「もっともっと欲しい」の貪欲の経済から、「足るを知る」知足の経済へ。さらにいのちを尊重する「持続の経済」へ。日本は幸せをとりもどすことができるでしょうか、考え、提言し、みなさんと語り合いたいと思います。(京都・龍安寺の石庭)
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「お陰様で」を一日一回唱えよう
連載・やさしい仏教経済学(3)

安原和雄
 人間は自力のみで生きていると思うのは錯覚である。客観的事実として太陽、地球、自然の恵みを受けて、しかも他人様のお陰で生き、生かされているのである。この理(ことわり)を認識できれば、「お陰様で」という他者への感謝の心につながっていく。この感謝の心は「もっともっと欲しい」という独りよがりな貪欲に対する自己抑制としても働く。
 「いただきます」、「もったいない」と並んで「お陰様で」を日常生活の中で復活させたい。一日一回でいいから、また口に出さなくても、心(こころ)でいいから「お陰様で」を唱えてみてはどうだろうか。気分がさわやかになることだけは確実といえよう。(2010年4月29日掲載。公共空間「ちきゅう座」、インターネット新聞「日刊ベリタ」に転載)

▽「お陰様で」という感謝のこころ

 「お陰様で」は、今の自分のいのちが遠い祖先のいのちにつながっており、それに対する感謝の心の表れであり、これが原意(本来の意味)である。
 自分の両親から10代先までの祖先にさかのぼってみれば、一体何人のいのちが自分のいのちにつながっているか。自分の両親は2人、両親の親は4人、その4人の親は8人というわけで、計算上は合計でざっと2000人を超える。20代先までさかのぼれば、全部で約200万人である。これだけの膨大な人々のいのちがあって、そのお陰で今ここに自分が存在している。この事実に思い至れば、多くの人に支えられて生かされ、生きていることに「お陰様で」と感謝の念を抱かずにはいられない。

 ところが自分に少し自信のある人の場合、人のお世話にはならない、自分一人の自力(じりき)で生きてみせると、頑張っている例が少なくない。そういう心構えで人生を送ること自体は必要だが、事実認識としては錯覚であり、独りよがりの思い込みにすぎない。この現世に自分一人で生きている者は誰一人いない。
 早い話、あなたの今朝の食事は何だったか。パン食で、自分で稼いだお金で買ってきたのだから、人の世話になってはいない、といいたいのだろうが、そこが誤解である。
 パンを自分で焼いたのか。最近はそういう人も増えてはいるらしい。それはそれで結構な話である。ではパンの原料の小麦(粉)は自分で植えて育てたのか。自分で小麦を粉にしたのか。多くの消費者はそうではないだろう。

 一方、自分で稼いだお金といえども、決して万能ではない。お金が利(き)く人間社会から隔絶された絶海の孤島での独り暮らしを想像してみれば、分かりよい。1万円札を山と積み上げても、何の価値もない。ただの紙切れでしかない。孤島では人と人との相互依存関係が存在しないからである。お金(かね)も相互依存関係という網の中でのみ役に立つのである。

 以上の理由から「いただきます」、「もったいない」、「お陰様で」という三つの日常用語を身につけ、広めていくことがいかに大切であるかが理解できよう。「いただきます」の感覚が日本社会に広く浸透し、定着すれば、日常的な大量の食べ残しなども「もったいない」仕業(しわざ)と気づき、食事ができるのも他人様(ひとさま)のお陰であり、そこに「お陰様で」と感謝する心が湧いてもくるし、同時にモノを大切に扱う心も広がってくるだろう。
 こういう意識革命が少しずつでも進めば、もう少しゆとりのある日々の暮らしを味わうことができるのではないだろうか。

▽ 戦国時代のエピソード ― 自己管理能力の欠如

 「お陰様で」などの日常用語に無頓着であるために見舞われる悲劇も少なくない。今から400年以上も昔の戦国時代、小田原を本拠地とする北条一族の滅亡のエピソードを思い出したい。
 4代目の氏政(1538~1590年)があるとき食べ残しをしたのを見て、父の氏康(1515~1571年)がこう言って息子を諫(いさ)めた。「あゝ、わが一族も息子の代でついに亡びるか。自分の腹ひとつ測(はか)れないようでは、一国一城の経営ができるはずはない」と。

 事実、豊臣秀吉の小田原攻略の際、数カ月の籠城の末、城主となっていた氏政は自刃、5代目の氏直は高野山に籠居させられ、ここに北条一族は滅亡の悲運に泣いた。秀吉の軍門に降るかどうかをめぐって城中で優柔不断な長評定に明け暮れたことから、だらだらと会議を続けることを「小田原評定」と形容するようになった。
 ともかく自分の腹ひとつ測れないことは自己管理能力の欠如そのものであり、今日の激しい変化の時代を生き抜くことはむずかしい。
 今日風にいえば、この息子(氏政)は主体性に欠ける「ぐうたら人間」であり、そういう人間の人生は悲劇に終わる可能性が大きいことを物語るエピソードといえよう。これは21世紀に生きる我々が学びとるべき教訓であり、過去の単なるエピソードではない。

 もうひとつ、指摘したいことは、食べ残しをする者には地球的視野が欠落していることである。
 地球総人口約67億人のうち10億人が飢えに苦しんでいるというデータ(国連の推計)もある。7人に1人の割合で食事もろくにとれないわけである。地球規模に視野を広げて、こういう地球上の不幸な現実に心が届けば、安易な食べ残しは恥ずかしい仕業だと気づくはずである。さらに大量の食べ残しは資源の無駄な大量浪費であり、それがひいては地球環境の汚染・破壊に手を貸していることに気づけば、無神経な食べ残しは心苦しいことと思うはずである。

 食事に関連して一つ提案したい。それは企業の採用試験の改革案で、受験生を食事に誘ってその食べ方を観察するという手法はどうか。食べ残しをするような輩は、人間として性根も据わっていないし、やがて企業を倒産に追い込む可能性があるだろうからもちろん不採用である。私が社長なら、そういう採用試験に切り替えたい。

 参考までにいえば、アメリカの発明王、企業家として知られるトーマス・エジソン(1847~1931年)も食事の仕方で人物を見分けていた。技術者が「自分の腕には自信がある。雇って欲しい」と訪ねてくると、エジソンは決まって食事に誘い、あるひとつのことを観察した。
 「あるひとつのこと」とは、何か? それは調味料の使い方である。味見をしないで、無造作に塩や胡椒を振りかけたりすると、不合格とした。なぜか。そういう人は思いこみや惰性に囚(とら)われて行動するタイプで、発明の才能はもちろん、新しい工夫も期待できないという判断からである。思いこみや固定観念に縛られている人は独創的なアイデアに欠けるということだろう。

▽ どのようなご利益が期待できるか

 以上、「いただきます」、「もったいない」、「お陰様で」と食べ残しがもつ意味について指摘した。これをしっかり理解できることが、いわゆる人間力、すなわちしっかり人生を生き抜く力であり、同時に教養でもある。教養は単なる知識ではない。知識を日常の暮らしに、仕事に、さらに社会に活かす実践的な能力のことである。

 さて「いただきます」などの精神が日常的に復活、普及し、同時に食べ残しを控えるようになれば、どのようなご利益(りやく)を期待できるだろうか。以下の四つにまとめたい。
(1)人間はもちろんのこと、動植物のいのちも尊重できるようになり、思いやり、やさしさが身についてくること。
(2)人間は動植物、自然との相互依存関係の中で生かされ、生きていることを自覚できるようになり、共生のこころ、感謝のこころが豊かになってくること。
(3)自己管理能力、いいかえれば自己責任感を鍛え、自律心、自立力、さらに「もうこれで充分」という知足(足るを知る)の知恵を育むことができること。
(4)地球環境問題を含む広大な地球的視野に立って、「地球はわが家」(注)という正しい認識をもつて、中道、すなわち道理に合った道を進むことができること。

 (注)「地球はわが家」について=「環境と発展に関するリオ宣言」(1992年6月リオ・デ・ジャネイロでの第1回国連環境開発会議=第1回地球サミットで採択)は前文で「我々の家庭である地球の不可分性、相互依存性を認識する」とうたっている。


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世界に広がる「もったいない」
連載・やさしい仏教経済学(2)

安原和雄
 「いただきます」(いのちの尊重、その活用)、「もったいない」(人や物を大切に思うこころ)、「お陰様で」(共生、相互依存関係へ感謝)― この三つの仏教精神を日常生活の中でどう実践し、生かしていくかが大切なテーマとなってきた。ここでは「もったいない」を中心に考える。
 ケニアのワンガリ・マータイさん(ノーベル平和賞受賞)の「もったいない=MOTTAINAI」行脚が話題を集めている。日本語の「もったいない」を世界に広める運動を続け、「MOTTAINAI」は今では世界語にまで成長している。2回目の「やさしい仏教経済学」は〈世界に広がる「もったいない」〉。(2010年4月22日掲載。公共空間「ちきゅう座」、インターネット新聞「日刊ベリタ」に転載)

 マータイさん(注)は2005年初来日したとき、毎日新聞社を訪ね、日本語の「もったいない」に出会って感動し、それ以来、国連など世界各地であらゆる機会を捉えて「もったいない=MOTTAINAI」の効用を訴えてきた。2010年2月、5度目の来日となり、広島市の原爆資料館を訪ね、京都では仏教者と対話を重ねた。

(注)1940年ケニア生まれ。71年にケニアのナイロビ大学で生物分析学の博士号を取得、77年から植林と女性の地位向上を目指す草の根運動「グリーンベルト運動」に取り組む。これまでに約8万人が参加し、4000万本植樹した。 ケニアの国会議員、環境副大臣などを歴任し、04年にノーベル平和賞を環境分野で、またアフリカの女性として初めて受賞した。MOTTAINAIキャンペーンの名誉会長、国連平和大使などとして地球規模で活躍を続けている。

▽ 「もったいない」(1) ― 環境と平和

 ここでマータイさんをはじめ、最近、「もったいない」がどういう文脈で使われているか、その語録をいくつか紹介したい。(毎日新聞・2010年1月3日、同年3月17日、同月20日付から)

*MOTTAINAIというすばらしいライフスタイルを世界に広げたい。(マータイさん、京都で)
*MOTTAINAIキャンペーンに代表されるように「環境と平和」に向けたメッセージを発信し続ける。2011年、ケニアのナイロビ大学キャンパスに設立するワンガリ・マータイ環境・平和研究所では日本文化やMOTTAINAI精神を学ぶことができるように「MOTTAINAI学科」を開講する。(マータイさん、コペンハーゲンで)
*戦争や紛争はすべて限りある資源を奪い合うことから生まれる。地球上の人々が資源を上手に分け合うことを学べば、こうした悲劇は起きない。具体的にはエネルギーを節約し、使い捨てをせず、使い終わった資源をリサイクルする社会を作ることであり、これまで低い価値しか与えられなかった森林や文化の価値を再評価すること。(同上)
*私はこれまでの訪日経験から、MOTTAINAI精神をはじめとする新たな文化を知った。頭を深々と下げる日本特有のお辞儀もいつの間にか身についてしまった。(同上)

*「もったいない」という言葉を聞いた時にとても魅力的だと感じたのは、無駄にしないという3R(Reduce=削減、Reuse=再使用、Recycle=リサイクル・再生利用)だけでなく、「尊重・尊敬する」(Respect)や「感謝」(Gratitude)の気持ちが含まれていたためである。キリスト教徒、とくにアフリカでは神様に「こんなモノを与えてください」とお祈りすることが習慣になっているが、実は水や食料、森、きれいな空気などはすでに存在している。私たちは「何かをください」と神に祈りを捧(ささ)げるのではなく、逆に今あるものに対して感謝を示すべきなのではないか。(マータイさん、京都で宗教学者の山折哲雄さんとの対談で)
*「もったいない」とともに、3Rの一つ、Reduceを表現した大和言葉「腹八分」も取り上げていただけたらと思う。「腹八分」は消費を抑制し、食欲・欲望をコントロールするということ。欲望を100%主張するのではなく、二分(にぶ)つまり20%は禁欲して、それを欲望、消費の抑制に役立てるとともに、できればその抑制したものを他の人に分け与えるという意味が含まれている。(山折さん、同上の対談で)

▽「もったいない」(2) ― 「いのち」というファミリーの絆 

*これから世界各国で不足になる資源は清潔な飲料水だろう。すでに多くの地域で緊張が生じている。私はヒマラヤの氷河が解けている実態をこの目で見てきた。アフリカのキリマンジャロや北極圏の氷も解けだしている。このままでいけば近い将来、水を奪い合う時代が到来する。日本とアフリカは地理的には距離があるけれど、実はこういった意味で強くつながっている。環境問題を理解することは、お互いのつながり、関連性を十分に理解すること。私たちは「いのち」という一つのファミリーの絆で結ばれている。(マータイさん、東京で開かれたシンポジウム「21世紀の環境と平和を語る~いま、私たちに何ができるか」で)
*仏教に由来する「もったいない」(勿体無い)は物の持つ本来の価値を無にしてしまうことが惜しいという意味だ。「戦争をすることこそ、本当にもったいない」。唯一の被爆国、日本の「もったいない」が世界平和の役割を担うことは、単なる偶然ではない。それは私たち日本人の使命だと思う(毎日新聞・MOTTAINAIキャンペーン 事務局長・真田和義さん)

〈安原の感想〉 地球規模の視点で「もったいない」の再定義を
「もったいない」(勿体ない)の本来の意味は、モノの価値を無駄にしないように使いこなす、ということである。だから使い切らないで捨てるのはもったいない、という感覚である。このように我々日本人の「もったいない」観は個人レベルの視点に閉じこめている印象さえある。
 ところがマータイさんの手に掛かると、視点が一挙に地球規模に広がっていく。〈MOTTAINAIを世界に広げたい〉、〈「環境と平和」に向けたメッセージ〉、〈森林や文化の価値を再評価すること〉、〈(地球上の)「いのち」という一つのファミリーの絆〉などの視点にそれが表れている。
毎日新聞・キャンペーン事務局長の〈「戦争をすることこそ、本当にもったいない」〉もマータイさんに負けず劣らず斬新な視点となっている。戦争こそが人命だけでなく、環境、資源、エネルギーを浪費し、破壊するからである。こうして「もったいない」の視点を地球規模に広げる再定義が進みつつある。もっと進めたい。

▽ 知足・共生と仏教経済学

 ここで下野新聞(05年3月20日付)掲載の〈学問のススメ ― 仏教経済学〉と〈「もったいない」を心に〉と題する私(安原)の記事(大要)を二つの小見出しとともに紹介する。当時私は足利工業大学で経済学を講じていた。その縁で同じ栃木県の地元紙、下野新聞に寄稿したこの記事はマータイさんが05年2月に初来日したことにも触れている。

 知足と共生と
 仏教経済学は仏教を経済に活かすことをめざす新しい考え方である。仏教のキーワードに知足(ちそく=足るを知ること)がある。これは「もうこれで十分」と考えて、簡素のなかに充実した生き方を求める知恵である。
 仏教経済学は、仏教の知足や共生の知恵を活かしながら、現実の経済社会をどう改革するかを模索する学問ともいえる。身近な例を挙げれば、「もったいない」というモノやいのちを大切にする心を生活や経済のなかで実践することである。これが地球環境の保全にもつながっていく。
 2月に来日したケニアの環境保護活動家でノーベル平和賞受賞者、マータイ女史は「日本文化に根ざした〈もったいない〉という言葉を世界語にしたい」と繰り返し語った。有難いことに彼女は仏教経済学の伝道者として行脚(あんぎゃ)していただいたことになる。

 貪欲を超えて
 このように仏教経済学は単なる研究のための学問ではない。「世のため人のため」に貢献する実践学であるから、これほど挑戦に値する分野もそう多くはないだろう。
かつての私の経済記者時代を振り返ると、「カネ、カネ」、「もっと経済成長を」という貪欲(どんよく)、つまり「もっともっと欲しい」という欲望肥大症にかかった喧騒の巷(ちまた)をうろついていた自分を発見する。仏教経済学に挑戦するからには、そういう過去からきれいに卒業しなければならない。私自身の貪欲から知足への転換のすすめである。
 囲碁を趣味とする者として、最近囲碁と仏教とは深くかかわっているような気がしている。囲碁を楽しむためには知足と和と平和共存の精神が欠かせない。貪欲に闘争一本槍の気構えで相手を叩き伏せようとすれば、作戦は破綻(はたん)する。しかし平和共存の構えで、ほんの少しだけ勝てば十分という知足の心で向き合えば、勝率は高いし、お互いに愉快なひとときを味わえる。(以上、引用)

 マータイさんは初来日以来、地球規模で「MOTTAINAI」精神の普及のための行脚を続けている。「もったいない」精神の本家本元は日本だから、本来なら日本人である我々が普及運動を進めるべきである。マータイさんには深く感謝しなければならないだろう。


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食事前の「いただきます」とは
連載・やさしい仏教経済学(1)

安原和雄
仏教経済学の特色は三つある。第一は仏教経済学は宗教そのものというよりは社会・人文科学の一角を担うものと考えていること。仏教思想にみる宇宙・現世の真理を応用し、生かす経済学、すなわち仏教経済学と捉える。第二は知識としての仏教経済学ではなく、変革を実践していくための仏教経済学ということ。世直しのための新しい経済学ともいえる。第三は既存の経済学(自由市場原理主義、ケインズ経済学など)を批判する視点に立つ経済学であるということ。
 もう一つ付け加えれば、仏教経済学は特定の教科書がまだ出来上がっていない。だからこの「やさしい仏教経済学」は私(安原)の構想する仏教経済学といえる。先達の構想、業績に学ぶところ大なるものがあることはいうまでもない。
 以上のような趣旨で「連載・やさしい仏教経済学」を始める。随時掲載していく。「やさしい仏教経済学」と名づけたのは、質に配慮しながら表現はできるだけやさしく、という願いからである。
 1回目は〈食事前の「いただきます」とは〉。(2010年4月16日掲載。公共空間「ちきゅう座」、インターネット新聞「日刊ベリタ」に転載)

 「仏教経済学ってなに?」と疑問に思っている人が少なくないことは十分承知している。ただ駒澤大学仏教経済研究所が設立されてからすでに40年余にもなる。仏教経済学を論じている著作として、シューマッハー著/小島慶三ほか訳『スモール イズ ビューティフル』(講談社学術文庫)があり、原文(英文・1973年刊)の著作は世界的なベストセラーにもなった。インターネット(グーグル)で検索してみると、総検索件数は「仏教経済」約190万件、「仏教経済学」約70万件で、決して少ない件数ではない。

▽ 「いただきます」は日本の文化

 日常の暮らしの中でとかく大切なことを見逃してはいないだろうか。毎日の暮らしの中で心掛ければ、もっとこころ豊かな生活を身につけることもできる日常用語が少なくない。「いただきます」、「もったいない」、「お陰様で」の3つである。『広辞苑』(岩波書店)によると、以下の説明が付いている。
 *いただきます=出された料理を食べ始めるときの挨拶の言葉
 *もったいない(勿体ない)=神仏などに対して不届きである。過分のことで畏(おそ)れ多い。そのものの値打ちが生かされず無駄になるのが惜しい。用例「捨ててはもったいない」
 *お陰様で=相手の親切などに対して感謝の意を表す挨拶語
 しかし以上の広辞苑の説明は十分とはいえない。

 ここでは「いただきます」についてその本来の意味を考えてみたい。
 まず「いただきます」とは何をいただくのか。食事をいただく、と多くの人は考えているが、それだけでは十分な説明にはなっていない。正しくは動植物の生命(いのち)をいただくのであり、それに感謝する言葉である。
 さらにもう一つ、折角いただいたいのちを大切にして、生かしていくという意味も込められている。できることなら「世のため人のためにお役に立ちたい」と考えることである。利他主義の実践ともいえよう。

 「いただきます」に相当する英語は何だろうか。正解は、そういう英語はない、である。あえていえば、Everything looks so delicious.であろうか。しかしこの表現では日本語の「いただきます」に本来込められているいのちの尊重、感謝の心は浮かび上がって来ない。そういう意味でも「いただきます」は日本人の心であり、文化であると再評価し、大いに広めていく必要がある。

 私(安原)のささやかな体験を紹介したい。10年以上も前、曹洞宗の開祖、道元(1200~1253年)の建立になる永平寺(福井県)を訪ねた折りのことである。次々と観光バスで乗り込んでくる観光客を相手にお坊さんが仏教講話を始めた。その内容は次のようであった。
 「皆さん、食事の前にいただきます、と言うでしょう。この意味はお分かりですか」と。あえて手を挙げて答えようとする者はいなかった。やがてお坊さんは言った。「動植物のいのちをいただくという感謝の気持ちの表れです。肉や魚はもちろん米や野菜にもいのちがあります。そのいのちをいただいて、そのお陰で人間は自らのいのちをつないでいる。だから食事はお陰様で、有り難い、という感謝のこころでいただくものではないでしょうか」と。
 私が「なるほど」と思い、注目したのは、この話を聞いた観光客たちの人波が老若男女を問わず、真剣な表情で大きく何度もうなずいていたことである。私はここに日本人のこころがあり、日本の文化があると納得した。

▽ いのちを尊重し、感謝すること

 このような「いただきます」の深い意味を理解することは、次のような認識と実践につながっていく。
(1)人間だけでなく、この地球上の動植物も含めた「生きとし生けるものすべてのいのち」を認識し、尊重すること。
(2)人間は動植物など他のいのちあるものとの相互依存関係の中で生かされていることを理解し、他者への感謝のこころが芽生えてくること。

 ところが第二次大戦後のモノとカネの拡大を追求する高度経済成長時代、さらに飽食、つまり食べ物がありあまる中で多くの日本人はこの「いただきます」という言葉がもつ深い意味(含蓄)が理解できなくなってしまった。食べ物のいのちに無頓着になれば、やがて人間のいのちの軽視へと走るのは避けがたい流れである。20世紀末以降、いとも簡単にいのちを奪う凶悪犯罪が目立つのは、以上のことと決して無関係ではないだろう。

 ここで「いただきます」に関連して食べ残しの問題を考えたい。
 家庭の台所ごみの中の残飯、さらにファミリーレストランなど外食産業での残飯は日常的光景である。お客の半分の人が食べ残しをするというデータもある。この食べ残しは何を意味するのか?
 何よりもいのちの軽視である。
 食べ残しを平然と行う人は、「いただきます」の含蓄が分からないだけでなく、食事前に唱えたこともないのだろう。食べ物にはいのちが宿っていることを考えれば、食べ残しはそのいのちを粗末にすることである。

 仏教に不殺生戒、つまりいのちあるもののいのちを奪ってはならないという戒めがある。しかしそのいのちをいただかなければ、人間は自らのいのちをつないでいくことができない。これは大きな自己矛盾である。どうしたらいいのか。
 まず必要以上のいのちの殺生をしないことである。むさぼる貪欲(どんよく)を否定し、「これで十分」と心得る知足(足るを知ること)に徹する必要がある。もう一つ、だからこそ感謝のこころを抱いて食べ物のいのちをいただくという姿勢が大切となる。

▽ 「有り難う」と言ってみよう

 いのちを軽視すれば、人や自然と共に生きるという「共生」の感覚も薄らぐ。また人や自然に対して「お陰様で」、「有り難い」という「感謝」の気持ちをもつことができない。最近、若者に限らず大人からも「有り難う」という感謝のことばをあまり聞かなくなったように思うが、どうだろうか。

 東京・日比谷公園脇のホテルで開かれた結婚披露宴に招かれたことがある。最近は仲人を立てない結婚式が増えており、この披露宴も仲人のいない自作自演であった。新婚夫婦の紹介も、お互いに相手の「人と為(な)り」を語り合うという方式で、そのとき新婦が次のセリフを口にしたのが気に入った。
 「お父さん、お母さん、二人が出会ってくれて有り難う。そして私を生んでくれて有り難う。そのお陰で夫となる彼と出会い、今ここに私と彼がこうして手を取り合っている」と。

 これは感謝の気持ちの見事な表現である。今日薄らいでいる感謝のこころを日常生活の中にどのようにして取り戻していくか、いいかえれば人間のこころをどのようにして回復するかが大きな関心の的になって欲しい。日常生活の中でもっともっと「有り難う」を表現するようにしたい。口に出して言えないのであれば、こころでつぶやくだけでもいいではないか。これも不言実行のひとつである。


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根深いセンセーション・シーキング病
ほくそ笑むのは米日軍産複合体か

安原和雄
 「センセーション・シーキング」病という名の現代病が広がりつつあるのをご存じだろうか。いつもハラハラ緊張し、死と隣り合わせのところに自分を追い込まないと、生きている実感がわかない、という新しい病(やまい)で、今年のアカデミー作品賞など多くの賞を獲得した映画「ハート・ロッカー」がその実像に迫っている。
 問題はこの種の現代病を歓迎し、ほくそ笑んでいるのは一体誰か、である。平穏無事の日常生活を望んでいる一般の市民や庶民であるはずはないだろう。それは戦争で荒稼ぎをもくろむ戦争勢力ともいうべき米日軍産複合体の存在以外には考えにくい。新型現代病の根深い底流に着目したい。(2010年4月8日掲載。公共空間「ちきゅう座」、インターネット新聞「日刊ベリタ」に転載)

▽ 日米共通の現代病 ― 死と隣り合わせに自分を追い込む

 海原純子さん(心療内科医)の「緊張でしか生きられない」という見出しのコラム(毎日新聞「日曜くらぶ」=2010年4月4日付=掲載の「一日一粒・心のサプリ」から)を読んで考えさせられた。まずその記事(大要)を紹介する。

 今年のアカデミー作品賞を獲得した映画「ハート・ロッカー」は、ハーバード大の研究室で話題になっていた。なにが話題だったかというと、映画の主人公の性格傾向だ。
戦争映画や残酷な場面のある映画は絶対に見ないが、「見て感想を聞かせてよ」と言われたこともあり、自分の専門分野である性格傾向のことでもあり、意を決して見てきた。イラクで爆弾を処理する兵士が主人公。彼は死を恐れず、あえて危険な場面に自分を追い込んでいく。

 戦場で驚異的な数の爆弾を処理する有能な兵士だが、部下との関係はよいとはいえない。そして、問題となる彼の性格傾向だ。なるほどと思ったのは、彼の性格が、アメリカで最近問題となっている「センセーション・シーキング」という傾向だということだ。
この傾向は、絶えずハラハラ緊張していないといられない、ゆったり過ごすことができず、車を暴走させたり、酒やドラッグ(麻薬)におぼれ、死と隣り合わせのところに自分を追い込まないと生きている実感がわかない、というものだ。事故や犯罪につながることも多いので、「センセーション・シーキングで死に向かうのはやめよう」というキャンペーンがテレビ放送されているほどだ。

 映画の主人公は、まさしくこれに当てはまる。戦場にいないとき、彼はゆったりと過ごせない。戦場でも現場が終わると、大音量で音楽を聴き、たばこをふかし、部下と殴り合いをしないではいられない。
一般社会では問題児のはずの彼が戦場では英雄。戦争でしか彼は生きた実感を味わえないのだろうか。アメリカ社会の心のひずみを描いている。戦争というゆがみが結果主義の国の生んだ心のゆがみと共存する皮肉が痛い。ゆったりと時を過ごせない若者は、日本でも増えている。問題は根深い。(以上は引用)

 ここに出てくる「センセーション・シーキング」は専門用語では「性格傾向」なのだろうが、普通の感覚で翻訳すれば、明らかに「現代病」である。しかも死と隣り合わせのところに自分を追い込んでいくという病(やまい)である
 コラム末尾の「一般社会では問題児のはずの彼が戦場では英雄。戦争でしか彼は生きた実感を味わえない。(中略)戦争というゆがみが結果主義の国の生んだ心のゆがみと共存する。ゆったりと時を過ごせない若者は、日本でも増えている」という指摘は、この深刻な現代病が日米共通のものになってきていることを示唆している。たしかに「問題は根深い」といえる。

▽ 浮かび上がってくる米日軍産複合体 ― 「軍事同盟」を軸に

 さてこの記事を読んで何を連想するか。「センセーション・シーキング」病をつくり出している存在は何か、この現代病の陰でほくそ笑んでいるのは一体誰か、である。私(安原)は直ちに米日軍産複合体の存在が脳裏に浮かんできた。
 「一般社会では問題児だが、戦場では英雄であり、しかも戦争でしか生きた実感を味わえない」という人間像を歓迎するのは、一般の市民や庶民ではない。それは戦争推進勢力以外には考えにくい。ズバリ言えば、米日軍産複合体という存在である。

 ここで「アイクの警告」を思い出したい。半世紀も昔のことだが、1961年1月、アイクこと軍人出身のアイゼンハワー米大統領がその任期を全うして、ホワイトハウスを去るにあたって全国向けテレビ放送を通じて有名な告別演説を行った。
 その趣旨は「アメリカ民主主義は新しい巨大で陰険な勢力によって脅威を受けている。それは〈軍産複合体・Military Industrial Complex〉とでも称すべき脅威であり、その影響力は全米の都市、州議会、連邦政府の各機関にまで浸透している。これは祖国がいまだかつて直面したこともない重大な脅威である」と。

それまで闇に包まれていた「巨大で陰険な勢力」の存在がにわかに浮上してきた。軍部と産業との結合体である「軍産複合体」の構成メンバーは、今日ではホワイトハウスのほか、ペンタゴン(国防総省)と軍部、国務省、CIA(中央情報局)、兵器・エレクトロニクス・エネルギー・化学などの大企業、保守的な学者・研究者・メディアを一体化した「軍産官学情報複合体」とでも称すべき巨大複合体として影響力を行使している。
 ブッシュ前米大統領の「イラン、イラク、北朝鮮は悪の枢軸」という悪名高い言を借用すれば、「悪の枢軸・軍産複合体」と名づけることもできよう。

 これが特にブッシュ前米政権下で覇権主義に基づく身勝手な単独行動主義を操り、「テロとの戦争」を口実にアフガニスタン、イラクへの侵略戦争を行うなど、世界に大災厄をもたらしてきた元凶といっても過言ではない。
 オバマ米大統領はイラクからは米軍を撤退させるが、アフガニスタンへはむしろ米軍を増派している。このような「終わりなき戦争」の持続は、戦争ビジネスを拡大し、国家財政を食い物にしようとする軍産複合体との妥協の産物というほかない。オバマ大統領が唱える「核兵器の廃絶」の成否も、大統領自身が軍産複合体とどこまで戦うのか、にかかっている。
 一方、地球上の発展途上国で多発している内戦(政府軍と反政府軍との戦争)は、米国主導の侵略戦争とは異質であるが、米国の軍産複合体が兵器輸出によってその内戦を煽っている側面もあることを軽視するわけにはいかない。ここでは兵器輸出という名の戦争ビジネスがかかわっている。

 米国版軍産複合体という権力集団に追随しているのが日本版軍産複合体である。米国ほど巨大ではないが、その構成メンバーは、首相官邸、国防族議員、防衛省と自衛隊、外務省、エレクトロニクスを含む多様な兵器メーカー、保守的な科学者・研究者、さらに大手新聞・テレビを含むメディア ― などである。
 一口にいえば、日米安保体制=軍事同盟容認・推進派のグループである。しかも日米安保体制=軍事同盟を軸に日米両国の軍産複合体が一体化しているところに特色がある。

▽ 民主党政権下の日本版軍産複合体(1) ― 骨抜きの非核3原則

民主党政権の誕生によって、日本版軍産複合体に変化がみられるだろうか。有り体にいって答えは「否」というほかない。自民・公明政権時代に比べると、民主党政権内に多少の意見の食い違い、迷いはみられるものの、大筋では大差ないと診断できる。その根本原因は民主党政権も日本版軍産複合体の存立基盤となっている日米安保体制そのものに改変のメスを入れようとする姿勢はうかがえないからである。

 例えば「日米核密約」についてはどうか。先に公表された外務省有識者委員会の「密約」報告書などで、その実態がかなり明らかになってはいるが、すべてが白日の下にさらけ出されたわけではない。重要なことは自民党政権以来の日本政府の非核3原則(核兵器を持たず、作らず、持ち込ませず)をどこまで貫くことができるかである。
 特に「持ち込ませず」、すなわち核兵器搭載の米艦船の日本への寄港・通過を拒否するのかが焦点だが、実態としてはそれを黙認し、「持ち込ませず」が骨抜きになっている。これでは非核3原則に抜け穴があるわけで、非核3原則が「国是」である以上、本来なら法制化して厳守すべきであるが、民主党政権にも自民党政権と同様にそういう意欲はみられない。

 もう一つは沖縄の米軍普天間基地の移設問題である。民主党の先の衆院選挙マニフェスト(政権公約)では「県外・国外移設」をうたっていたが、周知のように沖縄県内案も浮上して迷走している。日米安保体制を容認する立場を変えない限り、このように迷走することは分かっていたことではないのか。いくつもの案が次々と提案されているだけではない。この基地建設には巨額のカネが動くだけに利権にうごめく構図も見え隠れしている。多様な意見を競い合う「百家争鳴」というよりも、私利第一に執着する「百鬼夜行」の観さえある。

▽ 民主党政権下の日本版軍産複合体(2) ― 権力と馴れ合う大手メディア

 さらに見逃せないのは、昨今の大手メディアの論調である。日米安保体制を根本から批判する大手メディアは今や皆無に近い。その意味では「<国家権力=日米安保>と馴れ合う大手メディア」と表現するほかない。多くのメディアは日本版軍産複合体の有力な一角を占めるに至っている。だから単純な「軍産複合体」ではなく、情報分野なども抱え込む「軍産官学情報複合体」と捉えなければ、その正体はつかめない。

 例えば大手メディア、A紙は今年元旦の社説で「同盟という安定装置」という小見出し付きで次のように書いた。
 「いざというときに日本を一緒に守る安保と、憲法9条とを巧みに組み合わせる選択は、国民に安心感を与え続けてきた」と。

ここでは4つの疑問点を指摘したい。
 まず「日本を一緒に守る安保」について。
 かつての米軍のベトナム侵攻、今のイラク、アフガンでの軍事力行使は在日米軍基地が侵攻のための基地として利用されてきたし、目下利用されている。この現状をどう捉えるのか。これは日本を守るためなのか。今日イラク、アフガンが日本を攻撃するのを阻止するために米軍が出動しているとでも認識しているのか。そういう話は寡聞(かぶん)にして知らない。
 つぎに「憲法9条とを巧みに組み合わせる選択」について。
 ここでの憲法9条は本来の9条の理念(非武装、交戦権の否認)が事実上骨抜きになっていることをどう考えているのか。骨抜きになっている9条でなければ、軍事同盟としての安保とは両立できないだろう。

 もう一つ「国民に安心感を与え続けてきた」について。
 安心感とは不可解な感覚である。憲法9条本来の理念をよみがえらせたいと願う「憲法9条の会」が全国で何千と結成されており、しかも米軍基地周辺の住民がどれだけ犠牲になり、苦痛を強いられているか、を考えたことはないのか。一体どこに「国民にとっての安心感」があるというのだろうか。
 安心感を抱くグループがあるとすれば、それは米国仕込みの軍事的安全保障観を身につけた日米安保容認・推進グループだろう。

 それに「同盟という安定装置」の表現も理解に苦しむ。「同盟」を仲良しクラブとでも思っているのだろうか。戦争のための軍事同盟である以上、「不安定装置」あるいは「暴力装置」と捉えるべきではないか。
 昭和10年代の日独伊3国軍事同盟を想起したい。当時の朝日、毎日などの大手紙は、3国同盟を擁護し、戦争を煽った。昭和20(1945)年の敗戦とともに新聞はその過ちを反省し、再出発した経緯がある。その初心はどこへ捨てたのか、いま再び軍事同盟を容認する姿勢を打ち出しているとは情けない。

もっとも軍事同盟の容認・推進派のメディアといえども、建前は「平和のため」であり、単純な戦争賛美に直結しているわけではない。またセンセーション・シーキング病を積極的に歓迎する視点も目下のところ希薄であるだろう。しかし指摘する必要があるのは、軍事同盟の容認・推進派に、センセーション・シーキング病でゆがめられた人間像を批判し、克服する視点を期待するのは、しょせん無理だろうということである。批判力を失った姿勢が行き着く先は、悪しき現状の追認となるほかない。そういう既成事実の積み重ねが望ましい歴史的選択を誤らせてきたことを歴史は教えている。


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仏教小説『暴風地帯』を読んで
風力発電派と原発派の抗争の果てに

安原和雄
 サスペンス・ミステリーでありながら、その実、読み応えのある仏教小説として描かれている作品が登場した。中村敦夫著『暴風地帯』である。原子力発電廃棄物処分場の誘致派と、再生可能な自然エネルギーの一つ、風力発電の推進派との抗争が作品の筋立てとなっており、突如発生した猟奇殺人事件の謎に主役の僧侶が挑んでいく。
 少欲知足などの仏教説法も随所に織り込まれており、これまでの多くのサスペンスものとは異質の作品に仕上がっているだけではない。最新の葬式スタイルである自然葬にも触れているところは、葬式仏教で不評を買う仏教界そのものへの警鐘ともなっている。(2010年4月2日掲載。公共空間「ちきゅう座」、インターネット新聞「日刊ベリタ」に転載)

 中村敦夫(注)著『暴風地帯』(角川書店・2010年3月25日初版発行)の筋書きを紹介すると ― 。
 房総の港町で、発電用風車に吊された女性の全裸死体が発見された。同時に被害者が所属する風車住民組織の理事長が行方不明になった。その背後に自然エネルギー開発と原発廃棄物処分場誘致をめぐる争いがひそんでいる。前代未聞の猟奇殺人事件の闇に僧侶で、元警視庁捜査一課長の法舟が迫る。
 この筋書きからすれば、明らかにサスペンス・ミステリーであるが、主役として登場するのは僧侶であり、ミステリーに深みを添えた仏教小説ともなっている。以下では僧侶が説く仏の教えのいくつかを紹介する。

(注)著者は1940年東京生まれ。東京外国語大学中退後、劇団俳優座へ。72年、主演テレビドラマ「木枯らし紋次郎」がブームを呼ぶ。その後、参議院議員に当選、「みどりの会議」代表として環境問題に取り組む。2004年政界を引退し、現在日本ペンクラブ環境委員長。

▽ 温かいお粥をいただく幸せ

 まず僧侶(僧と略す。以下同じ)の法舟と寺男(てらおとこ)とのやりとりを中心に紹介する。

 土鍋の粥が炊き上がると、法舟は茶筒に入れてあったカタクチイワシのイリコを振りかけた。あとは常備食の梅干しとたくあんだけである。両方とも、法舟自身がつけたものだった。梅は寺の老木から摘んだもの、大根は契約農家からくる有機野菜である。

僧「これが本当のぜいたくというものだ。そう思わんか? 世界一の健康食品。栄養もカロリーも充分で、しかも味わい深い。見かけは質素だが、内容は豪華だ。分かるか?」
 「和尚、たまには焼き肉を喰いたいとか思わんのですか」
僧「肉は要らん。特に牛肉は喰いたくない」
 「どうしてです?」
僧「牛肉を1キロ作るのに、牛は7キロの穀物を食べるそうだ。人口がどんどん増え、経済大国の人間が不健康な食文化に染まり、メタボがどんどん増えていく。メタボに喰わせる食用牛がもっと必要になれば、飼料用穀物の需要も増える。穀物を作るため土地開発をやる。アマゾンの森林などはどんどん減っているそうじゃ。そればかりじゃない。穀物は家畜の餌として貿易用商品となり、地元の農民には高すぎて口にも入らなくなっとる。今や、飢えに瀕している人が9億人にものぼるそうだ」
 「そんなにひどいんですか。そう考えると、こうして温かいお粥をいただけるなんて、ずいぶん幸せなことなんですねえ」
僧「その通りじゃ。少欲知足 ― 少ない欲望を充(み)たして、足るを知る。釈迦の教えは、ますます重みを増してくる」

▽ 人生は、なかなか思い通りにはならぬ

僧と被害者の母親、夏子との対話を紹介する。

 「和尚さんと私、昨日まで見ず知らずの他人でした。それが、この時間にこんな場所で一緒にいる。おかしいですね。何で、こうなるんでしょう」
僧「仏教では〈因縁〉と呼びましてな。それぞれの過去の行為、つまり〈業〉の結果、様々な関係ができるということです」
 「でしょうね。私の行いはろくなものじゃなかったから」
僧「そんな風に、自分だけを悪く思わんほうがよろしい。お釈迦さまは、人間は生まれたときから苦を背負っている。四苦八苦という言葉がありますな。人生は、なかなか思い通りにはならぬと説いておられる、皆、似たり寄ったりだ」
 「すると、人間はだれも幸せになれないんですか」
僧「少欲知足。生きていく上での小さな欲望を充たすだけで、足るを知る。そうすれば、肩の重荷がおりる。貪欲にしがみついている限り、苦痛や悩みは絶えない」

 「いつまで経っても、わたしってダメ人間なんですねえ」
僧「そんなことはありませんよ。同じところに留まっている人間なんておりません。〈諸行無常〉といいましてな。人間でも動物でも岩でも、あるいはさまざまな事象も、すべては刻々と変化し続け、同じところに留まることはない。だから、あれしかない、これしかないというようなこともないのです」
 「諸行無常ですか・・・」
 夏子は、ポツンと呟いた。

▽ 犯罪、戦争、環境破壊は煩悩から起こる

ここでは主役の僧、法舟の「煩悩と犯罪、戦争、環境破壊」論を紹介する。

 坐ること(坐禅)の最大の目的は、無我無心になることである。しかしこれがなかなか難しく、年季の入った法舟といえども、いつもうまくゆくとは限らない。
 法舟の方程式からすれば、すべての犯罪は煩悩から起こる。煩悩とは、各種の欲望と執着である。金銭欲、物質欲、名誉欲、性欲、食欲などだが、それが度を越えると、個人的には犯罪へ、社会的には戦争や環境破壊にまで至る。釈迦は2500年も前にそのことを指摘し、〈少欲知足〉を説いた。

以下は、僧と寺男との対話である。

僧「拙僧は、まだ修行が足りなくてな。信長に焼き殺された恵林(えりん)寺の快川(かいせん)国師のように、〈心頭滅却すれば火もまた涼し〉とはゆかん」
「和尚さんでも、地球温暖化には勝てませんか 」
僧「なかなか・・・・・」
 法舟は、首を横に振った。

▽ 巨大な利権の構図 ― 貪欲

 自然エネルギー専門家と僧との対話である。

自然エネルギーの専門家「〈ピークオイル〉という言葉がありましてね。つまり世界の石油の生産量が右肩上がりから、減少に転じる年です。発掘可能な石油は、現在の速度で消費すれば、あと40年分くらいしかありません。当然、いつかは生産量が減ってゆきます、そのピークオイルはあと数年と言われています。世界は代替エネルギーを開発せざるを得ません。世界の趨勢(すうせい)は、自然エネルギーに向かっています。それを一番恐れているのは、日本の電力マフィアです。つまり原発中心主義で暴走してきた政府、省庁、大手電力企業です。原発は、こんな小さな国土に世界第3位の55基、さらに4基を建設中です。しかも日本の企業は原子炉の生産を独占し、海外からの受注作戦を展開しています。巨大な利権の構図ができ上がり、原発主義者達は、一歩たりとも後退したくない。自然エネルギー構想は、彼らの恐怖の的なんですよ。聞くだけで、アレルギーが起きるようです」
僧「またしても利権ですか。貪欲(どんよく)の煩悩とはいえ、原発はこんな地震の多い国では危険きわまりない。ある雑誌で知ったのですが、大小の事故が毎週のように起きている。それをひた隠しにして、世論の批判を避けているそうですな」

▽ 執着が強いと、欲望も増幅する

 ここに登場する男、青次郎は、一体何者なのか?

 やがて、声も嗄(か)れ、涙もつきたのか、青次郎は静かになった。
 「和尚さん、教えてくれませんか。オレはなんでこう運が悪いんでしょう。がんばっても、がんばっても負けてばかり・・・」
 青次郎が、天井を見つめながら、力の抜けた声でポツリと言った。
僧「そう思い込むのは、自分への執着が強すぎるからでしょう。執着が強いと、欲望も増幅する。しかし、現実はその欲望を充たすようには動かない。そこで不満が溜まり、人生が息苦しいものになる。反対に、自分を取るに足らぬ存在だと認めれば、急に気持ちが楽になる。謙虚であることの良さが分かる。自分とは、あるようでないような存在。それが本当のところかも知れませんでな」
 「それが、色即是空、空即是色ですか・・・・・?」
僧「いやいや、そんな大げさな話ではありません」
 「下らねえ!」

 青次郎が、いきなり立ち上がった。
 「あんたのきれいごとなんて、オレにはまるで当てはまらねえんだよ。オレは生まれてこの方、ずっと呪われてるんだ。(中略)誰も彼も、よってたかってオレの足を引っ張ろうとする。オレには、人殺しでもするしか生き甲斐はない。なんでもっと早く気がつかなかった! 真面目に努力しようなんて、なぜ考えたんだ。自衛隊にでも入って、戦争に行きゃよかった。何人殺しても無罪だからな。戦争をやらないなら、機関銃で町の奴らを皆殺しにすりゃよかったんだ。そうだろ、和尚」
 青次郎は、興奮の極致に突入していた。
(この男、青次郎は、やがて近くの断崖から身を投げて自らのいのちを絶った)

▽ 自然葬 ― 檀家制度の壊滅へ

 自然葬とそれがもたらすだろう檀家制度の壊滅にも触れているエピローグを紹介しよう。次のように指摘している。

 極力儀式的な段取りを省き、遺灰を海や山野に撒布する。自然から誕生した生命を、その終焉(しゅうえん)に際して自然へ戻すという考えは、本来仏教的な発想である。
 ところが日本では、江戸時代に檀家制度が確立され、民衆が先祖代々の墓を護(まも)ることが慣習となった。安定収入を確保した寺院は、次第に布教という本来の使命を放棄し、儀式や墓地売買などの利権に執着するようになった。こうした傾向から生まれる僧侶たちの道徳的腐敗は、人々の大きな反感を呼んできた。
 加えて、核家族化による〈家〉の崩壊は、人々の〈寺離れ〉を加速している。その新しい表現の一つが、自然葬という形式である。(中略)
 仏教界がこのままで推移すれば、長期的にみて、檀家制度は壊滅するだろう。

人間の欲望には限りがなく、それを追求することが生き甲斐であるという哲学が、社会を狂気に導いている。それは、人間に暴力と異常行為を引き起こさせ、本来備わっているはずの仏性を追放する。
 釈迦は、2500年も前にそれを見抜き、〈少欲知足〉を説いた。だが文明の発達と逆比例して、人間社会の貪欲はますます肥大化し、その行動は醜悪になってゆく ― と。

▽ 〈安原の感想〉 ― 繰り返し説かれている「少欲知足」

この作品はサスペンスものでありながら、仏教の「少欲知足」が繰り返し説かれているところがユニークといえる。「少欲知足」を説くことによって、逆に人間の貪欲(どんよく)に基づく行動がいかに醜悪であるかが浮き上がってくる仕掛けになっているともいえよう。

 釈迦は少欲知足をどう説いたのか。
 少欲は、「多欲の人は多く利を求めるため、苦悩もまた多い。少欲の人は求めることなく、欲もないため、患(わずら)いはない」である。
 もう一つ、「少欲の人は、諂曲(てんごく)して人の意を求めることもない」、つまり権力などに諂(へつら)わず、自分を曲げないで毅然とした生き方ができる、とも説く。
一方、知足については「不知足の者は富んでいるようにみえても、実際は貧しい。知足の人は貧しいといえども、富む」と。知足は貧乏のすすめではない。「これで十分」と受け止めて、「足るを知ること」は豊かだという意である。

 釈迦の教えに反して少欲知足を忘れ、煩悩、欲望が度を越えると、「個人的には犯罪へ、社会的には戦争や環境破壊にまで至る」と主役の僧は指摘している。だからこそ少欲知足の生き方に徹すれば、犯罪も減るし、環境の汚染・破壊も起こらないし、戦争もなくなる。つまり非暴力=平和をつくっていくこともできると言いたいのである。正論である。

 さてお寺さん達の少欲知足はどうなっているのか。江戸時代から続く檀家制度に甘んじて、個性を競い合う良質の競争意識を失い、法外のお布施に依存する葬式仏教はたしかに「人々の大きな反感」さえ招いている。この貪欲ともいえる葬式仏教のシステムが改革されない限り、反・葬式仏教、そして檀家制度崩壊への流れは、加速されることはあっても、弱まることはない。


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