「もっともっと欲しい」の貪欲の経済から、「足るを知る」知足の経済へ。さらにいのちを尊重する「持続の経済」へ。日本は幸せをとりもどすことができるでしょうか、考え、提言し、みなさんと語り合いたいと思います。(京都・龍安寺の石庭)
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「日米安保」への執着を捨てるとき
沖縄県知事選結果が示唆すること

安原和雄
11月28日に行われた沖縄県知事選挙の結果は「沖縄米軍基地撤去」が民意であることを示した。選挙当日から米韓両軍が朝鮮半島西側の黄海で4日間の日程で合同軍事演習をはじめるなど緊迫感の漂う中での選挙であったが、沖縄の民意は揺るがなっかたことを評価したい。今後の課題はこの民意をどう生かすかである。
本土のメディアには日米同盟深化論を是認する論調が多い。しかし米軍基地の存在を前提とする同盟深化論は、基地撤去を求める沖縄の民意とは両立しない。民主党政権は、この矛盾をどう打開していくのか、まさしく難問に直面することとなった。難問とはいえ、答えは単純である。それは「暴力装置」としての「日米安保」への執着を捨てることである。これこそが沖縄県知事選結果が示唆していることと受け止めたい。(2010年11月30日掲載。公共空間「ちきゅう座」、インターネット新聞「日刊ベリタ」に転載)

▽ 新聞社説は沖縄知事選結果をどう論じたか ― 日米安保との関連で

 沖縄の琉球新報と本土の大手紙の社説が今回の沖縄県知事選結果をどう論評したかを紹介する。まず社説(いずれも11月29日付)の見出しは次の通り。

*琉球新報=仲井真氏再選 「県外移設」公約の実現を 問われる対政府交渉力
*朝日新聞=沖縄知事選 重い問いにどう答えるか
*毎日新聞=沖縄県知事選 首相は普天間現実策を
*読売新聞=沖縄知事再選 普天間移設の前進を追求せよ
*日本経済新聞=宙に浮く普天間問題をどう打開するか

 以下では日米安保、同盟との関連に焦点を絞って社説がどう指摘しているかを紹介する。

琉球新報=日米安保の根幹を揺るがす「普天間問題」が争点になった。沖縄問題から逃げる与野党両最大政党に日米安保の要を担う米軍基地問題の解決やその先の日米関係の再構築など望むべくもない。
朝日新聞=中国軍の海洋活動の活発化や北朝鮮の韓国領砲撃で、日本自身の安全保障のためだけでなく、東アジアの平和と安定を支える礎として、日米同盟の重要性が改めて強く意識されている。
一基地の問題が日米同盟全体を揺るがす。そうした事態をなんとかして避ける高度な政治的力量が菅政権には求められる。
毎日新聞=日米両政府は、普天間問題が日米同盟全体に悪影響を及ぼすような事態を避けるよう努力すべきだ。来春の日米安保共同声明に向けて進められる同盟深化の作業の障害にしてはならない。
読売新聞=菅首相が、本当に日米合意を実現し、同盟を深化させる気があるのか、疑わしい。
日本経済新聞=中国軍の増強が加速し、朝鮮半島も緊迫しているときに、これ以上、同盟を弱めるわけにはいかない。

 以上、沖縄地元の琉球新報は日米安保に批判的である。それは地元紙としては当然のことといえる。これと対照的なのが本土の大手紙で、表現に多少の違いはあっても、日米安保容認論であり、日米同盟の深化を「よいしょ」と推進する立場となっている。

▽ 日米同盟深化是認論の危険な落とし穴

 大手紙の日米同盟深化を是認する姿勢は今に始まったことではない。ただ最近の背景事情としては朝日社説の「中国軍の海洋活動の活発化や北朝鮮の韓国領砲撃」、日経社説の「中国軍の増強が加速し、朝鮮半島も緊迫しているとき」が同盟深化是認論に拍車をかけていることがうかがえる。

 しかしこの同盟深化論は素直には是認できない。もちろん南北朝鮮の砲撃戦を容認できるわけではない。それは当然のこととして、事態をもっと冷静に観察する必要がある。砲撃戦(11月23日)の経過を報道した朝日新聞記事(11月25日付)を一つの材料として挙げたい。それによると、次のような経過をたどっている。
・北朝鮮が韓国軍に演習中止を求める通知文を送付
・韓国軍、海上射撃訓練を実施
・北朝鮮軍、1度目の砲撃。約60発が陸地に着弾
・韓国軍、Ⅰ度目の対応射撃。50発
 以上の経過から推測すれば、韓国軍が先に海上射撃訓練によって挑発行動に出たという見方も成り立つ。

 もう一つ、沖縄県知事選当日の28日朝から米韓両軍が朝鮮半島西側の黄海で4日間の日程で合同軍事演習をはじめた。米海軍原子力空母ジョージ・ワシントンなども参加している。この軍事演習の狙いは何か。在沖縄米軍基地を撤去して、米海兵隊の抑止力を喪失すると、中国、北朝鮮の脅威に対抗できるのか、という不安感をかき立てる意図も見え隠れしている。その手の演出と読みとるのも決して見当違いではあるまい。そういう意味で知事選への牽制という含みもあった。
 黄海での軍事演習を当然のことと観るとしたら、それは疑問である。立場を変えて、仮に中国・北朝鮮両軍の合同軍事演習がハワイ沖で行われるとしたら、米国は「どうぞ、どうぞ」という冷静な姿勢でいられるだろうか。軍事演習それ自体がつねに挑発的行為といえるのではないか。

 軍事同盟には「常に敵をつくる」という性癖がある。これは軍事同盟のイロハともいえる。なぜなら敵がいなければ、軍事同盟それ自体の存在理由がなくなるからである。「同盟は安心・安定装置」などという気楽な認識がメディアの間にも少なくない。しかしこの安易な同盟深化是認論は絶えずあの手この手で相手を挑発しながら、軍事力行使へと進む危険な落とし穴につながっていることを見逃してはならない。

▽ 「隷属状態に置かれる日本」への批判

 さてここで一人のジャーナリストの日米関係に関する批判論を紹介する。オランダ生まれのカレル・ヴァン・ウオルフレン氏(注)で、最新作の『アメリカとともに沈みゆく自由世界』(訳・井上実、徳間書店、2010年10月刊)による。以下は「隷属状態に置かれる日本」の見出しで論評した部分の要約である。
(注)1941年生まれ。東アジア特派員として日本事情にも詳しく、日本外国特派員協会会長も務める。著作に『日本/権力構造の謎』(早川書房)、『人間を幸福にしない日本というシステム』(毎日新聞社)、『怒れ!日本の中産階級』(毎日新聞社)、『日本人だけが知らないアメリカ「世界支配」の終わり』(徳間書店)など。同氏は11月中旬、日本記者クラブで最新作の著書に関連して記者会見を行った。

 アメリカ海兵隊の沖縄・普天間基地問題をめぐる日米のいさかいで明らかになったように、アメリカ政府は日本をまともな同盟国、もしくは友人として扱ってこなかった。普通ならアメリカ政府は、関係が悪化した他国に対してでさえ、日本の安全保障問題や、東アジア地域における重要な戦略的問題について、アメリカと正面切って議論したいという鳩山前首相の求めを叱りつけるという、オバマ政権が見せたような無礼な扱いはしない。
(中略)ここで大いなる疑問が生じる。なぜ日本はかくも従属的な立場に甘んじなければならないのか? なぜこれほど譲歩しなければならないのか? なぜ巨大なアメリカ軍隊を、日本の納税者の金で支えなければならないのか? 自国政府の長が明らかに侮辱された機に乗じて、なぜ日本の新聞は声を上げようとしないのか?

 こうした点についてもし海外の国際政治専門家たちに尋ねたら、彼らはまず北朝鮮を、それから中国の台頭を理由に挙げるだろう。だが実はもっと分かりにくく、しかも厄介で、強力な理由がある。
 日本は国際情勢のなかで、実効を生む参加国としてみずからが自国を運営できるなどとは考えていなかったらしい。なぜならそのような国家となるには強力な中央政府が必要になるのであって、1930年代に帝国陸軍が国を乗っ取り、それが敗戦に至った時期を除いて、日本にはそのような政治権力が存在したことはなかった。敗戦という結末を迎えた日本では、誰も同じような事態が繰り返されることを望まなかった。これこそが第二次世界大戦後の日本政治の実態であった。すなわち通常の意味での政府というものを日本は有していない。つまり政治的な責任所在の中枢としての政府が日本には存在しない。要するに重大な政策決定を行うことはできないのである。

 誰もが当然のように日米両国は同盟関係にあると口にする。だがそれは実情を正確に表現しているとは言い難い。そもそも同盟関係とは、独立した国家が自発的に加わる関係である。ところが日米同盟がはじまった時点で、日本にはそれ以外に選択の余地はなかった。第二次世界大戦後の占領期に、アメリカ政府は日本を一般的には認められないような存在にしてしまった。その結果、日本は実質的にはアメリカの保護国(注:保護を名分とする条約に基づいて内政や外交に干渉や制限を受ける、国際上の半主権国)に近いものになった。以来、アメリカは一貫して日本を保護国扱いにしてきた。
 ただ保護国まがいの立場には大いに利点があった。日本が貿易大国へと驚異的成長を遂げることができたのは、アメリカの戦略、外交という傘に守られてきたためだ。

 (中略)そのため強大な軍事大国によって自国が守られるという、日米関係の構図をおかしいとは思わない。歴史的に見て、戦後の日米関係がどんなに奇妙なものであったかを、大半の日本人は認識していない。世界史上、いまだかつて日米同盟のような関係は一度として存在したことがない。世界最大の経済大国と第二位の大国が成人に達してなおも息子を自宅に住まわせる親のようにかかわり合っている。
 (中略)日本は冷戦時代の他のいかなる同盟国にも増してアメリカに従属的であった。昭和天皇がアメリカ大使館にマッカーサー最高司令官を訪れた瞬間から、日本の国際関係を担当した役人たちは、以後、日本がアメリカの路線から外れぬよう腐心した。
 (中略)保護国扱いされることに、日本の公式な政権が当惑することがない限り、アメリカ政府は今回のアメリカ海兵隊の移転問題で示したような軽蔑的な態度で日本に応えてやることができた。

▽ <安原の感想> ― 日米安保体制からの転換を

 「隷属状態に置かれる日本」で指摘されていることは、日本人の一人として決して喜べるような話ではないが、残念ながら事実として認めないわけにはゆかない。著者は「なぜ?」という多くの疑問を発している。ひとつ一つがもっともだが、例えば「なぜ日本はかくも従属的な立場に甘んじなければならないのか?」である。その答えとして以下を挙げている。

その一つは、「そもそも同盟関係とは、独立した国家が自発的に加わる関係である。ところが日米同盟がはじまった時点で、日本にはそれ以外に選択の余地はなかった」と。つまり自主的に参加したのではなく、米国の世界戦略の一環として強制された同盟関係、ということだろう。そして「保護国」同然の国となり、それが今なお続いている、と。
もう一つは、「歴史的に見て、戦後の日米関係がどんなに奇妙なものであったかを、大半の日本人は認識していない」と。いいかえれば、日本は「保護国」扱いを受けながら、それを奇妙とは感じないのだから、日本人としての自立精神の崩落というほかないだろう。なぜそういう事態に甘んじてきたのか。
 その理由として挙げられているのが「保護国まがいの立場には大いに利点があった。日本が貿易大国へと驚異的成長を遂げることができたのは、アメリカの戦略、外交という傘に守られてきたため」である。いいかえれば日米安保体制下で、そのお陰で日本は貿易大国、経済大国に成り上がった、という感覚である。特に経済界にこの種の思考は根強い。そういえば、「日本はエコノミック・アニマル」と海外から揶揄(やゆ)されたことを思い出す。

 突きつけられている問題は、いつまでこういう非正常な日米関係に甘んじているのか、である。私(安原)は今回の沖縄県知事選を「新時代・日本の夜明け」となるかどうかという視点から見守ってきた。沖縄の米軍基地完全撤去への大きな一歩を踏み出し、日米安保体制見直しへと進む可能性への期待でもあった。期待通りとはならなかったが、選挙結果は「基地撤去」が沖縄の民意であることを示したことは心強い。

 私はこれまで繰り返し日米安保への批判論を述べてきた。日米安保は、地球規模で軍事力を行使し、破壊、殺戮(さつりく)を繰り返す「暴力装置」であるという認識に立っているからである。それに日本が加担することは、平和憲法9条(戦争放棄、非武装、交戦権否認)本来の理念に反するだけではなく、軍事同盟からの離脱という最近の世界の新潮流からみて時代錯誤となりつつあるからである。
 改めて問いかけたい。もはや日米安保への執着を捨てて、見直しを進めること、具体的には日米安保体制から米軍事基地のない日米平和友好体制(日米安保条約を破棄し、日米平和友好条約締結)への転換を展望すること ― である。

<参考資料> 過去1年間にブログ「安原和雄の仏教経済塾」に掲載された「日米安保」関連の記事は以下の通り。かっこ内は掲載日
・「もうやめよう!日米安保」に参加して 安保条約の自然成立から50年目の日(2010年6月月20日)
・日米安保見直し、軍事費削減が課題 新聞投書にうかがえる民意の多数派(2010年5月29日)
・日米安保体制はもはや聖域ではない 2010年元旦「社説」を論評する(2010年1月2日)
・日米同盟から日米友好へ大転換を 軍事基地に執着する時代ではない(09年11月16日)
・日米同盟深化と友愛は両立しない 初の鳩山・オバマ会談が残した重荷(09年9月25日)
・8.30総選挙で問うべき真の争点 平和と暮らしを壊す「日米同盟」(09年7月23日)

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お金では買えない価値の大切さ
連載・やさしい仏教経済学(24)

安原和雄
 仏教経済学は、お金(貨幣)をどう捉えるのか。八つのキーワード(いのちの尊重、非暴力=平和、知足、共生、簡素、利他、多様性、持続性)に続いて、前回は競争を取り上げたが、ここではお金をテーマにしたい。今日、貨幣経済の中で生きている以上、お金に執着するか、あるいは多少の距離感を保つかはともかく、お金から逃れることはむずかしい。個人に限らない。マネー感覚はそれぞれの国民性にも映し出されている。
重要な点は、経済を貨幣価値(=市場価値)に限定して狭く捉えるか、それともお金では買えない非貨幣価値(=非市場価値)も大切とみて、広く捉えるかである。主流派の現代経済学は前者の狭い立場であり、これに反し仏教経済学は後者の広い視点を重視する。(2010年11月25日掲載。公共空間「ちきゅう座」、インターネット新聞「日刊ベリタ」に転載)

▽ マネー感覚の国際比較 ― 国民性が表れる 

 お金(かね)をどう受け止めるか、そのマネー感覚にも国柄、国民性が表れている。
 たばこ小売り店主(信州木曾路の妻篭宿)の体験談を紹介しよう。   

 たばこを売りながら各国の国情や民族のマナーを勉強させられている。外国人がたばこを買うとき、「マイルドセブン ワン」といって、小銭のないときは、端数をプラスして渡してくれる。おつりに便利なように、売る側の立場を考えて、小銭を加えて出す。ヨーロッパもアジアの人々も同じである。ところが、日本の人は1000円を投げ出し、「小銭はありませんか」と聞くと、「ない」というだけだ。相手の気持ちを全然考えていない。このようなマナーの違いは、どうして生じるのか。金さえ出せば、文句はないだろうというのが日本人の考え方なのだろう。だから金持ち日本といわれながら、マナーの悪さでひんしゅくを買い、諸外国と経済的トラブルを起こしている。

 次はスイスで暮らしている日本人の体験談である。

 フランス人の夫とスイスで生活しているが、お金に対する感覚の違いで失敗することが多い。新しいアパートに移った友達に「周囲の環境は?」、「交通の便は?」と質問攻めにするのが彼らなら、私は「家賃はいくら?」と聞いてしまうのだ。「お金が好き」とあるフランス人にいったら、「なんだこいつ」という目で見られたことがある。夫に話すと、「お金に汚い日本人」と思われたかもしれないと教えてくれた。この国ではお金はタブー視されているとも。「人生はお金じゃない」といいきる彼らに対し、「ないよりあった方がいい」と思う私たち日本人である。(朝日新聞テーマ談話室編『お金』朝日新聞社)

日本人の金銭感覚はお金第一主義に走り、ヨーロッパ人の金銭感覚は、どちらかというとお金よりも大事なものがあるという考え方のようである。

▽ 古今東西のお金談義(1) ― 「時は金なり」から「諸悪の根源」まで

 昔からカネにまつわる諺、名句は少なくない。古今東西の名著古典にも金(かね)に関する記述は多い。そこには人間社会の悲喜劇がそのまま映し出されているといっても過言ではない。それは日本にかぎらない。

 「時は金なり」― アメリカの政治家ベンジャミン・フランクリン(1706~90年、独立宣言起草委員など)のこのセリフはあまりに有名であるが、念のため辞書を引いてみると、「時間を無駄に費やしてはならない」とある。時は金のように貴重なものだという意味である。もう一つ、「金を銀行に預けておくと、時間が経つにつれて利子が増えていく」という解釈もあるらしい。拝金主義横行の現代にふさわしい解釈といえようか。
 「金に目が眩(くら)む」と同時に「金に手を付ける」という不始末のために手が後ろに回る政治家、経済人も昨今では珍しくない。
 「金が敵(かたき)」というのもある。これには三つの解釈が成立するというからややこしい。一つは人間は金銭のために悩み苦労する。だから金はまるで敵のようなものだという意味である。もう一つは敵を探し回ってもなかなか巡り会えない。金銭もそれと同じでなかなか巡り会えないことを嘆いた言葉である。三つ目は金を敵のように憎み嫌うべし、ということである。(増原良彦著『日本の名句・名言』、講談社現代新書)

 井原西鶴(1642~93年、江戸前期の浮世草子作家)が書いた町人たちの蓄財出世物語『日本永代蔵』(角川日本古典文庫)から拾ってみよう。
 「世の中に借り銀(借金のこと)の利息ほどおそろしき物はなし」
 借金すると、利息があっという間にたまるこわさを指摘したものだが、一方では次のように「銀の世の中」、「庭蔵のながめ」などとカネの値打ちを強調しているものも多い。
 「銀(かね)さえあれば何事もなる事ぞかし」
 「なうてならぬ物は銀の世の中」
 「人の家に有りたきは梅桜松楓、それよりは金銀米銭ぞかし。庭の築山にまさってよいのは、庭蔵のながめ」

 いずれにしても『日本永代蔵』が描いたのは、江戸時代前期に貨幣経済が浸透し始め、産業資本主義の前段階である商業資本主義が花開きつつあった時代、つまり高利貸し資本が大いに活躍しだしたときで、お金談義満載の作品となっている。

▽ 古今東西のお金談義(2)― 貨幣のない国こそ理想

 トマス・モア(1478~1535年、イギリスの政治家・人文主義者)の古典的著書『ユートピア』(岩波文庫)の次の一節を紹介しておきたい。

 ユートピアでは貨幣に対する欲望が貨幣の使用とともに徹底的に追放されているのだから、どれほど多くの悩みがそこから姿を消していることだろうか。また悪徳と害毒のいかに大きな原因が根こそぎ断ち切られていることであろうか。
 詐欺、窃盗、強盗、口論、喧嘩、激論、抗争、殺人、謀逆、毒殺、―こういったものは日毎に処罰しても復讐を企てこそすれ、決して防ぐことのできないものであるが、それこそ貨幣が死滅すれば、それと同時に死滅するものである。同じように恐怖、悲哀、心痛、労役、苦闘といったものも貨幣が消滅したその瞬間に、消滅するのではないだろうか。

 ユートピアはギリシア語からモアが作った言葉で「どこにもない国」つまり理想郷という意味である。モアは作品のなかで、お金こそ諸悪の根源であり、貨幣のない国こそ理想であるという視点から16世紀初頭のイギリスの政治・社会制度の欠陥と腐敗を厳しく批判した。お金の功罪のうちの罪の側面を鋭く衝いたこの指摘はこんにちでもそのまま通用するのではないか。

 以上で見る限り、お金以外の価値の大切さは見逃されてきた。しかし仏教経済学はそこから出直し、非貨幣価値の大切さを重視する。

▽ 仏教経済学は非貨幣価値(=非市場価値)に着目する

 「経済」という用語は、中国の言葉「経世済民」(世をととのえ、民を救う、という意)の中の「経」と「済」を組み合わせてつくられた。そういう意味の「経済」を英語Economyの日本語訳に充てたわけだから、その原点に立ち返って、国民一人ひとりが幸せになるにはどうしたらよいかを考えなければならない。そのためには、経済価値を貨幣価値で表されるモノ、サービスのみに限定していいのかという疑問が湧いてくる。むしろ貨幣価値のほかに非貨幣価値も視野に入れるべきではないかと言いたい。それを目指しているのが今日の新しい仏教経済学である。

そこで仏教経済学での経済価値には、貨幣価値(=市場価値、つまりお金と交換で市場で入手できるモノ、サービスなど)と非貨幣価値(=非市場価値、つまりカネでは入手できない価値。いのち、地球環境、豊かな自然、非暴力、共生、モラル、責任感、誇り、品格、慈悲、思いやり、利他心、生きがい、働きがいなど)という異質の二つの価値がある。
このように仏教経済学は貨幣価値と非貨幣価値の双方を総体的に捉えるところに大きな特徴がある。
現実には非貨幣価値のように、お金を出しても市場で買えないけれども、何ものにも換えがたい大切なものが沢山ある。仏教経済学はむしろこれら非貨幣価値を重視し、仏教経済学の八つのキーワードはいのち、共生、利他、非暴力など非貨幣価値につながるものが多い。

 一方、現代経済学はその対象を貨幣価値のみに限定し、非貨幣価値には関心を抱かず、理論体系の外に投げ捨てている。これは現代経済学の方法論がカネと数量で測ることのできるもののみを対象にしているところからきている。
 非貨幣価値を視野に置かない現代経済学は、発想の根本がおかしい。現代経済学の中でも特に新自由主義(=市場原理主義)思想は貨幣価値を重視し、拝金主義に走り勝ちである。
 粉飾決算で獄につながれたライブドアの堀江貴文社長が華々しく登場した頃、「この世の中に金で買えないものがあるか。あれば、教えてほしい」と言った。私は答えたい。「あなたが両親からもらった生命はお金で買ったのか」と。彼は答えられないだろう。
 「金もうけは悪いことですか」と言い放った村上ファンドの村上世彰元代表はインサイダー取引事件で刑務所送りとなった。こういう事例は後を絶たない。
 これら「カネ、カネの世の中」と思いこんでいる輩にはカネそのものの増殖、さらにカネで入手できるモノやサービスなど貨幣価値しか念頭になく、おカネでは買えない非貨幣価値が大切であることに目が届いていない。そこに多くの悲劇の物語が生まれる。

 もちろん仏教経済学は適正な範囲での利益を決して否定するわけではない。企業経営には利益は必要だが、それは企業の社会的貢献に対する返礼としていただくものであり、貪欲に、しかも詐欺的手段を弄(ろう)して貪り取るものではない。ましてマネーゲームによる利殖は餓鬼の所業である。社会的貢献の成果として利益を確保することと貪欲な拝金主義との間には天地の差がある。

<参考資料>
・安原和雄「知足の経済学・再論 ― 釈尊と老子と<足るを知る>思想(上)」(足利工業大学研究誌『東洋文化』第20号、平成十三年)
・同「同(下)」(同大学研究誌『東洋文化』第21号、平成十四年)

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競争 ― オンリーワンをめざして
連載・やさしい仏教経済学(23)

安原和雄
 仏教経済学は、競争や貨幣をどう捉えるのか。これまで仏教経済学の八つのキーワード(いのちの尊重、非暴力=平和、知足、共生、簡素、利他、多様性、持続性)を紹介してきたが、「仏教経済学」も経済学である以上、競争や貨幣に無関心ではあり得ない。ここでは「仏教経済学と競争」を取り上げる。
 仏教経済学の競争観は、弱肉強食、つまり強者が弱者を打ち負かして当然という現代経済学の競争観とは質的に異なる。弱肉強食説を排して、人、企業、社会、経済、国ともに共存・共生の中でお互いの個性を磨き合う競争を奨励する。これは量的拡大のためのナンバーワンをめぐる競争ではなく、むしろ質的発展のためのオンリーワンをめざす競争である。だから整理淘汰される敗者を当然視することのない競争といえる。(2010年11月19日掲載。公共空間「ちきゅう座」、インターネット新聞「日刊ベリタ」に転載)

▽ 競走の中のやさしさと思いやり、そして自立と自力

 「競走で転んだ子を助けた子」という見出しの新聞投書(水野あゆみ・43歳・愛知県美浜町=朝日新聞2010年10月27日付)を紹介しよう。
 
中学校の運動会で100㍍走の選手に選ばれたという娘。(中略)帰宅後に、真っ暗な中、車の来ない道路で全力で何回も走って練習をしている。クラスの中でも足が遅い方なのに、なぜ選ばれたんだろうと悩んでいたが、(中略)手の振り方、足の上げ方などを考えながらタイムを縮めるべく、夜の道路を必死に走っている。
 ストップウオッチでタイムを測りながら、私は何年か前、小学校で見た徒競走のシーンを思いだした。オッフェンバックの「天国と地獄」が大音響で流れる中、次々に子どもたちが目の前を走り抜けていく。ゴールでは到着順に賞状が渡される。
 そんな中、1人の男の子が転んだ。起きあがれない。と、後ろを走っていた男の子が、抜きはしたが走るのをやめて戻ってきた。転んだ子を助け起こし一緒にゴール。2人はたくさん拍手をもらった。
 10年以上運動会を見てきたが、転んだ子に手を貸すため競走のレールからおりた子はあの子だけで、その姿に私の心は、ほっこりした。

 この投書を読んで、実は私(安原)自身も10年近い前の記憶がよみがえってきた。孫の幼稚園での運動会である。たしか50㍍走で女の子が転んだとき、前を走っていた女の子が戻ってきて、助け起こして手をつないで一緒にゴールインした。ビリとなったが、盛んな拍手を浴びた。私も思わず拍手したことを覚えている。
 同時に感じた。最近の子供達は優(やさ)しく、思いやりがあるのだな、と。こういう心根の子供達なら、小学、中学へと進んでもいじめはしないだろう、と。

 これには次のような注釈が必要である。
昔はこういう光景はなかった。なぜかというと、転んでもすぐに自分で立ち上がったからだ。そしてビリになっても、自力でゴールインした。しかし拍手は貰えなかった。こういう自力、自立の精神を仏教は評価する。もちろん優しさ、思いやりも歓迎する。
 ただ蛇足ながら、あえて指摘すれば、転んだ子が自分を誰かが助け起こしてくれることを期待しているとしたら、仏教的思考では評価しにくい。

▽ 自分自身との競争(1) ― 七〇歳(古稀)を過ぎても青春を

 競争といえば、他者(さらに他社、他国)との競争を連想するのが普通だが、ここでは自分自身との競争、つまり精進(たゆまず努力して生きること)のあり方について考えてみたい。

 自分自身が精神的にさわやかに生きていく上で、肝心なことは何だろうか。まずなによりもいのち(生命)を大切に思うこころである。いのちは人間に限らない。動植物も含めて広く自然の限りないいのちを指しており、それを慈しみ、思いやるこころを持ちつづけたい。
 もう一つ、精神的に前向きに生きる意欲を持つことである。アメリカの詩人サムエル・ウルマン(1840~1924年)の「青春」と題した詩の一節を紹介したい。(宇野収ほか著『「青春」という名の詩』産業能率大学出版部)

 青春とは、人生のある期間ではなく、心の持ち方のことである。
 たくましい意志、ゆたかな想像力、燃える情熱、安易を振り捨てる冒険心を意味する。
 ときには二〇歳の青年よりも六〇歳の人に青春がある。
 年を重ねただけでは人は老いない。
 理想を失うとき初めて老いる。

 「百歳の童(わらべ) 十歳の翁(おきな)」という言葉がある。たしかに青春は年齢には必ずしも左右されない。詩人ウルマンは「六〇歳の人に青春」とうたっているが、これを現代に翻訳すれば、七〇歳の古稀(こき)を過ぎても青春であり続けたいものである。そのためには「青春」の詩のように理想、想像力、情熱、勇気、冒険心を抱き続けることができれば、それに越したことはない。これはいわば生涯現役の感覚である。逆に二〇歳前後ですでに理想も活力も失うようでは情けない。

▽ 自分自身との競争(2) ― 幕末の志士・高杉晋作

 歴史に名をとどめた人物はユニークな辞世の句を残している。その中でおもしろいのは、幕末長州藩の志士・高杉晋作(29歳で病死)の次の辞世である。

 「おもしろき こともなき世を おもしろく」

 ここには混乱、激動、変革の幕末期を精一杯「おもしろく」生き抜いた一人の男の生き様がよく映し出されているとはいえないか。
 この辞世をおもしろいと思うのは、「楽しきこともなき世を楽しく」と言わずに「おもしろく」と表現したことである。「おもしろく」と「楽しく」は混同して使われることが多いが、ここではその意味するところの違いに着目したい。
 「おもしろく」は危険をも恐れない自由、挑戦、創造への姿勢をうかがわせる。理想、ロマン、志、さらに未知の世界を新たにつくっていく未来志向を感じさせる。一方「楽しく」は、安全地帯に身をゆだねて行動する保守、受身、消費を連想させる。すでに出来上がっているものを楽しむ姿勢であり、未来志向にはほど遠い。
 高杉晋作がこれを意識した上で「おもしろく」と言ったかどうかは分からない。ただ高杉は従来の武士組織とは異質の農民、町民も参加した奇兵隊(「奇」は新奇、異質の意)を創設した。これ自体、自由な発想である。しかも幕藩体制という既存の秩序をたたき壊すことに挑戦し、新しい日本を創造することにいのちを懸(か)けた。だからこそ、短い生涯であったとはいえ、おもしろい人生で、悔いはないという心情があふれている辞世とはいえないか。
 これも自分自身との競争、つまり精進の一つの典型とみることができる。

▽ 個性を磨き合うオンリーワンをめざして

 全盲のテノール歌手として知られる新垣勉(あらがき・つとむ)さん(57歳)は、あの日米沖縄戦後にメキシコ系米兵の父と沖縄の母との間に生まれた。10万枚以上も売れたといわれる「さとうきび畑」は何度聴いても素晴らしい。その新垣さんが語っている。(毎日新聞2010年11月4日付)
「平和のために歌うことは、私の存在そのものなのです」
「(名護市辺野古への米軍基地移設に)反対です。壊した自然は二度と元に戻らない。そんなことをすれば沖縄が沖縄でなくなってしまう」
「ナンバーワンよりオンリーワン。互いの違いを認め合うことから平和は始まる」
 オンリーワンとしての沖縄の存在価値、平和への想いが痛切である。それを阻もうとする日米両政府への抗議の声ともなっている。

 禅思想家として世界に知られた鈴木大拙(注)は「わしは死神と競争で仕事をする」と言った。(松原泰道著『般若心経入門』祥伝社)
凡人にはとても口にできない生き方だが、これは何を含意しているのか。鈴木大拙流の自分との競争であり、同時に以下のような自分流のオンリーワンの生き方と理解したい。
 人生は無常、つまり常に変化の過程にある。しかしこの認識にとどまっている限り、人生末期の老・死を待つほかなくなる。これではいかにも寂しい。いつどうなるかわからないわが生命を大切にして、充実した生活をつくっていかなければ、折角の人生がもったいない。死神が手招きしているのを拒否しながら、仕事を果たしたい、と。
 (注)鈴木大拙(すずき だいせつ・1870~1966年)は、大谷大教授などを経て文化勲章受章。著作に『一禅者の思索』(講談社学術文庫)のほか、英文著作40余冊、『鈴木大拙全集』全32巻など。96歳の長寿を果たした。

 現代経済学のすすめる競争は弱肉強食で、効率、利益追求を目指し、勝ち組(人や企業)が負け組を蹴落とすのは当然という考え方に立っている。これでは勝ち組もつねに負け組に転落する落とし穴が待っており、安楽とはほど遠い。弱肉強食は現世での地獄への道である。
一方、仏教経済学としても、競争を否定するわけではない。競争は必要である。だが、競争のあり方を問いかける。仏教は精進を重視しており、仏教経済学の立場では、それぞれの人、企業の精進、すなわち個性を磨き合う競争のすすめである。これは相手を出し抜くナンバーワンではなく、自他共に生かすオンリーワンをめざす競争である。それは共生、連帯感の中での競争でもある。そうしてこそ人、企業、社会、経済、国ともに量的拡大よりも質的発展を遂げることにつながる。これは現世での極楽への道でもある。

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持続性と発展と地球環境時代と
連載・やさしい仏教経済学(22)

安原和雄
仏教経済学の八つのキーワード ― いのちの尊重、非暴力(=平和)、知足、共生、簡素、利他、多様性、持続性 ― のうち今回は「持続性」を取り上げる。
持続性とは、第1回地球サミットが提言した「持続可能な発展」を指している。これは20世紀末に人類の智慧が到達した新しい概念・思想で、「環境と経済の両立」という程度の狭い理解は正しくない。地球環境の保全を優先させなければ、人類生存そのものが危ういという時代、つまり地球環境時代に人類は生きているという認識に立って、望ましい多様な「発展」のありようを打ち出している。着目すべきは、発展は生活の質的向上に重点が置かれていることで、一方、量的拡大を意味する経済成長は重視されていない。(2010年11月12日掲載。公共空間「ちきゅう座」、インターネット新聞「日刊ベリタ」に転載)

▽ 持続性は地球環境時代のキーワード

  持続性は「持続可能な発展」(=持続的発展=Sustainable Development)の別名である。この持続可能な発展という概念、思想は、第一回地球サミット(国連環境開発会議=1992年6月、ブラジルのリオデジャネイロで開催)が採択した「環境と発展のためのリオ宣言」が打ち出して以来、世界で広く知られるようになった。
 意味するところは、二つある。一つは、今後何世代にもわたって、永続的に地球環境の保全を果たさなければ、人類は滅びるだろうということ。もう一つは、地球環境の保全とともに豊かな国も、貧しい国も共に生活の質を向上させていく必要があるということ。このことは従来の経済成長路線、つまりプラスの経済成長によって量の豊かさを追求していくという路線が行き詰まり、それを根本から転換させなければならないことを示唆している。
 
第二次世界大戦以降の約半世紀は、経済成長の追求を最優先課題とする経済成長時代であった。その時代が招いたものがほかならぬ地球環境の汚染・破壊さらに貧困、飢餓、人権抑圧など不公正、不平等の拡大であり、その結果、経済成長路線は挫折、破綻そして根本的転換を余儀なくされた。そして今、地球環境の保全と生活の質的向上を最優先課題とする地球環境時代に入っている。
 このことは持続性(=持続的発展)が地球環境時代のキーワードとして重要な役割を担わざるを得ないことを意味する。一方、もう一つのキーワードとして宗教を挙げなければならない。なかでも仏教思想である。しかも着目すべきは、持続的発展という概念、思想は仏教思想の具現化として捉えられることである。この「持続的発展」と「仏教」の思想をどう融合し、発展させ、実践していくか、その挑戦的試みこそ21世紀における地球環境時代が問いかけている最大の課題である。

▽ 「持続可能な発展」(=持続性)の多様な柱

 「持続可能な発展」の概念を豊かに発展させたのが、世界自然保護基金(WWF)、国際自然保護連合(IUCN)、国連環境計画(UNEP)が1991年、発表した提言『新・世界環境保全戦略―かけがえのない地球を大切に』(原題は「Caring for the Earth―A Strategy for Sustainable Living」)である。

 持続可能な発展(=持続的発展)を構成する柱を列挙すれば、以下のように多様である。
・生命維持システムー大気、水、土、生物ーの尊重
・人類に限らず、地球上の生きとし生けるもののいのちの尊重
・長寿と健康な生活(食糧、住居、健康の基本的水準)の確保
・基礎教育(すべての子どもに初等教育を施し、非識字率を減らすこと)の達成
・生活必需品の充足
・政治的自由、人権の保障、暴力からの解放
・雇用の確保、さらに失業・不完全就業による人的資源の浪費の解消
・特に発展途上国の貧困の根絶
・不公平な税制度、政治的腐敗、資本の国外逃避、非効率で恣意的な投資などへの対処
・核兵器の廃絶、軍事支出の大幅な削減、軍事同盟の解消
・環境保全を中心とする新しい安全保障観の確立
・公平な所得分配と所得格差の是正
・景観や文化遺産、生物学的多様性、生態系の保全
・持続不可能な生産・消費・廃棄構造の改革と廃止
・エネルギーの節約と効率改善、再生可能もしくは汚染を引き起こさないエネルギー資源 への転換
・生産における原料の再利用促進と廃棄物量の削減
・環境の質の確保と文化的、精神的充足感の達成

 以上のように発展(Development)という概念は、政治、軍事、経済、社会、文化、環境など多様な側面から捉えられている。このことは同時に生活の質的向上の多面的な内容を示していることに着目したい。さらに経済成長が一つの柱として掲げられていないことにも注意したい。これはGDP(国内総生産)や所得が増えることは、発展や生活の質のごく一面を示すにすぎない。それどころか自然や環境を破壊しながらGDPや所得が増えることは、発展や生活の質的充実にとってむしろマイナスと理解されているのである。

▽ 持続的発展と仏教思想(1) ― 共生と生命中心主義

持続的発展の思想と宗教とは実は深い関係にある。この点があまり気づかれていない。もちろん仏教に限らない。キリスト教、イスラム教、ヒンズー教(注)などとも深くかかわっている。
(注)キリスト教の最大の教えは、「汝の敵を愛せ」である。一方、イスラム教には五つの行(信徒義務)がある。具体的には信仰告白(「唯一絶対神アッラーのほかに神なし」と告白すること)、礼拝(一日五回の礼拝が義務)、喜捨(施しの意で、救貧税や自発的な布施など)、断食(一カ月間、日の出から日没まで一切の飲食を断つ。欲望抑制と清浄な境地を目指す)、巡礼(聖地メッカへの巡礼)の五つ。ヒンズー教では欲望を投げ捨て、「私」、「私のもの」という思いも捨てて、他者へ奉仕する無私の行為を尊重する思想が流れている。

ここでは持続的発展に仏教思想がどのように具現化しているのかを考えたい。以下は持続的発展と仏教思想とのかかわり方についての私(安原)なりの読み方である。

 第一に持続的発展は、人類に限らず、生きとし生けるものすべての共生・平等の思想であり、そのいのちの尊重であり、仏教思想の共生と生命中心主義の具現化であること。
 これは持続的発展を軸とする「持続可能な社会」(Sustainable Society)の中で「地球上のすべての生命は、一つの大きな相互依存システムの一部」、「すべての生物種と生態系は、人間にとって利用価値のあるなしにかかわらず、尊重しなければならない」(世界自然保護基金ほか編『新・世界環境保全戦略』)などと認識されていることからも明らかである。
 この認識は、生きとし生けるものすべての相互依存関係がそのまま共生であり、自然、人、動植物それぞれがお互いに同価値で平等だと捉える仏教思想の生命中心主義とまさしく重なり合っている。

▽ 持続的発展と仏教思想(2) ― 質の充実と不殺生、不偸盗、知足、中道

 第二に持続的発展は、量の拡大ではなく、質の充実を意味しており、これは貪欲の否定と知足のすすめ、さらに中道という仏教思想の反映であること。
 先進諸国が一層の量の拡大、つまり基本的ニーズを超える物質的欲望と経済成長を追求し、地球環境を汚染・破壊するのは貪欲であり、持続的発展に反する。これに対し、精神的、道徳的な分野も含めて生活の質の充実を追求することは、足るを知ることの智慧の実践であり、少欲にして簡素、節約をも意味する。使い捨て商品を大量生産して無造作に使い捨てる時代ではもはやない。長期使用に耐えるモノづくり、つまり節約こそ大切であり、これは「もったいない」という足るを知る精神の実践である。
 一方、持続的発展は発展途上国における貧困の追放、すなわち途上国の基本的ニーズ(必要最少限の水、食料、住居、教育、医療など)の達成を目指している。従ってその基本的ニーズの達成のための経済成長は知足の範囲内であり、貪欲を意味しない。
 簡素、節約とは無駄、浪費を惜しむことであって、必要なことまで惜しむ吝嗇(りんしょく)、すなわちケチとは異なる。いいかえれば、持続的発展は貪欲とケチの両極端を排するのだから、これは仏教思想の中道、すなわち正しい道の実践にもつながるといえる。

 第三に持続的発展は、戦争、軍備の増強などの暴力を拒否しており、これは仏教の不殺生や少欲知足、中道の思想とつながっていること。
仏教の不殺生戒(ふせっしょうかい)は、殺生を戒めている。国家レベルの殺生の典型例が戦争であり、それを促す軍備の増強も資源、環境に浪費と破壊をもたらすのだから殺生といえる。米国における同時多発テロも、それに対する報復戦争も持続的発展に反する。第一回地球サミットが採択した「リオ宣言」が「戦争は、持続可能な発展を破壊する」と述べていることを忘れてはならない。
 非道な殺生は貪欲から生じるのであり、少欲知足の智慧があれば、殺生を避けて、中道の正しい道を選択することができる。

 第四に持続的発展は、浪費、廃棄、破壊を拒否し、節約、循環、保全をすすめており、これは仏教の不偸盗戒(ふちゅうとうかい=盗みをしないこと)、少欲知足、共生、中道の思想につながっていること。
 リオ宣言は「持続的発展と質の高い生活を達成するために、持続不可能な生産・消費を削減すること」と述べて、持続不可能な生産、消費につきものの浪費、廃棄、破壊を否定している。一方、仏教が説く不偸盗戒についてここでは、その盗むという行為を広い意味に理解したい。
 例えば大量生産ー大量消費ー大量廃棄という現代の経済構造の中での資源、エネルギーの浪費、廃棄は地球や自然からの必要以上の無用な強奪、つまり盗みである。失業と不完全就業による人的資源の浪費も、人から仕事の機会を奪うのだから、盗みといえる。
 一方、持続的発展は節約、循環、保全のすすめであり、これは少欲知足の実践であり、自然との共生を目指す実践でもある。同時に持続的発展は浪費、廃棄、破壊という悪しき振る舞いやその社会システム・構造を拒否するのだから、ここでもまた中道のまっとうな道理に合った経済、社会、生活を目指すことを意味する。

 以上のように持続性(=持続的発展、持続可能な発展)は通常理解されているような「経済と環境の両立」という程度の狭い概念ではない。多様で、幅も深みもある歴史的な概念、思想と理解したい。

<参考資料>
・IUCN(国際自然保護連合)、UNEP(国連環境計画)、WWF(世界自然保護基金)編/(財)世界自然保護基金日本委員会訳『新・世界環境保全戦略ーかけがえのない地球を大切に』(小学館、一九九二年)
・安原和雄「持続可能な発展と仏教思想 ― 日本型モデルをどう創るか」(駒澤大学仏教経済研究所編『仏教経済研究』第三十一号、平成十四年)

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多様性は共生と寛容を世界に広げる
連載・やさしい仏教経済学(21

安原和雄
仏教経済学の八つのキーワード ― いのちの尊重、非暴力(=平和)、知足、共生、簡素、利他、多様性、持続性 ― のうち今回は「多様性」を取り上げる。
 多様性とは何を意味しているのか。生物多様性条約にかかわる名古屋会議(10月末閉幕)には世界各国から沢山の多種多様な人々が集まった。多様性は生物はもちろんのこと、人間、文化、地域、国(政治、経済、社会、体制)、民族、文明のあり方の多様性 ― にまで視野を広げている。このような多様性を重視することは、国、文明のあり方まで含めてそれぞれの存在価値、個性の尊重につながり、そこには共生と寛容の世界が広がる。多様性を妨害・拒否する暴力は当然否定されなければならない。(2010年11月5日掲載。公共空間「ちきゅう座」、インターネット新聞「日刊ベリタ」に転載)

▽ 「生物多様性条約=名古屋会議」が残した課題

 経済広報センター(日本経団連の広報機関)が2010年3月に行った「生物多様性に関するアンケート」調査結果(「経済広報」2010年7月号掲載)を紹介しよう。
 今年が国連の定めた国際生物多様性年であることを「知っている」は12%。また名古屋でCOP10(生物多様性条約=注1=第10回締約国会議)が開催されることを「知っている」は15%で、ともに10%台であった。
 (注1)生物多様性条約は国連主催第一回地球サミット(1992年)で採択され、現在、193カ国・地域が加盟している。同サミットで合意された地球温暖化対策のための気候変動枠組み条約と並んで「双子の条約」とも称されている。

 この10%台という数字はたしかに低い。しかし重要なことは生物多様性が意味するものは何かをどれだけ理解しているかである。生物多様性について簡潔にして示唆に富む社説(毎日新聞2010年10月18日付)を紹介する。

 地球に最初の生命が誕生したのは約38億年前と言われる。それから長い進化の道筋を経て、多種多様で複雑な生命が花開いた。現在知られている種の数は約175万、実際には3000万種とも推定される。
 今、この多様な種が、開発や人口増加のために急速に失われている。地球の歴史を振り返ると生物の大量絶滅は過去にも起きた。しかし、現在進行中の絶滅は過去のどの時代よりもスピーが速い。
 多様な生物をはぐくむ生態系も損なわれている。世界では九州と四国を足し合わせた面積の森林が毎年失われているというから深刻だ。
 食物はもちろん、水の循環や土壌の保持、医薬品など、人間は生態系の恩恵に支えられている。生物が多様性を失えば人間の将来も危うい。(以上は社説の一部)

着目すべきは末尾の「生物が多様性を失えば人間の将来も危うい」である。つまり生物多様性のお陰で人類は生かされているのであり、その多様性の行方は、ほかならぬ人類の生存そのものを左右するのである。

 その「生物多様性条約=名古屋会議」が2010年10月末日、「名古屋議定書」(遺伝資源の利用=例えば熱帯雨林などの微生物を使う医薬品の研究開発=とそれに伴う利益配分を定めた議定書)と「愛知ターゲット」(2010年以降の生態系保全のための国際目標)を採択して閉幕した。
 「愛知ターゲット」では最大の焦点だった保護区域の面積について「少なくとも陸域の17%と海域の10%を保全する」ほか、「劣化した生態系の15%以上を回復する」、「外来種の侵入を防ぐ」などを打ち出した。ただこの目標は義務づけられたものではない。しかも現在の保護区域は海域の場合、わずかに1%にとどまり、乱獲や乱開発の中で生物多様性の保護をどう進めるのか、「生物多様性条約=名古屋会議」が残した課題は前途多難というほかない。

▽ 多様性重視は共生と寛容の世界への道

 さて仏教経済学の唱える多様性は何を含意しているのか。もちろん生物多様性に限らない。多様性は自然はもちろんのこと、人間、文化、地域、国(政治、経済、社会、体制)、民族、文明のあり方の多様性 ― にまで視野を広げており、多様性の内容は実に多様そのものといえる。多様性の重視は、自然、人間、文化、地域、国、民族、文明それぞれの個性の尊重につながり、そこから共生と寛容の世界が開けてくる。

 仏教思想家の梅原猛氏(注2)は次のように述べている。
 仏教国日本は、世界の和平運動の先頭に立つべきであり、もう一ついいたいのは、多神論の復活である。神道も仏教も多神論である。もちろん自分の信じる神や仏も大切にするが、他人の信じる神や仏も大切にするという精神である。これは多(た)の尊重という思想である。生物の世界にはたいへん多くの種がある。この多様性を含む世界をひとつの神の思想で一色にぬりつぶすのは、神々に対する冒涜(ぼうとく)だと思う。世界は多を含むことによってすばらしい。
 多神論は正義より寛容の徳を大切にする。いま世界で求められるべき徳は寛容の徳、慈悲の徳である。この寛容の徳、慈悲の徳は仏教ではよく説かれている。(梅原 猛著『梅原猛の授業 仏教』朝日文庫)
 (注2)梅原猛(うめはら たけし)氏は1925年生まれ。京都大学文学部哲学科卒。立命館大学教授、京都市立芸術大学学長、国際日本文化研究センター所長などを歴任。文化勲章受章。多くの著作は「梅原猛著作集」に収められている。

 梅原氏も示唆しているように、仏教は多神教的であり、いいかえれば多様性尊重、寛容の精神に富んでいるのであり、ここがキリスト教やイスラム教のような唯一絶対神を信じる一神教とは異なる点である。しかし仏教はキリスト教など他宗教との共存は不可欠と考えている。その一つの具体例が世界宗教者平和会議(注3)である。
 (注3)世界宗教者平和会議(WCRP=World Conference of Religions for Peace)はすでに8回に及ぶ世界大会(第1回は京都、その後約5年に1回)を開催、第8回大会が2006年京都で100カ国から2000人の宗教家を集めて開かれた。テーマは「あらゆる暴力を乗り超え、共にすべてのいのちを守るために」。WCRPに参加している世界の諸宗教は、仏教、神道、儒教、キリスト教、ヒンズー教、イスラム教、その他の諸宗教である。私(安原)自身、第8回京都大会に参加し、盛会という印象を得た。

▽ 多様性に背を向ける米国の覇権・単独行動主義

 生物の多様性を守るための「生物多様性条約」(米国は企業活動の自由が制約されることを理由に条約に不参加)と並んで、「文化の多様性」を保護・促進するための条約(ユネスコが2005年10月の総会で採択。賛成148カ国、反対は米国とイスラエルの2カ国)もある。この条約採択の狙いの一つは、文化の多様性を壊す米国主導の新自由主義的文化攻勢への対抗策である。
 これら多様性を尊重するための条約に米国はいずれも不参加である。それだけではない。米国は、国(政治、経済、社会、体制)のあり方の自由な選択、民族、文明それぞれの存在価値にも不寛容である。その背景には米国政権の独断と偏見に満ちた単独行動主義、覇権主義、軍事力中心主義がある。

 具体例としてまずベトナムへの侵略戦争を挙げることができる。結末は1975年の米軍の敗北・逃走となった。ベトナムの戦勝30周年記念の2005年に日本人訪問団の一人としてベトナムを訪ねた時、政府高官の発言、「米国はベトナムを破壊して、原始社会に戻すことを狙っていた」が私(安原)の印象に残っている。大規模の北ベトナム爆撃、大量の有毒枯れ葉剤散布などはベトナムの国独自の進路と建設を妨げようとした暴力である。
 目下進行形にあるのが米国によるアフガニスタン、イラクでの軍事作戦であり、計り知れない大きな犠牲を強いている。これも国それぞれの多様性の価値を否定する無法な所業にほかならない。

 多様性に背を向ける米国の姿勢は、多様性を尊重する仏教経済学の視点に立ってこそ、正当に批判できる。しかし多様性への視点をもたない現代経済学では批判できないどころか、むしろ米国を擁護する立場である。

▽ 日本にみる多様性への感覚(1) ― クマがいるほど豊かな自然

 「クマ 射殺では何も解決しない」という新聞投書(杉山幸子・54歳・東京都中野区=朝日新聞2010年10月24日付)を紹介したい。

 5年ほど前に住んでいた静岡市でも、クマが里に出て騒がれた。そのとき聞いた、山奥に住む98歳のおばあさんのお話を思い出す。昔から山に住む人は人と動物の境に動物のため、実のなる木を植え、畑を作っていたという。そこまでが動物と人間の境界だと教えるためで、実際、クマはそこで食べ物を食べて山へ帰っていった。
 これが古人の知恵で、クマが頻繁に人里に出没するようになったのは、古来の知恵が伝わらず、なくなってしまったことも原因ではないか
 クマを射殺するだけでは、何も解決しない。クマがいるほど豊かな自然を日本は持っているのである。そのことに感謝し、古人の知恵を借りてもう一度考えてみたい。

 この投書の中で「クマがいるほど豊かな自然」という指摘に注目したい。私(安原)はこれを「クマがいるほど豊かな自然の多様性」と読みたい。

▽ 日本にみる多様性への感覚(2)― 動物とすみ分けた日本の自然

 もう一つ、「クマ大量出没 人と動物、共生の回復を」という見出しの朝日新聞社説(2010年10月25日付)を紹介する。その要点は以下の通り。
・なぜ最近、クマが大量に出没するのか。農山村が疲弊し、山が荒れ、里に動物が押し寄せる。人と動物のバランスが崩れている。都会にいては気づかない日本の現実だ。
・欧米諸国は近代に多くの動物を絶滅させてしまった。動物とすみ分けた日本の自然は私たちの財産でもある。

 末尾の「動物とすみ分けた日本の自然は私たちの財産」という指摘はその通りである。ところが現実は農山村の疲弊、山の荒廃が進み、動物とのすみ分けが難しくなっている。いずれも人間の所業であり、クマに責任はない。クマにとっては生きるためには人の住むところに出てくるほかないだろう。クマを射殺すれば済む話ではない。自然の多様性の再生をどう図っていくか、これはわれわれ人間の責任である。

 欧米など諸外国に比べれば、日本列島の自然が豊かな多様性を誇りとしていることは言うまでもない。ところが高度成長時代から今日にかけて高速道、ダム、港湾、空港などの巨大公共事業が続けられた結果、生態系に深刻な影響を及ぼしてきた。
 今、沖縄県名護市辺野古の海域に新たな米軍基地建設計画が日米両政府の合意で持ち上がり、生物多様性保護の観点からも反対論が強い。というのは米軍基地建設は、珊瑚(さんご)などのほか、絶滅危惧(きぐ)種とされ海の生物、ジュゴンの生息場所を奪うことにもなるからである。
 日本こそが豊かな多様性の存在価値を世界に訴える資格があるといえるのではないか。地球規模の多様性を軽視していると、それこそ人類そのものが絶滅危惧種になりかねない。

<参考資料>
・安原和雄「世界宗教者平和会議にみる平和観 ― <平和すなわち非暴力>の視点」(駒澤大学仏教経済研究所編「仏教経済研究」第三十六号、平成十九年)

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