「もっともっと欲しい」の貪欲の経済から、「足るを知る」知足の経済へ。さらにいのちを尊重する「持続の経済」へ。日本は幸せをとりもどすことができるでしょうか、考え、提言し、みなさんと語り合いたいと思います。(京都・龍安寺の石庭)
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持続的発展を平和憲法に盛り込む
連載・やさしい仏教経済学(26)

安原和雄
 これまで仏教経済学の八つのキーワード<いのち尊重、非暴力(=平和)、知足、共生、簡素、利他、多様性、持続性>のほか競争、貨幣を取り上げてきた。今回から八つのキーワードを生かしながら、どのような変革構想を提案できるかを考えたい。
 21世紀は、地球環境保全を優先する地球環境時代であり、八つのキーワードの一つ、持続性、つまり持続的発展(=持続可能な発展)を基調とする社会を創ること、同時に非暴力の世界を構築していくことも緊急の課題となっている。この持続性と非暴力を具体化させるためには何が求められるか。その有力な方策として「持続的発展」という文言を日本国平和憲法に新たに盛り込むことを提案したい。憲法の平和(=非暴力)理念は世界に冠たる素晴らしいものだが、9条(戦争放棄、非武装、交戦権の否認)をはじめ多くの理念が空洞化している。その理念の再生と活性化のためには「持続的発展」を憲法の追加条項として導入することが不可欠といえよう。(2010年12月25日掲載。公共空間「ちきゅう座」、インターネット新聞「日刊ベリタ」に転載)

▽ 「持続的発展」の新規導入(1)― 憲法9条と25条に

 変革構想に生かす平和憲法の理念と条文は、以下を指している。
*憲法前文の平和的生存権
*9条「戦争放棄、軍備及び交戦権の否認」
*13条「個人の尊重、生命・自由・幸福追求の権利の尊重」
*18条「奴隷的拘束及び苦役からの自由」
*25条「生存権、国の生存権保障義務」
*27条「労働の権利・義務、労働条件の基準、児童酷使の禁止」

 前文には「全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から免れ、平和のうちに生存する権利を有することを確認する」とある。恐怖とは戦争という暴力であり、欠乏とは貧困、飢餓などの暴力である。
 前文でうたわれている平和的生存権と9条の理念を生かすためには世界の核兵器廃絶はいうまでもなく、日本の非武装、さらに日米安保体制(=軍事・経済同盟)解体を視野に入れておく必要がある。

 もう一つ、平和憲法に新たに「持続的発展」(=持続可能な発展)条項を導入する必要がある。『新・世界環境保全戦略』(世界自然保護基金などが1991年、国連主催の第一回地球サミットに先立って発表した提言)は「政府は憲法その他、国政の基本となる文書において持続可能な社会の規範を明記すべきである」と各国政府に対し、憲法への条項追加論を提起している。
 それにヒントを得たのが日本国憲法への追加条項で、具体案(私案)は次の通り。
*9条に「日本国及び日本国民は、世界の平和と持続的発展のために、世界の核を含む大量破壊兵器の廃絶と通常軍事力の顕著な削減または撤廃に向けて努力する」という趣旨を追加する。
*25条に「日本国、企業、各種団体及び日本国民は生産、流通、消費及び廃棄のすべての経済及び生活の分野において、地球の自然環境と共生できる範囲内で持続的発展に努める」という趣旨を新たに盛り込む。

▽ 「持続的発展」の新規導入(2)― 憲法理念の活性化をめざして

周知のように9条は次のように定めている。
 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇または武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。
②前項の目的を達するため、陸海空その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。

 しかしこれまた周知のように日米安保体制下で日本は自衛隊という名の強大な軍事力を保有し、9条は骨抜きになっている。追加条項は、この骨抜きの現状を変革するために、日本国と国民は「世界の平和と持続的発展」のために「世界の核を含む軍事力の削減、撤廃に努力する」という趣旨である。この条項の新規導入によって、空洞化がすすんでいる9条の平和理念の再生と活性化をめざそうというものである。

 一方、25条(生存権、国の生存権保障義務)は次のように定めてある。
すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する。
②国は、すべての生活部面について、社会福祉、社会保障及び公衆衛生の向上及び増進に努めなければならない。

この生存権の規定は、いわゆる社会権的基本権の保障を意味しており、しかも「環境権」も、この25条を根拠の一つとして主張されている。だから25条に「地球の自然環境と共生できる範囲内で持続的発展に努める」という趣旨を新たに加えることは場違いとはいえないだろう。
 しかも現実にはこの国の生存権保障義務が蔑(ないがし)ろにされている。貧困、格差の拡大、病気の増大、医療の質量の低下、社会保障費の事実上の削減 、税・保険料負担の増大― などによって生活の根幹が脅かされているからである。この現実をどう変革するかは緊急の大きな課題である。ここでも9条と同じように「持続的発展」の新規導入によって生存権保障の活性化にも寄与できることを期待している。

▽ 憲法理念の空洞化に歯止めを(1)― 奴隷たちよ、共に決起しよう!

 以上、憲法9条と25条の理念が事実上、空洞化していることを指摘したが、憲法理念の空洞化はこれにとどまらない。以下、変革構想に生かす憲法理念のうち、13条、18条、27条について概観し、その空洞化の歯止めはどうあるべきか考えたい。

 13条(個人の尊重、生命・自由・幸福追求の権利の尊重)は次のように定めてある。
 すべて国民は、個人として尊重される。生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、公共の福祉に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大の尊重を必要とする。

 上記の規定にもかかわらず、現実には「個人の尊重、生命・自由・幸福追求の権利の尊重」は空文化している。ここでの「個人の尊重、自由」とは、やりたい放題のことにエネルギーを浪費することを意味しない。若者たちの間にみられる「私の勝手でしょ」という姿勢は間違っている。人間としての誇りと謙虚さをもって正面を向いて生きることである。そうでなければ「生命・自由・幸福追求の権利」を生かすことはむずかしい。

 18条(奴隷的拘束及び苦役からの自由)は以下の規定になっている。
 何人も、いかなる奴隷的拘束も受けない。また犯罪による処罰を除いては、その意に反する苦役に服させられない。

 本条は「奴隷制または自由意思によらない苦役」を禁止するアメリカ合衆国憲法修正条項をモデルとして制定されたとされる。ここでの「奴隷的拘束」とは、「自由な人格を否定する程度に人間の身体的自由を束縛すること」を、「苦役」とは、「強制労働のように苦痛を伴う労役」を意味している。
 特に「奴隷的拘束」という文言を憲法に明記したこの条項をどれだけの人が自覚して認識しているだろうか。 サラリーマンの場合、企業内で自由な批判的意見を表明することは歓迎されない現実がある。しかも年次休暇消化率が半分程度というお粗末さで、これでは精神的、身体的自由が抑圧、束縛されているといえよう。
 この18条を熟読玩味して、「奴隷的拘束からの自由」を実践しなければ、何よりもわが身を守ることができないだろう。このような不自由な現状では21世紀版「奴隷解放宣言」が必要ともいえるのではないか。「我らが友、奴隷たちよ、共に決起しよう!」というスローガンが街のあちこちに張り出される日が近いことを期待したい。

 27条(勤労の権利・義務、労働条件の基準、児童酷使の禁止)はつぎの通り。
 すべて国民は、勤労の権利を有し、義務を負う。
②賃金、就業時間、休息その他の勤労条件に関する基準は、法律でこれを定める。
③児童は、これを酷使してはならない。

1980年代から続いてきた新自由主義(=市場原理主義)路線の下では長時間労働、サービス残業で酷使され、一方新自由主義の破綻に伴う不況、経済低迷とともに、大量の解雇者、非正規労働者らがあふれている。にもかかわらず適正な労働の機会を国や企業が保障しないのは、「労働は権利、義務」という憲法の理念に違反している。

▽ 憲法理念の空洞化に歯止めを(2) ― 前文にも「持続的発展」の導入へ

 さて以上のような憲法理念の空洞化に歯止めをかけ、再生を図るために具体策として憲法前文にも「持続的発展」の文言を導入することを提案したい。一案として前文の「日本国民は(中略)われらの安全と生存を保持しようと決意した」に続いて「持続的発展が世界に広く定着していくことを願う」という趣旨を書き加えてはどうか。
憲法擁護派の存在は大変貴重だが、憲法改悪を懸念する余り、憲法に前向きの新たな条項を書き加えること自体にも抵抗感があるらしい。ただ単に「憲法を守れ」を繰り返すだけの固定観念からぼつぼつ卒業したらいかがだろうか。

 日本における「変革」とは、以上のような憲法理念を実現するために未来を見据えて自ら努力することである。遅疑逡巡(ちぎしゅんじゅん)の迷いはこの際返上して、堂々と「いのち、人間としての叫び」を響かせよう!

<参考資料>
・持続的発展と仏教思想との関連については<持続性と発展と地球環境時代 連載・やさしい仏教経済学(22)>を参照
・安原和雄「持続可能な発展と仏教思想 ― 日本型モデルをどう創るか」(駒澤大学仏教経済研究所編『仏教経済研究』第三十一号、平成十四年)
・同「持続可能な発展と憲法改正 ― 地球環境時代のキーワード」(足利工業大学研究誌『東洋文化』第19号、平成十二年)

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「企業の社会的責任」を改めて問う
経済同友会主催シンポジウムを聴いて

安原和雄
 企業活動のあり方としてCSR(Corporate Social Responsibility・企業の社会的責任)が問われるようになって久しい。最近では企業とNPOとの協働事業も盛んである。経済団体の一つ、企業経営者個人の集まりである経済同友会主催のシンポジウム「テーマは企業とNPOの協働~CSRで企業は強く、社会はより良く~」を聴く機会があった。
 基調講演「善意や志が循環する社会をめざして~新しい時代の企業とNPOの戦略的連携~」に続いて、大企業とNPOとの協働事業に関する現状報告があった。いずれも21世紀の今日における企業の社会的責任とは何か、を改めて問い直す形となった。(2010年12月18日掲載。インターネット新聞「日刊ベリタ」、公共空間「ちきゅう座」に転載)
 

2010年12月16日東京都内で経済同友会(代表幹事・桜井 正光リコー取締役会長)主催の第4回CSRシンポジウムが開かれ、企業とNPO(特定非営利活動法人)のプロジェクトリーダーがCSRに関する協働事例を発表した。登場した企業は武田薬品工業、日本電気(NEC)、三菱地所の3社で、以下、企業別の協働事例を紹介する。

▽ 大企業とNPOとの協働事例

(1)武田薬品工業とNPO・市民社会創造ファンド(2002年設立。NPOの資金源を豊かにすることを目的とする特定非営利活動法人)=協働事例は「タケダ・ウエルビーング・プログラム~長期療養の子供たちに生きる力を~」

 武田薬品工業の経営理念は「優れた医薬品の創出を通じて人々の健康と医療の未来に貢献する」で、その具体化の一つが協働事例として発表された「長期療養の子どもたち支援」だ。
 次のような事例が挙げられている。
・闘病中の子どもたちに笑顔を届けるホスピタル・クラウン(注)の養成
(注)クラウン(道化師)が入院中の子どもたちを訪れて、パフォーマンスを行う活動
・遠隔地から高度専門病院に通う子どもとその家族への宿泊施設の提供
・病気の子どもの兄弟の支援
・入院中の子どもと遊ぶボランティア派遣
このような特別な支援が必要な背景として次の諸点が挙げられている。
・痛い治療やつらい副作用が避けられないこと
・学校に行って、友人と学び、遊ぶという普通の生活ができないこと
・家族にとって仕事が多忙のため、病院へしばしば面会に行くことが難しいこと

 以上の支援活動は市民社会創造ファンドが担当し、武田薬品工業は寄付によって助成する。助成金総額(2009年)は700万円で、助成件数は5件程度。

(2)日本電気(NEC)とNPO・マドレポニータ(2007年設立。出産後のヘルスケアを開発、研究、普及する特定非営利活動法人)=協働事例は「NECワーキングマザーサロン~子育てしながら働く女性を応援、多様性豊かな社会へ~」

 ワーキングマザーサロンは北は岩手県から南は福岡県まで全国49地域で展開、サロン開催回数も計225回(2009年9月から2010年11月までの間)、参加者数も計1399名にのぼった。育児中の漠然とした不安・悩みを自己解決することをめざすもので、次のようなプログラムの構成になっている。
・「自分はどうありたいのか?」と自分自身に向きあうこと
・自分の思いを表現し、仲間と分かち合うこと
・深いつながりが地域で生まれること
「育児中は不安がいっぱい」というのが働く女性たちの悩みで、インターネットでいくら情報収集しても、話せる人、話せる場がないと、情報に翻弄(ほんろう)されるだけで不安は解決されないという認識に立っている。

 さらに心身ともに健康でスムーズな職場復帰を支援することも重要な課題である。そのためにはマザーサロンが表面的な情報交換で終わることのないようにすること、愚痴・不満などの井戸端会議にしないこと―が大切になる。
 その知恵が「共に育む」ための地域ごとのネットワーク作りであり、それを手助けするのが公募によって選抜された女性のファシリテーター(お助けウーマン、2010年度16名)だ。主役はあくまでも育児中の母親で、ファシリテーターは育児中のサロン参加者に対し話し、表現する機会を提供するにとどまる。

(3)三菱地所とNPO・えがおつなげて(2001年設立。山梨と東京を中心に都市と農村のニーズと資源をつなぐ活動を行う特定非営利法人)=協働事例は「空と土プロジェクト~都市と農山村がお互いに元気になる社会に向けて~」

 三菱地所の社会貢献活動は、①社会的課題の解決=社会の持続的な発展がない限り、企業の経済的な繁栄はあり得ない、②企業価値の向上=多様な価値観や感性に触れることにより、社員の人間力が育まれ、それが事業活動に生かされるなどにより、企業としての社会の信頼を得ることにつながる―の2本柱。
 その具体化の一つが「空と土プロジェクト」だ。2008年から開始したプロジェクトで、山梨県北杜市増富地区が活動の舞台で限界集落地域との交流を通して都市と農山村が共に支え合う持続可能な社会の実現に向けて以下のような活動を行っている。

・これまで三菱地所グループや東京丸の内で働くサラリーマンを中心に計20回のツアーを実施。参加人数延べ540人
・現地の限界集落地域で間伐、開墾から田植え、収穫までの農林業を体験
・間伐材や木材の活用、食材の活用など事業活動との連携も視野に入れてプロジェクトを推進

 以上のような都市と農山村との交流・連携を進めつつあるNPO「えがおつなげて」は、将来構想として「都市と農山村の共生社会つくり」をめざしている。それは「日本は地下資源はないけど、地上資源は宝庫」という視点を生かす、農商工連携による農山村資源活用策で、これを進めて新たな「10兆円産業・100万人雇用の可能性」という夢を描いている。10兆円産業の内訳は農林漁業3兆円、観光・交流2兆円、建築・不動産2兆円、エネルギー・交通1兆円、教育・情報・IT・メディア等サービス分野2兆円―という。

▽ 「本業を生かす企業の社会的責任」とは

 企業の社会貢献活動、いいかえればCSRに対する考え方が変化してきた。その変化は三菱地所CSR推進部によれば、次の三つである。企業内部からもこういう変化を促す動きが始まっている。
・<かつての本業から離れた分野でのCSR>から<本業を生かした「その会社らしさ」のCSR>へ
・<寄付などの資金的支援>から<その企業の多様な経営資源の活用>へ
・<思いつきの単発的な事業>から<継続性のある事業>へ

 本業で大きな利益を上げながら、そのほんの一部を慈善行為風に社会に還元する時代ではもはやない。いいかれば公害垂れ流しなどに対する社会からの企業批判を避けるための一時的な便法としての社会貢献活動はもはや有効とはいえない。もちろんNPOとの協働事例はもっと増えることを期待したい。しかしここでは「本業を生かす企業の社会的責任」とは何か、を考えてみたい。以下で一つの提言を参考までに紹介する。

 労働運動総合研究所(労働総研)は12月14日、「働くものの待遇改善こそデフレ打開の鍵―企業の社会的責任を問う」という提言を発表した。その骨子は以下の通り。
・日本経済の健全な成長策として①非正規雇用労働者の正規雇用労働者への転換②最低賃金1000円への引き上げ③すべての労働者の賃金月額1万円引き上げ④賃金なしのサービス残業の廃止、年休の完全取得など働くルールの厳守―が必要。
・企業が上記の社会的責任を果たした場合の経済効果は以下の通り。
試算(概算)では356万人の雇用創出、27兆円の消費需要が生まれ、これによって国内生産51兆円が誘発され、年5%を超える経済成長率が実現する。これに必要な原資38兆円は2009年までの10年間に企業が貯めた内部留保増加分195兆円の20%程度にすぎない。

 この提言は景気対策であり、同時に日本経済改革案であり、働く者たちの暮らし改善策ともなっているが、それを「企業の社会的責任を問う」という視点から提起しているところに新鮮味を感じる。
 様々な数字はもちろん一つの試算にすぎない。ただ企業の社会的責任のあり方として従来とは異質のこの種の具体策こそが「本業を生かす企業の社会的責任」の実践ともなり得ることに着目したい。これが新しい潮流となっていくことを期待したい。

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自分らしく21世紀を生きよう!
「企業内サラリーマン」を超えて        

安原和雄
 一つの数字が大きな衝撃を広げている。「57.6%」だ。これは厚生労働省と文部科学省が発表した大学生(来春卒業)の就職内定率(10月1日現在)である。調査を始めた1996年以来、過去最低という数字である。「超氷河期」とも呼ばれるこの寒々とした現実に大学生たちはどう立ち向かえばよいのか。
就職先として大企業にこだわっている学生が 少なくないようだが、大企業依存症ともいえる「企業内サラリーマン」を超えて、自分らしく21世紀を生きてみよう!と提案したい。これは仏教経済思想家、E・F・シューマッハーが提唱した「Small is Beautiful」(小さいことは素晴らしい)という考え方を生かしていくことにも通じる。(2010年12月11日掲載。公共空間「ちきゅう座」に転載)


 私は12月8日、5年前まで経済学を講じていた足利工業大学(牛山泉学長、栃木県足利市)で就活(就職活動)をはじめる三年生、さらに教職員ら約300人に講話する機会があった。題して<自分らしく21世紀を生きる 「企業内サラリーマン」を超えて>。その趣旨を以下に紹介する。

▽ 就職・人生にまつわる運、自分らしさ、縁(えん)

 自分らしく生きていくにはどうすればいいかが最近、大きなテーマになっている。必要なのは「コミュニケーション力」と「聴く力」である。

 私の大学卒業は1958年(昭和33年)、半世紀以上も昔で、新聞社しか受けなかった。その理由の一つは学生時代から世の中を少しでも変革するにはどうしたらいいかを考えていた。この発想を生かすには新聞社がいいだろうと思った。もう一つ、当時の新聞社は大学の学業成績は一切問わないのが助かった。正直言って、成績は並みでしかなかった。
 当時の新聞社の競争率は100倍近かった。現在、君たちの就活も大変で、内定を得るために100社以上に接触しているという深刻な苦労話も聞く。競争率では半世紀も昔の私の場合と共通点があるともいえるので、以下、まず個人的体験を話してみたい。

*人間の運(幸運、不運)を考えさせられたこと
 毎日新聞に入社して10数年経ったある日の朝、新聞に「日本人記者、ベトナムで爆撃の犠牲に」という大きな見出しが躍っているのをみて驚いた。というのは面識のある男性だったからだ。N新聞社を受験し、面接試験の控え室で初対面ながら雑談をした記憶がよみがえってきた。なかなかの好青年という印象であった。惜しい男を亡くしたという思いと同時に、仮に彼の代わりに私が合格していたら、悲劇の人は自分であったかも知れない、これが人間の運というものかと考え込まないわけにはいかなかった。

*自分らしさとは、他とは異質の個性、意見を大切にすること
 毎日新聞の二次試験「集団討議」のテーマは「道徳教育の復活に賛成か反対か」で、一次試験(常識テスト、作文、論文など)に合格した者が対象。10人一組でまず賛否を明らかにして議論した。「復活」に反対は私一人で、最初、「これはまずいな」と思ったが、実はそれがプラスに働いた。私が9人を相手に議論し、発言回数が多くなった。大学の研究会などでよく議論していた経験が役に立った。このチームの中で入社したのは、私一人だった。
 最近の若者は「コミュニケーション力」が十分ではないと企業の採用担当者の声として聞く。自分の意見を人前で堂々と述べる訓練が必要ではないか。「聴く力」も重要だ。相手の意見をしっかり聴かなければ、議論はできない。

*足利工業大学(仏教系)との縁を生かすこと
 私自身、仏教系の本学で仏教経済学に出会うきっかけをいただいたことに感謝している。
「お陰様で」と言いたい。皆さんも本学で学ぶ機会を得た、その縁を生かすことが大切だ。授業料を超える大きな価値を身につけるよう努力して卒業してもらいたい。先生に教えてもらう、という受け身の姿勢ではなく、先生から、その持てるものを引き出し、いただいて、自分の糧(かて)にしていくという積極的な姿勢が必要だと思う。
 本学の建学精神は聖徳太子の「和の精神=和を以て尊しとなす」で、これをどう実践するか。和の精神は、馴れ合いで仲良くすればいいという意味ではない。率直な意見交換、活発な議論をしながら、望ましい方向を発見していくことと私は理解している。この和の精神を皆さんも実践してほしい。

▽ 「企業内サラリーマン」を超えて

 就職して、自分はどういう人生を歩みたいのか、何を人生の目標にして生きていくのか?
そのことをしっかり考えて欲しい。

 三つのタイプが想定できる。
① どこでもいいから就職できないか、という消極的なタイプ
② 企業の売上げ、利益のために働いてみたいという「企業内サラリーマン」のタイプ
③ 「企業内サラリーマン」を超える生き方に挑戦したいと思うタイプ

① のタイプは就職に苦労するだろう。
② のタイプは就職はできるが、企業の業績次第で将来、捨てられる恐れがある。
望ましいのは③ のタイプで、21世紀の生き方にふさわしい。ただし以下の(イ)、(ロ)、(ハ)の実践を心掛けて、自分自身を鍛える必要がある。そうでなければ「企業内サラリーマン」を超える境地に挑戦することはむずしい。

(イ)日常生活の心構え
【いただきます】を毎日唱えよう!
 食事は動植物のいのちをいただいて自分のいのちをつないでいることを自覚し、感謝を表す言葉。だからいのちの食べ残しをやめること。食べ残しは自分の腹が読めないことを意味する。自分の腹一つ読めないようでは一人前とはいえない。
【もったいない】という感覚を身につけよう!
 いのち、モノを大切にすること。ケニアの植林運動家・マータイ女史(ノーベル平和賞受賞)は、何度も日本へ来て「MOTTAINAI」を世界語にする運動に取り組んでいる。
【お陰様で】と感謝するこころを育てよう!
 他人に頼らず、自立しようとする意欲は必要である。ただし現実には地球、自然、他人様(ひとさま)のお陰で生かされているわけで、その客観的な事実を自覚すること。そのうえ「世のため、人のため」にお返しすること(利他)。自分勝手(私利私欲)は美しくないし、得(とく)にもならないことを心に刻みたい。

(ロ)オンリーワンをめざして
 沖縄生まれの全盲のテノール歌手 新垣勉(あらがき・つとむ)さん(57歳)のアルバム「さとうきび畑」は10万枚以上売れた。「さとうきび畑」は何度聴いても素晴らしい。
彼の「ナンバーワンよりオンリーワン。互いの違いを認め合うことから平和は始まる」という言葉も素敵である。
 念のため指摘すれば、ナンバーワンは、例えば100㍍競走のように優劣を競って一位になることで、勝者と敗者に分かれる。オンリーワンはそれぞれの得意な分野で個性、能力を磨き抜くことで、充実感を伴う。そこには敗者は生まれない。

 NHKの大河ドラマ「龍馬伝」 ― オンリーワンをめざした幕末志士たち
・土佐藩(今の高知県)志士、坂本竜馬(33歳で暗殺)は、藩の狭い利害に囚(とら)われず、日本人としての広い視野で自分らしく生きた珍しい人物。
 龍馬が今生存していたら、どういう生き方をするだろうか? 地球人としての視野(地球環境保全、世界平和=非武装の実現)で行動するのではないか。そう期待したい。 

・長州藩(今の山口県)志士、高杉晋作(28歳で病死)の ユニークな辞世「おもしろき こともなき世を おもしろく」を味わいたい。
なぜ「楽しく」と言わなかったのか? 与えられたものを楽しむという感覚ではなく、自分で新しい時代をつくっていく、その生き甲斐と挑戦のおもしろさを強調したものと受けとめたい。高杉は農民や町民を集めて奇兵隊(「奇」は異質という意で、武士集団とは異なる)を創設し、幕府軍に対抗したことで知られる。

(ハ)お布施型経営の担い手として
 就職活動中の大学4年生(北九州市)の次の新聞投書(11月8日付毎日新聞)を紹介する。
 「会社の採用担当者と面談して、人間同士の思いやりが感じられなかった。受験した会社は、利益を出すことがすべてのように感じた。何て悲しく、むなしいのだろうと思った」と。君たちはこの大学生の疑問をどう思うか? 私はもっともな疑問だと思う。ではどういう経営が望ましいのか。

 21世紀の経営(企業経営に限らない、国の経営から個人の人生設計までを含む広い意味の経営)のあり方として、「お布施型」(注)をすすめたい。企業でいえば、環境破壊、倫理軽視、人員整理を辞さない私利優先型経営が多い。これを環境(関連技術も)、倫理、雇用(障害者も)を重視するお布施型経営へと再編成する。
 低迷経済下ではマクロの経済規模は横ばいに推移するとしても、個別企業はお布施型仕事人の器量によって成長企業になり得る。
(注)お布施は大別して、法施(法=真理の施しをすること)、財施(モノ、カネを施すこと)、無畏施(笑顔で接する〈顔施=がんせ〉など、不安感や恐怖心を取り除き、安心感を与えること)の三つ。

 利益を貪(むさぼ)り、生き残れる時代は終わった。お布施型経営に反する企業の末路の典型例は消費者金融・武富士の経営破綻だろう。
 一方、お布施型経営の一例は、ユニクロを展開するファーストリテイリング。法定の障害者雇用率は1.8%となっているが、ユニクロはこの法定率を大きく上回っている。柳井正会長兼社長は「障害者がいると、皆が力を貸すようになる。協力して仕事をする連帯意識が強まり、組織も強くなる」(毎日新聞11月13日付の経済観測=社会的弱者 東レ経営研究所特別顧問 佐々木常夫)と。お互いの連帯感が強くなると、世の中は住みやすくなる。それに貢献しているということだろう。

▽ 仏教経済学の八つのキーワードと「小さいことは素晴らしい」

仏教経済学は変革をめざして、人生を生きていくための思想的、実践的な武器である。以下に私が構想する仏教経済学の八つのキーワードを列挙する。現代経済学との質的違いを理解して欲しい。〈 〉内は現代経済学の特色

*いのち尊重=人間はいのちある自然の一員。〈いのち無視=自然を征服・支配・破壊〉
*非暴力(平和)=多様な暴力(戦争、自殺、交通事故死、失業、貧困、人権侵害、自然 環境汚染・破壊など) がない状態。平和はつくっていくもの。〈暴力=戦争など〉
*知足=欲望の自制、「これで十分」。〈貪欲=欲望に執着、「まだ足りない」〉
*共生=いのちの相互依存。〈孤立=いのちの分断、孤独〉
*簡素=質素、飾り気がないこと。〈浪費・無駄=虚飾〉
*利他=慈悲、自利利他円満、利他的人間観。〈私利=利己主義、利己的人間観〉
*多様性=自然・人間・文化・国のあり方の多様性、個性の尊重。〈画一性=個性無視〉
*持続性=持続可能な「発展」。〈非持続性=持続不可能な「成長」〉
 補足a:競争=個性と連帯の尊重。〈競争=弱肉強食、私利追求〉
 補足b:貨幣=非貨幣価値も重視。〈貨幣=貨幣価値のみ視野に〉

以上の八つのキーワード、競争、貨幣については、ブログ「安原和雄の仏教経済塾」に「やさしい仏教経済学」として連載中なので読んでほしい。

 私の仏教経済学はドイツ生まれの仏教経済思想家、シューマッハー著/小島慶三ら訳『スモール イズ ビューティフル』(講談社学術文庫、原文は1973年に出版)に負うところが多い。著作の原題は「Small is Beautiful」(小さいことは素晴らしい)で、これを今日風に翻訳すれば、「中小企業、中小国がおもしろい時代」と読み解くこともできよう。

 もちろん就職先として大企業をめざすのもいいと思うが、最近は中小企業にもユニークな企業が増えている。
 人類が初めて小惑星の鉱物を持ち帰った小惑星探査機「はやぶさ」の開発にかかわった大学や企業118団体に、その功績をたたえて政府が感謝状を送った。表彰された企業で最も小さいのが常勤社員4人の金属加工業「清水機械」という町工場(東京・江東区)で、代表の山崎秀雄さん(67歳)は「ものづくりは国を支える基本だ」と言っている。

もう一つ、<学生よ、就職は「鶏口牛後」で>と題する新聞投書(無職 松窪和俊72歳 和歌山市=12月6日付毎日新聞)を紹介しよう。
 就職希望者に考えてもらいたいのは、「鶏口となるも牛後となるなかれ」ということ。組織が大きい大企業では一人の存在が埋没する恐れがある。中小企業は小規模であるがゆえ一人の能力を存分に発揮しやすいのではないか。現に従業員約10人規模の会社に世界の最先端企業から注文が相次いでいるというケースもある。
 大企業ばかりに注目しないで、自分の未知の能力を働きがいのある職場で発揮されて、世界に羽ばたく企業に育ててみようという気概もほしい、と。

文中の「鶏口となるも牛後となるなかれ」(中国の史記の言葉)は、大きな団体で人のしりについているよりも、小さな団体でも頭(かしら)になる方がよい、という意で、就職先として大企業だけにこだわるのは感覚が古いといえるかも知れない。
 この投書の中で二つのことに注目したい。一つは「自分の未知の能力の発揮」で、自分自身気づいていない能力が自分にはある、という自覚を持って発見し、磨くことだ。もう一つは、「世界に羽ばたく企業に育ててみようという気概」で、最近の若者には「気概」(やってみせるぞという強い意志)が足りない印象があるが、どうか。

 国でいえば、大国よりも中小国がおもしろい時代になってきた。例えば中米のコスタリカ(注)は1949年憲法改正で軍隊を廃止した。日本の憲法9条の理念(非武装)は現実には骨抜きになっているが、この理念をコスタリカが実践しているのだ。私は2003年にコスタリカを訪れた時、なかなか素敵な国という印象を得た。
(注)パナマ運河の北に位置し、人口は430万人程度、自然観光資源の豊かな国で観光客が日本からも訪ねている。

 Small is Beautiful=小さいことは素晴らしい。そういう新しい時代が始まりつつある。固定観念や思い込みを捨てて、自分らしい人生を、自分たちの時代を、自分たちの21世紀をつくっていって欲しい。そういう夢と意欲を持っていれば、就職の機会が向こうから近づいてくるだろう。

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人間は「カネの奴隷」ではない
連載・やさしい仏教経済学(25)

安原和雄
 お金がなければ、暮らしそのものが成り立っていかないのは自明のことである。とはいえ、日本人の多くはなぜカネを追い求めるような振る舞いに追い込まれることになってしまったのか。
 1980年代後半のわが国における本格的なバブルが90年代初めに崩壊して、「カネ、カネ」の世の中の虚(むな)しさを多くの人が実感したはずだが、現実はカネに執着する現象が目立ちすぎる。「カネの奴隷」になっていることに気づかない拝金教信者の群といえば、いささか誇張に過ぎるだろうか。この地獄から脱出するには「人間はカネの奴隷ではない」ことをどう自覚するかである。そのためにはカネと経済成長第一のGDP信仰から脱却する必要がある。(2010年12月6日掲載。公共空間「ちきゅう座」、インターネット新聞「日刊ベリタ」に転載)


▽ 世界を徘徊する妖怪マネー ― 資本主義のカジノ化

 ここで問題に取り組んでみたい。
<問い>お金とは一体何なのか?
<答え>私たちは、こういう疑問を抱きながら暮らしているわけではない。当然お金はあるべきものであって、なければ生活ができなくなり、困るというくらいの感覚ではないだろうか。「いのちの次に大事なモノ」といった答えも浮かぶ。
 まず指摘したいのは、昔のまた昔には貨幣はこの世に存在していなかったという事実である。だからモアの『ユートピア』(前回の「お金では買えない価値の大切さ ― 連載・やさしい仏教経済学(24)」参照)に描かれているように、将来のその将来には貨幣が再びこの世から消えてなくなる日が来るかもしれない。

 お金、マネーの歴史を追ってみて、分かることは、その機能・役割が大きく変化したということである。次のように表すことができる。
*本来の機能=手段としての交換機能(商品売買の仲介機能)
  G → M → G (G=Goods・商品、M=Money・お金)
*資本主義下の機能=目的としての貨幣価値増殖
  M → G → M’
*マネーゲームの機能=目的としての資本価値増殖
  M → M’

 初期の交換市場経済では本来、Mすなわち貨幣は脇役で、Gすなわち商品が主役であった。ところが資本主義的市場経済になってくると、Mが主役の座にのし上がり、それまでのG→M→Gという商品経済循環がM→G→M’という貨幣経済循環に変化し、商品生産も利益(Mの右肩のダッシュの部分)の追求を目的にして行われる。しかしまだGすなわち商品生産が存在していることに注目したい。
 ところが今日のマネーゲームではM→M’で表せるようにMすなわち貨幣だけが自己増殖を目的にして動き回り、Gは全く姿を消している。これがモノづくりとは無縁なマネーゲームの特徴である。いわば「カネ、カネ」の世の中になり、カネは利殖のための資本と化した。
 こうしていまや資本主義それ自体がギャンブル場と化してしまったともいえよう。1980年代以降の金融の世界を知る上で次の描写は決して過大ではない。

 西側世界の金融システムは急速に巨大なカジノ(賭博場)以外のなにものでもなくなりつつある。(中略)このことは深刻な結果をもたらさざるをえない。将来何が起きるかは全くの運によって左右されるようになり、熟練や努力、創意、決断、勤勉がだんだん評価されなくなる。(中略)いまや運が怠惰や無能と同じように仕事を奪うかもしれない。こうしたわけで、不確実性の増大が我々を賭博常習者にしてしまっている。(スーザン・ストレンジ著『カジノ資本主義』岩波書店)

 本来、カネは人間の作品であったはずだが、逆に人間がカネの奴隷となる。もちろん本人に奴隷という自覚はないにしても、カネ自体の自己増殖運動に否応なく振り回される。人間が主人公としての主体性、自主性はほとんど喪失する。
 こうしてマネーが妖怪(ようかい)となる。その妖怪がいまや世界狭しとばかりに徘徊(はいかい)している。しかもそのほとんどは投機性の高い短期資金である。
 カネをめぐる犯罪がいかに多いことか。モノ作りで身を滅ぼす者はいないが、カネ儲け、つまりマネーゲームに駆り立てられ、M→M’という投機の世界で身を滅ぼす者は数かぎりない。

▽ バブル崩壊の歴史(1) ― チューリップ狂から

 資本主義のマネーゲーム化は世界的な現象である。その頂点に位置するバブル経済(注)も日本だけに特有の現象ではない。しかもバブルとその崩壊の歴史は古く、手を替え品を替えて繰り返し登場してきた。
 (注)バブル経済=株式、土地など資産価格が適正な価格から著しく離れて高騰し、投機的な経済になること。バブル(英語のBubble)は「泡」という意味で、必ずはじける。

 ここでバブルの歴史を駆け足で辿ってみよう。
 歴史上最初の大がかりな投機として有名なチューリップ狂は、1630年代のオランダのアムステルダムが舞台であった。投機の対象になったのは、株式ではなく、チューリップの球根だったのだから驚かざるをえない。貴族はもちろん女中さんたちまでが手を出し、最盛期には一つの球根が今日の2万5000ドルから5万ドル(約400万円)にも高騰したというから、正気の沙汰ではない。やがて暴落し、オランダは長い不況期に見舞われるが、チューリップの栽培だけはいまなお続いて、オランダの観光資源としても有名である。

 1929年大恐慌前のアメリカのニューヨーク市場での株価の急騰もバブルであった。大恐慌の直前に当時のフーバー大統領は「永遠の繁栄」を豪語していた。ところが大恐慌によって株価は約3年間でピーク時の7分の1に下落、それが暴落前のピーク時の水準を回復したのはなんと25年後の1954年(昭和29年)のことである。バブル破綻の後遺症は長い。
最近では2008年9月、米証券4位のリーマン・ブラザーズ破綻とともに一挙に具体化した世界金融危機を挙げることができる。「100年に1度の危機」、「超バブルの崩壊」などと呼称は多様だが、それをもたらした元凶は「規制のない自由な市場こそ万能」というスローガンを掲げる新自由主義(=市場原理主義)である。

 日本では1980年代後半の株式・土地ブームが第2次大戦後に体験した本格的なバブル経済で、そのときはバブルは永遠に続くと思っていた人が多かったのだから、不思議といえば、不思議な話である。思い込みが強かっただけに、右肩上がりの急上昇が一転して右肩下がりの急落となったバブル崩壊の後遺症は、金融機関に巨額の不良債権を抱えさせ、巨大銀行の倒産など深刻な事態にまで発展した。

▽ バブル崩壊の歴史(2)― 馬鹿者集団のマネーゲーム

バブルは最初は極度の楽観主義が支配し、それがやがて極度の狼狽(ろうばい)と混乱に取って代わった点で共通している。ここではバブルにかかわる苦言を紹介しよう。

 フリードリッヒ・シラー(ゲーテと並ぶドイツの詩人、1759~1805年)が喝破したように「個人としては結構まともで気のきいた人であっても、群衆の一員となると、途端に馬鹿者になってしまう」のである(ジョン・K・ガルブレイス著『バブルの物語』、ダイヤモンド社)。シラーの筆法をもってすれば、バブルは馬鹿者集団のマネーゲームにほかならない。
 イギリスの物理学者 アイザック・ニュートン(1642~1727年)も、投機に巻き込まれて巨額の資金をを失い、「私は物体の運動を測定することはできるが、人間の愚行を測定することはできない」という名言(?)を残している。

 バブルの崩壊から学ぶべきことは何だろうか。ガルブレイスは『バブルの物語』の中で次のように指摘している。
 「繰り返し狂気の沙汰に陥るのは資本主義の特徴である」
 「愚者は、早かれ遅かれ、自分のカネを失う。また悲しいかな、一般的な楽観ムードに呼応し、自分が金融的洞察力を持っているという感じにとらわれる人、つまり金融の天才も、これと同じ運命を辿る」
 愚者も自称「金融の天才」もともにバブルでは重度の火傷が避けられないとすれば、学ぶべきことは「バブルには手を出すな」以外にはありえない。

▽ GDP信仰(経済成長主義)からの脱却を

 専門家集団である金融業者にかぎらず、一般民衆までが拝金教信者になっている傾向は、日本で顕著である。その根本的な背景は何か。経済優先主義とGDP(国内総生産)信仰をあげたい。
 経済優先主義とはGDP第一主義にほかならない。GDPという概念ではカネで表示できるモノ・サービスなど貨幣価値のみが重視される。カネで表示できないものは、GDPとは無関係なのである。このことはカネに換算できない非貨幣価値の軽視につながっていかざるをえない。
 しかも「欧米に追いつき、追い越せ」をスローガンにGDP増大、いいかえれば右肩上がりの経済成長に日本は国を挙げて取り組んできた。1960年代の池田内閣時代の所得倍増計画がその一つの典型である。所得倍増とはカネを2倍に増やすことを意味している。「カネ、カネ」という意識が日本列島の隅々にまでいつの間にか広がっていったとしても不思議ではない。

 どうすればいいのか。仏教の開祖、釈尊は、カネを捨てなさいと言った。釈尊自身はお金も地位もさらに妻子までも捨てて出家した。生老病死という「人生の四つの苦」は富や財産では解決できないことを悟って、お金を捨てたのである。(ひろさちや著『お釈迦さまが説いた、「おかね」って何だ?!』毎日新聞社)
 当時は貨幣経済が未発達であった。だからお金を捨てやすかったともいえるが、今日の我々はカネを捨てるわけにはいかない。どうしたらよいのか。私は拝金教信者から「もうこれで十分」と感謝する心を尊ぶ知足教信者への宗旨替えこそが近道だと考える。

 まずカネへの異常なこだわりを捨てることである。「何のためのお金か」とつねに問い直してみる必要がある。これが「カネの奴隷」から「カネの主人公」になるための最低必要条件ではないか。
 そのためにはGDP信仰からの脱却が不可欠である。GDP信仰がほかならぬ拝金教の背景にあるのだから拝金教を克服するためには、GDP信仰から抜け出すほかない。世の経済学者やエコノミストたちの多くは、いまだに経済成長率が高いの、低いのと分析・予測に明け暮れているが、私は「お疲れ様、GDP」といいたい。GDPを担ぎ回る時代はもう終わっている。
 さらにカネの役割・機能を本来の姿に引き戻す努力が求められる。これは経済の基本をマネーゲームからモノづくり、サービスの提供へと転換させ、腐乱した市場経済を本来の健全な市場経済に構造改革していくことにほかならない。
 もう一つ、お金では買えない非貨幣価値の大切さに心を配りたい。カネさえ沢山あれば、何でも手に入れることができると思うのは、貪欲に左右された錯覚にすぎない。

<参考資料>
「新自由主義はついに破綻した ― 世界金融危機の歴史的な意味」(ブログ「安原和雄の仏教経済塾」08年10月4日掲載)

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