「もっともっと欲しい」の貪欲の経済から、「足るを知る」知足の経済へ。さらにいのちを尊重する「持続の経済」へ。日本は幸せをとりもどすことができるでしょうか、考え、提言し、みなさんと語り合いたいと思います。(京都・龍安寺の石庭)
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あえて「非現実的な夢想家」を志す
脱原発と日本変革の新時代へ向かって

安原和雄
カタルーニャ国際賞を受賞した作家、村上春樹さんの受賞スピーチのキーワードは「非現実的な夢想家」である。この表現は誤解を受けやすいが、その真意は「現実的な理想家」を意味していると受け止めたい。「国策」と「現実主義」の名のもとに強行してきた原子力発電のような理不尽なもの、納得できないことを拒むにはあえて「非現実的な夢想家」を志して、行動するのも上策といえる。生半可な理解のまま、国策と現実主義にからめ取られて後恥をかくよりもはるかに上質な生き方だろう。
今では世界的に著名となった「フクシマ」の原発惨事を境に時代は変わった。脱原発と日本変革の新時代へ向かう志の高い「非現実的な夢想家」が続出することを期待したい。
(2011年6月25日掲載。公共空間「ちきゅう座」、インターネット新聞「日刊ベリタ」に転載)

▽ 村上春樹さんの受賞スピーチから

作家の村上春樹さんは、6月9日、スペインのカタルーニャ国際賞(注)を受賞し、「非現実的な夢想家として」と題して受賞スピーチを行った。毎日新聞(6月14~16日付夕刊)に3回にわたってスピーチ全文が掲載された。以下、その要旨を紹介する。
(注)カタルーニャ国際賞は、1989年にスペイン、カタルーニャ州政府によって設立され、世界的な平和と人権、文化、学問に貢献している者に与えられる。ノーベル平和賞受賞者、ミャンマーのアウン・サン・スー・チーさん、元アメリカ大統領のジミー・カーターさんらが受賞している。日本人では村上さんの受賞が初めて。

*「原発は効率と安全」という幻想
 なぜ福島の原子力発電所のような悲惨な事態がもたらされたのか。その原因は、原発を建設した人々が、これほど大きな津波の到来を想定していなかったからだ。何百年かに一度あるかないかという大津波のために、大金を投資するのは、営利企業の歓迎するところではなかった。また原発の安全対策を管理すべき政府も、原子力政策を推進するために、その安全基準のレベルを下げていた。その過ちのために10万を超える人々が土地を捨て、生活を変えることを余儀なくされた。我々は腹を立てなくてはならない。当然のことだ。

 ご存じのように我々日本人は歴史上唯一、核爆弾を投下された。広島と長崎に投下され、合わせて20万人を超す人命が失われた。死者のほとんどが非武装の一般市民だった。爆撃直後の20万の死者だけでなく、生き残った人の多くが、放射能被曝(ひばく)の症状に苦しみながら、時間をかけて亡くなっていった。
 その原爆投下から66年経過した今、福島第一発電所は放射能を撒き散らし、周辺の土壌や海や空気を汚染し続けている。これは我々日本人が体験する2度目の大きな核の被害だが、今回は誰かに爆弾を落とされたわけではない。日本人自身がお膳立てをし、自らの手で過ちを犯し、自身の国土を損ない、自身の生活を破壊している。

 なぜそんなことになったのか? 理由は簡単で、「効率」である。原子炉は効率が良い発電システムであると、電力会社は主張する。つまり利益が上がるシステムである。日本政府は、とくにオイルショック以降、原油供給の安定性に疑問を持ち、原子力発電を国策として推し進めるようになった。電力会社は膨大な金を宣伝費としてばらまき、メディアを買収し、原子力発電はどこまでも「安全だという幻想」を国民に植え付けてきた。

*核を使わないエネルギーの開発を
 そして気がついたときには、日本の発電量の約30パーセントが原子力発電によってまかなわれるようになっていた。国民がよく知らないうちに、地震の多い狭い島国の日本が、世界で三番目に原発の多い国になっていた。
 そうなるともうあと戻りはできない。既成事実がつくられてしまったわけで、原子力発電に危惧を抱く人々には「あなたは電気が足りなくてもいいんですね」という脅しのような質問が向けられる。原発に疑問を呈する人々には、「非現実的な夢想家」というレッテルが貼られていった。

 我々は電力会社、政府を非難する。それは当然であり、必要なことだ。しかし同時に、我々は自らをも告発しなくてはならない。我々は被害者であると同時に、加害者でもあるのだ。そのことを厳しく見つめなおさなくてはならない。そうしないことには、またどこかで同じ失敗が繰り返されるだろう。

 我々は技術力を結集し、持てる叡智を結集し、社会資本を注ぎ込み、原子力発電に代わる有効なエネルギー開発を、国家レベルで追求すべきだった。たとえ世界中が「原子力ほど効率の良いエネルギーはない。それを使わない日本人は馬鹿だ」とあざ笑ったとしても、我々は原爆体験によって植え付けられた、核に対するアレルギーを、妥協することなく持ち続けるべきだった。核を使わないエネルギーの開発を、日本の戦後の歩みの、中心命題に据えるべきだった。
 しかし急速な経済発展の途上で、「効率」という安易な基準に流され、その大事な道筋を我々は見失ってしまった。

 我々は夢を見ることを恐れてはならない。そして我々の足取りを、「効率」や「便宜」という名前を持つ災厄の犬たちに追いつかせてはならない。我々は力強い足取りで前に進んでいく「非現実的な夢想家」でなくてはならない。

▽ 受賞スピーチをめぐるインターネット上の意見

 インターネット上では受賞スピーチについて肯定的な賛成意見と並んで、批判的な意見や疑問も少なくない。例えば以下のようである。

*村上さんは本気だ
 村上さんが比喩などを用いず、ここまで力強く直接的に発言するのは珍しい。それだけ本気なのだと思う。スピーチ全文読んで、今回の大規模な放射能汚染に対する我々の責任をはっきり言葉にしてもらったように思えた。放射能汚染は私達の引き起こした事だ。
 村上さんへの否定的な意見は、どれも取って付けた感がある。彼のスピーチをちゃんと読んでいないのではないか。
*効率を捨てられるか
「効率」だけを求めて生きてきたから、このような事故を引き起こしてしまったんだろうか。たとえそうであっても僕らは簡単に「効率」を捨てることができるのか。
*非現実的な夢想家?
「非現実的な夢想家」だなんて、ひどく無責任な立場だな。自分たちは何もできないと宣言しているようなものだ。

<安原の感想> 「非現実的な夢想家」は実は「現実的な理想家」
 インターネット上に乱舞している多様な意見(いずれも匿名)を読んでみて、人それぞれで、勉強にはなった。ただわたし自身は村上さんのスピーチを高く評価する立場である。だから上記の意見のうち「大規模な放射能汚染に対する我々の責任」、「放射能汚染は私達の引き起こした事だ」などは重く受け止めたいと考えている。
 「効率を捨てられるか」という疑問については、「効率」と「安全・いのち」の二者択一を迫られた場合、どうするかである。効率を優先して「安全・いのち」を壊しているのが現実の日本社会で、これはおかしい。原発はその典型といえる。やはり効率を犠牲にするほかない。ただし効率すべてを否定することはできない。効率だけに視野を限れば、「良い効率」、「悪い効率」があるわけで、「良い効率」が求められのは当然である。

 問題は「非現実的な夢想家」をどう捉えるかである。その真意は反語的用法で「現実的な理想家」と読み取りたい。原発推進派は、原発を疑問視する人々を「非現実的な夢想家」というレッテルを貼って排除した。だから村上さんはそれに抵抗する心情として自らを「非現実的な夢想家」と称したわけで、私(安原)はそういう理解に立ってこの記事全体の見出しを<あえて「非現実的な夢想家」を志す>とした。末尾の<我々は力強い足取りで前に進んでいく「非現実的な夢想家」でなくてはならない>という村上さんの言葉は、まさに「現実的な理想家」への「力強い志」として受け止めたい。

▽ 我々は被害者であり、加害者でもある

 受賞スピーチに次の一節がある。 
 「我々は電力会社、政府を非難する。それは当然であり、必要なことだ。しかし同時に、我々は自らをも告発しなくてはならない。我々は被害者であると同時に、加害者でもあるのだ。そのことを厳しく見つめなおさなくてはならない」と。

被害者であることは容易に理解できるが、「加害者でもある」とは、どういう含意なのか。受賞スピーチは別の箇所でこうも述べている。
「電力会社は膨大な金を宣伝費としてばらまき、メディアを買収し、原子力発電はどこまでも安全だという幻想を国民に植え付けてきた」と。つまり世にいう「安全神話」に依存して、原発を肯定し、ばらまかれた交付金(電源三法交付金)という名の金銭と引き換えに原発推進に加担してきた、その加害者責任である。地域内外の不特定多数者に被害を与えつつあるのだから、加害者責任は決して小さくない。

加害者責任について毎日新聞「記者の目」(6月21日付、和歌山支局・山下貴史記者)が「だまされた国民の責任も問う 原発を拒否した町が教えること」の見出しで論じている。和歌山県漁港の町で関西電力が1988年漁業補償金など約7億円を提示、関係者の兄弟、親戚で賛否が分かれ、人間関係も引き裂かれた。しかし反対運動によって原発誘致を拒否した。「記者の目」の<「危険な原発はいらない」。理由は素朴であり。明快だ>という指摘が印象に残る。「国民すべてがだまされたわけではない。しかしだまされた人々にはそれなりの責任がある」と言いたいのだろう。

 もちろん加害者責任の大部分は、原発推進派の主役・「政官財」に加えて、多くの研究者、技術者、メディアからなる「原発推進複合体」が負うべきである。そうでなければ不公正であり、巨悪と小悪の見境がなくなる。特に「政」のうち原発を導入・推進してきた自民党の責任は重大である。にもかかわらず自己反省のないまま、現政権党への批判として感情的な言辞を投げつける自民党幹部の姿は醜悪というほかない。

*「安全信じていた」が66%も
 地元の多くの人が安全神話を信じていたという調査結果がある。朝日新聞と福島大学・今井照研究室が実施した原発事故による避難住民への共同調査で、それによると、「震災前、原発の安全性についてどう考えていたか」との問いに、「安全」「ある程度安全」と答えた人は計66%もある。一方、原発が地域経済に「役立っていた」と答えた人は「ある程度」も含めて75%だった。ある飲食店主(62)は「原発があったから、過疎にならなかった」と語る。
 「今後、日本の原発をどうすべきか」については「減らす」38%、「やめる」32%で、「増やす」「現状維持」の計30%を大きく上回った。(6月24日付朝日新聞)

<安原の感想> ドイツ風の英知と決断と
 上記の調査結果について驚くのは、「今後の原発をどうするか」に「増やす」「現状維持」が今なお計30%もあるという事実である。明治維新後30年経過してもなおかつチョンマゲを捨てられなかった旧武士が少なくなかったという話を連想する。時代の変化に即応していく意識改革がいかに難しいかを考えさせられる。

 しかし時代は明らかに変わった。脱原発が新しい時代の潮流である。脱原発とともに新時代にふさわしい日本の変革を前へ進めなければならない。メルケル・ドイツ首相は6月上旬、原発全廃(2022年までに全廃)を進めるための法案を連邦議会に提出し、こう演説した。「フクシマは原子力に対する私の見解を変えた」と。
 フクシマの失敗と悲劇に学び、それまでの原発稼働の延長策から原発全廃策へとエネルギー政策を180度転換したのだ。肝心のわが国政権は自国の失敗と悲劇に学ぼうともしないで、原発継続に執着している。ドイツ風の英知と決断に比べいかにも対照的とはいえないか。

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変えよう!脱軍隊、反基地、脱原発へ
同じ苦しみのオキナワとフクシマ

安原和雄
戦後一貫して米軍と米基地で苦しみ続けるオキナワと「3.11」東日本大震災、原発惨事で突如苦しみの中に投げ込まれたフクシマ。このオキナワとフクシマが出会って、集会を開き、その苦しみを共有し合った。しかも「大切なのは、お金ではない、いのちだ」、「基地と原発、苦しみの根っこは同じだ」という認識を確認し合った。
 もちろん初めての試みであり、そこにはいのちを奪うものへの怒りがみなぎっている。打開策はどこに求めるのか。目指すべき目標は、いうまでもなく脱軍隊、反基地、脱原発である。それを実現させるスローガンとして「日米安保条約をやめて、軍隊や核抑止力、原発に頼らない平和な日本へ、安心して暮らせる社会へ」が掲げられている。(2011年6月17日掲載。公共空間「ちきゅう座」、インターネット新聞「日刊ベリタ」に転載)

▽ 大切なのは、お金ではない、いのちに決まっている

沖縄・意見広告運動(第二期)報告関東集会が6月15日東京・中野ゼロホールで約400名を集めて開かれた。関西集会は17日夕大阪市内で開かれた。関東集会のプログラムの大要は以下の通り。

*開会あいさつ=上原成信(沖縄・一坪反戦地主)
*国会報告=山内徳信(参議院議員)、福島みずほ(参議院議員)
*沖縄・福島現地からの報告=伊波洋一(沖縄・前宜野湾市長)、安次富 浩(沖縄・ヘリ基地反対協議会共同代表)、佐藤幸子(福島・子どものいのちを守る会代表)、丸森あや(福島・こども福島ネット・防護世話人)、山崎久隆(たんぽぽ舎副代表)
*連帯あいさつ=藤本泰成(原水禁・平和フォーラム事務局長)、布施哲也(反原発自治体議員・市民連盟共同代表)、花輪伸一(JUCON=Japan USCitizens for Okinawa Network)、園 良太(沖縄を踏みにじるな! 緊急アクション実行委員会=新宿ど真ん中デモ)ほか
*これからの活動への提案(発起人より)

 上記の顔ぶれが次々と報告、あいさつを行った。印象に残った言葉をいくつか以下に紹介する。(発言者の氏名は省略)

・政治家は福島を直視し、脱原発の先頭に立て。
・人を足蹴にして暮らしている都会の暮らしを考え直そう、そういう暮らしをつぶそう!
・安全神話は福島だけではない、沖縄にも共通している。
・日本の政治家はアメリカ政府の顔色をうかがうばかりだ。
・政府はなぜ米軍用思いやり予算(年間約1900億円)を原発被災者に回さないのか。
・民主党に民主主義はない。私たちが民主主義をつくろう!
・おかしいことをおかしいと言うことは大切だよ。
・日本人は、自分の頭で考え、自分の責任で決め、行動する習慣がない。上からの指示がなければ動けない、動かない。
・経済優先の政策がいのちを蔑(ないがし)ろにしてきた。列島に広がった公害がそうだったし、今回の原発惨事もそうだ。
・いのちが大切なのか、お金が大切なのか。いのちに決まっている。
・かつて戦場で国策の名の下に多くのいのちが失われた。今再び国策の名で原発によっていのちが奪われようとしている。

▽ 基地と原発、苦しみの根っこは同じだ

 報告関東集会でのあいさつ、国会報告などの後、採択された「これからの活動 ― 次は、アメリカへ意見広告を」の大要を以下に紹介する。

 2011年6月15日、私たちはここに集まった。そこには歴史的ともいえる出会いがあった。オキナワとフクシマの出会いだ。
 この列島に生きるわたしたちは、いま間違いなく歴史の転換点に立ち会っている。3.11東日本大震災と福島第一原発暴走は、これまでの社会、経済の仕組みのあり方、暮らし方といった生存のあり方すべての問い直しを迫った。このことは、東北という地が首都の電力供給基地、食糧基地、部品基地であることが明らかになり、同時に半世紀以上にもわたって土地を、生活を奪われ、軍事基地による命の危険にさらされて生きる軍事力の供給基地・沖縄の苦しみ、痛みを改めてわたしたちに想起させた。
 福島第一原発の暴走は終息のめどもないまま続き、人々は故郷を追われ、放射線におびえる日々を送っている。沖縄では、日米政府による基地の固定化(辺野古への移設)、M・22オスプレイ(新型垂直離着陸輸送機)の配備押しつけに県民の怒りが沸騰している。普天間基地の即時閉鎖・撤去を急ぐときだ。

 反基地・脱軍隊と反原発・脱原発 ― 。いま列島を渦巻くこの二つの流れが、今日ここで合流した。基地と原発、苦しみの根っこは同じだ。これらを延命させる構造もまた同根だ。平和な暮らしに基地や原発はいらない。沖縄、原発、民意を無視し続けてきた「国策」の誤りを正し、基地や核エネルギー(原子力)政策の根っこにある日米安保条約をやめて軍隊や核抑止力、原発に頼らない日本へ、今日の集まりを機に、私たち一人ひとりが大きく踏み出そうではないか。

 沖縄・意見広告運動は、東京、関西で発起人、呼びかけ人が集まり、当面の活動方向を以下のようにまとめた。
①米国主要紙・インターネットメディアを対象に、アメリカ市民に私たちの気持ちと決意を伝える意見広告を実現する。
②日米安保を見直し、軍事力に頼らない、基地や原発に頼らない平和な沖縄、日本をどうつくるかについて、運動のネットワーク・共同センターなどの準備を進める。
③アメリカ向け意見広告への賛同、ボランティアスタッフの募集を継続する。

▽ 「命どう宝」・・・沖縄の言葉を今こそかみしめたい

 沖縄・意見広告運動(第二期)によって5月14日『琉球新報』、『沖縄タイムス』、15日『朝日新聞』に掲載された意見広告文(一部)を紹介する。上述の「これからの活動」の文言と若干重複するところもあるが、そのまま記す。

 言葉を失うほど多くの人々の命と生活を根こそぎ奪ってしまった巨大地震・巨大津波。
 東日本大震災によって私たちは改めて命の尊さを教えられた。
 そしていまも続く福島第一原子力発電所の深刻な事故(人為災害)は、国策として推進されてきた原発の安全性がいかに欺瞞に満ちたものであったか、神話にすぎなかったのかを語っている。

 私たち自身の未来のために。

 沖縄の米軍基地も県民の切実なねがいを何ら汲み上げることなく国策として押し付けられ続けてきた。
 半世紀以上にもわたって土地を、生活を奪われ、軍事基地と核という危険にさらされて生きる不安・恐怖はどれほどのものか。
 巨額の税金を注ぎ込んだ「思いやり予算」や米軍再編関連費に支えられた米軍の「トモダチ作戦」は、真の「良き隣人政策」と言えるものなのか。
 沖縄の基地の固定化(辺野古への移設)、日米軍事同盟の深化への布石ではないかと危惧する。
 沖縄、原発、民意を無視し続けてきた「国策」の誤りを正す責任を、いま私たち一人ひとりが問われているのではないか。
 基地のない沖縄、軍隊や核抑止力、原発に頼らない平和な日本、安心して暮らせる社会へ。
 つくられた「原発安全神話」、「核抑止力神話」と決別して、日本の社会のあり方、私たち自身の生活のあり方を根本から問い直し、変えていこう。
 経済成長がすべてではない。
 何よりも大切なのは生命だ。
 命(ぬち)どう宝・・・文字どうりこの宝のような沖縄の言葉をいまこそかみしめたい。

<安原の感想> いのちを奪うものへの怒り ― 脱軍隊、反基地、脱原発を

 今回の意見広告報告関東集会に参加して印象づけられたことは、共通テーマ「いのち」であり、「いのち」が、軍隊と基地と原発を容認し、推進していく国策の名のもとに奪われていくことへの怒りである。その怒りが会場を駆けめぐっているのを感じた。
「いのち」をめぐる発言、文言はいくつもあるが、一つだけ挙げれば、「何よりも大切なのは生命だ。命(ぬち)どう宝・・・この宝のような沖縄の言葉をいまこそかみしめたい」である。いのちを奪う側に立つのか、それともいのちを守り、生かす側に立つのか、その選択の仕方が国民、市民一人ひとりに問われている。

 さていのちを守り、生かすために目指すべきことは脱軍隊、反基地、脱原発でなければならない。その戦略目標を確認し合ったのが最大の収穫とも言える。この列島上に生きるオキナワとフクシマが出会って、「基地と原発、苦しみの根っこは同じだ」という認識を共有できた。「同じ苦しみの根っこ」は何か。それは「基地や核エネルギー(原子力)政策」を推進してきた日米協調体制、その土台となっている「日米安保条約(=日米安保体制」にほかならない。
 だからこそ「日米安保条約をやめて、軍隊や核抑止力、原発に頼らない平和な日本へ、安心して暮らせる社会へ」が、今後進むべき大道であり、それ以外の選択肢はあり得ない。

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来年5月には原子力発電ゼロも
「6.11」脱原発デモの成果か

安原和雄
「6.11」脱原発デモ(100万人アクション)は日本列島各地に限らず、世界各国にも広がった。デモ参加者から多数のメールが届いており、その一つに<イタリアの記者に「警官に列を作られてするデモでは日本は何も変わらないよ」といわれ、「市民から変えていく。日本は変えられると信じている」と答えてきた>とある。デモに初参加の人の意気込みである。
デモの成果は果たして期待できるのだろうか。デモは従来、参加者たちの自己満足に終わることが多かった。しかし今回は事情が異なっている。目標の「脱原発」が早ければ来年5月にも実現し、原子力発電がゼロになる可能性も出てきたのだ。これが実現すれば、脱原発デモの偉大な成果として、歴史に記録されることになるだろう。(2011年6月13日掲載。インターネット新聞「日刊ベリタ」、公共空間「ちきゅう座」に転載)

▽ 東京・新宿の脱原発デモを見て、聞いて

 デモの取材を兼ねて6月11日夕5時頃JR新宿駅東口前広場へ辿り着いた。環境政党・「緑の党」を目指す市民組織「みどりの未来」の幟(のぼり)や社民党の宣伝カーなどの周辺に人の輪がつくられている。約1時間そこで見たり聞いたりしたことを報告したい。

 「原発のない未来へ」、「脱原発で行こう!!  いのちが大事 くらしが大切」、「国会に緑の党を! みどりの未来」と書いた幟が風に揺れている。デモや集会におなじみの光景である。
 ところが肩や腕に入れ墨をして、それを誇示するかのように露(あら)わにしている美女一人が人の輪の中をあちこちと闊歩しているのには驚いた。場違いと言いたいのではない。「こういう入れ墨なら悪くない」と感心したような次第で、時代の変化というべきか。
 演説の仕方も穏やかになった。「だからね・・・」という調子で、絶叫型ではなく、語りかけるという風情である。

 多数の警視庁警官が交通整理に当たっており、車上から「交通の妨げになるので、直ちに流れ解散して下さい。それが本日の集会の条件です」という趣旨を繰り返し叫んでいる。集会者の側でこれを聞いて解散する者は誰一人いない。
 取り巻いている多数の警官をみていて、あることに気づいた。通常なら腰に付けているはずの警棒がみえない。すぐ脇にいた警官に聞いた。「警棒はわざわざ外してきたのか」と。「そうです」という答えが返ってきた。デモと対立状態になることを避けたいという配慮なのか。

 こういう光景もあった。石垣の上に立っている男性に警官が「そこから降りなさい」と注意したところ、その男性は言葉を返した。「お巡りさん、そんな堅いことを言わないの。仲良くしましょうよ!」とおどけてみせて、周囲の笑いを誘っていた。
 私の脇に立っていた中年の女性に聞いてみた。
 「どこかの団体か組織に所属しているの?」「いいえ」
 「この種の集会には初めての参加ですか」「そうです。原発に疑問を感じたので・・・」
デモには初参加という人々が圧倒的多数派のようである。

 <安原のコメント> 半世紀を経て大きな変化も
 私は駆け出しの新聞社社会部記者だった半世紀前の1960年5~6月、国会周辺で当時の反安保闘争を取材した経験がある。労働組合員、学生たち中心のデモ隊が警察機動隊に取り囲まれながら「アンポ、ハンタ~イ」とマイクで絶叫していた当時と比べれば、デモの風景も参加者のスタイルも随分変化したという印象である。半世紀も経過すれば、変化していくのは当然だろう。
 もう一つの変化を挙げれば、ドイツやフランスなど海外からの支援が寄せられていることである。
 5月来日したドイツ緑の党・連邦議会議員、シルビア・コッティング・ウールさんは「私たち緑の党は日本での反原発運動を支援している。世界の人々が協力して原子力に頼らない持続可能な緑の社会を築こう」という連帯メッセージを寄せた。来日中のフランス緑の党・欧州議会議員、ミシェル・リヴァジさんは、新宿駅東口前広場の集会に駆けつけた。メルボルン(オーストラリア)、香港、台北など世界各地でも11日、脱原発の集会やデモがあった。

 東京新聞の【コラム】筆洗(2011年6月12日付)を以下に紹介する。私(安原)が抱いたのと同じような印象をつづっている。

 よくいえば自由奔放。悪くいえば無秩序。数千人の参加者が東京・新宿の繁華街を練り歩いた反原発デモは、数百人もの警察官が物々しく取り囲む中、アンプとスピーカーを積んだサウンドカーが大音量で演奏して先導するお祭りのような騒ぎだった。
 東京や名古屋をはじめ、全国各地で、反原発を訴えるデモがあった。労組が前面に出る従来型だけでなく、ネットを通じて自然に集まった若者たちが、思い思いに声を上げるスタイルに新しい時代の風を感じた。
 事故を防げなかった電力会社と政府に対する怒りと不信、生活を奪われ苦しむ人たちへの深い同情、二度と事故を起こさないという決意。参加者の胸にはさまざまな思いが去来していただろう。「なぜ日本ではデモも起きないのだろう」。海外からは不思議がられたが、デモに参加する人はもっと増えるだろう。多少の不便はあっても原発に頼らずに暮らしたいという考えは、世代を超えて根を下ろし始めているからだ。

▽ 来年5月には原発運転ゼロになる可能性も

 以下に紹介するのは、「福島原発事故緊急会議」(今回の「6.11」脱原発デモを呼びかけた組織の一つ)による全国原発の運転状況に関する記事で、「点検中の原発再開メド立たず~来年5月には原発ゼロの可能性も」という見通しを指摘している。

 東京電力の福島第一原子力発電所事故の影響で、各電力会社が定期検査のため停止している原発の運転再開にめどが立っていない。3月から検査の最終段階である「調整運転」に入っている北海道電力の泊原発3号機と関西電力の大飯原発1号機の2基も、営業運転に入れないまま3カ月を迎える。現状が続くと、来年の今の時期には、全ての原発が自動的に止まることとなる。
 
*現在営業運転している原発はわずか17基
 現在、停止している原子力発電所は、東日本大震災の影響で停止している福島第一、第二原発や女川原発のほか、故障などで停止している計26基。このほか島根原発1号や美浜原発1号など11基が定期点検中のため、営業運転しているのは残りのわずか17基となっている。
 
 原発は電気事業法で、ほぼ13カ月おきに、原発を停止して検査を行うことが決まっているが、通常の場合、定期検査で停止した原発は地元の了解なしに運転再開。1カ月程度の調整運転を経て、原子力安全・保安院の最終試験を実施し、営業運転に入る段取りになっている。
 
 しかし今回は福島第1原発の事故を受け、地元への理解が必要になっているため、一方的に再開に踏み切れない状況にある。しかも、政府が浜岡原発に対して停止要請を出したのを受け、原発のある自治体が、地元の原発と浜岡原発の安全性の違いがどこにあるのか、その基準の明示を政府に求めており、電力会社側もその状況を注視しているといった事情もある。

* 自然な「脱原発」達成の声も 
 国は6月7日、福島の事故に関する報告書を提示したものの、老朽化した原発の対策が不透明な点や、浜岡原発以外の原発を安全と判断した根拠も示されていないなどとして、自治体側は判断を見合わせている。
 
 海江田万里経済産業相は、電力不足の恐れがある7月には定期点検中の原発を稼働させたいとしているものの、地元の理解が得られなければ、原発の再開は遅れる見通し。このまま、現在の状態が継続すると、9月頃には、営業運転している原発は10基に減り、来年の今頃にはゼロとなり、自然な「脱原発」が達成されるとの声もある。

<安原のコメント> 地元の了解なしには原発運転は困難に
 ドイツやフランスなど海外の支援も得て日本全国規模で行われた「6.11」脱原発デモの成果は果たしてどこまで期待できるのか。この一点こそ今後の注目点である。従来のデモは、やりっ放しで、デモの狙う目標が達成されることは少ない。ところが今回は「脱原発」が意外に早く達成される可能性も出てきた。

その理由は以下の事情による。わが国の総原発数54基のうち現在停止中は26基(福島第一原発1号~6号、同第二原発1号~4号、浜岡原発1号~3号など)、定期点検中は11基、営業運転中は17基となっている。現在運転中の原発17基は定期点検のためほぼ1年以内に停止せざるを得ない。一方、現在定期点検中の11基は運転再開に当たって、従来の自動的再開は困難で、地元の了解が不可欠となる。
 ところが脱原発デモに象徴されるように列島上に脱原発の声が広がりつつある現状では、再開の了解を得るのは難しいだろう。要するに鍵となるのは地元住民や自治体の了解が困難ではないかというこれまでにない新事態である。いずれにしても地元住民や自治体は目先の算盤勘定ではなく、子々孫々に至るいのちにかかわる判断が問われることになる。

 かりに原発全面停止になれば、電力が足りなくなるという意図的心配性の声も聞こえてくるが、それに対しては電力節約型のシンプルな生活への切り替えと、水力・火力発電等によって「原発全廃の穴埋めは十分可能」という健全な楽観説も有力であることを指摘しておきたい。

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日本列島に広がる脱原発の動き
「6.11」100万人アクションへ

安原和雄
 脱原発を求める動きが日本列島の各地で広がりつつある。注目されるその一つは、福島原発惨事から3か月目の6月11日、全国の都道府県で実施される「6.11脱原発100万人アクション」である。これは日本の環境政党「緑の党」を目指す市民組織「みどりの未来」が呼びかけたもので、こうしたアクションものに限らない。
 「みどりの未来」の招きで来日したドイツ緑の党・連邦議会議員は「なぜ日本政府は脱原発を明確にしないのか」と率直な疑問を提起している。月刊論壇誌『世界』は経験豊かな原発技術者という異色の顔ぶれで座談会を企画し、安全とは無縁の原発技術の重大な欠陥をついている。脱原発への多様な動きがさらに広がり、定着していくことを期待したい。(2011年6月6日掲載。公共空間「ちきゅう座」、インターネット新聞「日刊ベリタ」に転載)

 市民組織「みどりの未来」による「6.11脱原発100万人アクション」への呼びかけは以下の通り。
6月11日は、福島原発震災から3か月。
今なお放射能の放出は続いている。
私たちは、人や自然を傷つける電気はいらない。
全国各地域の人々とともに、6月11日に
脱原発を求める100万人アクションを呼びかける。
6月11日は、声をあげよう! 今こそ脱原発へ!!

 アクションは集会、パレード、講演会はもちろん映画会、ライブなど多様で、おそらくすべての都道府県で実施される。日本の脱原発運動の画期をなすものとなるだろう。日本だけでなく、フランス、ドイツでも大規模な集会が予定されるなどグローバルな動きが広がっている。

▽ ドイツ緑の党・連邦議会議員が「日本の印象」を語る

 ドイツ緑の党・連邦議会議員 ジルビア・コッティング・ウールさんとのインタビュー記事を紹介したい。
 ウールさんは気候変動や核・原子力問題など環境政策全般に関する「緑の党」のスポークスパーソン。「緑の党」・日本を目指す市民組織「みどりの未来」の招きで来日、5月15日から1週間日本に滞在し、東日本大震災・福島原発事故の被災地や浜岡原発(静岡県、現在運転停止中)を訪ねたほか、各地でのシンポジウムや集会に参加した。
インタビュー記事は「みどりの未来」の機関紙「みどりスタイル」(6月1日発行)に掲載されている。記事の見出しは「(日本の)エネルギーシフトに必要な要素はドイツ以上にそろっている。足りないのは、政治的意思だけだ」。
 その大要は以下の通り。

*ドイツでは考えられない中部電力の対応
問い:浜岡原発を訪ねてどう感じたか。
答え:一時停止となったものの、津波の防波堤をつくり、政府によって認められれば、再開できるという計画は、住民や国民に対して無責任だ。東海地震はいつ起きてもおかしくない。津波対策だけでは不十分だ。地震そのものに対応できない。廃炉にすべきだ。
 私は、中部電力に面会を申し入れていた。現地の市議と市民団体が作成した要望書を渡したが、受け取ったのは責任者ではなく、ただのスタッフで、コメントもない。御前崎市長にも面会できず副市長が対応、「国の行動に従うのみ」と繰り返すだけで、目も合わせようとしなかった。このような対応はドイツでは考えられない。

*原発は民主主義の根本に反する
問い:原発とはいかなるものだと考えるか。
答え:情報操作や統制、被曝線量の上限値引き上げなどは、日本固有の問題ではない。これは原発というシステムに内在しているものだと強調したい。原発は人類の手に負えるものではない。いったん事故が起こると、私たちはそれをコントロールできない。政府が解決できる範囲を超える問題になってしまう。
 原発はその本質として、民主主義の根本に反する。民主主義は透明性が基本であるのに、原発を動かしてきた政治システムには、つねに不透明さが付きまとう。特に事故が起こると、透明性を確保するのは不可能になる。結局、人間は原発と共存できない。

*自然エネルギーは雇用と新産業を生み出す
問い:原発をめぐるドイツの状況をお聞きしたい。
答え:ドイツで脱原発への大きなきっかけとなったのは、チェルノブイリだった。いまでは国民の過半数が脱原発を望んでいる。市民の力と緑の党の存在が大きい。
 ドイツでは脱原発と自然エネルギーへの転換・促進とをペアで考えてきた。来年には自然エネルギーの供給量が原子力エネルギーを追い越す。自然エネルギーは大きな雇用と新しい産業を生み出すことにもつながっている。

*なぜ日本政府は脱原発を明確にしないのか
問い:日本におけるエネルギーシフトの可能性は?
答え:風力、太陽光、水力など、日本は自然エネルギーの潜在的能力が高いことを今回確認できた。技術もある、教養レベルの高い技術者も沢山いる。エネルギーシフトに必要な要素はドイツ以上にそろっている。足りないのは、政治的意思だけだ。
 広島、長崎の被曝経験を持っている国が、地震国にもかかわらず、原発をなぜこんなに建てたのか。福島の事故後も、浜岡を一時停止にしただけで、なぜ廃炉にしないのか。この期に及んで、どうして政府は脱原発の方向性を明確にしないのか。私の理解を超えている。
 私のドイツでの経験から言えることは、一人ひとりの市民が脱原発の声をあげること、それを市民団体がまとめていくこと、そして市民団体が連携してその声を代表する政党を送り込み、議会での政策に反映させていくことが大事だ。その意味で「みどりの未来」の存在は重要だ。

<安原の感想> 「不思議な国、日本」なのか
 ドイツは2022年までに脱原発を実現させることで政治的合意ができている。その脱原発の先進国、ドイツから来日した連邦議会議員、ウールさんは「不思議な国、日本」という印象を抱いたのではないか。面会した相手が<「国の行動に従うのみ」と繰り返すだけで、目も合わせようとしなかった。このような対応はドイツでは考えられない>という感想がそのことを示唆している。
<広島、長崎の被曝経験を持っている国が、地震国にもかかわらず、原発をなぜこんなに建てたのか。なぜ日本政府は脱原発を明確にしないのか。私の理解を超えている>も「不思議な国、日本」の何よりの具体例である。
 <原発はその本質として、民主主義の根本に反する>という指摘には教えられるところが多い。原発の誘致には多額の交付金がばらまかれたため、原発に「損得」の次元で対処してきた。ところが実は「民主主義」の問題なのだという認識はほとんどなかったのではないか。「自由と民主主義」は憲法で保障されており、口先では唱えながら、それを実践できない日本であるなら、たしかに「不思議な国」というほかないだろう。

▽ 原発技術者の座談会「安全な原発はあり得ない」

 『世界』7月号(岩波書店)は「東日本大震災・原発災害特集 破局はなぜ防げなかったのか」を組んでいる。その一つ、原発技術者による座談会「安全な原発などあり得ない ― 技術と安全の思想を問う」が示唆に富んでいる。
 出席者は小倉志郎(35年間、技術者として福島第一や柏崎刈羽などの原発関連業務に携わる)、後藤政志(東芝で原子炉格納容器や浜岡原発などの設計に携わる。工学博士)、田中三彦(パブコック日立で福島原発などの原子炉圧力容器の設計に携わる。著書に『原発はなぜ危険か』・岩波新書など)の三氏。
 座談会の一部、「今回の事故から何を学ぶか」についてその要点を以下に紹介する。

*原子力は失敗したら元に戻せない不可逆の象徴
 失敗学という言葉があるように、技術は失敗から学ぶことが重要だ。失敗から学べるものは技術として成立する。しかし原子力のように一回の失敗もあってはならないものは、失敗から学ぶことはできない。それは本質的に「技術」とはいえない。人類はすでに原子力でスリーマイル、チェルノブイリ、フクシマと失敗を重ねている。この失敗から技術的に学べることは存在しない。「より安全な原発」などといわれているのを見ると、問題の深刻ささえ学べていない。
 失敗から反省して学ぶことができる技術と、失敗したときには取り返しのつかない、技術とは言えない「技術」とがあることを、特に若い技術者には深く考えてみてほしい。一つの大切なポイントは、可逆か不可逆か、だと思う。元に戻せるか戻せないのか。それが放射能が出たときには戻せない。地球温暖化の問題も同じで、元に戻せないかもしれない。これが環境や技術を考えるときの大原則ではないか。原子力は不可逆の象徴だ。それがなぜ「環境に優しい」とか「クリーン」など形容矛盾が普通のことのように言われていたのか。

*事故が起きる確率がゼロでなければ、リスクは無限大に
 事故が起こる確率と事故が起きたときの被害の大きさを掛け合わせて算出するのがリスクだということ。現在の福島の状況をみて、被害の大きさを算定することができるか。これから何世代にもわたって影響のある被害を、どのように算定できるのか。放射性物質が環境にばら撒かれたら、被害の大きさは計算不可能な無限大になってしまう。だから起きる確率がどれだけ小さくてもゼロでなければ、リスクは無限大になる。この点は他産業の事故と決定的に違う。起きたら無限大の被害になることは、どんなに起きる確率が低くても、やってはいけない。
 いま政府の姿勢も世論も変わってきた。しかし原発の抱えるリスクが変わったのではない。ずっと昔から同じ、リスクは無限大だったし、いまもそうだ。そのような事故と被害が起きてしまってから方向転換を考えるなんて、想像力不足だったのではないか。

*エネルギー中毒のようなライフスタイルを変えよう
 国や御用学者は、破局的な事故を起こす確率の「低さ」ばかりを強調して論じ、いったん事故が起きたときの社会的、人的被害の評価をしないできた。この確率論の危なさが今回、明らかになった。
20世紀の技術は、外界を断ち切っていく「閉じ込め」の技術だった。家の構造がその典型で、外がどうであれ、中は温度も湿度も一定だというありかただ。北海道でも東京でも九州でも同じ高気密・高断熱の家に住むという奇妙なことになっている。これは外を断ち切って、多くのエネルギーを費やして人工の世界を作ることで、こうした「閉じ込め」の技術の極端な表現が原発だ。中に最も危険なものがあるけれど、それを閉じ込めるという発想だ。
 アメリカの環境科学者、ジョン・トッドさんの「21世紀の技術とは、自然の中に存在している技術を模倣していくこと」という言葉が印象に残っている。自然は非常に効率よくエネルギーを循環させていく。現在の技術は、自然からどう学ぶかが問われているのではないか。自然エネルギーを導入するといっても、エネルギー中毒のようなライフスタイルを展開するのであれば、むしろ原発がふさわしい。その生き方を変えていかなければいけない。

<安原の感想> 「自然エネルギー尊重=簡素・知足・持続性」のイメージ
 もっぱら仏教経済(学)のありようを模索中の私にとって、特に原子力技術は手に負えない領域という認識にとどまっていた。しかしこの原発技術者の座談会を読んで「なるほど」と教えられるところが少なくない。例えば以下の諸点である。
・失敗したときには取り返しのつかない、技術とは言えない「技術」があること。それが原子力技術だ。
・事故が起きる確率がどれだけ小さくてもゼロでなければ、リスクは無限大になる。それが原子力技術だ。
・「21世紀の技術とは、自然の中に存在している技術を模倣していくこと」で、現在の技術は、自然からどう学ぶかが問われている。

 以上の三点は「だから原子力技術よ、さようなら!」、つまり脱原発こそ日本の生きる道であることを強調している。この視点、認識を多くの人々の共有としたい。
 もう一つ興味深く感じたのは、末尾の「自然エネルギーを導入するといっても、エネルギー中毒のようなライフスタイルを展開するのであれば、むしろ原発がふさわしい。その生き方を変えよう」という指摘である。これをどう読み解くのが正解だろうか。私なりに「原発依存症=貪欲・暴力・非持続性」、「自然エネルギー尊重=簡素・知足・持続性」というイメージで理解したい。いいかえれば「もっともっと自然エネルギーを」という欲望に執着するのであれば、原発依存症と大差ない生き方といえる。

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今こそ「脱原発」へ正しい判断を
女子中学生の新聞投書は訴える

安原和雄
「大人は脱原発で正しい判断を」と訴える女子中学生の新聞投書に注目したい。若者たちから大人につきつけられた不信任の声であり、なぜ大人たちは「脱原発」への正しい判断ができないのか、という焦燥感に駆られた心の叫びとも言えるのではないか。
メルケル・ドイツ首相は5月末、記者会見で「ドイツは2020年までに原発を全廃し、太陽光など再生可能エネルギー(=自然エネルギー)の分野で先駆者となる。世界の模範となる」と述べたと伝えられる。これに反し、日本の菅首相は先のG8サミットで自然エネルギーの拡充を唱えはしたものの、「原発も活用していく」と煮え切らない。脱原発への道には、人間だけではなく、動植物を含む生きし生けるもののいのちと尊厳がかかっている。(2011年6月1日掲載。公共空間「ちきゅう座」、インターネット新聞「日刊ベリタ」に転載)

▽ 女子中学生の新聞投書、「大人は脱原発で正しい判断を」

 ひとつの新聞投書(5月29日付毎日新聞「みんなの広場」に掲載)を紹介する。見出しと投書者(氏名は省略)は以下の通り。

*大人は脱原発で正しい判断を(女子中学生 14歳 東京都目黒区)
 今まで原発は安価で二酸化炭素を出さない未来のエネルギーといわれてきた。しかし今回の福島原発の事故で、人間が原子力を制御できているわけではないことが明らかになった。
 年々増えていく放射性廃棄物も心配だ。除去できないから、とりあえず埋めておこうというのは無責任だ。事故をきっかけに原発について調べた中で、一番ショックを受けたのはこの点だった。私たち子どもに核爆弾入りの国土をプレゼントしているのとなんら変わりはないではないか。
 だから原発は廃止してもらいたい。すぐには無理でも、明確な意志で自然エネルギーに移行していけないだろうか。現行の原発関連の研究費や交付金を太陽光発電の研究費や購入助成金に回せば、今は割高な自然エネルギーにも競争力がつき、日本の技術として未来の経済活動の柱にもなる。
 中学生の私たちも将来の日本や世界のために頑張っていきたい。だから今の大人たちにも正しい判断をしてほしい。

 この投書は「正しい判断」として次の3点を挙げている。
・人間は原子力を制御できないことが明らかになった。
・放射性廃棄物は、除去できないから埋めておこうというのは無責任だ。これは私たち子どもに核爆弾入りの国土をプレゼントしているのと変わらない。
・脱原発に踏み切り、自然エネルギーへの移行をすすめること。自然エネルギーの技術は未来の経済活動の柱にもなる。
 以上のような女子中学生の脱原発への期待に大人たちは果たしてどこまで応えようとしているか。つまり「正しい判断」をしているかどうか。

▽G8サミットに関する大手紙社説の姿勢

 5月27日閉幕した主要8カ国首脳会議(G8サミット=フランスで開催)が採択した首脳宣言に関連して日本の大手5紙社説は何を論じたか。「脱原発」にどの程度言及しているか、つまり女子中学生が期待する「正しい判断」を見出すことができるか ― という視点から紹介したい。
 主要8カ国とは、日本のほかアメリカ、イギリス、フランス、ドイツ、イタリア、カナダ、ロシアの各国である。菅首相はサミットの場で日本の電力全体に占める自然エネルギー(=再生可能なエネルギー)の発電比率(現在水力を含めて約9%)について「2020年代の早い時期に20%とするよう大胆な技術革新に取り組む」と表明した。

 まず大手5紙の社説の見出しは以下の通り。
*朝日新聞(5月27日付)=2本立ての社説で、一つは「新エネ目標 太陽と風で挑戦しよう」、もう一つは「天然ガス協力 脱・原発依存に生かせ」
*毎日新聞(5月28日付)=2本立てで、「G8と原発 安全対策を早く進めよ」と「海水注入問題 何を信じていいのやら」
*東京新聞(5月27日付)=自然エネ20% 目標倒れは許されない
同上 (5月28日付)=菅首相G8出席 政権崖っぷちと心得よ
*読売新聞(5月27日付)=新エネルギー策 安全性高めて原発利用続けよ
同上 (5月28日付 =G8首脳会議 原発安全へ日本の教訓生かせ
*日経新聞(5月27日付)=自然エネルギー拡大の条件
 同上  (5月28日付)=首相はサミットで世界の不安に応えたか

 以下、社説の要点を紹介する。
*朝日新聞
<新エネ目標>必要な電力を確保するには、自然エネルギーの飛躍的な活用が欠かせない。ただ自然エネルギーの割合は現在、大型の水力を含めて10%足らずしかない。20%実現の道はたやすくはない。(中略)即戦力として、もっと風力に目を向けてもよい。
 一方、首相はフランスのサルコジ大統領との会談で、安全性を確保したうえで、原発を「活用していく」と語った。原発そのものを今後どうしていくのか、そろそろ本格的な論議を始めるべきではないか。
<天然ガス協力>脱・原発依存への現実的な道としては、再生可能エネルギーの促進策と平行し、天然ガスの有効活用に取り組んでいくべきだ。

*毎日新聞(海水注入問題・略)
<G8と原発>原発の安全が主要議題となり首脳宣言にも盛り込まれた。その意義を評価したい。首脳宣言では、日本の事故から教訓を読み取ることの重要性を指摘。すべての原発保有国に安全点検をするよう促している。原発推進か、脱原発にかじを切るかの違いによらず、当然の対応策だ。ぜひ迅速に進めてほしい。

*東京新聞(自然エネ20%・略)
<菅首相G8出席>日本の首相がサミット冒頭で発言するのは異例だ。しかしせっかくの冒頭発言もサミットでの論議の流れをつくるには至らなかった。発言内容からは「自然エネルギーへの転換」を目指す明確な意思が読み取れないからだ。
 エネルギー基本計画を見直してこれまでの原子力、化石エネルギーに自然エネルギーと省エネルギーを加えて四本柱としたが、原子力の割合は明示していない。サミットは自然エネルギーへの転換をアピールする機会だったが、首相発言後の討議では原発推進発言が相次いだ。

*読売新聞(G8首脳会議・略)
<新エネルギー策>そもそも自然エネルギーが普及しないのは、その質・量・コストに難があるからだ。風力や地熱開発は立地の厳しい制約もある。資源小国の日本が経済力を維持し、復興に確かな道筋をつけるためには、やはり、原発の安全性を高めて活用していくことが現実的な選択である。
 世界各国は二酸化炭素の排出量を減らす地球温暖化対策も迫られている。その点で原発はなお、有力なエネルギー源といえる。日本は原発を利用しつつ、石油などの化石燃料や、自然エネルギーも組み合わせる最適なモデルを目指さねばならない。

*日経新聞(首相はサミットで・略)
<自然エネルギー>原子力発電所の新増設が難しくなるなか、太陽光や風力などの利用拡大は当然の流れだ。だがエネルギー政策全体でどう位置づけ、コストの高さなどどう克服するか、具体策が欠かせない。
 欧州連合(EU)は温暖化ガスの削減へ向けて自然エネルギーの利用を柱にすえている。発電量比では09年にすでに約2割に達し、20年には35~40%を賄う計画だ。日本の目標(2割)は前倒ししても控えめだが、国際社会に公約した意義は大きい。

▽ 5紙社説は「脱原発」にどこまで触れているか

 今回のG8首脳宣言は脱原発にどのように触れているのか。次のような文言となっている。
 「各国が、エネルギー・ミックスにおける原子力エネルギーの利用および貢献について、段階的導入または段階的廃止も含めさまざまなアプローチを取り得ることを認識する」と。
 一つのまとまった方向を打ち出したのではなく、脱原発か原発推進かは各国それぞれの自由な選択による、という意味である。

 さて各国の姿勢をみると、脱原発派はドイツ、イタリア、原発推進派はアメリカ、フランス、ロシアで、日本はどうか。菅首相は今後のエネルギー基本計画として「原子力、化石エネルギーに自然エネルギーと省エネルギーを加えて四本柱」とすることをサミットで説明したが、原発も「活用していく」という立場であり、決して脱原発派ではない。

 以上のような姿勢を新聞社説はどう評価しているか。原発推進を擁護しているのは読売社説だけで、「原発の安全性を高めて活用していくことが現実的な選択である」と指摘している。「原発の安全」という迷妄から抜け出せないらしい。
 原発大惨事の「3.11」以前は大手各紙とも原発批判の姿勢ではなかった。むしろ擁護してきた。それが最近、多数派は原発批判に鞍替えしたわけで、この調子では風向き次第でいつまた変化するか分からない。「信念乏しい社説」という懸念が消えない。

読売以外の各紙社説は原発に疑問符をつけているといっても、その姿勢は多様である。例えば朝日社説は「脱・原発依存」という表現を使いながら、一方では「原発そのものを今後どうしていくのか、そろそろ本格的な論議を始めるべきではないか」などと悠長なことを言っている。「脱原発」の視点から「原発削減をどう進めていくか、議論しよう」という意味なら、そう書かなければ読者には真意が伝わらない。

 同じ朝日の若宮啓文主筆は座標軸(5月23日付)で「脱原発で東北ビジョンを語れ」という見出しで次のように書いている。
ヒロシマ、ナガサキに加えて今度のフクシマだ。開催国フランスに気兼ねしすぎず、世界有数の地震国として「脱原発」の国造りを鮮明にするのがよい。太陽光や風力を軸に「東北を新たな自然エネルギーの供給の場に」と国会で語った菅首相は、そんな「東北ビジョン」を世界の実験とすべく、技術や資金の投入を呼びかけてはどうか、と。
 主筆の座標軸が脱原発を明示しているのに比べ、社説は歯切れがすっきりしない。朝日としては脱原発で筋を通すことに迷いでもあるのだろうか。

▽ 「脱原発」社会の実現を目指して

 完全な脱原発、すなわち100%再生可能なエネルギー(=自然エネルギー)で成り立つ社会の実現は果たして可能なのか。「WWF(注)エネルギー・レポート」(2011年2月発表)はつぎのように指摘している。
大幅なエネルギー効率の改善を達成しながら、再生可能なエネルギーを急速に拡大していくことによって、原発の段階的廃止を進め、2050年に100%再生可能なエネルギーでまかなう社会は可能である、と。
(注)WWFは1961年の設立当初、World Wildlife Fund(世界野生生物基金)という名称で、WWFはその略称だった。その後、活動を野生生物の生息地を含めた、自然環境の保全に拡大し、名称も1986年、World Wide Fund for Nature(世界自然保護基金)に変更した。さらに2001年以降、「WWF」が正式名称となっている。

 上記の「WWFエネルギー・レポート」は、以下のようなIPPC(気候変動に関する政府間パネル)による『再生可能エネルギー源と気候変動の緩和に関する特別報告書』(2011年5月9日発表)の分析・見通しと共通の認識に立っている。
・IPPCは、再生可能エネルギーは急速に伸びており、2009年は金融危機にもかかわらず、風力発電30%以上、太陽光50%以上、太陽熱20%以上増加したと指摘している。また2008年から2009年にかけて新たに増加した設備容量のうち、ほぼ半分が再生可能エネルギーで占めるほど成長している。増加した再生可能エネルギー発電所の50%以上が途上国にある。
・ほとんどの再生可能エネルギーは、技術的な発展とともに今後数十年で、費用も十分下がってくることを示した。
・再生可能エネルギーをさらに拡大していくためには、社会的インフラを整え、投資を促す政策で後押しすることが必要だ。

<安原の感想> 「核のゴミと廃炉」の長期管理という難問
 「WWFエネルギー・レポート」によれば、「2050年に100%再生可能なエネルギーでまかなう社会は可能」、つまり原発は世界全体で不要となる。この見通しによれば、女子中学生の脱原発への願望が実現するのは、何と約40年後である。

 しかも原発技術者、平井憲夫氏の「原発がどんなものか知ってほしい ― 優しい地球 残そう子どもたちに」と題する遺書が深刻な問題を訴えていることに注目したい。
 原発は今は電気を作っているように見えても、何万年も管理しなければならない核のゴミに、膨大な電気や石油が要る。今作っている以上のエネルギーが必要になることは間違いない。しかもその核のゴミや閉鎖した原発を管理するのは、私たちの子孫なのだ。そんな原発がどうして平和利用といえるか、と。
 (ブログ「安原和雄の仏教経済塾」に2011年4月5日掲載の記事<「平成の再生」モデルを提唱する 大惨事の廃墟から立ち上がるとき>の一節「原発技術者の遺書は訴える」を参照)

 核のゴミ(=使用済み核燃料)や閉鎖した原発(=廃炉)を長期間にわたって管理しなければならないし、しかも管理するのは「私たちの子孫」である。いのちと尊厳にかかわる危険、悲劇と背中合わせのこの難問を女子中学生の投書は見事に衝いている。ところが少数の良心的な原発専門家は別にして、政権も経済界もメディアも、この「使用済み核燃料」や「廃炉」の長期管理という難問が、完全な「脱原発」後も残り続けることについてほとんど伝えていない。
 地球上での「脱原発」社会の実現が40年後ではいかにも遅すぎる。できる限り早く踏み切るべきだ。それが大人たちの「正しい判断」というものだろう。

メルケル・ドイツ首相は5月30日記者会見で2020年までの原発全廃の合意に関連して「ドイツは太陽光など再生可能エネルギーの分野で先駆者となる。エネルギー政策の根本的な見直しで、ドイツは世界の模範となる」と述べたと伝えられる。世界をリードしようという挑戦への気概がなぜ日本の政権に期待できないのか、不思議であるが、黙視できない。

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