「もっともっと欲しい」の貪欲の経済から、「足るを知る」知足の経済へ。さらにいのちを尊重する「持続の経済」へ。日本は幸せをとりもどすことができるでしょうか、考え、提言し、みなさんと語り合いたいと思います。(京都・龍安寺の石庭)
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平和思想の先覚者、安藤昌益に学ぶ
連載・やさしい仏教経済学(37)

安原和雄
 安藤昌益は若い頃、禅寺で修行した経験があるとも伝えられるが、その昌益が罵倒に近い表現で、釈迦や仏教を批判している。にもかかわらず昌益の思想と仏教経済学との接点は少なくないと考える。それはエコロジー、男女対等論、反金銭観、非武装平和論 ― などで、いずれも21世紀に継承発展させるに値する昌益思想である。なかでも江戸時代に非武装平和論を唱えて、平和思想の先覚者としての地位を築いた昌益に着目したい。
 昌益は武士支配下の封建体制を果敢に批判し、それを解体して理想の世界を創ろうとした。その比類のない大胆な構想力と変革・創造への高い志に現代のわれわれは学び、活かさなければならない。(2011年3月25日掲載。公共空間「ちきゅう座」、インターネット新聞「日刊ベリタ」に転載)

 昌益(1703・元禄16年~1762年)は江戸中期の思想家。現在の秋田県大館市生まれ。医学や本草学を学び、のち青森の八戸で町医者となり、晩年には広く各地を歩き、自然の道理を明らかにするため『自然真営道』(全101巻。弟子が昌益の死後に遺稿をまとめた)を書いた。農耕を天地自然の本道として人間生活の基本だと力説した。一方、武士、町人、僧侶は社会の寄生虫と決めつけ、封建社会を激しく批判した。すべての人が生産に従事して平等に生きる反封建的な社会観を説いた。

▽ 昌益の釈迦・仏教批判を今日どう理解するか

 昌益は「聖釈(聖人と釈迦)よりも馬糞の方が益あり」と言った。「不耕貪食の徒」(土地を耕作しないでただ食を貪っているだけの輩)よりも肥料として役立つ馬糞の方がまだましだ、というのだから痛烈な物言いである。
 このように昌益による釈迦批判は罵倒に近い。ここでは仏教の五戒(注1)に対する批判のうち不殺生戒に絞って紹介する。
(注1)不殺生戒=殺さないこと、不偸盗戒=盗まないこと、不邪淫戒=人妻と不倫関係にならないこと、不妄語戒=ウソをつかないこと、不飲酒戒=酒などのアルコール類を飲んで酔っぱらわないこと。

*不殺生戒について
「(出家して)父母を捨て妻子を離るるは、直ちに手を立ててこれを殺すより重罪なり。孝養すべき自然の父母を捨ててこれを殺し、慈育すべき子を離れてこれを殺す。故に(不)殺生戒を破るは、他に非ず、釈迦自ら破るなり。(中略)末世に殺生を業とする者の絶えざるは、釈迦の亡魂なり」と。

 五戒の一つ、不殺生戒を破っているのはほかならぬ釈迦自身であり、その故に現世が乱れに乱れているのだ、と痛罵されては、お釈迦様も立つ瀬がなくなる。以上のような釈迦批判を今日どう受け止めるか。
 昌益は釈迦とともに仏教を厳しく批判しているが、実は釈迦が出家したことなどをとらえて、自らは農耕に従事せず、食べ物をつくらないで、食を貪(むさぼ)る「不耕貪食の徒」としての生き方・行動を批判しているのである。仏教思想それ自体を批判しているのではないようにみえる。いいかえれば昌益が釈迦自身の説法、さらに釈迦没後の利他主義などを採り入れた大乗仏教をどこまで理解していたのかは不明である。
 江戸時代の現実社会での仏教のあり方、僧侶の生き方が徳川幕府の権力構造に組み込まれて腐敗堕落していた事実に昌益は厳しい批判の目を向けたのである。いずれにしても批判の立脚点は「不耕貪食の徒」の一点にあった。

▽ 昌益思想を今世紀に生かす(1) ― エコロジー、男女対等論

ここでは比類のない昌益思想の大筋を紹介し、それを今世紀にどう生かすかを考えたい。

<エコロジー>について
 まず昌益の「自然・いのち・米(こめ)」一体論を紹介する。
 昌益は「米から人間が生ずる」、「米は人の親」などの認識に立ち、いのちの源は米であるという思想を打ち出している。しかもその米は「自然=天地」に依存しているのだから「自然=天地」、「米」、「いのち」が三位一体関係の下に認識されている。その意味では昌益は自然を重視するエコロジストの先駆者でもあった。このエコロジー思想を今日どう生かすか。

 三位一体関係でとらえている「米」を今日では人・農・食・水・森・土地からなる田園のシンボルとしてとらえ直したい。それを今日の循環型経済社会の構築につなげていくことが課題である。その場合、最低次の三つの条件を考慮しなければならない。
*いのちを生かす農業=食はいのち、健康の源ある。そのためには安心・安全な食の供給、確保が不可欠である。農業はいのちを育て、生かする産業であり、いのちを削る工業とは異質であることを認識すること。
*食糧自給率の向上=日本の自給率(カロリーベース)は先進国中最低の40%で、残りの60%を海外に依存している。近い将来の世界的な食料不足時代に備える食糧安全保障の見地からも、価格が安いからといって過度に海外依存するのは危険である。自給率をもっと引き上げること。
*自然・環境保全型=人間を含む生き物は、自然・環境から多様な恵みを受けながら、いのちをつなぎ、暮らしている。いのちの根源である自然・環境の保全を重視する農業であり、経済社会であること。

<男女対等論>について
 昌益は徹底した人間平等、男女対等論、恋愛賛美論を主張し、次のように述べている。
*人間平等の思想=「人において上下・貴賤の二別なし」
*男女対等論、恋愛賛美論
 男女対等論=「男女(注2)にして一人」である男と女は「上なく、下なく、二別なき」ものである。
 (注2)昌益は「男女」と書いて「ひと」とふりがなし、「人」と読ませるほど男女を対等に扱った。
 恋愛賛美論=「此(ここ)の男女と彼(かしこ)の男女と、互いに相知ること、(中略)終(つい)に親和して、夫婦となる」

 以上のように昌益は単に平等一般を説いただけでなく、男女対等論、恋愛賛美論にまで視野を広げている。寺尾五郎著『安藤昌益の闘い』は「これほど徹底した平等の観点、封建的身分秩序への反抗はない。200年後の明治においてすら匹敵するもののない人間平等の思想であり、近世日本の思想史上に比類なき破格のものである」と高く評価している。
徹底した人間・男女対等論には今日学ぶべき点が少なくない。21世紀を迎えてなおみられる多様な人権軽視・差別温存の現状をどう打開していくか。古くて新しい課題である。しかし人間中心主義に立って自然の征服・支配・破壊に向かいかねない人間平等論の21世紀ではない。むしろ生命中心主義に立って「人間は自然の一員」、「自然との共生」という自覚をもち、自然と人間との間でいのちを分かち合う人間・男女対等論でありたい。

▽ 昌益思想を今世紀に生かす(2) ― 反金銭観、非武装平和論

<反金銭観>について
 昌益はどのような金銭観を抱いていたのだろうか。
*金銭欲が諸悪の根
 「金銀銭をもって人倫上下の通用となし、世の望みことごとく足りて善いことと思うことが、慾の根となる。(略)貴賤上下貯金をなさんことを欲し、銭のために謀計をなし、互いに巧(たくら)み、巧まれ、常に慾心のやむことなし。慾は諸悪の根なれば、すなわち乱世も慾より起こり、人を殺し殺さるるも慾のなすところなり」
*商(当時の「高利貸・前期商業資本」としての商人)への批判
 「商道は、不耕にして、利を巧らむ諸悪の始なり」
 「金(かね)は万欲・万悪の太本なり」

 昌益の商と金銭への攻撃は徹底している。そこには「欲は諸悪の根」という考えがあり、欲の中でも金銭欲が最悪という認識である。今日の経済では商いは必要だが、当時は前期商業資本、つまり高利貸し横行の時代で、昌益自身がその被害にも遭ったらしく、「カネは万欲・万悪の太本」と断じている。
 昨今の拝金主義の横行は現代資本主義の末路を暗示さえしている。「非貨幣価値の尊重」という文化を経済社会の中にどう組み込んでいくかが今日の課題である。昌益の金銭無用論は理想にすぎない。現実論としては貨幣価値(=市場価値。お金で買える商品、サービス)と非貨幣価値(=非市場価値。お金では買えない地球環境、自然、人類愛、変革への志、利他主義、簡素、連帯感、心づかい、思いやりなど)の「両価値共存」のもとで非貨幣価値を重視するという経済社会を構築していくことが課題である。

<非武装平和論>について
 昌益は徹底した平和主義者でもあった。彼の主張は今日に継承発展させるべきところが少なくない。単に平和論を説いただけではなく、平和の実現策つまり武力の削減案まで構想しているところに特色がある。
以下、安藤昌益の思想を発掘し、優れた理解者であったE・H・ノーマン(注3)の昌益評を紹介する。
 (注3)E・H・ノーマン(1909~57年)は在日カナダ人宣教師の子として長野県の軽井沢で生まれる。米ハーバード大学で日本史を研究し、都留重人(経済学者、一橋大学学長を歴任)らと親交を結ぶ。駐日カナダ代表部首席を歴任。著書に『日本における近代国家の成立』、『忘れられた思想家 ― 安藤昌益のこと』(上、下)など。

*武力を否定する文明人
 「昌益は強い語調で平和の愛好と一切の暴力および社会闘争の嫌悪とを宣言した。いわく、〈争う者は必ず斃(たお)れる。斃れて何の益があろう。故に我が道に争いなし。我は兵を語らず。我戦わず〉」(『忘れられた思想家』上)
 「昌益は、平和を愛し、平和を求める人であった。したがって武力を否定する正しい意味での文明人(civilized man)であった」(『同』下)
*家臣団の大幅削減を提案
 「封建領主は近隣の大名に不意打ちされること、否それよりも人民の蜂起を恐れて厖(ぼう)大な家臣団を養っているが、昌益はこの家臣団を大幅に縮小して領主一人あたりにつき家臣の数を限定し、職を離れた者は帰農さすべきであると説く。そうすれば社会はこういう寄生者を扶養する負担から解放され、彼らを有用な勤労に就かしめることができる。費用のかかる大勢の家臣を養うことをやめて、人民を押しつぶす負担を免除するならば、全国の支配者も封建諸侯も農民騒擾(そうじょう)の根因を一挙に除くことができると昌益は説く」(『同』下)

*武士は単なる穀潰し
 「昌益の重農論の最も独創的な特徴は、かれの時代のどの思想家とも異なって、武士を全く無用な怠け者、社会的に何ら有用な機能を行わない単なる穀潰(ごくつぶ)しであり、したがってかれの改革案では何らの役割をももたない者として排撃したところにある。これこそ実に昌益の思想の本質であり、独立農民からなり、武士階級の存在しない農本民主主義である」(『同』下)
*提案の実現性
 「職業軍人からなる大常備軍の必要なき社会を招来する綱領は今日では合理的であるだけでなく、実現しうる。それがはじめて提唱されてから200年の歳月を振り返るならば、それは大胆にして創意に富み、しかも本質において現実的な精神にしてはじめて構想し得たものであった」(『同』下)

 常備軍全廃論ではドイツの哲学者・カント(1724~1804年)の著作『永遠平和のために』(1795年に出版)が知られる。カントは「常備軍は時とともに全廃されなければならない」と提案した。
 昌益の常備軍廃止論はカントのそれよりも半世紀近くも前に打ち出された構想(もっとも当時は未発表)であり、武士支配の封建体制下で武士の存在そのものを否定する、これほど創意にあふれる提案にたどり着くとは驚くべきことである。それも生産労働者としての農民を主役に据えたからこその先覚者らしい着想であろう。
 昌益の独創的な常備軍廃止論は今日こそ継承発展させるべき構想である。自衛隊の全面改組による非武装「地球救援隊」(仮称)創設へとつなげたい。これが仏教経済学の目指すところである。

<参考資料>
・E・H・ノーマン著/大窪愿二訳『忘れられた思想家―安藤昌益のこと』上、下(岩波新書、1950年)
・寺尾五郎著『安藤昌益の闘い』(農山漁村文化協会、1978年)
・安原和雄「安藤昌益と仏教経済学 ― 二十一世紀版<自然世>を考える」(駒澤大学『仏教経済研究』第35号・平成18年)

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ディーセントワーク実現をめざして
連載・やさしい仏教経済学(36)

安原和雄
 労働の望ましいあり方としてディーセントワーク(Decent Work)が話題になっている。日本語訳では「働きがいのある人間らしい仕事」を意味している。これは国連国際労働機関(ILO)が1999年世界のすべての労働者にその実現を呼びかけたもので、それ以来大きな関心が広がっている。
「働く者が主役」という視点を重視する仏教経済学としては、このディーセントワークを支持したい。グローバル化を旗印に掲げて、働く者を軽視し、利益追求に執着する市場原理主義(=新自由主義)は、ディーセントワークそのものに反する。今こそ「働く者が主役」の地位を取り戻して、「働きがいのある人間らしい仕事」の実現をめざすときである。(2011年3月19日掲載。インターネット新聞「日刊ベリタ」、公共空間「ちきゅう座」に転載)

 ひところワークシェアリング(Work Sharing=仕事の分かち合い)をめぐる議論が盛んだったが、今では下火になっている。しかし望ましい労働のあり方としてワークシェアリング、すなわち就業機会の確保、労働時間短縮と自由時間増大、自由な働き方の選択 ― の3本柱も不可欠といえる。ワークシェアリングの試みも、利益追求第一の企業ではなく、働く者が主役として活躍できる企業づくりへの挑戦である。ディーセントワークはワークシェアリングとどう結びつくのか。

▽ 週休3日を実践する在日米国人会社経営者

 朝日新聞に2010年10、11月に掲載された<「休み」は気から>と題するインタビュー記事から一つを紹介(大要)したい。登場するのは、日本でのビジネス向けコンピューターソフト販売会社の経営者、米国生まれのビル・トッテンさん(69歳)。見出しは、<縮む経済、「晴耕雨読」奨励>で、働き方、休日の過ごし方について自分自身と日本人との間に大きな差異があることを以下のように率直に語っている。彼の生き方,仕事への取り組み方は経営者版ディーセントワークともいえる。

 以前はテニスが大好きで、庭もテニスコートだった。でも5年前に菜園にした。どうしてかって?自給自足に近い生活が出来るようにするためだ。
 低成長の日本経済は今後、縮小していく。エネルギー、環境、金融問題を抱えているグローバル経済が崩れれば、資源の多くを輸入に頼り、多額の負債を抱える日本への影響は大きい。今は約500兆円ある国内総生産(GDP)が半分くらいになるかもしれない。
 そうなると、会社の売上げも減る。雇用を維持しながら生き残るには社員の給料を減らさなければならない。その分、労働日数も少なくする。休日を使った家庭菜園は食費の節約にもなる。そうした縮小時代への備えを、私が率先して行動で示している。
 半分のGDPって1980年ごろのレベルだ。でも当時の暮らしはそれほど悪かっただろうか。米国生まれの私が会社を設立した72年当時と比べ、いまや週休2日が定着し、働きすぎと言われた日本人の休日は多くなった。それなのにその過ごし方は安っぽくみえる。ゴルフばっかりしたり、ブランド品を買い集めたり、コンピューターゲームに夢中になったり、売り手の広告宣伝に踊らされ、使う必要がないお金を使っている。多くの人が「買い物中毒」になって生み出されている今の経済の半分くらいは、要(い)らない経済だ。

 かつての日本は、質素な生活に価値を置いていた。私の理想は「晴耕雨読」で、晴れれば菜園の手入れや、1日10㌔のウオーキングで太陽の光を浴びる。雨が降れば読書。最近はインターネットで読むことも増えた。休日は自分と家族のことを考えて有意義に使う。
 私の会社では家庭菜園用の農地を借りる社員に年間2万円を補助している。節約につながる服のリサイクルのために洋裁教室も始めた。でも社員800人全体でみれば、意識改革はまだまだだ。2年前から「週休3日」あるいは「週1回在宅勤務」も導入しているが、利用者はまだ1割もいない。
休暇の取り方は自分たちでもっと柔軟にやれるはずだが、上司の目が怖かったり、同僚のことが気になったりするのだろう。私は教育ママではないので、強制はしない。

<安原の感想> 経済成長時代はもはや過去の物語
 2点を指摘したい。まず「今の日本経済の半分くらいは、要(い)らない経済だ」という指摘である。相も変わらず経済成長主義という名の「経済拡大」妄想を振り払うことのできない多くの日本人に自己反省を促すような指摘である。経済成長時代はもはや遠い過去の物語でしかない。
 次は「日本人の休日の過ごし方」に関する発言である。「売り手の広告宣伝に踊らされ、使う必要がないお金を使っている」、「買い物中毒」という認識は、「質素な生活」重視へと時代は変化しているのに、それに気づこうとしない一部の日本人への「善意の皮肉」とは言えないか。

▽ 日本人の働き方、休日の取り方の現実

 以下で日本人の働き方、休日の取り方の現状について素描する。
*先進国の中で目立つ日本の自殺者
 2010年版自殺対策白書(2010年6月閣議決定)によると、日本の自殺者(2009年)は、3万2845人。12年連続して3万人を超えており、他の先進国では例のない現状である。自殺死亡率(人口10万人当たりの自殺死亡者数)の国際比較をみると、ロシア30.1、日本24.4、フランス17.0、ドイツ11.9、アメリカ11.0、イギリス6.4、イタリア6.3で、日本が主要先進国のなかで、特に高い。
 日本人の自殺原因で上位三つに挙げられるのが「健康」、「経済・生活」、「勤務」で、これには「失業」、「生活苦」、「仕事による過労」などが大きな比率を占めている。

*世界に知られる過労死は今では職業病に認定
 長時間に及ぶ働きすぎの結果、突然死する過労死は、世界語としても知られる。過労死では2009年度237件(前年度304件)の労災申請に対し、106件(前年度158件)が労災と認定された。職種別では道路貨物運送業に特に多い。さらに派遣労働者や中国人技能実習生にも過労死の実例がある。過労死は労災の認定基準で公式に認められ、職業病リストに加えられている。

*急増するメンタルヘルス不全者
 厚労省・2008年患者調査(2009年12月発表)によると、「うつ病」、「躁うつ病」、「気分変調症」などのメンタルヘルス不全の総患者数は、1999年の44万1000人から2008年には104万1000人と9年間で2.4倍に増えた。労働者のメンタル疾患は、職場が重要な発生源となっている。
 厚労省調査によると、「仕事や職業生活に関する強い不安、悩み、ストレス」があると答えた労働者の割合は、58.0%に達している。具体的なストレスの内容(三つ以内の複数回答)は、「職場の人間関係」(38.4%)、「仕事の質」(34.8%)、「仕事の量」(30.6%)が挙げられている。一方、「過去一年間にメンタルヘルス上の理由で連続一か月以上休業または退職した労働者がいる事業場」の割合は7.6%である。

*半分も消化しない有給休暇
 厚労省の就労条件総合調査(2010年10月発表=従業員30人以上の企業6143社を対象に調査し、4406社が回答)によると、2009年の年次有給休暇取得率は47.1%(前年比微減)で、10年連続で50%を下回った。企業が認める有給休暇の年間平均日数は17.9日だったが、労働者による実際の取得は8.5日にとどまった。
企業規模別の取得率は従業員1千人以上で53.5%、一方、30~99人は41.0%にとどまっており、中小企業では休暇を取りにくい環境にある。欧州各国では有給休暇日数が年間25~30日と多く、しかも取得率はほぼ100%となっている。

<安原の感想> 人間性を蝕む長時間労働
 日本の労働条件の劣悪さは先進国の中では突出しており、長時間労働を背景に人間性が蝕(むしば)まれている実態が浮き彫りになっている。日本の自殺死亡率の高さが先進国の中で際立っているだけではない。世界に広く知られる過労死は今なお跡を絶たない。
 いかに働きすぎであるかは、有給休暇の遠慮がちな取り方をみれば歴然としている。経営トップの中には「働き過ぎ」ではなく、「働き好き」なのだ、という指摘もあるが、働きすぎを克服しない限り、ディーセントワークもワークシェアリングも「絵に描いた餅」であり、「高嶺の花」にすぎない。

▽ ディーセントワークとワークシェアリングと

 国連国際労働機関(ILO)は、世界のすべての労働者に呼びかけたディーセントワーク(Decent Work=「働きがいのある人間らしい仕事」)について、その最優先目標として「すべての男性と女性が自由、公正、保障さらに人間の尊厳が満たされたディーセントで生産的な仕事が得られるよう促進すること」を宣言した。この宣言を生かすための目標として日本では①安定的雇用、②公正で適正な処遇、③人間らしい働き方 ― が挙げられる。
 これはあくまで実現すべき目標であり、日本における現実の労働条件は、上述のようにこの目標に比べ大幅に劣化している。以下、ディーセントワークの大まかな内容を紹介する。

*安定的雇用について
「雇用の安定」とは、解雇や雇い止めの恐れがないこと。逆にその恐れがあると、労働者は安心して自分の権利(年次有給休暇の権利など)を行使できないし、義務でもない業務命令(不払い残業命令など)も拒否できない。失業の恐怖があると、人権侵害にも目をつぶり、甘受せざるを得なくなる。
*公正で適正な処遇について
 賃金が労働者本人およびその家族が最低生活を営むのに十分であり、安定していること。このことは賃金の主要部分が能力主義や成果主義にもとづいて決められる場合でも同じである。労働基準法1条は労働条件について「人たるに値する生活を営むための必要を充たす」べきものと定めている。
*人間らしい働き方について
人間である労働者を商品=モノとして扱うことは不当であること。労働者は生活する生身の人間であり、決して使い捨てにされても構わないというものではない。労働にはそれ自体として、仕事の面白さ、その社会的有用性の意識、社会的関係の形成などの意義がある。だからこそ憲法27条「勤労の権利」は、労働を単なる生活の手段としてではなく、それ自体に価値があるものとして、その権利を保障している。

 以上のようなディーセントワークはワークシェアリングとどうつながっていくのか。理念、目標としてのディーセントワークを実現していくための労働のあり方、休日の取り方がワークシェアリングだと理解したい。
 ワークシェアリングの3本柱(=就業機会の確保、労働時間短縮と自由時間増大、自由な働き方の選択)のうち最重要な課題は労働時間の大幅短縮である。労働時間の短縮は自由時間増をもたらすだけでなく、就業機会の確保、すなわち雇用増を可能にする。
 一方、自由な働き方の選択とは何を意味するのか。例えばフルタイムの常勤労働ではなく、半日労働などパートタイムを自由に選択できる働き方である。その場合重要なのは、フルタイム、パートタイムともに「同一労働同一労働条件」、例えば時間当たりの賃金が同一でなければならない。これを実践している具体例としてオランダ・モデルが知られる。

<安原の感想> 「人間は自然の一員」という謙虚な視点を
 ILOが提唱するディーセントワークは人間中心主義の思想である。望ましい当然の主張ともいえるが、不十分という印象が残る。なぜなら人間中心主義には人間を「自然の一員」として捉える視点が欠けているからである。人間が自然を管理・支配できると考える人間中心主義は、人間の傲慢さの表れである。人間は自然のお陰で生き、生かされている。自然の猛威の前には人間はしばしば無力である。
 このことを見せつけたのが、日本列島東北地方を襲った地震・津波の東日本大震災(2011年3月11日発生)である。しかもこの大震災は、東京電力福島原発の爆発を誘引し、原子力発電の安全神話に執着してきた原発推進派の傲慢さを浮き彫りにした。この悲劇の教訓として、ディーセントワークに「自然の一員としての人間」という謙虚な視点を付け加えたい。そのとき初めて、実現をめざすのにふさわしい真のディーセントワークになり得るだろう。

<参考資料>
・西谷 敏著『人権としてのディーセント・ワーク』(旬報社、2011年1月)

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破壊型くるま社会から脱出する道
連載・やさしい仏教経済学(35)

安原和雄
 車(くるま)社会をどう変えていくかは、避けて通れない大きな課題となってきた。車社会は、毎年多数の事故犠牲者を出し、人命破壊型であるだけではない。鉄道やバスに比べると、大量の排出ガスによる地球環境の汚染・破壊型でもある。破壊型くるま社会から脱出する道はあるのか。
 その道はマイカー(自家用乗用車)中心から鉄道、バスなど公共交通中心への交通体系の構造転換である。これを促進させるためには交通負担のあり方を変革し、自動車よりも公共交通の負担を一段と割安にする必要がある。また健康重視のためにも、自動車を捨てて、自転車や徒歩による移動をできるだけ心掛けたい。そのためには高速道路ではなく、自転車道、歩道の整備が欠かせない。この分野の公共投資促進こそが重要なテーマとなってきた。(2011年3月8日掲載。インターネット新聞「日刊ベリタ」、公共空間「ちきゅう座」に転載)

▽ 30年後の未来の高速道路は? ― マラソンの風景も

 あなたは自動車は便利な文明の利器だといまなお信じてはいないだろうか。本当に便利なのだろうかと疑問に思い始めたとき、日本変革への第一歩を踏み出すことになる。いきなり30年後の未来へ飛翔してみよう。そこで次の問題を考えたい。

<問い1>30年後の日本の高速道路で果たしてマイカーは走っているだろうか?
<答え> いまどういう改革に取り組むか、その結果にかかわっており、しかもかなり先の未来予測なので、正解は見通しにくい。しかし可能性を考えてみると、マイカーは恐らく走っていないのではないだろうか。環境破壊とエネルギー浪費型の元凶であるマイカーがなお走っているようでは、人間が生存していく基本条件である自然を含む環境が相当破壊されていることになる。マイカーは健在だが、肝心の人間様が息も絶え絶えという状態では落語のネタにはなっても、様(さま)にならない。高速道路では高速バスが主体になっている可能性が高い。そのバスも太陽光(熱)をエネルギーとするソーラーカーであるだろう。
 日曜日など休祭日には車を通行止めにして人間がマラソンで汗を流しているかもしれない。あるいは緑の豊かな山間地の高速道路のあちこちで「歩け歩け大会」を盛大に催しているだろう。瀬戸大橋が開通する前日、多くの人々が「翌日からはもはや歩けない」という思いで、一斉に歩いて渡った事実がある。本来は、人間の歩行が禁止されている高速道路である。だからこそ、そこで歩いたり、走ったりすることは、人間性回復への試みであり、さらに自然環境保全にとどまらず、破壊された環境を再生させ、新たに創造していく営為でもある。

▽ 交通体系の転換を ― マイカー中心から公共交通中心へ

マイカーを主役とする現在の車社会は弊害が多すぎる。
 まず人命破壊型である。わが国での交通事故の死者総数は6000人近くにのぼる。ただ事故から24時間以内に亡くなった犠牲者に限れば、約5000人(09年)であり、負傷者は100万人を超える。
 次に排出ガスによる環境の汚染・破壊型である。例えば二酸化炭素(CO2)は地球温暖化を促進させる。地球温暖化は異常気象による災害の増大、食糧生産の低下と飢饉の増大、生態系への悪影響、健康被害(熱波による死亡者の急増など)、海面上昇による沿岸地域の水没など多面的な悪影響をもたらし、人間や動植物の生存基盤を破壊していく。
さらに環境省のデータによると、1人が同じ距離を移動する場合、マイカーは、鉄道に比べ約6倍、バスに比べ約2倍の化石エネルギーを浪費し、それだけ地球温暖化の原因である二酸化炭素(CO2)を大量に排出する。

 このことは車社会が地球環境にやさしい持続的発展と矛盾対立するものであり、これ以上、車社会を推進することは大いなる疑問であり、車社会の構造変革が不可欠である。その具体策はなにか。次の諸点を挙げたい。
* 現在のマイカー中心から鉄道、バス(路線バス、コミュニティ・バス)、路面電車など大量輸送の公共交通中心の交通体系へ転換すると同時に、自転車、徒歩も重視すること。
* 政策手段として高率環境税(炭素税)を導入し、マイカー利用者の負担を増やす一方、公共交通機関である鉄道、バスの実質的な料金引き下げを図ること。例えば通勤利用者には通勤特別割引制度を実施し、その負担を軽くし、鉄道、バスへの乗り換えを促進する。
* 自転車道と歩道を全国的に整備し、自転車利用と歩くことを奨励すること。これは良い社会資本の整備につながる。
* マイカー削減の代替策として地方自治体が地域で小回りの利くコミュニティ・バスの積極的な活用を進め、高齢者など住民の足を確保すること。
*都市での路面電車を普及させること。欧米で普及しつつあるLRT(Light Rail Transit=低床型で高齢者などが利用しやすく、しかもエネルギー節約、環境保全にもプラスの新型路面電車)が熊本市、富山市内などですでに運行している。多様な路面電車の普及は従来とはひと味異なった楽しい街の散策も可能にしてくれるにちがいない。
*カーシェアリング(車の共同利用)を広げていくこと。車を所有していなくても必要なときに好きな車種を選んで乗ることができるわけで、高額のマイカー維持費から解放されるし、駐車スペースを家庭菜園や花壇に作り替えるというプラス面もある。

 以上の個々の改革策はヨーロッパをはじめ、先進各国で進行中であり、日本でも例えばコミュニティ・バスの導入に取り組む地方自治体も増えつつある。重要なことは持続的発展に反する車社会を改革するための明確なビジョンを掲げて国を挙げて取り組む姿勢を打ち出すことである。

▽ 地方のくるま社会の行方 ― 公共交通の復活を

 私自身はクルマを持っていないし、だからといって東京での暮らしに不便を感じることはない。地下鉄、バスなど公共交通の利用派である。しかも出来るだけ歩くよう努めている。そこで感じるのは最近の自転車の乱暴運転である。
 自転車による歩行者への事故は全国で2934件(09年)で、10年間で4倍近くに増えた。死者も出ている。道路交通法では自転車は、原則として車道の左側を走ることになっている。ところが歩道でケータイ電話を見ながら走る無謀運転が目立つ。わたし自身、歩道を歩いていて何度もひやりとさせられた。自転車や徒歩を新しい交通手段の推奨銘柄と評価する者としていささか残念に思う。
 時折帰省する郷里の田舎でも自転車か徒歩であることが多い。ただ遠出の際は車に依存することになる。ここでまた疑問、問題を考えたい。

<問い2> 「東京や大阪のような大都市ならともかく、地方では車がなければ、生活そのものが成り立たない」という疑問が出される。これをどう考えるか?
<答え> たしかに田舎や地方都市では鉄道やバスは乗客が減少し、次第に削減、廃止されていく運命に追い込まれてきたところも少なくない。だから自動車が必要なのだという言い分は一応もっとものように見える。
しかしこういう思考方法は自動車が交通機関の主役になっている現状はどうにも変えがたいという思い込みによる。歴史的にみれば、いまのような混雑を極める「くるま社会」は精々40年程度の歴史しかない。地方の自動車道路を整備し、マイカーが増えたから、鉄道、バスが押されてきたのである。ただもはや原油供給の先細りは避けがたいし、石油価格高騰とともにマイカー利用の負担は重くならざるを得ない。一方、公共交通(鉄道、バス)、自転車に優遇策を講ずれば、マイカー依存度が低下し、公共交通、自転車などが復活していくにちがいない。

 大切なことは、現在のマイカー中心の社会構造をどう変革していくか、その意志があるのかどうか、適切な政策手段を断行するかどうかである。
 以上のようにやり方次第で現実はいくらでも変革できる。くるま社会にマイナスが多いからにはマイカーに主役の座を降りて貰う以外に打開策はない。

▽ マイカー依存度を低める文化を ― 自動車文明を反省するとき

自動車を大幅に減らさないかぎり、人命尊重・環境保全・エネルギー節約型社会の形成はそもそも無理なのである。マイカーの特性であるスピード、便利、密室性といった近代工業文明の所産に酔いしれているときではあるまい。この際自動車文明を根本から反省するときではないだろうか。その具体策は何か。

 まず一人ひとりのライフスタイルを変えてみようではないか。
 とにかくできるだけ歩くことである。歩くことは省エネ・無公害型の基本的交通手段であり、これは自転車も同じである。 どちらも健康によい。車に乗り慣れて足を弱くし、急速に老いていく人たちがいかに多いことか。
 歩いていれば、頭脳が活発になり、眠ることもできない。会議をだらだらと無為に続けないためには、座らないで立って行うのも一法といわれるのはここからきている。その昔のまた昔、二本足で歩くことによって猿から人間へと進化した。歩く努力をしないことは人間であることを止めることにもつながる。
 フランスの名言に「才子は馬車に乗り、天才は歩く」(木村尚三郎ほか著『続・名言の内側』日本経済新聞社)がある。18世紀のパリでの話で、新交通機関として登場した馬車に乗ることがステイタス・シンボルとなり、田舎出の才子たちは、争って馬車に乗り、カッコよく振る舞った。しかし天才(見識のある人)は悠然と歩くことを好んだというのである。

 さて「トラベル・スマート」(TravelSmart)という新語が登場してきた。「クルマへの依存度を低めることを目指す文化的変革」『地球白書』(2010-2011)を指しており、その「脱マイカー」がコミュニティを基盤にした家庭主導で展開される、という新しい動きである。オーストラリア、ヨーロッパ(特にイギリス)の都市で広まり、アメリカの6大都市で試みられている。
 この試みに参加した人々は、成果、効果について次のように指摘している。
・脱マイカーが自身の健康、地球環境の保全と修復にとっていかに有益であるかが分かる。
・地域内を「歩くこと」、「自転車で移動すること」、特に徒歩や自転車での通学を奨励する。
・身体を動かして移動することは、若齢者の土地感覚やコミュニティへの帰属意識を育むために重要であり、同時に肥満症の有効な予防策となる。
・この試みが実施されたコミュニティでは、マイカーでの移動キロ数が12~14%減っている。
・この試みに関わった人々は次のように語っている。
「マイカーのハンドルを握っているよりは、自転車、徒歩、バスで行く方がいかに爽快であるかを感じる」
「マイカー利用よりも金銭的な節約になるし、地球温暖化の緩和や石油の消費抑制にも、いささかの貢献をした実感が得られる」

日本社会ではマイカーについて文化という認識は希薄である。しかしいまやマイカーを中心とする車社会を変革していく、その望ましいあり方を文化として捉えるのが、世界の新動向である。こういう潮流に乗り遅れないようにしたい。

<参考資料>
・ワールドウオツチ研究所『地球白書』2010‐11「特集 持続可能な文化」(ワールドウオツチジャパン、2010年12月)

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健康な人をめざす高齢社会の設計
連載・やさしい仏教経済学(34)

安原和雄
健康とは何だろうか。一口には答えを出しにくい難問である。この世に生を享(う)けたからには健やかな人生を全うしたいと誰しも願うにちがいない。しかし思いのままにはならないのが現世の切なさ、もどかしさでもある。
 健康観も時代の推移とともに変化をつづけてきた。21世紀版健康とは何かと自問してみれば、ただの長寿では十分な答えにはならない。価値ある生き方、とでも言えるだろうか。その生き方も多様で、「知足とシンプルライフ」の実践もあれば、「変革を志すのが健康な人」というイメージも浮かび上がってくる。世界最長寿(女性)を長年維持しながら、決して健康とはいえない日本の社会状況下で健康な人をめざす高齢社会の設計について考える。(2011年3月1日掲載。インターネット新聞「日刊ベリタ」、公共空間「ちきゅう座」に転載)

▽ 日本人女性の平均寿命 ― 25年連続で世界1位

 以下の<問題>の数字は何を意味しているのか。頭の体操のつもりで取り組んでみたい。正解が分からないからといって落胆するほどのことではない。いずれも最近の新聞記事から選んだもので、高齢や健康に関するデータである。正解は<答えのヒント>にある。

<問題>
(イ)79.59歳 、86.44歳
(ロ)2944万人、23.1%、826万人
(ハ)4万4449人、208万人、10人に1人

<答えのヒント>
(イ)日本人の平均寿命(2009年。この年生まれのゼロ歳の子どもが何年生きられるかを予測した数値)は男性79.59歳、女性86.44歳でともに過去最高となった。女性は25年連続で世界1位の座を守り続けている。男性は前年の4位から5位となった。
 参考までにいえば、平均寿命に対し、「健康寿命」にも注目したい。国連世界保健機関(WHO)によると、日本人の平均健康寿命も世界一とされる。健康寿命とは、食事、入浴など日常生活を自力で行う能力があり、認知症でもなく、健康状態で暮らしている期間を指している。平均寿命に比べ、健康寿命の方が短いが、両者の差が小さいほど望ましい。そのためには生活習慣病や寝たきりなどをどう防止するかが課題となる。

(ロ)日本の65歳以上の高齢者人口(2010年9月「敬老の日」を前に総務省が推計)は2944万人、総人口に占める割合は23.1%で人口、割合とも過去最多となった。80歳以上の人口は826万人(男性282万人、女性545万人)で初めて800万人を越えた。高齢者世帯は960万9千世帯(全世帯の20%)、高齢者虐待は1万5千件超にもなる。

(ハ)日本の100歳以上の人口は、統計を取り始めた1963年の153人から2010年には290倍の4万4449人になった。一方、認知症のお年寄りは現在は推定208万人で、2030年には353万人に増え、65歳以上の10人に1人が認知症になる可能性がある。

▽ 「高齢社会・日本」の実像は ― 「病人大国・ニッポン」

長い人生の旅路では予想外の事態はやはり避けられないのだろうか。わたし自身の闘病歴をここで告白しておきたい。
 小中学生時代、病弱であった。半世紀以上も昔のことである。冬になると、小中学生には珍しいといわれる関節リュウマチに何度もかかって、身動きが不自由で、寝たきり同然となった。その都度一か月以上も学校を休み、自宅療養した。
 高校へ進学した春、病弱の体質をどうするかが課題となった。父親の一言が私の耳に今なお残っている。「冷水摩擦で鍛えたらどうか」と。「なるほど」と受け止めた私はその日から直ちに実行した。
 毎朝、上半身を裸にして、タオルを水で濡らし、しぼっての冷水摩擦である。昔の田舎の農家で、今日のような上水道はまだなく、井戸は戸外にあった。冬の雪の降る日でも、その雪を全身に浴びながら、欠かさなかった。屋内での乾布摩擦でもよかったかも知れないが、そういう発想はなかった。冷水摩擦にこだわった。お陰で高校3年間、風邪も引かず、病気で欠席することはなかった。
 それ以来関節リュウマチも再発することなく、わが体質の構造改革ができたと実感した。いまなお冷水摩擦は、毎朝の洗顔と同じ感覚で続けており、寝込むような大病にも罹(かか)らずに済んできた。

 ところが最近、ある日突然、足にしびれを感じ、歩行に支障をきたすようになった。冷水摩擦のお陰で病(やまい)には無縁になったという思いは、身勝手な自己診断でしかなかったのか。後期高齢者(75歳以上)の身となって、後ろから追いかけてきた病魔に鷲づかみに捕まったという印象である。専門医によると、病名は「腰部XXX狭窄症」で、これで苦しんでいる人は意外に多いようで、気長に付き合うほかないらしい。
 不思議なもので、この病のお陰で、これまで見えなかったものが観(み)えてきた。高齢者に限らず、杖をつきながら歩いている人、足を労(いたわ)るようにゆっくり歩を進める姿がいかに多いことか。「高齢社会・日本」の実像は「病人大国・ニッポン」であることを思い知らされた。こうしてわたし自身、後期高齢者の一人として、持論の健康・病気観を変えるほかない。病とともに生きる、と。しかも病との二人三脚で生き甲斐をどう発見していくのか、と。

▽ 低負担型高齢社会の設計(1) ― 新しい健康観を身につけよう

 わが国の高齢社会の行方に関する有力なシナリオは、高齢者がもっと増えて、本格的な高齢社会が定着するコースで、高負担型にならざるをえないと多くの人は受け止めている。本当にそうだろうか。思い込みではないのか。そういう呪縛から脱出をめざすときである。高齢社会を高負担型から低負担型へと転換させるためには、その大前提として新しい健康観の創造が不可欠である。これが仏教経済学に立つ発想である。
 健康の定義は、国連世界保健機関によると、「単に病気が存在しないだけではなくて、身体的、精神的、社会的に十分良好な状態」とされている。この健康の定義を活用して、21世紀にふさわしい新しい健康観を創造していく必要がある。以下、それを考えてみたい。
 
(イ)身体的な健康 ― 現代版『養生訓』
 まず個人レベルでの身体的な健康づくりの心得として次の<健康十訓>はどうか。
* 少肉多菜=肉を少なく野菜を多く
* 少塩多酢=塩類を少なく酢を多く
* 少糖多果=砂糖を少なく果物を多く
* 少食多歯=少なく食べてよく噛む
* 少衣多浴=なるべく薄着でよく風呂に入る
* 少言多行=おしゃべりを慎んで多くを実行する
* 少欲多施=欲望をひかえ施しを多く
* 少憂多眠=くよくよせずよく眠る
* 少車多歩=車に乗らずよく歩く
* 少憤多笑=あまり怒らずよく笑う

これは江戸時代では珍しく85歳の長寿を全(まっと)うした貝原益軒(1630~1714、江戸前期の儒者)の『養生訓』(講談社学術文庫)現代版といっていい。『養生訓』は次のように述べている。「世間の人々をみれば、50歳未満の短命の人が多い。なぜこのように短いのだろうか。みな養生の術がないからである。短命の人は生まれつきそうであるのではない。10人のうち9人までは、みずからの不養生で身体を害している」と。

(ロ)精神的な健康 ― 80歳の人にも青春を
 精神的に良好な状態を保ち、さわやかに生きていく上で、肝心なことは前向きに生きる意欲を持つことである。アメリカの詩人サムエル・ウルマン(1840~1924)の『青春』と題した詩の一節を紹介したい。(宇野収ほか著『青春という名の詩』産業能率大学出版部)
 青春とは、人生のある期間ではなく、心の持ち方のことである。
 たくましい意志、ゆたかな想像力、燃える情熱、安易を振り捨てる冒険心を意味する。
 ときには20歳の青年よりも60歳の人に青春がある。
 年を重ねただけでは人は老いない。
 理想を失うとき初めて老いる。

 たしかに精神的に健康であるかどうかは年齢には左右されない。ただこの詩は一世紀も昔の作品なので、「60歳の人に青春」を今の時代にふさわしく「80歳の人に青春」と書き直したい。
 ただし精神的な健康を持続させるには次の二つの条件が必要である。一つは個人の「自由時間活用能力」、もう一つは社会に「共生・連帯の精神」が健在であること。しかし残念ながら市場原理主義(=新自由主義)に立つ悪しき小泉改革の後遺症として、自由時間活用能力も共生・連帯の精神も衰退している。この負の遺産を今後克服していくことが必須条件である。

(ハ)社会的な健康 ― 変革を志すことこそが健康
上述の身体的健康、精神的健康の大切さは容易に納得できるが、社会的健康という視点は今後の課題である。具体例として、以下のような社会的広がりをもつイメージを挙げることができる。特に世界規模での変革の時代、21世紀にふさわしい社会的健康として「知足とシンプルライフ」の実践、「変革を志すことこそが健康」などの新しい健康観に着目したい。

* 個人の健康と自然環境の健全性の両立
* 知足(「もう十分」と足るを知ること)とシンプルライフ(簡素な暮らし)の実践
* ゆとり(日本国憲法25条の生存権を保障するだけの所得のほか、時間、空間、精神などのゆとり)のある社会
* 大量生産ー大量流通ー大量消費ー大量廃棄という現在の経済構造に組み込まれた食べ物の危険な社会システム(農薬、食品添加物、遺伝子組み換え作物、遠方からの大量輸送など)の変革
* 社会変革を志すことこそが健康な人間(日野秀逸著『憲法がめざす幸せの条件』新日本出版社)

▽ 低負担型高齢社会の設計(2) ― 健康な人を育てる健康奨励策

日本は今後とも長寿国として名誉ある地位を持続できるだろうか。病人を減らし、健康な人を育てるには従来の薬・検査漬けの治療型医療から食事・暮らしのあり方の改善を含む予防型医療への転換が急務である。

 そこで以下の健康奨励策(素案)を提案したい。
・一年間に一度も医者にかからなかった者は、健康奨励賞として健康保険料の一部返還請求の権利を行使できる制度を新設する。「健康に努力した者が報われる社会」づくりの多様な政策のひとつの柱として位置づける。
・「いのちと食と健康」の密接な相互関連について小学校から教育する。この健康教育は、いのちの尊重はもちろん、食品に添加物を使わないこと、国産の季節ごとの「旬産旬消」の味を大切にすること ― など安心・安全な食のあり方を含む「健康のすすめ学」としたい。教育担当者として定年退職者、大病体験者、ボランティアなどを積極的に活用する。

 以上のような健康奨励策に取り組めば、病人、医療費の削減も可能である。そうなれば高齢社会対策としての消費税引き上げは根拠を失うだろう。
 高齢社会になれば、病人が増えて高負担型にならざるをえないという思い込みは、高血圧、糖尿病など生活習慣病(=現代文明病)が蔓延している現状をそのまま無批判に肯定し、容認する悪しき現実主義にほかならない。つまり病気になったら病院に駆け込めばいいという「病人歓迎村」の囚人の発想とでもいえようか。これに対し仏教経済学の立場は「あらゆる常識、固定観念を疑え。想像力さらに創造力を働かせ」が一つのテーゼとなっている。発想を転換すれば変革のきっかけをつかむ余地はいくらでもある。

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