は原子力固有の経費であるにもかかわらず、コスト計算に含まれていないものがあることだ。遠く離れた電力消費地・大都市に電気を送るための送電線費用のほか、原発を誘致した地元に対し、国が払う交付金(電源開発促進税法などの「電源三法」による毎年4000億円以上)などである。

*原発が生み出した巨大な負の遺産
 一番問題なのは、使用済み核燃料の再処理と、高レベル放射性廃棄物の処理費用である。原発が生み出す「核のゴミ」は、1万年間も保管しなくてはならない。日本の原発が生み出す高レベル放射性廃棄物は、2027年までに4万本のガラス固化(高レベルの放射性廃液をガラス原料とともに高温で溶かして、ステンレス製の容器のなかで冷やし固めたもの)にされて保管される。六ヶ所村(青森県)の日本原燃の保管料実績によると、その費用は一本当たり8.5億円で、4万本全体で34兆円。このほか地層処分コストが3兆円かかるとされている。原発が生み出した負の遺産がいかに巨大であるかが理解できよう。
 ところがこれらの費用は発電原価に含めない。しかしいずれ国民が負担していくことになるのだ。にもかかわらず政府と電力会社はどのような理由で「原発の電気は安い」というのか。国民を欺くのもいい加減にしてもらいたい。

<補足データ>7月21日付毎日新聞夕刊(東京版)は特集ワイド「一番高い!? 原子力発電」で次のように報じている。
 大島堅一立命館大教授の試算によると、1970~2007年度の1㌔㍗時当たりの発電コストは、原子力10.68円、水力3.98円、火力9.9円で、原子力が最も高い。これは電源三法による交付金などを発電コストとみて計算し直したデータである。

▽ 日本こそ世界の脱原発をリードしよう

 本書の終章「日本が世界の脱原発をリードしよう」で、「日本こそ世界に先駆けて原発を全廃すべき」という見出しで以下のように指摘している。さらにここでは「原発全廃へのシナリオ」にも具体的に言及している。

 東日本大震災で日本人は、地震、津波、放射能の三重の苦しみを受けた。この震災により日本人は一つに団結し、忘れかけていた美しい日本人の心を取り戻すことができた。だが原発事故だけは余計であり、そこから得られるものなど到底なさそうに思えた。しかしもし原発事故に何らかの神の意思が働いていたとするなら、それは日本が世界に先駆けて原発を全廃させるべきことに違いあるまい。(中略)福島原発事故によって、確実に脱原発の流れができ、原発に頼らず経済を支えていく可能性が見えてきた。
 日本は、歴史的大事故を起こし、放射性物質を撒き散らしたことで、世界に多大な迷惑をかけてしまった。だからこそ率先して脱原発を実現することで、国際社会への責任を果たしていくことができる。

*原発全廃へのシナリオ
原発をなくす方法は、難しいものではない。原発が1基も稼働していなくても、真夏の最大電力を乗り越えられることはすでに示した。(上述の「*すべての原発を止めても停電は起きない」を参照)
 原発全廃への実現可能な具体的方法を示しておきたい。まず福島第一原発と浜岡原発は即時廃炉にし、全国の老朽化が進んだ原発を早い段階で廃炉にする。さらに10年以内に残りの原発を順次廃炉にする。その間 、7年以内に東京に600万㌔㍗程度、大阪に400万㌔㍗程度の最新のガス・コンバインドサイクル発電所を建設する。これにより比較的短期間で無理なく原発を全廃することができる。

 もう一つ、日本のエネルギー政策の根本的見直しも必要だ。その柱は電力を自由化し、電力会社の独占状態を解消させることである。まず既存の電力会社は、発電・送電・配電に三分割し、電力取引所を設置して、高度な電力の自由市場をつくる。
 これが実現すれば、「多少高くても自然エネルギーの電気を買いたい」という需要家も出てくることが予想される。発電の多様化はわが国のエネルギー政策を盤石なものにし、エネルギーの安全保障にも寄与する。すでに英国が高度な電力自由市場を実現している。英国から大いに学ぶべきだろう。

<安原の感想> ― <原発には「和」と「愛」がない>がユニーク

 日本人が本当に大切にすべき価値観は何か、原発よりもずっと大切なものは何か。それは「和」だ。和は調和を大切にし、人を愛するという意味を持つ。
 「和」を世界の人々に分かりやすい言葉でいいかえると「愛」になる。人の心の痛みが分かる。自分のためではなく他人(ひと)のことを優先し、公を尊重する。そうした美しさを追求していったのが日本の国柄であり、それはより普遍的に言えば「愛」なのだ。
 原発には「愛」がない。原発は日本的なものとはかけ離れ過ぎている。だからこそ、日本人精神をしっかりと身につけている人が見れば、原発がいかに傲慢で、他人を傷つけ、富めるものを富ませて、持たざる者にさらに追い打ちをかけていく仕組みなのか分かってくれるはずである。原発は日本にそぐわないのだ。
 東日本大震災で復興しなければならないのは、日本人の心のなかの「愛」である。私たちは「愛」を胸に刻んで、手を取り合いながら復興に励んでいこう。その姿を見た外国人たちに「和」の心の価値が伝わるだろう。世界に「和」の心が伝播すれば、世界から戦争が減るだろう。日本人は日本人だけのために復興するのではなく、世界人類のために復興すると考えたい。その一歩として脱原発への道を世界に示そうではないか。

 以上は終章における<日本は「和」の国>という小見出しつきの一節である。「和」を重視する竹田さんの日本人としての心情が浮き彫りになっている。原発には「愛」がない、という表現も本書には繰り返し登場している。要するに著者は<原発には「和」と「愛」がない>ことを強調しているわけで、ここら辺りが従来の多くの脱原発論とは異質でユニークなところである。しかも末尾の「脱原発への道を世界に示そう」という提案もなかなかの気概である。

 私が竹田さんの著作『原発はなぜ日本にふさわしくないのか』を買い求めたいきさつに触れておきたい。7月中旬、明治記念館(東京・港区)で日本経営道協会(代表・市川覚峯さん)主催の15周年特別企画講話「輝き出した日本の美しい心」があった。もちろん「3.11」後の日本のあり方、進路、再生策がテーマで、市川覚峯代表の「いま日本人の心の復興のとき」、松長有慶・高野山真言宗管長の「世界経済フォーラム(ダボス会議)が今、仏教に求めるわけ」と並んで竹田さんが「真の日本再生への道」と題して弁じた。
 笑いを誘う巧みな話術には感心するほかなかったが、その折の即売会で求めたのが上記の著作である。竹田さんの講話を聴きながら、日本人の国際性と多様性を実感した。

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いまあの坂本龍馬が生きていたら
船中八策から脱原発の国づくりへ

安原和雄
菅首相が「脱原発」を記者会見で明言した。具体的な行動計画は不明だが、政治家としての見識を示した発言であり、高く評価したい。ところが首相周辺には、明言を曖昧なトーンに修正するかのような動きもみえるが、些末な政局にこだわって大局観を見失っているとすれば、見苦しい。
 ここは発想を大きく変えて、今あの坂本龍馬が生きていれば、どう対応するかを考えてみたい。龍馬は自らの命を懸けて新時代「明治」の幕開けに奮闘した。龍馬は新時代のありようを構想した「船中八策」を掲げたが、21世紀の現在なら、目指すべきものはまず脱原発を軸に据えた国づくりである。さらに私利私欲の増殖装置ともいうべき原発推進複合体の解体も大きな課題である。(2011年7月15日掲載。公共空間「ちきゅう座」、インターネット新聞「日刊ベリタ」に転載)

▽ 菅首相が記者会見で「脱原発」を明言

 毎日新聞(7月14日付)は ― 首相「脱原発」を明言 「将来 なくてもいい社会実現」― という一面トップの大見出しで次のように報じた。
 菅直人首相は13日、首相官邸で記者会見し、今後のエネルギー政策に関し「原発に依存しない社会を目指すべきだと考えるに至った」と述べ、脱原発依存を進める考えを示した。その上で「計画的、段階的に原発依存度を下げ、将来は原発がなくてもやっていける社会を実現する」とし、将来的には原発を全廃する「脱原発」の姿勢を鮮明にした、と。
 以上の記事には「退陣控え実行力に疑問」の見出しも付いているが、ともかく「脱原発」の基本方針を首相自ら明言したことは、遅すぎた感があるとはいえ、高く評価したい。脱原発こそ、追求すべき歴史の大道に沿った選択である。

 この首相発言を大手紙社説(7月14日付)はどう論じたか。

毎日新聞=「脱原発」表明 目指す方向は評価する
朝日新聞=脱原発 政治全体で取り組もう
東京新聞=脱・原発依存 政権延命狙いでは困る
読売新聞=看板だけ掲げるのは無責任だ
日本経済新聞=菅首相の「脱原発依存」発言は無責任だ

 毎日社説は「その考え方について基本的に支持し、評価したい」、朝日社説も「13日付社説特集で、20~30年後をめどに<原発ゼロ社会>をつくろうと呼びかけた。首相は目標年次こそ示さなかったが方向性は同じだ。首相の方針を歓迎し、支持する」と指摘した。両紙とも賛成論である。
 東京社説も「どう実現するのか、その具体性に欠ける。政権延命を狙って大風呂敷を広げただけでは困る」と条件を付けながら「原発のない社会を目指すという、首相が示した方向性には同意する」と明記している。
これら3紙に比べ異質なのが読売と日経である。両紙ともに見出しに「無責任だ」という表現を使っており、原発推進派擁護の姿勢にこだわっている。あの大東亜戦争末期にもはや敗戦は不可避であるにもかかわらず、「聖戦遂行」にこだわり、無用な犠牲を強いた一部軍部のご乱行に近い雰囲気を感じるが、いかがか。過去の失敗と悲劇の歴史に学ぶ必要はあるが、失敗と悲劇を繰り返す愚は避けなければならない。

▽『魂の冒険』が訴えるもの(1)― 最大の危機は「冒険」の喪失

 菅首相による「脱原発」発言のニュースが飛び込んできたとき、わたしはたまたま高橋佳子(注)著『魂の冒険 答えはすべて自分の中にある』(三宝出版、2010年10月刊)を読んでいた。
(注)高橋さんは1956年東京生まれ。TL(トータルライフ)経営研修機構、TL医療研究会、TL教育研究会などで多様な分野の専門家の指導に当たる一方、各地での講演にも精力的に取り組んでいる。1992年以来の講演会にはこれまで延べ53万人が参加した。著書は『Calling 試練は呼びかける』『12の菩提心』『運命の方程式を解く本』など多数。

 著書名にもなっている「魂の冒険」とは何を意味するのか。「プロローグ ― 魂の冒険へ」の大要を本書の小見出し(*印)とともに以下に紹介する。念のためつけ加えれば、この著作は「3.11」(大震災、大津波、原発惨事)以前に出版されたが、あたかも以後に出版されたかのような雰囲気がある。

*敗北の色濃く
 凋落の時代 ― 。 今、私たちが身を置いている困難な時代をそう呼ぶべきかもしれない。行く手には暗雲が垂れ込め、周囲にはそこはかとない敗北感が漂っている。
 GDP(国内総生産)では中国に第二位を明け渡すことになり、それを取り戻す未来は再び訪れそうにもない。
 人々の生活を考えても、収入は目減りし、年金制度は崩壊の危機に瀕している。自殺者が12年連続で年間3万人を超え、孤独死が増加し、少子化も進行している。

*最大の危機は「冒険」の喪失
 もう生活水準の向上は見込めないかもしれない。仕事では生きがいを求められないかもしれない。この先、自分の人生はどうなっていくのか・・・。
 将来に明るい気持ちを持てず、未来を希望あるものとして、思い描くことができなければ、何かを生み出すことは難しくなる。
 何より問題なのは、希望を持てなくなって、新たな挑戦ができなくなっていることだ。リスクを冒(おか)すことを避け、既定路線で安心しようとする。つまり冒険する心を失ってしまっている。冒険の喪失 ― 。これこそ私たちが今、直面している最大の危機だと思わずにはいられない。

▽ 『魂の冒険』が訴えるもの(2)― 新しい挑戦としての「船中八策」

 著作『魂の冒険』に次の一節がある。これは「時代の転換点」を導いた幕末の一人の男、坂本龍馬の物語である。

 時代の大きな転換点を導いた人々には必ずといってよいほど、チャージ(目覚め)・チェンジ(転換)・チャレンジ(挑戦)の歩みがある。
 江戸時代末期の攘夷(じょうい)をめざしたエネルギーが倒幕の目標に変わり、やがて文明開化という近代化に突き進むことになる明治維新 ― 。その中で、その後のわが国の歩みを展望した人物の一人が坂本龍馬(1835~67年)だった。龍馬が抱いた、国力を強めて戦争をせずに攘夷を果たすというビジョンは、攘夷派として土佐藩を脱藩した龍馬が、勝海舟のもとで、世界という認識に目覚め(チャージ)、自らの立場を転換(チェンジ)しなければ生まれなかった。
 国力増強への試みとして貿易結社(会社=当初の亀山社中から後に海援隊へ名称変更)の創設、さらに新しい国家の基本方針ともいえる船中八策(せんちゅうはっさく)は、これまでにない新しい挑戦(チャレンジ)にほかならなかった。その龍馬自身の人生は志半ばで潰(つい)えることになるが、龍馬が見はるかした未来は、多くの人々に引き継がれていった。

 ここで坂本龍馬の「船中八策」を紹介しておきたい。1867(慶応3)年、龍馬が長崎から上京する船中で想を練ったとされる「新しい国家の体制についての八カ条の要項」のことで、全文は以下の通り。

*天下の政権を朝廷に奉還せしめ、政令よろしく朝廷より出づるべき事。
*上下議政局を設け、議員を置き、万機を参賛せしめ、万機よろしく公論に決すべき事。
*有材の公卿・諸侯および天下の人材を顧問に備え、官爵を賜ひ、よろしく従来有名無実の官を除くべき事。
*外国の交際広く公議をとり、新に至当の規約を立つべき事。
*古来の律令を折衷し、新に無窮の大典を撰定すべき事。
*海軍よろしく拡張すべき事。
*御親兵を置き帝都を守衛せしむべき事。
*金銀物価よろしく外国と平均の法を設くべき事。
 以上八策は、方今天下の形勢を察し、之を宇内万国に徴するに、之を捨てて他に済時の急務あるなし。いやしくもこの数策を断行せば、皇国を挽回し、国勢を拡張し、万国と並立するもまた敢て難しとせず。伏て願くは公明正大の道理に基き、一大英断を以て天下を更始一新せん。(池田敬正著『坂本龍馬』・中公新書)から

 この船中八策が明治維新の「五カ条の御誓文」につながる。周知のことだが、五カ条の内容は次の通り。
*広く会議を興し、万機公論に決すべし
*上下心を一にして、盛んに経綸を行ふべし
*官武一途、世民に至るまで、各(おのおの)その志を遂げ、人心をして倦(う)まざらしめんことを要す
*旧来の陋習(ろうしゅう)を破り、天地の公道に基くべし
*智識を世界に求め、大いに皇基を振起すべし

▽ 21世紀の脱原発を軸とする国造りへ ― 原発推進複合体の解体を

 菅首相の「脱原発」発言のニュースが飛び込んできたとき、私はたまたま幕末の坂本龍馬のことが念頭にあった。上述したように著作『魂の冒険』の一節、坂本龍馬論を読んでいる最中のことだったからである。もちろん偶然のことにすぎないが、私は仮にいま龍馬が健在であれば、原発のことをどう考えるかを想像してみた。結論を急げば、躊躇(ちゅうちょ)なく「脱原発」を軸とする国づくりに取り組むのではないか。
 作家・司馬遼太郎は龍馬について次のように書いている。

 龍馬のおもしろさは、そのゆたかな計画性にあるといえるだろう。
 幕末に登場する志士たちのほとんどは討幕後の政体を、鮮明な像としてはもっていない。龍馬のみが鮮明であった。そういう頭脳らしい。
 国家のことだけでなく、自分一代についても鮮明すぎるほどの像をもっている。海運と貿易をおこし、五大州を舞台に仕事をするということである。このふたつの映像を自分において統一していた。
 海の仕事をしようとする龍馬にとっては、ときに革命は片手間の仕事であった。(中略)船中八策をかかげて討幕後の政体を明示しつつ、徳川慶喜に大政奉還させて一挙に統一国家を実現してしまった。
 大政奉還実現後、革命政府の大官などにはならぬと明言し、「役人はいやだ」といった。西郷がおどろき、ではなにをするのかと問うと、「世界の海援隊でもやる」と龍馬は言い、西郷を唖然たらしめた。
 (中略)龍馬の一代は、革命と海とのいそがしげな往復であった。私心を去って自分をむなしくしておかなければ人は集まらない。人が集まることによって知恵と力が持ち寄られてくる。仕事をする人間というものの条件のひとつなのであろう。(司馬遼太郎著『龍馬がゆく』(八)あとがき五・文春文庫)

司馬が指摘している「私心を去って自分をむなしくしておかなければ人は集まらない」に着目したい。龍馬のように私心を棄てて、歴史的事業に取り組むのであれば、21世紀の歴史的課題ともいうべき脱原発にひるむ必要はどこにもないはずである。原発推進によって私利を得てきた「原発推進複合体」(この構成メンバーは政・官・財(電力など)を中心に学者、研究者、メディアも含む)は性懲りもなく今なお抵抗を続けているが、「無駄な抵抗は止めよ」と言いたい。朝日新聞の世論調査によれば、段階的廃止への賛成が77%にのぼっている。すでに勝負はついているのだ。
 7月15日付各紙の報道によると、九州電力玄海原発(佐賀県玄海町)の運転再開をめぐる「やらせメール」問題は原子力担当トップの前副社長の指示による組織ぐるみの行動だったことが改めて浮き彫りになった。原発推進複合体の底知れぬ組織的腐朽性を示す具体例であり、もはやこの私利私欲の増殖装置ともいうべき複合体に日本のエネルギー政策の根幹を委ねるわけにはいかない。複合体解体こそが急務となってきた。

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わたしの脱「テレビ視聴」宣言
後期高齢者として目と脚を大切に

安原和雄
 前回まで6回の記事は脱原発であった。今回は趣向を変えて、わたし自身の脱「テレビ」宣言としたい。告白すればすでに後期高齢者2年生であり、目と脚にかつての健全さは期待できなくなりつつある。だからここで日常の自分の暮らし方、生き方を考え直したい。
 7月24日からテレビは地デジに変わる。こちらからお願いしたわけでもないし、無造作に受け入れる必要はないと考えた。そこで思いついたのが脱テレビである。テレビとは縁を切って目と脚を大切に有効活用して、日本列島上の自然や四季の美しさと優れた遺産に親しむことを心がけたい。(2011年7月8日掲載。公共空間「ちきゅう座」、インターネット新聞「日刊ベリタ」に転載)

▽ なぜ脱テレビ宣言なのか

(その一)観たい番組が少ないから
 なぜ脱テレビの気分になったのか。結論を先にいえば、どうしても観たい番組が少ないからである。ここ数年間、私とテレビとの付き合いは、限られている。ニュースのほかは、時代劇ものが中心となっていた。
 例えば「水戸黄門」である。最後に決まって葵(あおい)のご紋の前にひれ伏すという単純な筋書きのどこがおもしろいのかという声もあるが、単純だからいいのである。時代劇を観ながら頭脳を絞るようでは休息にならない。それではひとときを楽しむことにはならない。といっても7月4日第一話が放映された新・水戸黄門はこれまでとはひと味違っている。「人生の応援歌」を意識しているそうで、「苦しみ悲しむ庶民がどう乗り越えて明日を生きていくかを描く人間ドラマにした」(7月4日付毎日新聞)という触れ込みで、おもしろい展開が期待できそうではある。
 もう一つ、「子連れ狼」(再)である。こちらは人生訓が随所に散りばめられており、仏教的思想も背景にある。親子の絆の深さであり、また陰謀に立ち向かう剛胆さは多くの現代人が忘れている世界ともいえる。それだけに魅力あるドラマに仕上がってはいる。
 だが水戸黄門、子連れ狼のそれなりの魅力に背を向けて、未練を捨ててここはじっと「我慢の子」になることにハラを決めた。

(その二)テレビにしがみつくのは健康に良くない
 ある友人の父親のテレビ好きに触れておきたい。晩年は一日中テレビの前に坐って観るのが日課となっていた。しかしテレビにしがみつくのは健康に良くない。第一、一日中テレビと付き合っていると目が悪くなり視力が衰える。あまり外へ出て歩こうと努力しないから、脚が弱ってくるだけではない。一人でテレビと向き合って大声で対話するようになると、危険信号である。やがて認知症にもつながっていく。
その友人によると、明治生まれの両親で、一度は海外旅行に案内したいと考えて、選んだのが中国である。旅行会社企画の香港・広州・桂林の団体観光コースで、親子三人で参加し、一週間の日程をそれなりに楽しんで無事帰国した。

 そこまではよかったが、そのあと友人は愕然とする事態に直面することになる。数日後父親がこう言ったのだ。「この間は韓国へ連れて行ってくれて有り難う」と。中国旅行中、ずっと「ここは韓国」と思いこんでいたのか、それとも帰国してからなにかの弾みで勘違いしたのか、そこは分からない。しかし考えてみれば、東アジアに位置している中国と韓国である。ヨーロッパと間違えたわけではないのだから、十分あり得る誤解か、とその友人はつぶやきながら自分自身を納得させていた。
 これは一例にすぎないが、後期高齢者になってからテレビの前に坐り続けるのは考えものである。

▽ テレビには「自業自得の未来しかない」か

 私(安原)は、一人のジャーナリストとして多種多様な新聞に目を通すようにしているが、その一つ、日本共産党の「しんぶん赤旗」(7月4日付)のコラム「波動」にジャーナリストの坂本 衛さんが<テレビ局は「思考停止」状態>を書いている。その趣旨は以下の通りである。

 総務省発表の「地デジ世帯普及率」は現実からかけ離れている。500万世帯か300万世帯かはっきりしないが、三ケタの万単位の世帯が、地デジ対応を終わっていないのだ。にもかかわらず「10年前の電波法改正で決まったから」という理由だけで、アナログ放送の停止を強行しようとする。テレビ制作者は、何なのだ? 誰のために日々の番組を作っている? 気象情報を担当する者は、100万単位の世帯が自分の番組を視聴できなくなるのに、なぜ心配しない?
(中略)バカとか愚かというのとも違う。ただ漫然と思考停止しているのが、現在のテレビである。今回の地デジ移行が、テレビ放送の没落していく第一歩になると思う。60年に近い期間、自分たちを支えてくれた視聴者をテレビは裏切った。テレビの前には自業自得の未来しかあるまい、と。

 「ただ漫然と思考停止しているのが、現在のテレビ」という指摘が真実なら、これは深刻である。思考停止病ほど組織を蝕む病巣はない。これでは「テレビ放送の没落していく第一歩」であり、さらに進んで「自業自得の未来しかない」となり果てるのも残念ながら時間の問題といえるかも知れない。テレビのために惜しむ気分もにじみ出てくる。しかし私はテレビと縁を切るための手続きをとった。

*NHKテレビ受信料の銀行振替口座は解約済み
 テレビ受信料の銀行振替口座を解約するため、最近最寄りの銀行の窓口へ行った。「それはお客様とNHKとの契約だから、解約はNHKと直接交渉してください」と言われたら、銀行支店長と一戦交えるつもりであった。というのは私の便宜上、銀行に振替口座を開設しているのであり、その口座を継続するか、解約するかは私が決めることと思うからである。窓口へ赴いた結果はどうであったか。
 窓口で「解約したい」と言ったら、担当の女性が「ハイハイ、どうぞ」と所定書類を出して「これに必要事項を記入してください」とにこやかに応対してくれた。ギクシャクすることが少なくないこの世の中、これほど円滑に流れるとは、いささか拍子抜けの形であった。こうしてその場で解約手続きは終わった。

▽ 脱テレビ宣言後、テレビなき日常をどう生きるか

 上述の解約は、もちろん我が家庭の実力派、奥方と話し合いの末、合意に達したことである。さて問題はテレビなき日常をどう暮らし、生きていくか。これは高齢者にとって切実なテーマである。日本人がテレビを楽しむようになったのは私の学生時代だから、半世紀以上にもなる。それほど馴染んできたテレビだから、それに取って代わるだけの魅力ある暮らし、生き方を発見しなければならない。いわば脱テレビ後の生き方再発見であり、その条件として次の三点を挙げたい。そこに共通しているものは後期高齢者として自分の目と脚を大切にしたいという思いである。

 第一は日本列島上の美しさと優れた遺産に親しむこと。
 日本列島各地の素晴らしい自然、四季の変化、その美しさはもちろん、名園、神社仏閣、城に親しみたい。世界に誇るべき優れた遺産を日本人として堪能しないのは、もったいない限りといえよう。親しみ、堪能することによって日本人である自分自身を見つめ直してみたい。一方、海外訪問はもう沢山という気分である。いつ墜落するか分からない航空機に乗って海外にノホホンと出かける勇気は消え失せつつある。そういう意味ではわたし自身、ローカリズム(国内地域重視)派に傾いている。

 第二はクルマに依存しないで、鉄道と自転車と徒歩を主要交通手段とすること。
 日本のクルマの過密度は世界一らしく、狭い日本列島にクルマがあふれている。東日本大震災と大津波の際、クルマのお陰で命拾いした人も多いだろうが、逆にクルマに依存しすぎて津波に呑み込まれて命を落とした人も少なくないと聞く。車の渋滞の中で自分の車を捨てて脱出するのは、その瞬間の決断を求められるわけで、クルマ依存症の人には恐らく困難だろう。日常的にもっと自分の脚を活用したい。大震災後、私はできるだけエレベーターやエスカレーターに依存しないで、脇の階段を利用するよう努めている。

 第三は原則として一人旅とすること。ただし二人旅までは許容範囲であること。
 二人旅あるいは多人数の旅もそれなりに楽しいが、行動の自由を制約されるところがおもしろくない。一人旅といっても、無目的にだらだらと旅を続けるのは好まない。そこには自ずから旅の目的がある。その案内書を紹介しておきたい。例えば『仏教を歩く』(「空海」から「近代の仏教者たち」まで全30冊、朝日新聞社刊)、『名園を歩く』(「奈良、平安、鎌倉時代」から「茶庭」まで全8巻、毎日新聞社刊)などである。これらの案内書は約10年も前に出版されたもので、いつか「歩く」時が来ることを期待して買い求めたものだ。ホコリを払って読み直している。

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原発に頼らない安心できる社会へ
城南信用金庫の脱原発宣言は訴える

安原和雄
城南信用金庫の脱原発宣言が話題を呼んでいる。「原発に頼らない安心できる社会」の実現を訴えているからだ。市民、住民としては当然の訴えだが、金融機関としては珍しい。
しかも現職理事長が「信用金庫には中小企業や個人客を大切にし、地元の発展に貢献する使命がある。利益や株主への配当を重視せざるを得ない銀行とは違う。金(カネ)もうけはしないという自負がある」と明言している。
 これは大銀行や大企業が追求している利益・海外重視のグローバリズムではなく、反グローバリズムであり、国内の脱原発型地域発展を重視するローカリズムにほかならない。ローカリズムの着実な実践に期待したい。
(2011年7月1日掲載。公共空間「ちきゅう座」、インターネット新聞「日刊ベリタ」に転載)

▽ 脱原発宣言をめぐる一問一答

 朝日新聞(6月29日付)は、城南信用金庫理事長(注)の吉原 毅(よしわら・つよし)さんとのインタビュー記事を掲載している。見出しは「脱原発宣言のわけ」となっている。
(注)城南信用金庫の本店は東京都品川区。都内と神奈川県に85店舗がある。預金・貸出ともに信用金庫では全国2位の規模。理事長の吉原さんは1955年生まれ、77年城南信金に入り、企画部門が長く、2010年11月から理事長。ホームページで脱原発宣言を掲げており、さらに浜岡原発(静岡県)の廃炉を求めて提訴(7月1日)する原告団に加わるなど、従来の銀行マンのイメージとは異質の社会的行動派である。

 城南信用金庫の「原発に頼らない安心できる社会へ」と題する脱原発宣言の大要は次の通り。
 東電福島第一原子力発電所の事故を通じて、原子力エネルギーは明るい未来を与えてくれるものではなく、一歩間違えば取り返しのつかない危険性を持っていること、さらにそれを管理する政府機関も企業体も、万全の体制をとっていなかったことが明確になりつつある。私たちは原子力エネルギーに依存することはあまりに危険性が大きすぎることを学んだ。地域金融機関として今できることは、省電力、省エネルギー、代替エネルギーの開発利用に少しでも貢献することではないか。私たちは金融を通じて地域の省電力、省エネルギーのための設備投資を積極的に支援、推進していく。

インタビュー記事(大要)を以下に紹介する。なお*印の小見出しは私(安原)が付けた。
*原発事故は人間の思い上がりを象徴
問い:城南信用金庫の脱原発宣言は「原子力エネルギーは私たちに明るい未来を与えてくれるものではない」などの表現で刺激的だ。
答え:経済界のほとんどが原発問題で沈黙する中で、社会的メッセージを打ち出すのは勇気が必要だった。ほかの金融機関や大企業にも発言して欲しい。うちが世の中を変えてやろうじゃないか、という人がどんどん出てくれば、これほどうれしいことはない。
問い:浜岡原発の運転終了や廃止を求める弁護団が、中部電力を相手取って訴訟を起こす。その原告団に加わっている。
答え:そこまでするべきか、とも考えた。でも弁護団から力を貸して欲しいと頼まれたとき、逃げる必要はないと思った。今回の原発事故は人間の思い上がりを象徴するものだ。経済発展は無理のない着実な程度がよい。それなのに大局観もなく、突き進み、成長のために原発はやめられないと思いこんだところが問題だ。

*原発がなくてもエネルギー不足にはならない
問い:脱原発によるエネルギー不足や経済活動への影響は心配しないのか。
答え:原発がなくても十分間に合うのではないか。まず停止中の火力発電や水力発電をフル稼働させる。天然ガスや地熱発電にも大急ぎで取り組む。一方で節電は「最大の電力源」だから一般家庭はライフスタイルを見直し、企業は省電力化に努める。私たちは原発への依存をなくす意味で「3割節電」を目標に掲げ、この3カ月間、ほぼ実現している。いかに無駄に電力を使っていたのか、と気づいた。
今回のような事故を二度と起こしてはならないと考えるなら、すべての原発はいったん運転を止めるべきだ。一斉点検し、老朽化したものは廃炉にする。

*適正に計算し直すと、原発のコストは高い
問い:電力会社や大企業とのしがらみがない信金だから好きなことが言えるのではないか。
答え:ごまめの歯ぎしりかもしれない。でも共感してくれる人は増えている。三井住友銀行の西川善文名誉顧問はネット上で、城南信金の脱原発宣言を「英断」と書いてくださった。
 メガバンクは電力会社の大株主であり、債権者だ。総理大臣は電力会社に原発停止の要請しかできないけど、メガバンクが右を向けといえば、電力会社は右を向く。絶大な力だ。新しい方向性を打ち出してくれれば、世の中を変えることができる。
問い:脱原発で電気料金が上がり、経済活動にも影響があるのでは?
答え:適正に計算し直すと、原発のコストは高い。地域への交付金や放射性廃棄物処理、事故対策などの費用に加え、事故があったときの補償費も、私たち金融機関からみると、「経常費用」として計算に入れなければならない。純民間ベースなら原発事業に融資する銀行は一つもないはずだ。

*信金の原点は金もうけではなく、そこに誇りがある
問い:金融機関が脱原発を公言するのは意外だ。・・・
答え:信用金庫には中小企業や個人客を大切にし、地元の発展に貢献する使命がある。利益や株主への配当を重視せざるを得ない銀行とは違う。城南信金は、顧客に損失を与える恐れのある商品や消費者向けのカードローンなどを扱わない。金もうけのために存在するのではないという自負がある。
 信金のルーツは19世紀に英国で生まれた協同組合運動だ。産業革命で貧富の格差が広がり、お金に振り回されて倫理や道徳が失われる恐れが出てきた。それを是正し、みんなが幸せに暮らせる社会を作ろうという理想を掲げた。
 理事長に就任したとき、信金の原点に立ち返ろうと考えた。そこに大震災が起きた。損得勘定や事なかれ主義は許せない。社会の役に立とうという気持ちを大切にしたい。そこが私たちのアイデンティティーだ。
問い:経済界の異端児ですね。
答え:とんでもない。私は常識人ですよ。例えば電車の中で、誰かがからまれていたら「やめなさいよ」というでしょ。企業は人間と一緒だと思う。お金を稼ぐだけじゃなくて、理想もあり、魂もある。企業も正しいことは発言すべきで、そこで働く人たちの誇りにかかわることなのだ。

▽ 城南信金の大先達、小原鉄五郎さんとのインタビュー

 私(安原)が毎日新聞の現役経済記者だった1975年初春、当時の城南信金理事長、小原鉄五郎さんとインタビューしたことがある。「大企業優位を改めよ」と題して毎日新聞に掲載した。その2年後に現理事長の吉原さんは同信金に新人として入った。吉原さんにとって小原さんは文字通り大先達の地位にある。インタビューの大要を以下に紹介する。詳細は毎日新聞経済部編『揺らぐ日本株式会社 政官財五〇人の証言』(毎日新聞社、1975年)参照。

問い:最近、大企業に対する批判が強まっている。大企業批判についてどう考えるか。
答え:1億1000万人の国民がそれぞれ所を得て生活できる環境があってこそ福祉社会の建設ができる。だが最近の大商社、大企業は本来、中小企業が担っているラーメン屋もやれば、酒屋も魚屋も手掛けるようになった。何でも資本力にものをいわせてやる。これでは行き着くところ貧富の差が激しくなり、大企業だけが栄えて、その他の人たちはやせ衰えた生活を余儀なくされる。このままの姿勢でやっていたら、近い将来、保守と革新の連立政権になったり、革新だけの政府ができかねない。

問い:そうすると最近の大企業批判は起こるべくして起こっているということか。
答え:そうだ。大蔵省(補足=インタビュー当時は大蔵省だったが、現在は財務省)や日銀は金融効率化論を唱えた。しかし金融効率化とはなんぞやといいたい。大銀行にカネが集まり、大企業にカネが円滑に貸せることだという。しかし鉄屋さんが借りたカネでいい溶鉱炉を造るならそれでいいが、新日鐵がホテルをやるとしたら問題でしょう。事実、大商社や大企業は銀行から借りたカネで土地を買い占めたり、ボウリング場やホテルをやるなど中小企業が取り組むべき事業をやった。こうして物価が上がり、一般大衆が苦しんでいる。これが金融効率化の結果だ。とんでもない話ではないか。

問い:「大きいことは悪ではない」と大企業側は大企業批判に反論している。
答え:大きいからといって一概に悪いとはいえないが、中小企業や一般大衆を苦しめるようなことは、許せない。大企業もそれなりの分をわきまえた資本主義でないと、資本主義体制が維持できなくなる。こんなことではいまに資本主義は崩壊するよ。いまの大企業優位のやり方を改めよ、と強調したい。

問い:高度成長時代は終わったというのが常識になっている。今後の日本経済をどう展望するか。
答え:高度成長はもう来ない。問題は安定成長に即応して経営者の頭の切り替えができるかどうかだが、疑問に思う。いまの会社重役たちは過去の高度成長に慣れきっているので、安定成長への切り替えができない。
世界的にみて英国の経済力は斜陽で、次に米国が経済的に落ち、その次に日本が落ちるだろう。日本は一等国といわれているが、いまに二等国、三等国になる。

<安原の感想> 脱原発型地域発展重視のローカリズムに期待

 小原さんのとのインタビューから10年後の1985年に始まったあのバブル経済(株価、地価の高騰)が崩壊してから、小原さんの予測通り日本は一等国から転落していく。そして今、再び苦難の最中にある。いうまでもなく東日本大震災、福島原発惨事である。
 二人の理事長に共通しているのは、大企業、大銀行への徹底した批判精神である。小原さんは「大企業優位を改めよ」と力説、一方吉原さんは、電力会社、大企業の保守的な現状維持策=原発継続とは異質の脱原発を唱えている。

このような多くの企業経営者には期待できない異質の経営姿勢の源(みなもと)は何か。現理事長、吉原さんの次の発言に着目したい。
・信用金庫には中小企業や個人客を大切にし、地元の発展に貢献する使命がある。
・利益や株主への配当を重視せざるを得ない銀行とは違う。
・信金は金もうけのために存在するのではないという自負がある。
 要約すれば、「地元の発展に貢献する使命」、「金もうけのためではないという自負」つまり「使命」と「自負」が信金経営の根幹にある。これは地域の発展を最大限尊重するローカリズムの実践であり、いいかえれば反グローバリズムの精神である。地域の発展にはほとんど関心を示さず、地球規模で利益を稼ぐことを重視する大企業、大銀行、大商社のグローバリズムへの反旗にほかならない。                     

日本国内の地域発展を軽視するところに日本経済の発展はあり得ないだろう。東日本大震災、福島原発惨事後の日本再生は、地域をどう再生し、発展させていくかにかかっている。地域の再生、発展は従来型の経済成長、いいかえれば経済規模の量的拡大のみをめざす原発依存型の経済成長を意味しない。そういう経済成長とは異質の脱原発型地域発展をめざすローカリズムの今後の実践とその広がりに期待したい。

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