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「もっともっと欲しい」の貪欲の経済から、「足るを知る」知足の経済へ。さらにいのちを尊重する「持続の経済」へ。日本は幸せをとりもどすことができるでしょうか、考え、提言し、みなさんと語り合いたいと思います。(京都・龍安寺の石庭)
人間は「カネの奴隷」ではない
連載・やさしい仏教経済学(25)

安原和雄
 お金がなければ、暮らしそのものが成り立っていかないのは自明のことである。とはいえ、日本人の多くはなぜカネを追い求めるような振る舞いに追い込まれることになってしまったのか。
 1980年代後半のわが国における本格的なバブルが90年代初めに崩壊して、「カネ、カネ」の世の中の虚(むな)しさを多くの人が実感したはずだが、現実はカネに執着する現象が目立ちすぎる。「カネの奴隷」になっていることに気づかない拝金教信者の群といえば、いささか誇張に過ぎるだろうか。この地獄から脱出するには「人間はカネの奴隷ではない」ことをどう自覚するかである。そのためにはカネと経済成長第一のGDP信仰から脱却する必要がある。(2010年12月6日掲載。公共空間「ちきゅう座」、インターネット新聞「日刊ベリタ」に転載)


▽ 世界を徘徊する妖怪マネー ― 資本主義のカジノ化

 ここで問題に取り組んでみたい。
<問い>お金とは一体何なのか?
<答え>私たちは、こういう疑問を抱きながら暮らしているわけではない。当然お金はあるべきものであって、なければ生活ができなくなり、困るというくらいの感覚ではないだろうか。「いのちの次に大事なモノ」といった答えも浮かぶ。
 まず指摘したいのは、昔のまた昔には貨幣はこの世に存在していなかったという事実である。だからモアの『ユートピア』(前回の「お金では買えない価値の大切さ ― 連載・やさしい仏教経済学(24)」参照)に描かれているように、将来のその将来には貨幣が再びこの世から消えてなくなる日が来るかもしれない。

 お金、マネーの歴史を追ってみて、分かることは、その機能・役割が大きく変化したということである。次のように表すことができる。
*本来の機能=手段としての交換機能(商品売買の仲介機能)
  G → M → G (G=Goods・商品、M=Money・お金)
*資本主義下の機能=目的としての貨幣価値増殖
  M → G → M’
*マネーゲームの機能=目的としての資本価値増殖
  M → M’

 初期の交換市場経済では本来、Mすなわち貨幣は脇役で、Gすなわち商品が主役であった。ところが資本主義的市場経済になってくると、Mが主役の座にのし上がり、それまでのG→M→Gという商品経済循環がM→G→M’という貨幣経済循環に変化し、商品生産も利益(Mの右肩のダッシュの部分)の追求を目的にして行われる。しかしまだGすなわち商品生産が存在していることに注目したい。
 ところが今日のマネーゲームではM→M’で表せるようにMすなわち貨幣だけが自己増殖を目的にして動き回り、Gは全く姿を消している。これがモノづくりとは無縁なマネーゲームの特徴である。いわば「カネ、カネ」の世の中になり、カネは利殖のための資本と化した。
 こうしていまや資本主義それ自体がギャンブル場と化してしまったともいえよう。1980年代以降の金融の世界を知る上で次の描写は決して過大ではない。

 西側世界の金融システムは急速に巨大なカジノ(賭博場)以外のなにものでもなくなりつつある。(中略)このことは深刻な結果をもたらさざるをえない。将来何が起きるかは全くの運によって左右されるようになり、熟練や努力、創意、決断、勤勉がだんだん評価されなくなる。(中略)いまや運が怠惰や無能と同じように仕事を奪うかもしれない。こうしたわけで、不確実性の増大が我々を賭博常習者にしてしまっている。(スーザン・ストレンジ著『カジノ資本主義』岩波書店)

 本来、カネは人間の作品であったはずだが、逆に人間がカネの奴隷となる。もちろん本人に奴隷という自覚はないにしても、カネ自体の自己増殖運動に否応なく振り回される。人間が主人公としての主体性、自主性はほとんど喪失する。
 こうしてマネーが妖怪(ようかい)となる。その妖怪がいまや世界狭しとばかりに徘徊(はいかい)している。しかもそのほとんどは投機性の高い短期資金である。
 カネをめぐる犯罪がいかに多いことか。モノ作りで身を滅ぼす者はいないが、カネ儲け、つまりマネーゲームに駆り立てられ、M→M’という投機の世界で身を滅ぼす者は数かぎりない。

▽ バブル崩壊の歴史(1) ― チューリップ狂から

 資本主義のマネーゲーム化は世界的な現象である。その頂点に位置するバブル経済(注)も日本だけに特有の現象ではない。しかもバブルとその崩壊の歴史は古く、手を替え品を替えて繰り返し登場してきた。
 (注)バブル経済=株式、土地など資産価格が適正な価格から著しく離れて高騰し、投機的な経済になること。バブル(英語のBubble)は「泡」という意味で、必ずはじける。

 ここでバブルの歴史を駆け足で辿ってみよう。
 歴史上最初の大がかりな投機として有名なチューリップ狂は、1630年代のオランダのアムステルダムが舞台であった。投機の対象になったのは、株式ではなく、チューリップの球根だったのだから驚かざるをえない。貴族はもちろん女中さんたちまでが手を出し、最盛期には一つの球根が今日の2万5000ドルから5万ドル(約400万円)にも高騰したというから、正気の沙汰ではない。やがて暴落し、オランダは長い不況期に見舞われるが、チューリップの栽培だけはいまなお続いて、オランダの観光資源としても有名である。

 1929年大恐慌前のアメリカのニューヨーク市場での株価の急騰もバブルであった。大恐慌の直前に当時のフーバー大統領は「永遠の繁栄」を豪語していた。ところが大恐慌によって株価は約3年間でピーク時の7分の1に下落、それが暴落前のピーク時の水準を回復したのはなんと25年後の1954年(昭和29年)のことである。バブル破綻の後遺症は長い。
最近では2008年9月、米証券4位のリーマン・ブラザーズ破綻とともに一挙に具体化した世界金融危機を挙げることができる。「100年に1度の危機」、「超バブルの崩壊」などと呼称は多様だが、それをもたらした元凶は「規制のない自由な市場こそ万能」というスローガンを掲げる新自由主義(=市場原理主義)である。

 日本では1980年代後半の株式・土地ブームが第2次大戦後に体験した本格的なバブル経済で、そのときはバブルは永遠に続くと思っていた人が多かったのだから、不思議といえば、不思議な話である。思い込みが強かっただけに、右肩上がりの急上昇が一転して右肩下がりの急落となったバブル崩壊の後遺症は、金融機関に巨額の不良債権を抱えさせ、巨大銀行の倒産など深刻な事態にまで発展した。

▽ バブル崩壊の歴史(2)― 馬鹿者集団のマネーゲーム

バブルは最初は極度の楽観主義が支配し、それがやがて極度の狼狽(ろうばい)と混乱に取って代わった点で共通している。ここではバブルにかかわる苦言を紹介しよう。

 フリードリッヒ・シラー(ゲーテと並ぶドイツの詩人、1759~1805年)が喝破したように「個人としては結構まともで気のきいた人であっても、群衆の一員となると、途端に馬鹿者になってしまう」のである(ジョン・K・ガルブレイス著『バブルの物語』、ダイヤモンド社)。シラーの筆法をもってすれば、バブルは馬鹿者集団のマネーゲームにほかならない。
 イギリスの物理学者 アイザック・ニュートン(1642~1727年)も、投機に巻き込まれて巨額の資金をを失い、「私は物体の運動を測定することはできるが、人間の愚行を測定することはできない」という名言(?)を残している。

 バブルの崩壊から学ぶべきことは何だろうか。ガルブレイスは『バブルの物語』の中で次のように指摘している。
 「繰り返し狂気の沙汰に陥るのは資本主義の特徴である」
 「愚者は、早かれ遅かれ、自分のカネを失う。また悲しいかな、一般的な楽観ムードに呼応し、自分が金融的洞察力を持っているという感じにとらわれる人、つまり金融の天才も、これと同じ運命を辿る」
 愚者も自称「金融の天才」もともにバブルでは重度の火傷が避けられないとすれば、学ぶべきことは「バブルには手を出すな」以外にはありえない。

▽ GDP信仰(経済成長主義)からの脱却を

 専門家集団である金融業者にかぎらず、一般民衆までが拝金教信者になっている傾向は、日本で顕著である。その根本的な背景は何か。経済優先主義とGDP(国内総生産)信仰をあげたい。
 経済優先主義とはGDP第一主義にほかならない。GDPという概念ではカネで表示できるモノ・サービスなど貨幣価値のみが重視される。カネで表示できないものは、GDPとは無関係なのである。このことはカネに換算できない非貨幣価値の軽視につながっていかざるをえない。
 しかも「欧米に追いつき、追い越せ」をスローガンにGDP増大、いいかえれば右肩上がりの経済成長に日本は国を挙げて取り組んできた。1960年代の池田内閣時代の所得倍増計画がその一つの典型である。所得倍増とはカネを2倍に増やすことを意味している。「カネ、カネ」という意識が日本列島の隅々にまでいつの間にか広がっていったとしても不思議ではない。

 どうすればいいのか。仏教の開祖、釈尊は、カネを捨てなさいと言った。釈尊自身はお金も地位もさらに妻子までも捨てて出家した。生老病死という「人生の四つの苦」は富や財産では解決できないことを悟って、お金を捨てたのである。(ひろさちや著『お釈迦さまが説いた、「おかね」って何だ?!』毎日新聞社)
 当時は貨幣経済が未発達であった。だからお金を捨てやすかったともいえるが、今日の我々はカネを捨てるわけにはいかない。どうしたらよいのか。私は拝金教信者から「もうこれで十分」と感謝する心を尊ぶ知足教信者への宗旨替えこそが近道だと考える。

 まずカネへの異常なこだわりを捨てることである。「何のためのお金か」とつねに問い直してみる必要がある。これが「カネの奴隷」から「カネの主人公」になるための最低必要条件ではないか。
 そのためにはGDP信仰からの脱却が不可欠である。GDP信仰がほかならぬ拝金教の背景にあるのだから拝金教を克服するためには、GDP信仰から抜け出すほかない。世の経済学者やエコノミストたちの多くは、いまだに経済成長率が高いの、低いのと分析・予測に明け暮れているが、私は「お疲れ様、GDP」といいたい。GDPを担ぎ回る時代はもう終わっている。
 さらにカネの役割・機能を本来の姿に引き戻す努力が求められる。これは経済の基本をマネーゲームからモノづくり、サービスの提供へと転換させ、腐乱した市場経済を本来の健全な市場経済に構造改革していくことにほかならない。
 もう一つ、お金では買えない非貨幣価値の大切さに心を配りたい。カネさえ沢山あれば、何でも手に入れることができると思うのは、貪欲に左右された錯覚にすぎない。

<参考資料>
「新自由主義はついに破綻した ― 世界金融危機の歴史的な意味」(ブログ「安原和雄の仏教経済塾」08年10月4日掲載)

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