「もっともっと欲しい」の貪欲の経済から、「足るを知る」知足の経済へ。さらにいのちを尊重する「持続の経済」へ。日本は幸せをとりもどすことができるでしょうか、考え、提言し、みなさんと語り合いたいと思います。(京都・龍安寺の石庭)
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井上信一著『地球を救う経済学』(下)
連載・やさしい仏教経済学(15)

安原和雄
 ここでの主要なテーマは、日本的仏教経済学の模索と構築である。そのキーワードは二つある。一つは「少欲知足」であり、もう一つは「持続可能な発展」である。少欲知足は仏教の基本思想であり、一方、「持続可能な発展」は国連主催の第一回地球サミットで打ち出された新しい概念・思想で、地球環境保全と経済活動の両立をめざすものである。いいかえればその目標は持続的な経済社会の実現である。ここが環境の汚染・破壊、資源・エネルギーの浪費をもたらし、持続不可能な経済社会につながるほかない現代経済学とは質的に異なるところである。(2010年9月23日掲載。公共空間「ちきゅう座」、インターネット新聞「日刊ベリタ」に転載)

▽ 少欲知足と経済的幸せと

 井上信一著『地球を救う経済学』によると、「もったいない」と並んでもう一つ、仏教経済学の重要な原理となっているのが「少欲知足」すなわち欲望の抑制である。ここが欲望の解放とその肥大化をむしろ奨励する現代経済学と本質的に異なるところである。
 そもそも経済とは何を意味しているのか。「経国済民」(国を治め、繁栄させて、民の生活を安定させ、幸せにするという意。「経世済民」も同様な意)という文言の中の「経」と「済」を結びあわせた語であり、従って経済の本来の目標は、人々の幸せである。
 では幸せはどこにあるのか。仏教では「苦」すなわち「思うようにならぬ」と思う心から自由になること、つまり「とらわれない」ことが幸せであると考える。一方欧米人は「思うようにすること」が幸せとみる。

 これを公式化すれば、経済的幸せ=財/欲望、すなわち財(欲望の対象)を分子、欲望を分母で示すことができる。欲望を満たすために分子の財を増やそうと考えるのが現代経済学であり、欧米の文明観でもある。これは必要度を超えて「もっともっと」と欲望を膨らませることであり、貪欲の思想そのものであるといえよう。
 他方、財には限りがあり、そもそももったいないものだから、財を無闇に増やさないで分母の欲望の方を抑えようとするのが仏教経済学であり、東洋の文明観ともいえよう。いいかえれば「もったいない」の精神で欲望を抑えて幸せを感得することこそが少欲知足の経済的原理にほかならない。

 この違いは消費観に端的に表れる。現代経済学にとって幸福の尺度はまさに消費の量であるが、仏教経済学ではそうではない。ドイツのボン生まれの経済思想家、E・F・シューマッハー(ビルマ政府の経済顧問としてビルマに滞在、仏教思想に触れる)は、著書『スモール イズ ビューティフル』(小島慶三ら訳、講談社学術文庫)の一章、「仏教経済学」で次のように述べている。
 「仏教徒の生活が素晴らしいのは、その様式がきわめて合理的なこと、つまり驚くほどわずかな手段で十分な満足を得ていることである。現代経済学者にはこれが理解しにくい。生活水準を測る場合、多く消費する人が消費の少ない人より豊かであるという前提に立って、年間消費量を尺度にするのがつねだからである。仏教経済学者にいわせれば、この方法は大変不合理である。そのわけは、消費は人間が幸福を得る一手段にすぎず、理想は最小限の消費で最大限の幸福を得ることであるはずだから」と。

▽ 仏教経済学にみる家庭観、自由観

 家計あるいは家庭観はどうか。現代経済学では現金収入を増加させることが中心課題である。その裏には消費の大きさが幸せの大きさを決めるという現代経済学の発想があり、しかもGDP(国内総生産)、GNP(国民総生産)、所得の大きさが家計の豊かさを決めるという思いこみに囚われている。
 しかし時に過労死を伴いながら、額に汗して所得を増やした結果、どれだけ幸せを得ただろうか。たしかに底知れぬ拝金主義の横行をもたらしはしたが、それがかえって人心をどれほど蝕(むしば)んでいるか。殺伐とした犯罪の多発やモラルの頽廃からもうかがえるように、昨今その事例に事欠かない。

 これに対し、仏教経済学は人間生活の根本となるのが家庭であると捉える。仏教ではお布施すなわち「分かつ心」、「一人占めしない心」を大切にする。分かつおカネや物がなければ、笑顔や席を譲ることも立派なお布施なのである。こうして譲り合いながら連帯、協調の精神を見失わず、さらにいのちを粗末にするのではなく、いのちを活かし、輝かす礎となるのが家庭でなければ、幸せは手元に引き寄せられないだろう。
 高齢社会になって福祉はきわめて重要な課題となってきた。仏教経済学の福祉はすべての人は「仏の子」という自覚から出発する。強者から弱者への憐れみなのではない。その意味で「自利利他一如の慈善」(井上信一著『地球を救う経済学』(上)の「仏教経済学と現代経済学との比較」=連載・やさしい仏教経済学(14)を参照)が、福祉の根本命題であり、現代経済学がとかく福祉をお荷物と厄介視するのとは異なる。

 自由観もまるで方向が逆を向いている。
 欧米の現代経済学では自由は「~への自由」あるいは「~したい自由」である。それは市場の自由、経済行動の自由、さらに金儲けの自由でもある。しかも「エゴとしての人間」が追求する自由だから、その自由は投機や地球環境の汚染、破壊など貪欲の行動へと突き進んでいく。
 これに対し仏教経済学の自由は「~からの自由」である。つまり「自由自在」といわれるように何ものからも自由になり、何ものにも囚われない無執着の境地のことである。あるいは「己れを勘定に入れない無私」の境地である。だからこそ少欲知足を実践できるのである。

▽ 日本的仏教経済学をめざして(1)―仏教的経営者群像

 さて井上著『地球を救う経済学』はしばしばシューマッハーの著作から引用しており、その思想に負うところが少なくない。しかし決してシューマッハーの思想の焼き直しではなく、むしろ日本の土壌と風土の中に足を置いて仏教思想と経済思想との融合を試みたのところに大きな足跡を見てとりたい。

 聖徳太子、空海(くうかい・弘法大師、774~835年、真言宗の開祖)、最澄(さいちょう・伝教大師、767~822年、天台宗の開祖)、道元、親鸞、鈴木正三(江戸時代の三河武士出身で曹洞宗の禅僧)、石田梅巌(江戸時代の石門心学の祖)、二宮尊徳(江戸時代の農政家で、勤倹譲=勤は労働、倹は知足に立つ消費、譲は貯蓄と社会的支出=や報徳の日常哲学を提唱)、渋沢栄一(第一国立銀行初代頭取を歴任するなど多くの企業を創設し、日本資本主義育ての親)、伊庭貞剛(住友財閥の二代目総理事で、仏教的経営者)らのほか、最近の仏教的経営者群像が同書には多数登場してくる。
この点からも日本の土壌に根ざした日本的仏教経済学の構築を志した著者の問題意識をうかがうことができるのである。この日本的仏教経済学をどう継承発展させていくか。21世紀の大きな課題といわなければならない。

▽ 日本的仏教経済学をめざして(2)―「持続可能な発展」を軸に

 現代経済学はすでに破綻している。地球環境の汚染、破壊からもそのことは明白である。にもかかわらずいまなお経済思想の中で大きな地位を占めており、経済思想の改革がいかに難事業であるかを改めて浮き彫りにしているが、それだけに仏教経済学が新しい時代にふさわしい経済思想として今日担うべき歴史的役割には測り知れないものがある。

 ここでは残された課題について一つだけ指摘しておきたい。それは井上式仏教経済学の思想的原理となっている「もったいない」と「少欲知足」の判断基準をどこに置くかである。どう判断し、行動すれば、もったいないと知足の精神を実践できるのかというテーマでもある。これは貪欲と知足との境界線は何か、どこまでが知足で、何を超えたら貪欲になるのかと言い直すこともできよう。私(安原)は国連主催の第一回地球サミット(1992年)が打ち出した「持続可能な発展」(Sustainable Development)が有力な判断基準になり得ると考える。

 20世紀は貪欲の世紀であった。21世紀は知足の世紀とならなければならない。貪欲を克服し、知足を広める思想的戦いはすでに始まっている。貪欲から知足への大転換は歴史的大事業になるだろう。その転回軸となり得るのが持続可能な発展という思想、概念である。これは持続不可能な経済とならないように環境保全と経済活動を両立させようという考え方である。

▽ 日本的仏教経済学をめざして(3)― 知足と貪欲を分ける境界線

 「持続可能な発展」という概念は、出生は欧米産ではあるが、仏教思想の根幹である共生、知足、中道の精神を色濃く反映しており、まさに20世紀末の人類が到達した智慧である。この持続可能な発展の範囲内に収まっていれば知足であり、それを超えて浪費に走れば貪欲といえるのではないか。以下、もう少し具体的に考えてみたい。

 まず<地球>では地球の収容能力、つまり自然、環境が本来持つ再生、浄化、処理能力の維持可能な水準内に生産、消費、廃棄を抑えることが知足であり、それを超えて地球環境の汚染、破壊に進めば貪欲である。
 <国レベル>では例えば日本のような成熟経済は今後ゼロ成長で十分と考えて、経済運営を進めるのが知足であり、プラスの経済成長に執着するのが貪欲である。
 <企業>では自利利他円満を実践し、不必要な資源、エネルギーを収奪、浪費しないのが知足であり、一方、過剰投資、過剰生産は浪費を意味するから、貪欲である。企業の生き残りのための人員整理も、人間は企業にとって手段でしかないという考え方に立っており、しかも人的資源を浪費し、活かさないのだから貪欲の表れというべきである。
 <個人>ではどうか。先進諸国では持続可能な発展を目指すライフスタイルが知足であり、それを超えれば、貪欲となる。例えば食では「いただきます」という動植物の命(いのち)に感謝する心でしっかり噛んで腹六分(腹八分と従来いわれてきたが、最近は栄養価の高いものもあるので腹六分で十分という考え方も)にとどめ、食べ残しをしないのが知足であり、一方、無造作に食べ残しをするのは動植物の命を粗末にすることなので貪欲である。

 以上、井上式仏教経済学を発展させる見地からあえて「持続可能な発展」という思想、概念を仏教経済学に摂取し、活用する必要性を提起した。日本の大乗仏教思想と人類の新たな智慧である持続可能な発展との融合を図ることこそが仏教経済学をより豊かにしていく鍵ではないかと考える。

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井上信一著『地球を救う経済学』(上)
連載・やさしい仏教経済学(14)

安原和雄
 仏教経済思想(学)は、混迷を深める今日の日本経済社会の変革にどこまで貢献できるのか。さらにアジアや世界の平和(=非暴力)、安心安全、幸せにどう寄与できるのか。これが仏教経済思想(学)が目指すべき課題である。
 ただ仏教経済学なるものは、日本社会の中でまだ市民権を獲得しているとは言い難い。しかし今後の展望にあえて触れれば、この仏教経済学が市民権を得て、経済思想の中で大きな比重を占める時が来るのもそう遠い将来のことではないと信じている。またそうならなければ日本が救われないだけではない。日本としてアジアや世界の平和、安心安全、幸せの実現に貢献していくことも見果てぬ夢となるのではないかと観じている。(2010年9月16日掲載。公共空間「ちきゅう座」、インターネット新聞「日刊ベリタ」に転載)

 前回、宿題として残していた「(四)既存の現代経済学に代わる新しい仏教経済思想(学)」について今回から紹介してゆきたい。その手始めに井上信一(注)著『地球を救う経済学ー仏教からの提言』(すずき出版、1994年)を取り上げる。
(注)井上信一氏(1917~2000年)は、東京大学経済学部卒後、日本銀行に入行。宮崎銀行頭取、仏教振興財団理事長、「地球主義学会」初代会長、「仏教経営フォーラム」(現「仏教経済フォーラム」の前身)初代会長などを歴任。著書に『地球を救う経済学』(英訳版『Putting Buddhism To Work』)のほか、『歎異抄に生かされて』、『仏教的経営』、『仏教経済学入門』、『間に合ってよかった 二つの気づきと念仏』など多数。1998年「仏教伝道協会賞」受賞。

 なお日本における仏教経済思想(学)を模索・構想する試みは、今回紹介する井上信一氏、前回取り上げた難波田春夫、笠森傳繁両氏の著作に限らない。例えば小沼徹雄著『仏教経済学 ― バーナードから道元へ』、武井 昭著『仏眼で読む日本経済入門』、長部日出雄著『仏教と資本主義』などを挙げることができるが、その紹介は割愛したい。

▽ 高度成長時代の入社試験問題をめぐって

仏教経済学はどういう思想から成り立っているのか。その今日的意義は何か。『地球を救う経済学』で紹介されている一つのエピソードから話を始めたい。

 高度成長華(はな)やかなりしとき、ある会社の入社試験に次のような問題が出た。
 受験者の前に、紐のかかった小包が置かれている。「これを開きなさい」というのが問題であった。一人の学生は丁寧に紐をほどき、中身を出した後、紐と包装紙とをキチンと整えて、ハイ、できあがり。もう一人の学生は、鋏(はさみ)を求めて、アッという間に紐と包装紙とを切り、素早く中身を取り出して、紐と紙をゴミ箱にほうり込んで終わり!
 試験委員の判定は後者の学生が合格となった。高度成長華やかなりしとき、というから今から40年ほども昔のエピソードなのだろう。著者はこのエピソードに何を託しているのか。次のように述べている。

 「ここに現代経済学の考える効率・経済原則が端的に示されている。そこでは<時はカネなり>と人件費の節約が強調されているのである。捨てるという行為のコストは、当然ゼロと考えられる。勿体(もったい)ないのは、時間と人件費だけである」と。この試験委員は既存の主流派現代経済学の立場から後者の学生を合格としたが、仏教経済学の立場からいえば、前者の学生が当然合格するはずだと著者はいいたいのである。

 あなたが今、試験委員ならどちらの学生を採用するだろうか。やはり後者の学生を採用するのであれば、あなたは現代経済学の信奉者であり、一方、前者の学生に合格のサインを出すのであれば、仏教経済学の発想に無意識のうちに立ち、その実践者ということになる。仏教経済学と現代経済学とはそれほど質を異にしているのである。
 以上は一つの例にすぎないが、以下、仏教経済学の多面的な特質を現代経済学と比較しながら考えたい。

▽ 仏教経済学の三つのスローガン

 『地球を救う経済学』は仏教経済学の特徴を示すスローガンとして次の三つを掲げている。
(1)自利利他円満の経済学
(2)平和の経済学
(3)地球を救う経済学

 まず自利利他円満の経済学とはどういう含蓄があるのか。
 自利利他円満とは、経済行為において「自分の利益だけ」ではなく、「他人様の利益の中で自分の利益を考える」という発想にほかならない。つまり他人の利益をまず第一に考えれば、自ずから自分の利益にもつながってくるということである。著者によれば、親鸞(しんらん・1173~1262年、浄土真宗の開祖)の『浄土和讃』に出てくる「自利利他円満」の思想は、仏教社会においては、時には宗教の面に、時には経済の面に滲み出る地下水のごときものなのである。つまり仏教社会の底流となっており、決して思いつきの道徳的なスローガンではない。

 次に仏教経済学はなぜ平和の経済学になり得るのか。
 それは仏教の根本戒律に「不殺生(殺してはならない)」が挙げられているからである。しかも強調すべき点は「殺すなかれ」という戒律が、人間を含めたすべての生命を対等に見る徹底した平等観に基づいていることである。たしかに「殺すなかれ」ということだけなら、他の宗教も説いているが、仏教の不殺生という戒律はすべてのいのちの徹底した平等観に根ざしているからこそ、仏教は他の宗教と違って宗教戦争をしたことがないと著者は指摘している。

 第三になぜ地球を救う経済学なのか。
 著者は「仏教的な思想が地球の危機を救うのではないか。いや、仏教的な思想によってしか地球は救われない」と断じている。なぜそういえるのか。仏教は「一切衆生悉有仏性、草木国土悉皆成仏(人間はもちろん、草や木などのあらゆるものに仏の命が宿っている)」と説いて、人間以外の存在(生物に限らない)にも人間と同じ値打ちを置いている。さらに人間は地球と地球に存在するさまざまな動植物によって生かされている、すべてのものは宇宙という大きな命の一部である、と考える。このことは仏教思想には本来、生きとし生けるものすべての命を含めて地球環境保全を優先させる思想が内在していることを意味している。
 ところが欧米の宗教であるキリスト教はそうではない。アメリカの『タイム』誌(1989年新年号)が「現在の<地球いじめ>の原因にはキリスト教も少なからず関わりがある」と指摘した。なぜなのか。『旧約聖書』の「創世記」に次のような記述があるからである。「神は御自分にかたどって人を創造された。男と女に創造された。神は彼らを祝福して言われた。『産めよ、増えよ、地に満ちて地を従わせよ。海の魚、空の鳥、地の上を這う生き物をすべて治めよ』」と。
 この記述の中で例えば「地を従わせよ」というのは、地球を人類の思い通りにしてよいと解することができる。だから人間は神の命令通りに行動し、つまり自然の乱開発を進め、その結果、地球環境の汚染、破壊という危機を招いたとも考えられるのである。著者が「仏教思想しか地球を救えない」と断じるのは以上のような文脈からである。

▽ 仏教経済学と現代経済学との比較

 さて仏教経済学は、既存の現代経済学に比べて具体的にどのような特質を持っているのか。そのイメージを比較したい。以下に『地球を救う経済学』から概略列挙したい。
「経済原則」などそれぞれの項目についてまず仏教経済学の基本的な考え方を紹介する。一方、現代経済学の考え方はカッコ内で示す。

経済原則=「もったいない」の精神(最少のコストで最大の効用を)
経済主体=自利利他円満の追求(自利の追求)
財 =宇宙・仏からの預かり物(私有物)
土地=空気や水と同じく宇宙の恵み(労働、資本と並ぶ生産三要素)
労働=仏教の実践行(労働は苦痛)
競争=品質競争と消費者への奉仕(人的資源を浪費する過当競争)
家計=いのちを輝かす礎(現金収入の増加)
消費=少欲知足(欲望の解放)
産業・企業の順位=地球環境保全への貢献度(生産・利益額)
福祉=自利利他一如の慈善(資本主義の矛盾の緩和修正)
自由=無執着、無私の自由(金儲けの自由)

▽「もったいない」か「自利の追求」か

 上述のように仏教経済学と現代経済学との違いは、一見しただけでそれなりのイメージが浮かび上がってくるが、若干の説明を加えたい。

 仏教経済学は経済原則として、「もったいない」を掲げている。これはどういう意味なのか。むろん仏教経済学といえども経済効率を無視するわけではない。現代経済学の方は、「最少のコストで最大の効用を」という経済効率にこだわっており、一方でコストを抑え、他方で生産や利益が多いほど経済効率は良好ということになる。これに対し、仏教経済学は、土地、財、人間の労働を活かしきることこそが良好な経済効率なのである。
 ここから両者が目指す経済効率の方向は正反対となっている。現代経済学の立場では生産と利益の増大、つまり企業の自利の追求が第一だからリストラという名の人員整理を進め、資源・エネルギーの浪費・廃棄の拡大再生産を招き、それが地球環境の汚染・破壊につながっていく。しかも財は私有物という認識だから、「どうしようと私の勝手」という身勝手な振る舞いが横行し、果てしない浪費にも走りやすい。勝ち残りを目指す自由競争という名の過当競争がそれに拍車をかける。

 しかし仏教経済学の立場では人間、財、土地のすべてが宇宙(仏)からの恵み、預かり物という認識だから、それを「もったいない」の精神で大切に扱い、十分に活かしていく。具体的には資源、エネルギーの節約さらに廃棄物の活用も視野に置く。もちろん人員整理は容認しない。競争も必要と考えるが、それは品質、技術をめぐる競争に重点があり、お客様第一の姿勢で、資源・エネルギーの浪費は避ける。
 産業・企業の優劣の判定基準もまるで異なっている。現代経済学では生産、利益が多いほど、株価も高く、優良ということになるが、仏教経済学では地球環境保全への貢献度、いいかえれば地球上の生きとし生けるものすべてを活かしているかどうかが重要な物差しである。

 それでは仏教経済学は利益を無視するのだろうか。決してそうではない。道元(どうげん・1200~53年、曹洞宗の開祖)は著書『正法眼蔵』の中で「愚人思わくは利他を先とせば自らの利省かれぬべしと。しかにはあらざるなり。利行は一法なり。あまねく自他を利するなり」といっている。
 これは「利益の追求とは自利と利他が一つになった行為」という意味である。これが自利利他円満の実践であり、わかりやすくいえば、利益は目的ではなく結果なのである。自利だけを目的にして、それにこだわると、どういう結果を招くか。自利の暴走ともいうべきあのバブル経済の崩壊でどれほど多くの企業、経済人が地獄に堕ちたかをみれば、多言を要しないだろう。

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日本における仏教経済研究の特質
連載・やさしい仏教経済学(13)

安原和雄
 海外での仏教経済学の近況とその実像を紹介してきたが、ここで日本における仏教経済(学)研究の特質に視点を移したい。日本での研究はすでに40年余の歴史を刻んでいる。駒澤大学仏教経済研究所がその有力な拠点として貢献している。
 ただ一口に仏教経済学といっても、提唱者によって多様な姿、理論、思想となっており、決定版が出来上がっているとは言いにくい。目指すものは、既存の現代経済学に取って代わる新しい経済思想としての仏教経済学をどのように構築していくかである。このことは間違いないとしても、そこに至る道筋は多様であるにちがいない。ここではまず先達が遺してくれた研究業績の一端を紹介したい。(2010年9月9日掲載。公共空間「ちきゅう座」、インターネット新聞「日刊ベリタ」に転載)

▽研究・提唱にみる四つの流れとその特質

 駒澤大学仏教経済研究所(所長・吉津宜英仏教学部教授)の創立(1966年=昭和41年4月)当時から深くかかわってきた難波田春夫氏(1906~1991年。早稲田大学教授、関東学園大学学長などを歴任)の論文「経済学と仏教の立場」(同仏教経済研究所編『仏教経済研究』創刊号、1968年7月)、さらに同研究所初代所長だった笠森傳繁氏(1970年没、元駒澤大学経済学部教授)の論文「仏教経済の特質」(1968年同研究所で発表)をはじめ、日本での研究業績は少なくない。

 これまで日本の研究者たちが分析・提唱し、さらに模索しつつある仏教経済あるいは仏教経済学(思想)は大まかにいって、次のような四つの流れと特質に整理できる。
(一)寺院(教団)の経営(経済)としての仏教経済
(二)認識論としての仏教経済(学)
(三)実践論としての仏教経済(学)
(四)既存の現代経済学に代わる新しい仏教経済思想(学)

 以上のうち(一)の寺院の経営あるいは経済は、ここでは一応除外して考えたい。寺院特有の経済あるいは出家僧呂の日常的な経済生活、特に禅寺での質素を旨とするそれは、それなりに今日において、大きな意味を持っていることは否定できない。しかしここでは狭い組織あるいは地域に限定された経済行為よりももっと広い社会、国あるいは地球規模の経済を考察の対象として取り上げてみたいからである。

▽ 認識論としての仏教経済(学)― 「空(くう)の思想」に立って

 まず(二)の「認識論としての仏教経済(学)」とはどういう性質のものなのか。その代表的存在として、難波田春夫氏の業績を挙げたい。
 その特色は、仏教の「空(くう)の思想」に基づく経済認識論といっていいだろう。同氏は次のように指摘している。
 「仏教的立場は、すべての経済学の説明について、これを空の原理によって、もっと深い根拠を与え、より深い意味を持たせる」と。
 ここに出てくる「空の原理」(注)の見方に立てば、事物はすべて相互依存関係として実在するのであり、独自に単独で存在するものはあり得ないことになる。一個人を考えてみると、たしかにその個人は単独で存在しているわけではなく、他の人々、動植物、自然、地球、さらに太陽などのお陰で存在している。これは「Aは非Aに依(よ)り、非AはAをまってのみ、実在する」という相互依存の論理でもある。

(注)「空の原理」とは、「空の思想=空観」あるいは「縁起観」ともいわれ、次の二本柱からなっている。
・諸行無常=万物流転(すべてはつねに変化し、移り変わること)
・諸法無我=相対依存(独自に存在しているものはなく、すべては他との相互依存関係にあること)
上述の難波田氏の説明では二本柱の一つ、諸法無我観(=相互依存関係)が土台になっている。後述の「実践論としての仏教経済(学)」の「変転諦観の経済」では、もう一つの諸行無常観に立って説いている。

 ところが「AはAであって、非Aではない」という独自性を強調し、相互依存関係を否定する論理がはびこってきたのが近代であり、その近代から相互依存関係を重視する新しい時代へ移行しつつある歴史的転換期がまさに現代にほかならない、と難波田氏は説く。
 独自性を強調する近代は次の二つの過ちを犯した。
・AはAであり、非Aではない。ということは俺は俺であるという認識につながる。さらに何をしようと、当人の勝手だということになり、放縦な自由社会礼賛論にならざるをえない。これでは煩悩からの解脱ではなく、逆に煩悩の気ままな解放、自由化ともいえるだろう。
・俺は俺として気ままに生きるためには、先立つものとしてカネが必要になる。各人の自由競争はカネ儲けの能力の競争となり、否応なしに経済至上主義の路線上をひた走る。ここではカネという本来、手段であるものが目的に転じ、ひたすら経済の論理に従って欲望の充足を「もっともっと」と追い求めていく。

以上の過ちの結果が、資源・エネルギーの浪費であり、廃棄物の大量発生、空気や水の汚染による環境破壊にほかならない。難波田氏はこれを適切にも「近代の敗北」と名づけている。

<安原の感想> 「近代の敗北」に無関心な「自由社会礼賛論」
 難波田氏が批判して止まない「放縦な自由社会礼賛論」の具体例が、1980年前後から始まった新自由主義(=自由市場原理主義)の横行で、環境汚染・破壊、格差、貧困、暴力、人権無視などを拡大させた。我が国では特に小泉純一郎政権時代(2001年4月発足)にその横暴振りは顕著になったが、2008年の世界金融危機、世界大不況とともに破綻(はたん)した。
 たしかに破綻したとはいえ、消滅したわけではない。ここに要注目である。市場原理主義者たちの残党がその復活、再生を画策し続けている。難波田氏流の「近代の敗北」に無関心で、念頭にあるのは私利、我欲の追求のみであり、資源・エネルギーの浪費にも環境破壊にも無関心といえる。しかもそのことに気づこうともしない時代遅れの群像といえようか。

▽ 実践論としての仏教経済(学) ― 「仏教経済の道」を追求

 次に(三)の「実践論としての仏教経済(学)」の主張者として駒澤大学仏教経済研究所の初代所長だった笠森傳繁氏を取り上げたい。同氏によると、仏教と経済の結びつきあるいは一体化を考えつつ、仏教経済の特質として次の四つを挙げることができる。これは日常の仏教的経済生活のあり方、つまり「仏教経済の道」の追求であり、仏教経済の実践にほかならない。
*物心一如の経済
*自利利他一体の経済
*変転諦観の経済
*精進報恩の経済

 まず「物心一如の経済」とは、仏教語の「身心不二」とか「身心一如」に通じるもので、物と心とが一体になって財物の生産、消費を行うという意である。
 米(こめ)作りの例でいえば、自分または他人の食物として身体を養うことだけを目的にして単に物質としての米を作るのではなく、真心のこもった米作りとなる。いいかえれば、単に儲けんがために作るのではなく、国民の命をつなぐものであり、人のためにも、後世のためにもと真心をこめて作る。
 一方、消費する場合、なるべく安く買って具合良く用いればいいということではなく、米作りには多くの人の労力やこころが加わっており、さかのぼれば大自然の力、例えば日光、空気、水などの働きが加わっており、いわば天地の恵みが包含されていることを考えて消費することを意味する。こうして米は精神のこもった物心一如の財となる。

 二番目の「自利利他一体の経済」とは何か。
 二宮尊徳(1787~1856年、江戸後期の農政家。節倹、陰徳を説いた)の思想に「譲るに損なく、奪うに得なし」がある。湯舟に入って、湯を向こうに押せばすぐに手前に帰ってくるし、手前にかき込めば向こうへ逃げていくことを例に挙げて、「譲ること、貪らぬこと、他を利することによっておのずから自分も益する」と説明している。
 いいかえれば、自分という我を立てないで、他の利益を先に考えれば、おのずから自分の利益にもつながっていくという考え方である。これは西洋流の「ギブ・アンド・テーク=give and take」の交換思想ではなく、東洋的な「ギブ・アンド・ギブン=give and given」(与えよ、されば与えられん)という思想にほかならない。こういう自利利他一体の精神こそが仏教経済の眼目とされている。

 三番目の「変転諦観の経済」は、諸行無常観(人間も含め、すべての事物はつねに変化していくという仏教の見方)の経済面への表れを指している。
 景気循環、構造変化さらに恐慌、インフレなどさまざまな経済変動は仏教でいう諸行無常の具体的な表れであり、これを人為では完全に防ぐことはむずかしい。そういう経済変動を諸行無常、変転流動の自然の姿として悟っておくこと、つまり諦観(ていかん)していれば、経済変動に柔軟に対応できて、その影響をやわらげることもできる。また普段の覚悟ができていれば、嘆き悲しむことも、恐れあわてることもしなくて済む。
 そういう諦観に達していなければ、「泣きっ面に蜂」ということにもなりかねない。あのバブル経済崩壊にあわてふためいた経済界の姿はまさにその見本のような具体例といえよう。ここでの仏教用語としての諦観は通俗的な意味でのあきらめではなく、本質を見通し、達観するという意であることに注意したい。従って変転諦観の経済とは、消極的かつ受け身の姿勢ではなく、むしろ積極的かつ主体的な思考と態度で経済変動に対処していくことを指しているといえよう。

 さて四番目の「精進報恩の経済」とは、どう理解したらいいのだろうか。
 仏教が目指すものは涅槃(ねはん・煩悩を滅して苦がなくなった究極の悟りの境地)であり、安心立命である。経済生活の目指すべき理想もこれと変わらない。その理想に到達すべく自分の仕事に精進する。そういう精進が可能となるのも天地、社会そして他の多くの人々の恩恵によるものと感得する。
 その恩に報いるようにさらに精進を重ねていく。恩という感覚は多くの現代文明人には無縁になってきているが、恩に感謝することがすなわち仏心を行ずることである。精進報恩の経済とは、いいかえれば仏心を日常的に実践していくことにほかならない。

<安原の感想> 感謝の生活を続けること
 笠森氏は以上の四つの視点を踏まえて、仏教経済の特質を平たく次のように表現している。これはまさしく経済分野での実践としての仏教経済論であるにちがいない。
 「清い心をもととして(仏心)、一日一日を惜しみつつ(「諸行無常」観)、もちつもたれつ助け合い(「諸法無我」観)、よく働いて(生産・交易)、よく分かち(分配)、活かして物をよく用い(消費)、感謝の生活を続けるを仏教経済の道という」と。

「(四)既存の現代経済学に代わる新しい仏教経済思想(学)」は次回から順次紹介したい。


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「人間様あわれみの令」発布が必要
池波正太郎『おとこの秘図』を読んで

安原和雄
20年も前に読んだ池波正太郎の作品群が積み上げられているわが家の書棚からたまたま『おとこの秘図』(上中下=新潮文庫)を引き出して、読み直した。読後感をいえば、作品の筋書き、その展開がおもしろいだけではない。徳川幕府の綱吉(五代将軍)から吉宗(八代将軍)までが作品の時代背景となっているが、その描写が現代に見事に通じていることである。
 例えば、よく知られている綱吉の「生類あわれみの令」について「人間のみが疎外された。これを現代人は笑えるか」と問いかけている。そのうえ現代の車社会の中で人間は疎外され、多くの生命を奪われているではないか、と指摘している。これでは「人間様あわれみの令」こそが、この21世紀に必要ではないかというのが、私の読後感のひとつである。(2010年9月1日掲載。公共空間「ちきゅう座」に転載)

 以下、小説本文の一部とその読後感のいくつかを書きつづってみたい。

▽ 赤穂浪士切腹の是非をめぐって

 上野寛永寺の輪王寺宮(りんのうじのみや)・公弁法親王は、江戸城から寛永寺へもどり、側近の者にこうもらした。
 「将軍家は今日、赤穂の浪士たちの処分について謎をかけてまいられた。自分も、浪士たちを、この法衣の袖の下に隠してつかわしたい気もちにいつわりはないが、・・・なれど、浪士たちの中には、まだ年齢(とし)の若い、血気ざかりの者も多いそうな。さすれば、万一、いのちをたすけつかわしたがために、将来(ゆくすえ)をあやまる者もないとはいえぬ。そうなっては、せっかくの、こたびの義挙を汚すことにもなろう。心苦しゅうはあったが、これこそ弥陀(みだ)の大慈悲とおもい、将軍家の謎を、わざと解かずに帰ってまいった」と。

 当時の五代将軍・綱吉は切腹させるかどうか迷っていたとされ、法親王が「たすけておやりなされ」といえば、綱吉は、その一言をたよりに方法をめぐらすつもりでいたらしい。しかし輪王寺宮は、「天下御政道につき、いろいろとご苦心のほど、お察し申しあげる」といったのみで、この言葉で綱吉の肚(はら)も決まった。「喧嘩両成敗」の掟(おきて)を用いて切腹となったのである。

<安原の感想> 切腹、そして自らの責任を果たすこと
 上記の描写がどこまで史実に近いのかどうかは知らない。ただ素通りできないのは、浪士たちに切腹させてやるのが、「弥陀の大慈悲」という思考である。その理由として、次のことが挙げられている。浪士の中には若い血気ざかりの者も多く、いのちを助けられたために将来をあやまり、討ち入りという折角の義挙を汚すことにもなろう、と。
 もちろん浪士たち本人も切腹は当然と考えている。
 これを「切腹」そのものが存在しない21世紀の現代に翻訳すれば、どういう推論が成り立つか。切腹を自らの責任を果たすこと、と理解すれば、どうか。今日、多くの分野で責任回避、無責任主義が横行している。決して褒めた話ではない。現代こそ浪士たちの義挙と切腹にあやかり、現代にふさわしい自らの責任の取り方をもっと考えたい、と受けとめるのはどうか。

▽ おのれのことはおのれではわからぬもの

 小説の主人公・権十郎(若かりし頃の名)との以下のような対話を紹介する。

権十郎「さようかな・・・自分(おのれ)ではわからぬことよ」
太兵衛「はい、はい。何事も、おのれのことはおのれではわからぬもの。それが人という生きものの性(さが)なのでござりましょうな」
権十郎「おもしろいことを申される」
太兵衛「なればこそ、人は他人(ひと)のいうことに耳をかたむけねばならぬのでござります。他人の目に映る我が身を忘れてはなりますまい」
権十郎「はあ・・・」
太兵衛「あなたさまは、他人の申すことを、まことに素直にお聞き入れ下さいます。これは、あなたさまのご人徳と申すものでござりますよ」
権十郎は、はずかしいおもいがして顔を伏せた。

<安原の感想> 他人の言うことに耳を傾けるのは人徳
 ここで交わされている対話は、日常会話の一つにすぎぬ、と軽く受けとめるには、もったいないという印象がある。「他人の申すことを素直に聞き入れるのは、人徳と申すもの」とは、なかなかの含蓄に富む指摘である。小さな我欲、仏教でいう貪(とん=むさぼり)、瞋(じん=怒り)、痴(ち=無知、愚痴)の三毒にこだわる物言いが普通である。自分は正しい主張と思っていても、実はこの三毒のどれかに執着し、これをなかなか捨てられない。

 どうしたらよいか。他人様の言い分を、間違っていると感じても、まずは黙してそれに耳を傾けること。昨今、重視されている「聴く力」を大切にすること。ここで「素直に聞きいれるのは人徳」と想うのも一法かもしれない。聞き終わったら「なるほど」と相手の言い分をいったんは肯定してから、やおら「こういう見方、考え方はどうか」と反論に転じるのはどうか。
 しかしこの手法は「言うは易く、行うは難し」であることは間違いない。相手の言い分を途中で抑えて、つい横槍を入れたくなる。これは人徳ではない。やはり小さな我欲というべきだろう。

▽ 学問のみに熱中する子供は不健全に決まっている

 徳川の三代将軍・家光は、愛妾の桂昌院に向かって、四男の綱吉について「つとめて、聖賢の道を学ばせるように」と言ったものだから、桂昌院は異常な熱意を持って「学問でなくては、夜も日もあけぬ」という育て方をした。
 この桂昌院、現代の女性たちの中に生き返ってきたようではないか。

 学問のみに熱中する子供というものは、「不健全にきまっている・・・」
 子供のころは、まず感受性がするどく、みずみずしい小さな肉体そのものをもって、万象をたしかめるのがよいのだ。肉体のはたらきを無視して、頭脳ばかり使っていたのでは、奇型の子となるのが当然である。奇型の子は奇型の大人となる。
(中略)こうして綱吉はついに学問に淫(いん)してしまうことになる。
 だが学問はよくできても、世の中のことは「まったく知らぬ・・・」ままに成長を遂げることになった。

 ために綱吉は「仁、義、礼、智・・・」の道理をわきまえてはいても、たとえば「孝行」の実行といえば、自分の母の桂昌院のみへの孝行にとどまってしまう。他人の孝行などは、「自分の知らぬことじゃ」となる。
 「礼儀」については家来たちが自分に礼儀をつくすことは認めても、自分が主人として家来へ対する礼儀などは「どうでもよい」のである。
 おのれの「智識」はみとめても、他人の知能をみとめることはせぬ。こういう人物が将軍になった。たまったものではない。

<安原の感想> 奇型の子は奇型の大人となる
 この描写もまた現代に見事に通じている。「この桂昌院、現代の女性たちの中に生き返ってきたようではないか」という表現は、現代のお受験ママを念頭に置いていることはいうまでもない。
 「奇型の子は奇型の大人となる」は、現代への痛烈な批判となっている。お受験ママに尻を叩かれながら、受験競争に勝ち残り、目指す大学に合格したとして、その本人はいったいどういう人物に育っていくのか。
 しょせんは私利私欲中心の行動原理を超えることは不可能で、意欲があればなおさらのこと、出世主義者になってポスト(地位)を最高価値として、それに執着するのだろう。「世のため人のため」という利他主義からはほど遠い。これでは「奇型の大人」になり果てるほかないだろう。

▽ 「生類あわれみの令」で人間のみが疎外された

 徳川・綱吉の治世に「生類あわれみの令」という法令を発した。
「野良犬を出してはならぬ」から、次第に条例がきびしくなってきた。こんなはなしがある。
 江戸城の台所に猫が二匹死んでいたというので、台所頭(がしら)の侍が島流しになった。さらに自分の頬を刺した蚊を叩きつぶした侍が、それを密告され、これまた八丈島へ流刑されるという異常事態になった。
 ことに犬に対しては、呼びつけにしてはならぬ、お犬さまと呼べとか、野良犬が病気になったりすると、すぐさま犬医者が駈けつけて保護をする。野良犬は「御犬屋敷」へ保護される。収容された野犬が十万頭に及んだ。これらの犬のために幕府は年間二十万両もの莫大な予算を組んだ。人間のほうはたまったものではない。

 犬のみか、「鶏を絞め殺し、売買をしてはならぬ」という法令が出るようになった。江戸のみではない。全国の諸大名も、おのれの領国でこの法令に従わねばならぬ。「猟をしてはならぬ」というので、猪(いのしし)や狼(おおかみ)が大威張りで田畑を荒らしまわる。
 人間のみが疎外された。これを現代の人は笑いきれまい。多量の車輌に道を奪われ、生命を奪われながら、疎外されている人間を、政治は救い得ぬではないか。

<安原の感想> 「人間様あわれみの令」の発布が必要か
 犬や猫に限らない。いのちある多様な生き物を大切にすること自体は、仏教思想からいっても大変結構なことである。人間が他の動植物を支配して当然、という人間中心主義ではなく、人間、動植物それぞれのいのちは平等にして対等、という生命中心主義の立場からいえば、どのようないのちにしても大切である。
 ただ「生類あわれみの令」は度が過ぎた。人間と他の生き物は平等、というよりは、人間が一段と下位にみられた。池波正太郎の「人間のみが疎外された」という指摘はそういう意味だろう。これではたしかに「人間はたまったものではない」。

 それはそれとして、注目したいのは、綱吉の治世に、人間のみが疎外された事実を、現代の我々は果たして笑えるのか、という作家の問いかけである。
 「多量の車輌に道を奪われ、生命を奪われながら、疎外されている人間を、政治は救い得ぬではないか」という問題提起に現代人の我々がどういう答えを用意できるかである。車社会の下でいまなお年間約6000人のいのちが無造作に奪われている。
 どこに打開の糸口を見出せるだろうか。斜に構えた表現を使えば、現代版「生類あわれみの令」として「人間様あわれみの令」の発布が必要なのではないか。そうでもしなければ、人間のいのちの大切さを保障できないのではないか。


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