「もっともっと欲しい」の貪欲の経済から、「足るを知る」知足の経済へ。さらにいのちを尊重する「持続の経済」へ。日本は幸せをとりもどすことができるでしょうか、考え、提言し、みなさんと語り合いたいと思います。(京都・龍安寺の石庭)
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「国民総幸福」をめざす国・ブータン
連載・やさしい仏教経済学(12)

安原和雄
 東洋の一角に「最小不幸社会」を国造りの政治理念として掲げている経済大国(?)があると聞く。よほど不幸が社会に蔓延(まんえん)しているのだろう。そうでなければ、この政治スローガンに意味はない。同じ東洋に「国民総幸福」をめざしている小国がある。ほかならぬチベット仏教国・ブータンである。「最小不幸社会」か、それとも「国民総幸福」社会か、そのどちらに魅力を感じるだろうか。
その選択はもちろん人それぞれだが、私なら「国民総幸福」の国造りに賭けてみたい、というよりは軍配を挙げたい。「最小不幸社会」を陰とすれば、「国民総幸福」には陽のイメージがある。国を挙げて「みんなの幸せ」を願って生きる、という前向きの姿勢が素敵ではないか。(2010年8月19日掲載。公共空間「ちきゅう座」、インターネット新聞「日刊ベリタ」に転載)

 2010年4月来日したジグミ・ティンレイ・ブータン王国首相(注)は第23回全国経済同友会セミナー(「今こそ、日本を洗濯いたし申し候」というテーマで高知市で開催、企業経営トップら900名余が参加)の基調講演、さらに日本記者クラブ(東京・内幸町)での記者会見で、国造りとして目指している「国民総幸福」(GNH=Gross National Happiness)について詳しく語った。
(注)ブータン王国はヒマラヤ山脈東部に位置し、人口200万人程度の小国。チベット仏教が国教となっている。首相は、1950年生まれ。米国ペンシルヴァニア州立大学修士で、デンマーク、スウェーデン、EU、スイスなどの大使、さらに外相、内務・文化相を歴任、現在3度目の首相の座にある。趣味はガーデニング、ゴルフ、トレッキング(山歩き)。

 以下に全国経済同友会セミナーでの基調講演(『経済同友』・2010年6月号に掲載)を中心にその要点を紹介する。

▽ 国民総幸福とは(1) ― 四本柱の戦略で追求

 20世紀はGDP(国内総生産)崇拝主義によって人類史上最大レベルの富が生み出されてきた。GDPは、ある特定の時間・場所において、モノやサービスがどれくらい取引されたかを表す尺度だが、これがあたかも人間の幸せの尺度のように勘違いされていた。
 しかし最近の金融危機などで、富と呼ばれていた株や銀行の預金残高、豪華な家などが一夜にして全部消えてしまい、手にしたと思った富が幻想だったことに気がついた。手段と目標を混同し、人間を単なる消費者や数に置き換えてしまい、幸福な人生とは何かを考えることを忘れてしまっている。
 最近では多くの学者、政治家や一般の人たちが、幸福と物質的な富は別のものと考えはじめ、GDP中心の成長は持続不可能で危険な道であると考えるようになっている。

 国民総幸福(GNH)は、ブータンの国民全体の幸福を意味し、政府が目指すべき基本的な考えとして、国王が生み出した。幸福の実現は物質的なものと精神的なもののバランスを取って初めて達成される。
 政府は「GNHの柱」と呼ばれる、次の四本柱の戦略によって、国民の幸福を追求できるような環境を整えることに注力し、実行してきた。
(1)持続可能かつ公平な経済社会の発展
(2)ブータンの脆弱(ぜいじゃく)な山岳環境の保全
(3)文化・人間の価値の保存と促進
(4)良きガバナンス(統治)
 われわれは近代性と伝統、物質と精神、用心深い成長と持続可能性のバランスを取って運営してきた。

 しかしGNHそのものが精神論的な言説に終始していてはいけない。GNHそれ自体がある尺度を持って測定可能にならなければ政策プログラムに転化できない。そのため政府はGNHインデックス(指標)を確立した。その際は日本を含む世界の学者や実務家など様々な方に支援をいただいた。
 このインデックスは前述の四本柱を詳述しており、九つの区分に分けて分析し、それを72の変数で測定している。九つの区分は以下の通りである。
 ①貧困のレベルを測定する生活水準、②死亡率や罹患率を含む保健衛生、③教育水準と現状の関連性、④資源状況、生態系などの環境、⑤文化の多様性とそのしなやかさ、⑥人間関係の強さ・弱さを測る地域社会の活力、⑦国民の時間の使い方、精神的・情緒的な健康、⑧暮らしへの満足感、⑨統治の質

<安原の感想> 経済成長は持続不可能で危険な道
 ブータン首相の講演は、経済同友会の経営トップらを前にして、経済の基本概念・GDPへの次のような根源的な批判から始まった。これは明らかに仏教経済学的視点からの批判といえる。
・GDPがあたかも人間の幸せの尺度のように勘違いされていた。
・人間を単なる消費者や数に置き換えてしまい、幸福な人生とは何かを考えることを忘れてしまっている。
・GDP中心の成長は持続不可能で危険な道である。

 上記の「四本柱の戦略」のうち特に「持続可能かつ公平な経済社会の発展」は、それと根本から対立する「GDP中心の経済成長」にこだわり続けてきた日本の多くの経営トップらには大きな知的刺激となったに違いない。ただブータン首相を基調講演者としてわざわざ日本へ招いたことは、ブータンが国を挙げて取り組んでいる「国民総幸福」路線に経済同友会としても関心を抱いているからだろう。そこが保守的な財界人の総本山・日本経団連とはやや趣(おもむき)を異にしているところではある。

▽ 国民総幸福とは(2) ― 国民の97%が「幸福だ」

 ブータンでは大家族を社会の中で最も強い持続可能性のある経済的、社会的、精神的なセーフティネット(安全網)として、重要な社会資本ととらえている。福祉サービスは、豊かな国であっても、コストが高くつく。
 5年前に行われたブータンの国勢調査では、「そんなに幸福ではない」と答えた人の割合は3%、「幸福だ」と答えた人は52%、「とても幸福だ」は45%だった。ブータンではこれだけの幸福の度合がある。

 GNHのインデックスは主観的なデータに基づいており、幸福も主観的な考えだから、どんな社会もこれを基にして統治することはできない、という議論がある。しかし現実というものは基本的に主観的なものなのである。そして国家の主たる義務は、国民が幸福を追求できるようにすることなのである。

 日本が今回の経済危機で痛手を受けたとしたら、それはGDP中心の繁栄を手にした結果ではないか。日本は、成功の頂点を極めたわけだが、これを継続することはできない。日本人の知恵で、新しい経済、新しいやり方、新しい暮らし方を探り、早急に挑戦していくという強い意志が必要である。
 日本は、あの壊滅的な被害を受けた世界大戦の灰から立ち上がった国である。これほど強靱(じん)な回復力を見せた国民は世界にはない。そしてユニークな文化を持っている。規律、勤勉、尊厳、誇り、不屈の精神、イノベーションの力を持ち、世界から尊敬された国で、より持続的な価値を追求する能力があるはずである。
 日本こそ、ほかのどの豊かな国よりも真の幸福に向かって歩み、GNH社会を作っていくのに最も適した国だと確信している。

<安原の感想> 小国ながら堂々とした助言に試される日本
 まず「ブータンでは大家族を・・・セーフティネット(安全網)として、重要な社会資本ととらえている」という首相発言に注目したい。大家族を基盤とする社会の中での人間同士の温(ぬく)もり、絆、安心感などを連想させる。だからこそ国民の97%が「幸福」と答える国柄なのだろう。
 さて肝心の日本はどうか。家族が崩壊し、ゆがめられた個人主義、身勝手主義が横行している。温もり、絆、安心感などは願望の対象ではあっても、現実ではない。最近、百歳を超える高齢者の所在不明が続出する一方、幼児・児童虐待事件も後を絶たない。これが経済成長中心の豊かさを追い求めてきた経済大国・日本の成れの果て、ということなのか。

 ブータン首相は次のように指摘している。
 「日本こそ、ほかのどの豊かな国よりも真の幸福に向かって歩み、GNH社会を作っていくのに最も適した国だ」と。これは小国ながらいかにも堂々とした有難い助言ではないか。この助言を生かすには、日本国憲法の九条(戦争放棄、非武装、交戦権否認)と二五条(生存権、国の生存権保障義務)の理念を実現していくこと、貧困・格差の拡大と人権無視をもたらしたあの新自由主義(=自由市場原理主義)と完全に縁を切ること ― が不可欠である。 日本という国の英知と器量が試されようとしている。


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ネパール仏教と世界平和への貢献
連載・やさしい仏教経済学(11)

安原和雄
 仏教の開祖・釈尊の生誕地は、ヒマラヤ山脈中部南麓に位置するネパールのルンビニである。そのネパールの国立大学には仏教経済学者が顔をそろえている。彼らの大きな関心事は「仏教と世界平和」である。「仏教は世界平和にどう貢献できるか」 ― このテーマをめぐる第2回ネパール・日本国際仏教経済シンポジウムが2006年12月、ネパールの首都カトマンズと釈尊の生誕地ルンビニで開かれた。
 席上、ネパールの仏教経済学者らは次の諸点を強調した。「社会に平和をもたらす就業の機会を保障することは国家の重要な責務」、「平和を伴わない繁栄は無意味」、「兵器経済が世界を恐怖に陥れていること」、「共生感は世界平和の確立に不可欠」などである。そこには仏教経済学の視点に立って、平和をつくっていく強い願いをうかがわせている。(2010年8月13日掲載)

 1回目(2000年12月ネパールで開催)に次ぐ2回目の国際仏教経済シンポジウムは日本ネパール国交50周年記念事業の一環として行われ、ネパールの首相から歓迎のメッセージが寄せられた。パネリストとして、ネパール側からナレッシュ・マン・バジラチャラヤ(トリブヴァン大学=ネパール国立大=教授)、トリ・ラトナ・マナンドール(同大学講師)、日本側から安原和雄(仏教経済フォーラム副会長、足利工業大学名誉教授)、辻井清吾(同フォーラム理事、元トリブヴァン大学客員教授)が参加した。

 まず日本側代表団の寺下英明会長(仏教経済フォーラム会長)が冒頭挨拶で「釈尊の中道、知足、共生の3つの教えを、利益優先の競争原理に基づく資本主義の中に組み込み、資本主義の暴走を制御する必要がある」 ― などを強調した。

 以下にシンポジウムでのネパール側のスピーチと採択された「ネパール宣言」(ネパール側が起草)の概要を紹介する。これによってネパールの仏教経済学者たちの主張の大筋を理解することができる。

▽兵器、アルコール、麻薬などの生産が平和を脅かす

 ネパール側のパネリスト、マナンドール講師は「仏教思想に基づく経済発展と平和」と題して、次のような問題提起(要旨)を行った。

 釈尊は、人々それぞれの能力にふさわしい就業の機会を保障することは国家の重要な責務であると説いた。就業機会がなくなると、社会を損なう悪行に失業者を追い込むからである。だから就業機会の保障は人々を幸せにするだけでなく、社会に平和をもたらすのである。

 様々な人々の健康と富が、いわゆる経済活動という名の兵器、アルコール類、麻薬、たばこなどの生産によって損なわれている。そこで世界がさらに大きな被害を受けないようにするためには倫理的価値の導入が不可欠であり、そのとき初めて人々は平和と繁栄を享受する生活を送ることができる。
 平和を伴わない繁栄は無意味である。この文脈で釈尊は義務感、清廉、高潔と並んで物質的価値と精神的価値との間のバランスをとるよう努力することを説いた。

 今日先進諸国は現代的な精密兵器を生産し、世界への支配権を確立しようと図っている。これら先進国の経済は発展途上国への兵器輸出によって潤い、兵器を土台とする経済が一般的になってきたが、そういう「兵器経済」(weapon based economy)が世界を恐怖に陥れている。

 倫理的価値を伴わない経済発展は国民の大多数にとって重荷となるほかない。だからこそ倫理的価値を経済活動に導入する必要がある。それは経済学と仏教思想を融合させることによって可能となるだろう。

<安原の感想> 「兵器経済」が世界を恐怖に追い込んでいる
 今日の世界が直面している多様な脅威のうち、見逃せないのは、就業の機会に恵まれない失業者の増大であり、一方、兵器生産増大による資源浪費である。どちらも社会や世界の平和を脅かすものとなっている。特に兵器生産への傾斜は、経済を「兵器経済」化させ、それが世界を恐怖に追い込んでいる。
 ではどうしたらよいのか。打開策は何か。倫理的価値を経済活動に組み入れることが不可欠であり、その実現のためには釈尊の仏教思想と融合した経済学、すなわち新しい仏教経済理論によってのみ可能だ ― という指摘は示唆に富む。

▽ 仏教の縁起説に立って世界平和をつくる

 ネパール側のもう一人のパネリスト、バジラチャラヤ教授は「仏教の縁起説に立って世界平和を読み解く」と題して、以下のように指摘(要旨)した。

 仏教の見解によると、あらゆる存在は ― 生物、非生物を問わず ― 他の存在との依存関係によって生成が可能であり、同様にその消滅は、他の存在の消滅によって生ずる。いいかえれば、あるものの存在が他の存在の原因となり、同様にあるものの消滅が他の消滅の原因となる。

 このような仏教の縁起説は以下の事実を明らかにしている。
・なにものもそれ自体では完全ではありえない。
・なにものも最高絶対の力の保持者ではありえない。
・すべてのものはそれぞれ、それ自体の価値と重要性をもっている。
・共生こそがこの世の存在の究極の真理である。
・それ故に何人も他者を無視したり、軽視したりはできないし、またすべきでもない。
・人々は他者の存在に敬意を払わなければならない。
・相互の尊敬こそがこの世の持続性を確かなものにする。

 上記の諸点は「相互に尊敬し合うことこそが平和をもたらすが、これに反しお互いに軽視し合うことは対立につながる」ことを示している。このことはネパールの政治の歴史をみても明白である。
 これまで各政党はお互いに無視したり、軽視したりして、政治的解決が不可能で、平和とは縁遠い状況にあった。しかし最近になって各政党はお互いの存在を認めるようになり、その結果、2006年11月21日、国民的和平協定が調印された。
 世界レベルでみても同じで、現在ごくわずかな国が戦争や核実験等を通して優越性を誇示しようとしており、それが平和を求める諸国に不満と混乱をもたらしている。

<安原の感想> 縁起説を土台に据える仏教経済学
 バジラチャラヤ教授はさらにこうも指摘した。
 「釈尊によって発見された縁起説は宗教哲学、信仰というよりもむしろ科学的真理である。政治家たる者たちは、世界平和のためにこの縁起説という科学的真理に目覚めなければならない」と。100%同感である。
 ネパールでは政府側と野党の毛沢東主義派(武装勢力)との間で武装闘争が繰り返され、2006年11月までの10年間に1万3,000人が犠牲になったとされる。その双方の間で和平協定が結ばれ、新しい制憲議会選挙も行われた。そのいきさつを縁起説を援用して分析したところがユニークである。

 わが国では「縁起が良い、悪い」などの表現が使われるが、これは転用であり、本来の正しい縁起説は仏教の根本教理の一つで、別名「空(くう)観」ともいわれる。それは次の二本柱からなっている。
(イ)諸行無常=万物流転(すべてはつねに変化し、移り変わること)
(ロ)諸法無我=相対依存(独自に存在しているものはなく、すべては他との相互依存関係にあること)
この縁起説が科学的真理である以上、社会科学としての仏教経済学も当然、縁起説を土台に据えなければならない。

▽ネパール宣言 ― 相互の軽視は対立を招き、尊重は平和をもたらす

 「仏教の世界平和への貢献」に関するシンポジウムの結果、採択された「ネパール宣言」(骨子)は以下の通り。

 戦争は大義もなければ、平和への打開策にもなり得ない。相互の尊重は平和をもたらすが、相互の軽視は対立を招く。釈尊は真理を述べている ― 「憎しみは憎しみによってはやまない。やさしい愛によってのみ憎しみは消える」と。
 生物と非生物とを問わず、あらゆる存在の共生は、仏教の中心概念となっている。縁起説を土台とする共生感(feelings of co-existence)は世界平和の確立のために発展させなければならない。

 人類は経済活動なしには生存できないとはいえ、様々な不公正な経済活動が行われ、それが多くの問題を招いている。釈尊の教え、すなわち仏教経済学に導かれる経済活動こそが、広範囲に及ぶ不公正な経済活動に歯止めをかけるだろう。
 殺戮(さつりく)用兵器、アルコール類、麻薬などの商取引は、全人類の健康、富そして道徳性を大きく損なうものであり、悪しき商取引といわなければならない。世界平和を促進するためには、このような不正な経済活動を国際レベルで防止しなければならない。

 基本的な仏教の教えは、世界の指導者たちにとって国や世界を平和のために運営する政策を立案するのに役立つだろう。「正当な政治的ビジョン」は世界平和の土台となるが、「悪しき政治的ビジョン」は災厄の根源であるというほかない。

<安原の感想> 共生の重要性を強調
 ネパール宣言でも縁起説が根底に据えられており、その上に共生の重要性が強調されている。さらにいかなる名目の戦争にも大義はなく、それは平和への道程を意味しないことを明記している。
 このシンポジウムでは、何よりも縁起説が信仰ではなく、科学的真理であることにそれなりの共通認識を持つことができたことは、今後、仏教経済学を普及させていく上で大きな前進となるだろう。


(付記)以上のスピーチとネパール宣言はいずれも英語で行われたが、その日本語訳の最終責任は安原にある。

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「核なき世界」へ希望を持ち続けよう
広島・長崎平和宣言が訴えること

安原和雄
 広島、長崎ともに65回目の「原爆の日」を迎えた。悲願の「核なき世界」はいつ実現するのだろうか。今年の祈念式典には国連事務総長のほか、原爆投下国・米国の駐日大使などが初めて参加した。歓迎すべき変化といえる。広島平和宣言は、非核三原則の法制化、「核の傘」からの離脱を訴え、一方、長崎平和宣言は非核三原則の法制化とともに「北東アジア非核兵器地帯」構想を提案した。これが実現すれば、「核なき世界」へ向かって大きく前進するだろう。
 ところが民主党政府は自民党政権時代とは異質の大きな一歩を踏み出そうとはしない。非核三原則の法制化には乗り気ではない。「核の傘」からの離脱や「非核兵器地帯」構想には否定的である。なぜなら「核抑止力」論にこだわり続けているからである。しかし「核なき世界」への希望は失わずに持ち続けたい。(2010年8月9日掲載。公共空間「ちきゅう座」、インターネット新聞「日刊ベリタ」に転載)

 以下、広島平和宣言、長崎平和宣言、国連事務総長のあいさつを紹介する。さらに「核兵器ゼロ」実現の条件を探る。

▽ 広島平和宣言 ― 非核三原則の法制化と「核の傘」からの離脱

 秋葉忠利・広島市長の「広島平和宣言」(2010年8月6日・大要)は以下の通り。

 核兵器のない未来を願う市民社会の声、良心の叫びが国連に届いて、今回、潘基文(パンギムン)閣下が国連事務総長としてこの式典に初めて参列、また70か国以上の政府代表、さらに国際機関代表、NGOや市民代表が被爆者やその家族、遺族、広島市民の気持ちを汲み参列されている。
 核保有国としては、これまでロシア、中国等が参列されたが、今回初めて米国大使や英仏の代表が参列されている。
 このように核兵器廃絶の緊急性は世界に浸透し始めており、大多数の世界市民の声が国際社会を動かす最大の力になりつつある。

 今こそ、日本政府の出番である。「核兵器廃絶に向けて先頭に立つ」ために、まずは、非核三原則の法制化と「核の傘」からの離脱、そして「黒い雨降雨地域」の拡大、並びに高齢化した世界すべての被爆者にきめ細かく優しい援護策を実施すべきである。
 また内閣総理大臣が、被爆者の願いを真摯(しんし)に受け止め自ら行動してこそ、「核兵器ゼロ」の世界を創(つく)り出し、「ゼロ(0)の発見」に匹敵する人類の新たな一ページを2020年に開くことが可能になる。核保有国首脳に核兵器廃絶の緊急性を訴え、核兵器禁止条約締結の音頭を取る、すべての国に核兵器等軍事関連予算の削減を求めるなど、選択肢は無限である。
 
 私たち市民や都市も行動する。志を同じくする国々、NGO、国連等と協力し、先月末の「2020核廃絶広島会議」(注1)で採択した「ヒロシマアピール」に沿って、2020年までの核兵器廃絶のためさらに大きなうねりを創っていく。
(注1・安原記)広島市と平和市長会議が主催した会議で、世界中の都市や平和NGOが参加し、5月のNPT再検討会議後の核廃絶のための活動方針を策定した。

▽ 長崎平和宣言 ― 「北東アジア非核兵器地帯」構想を

 田上富久・長崎市長の「長崎平和宣言」(2010年8月9日・大要)は以下の通り。

 今年5月、核不拡散条約(NPT)再検討会議では、当初、期限を定めた核軍縮への具体的な道筋が議長から提案された。この提案を核兵器をもたない国々は広く支持した。世界中からニューヨークに集まったNGOや、私たち被爆地の市民の期待も高まった。
 その議長案をアメリカ、ロシア、イギリス、フランス、中国の核保有国の政府代表は退けてしまった。核保有国が核軍縮に誠実に取り組まなければ、それに反発して、新たな核保有国が現れて、世界は逆に核拡散の危機に直面することになる。NPT体制は核兵器保有国を増やさないための最低限のルールとしてしっかりと守っていく必要がある。

 核兵器廃絶へ向けて前進させるために、私たちは、さらに新しい条約が必要と考える。潘基文国連事務総長はすでに国連加盟国に「核兵器禁止条約」の検討を始めるように呼びかけており、NPT再検討会議でも多くの国がその可能性に言及した。すべての国に、核兵器の製造、保有、使用などのいっさいを平等に禁止する「核兵器禁止条約」を私たち被爆地も強く支持する。

 被爆国である日本政府も、非核三原則を国是とすることで非核の立場を明確に示してきたはずである。しかし非核三原則を形骸化してきた過去の政府の対応に、私たちは強い不信を抱いている。さらに最近、NPT未加盟の核保有国であるインドとの原子力協定の交渉を政府は進めている。これは、被爆国自らNPT体制を空洞化させるものであり、到底、容認できない。
 日本政府は、なによりもまず、国民の信頼を回復するために、非核三原則の法制化に着手すべきである。また、核の傘に頼らない安全保障の実現のために、日本と韓国、北朝鮮の非核化を目指すべきで、「北東アジア非核兵器地帯」構想を提案し、被爆国として、国際社会で独自のリーダーシップを発揮してください。

▽ 国連事務総長 ― 「核兵器のない世界」という夢を実現しよう

 潘基文国連事務総長のあいさつ(要点)は以下の通り。

 皆さんは力を合わせ、広島を平和の「震源地」としてきた。
 私たちはともに、「グラウンド・ゼロ」(爆心地)から「グローバル・ゼロ」(大量破壊兵器のない世界)を目指す旅を続けている。それ以外に、世界をより安全にするための分別ある道はない。核兵器が存在する限り、私たちは核の影に怯(おび)えながら暮らすことになるからである。私が核軍縮と核不拡散を最優先課題に掲げ、5項目提案(注2)を出した理由もそこにある。

 私は9月にニューヨークで軍縮会議を招集する予定である。そのためには核軍縮に向けた交渉を推進しなければならない。また被爆者の証言を世界の主要言語に翻訳するなど、学校での軍縮教育も必要である。
 地位や名声に値するのは、核兵器を持つ者ではなく、これを拒む者だという基本的な真実を、私たちは教えなければならない。

 今日、ここ平和記念公園には、一つのともしびが灯(とも)っている。それは平和のともしび、すなわち核兵器が一つ残らずなくなるまで消えることのない炎である。私たちはともに、自分たちが生きている間、そして被爆者の方々が生きている間に、その日を実現できるよう努めようではないか。
 核兵器のない世界という私たちの夢を実現しよう。子どもたちや、その後のすべての人々が自由で、安全で、平和に暮らせるために。

(注2・安原記)5項目提案は潘氏が2008年10月、ニューヨークでの講演で明らかにしたもので、「核抑止力」論を批判した上で、次の5つの行動を提案している。
・すべてのNPT締約国、特に核保有国が条約上の義務を果たし、核軍縮に向けた交渉に取り組む。
・安保理常任理事国が核軍縮過程における安全保障について協議を開始する。
・包括的核実験禁止条約(CTBT)の発効、兵器用核分裂物質生産禁止(カットオフ)条約の交渉を直ちに無条件で始める。
・核保有国が自国の核兵器について説明責任を果たし、透明性を確保する。
・他の種類の大量破壊兵器の廃絶や通常兵器の生産・取引の制限など補完的措置をとる。

<安原の感想> 国連事務総長の初参加は画期的
 今年の広島平和祈念式典には駐日米大使の初参加など核廃絶に向けてさらに一歩前へ進む可能性をうかがわせる出来事があったが、なかでも国連事務総長の初参加は画期的といえる。しかも同事務総長の次のようなあいさつは傾聴に値する。
・学校での軍縮教育も必要である。地位や名声に値するのは、核兵器を持つ者ではなく、これを拒む者だという基本的な真実を、私たちは教えなければならない。
・自分たちが生きている間、そして被爆者の方々が生きている間に、その日を実現できるよう努めようではないか。

従来、あまり指摘されなかった軍縮教育の必要性に言及していることは新しい視点である。長崎平和宣言も「長崎は核不拡散・軍縮教育に被爆地として貢献していく」と述べている。
 もう一つ、「被爆者が生きている間に、その日(核廃絶のとき)を実現しよう」という呼びかけにも注目したい。残り少ないいのちの被爆者たちへの心遣いがにじみ出ている。オバマ米大統領がチェコの首都、プラハで行った演説(2009年4月)の「核廃絶は容易ではない。私が生きている間は実現しないだろう」という逃げ道を遺した姿勢とは対照的である。

▽ 「核兵器ゼロ」実現の条件(1) ― 非核三原則の法制化を

 広島平和宣言は、非核三原則の法制化について次のように述べている。
 今こそ、日本政府の出番である。「核兵器廃絶に向けて先頭に立つ」ために、まずは、非核三原則の法制化を実現すべきである ― と。
 長崎平和宣言も、日本政府は、国民の信頼を回復するために、非核三原則の法制化に着手すべきである、と指摘している。この非核三原則の法制化は、三原則を堅持するためには不可欠の条件といえる。 

 これに対し、菅直人首相はどう答えたか。広島、長崎の平和祈念式典での首相あいさつは次のようであった。
 唯一の戦争被爆国である我が国は、「核兵器のない世界」の実現に向けて先頭に立って行動する道義的責任を有している。私は、核兵器保有国を始めとする各国首脳に、核軍縮・不拡散の重要性を訴えていく。また核兵器廃絶と世界恒久平和の実現に向け、日本国憲法を遵守(じゅんしゅ)し、非核三原則を堅持することを誓う ― と。

 目配りの利いたなかなかのあいさつのように見えるが、事実はそうではない。まず「行動する道義的責任」という文言は、オバマ米大統領のプラハ演説に出てくる。同大統領は次のように述べた。「核兵器を使用した唯一の核大国として、アメリカ合衆国には行動する道義的責任がある」と。演説の真似といえば、その通りだが、その非をあげつらう必要はないだろう。

 むしろ問題とすべきは、「核兵器廃絶と世界恒久平和の実現に向け、(中略)非核三原則を堅持することを誓う」という文言である。
参考までに自民党政権最後の麻生太郎首相が昨2009年8月、広島と長崎の平和祈念式典で行った挨拶を紹介しよう。つぎのように述べた。
 私は改めて日本が、今後も非核三原則を堅持し、核兵器の廃絶と恒久平和の実現に向けて、国際社会の先頭に立っていくことを誓う ― と。

 実はこの文言は、自民党の歴代首相が毎年述べてきたもので、ほぼそのまま菅首相のあいさつでも使われた。
 重要なことは「非核三原則を堅持」は偽装であること。現実には非核三原則(「核兵器を持たず、作らず、持ち込ませず」)は崩れている。1960年の日米安保条約改定時に日米政府間で合意されたとされる核密約によって非核三原則のうち「持ち込ませず」が、空洞化している。つまり実際には核兵器積載の米艦船・航空機が日本政府との事前協議なしに日本国内に自由に出入りできるようになっている。
 平和宣言が唱える「非核三原則の法制化」は、長崎宣言では今年が初めてではない。非核三原則そのものが崩れているのだから、その法制化には日本政府は拒否反応を示してきた。民主党政権・菅首相の姿勢も自民党政権時代と比べて変わる可能性は余りないだろう。

▽ 「核兵器ゼロ」実現の条件(2) ― 「核の傘」と「核抑止力」論から離脱を

広島市で開かれた原水爆禁止2010年世界大会・国際会議(8月2~4日、外国の市民団体、政府代表、国連など国際機関代表など、27か国から70人余が参加)で採択された宣言(要点)は次のように指摘している。

・NPT再検討会議で、いくつかの核保有国は、核兵器廃絶への行程の協議などに反対し、批判を呼んだ。こうした態度の根底には、核兵器による脅迫で影響力の確保をはかる「核抑止」政策がある。「核抑止力」論は核兵器拡散の要因ともなっている。これこそ「核兵器のない世界」実現への最大の障害である。核保有国とその「核の傘」のもとにある同盟国に、これと決別するよう迫る広大な世論と運動が必要である。
・被爆国日本が米国の「核の傘」に依存することは、アジアの平和と安全、「核兵器のない世界」の実現にとって重大な障害である。日本国憲法9条を守り活(い)かし、核兵器持ち込みを認める「密約」を破棄し、「非核三原則」の厳守により日本の非核化をめざす運動、沖縄・普天間基地をはじめ在日米軍基地の再編・強化に反対し撤去を求める運動に連帯する。

 この原水禁世界大会の宣言は「核の傘」と「核抑止力」論を批判する立場であり、正論である。「核抑止」政策は、「核の傘」と表裏一体の関係にあり、いざというときに核兵器を使用することを意味している。それがどれほどの惨禍と悲劇をもたらすか、広島、長崎が余すところなく教えている。
 究極の打開策はもちろん核廃絶であるが、非核三原則の法制化と並んで、<「核の傘」からの離脱>(広島平和宣言)、<日本と韓国、北朝鮮の非核化を目指す「北東アジア非核兵器地帯」構想>(長崎平和宣言)の実現も次善策として有効である。
「核の傘」からの離脱について、菅首相は「核抑止力はわが国にとって引き続き必要だ」と広島市内での記者会見で語った。これは日米安保体制下では米軍の「核の傘」から離脱することはできないという本音を語ったわけで、被爆者たちから反撃を受けたのは当然のことである。


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米国人にみる「簡素と知足」の精神
連載・やさしい仏教経済学(10)

安原和雄
キリスト教徒でありながら、仏教思想に大きな関心を示し、それを日常生活の中で実践している米国人が増えつつある。その典型の一人は、米国兵器メーカーの核ミサイル技師を辞職して、平和活動家に転身し、広島での原水禁世界大会に出席した実績もある人物である。
 彼らが心掛けていることは、仏教が説く「簡素と知足」の精神の実践であり、質素な暮らしである。「もっともっと」という限りない欲望、つまり貪欲を捨てることである。貪欲は戦争を招くが、簡素と知足、そして質素は「静かな平和」につながっていく。そういう暮らしと世界をつくっていくことに大きな生きがいを見出している人たちが米国でも存在感を広げつつある。(2010年8月5日掲載。インターネット新聞「日刊ベリタ」、公共空間「ちきゅう座」に転載)

▽ 核ミサイル技師の転身(1) ― 貪欲からシンプルライフへ

 米国におけるシンプルライフ(質素あるいは簡素な生活)実践のはしりともいえる人物は、『核先制攻撃症候群 ― ミサイル設計技師の告発』(岩波新書、1978年)の著者、R・C・オルドリッジ(1926年生まれ)である。1973年米国最大の兵器メーカー、ロッキード社の弾道ミサイル設計技師から転じて、平和活動家となった。辞職の理由は、当時のペンタゴン(国防総省)の核政策が先制攻撃戦略(核攻撃を受ける前に相手の核ミサイル基地を叩く戦法)に転換したことにあった。その後広島で開かれた原水爆禁止世界大会などへの出席のため来日したこともある。

 彼は当時を追想して書いている。
 快適に暮らせる毎週のサラリーがなくなって、まず手がけたことは、今までより贅沢を切りつめた生活をすることだった。お金もかからず、それに環境保護にもかなう料理法による、さまざまな食事をやってみるようになった。それが次第に日常のパターンとして定着した。つまり質素に暮らすということ ― と。

▽ 核ミサイル技師の転身(2) ― シンプルライフの今日的意味

 さて今の時点で考えてみるべきことは、彼のシンプルライフがどういう意味をもっているのかである。彼自身、次の諸点を挙げている。
(イ)資源や食糧の配分の不公正を改善するのに貢献すること
 われわれ一人ひとりが質素な生活をすることは、食糧や資源の配分を公正にするのに役立つ。多額のサラリーを消費していたころに私がしていたことは、世界の富の半分でどうやら生きのびている全人類の94%に向かって、暴力を加えていたことを意味する。統計によれば、地球上の八人に一人が飢餓に直面している。今日の世界で死んでいく人びとのうち三人に一人は、飢えによるものである。(中略)世界の現実を見るならば、食糧が不足しているわけではない。問題は配分の不公正なのである。

(ロ)平和をかき乱す貪欲を一掃することができること
 必要としている物だけを消費していれば、われわれ自身の貪欲を一掃することができる。欲は富を得るにつれて高まるものだ。私はキリスト教徒だが、この場合、次のような仏陀の教えが実に説得力を持っている。

欲求は利益の追求をうながす。
利益の追求は欲情をうながす。
欲情は執着をうながす。
執着は貪欲とより大きな所有欲をうながす。
貪欲とより多くの所有欲とは、所有物を見張り、監視する必要をうながす。
所有物の見張りと監視から、多くの悪い、よこしまなことが起こる。殴り合い、けが、けんか、口論。中傷、うそ。
これが、めぐる因果の鎖である。欲求がなければ、利益の追求や、欲情や執着や貪欲や、より大きな所有欲があり得ようか。
己の所有欲というものがなかったとしたら、静かな平和がやってくるのではないか。

以上の仏陀の教えを紹介した後、次のように述べている。
 これこそ、われわれの家庭や社会や、さらには国際関係のありさまをよく描いているではないか。因果の鎖を自覚し、質素に生活することにすれば、われわれはいつかは、われわれの本性から貪欲を拭うことができるはずである ― と。

(ハ)自分の生活様式を私利中心でないものに改めるよう努めていること
以下のような諸点を挙げている。
・日常の必要経費を切りつめたので、自分たちの時間のすべてを従来のように金稼ぎだけに費やす必要がなくなった。
・既成の社会的な枠を変えるための非暴力的手段を模索し、かつ兵器こそ安全保障と雇用をもたらすという神話を追放するために活動している。
・アメリカ政治のあり方には同意できないが、この国を愛している。この祖国愛があるからこそ、利潤や権力への飽くことのない渇望にかられた軍産複合体(注1)が、アメリカ国民に向けて繰り返し吐き続けている嘘(うそ)やごまかしを暴露しなければならない。

 (注1)軍産複合体とは、巨大な軍事組織と大軍需産業の結合体を指しており、アメリカの政治、外交、軍事を牛耳るほどの影響力を発揮している。軍人出身のアイゼンハワー米大統領が1961年、大統領の座を去るに当たって全国民に向けたテレビでの告別演説で警告を発してから、一躍その存在が浮かび上がった。
 同大統領は次のように述べた。「この結合体は不当な影響力を発揮し、自由と民主主義を破綻させる可能性がある。これに対抗し、安全と自由を守ることができるのは、敏感で分別ある市民のみである」と。この警告はいまこそ傾聴すべきである。

<安原の感想> 貪欲から転じて利他主義の実践へ
 上記の(イ)、(ロ)、(ハ)のような行動こそ、貪欲の対極に位置する知足、簡素であり、非暴力の実践であろう。彼のシンプルライフは反戦、反核、反権力への志向と重なり合っている。特に注目すべき点はキリスト教徒であるにもかかわらず、なんと仏陀の教えが、その思考と行動の支えとなっていることである。
彼の「自分の生活様式を私利中心でないものに改める」という決意は、いいかえれば利他主義実践への意欲であろう。シンプルライフの一つの柱として、この利他主義が位置づけられている。
 NHKテレビの朝のドラマ「純情きらり」(2006年9月末で放映終了)の次のセリフが記憶に残っている。これは仏教思想の「自利利他の調和」であり、利他主義実践の一例であろう。
 「自分が幸せになりたいと思っても幸せになれるわけではない。他人を幸せにしてあげることによって自分も幸せになれる」(2006年6月15日放映)。

▽ 『地球白書』が説く知足のすすめ

 注目したいのは米国ワールドウオッチ研究所編『地球白書2004~05』(家の光協会、2004年)が「消費者の選択」の再定義に関連して、東洋思想、「知足の心」の重要性を説いていることである。次のように述べている。

 消費者の選択とは、個々の生産物やサービスの間の選択ではなく、生活の質を高めるための選択を意味するものと定義されるべきである。
 個人にとって真の選択は、消費しないことの選択も含まれる。すべての人は重要な問いの答えを見つけることを学ばなくてはならない。それは「どれだけあれば足りるのか」という問いである。
 考慮に値する一つの指針は中国の哲学者、老子(注2)の「足るを知る者は富めり」という教えである。この昔の金言を受け容れる消費者は、今日の大量消費を動機づけている「人並みにという欲望」と「戦略的なマーケティング」の支配から脱却するために、大きく前進することになる ― と。

(注2)老子(生没年は不詳だが、前4世紀といわれる)は、中国戦国時代の哲人で、彼が書き遺した『老子』は世界的な古典の一つである。孔子(前551~前479、中国春秋時代の思想家。『論語』が有名)の儒教に反対し、無為自然の道を説いた。老子の「足るを知る者は富めり」とは「己の欲望に打ち克ち、ほどほどで足ることを自覚する者こそ真に豊かな人だ」という意である。

 同『地球白書』は老子の「知足」には触れているが、釈尊への言及はない。しかし実は釈尊(注3)こそが老子に先がけて「知足の説法」を唱えた。仏教思想の根幹の一つが知足である。釈尊は知足について次のように述べている。
 (注3)釈尊(前563~前483)は、古代インドのシャカ族の出身で、仏教の開祖。仏陀とも称される。

もろもろの苦悩を脱せんと欲せば、まさに知足を観ずべし。知足の法は、すなわちこれ富楽安穏のところなり。(中略)不知足の者は富めりといえどもしかも貧し。知足の人は貧しといえどもしかも富めり。不知足の者は、常に五欲のために牽(ひ)かれて、知足の者の憐憫(れんみん)するところとなる。
<意味>さまざまな生活の苦しみから逃れようと思うならば、足ることを知らなければならない。どんなにモノがなくても、結構ですと感謝することが人生の大事なことである。足ることを知り、感謝して喜んで暮らすことができる人が一番富める人である。(中略)足ることを知らない人は、どんなにお金があっても満足できないので貧しい人である。足ることを知る人は、お金が十分なくても富める人である。足ることを知らない人は、五欲(食欲、財欲、性欲、名誉欲、睡眠欲)という欲望の奴隷で、その欲望にひきずられて、「まだ足りない」と不満をこぼすので、足ることを知っている者から気の毒な人、憐れな人だと思われる。

<安原の感想> 豊かな人々こそ知足の精神を
 ここで指摘しておく必要があるのは、21世紀の今日的な知足とは何を意味するのかである。果たして富裕国も貧しい発展途上国も一様に知足の心が求められるのかというテーマである。解答として『地球白書2004~05』の次の指摘が妥当だと考える。

 発展途上国のすべての人々が平均的なアメリカ人、ヨーロッパ人、日本人と同様に自動車、冷蔵庫など消費財を所有することは、地球の負荷を考えれば不可能である、としばしばいわれる。しかし世界の公正(global justice)と公平(equality)を期するならば、西側世界の大量消費を維持し、貧しい人々の生活水準の向上を阻む「消費のアパルトヘイト(差別)」による解決はありえない。豊かな人々こそ、肥大化した物欲を抑制しなくてはならない。環境保護と社会的公正という二つの命題を満たすためには、豊かな国々の物質消費を大幅に削減する必要もある ― と。


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