「もっともっと欲しい」の貪欲の経済から、「足るを知る」知足の経済へ。さらにいのちを尊重する「持続の経済」へ。日本は幸せをとりもどすことができるでしょうか、考え、提言し、みなさんと語り合いたいと思います。(京都・龍安寺の石庭)
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新聞投書にみる心温まる話題
〈折々のつぶやき〉52

安原和雄
 想うこと、感じたこと、ささやかに実践していること ― などを気の向くままに〈折々のつぶやき〉として記していきます。今回の〈つぶやき〉は52回目。題して「新聞投書にみる心温まる話題」です。(2010年3月27日掲載。公共空間「ちきゅう座」に転載)

 以下は、朝日新聞・「声」欄、毎日新聞・「みんなの広場」に掲載された読者の投書(2010年1月~3月)です。投書はそれぞれが昨今の世相を反映していて、うなづいたり、感心したり、教えられたり、することが多いのですが、ここで紹介するのは、心温まる話題の一部にすぎません。なお投書者名は省略させていただきました。

のどに飴玉、坊や救った運転士 (川崎市 主婦 75歳)
 川崎市営バスに母親が5、6歳の男児と3歳くらいの女児を連れて乗っていました。突然、坊やの方が、死んでしまうかと思うくらい急に苦しがりだしたのです。車内は騒然となり、バスの運転士が「どうしましたか」と声をかけながら停車し、客席に駆け寄ってきました。一瞬でした。運転士は、ものすごい勢いで坊やを左腕に抱え上げたかと思うと、その背中にドスッとすごい一撃を加えたのです。すると、飴玉(あめだま)がポロリ、床に落ちました。私は思わず、音を立てずに拍手しました。
 運転士は「訓練してますから」と乗客一同に告げると、大声で泣き出した坊やに「痛かったね、ごめんね、こめんね」と謝りました。
 何とも鮮やかで、勇気と優しさにあふれた運転士さんの行動に、私はいたく感心しました。(朝日新聞1月25日付)
〈感想〉「痛かったね、ごめんね、こめんね」と謝ったところがなかなか真似のできないところで、たしかにここには勇気と優しさがうかがえます。

忘れた財布、機転で持ち主へ (東京都八王子市 会社員・女性 52歳)
 駅でドアが開いたとき、おしゃべりに夢中だった4、5人の女子高校生が「あ、ここじゃないの」。慌てて降りたあとの座席に財布が一つ。「あの子たちの・・・」と気づいた女性が言ったとき、ドアが閉まりました。
 手遅れと思ったら、ドア近くにいた30代の男性がすかさず窓を押し下げて開け、「これ、君のでしょ」。「あっ」と言いながら少女が駆け寄った時、電車は無情にも発車、2、3㍍進み、だれもが駄目かと思ったとき、男性は機転を利かせて財布を窓からホームに投げました。財布を手にした少女が見え、「よかったね」の声。拍手する人も。皆がほほ笑みました。
 毎朝の通勤電車では、押し合いへし合いで殺伐としていて不愉快なことばかりです。乗客同士のけんか、優先席では寝たふりと自分勝手な人が目立ちます。でも、今回は温かい気持ちになりました。(朝日新聞1月28日付)
〈感想〉 自分勝手が横行する世相の中で、一瞬の機転を利かせた人物は、ひょっとすると、剣道の達人かも知れません。

今も心に残る妊婦への気遣い (奈良市 主婦 48歳)
 妊娠9カ月まで事務の仕事をしていた私にとって、電車通勤は過酷でした。満員電車を避けるため、普段利用する急行ではなく、各駅停車に乗っていましたが、なかなか座ることができませんでした。大きなおなかでつり革につかまっていても、目をつぶって寝たふりをしている方など、ほとんどが見て見ぬふりという様子でした。
 ところがあるとき、「どうぞ」と席を譲ってくれた若者がいました。顔を見ると髪を真っ赤に染め、耳や鼻にピアスを沢山していました。私は少し目を丸くしながらも「ありがとう」と言って座らせていただきました。
 人を見た目で判断してはいけないと実感した体験だったと同時に、その気遣いが今も心に残っています。電車の揺れは妊婦には危険です。お気付きになったときは席を譲ってあげてほしいと思います。(毎日新聞1月31日付)
〈感想〉以前、バスの中で乗り合わせた茶髪の若者におもしろ半分に「茶髪だと、恋人をつくりやすいの?」と聞いたら、「関係ありません」という真面目な答えに「先入観は禁物」と気づいた経験があります。

乗り越し受験生送った駅長 (千葉県君津市 高校教員・男性 53歳)
 本校の入試の日、約160人の受験生の登校を準備万端整えて待っていました。その時。最寄りのJR久留里駅から電話があり、1人が乗り越してしまったらしいとのこと。
 列車の運行は1時間に1本程度のローカル線で、たとえ次の駅で下車しても折り返しの列車までかなり待つことになり、試験には遅刻してしまいます。また、あいにく次の駅は無人駅で、駅前にはタクシーもバスもありません。
 どうしたものかと考えていると、電話から次のような温かい声が聞こえました。「駅長が自動車で次の駅へ向かいました。学校まで間違いなく送り届けますから、安心してください」
 受験生は無事間に合いましたが、乗り越しに気づいてから次の駅までの間、どれほど不安な時間を過ごしたことでしょう。機転を利かせて下さった駅長さん、本当にありがとうございました。学校が地域の方々に見守られていることを誇りに思い、この町がますます好きになりました。(朝日新聞2月11日付)
〈感想〉ここでも「機転の物語」となっていて、関係者の安堵感が伝わってきますが、さて肝心の受験生はしっかり「感謝」したのでしょうか。

親切な靴屋さんに感激 (長野県高森町 農業・女性 80歳)
 久しぶりに旅行に出かけることになったので、毎日のようにはいているくたびれた靴が気になり、この際、一足新調しようと懇意の靴屋さんに出かけました。歩きやすそうな靴を探していると、店員の方がその靴ならまだまだ大丈夫、もちますよといって靴ずみをつけて磨いてくれました。10年前の牛革がピカピカに光って柔らかくきれいになりました。靴ずみだけ買って帰りました。
この靴はあちこち旅行して私の足にぴったりとなじみ、本当に歩きやすい靴でした。だが、もう寿命で廃棄しようとしていた私でしたが、親切な靴屋さんのおかげで楽しい旅ができました。
 買うときは少々高くても、いいものを大切に使いましょうということを教えられました。安かろう悪かろうの品が出回っている今日ですが、こんな親切な靴屋さんに感激しました。(毎日新聞2月17日付)
〈感想〉貪欲な私利私欲に走って、破綻はしたものの、今、復活を画策している市場原理主義者たちよ、靴屋さんの「お客様第一」の商法に見習ってはどうか、と言いたいですね。

バスの中での出来事に感動 (長崎市 女子中学生 13歳)
 バスに乗って帰宅する途中、お姉さんらしい少女と足が不自由な弟らしき幼児が乗ってきた。席が全部埋まっていたので2人が立っていたら、それを見た人が席を譲ってあげていた。
 少女は運賃を支払うために両替をしようとしたが、うまくいかなかった。すると近くにいた人が「私がやってあげようか」と声をかけ、代わりに両替をした。2人は笑顔で「ありがとうございます」と言った。
 私はとても感動した。たとえ他人でも、人は支え合って生きているのだと思った。支え合って生きる必要などない、という人もいるだろう。しかしバスの中の席の譲り合いなどで助けてもらった人は、やはりうれしいと思う。支え合いは必要ないという人が、困っているとき他人に助けてもらったらどう思うのだろうか。
 私は今回の体験を生かして、いつか困っている人に出会ったら迷うことなく助けてあげられる人になりたいと思っている。(毎日新聞2月18日付)
〈感想〉多くの人がなかなか気づこうとしない「人は支え合って生きている」という真理を感得した女子中学生に心から大きな拍手を送りたいと思います。

孫に手を振り返した運転士 (群馬県玉村町 公務員・男性 60歳)
 2歳の孫は走る電車と踏み切りが大好きです。(中略)踏切の警報機が鳴ると、それっと孫を抱いて線路脇に駆け寄ります。電車が迫ると孫の鼓動が高まります。
 先月もいつものように、孫は飽きもせず、疾走してくる電車に「わーっ」と両手を懸命に振っていました。すると、電車の運転士が手を振り返してくれたのです。一瞬でしたが、真っ白な手袋の右手が小さく左右に振られるのがはっきり見えました。こんなことは初めてでした。
 孫は電車が小さくなってしまうまで「バイ、バーイ」と手を振り続けています。私も何だか温かいものがこみ上げてきました。
 規則には抵触することかもしれません。しかし、こういった優しさがかっこ良さなのではないでしょうか。皆に慕われる運転士ではないかと思いました。これからも安全運転を続けてくれるでしょう。(朝日新聞3月8日付)
〈感想〉さり気ない手振りによる「いのち」と「いのち」の一瞬のふれ合いがもたらしてくれる感動でしょうか。

礼儀正しい中学生と先生に感心 (神戸市 主婦 70歳)
 バス停に行くと、制服姿の10人余りの中学生がベンチに腰掛けて待っていました。バスが来ると、引率の先生から「どうぞ」とうながされ、私たちが先に乗りました。部活動でもあるのか、生徒たちは大きなバッグを手に提げていました。そして後部座席に座り、がやがやと話をすることもなく、乗っていることを忘れてしまうほど静かにしていました。
 やがて目的地のバス停に着きました。すると、先生は「早く」と小声で指示して生徒たちを降ろした後、最後に「失礼しました」と乗客に一礼して降りていかれたのです。
 近ごろは、辺り構わず友達のように会話をする先生と生徒の姿をしばしば見かけます。私はこのようにマナーをわきまえた生徒と、先生の行き届いた指導に感心し、さわやかで心温まる思いがしました。このような立派な先生が一人でも多くおられ、未来を背負う子どもたちをしっかりと教育してほしいと願っています。(毎日新聞3月23日付)
〈感想〉そういえば、マナーの廃(すた)れた日本社会、という印象が強まっていますが、日本社会もまだ捨てたモノではないという希望が湧いてきます。

さて今、気づきましたが、紹介しました投書8編のうち、なんと6編が女性からの投書です。意図して女性優先の選択をしたわけではありません。結果としてそうなっただけです。ただ私(安原)は数年来、「21世紀は女性の時代」という印象を抱いています。図らずもここにもその事実が表れているようです。男性の一人として喜ぶべきことなのか、それとも・・・、このコメントは遠慮しておきましょう。


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地球環境時代にどう対応していくか
仏教経済学の視点から提案する

安原和雄
地球温暖化、熱帯林の減少、砂漠化など地球環境の汚染・破壊をどう食い止めるか。これは21世紀の地球環境時代に生きる我々に課せられた緊急のテーマである。「地球は人類を必要としないが、人類は地球なしには生存できない」という冷厳な真理を認識することが先決といえる。この認識を土台にして、仏教経済学の視点から望ましい対応策を提案したい。
 それは、「もったいない」精神の日常的な実践に始まり、平和憲法の理念を生かす「地球救援隊の創設」に至るまで多様な提案となっている。これらの提案を裏付けているのが、いのち尊重、非暴力、知足(足るを知ること)、利他、持続性 ― など、仏教経済学の唱える理念である。(2010年3月22日掲載。公共空間「ちきゅう座」、インターネット新聞「日刊ベリタ」に転載)

 「地球環境時代をどう生きるか ― 仏教経済学の視点から」というテーマで駒澤大学仏教経済研究所(所長・吉津宜英同大学教授)と仏教経済フォーラム(会長・寺下英明氏)共催の公開シンポジウムが3月20日午後、駒澤大学(東京・世田谷区)で開かれた。基調講演は私(安原)の担当で、パネリストとして吉田宏晢氏(大正大学名誉教授)、柴崎文一氏(明治大学教授)が参加し、司会役は工藤豊氏(仏教経済研究所所員)が努めた。約4時間にわたって活発な討論と聴講者との問答が繰り広げられた。
 以下、基調講演(大要)を紹介する。

▽ インターネット上での仏教経済学に対する認知度

 講演は3つの柱からなっており、それはつぎの通り。
Ⅰ.仏教経済学の八つのキーワード ― 現代経済学との比較
 <問い1> 仏教と経済はどう結びつくのか?
  仏教経済(学)=衆生済度+経世済民(経国済民)
<問い2> 宇宙、現世の真理は?
  空(縁起)観=諸行無常(万物流転)、諸法無我(相互依存)→ 現世での変革

Ⅱ.地球環境時代はどういう時代か ― 求められる「持続的発展」
 地球は人類を必要としないが、人類は地球なしには生存できない。温暖化、熱帯林の減少、砂漠化など地球環境の汚染・破壊をどう食い止めるか。
 仏教経済学の八つのキーワードを実践していく時代であり、特に地球環境時代のキーワード、「持続性=持続可能な発展」を経済、生活、安全保障などの分野に広めていくことが大切である。

Ⅲ.地球環境時代をどう生きるか ― 仏道(=仏教経済的精進)の日常化を
 「持続型経済社会」をめざして
 簡素な社会の構築=「貪欲・暴力の経済構造」(=過剰生産→過剰流通→過剰消費→過剰廃棄→資源・エネルギー浪費→地球環境の汚染・破壊→地球生命共同体の崩壊という悪循環の経済構造)から「知足・共生・非暴力の経済構造」へ転換を図っていく。

 さてインターネット(グーグル)で仏教経済学への認知度を調べてみよう。総検索件数をみると、「仏教」約540万件、「仏教経済」約190万件に比べると、「仏教経済学」は約70万件で、多くはないが、決して少ないわけではない。しかしビジネスマンたちに仏教経済学への理解度を聞くと、「お寺さんの経済のことか?」という程度の反応が少なくない。
 そこでまず次の疑問に答えたい。
<問い1>仏教と経済はどう結びつくのか? について
<答え>大乗「仏教」の目指すものは「衆生済度」(=人間に限らず、自然、動植物も含めていのちあるすべてのものを救済すること)であり、一方「経済」の意は「経世(国)済民」(この世、国を整えて、民を救うこと)で、双方ともに「いのちある民を救う」という点で結びついている。

<問い2>宇宙、現世の真理は? について
<答え>仏教思想では宇宙、現世の成り立ちは「万物流転」(すべては変化する)であり、同時に「相互依存」(すべてはそれぞれが独自に単独で存在しているのではなく、相互依存関係の中でのみ存在できるということ)によるという真理に基づいている。これが仏教が説く「空(縁起)観」で、だからこそ仏教思想による現世での変革が可能である、と考える。

▽ 仏教経済学の八つのキーワード ― いのち尊重、非暴力、知足など

 ここでは<Ⅰ.仏教経済学の八つのキーワード ― 現代経済学との比較>について説明したい。
 仏教経済学は新しい経済学であり、発展途上にあり、未完成といえる。確固たる教科書が出来上がっているわけではない。私(安原)が構想する仏教経済学の骨格は以下の八つのキーワードから成り立っている。これを現代経済学(破綻した新自由主義=市場原理主義経済学、ケインズ経済学など)と対比して示すと、以下の通り。

    <仏教経済学>・・・・・・・・・・・・・・・<現代経済学>
*いのち尊重(人間は自然の一員)・・・いのち無視(自然を征服・支配・破壊)
*非暴力(平和)・・・・・・・・・・・・・・・・・暴力(戦争)
*知足(欲望の自制、「これで十分」)・・貪欲(欲望に執着、「まだ足りない」)
*共生(いのちの相互依存)・・・・・・・・・孤立(いのちの分断、孤独)
*簡素(しなやかさ、美)・・・・・・・・・・・・浪費・無駄(虚飾)
*利他(慈悲、自利利他円満)・・・・・・私利(利己主義、自分勝手)
*持続性(持続可能な「発展」)・・・・・・非持続性(持続不可能な「成長」)
*多様性(自然と人間、個性尊重)・・・画一性(個性無視、非寛容)
(競争 個性を磨いて連帯 ・・・・・・・・・・弱肉強食、私利追求)

 それぞれのキーワードについてごく簡略に説明したい。

*いのち尊重=仏教経済学は人間はいのちある自然の一員という認識に立っている。だから人間に限らず、広く自然も含めてそのいのちを尊重する。一方、現代経済学は自然のいのちだけではなく、人間のいのちをも無視するだけでなく、自然を征服・支配・破壊する方向に走り勝ちである。人間を消費者として捉え、モノ(商品)を買い、消費しなければ価値がないとも考える。

*非暴力=仏教経済学は構造的暴力(政治・経済・社会的に構造化している暴力=戦争に限らず、地球環境の汚染・破壊、自殺、交通事故死、人権無視、貧困など)をなくすこと、すなわち「非暴力=平和」をつくっていくことを目指す。現代経済学は戦争を含む多様な暴力を批判しない。非暴力=平和をつくるという視点、感覚はない。

*知足=物質的に「足るを知る」ことで、「これで十分」と考え、「腹八分」で満足する日常の暮らし方、生き方のこと。現代経済学は、貪欲のすすめで、「まだ足りない」と物質的欲望に執着する。

*共生=自然と人間、人間同士の「いのちの平和的共存」を指している。現代経済学には「いのちの平和的共存」という観念は欠落しており、相互に孤立した状態が想定されている。いのちの分断ともいえる。そこには孤独しかない。

*簡素=シンプルライフともいうが、それでは同義反復にすぎない。簡素であることは浪費・無駄を排し、「しなやかさ」を追求するから美しい、といえる。現代経済学は虚飾に満ちた浪費、無駄に走りやすい。
「簡素と非暴力とは深く関連している」(E・F・シューマッハー著/小島慶三ほか訳『スモール イズ ビューティフル』・講談社学術文庫=仏教経済学を論じている著作として知られる=から)という認識が重要である。

*利他=政治も経済も社会も慈悲(思いやり)の精神で「世のため人のため」という利他主義を求めており、この利他的行動が結局は自分のプラスとなって還ってくる。これを仏教では「自利利他円満」という。仏教経済学はこういう利他的人間観を土台に組み立てる。現代経済学は、自分勝手な私利に執着する利己主義的人間観を想定しており、そこから破綻が生じる。あの貪欲(強欲)資本主義そのものである新自由主義=市場原理主義の破綻がその典型といえる。

*持続性=仏教経済学は「持続可能な発展」(=Sustainable Development、後述)を重視するが、現代経済学は持続不可能な「経済成長」に執着する。

*多様性=仏教経済学は自然・人間・文化・地域・国にはそれぞれ個性があり、多様であると認識し、それを尊重する。いいかえれば寛容で、こころが広い。現代経済学は自然や人間の個性を無視し、画一的に捉え、非寛容な姿勢である。

 さて仏教経済学は競争をどう考えるかについて補足しておきたい。
競争を否定するわけではない。仏教経済学ではそれぞれの「個性を磨く競争」を重視する。こういう個性を尊重する競争は共生・連帯感に通じる。しかし現代経済学は強いものが勝つのが当然という「弱肉強食の競争」、「私利追求の競争」のすすめであり、そこには共生・連帯感は生まれない。

 ここで一つ物申しておきたい。「現代経済学者よ、腹を切れ」と。
 奥田碩(ひろし)前日本経団連会長(前トヨタ自動車会長)が、月刊誌『文藝春秋』への寄稿論文で「労働者の首を切るなら、まず経営者よ、腹を切れ」と言ったことがある。正論である。先達のこの言(物言い)にならえば、「現代経済学者よ、腹を切れ」と言いたい。現代経済学は現世を混乱と危機に追い込んだ責任の一半を負うべきだからである。

▽ 地球環境時代はどういう時代か ― 「持続的発展」の重視を

<Ⅱ.地球環境時代はどういう時代か ― 求められる「持続的発展」>について説明する。
 「持続的発展」すなわち「持続可能な発展」(=Sustainable Development)は何を含意しているのか。世界自然保護基金(WWF)、国際自然保護連合(IUCN)、国連環境計画(UNEP)が1991年、国連主催の第一回地球サミット(翌92年ブラジルのリオデジャネイロで開催、「リオ宣言」を採択)に先だって発表した提言『新・世界環境保全戦略 ― かけがえのない地球を大切に』などを手がかりに考える。

(1)「持続的発展」の多様な柱
・生命維持システムー大気、水、土、生物ーを含む生命共同体の尊重
・地球上の生きとし生けるものすべてのいのちの尊重
・長寿と健康な生活(食糧、住居、健康の基本的水準)の確保
・基礎教育(すべての子どもに初等教育を施し、非識字率を減らすこと)の達成
・雇用の確保と、失業と不完全就業による人的資源の浪費の解消
・生活必需品の充足、特に発展途上国の貧困の根絶
・公平な所得分配のすすめ、所得格差の是正
・景観や文化遺産、生物学的多様性、生態系の保全
・持続不可能な生産・消費・廃棄構造の改革と廃止
・エネルギーの節約と効率改善、再生可能もしくは汚染を引き起こさないエネルギー資源への転換
・政治的自由、人権の保障、暴力からの解放
・核兵器の廃絶、軍事支出の大幅な削減、軍事同盟の解消

 以上のように持続的発展という概念は、エコロジー、環境、経済、生活、政治、安全保障、社会、文化など多面的な要素からなっている。

 「持続的発展」の多様な柱の一つ、「核兵器の廃絶、軍事支出の大幅な削減、軍事同盟の解消」に注目したい。この柱が「リオ宣言」に「戦争は持続可能な発展を破壊する。平和、発展、環境保全は相互依存的であり、切り離すことはできない」という表現で盛り込まれた。いいかえれば地球環境保全のためには平和(=非暴力)こそ不可欠であり、軍事力は有害であるという認識を示している。この視点に注目したい。

(2)「持続的発展」は仏教思想の具現化
 「持続的発展」はどのように仏教思想と結びつくのか。上述の『新・世界環境保全戦略―かけがえのない地球を大切に』は、たとえば「生命共同体の尊重は、世界の多くの文化、宗教が説いてきたこと」と指摘している。この「世界の宗教」のなかにはもちろん仏教も含まれる。

(3)「持続的経済成長」は誤用
 政府(特に自民・公明政権時代)、経済界などが多用する「持続的経済成長」は正しい用法ではない。日米欧など先進国では成熟経済に達している現在、経済成長(=国内総生産・GDPの量的拡大)には限界があり、経済成長ではなく、経済発展(=経済の質的充実、所得の公平・公正な配分)こそ目指すべき時代である。人間も成人になれば体重を増やし続けること(=量的増大)は必要ではない。特に熟年には人間力、器量、徳を磨くこと(=質的充実)が重要になるのと同じである。
 民主党政権になっても経済成長に相変わらず執着しているが、持続性(=持続的発展・経済発展)と経済成長は必ずしも両立しない。経済発展(=質的充実)と経済成長(=量的拡大)との間の根本的な違いに着目する必要がある。

▽ 地球環境時代をどう生きるか ― 「もったいない」の実践を

 <Ⅲ.地球環境時代をどう生きるか ― 仏道(=仏教経済的精進)の日常化を>というテーマに関連して、持続型経済社会への転換を目指す具体策を考えたい。仏教経済学の視点からいえば、仏道すなわち仏教経済的精進を日常的に重ねていくことが大切である。ここでは以下の4項目(1~4)を挙げているが、もちろんこれに尽きるわけではない。

(1)「いただきます」(いのちの尊重、その活用)、「もったいない」(人や物を大切に思うこころ)、「お陰様で」(共生、相互依存関係へ感謝)― の日常的実践を心掛けよう!
 ケニアのワンガリ・マータイさん(ノーベル平和賞受賞、国連平和大使)の地球規模での「MOTTAINAI」運動に注目したい。

 3つの日常用語の含意を理解し、実践していくこと。
*「いただきます」について
 動植物のいのちをいただいて、自分のいのちをつないでいることへの感謝の言葉。もう一つは、いただいたいのちを社会のために活用していくという心構えを示している。
 10年前、私(安原)が大学で講義していた頃には「いただきます」を日常生活で唱える学生は100人のうち1名程度だった。現在は小学校で給食の時に「いただきます」を唱える学校が増えてきた。

*「もったいない」について
 人や物を大切に思うこころ。マータイさんはケニアの環境副大臣などを歴任し、植樹運動でも知られている。2005年初来日したとき、毎日新聞社を訪ねて、日本語の「もったいない」に出会って感動し、「もったいない=MOTTAINAI」を世界に広める運動を進めてきた。「MOTTAINAI」は今では世界語にまでなっている。
 今2010年2月、5度目の来日となり、広島市の原爆資料館を訪ねたり、京都では「MOTTAINAIというすばらしいライフスタイルを世界に広めたい」と話した。
 ケニアの首都ナイロビにあるナイロビ大学に来2011年、「ワンガリ・マータイ平和環境研究所」を開設の予定で、資源を大切にする心を学ぶ「MOTTAINAI学科」を開講する。「もったいない」の本家本元の日本にこういう学科がなぜないのか? 仏教思想の日常的実践が足りないのではないかと言わざるをえない。

*「お陰様で」について
 人間は自力のみで生きていると思うのは錯覚である。客観的事実として太陽、地球、自然の恵みを受けて、しかも他人様(ひとさま)のお陰で生き、生かされているのである。このことをしっかり認識できれば、「お陰様で」という他者への感謝の心につながっていく。この感謝の心は「もっともっと欲しい」という独りよがりな貪欲に対する自己抑制としても働く。

(2)もっと歩こう。 さわやかな人生を!
 交通事故で年間5000人以上がいのちを捨て、負傷者は、100万人を超える。捨てるのは、いのちではなく、マイカーではないか。徒歩、自転車さらに 公共交通(鉄道、バス、路面電車など)利用の促進を唱えたい。交通手段ではマイカーによる温暖化ガス排出量が圧倒的に多い。

 交通事故死者の数は、統計の取り方にもよるが、交通事故から30日以内に亡くなった人は09年には6000人近い。これだけ多くの死者が出ているのに、いのちを失う事実に鈍感すぎないか。石油もやがて枯渇する可能性もあるので、事実上マイカー時代は終わりつつある。捨てるのはいのちではなく、温暖化ガスの排出量が多いマイカーである。そのためには公共交通中心の交通体系に切り替えることが急務だ。

(3)国産の食べ物(いのち)重視へと転換しよう!
 食料自給率が低い日本(40%で先進国では最低)は、海外からの食料輸入量が多く、「フードマイレージ」(注)の世界一長い国であり、輸送に伴う温暖化ガス排出量も一番多い。しかもいのちを育む田園、近海は荒れ、国民の精神は萎(な)えている現実をどう変えていくか。地産地消の重視へ。
 (注)フードマイレージは「食料の重量に輸入輸送距離を掛けた数値」で、単位はトンキロメートル。

 近未来の世界的な食料危機、水危機への懸念が高まっている。この脅威こそが今後の大きな脅威となる。これは軍事力によって対応できる脅威ではない。日本としてこの脅威にどう立ち向かうか。崩壊が進む田園、近海をどう再生していくかというテーマにほかならない。いのちを確保するための新たな挑戦というべきだ。
 森林、里山を含む田園のいのちを取り戻すときだと考える。そのためには食料の輸入を抑えて、地産地消(その地域でつくった食べ物をできるだけその地域で消費する)を中心にして、国産の食べ物を増やしていくことが必要だ。
 私は農家に生まれたが、子供のころ病弱で、医者に「農業は無理」といわれ、東京の大学へ進学し、東京住まいを続けている。田舎から脱走したわけだ。今、田舎の田園は荒れて、申し訳ない、という心境だが、私なりの生き方でお返しするほかない。その一つが「仏教経済学による社会的貢献」ではないかと考えている。

▽ 地球環境時代をどう生きるか(つづき)― 地球救援隊の創設を

(4)憲法前文の「全世界国民の平和生存権」、9条の「戦争放棄、非武装、交戦権否認」を生かそう!
 自衛隊から地球救援隊(仮称)への全面改組、防衛省から平和省への改組、日米安保体制(=軍事同盟)を解消し、平和友好条約へ転換を図ること。
 自衛隊というプロ集団を平和活用(=諸国民の平和生存権を生かすグローバルな利他的貢献)しないのは、まことにモッタイナイと言うべきだ。

 ここでは自衛隊を全面改組して非武装の地球救援隊を創設する提案について若干説明を加えたい。
*目的=地球規模の非軍事的な脅威(台風、地震、津波など大規模災害、感染症などの疾病、水不足、不衛生、栄養失調、飢餓、貧困、劣悪な生活インフラなど)に対する人道的救助・支援さらに復興・再生を目指すこと。非軍事的貢献によって国と国、人と人との対立と不和を除去し、信頼感を高め、軍事的脅威の顕著な削減を実現させること。
*装備=兵器を廃止し、輸送船、輸送航空機、ヘリコプター、食料、医薬品、建設資材・機械類などに切り替える。特に大規模災害では陸路交通網が寸断されるため、それに備えて非武装の「人道ヘリ」を大量保有する。
*教育=いのちの尊重、利他精神、人権感覚の豊かな隊員を育成する。

 さて世界勢力地図の大変化について言及しておきたい。それは20年後の世界のリーダーはどの国か、というテーマである。
 米ウオール・ストリート・ジャーナル紙などの世論調査(09年12月実施)によると、「米国37%、中国39%」という結果が出た。12年前の97年調査では「米国56%、中国がわずか9%」だったが、最近では中国の台頭が顕著で、米国を上回っている。
 しかし米国と中国との間の覇権争いは終止符を打つときだ、と言いたい。軍事力による覇権争いは、結局その国を破綻させる。米国が今、その道を辿っている。世界の軍事費の半分以上を占める軍事超大国・米国は今や貧困者が増えて貧困大国に転落している。中国も高度経済成長下で貧富の著しい格差、官僚の汚職など腐敗が広がっている。

 そういう世界の状況下で日本はどう対応すべきか。米中とは異質の路線を選択するときで、平和憲法の平和共存、非武装の理念を実践していくため、日米軍事同盟を解体し、自衛隊の地球救援隊への全面改組という選択が最善の策と考える。これは世界の歴史に名を残す良質の選択として高い評価を得るだろう。


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健康人を増やす医療改革と健康教育
後期高齢者に辿り着いて想うこと

安原和雄
 高齢者を差別するのか、という批判が渦巻いている、あの後期高齢者に私自身もついに辿り着いた。やはりなにがしかの感慨を覚える。少年時代、病弱に苦しんだ体験から健康には人一倍関心が強い。高齢者になってもなお健康を維持するためには何が必要か。本人の心遣いという意味での自己責任はもちろんだが、これまでとは異質の医療改革と健康教育が不可欠である。医療改革では健康維持に努力している者が報われる「健康保険料の一部返還請求権」の新設、一方、健康教育では「いのちと食と健康」のあり方を三位一体式に捉えて小学生の頃から教育し、実践すること、などを提案したい。これは病人を減らし、健康人を増やす医療改革・健康教育にほかならない。(2010年3月12日掲載。公共空間「ちきゅう座」、インターネット新聞「日刊ベリタ」に転載)

▽ 対談<「老いの壁」と向き合う>

 養老孟司(東大名誉教授)さんと中川恵一(東大付属病院放射線科准教授)さんとの対談(毎日新聞・09年11月11日付)を以下に紹介する。題して<「老いの壁」と向き合う>。2人は東大医学部での師弟関係にある。対談の日付は4か月も前のことだが、対談の内容は決して古くはない。むしろ未来へ向かって開かれている。
対談内容(要旨)は次の通り。

*生活態度と身体が大事
中川:100歳以上の長寿者が2009年9月現在で4万人を超えた。そのうち86%が女性で、なぜ男性が少ないのか。生活態度に原因がある。
養老:年を取り、独り暮らしになったとき、女性の方が圧倒的に長生きだ。
中川:男性は家事をせず、身体を動かすことが少ないから。若いころは脳だけあればよいと考えていたが、だんだん身体が大事だと考えるようになった。現在65歳以上の女性はほとんど90歳近くまでは長生きできる時代になった。ただ日常生活が普通にできる健康寿命は女性が79歳、男性が73歳、その後は介護の問題が出てくる。
日本の寝たきり人口は現在、約400万人、65歳以上の認知症が約200万人いる。寝たきりにならないためのヒントがあれば・・・。
養老:やはり身体を動かすこと。そもそも身体がちゃんと動くことが基本で、それができない場合には何か考えてあげなくてはいけない。

<日本の高齢者、医療費に関する補足データ>
・日本人の平均寿命=2009年現在、女性が86.05歳で世界1位、男性が79.29歳で世界4位。
・65歳以上の高齢者人口=現在全体の20%超の高齢者が2050年には40%になるとみられている。
・国民の医療費=1人当たりの生涯医療費は平均2200万円。もっとも費用がかかるのが70代~80代半ばで、75~79歳では年間平均250万円かかる。
(参考)通院が多い乳幼児期(0~4歳)でも年間平均約100万円
・メタボの医療費=全国健康保険協会によると、生活習慣病の一つ、メタボ(メタボリックシンドローム=内臓脂肪症候群)の人にかかる年間医療費は、メタボ以外の人に比べて多く、男性1.4倍、女性1.6倍(朝日新聞3月11日付)。

*人生全体は一個の作品
養老:ナチスの収容所から奇跡的に生還し、その体験をまとめた『夜と霧』を書いた精神科医のビクトール・フランクルは、人生の意義について「他人が人生の生きがいを発見することを手助けするのが自分の天職だ」と言っている。余命幾ばくもない状況で、収容所のベッドで寝ている人間に、どういう意味があるかという問いかけに、「その人が自らの運命に対してどういう態度を取るか、そのことが、周りの人間が生きるために、いかに大きな意味を持つか」と書いている。これを「態度的価値」というが、人が生きる意味をどこまで考えてきたかによって、人生の最後の価値が決まってくると、彼は言っている。
日本では修行という言葉がある。修行とは社会的に何の意味もないことをすること。千日修行してもGDP(国内総生産)は増えない。でもそれをやり通した人が一個の作品になる。修行とは人生を一個の作品と見るときの立場である。
人は生まれて、必ず死ぬのだが、その全体を一個の作品とみれば、みっともない死に方はできないと考えるようになるのだ。

*「死の現実感」失う
中川:今のお話しは「老い」を考える重要なヒントだと思う。態度的価値は他者が存在するから意味がある。高齢者は、これまで大家族の中で自分の生き方を家族に示すことができたが、今はできない。核家族化と、病院で亡くなる人が85%という時代になったから、子どもたちが老いや死を間近でみることが少なくなってしまった。
人は死んでも生き返るか、という質問を小学生にしたところ、3分の1が「生き返る」と答えたという。日本人は、死の現実感を失ってしまった。そして、日本では死に直結するイメージを持つのは、癌(がん)だけだ。死を意識することがないと、癌を知ることが難しい。例えば癌で死なないためには検診が特効薬で、欧米では8割近くが受けているが、日本では2~3割だ。
養老:近代医学は病気を何とか治すと言ってきた。でも年(年齢)は治らない。だれもが自然に年を取っていく。そもそも「老いの壁」に対処するという考え方自体が間違っている。(中略)親が年を取って病気になるのは仕方のないこと、これを問題と考えないことだ。今の人は、人生が終わるとは思ってはいない。だから若いうちから年を取っていくことについてきちんと考えて貰いたい。

*尊厳を持って生きる
中川:老いを他者にどう伝えていくか。そのためには尊厳をもって生きていることが大事なのだと思う。
養老:人生って何だという青臭い問いかけを時々しなければいけない。その中に死ということも入っている。死ぬために生きているわけではないが、時間的には最後に死ぬので、死ぬために生きているということになる。死について現代人の議論はあまりに底が浅くなっている。死や老いについてもう少し考える必要がある。介護の議論ではどうしても制度論になって、外からの介護を考えてしまう。でも一番大事なことは介護される側がどう思っているかである。それが欠けている。
中川:かつての大家族の中では、自然に考えることができたが、今はできなくなっている。
養老:やはり社会を作り直すしかないね。

<安原の感想>
 2人の対談を読んで、やはり見逃せないのは、次の指摘である。
 「人は死んでも生き返るか、という質問を小学生にしたところ、3分の1が生き返ると答えたという。日本人は、死の現実感を失ってしまった」と。
 たしかに「死の現実感を失ってしまった」というほかない。今さらながら命を粗末に扱うテレビドラマの影響も小さくはないだろう。

 もう一つ、交通事故死などに対する無感覚を挙げたい。交通事故死者数は年々減少し、2009年には前年比251人減の5772人(警察庁調べ・事故から30日以内に死亡)と過去最少となった。とはいえ、年間6000人近い人が取り返しのつかない命を失っている事実を重視したい。負傷者は年間約100万人を数える。その中には再起の難しい人も含まれていることは容易に想像できる。
 こういう「明日は我が身」という現実に多くの人は無感覚すぎるとはいえないか。あの世へ送られてから気付いても遅すぎる。
 しかも自殺者は年間3万人の大台乗せの状態が続いている。凶悪犯罪で命を落とす悲運のニュースをメディアは毎日のように伝えている。人間の尊厳の否定につながる悲惨な死の日常化が逆に死の現実感を失わせる背景になってはいないか。

▽少年時代の病弱な日々から立ち直って、いま後期高齢者

 私(安原)は子供のころ、虚弱体質で病気に苦しんだ。小学4年生(敗戦の前年1944年=昭和19年)から中学2年生にかけて毎年冬になると、重度の関節リウマチで2か月近い寝たきり状態に悩み、長期欠席を余儀なくされた。
 そこで健康第一と考えて、父の薦(すす)めもあり、高校1年の春から毎朝、冷水摩擦(タオルこすり)を始めた。冬になって雪が降りしきる朝でも、戸外の井戸端(地方の田舎のことで、当時は屋内の上水道はまだ敷設されていなかった)で、上半身を裸にして続けた。冷たくて辛(つら)かったのは、雪よりも寒風であった。それでも一日として怠ることはなかったように記憶している。風邪も引かず、薬のお世話にならず、高校3年間、1日も欠席することはなかった。

 今想うと、冷水摩擦を自分の身体が求めていたのかもしれない。虚弱体質から立ち直ることができた、その効果には自分でも驚くほかなかった。必要なのは使い古しのタオル1本(1年は保つ)と「継続する意志」であり、すでに半世紀以上も経つが、今でも毎朝励行している。高校生時代と違って、今は屋内の風呂場で裸になって全身を摩擦する。戸外の雪も寒風も関係なく、いわば温室の中での冷水摩擦(乾布摩擦も併用)で、歯を磨き、顔を洗うのと同じ感覚となっている。さわやかな気分を味わうことができるのが何よりの利点である。
 お陰様で寝込むような病には今のところ無縁である。「冷水摩擦で長生きできるのか」と聞かれることがあるが、「寿命は授かりものだからわからない。ただ、いのちある限り一日、一日をさわやかに生きたいと念じている」と答えることにしている。

 こうして2010年3月の今、後期高齢者(75歳以上)の仲間入りすることとなった。その昔、寝たきり状態であった小学生の頃、枕元で両親が涙に暮れていた情景を昨日のことのように鮮やかに記憶している。「一人息子の寿命もこれまでか」という悲嘆であったに違いない。その両親もすでにあの世へ旅立った。この世の定めとはいえ、やはり寂寥感(せきりょうかん)はいつまでも消えない。
 幸い生き長らえているからには多少なりとも「世のため人のため」に我が身として何ができるかを考えないわけにはいかない。そういう想いから以下にささやかな提案を試みたい。

▽ 病人を減らし、健康人を増やす医療改革・健康教育

日本は、依然として世界のトップクラスの長寿国であることは間違いない。今後ともこの長寿国として名誉ある地位を持続できるだろうか。私は「否」と言いたい。従来の政府主導の医療改革は国が負担する医療費の削減が目的で、その結果、患者負担が増大する一方、病人はむしろ増えている。民主党政権下でもこの傾向は変わらない。このままではやがて平均寿命は低下していくのではないか。
 さてどうするか。上述の対談で養老さんは結論として「やはり社会を作り直すしかない」と指摘している。その通りであり、問題はどう作り直すかである。そこで以下のような医療改革・健康教育案を提起したい。

<医療改革>
・70歳以上の高齢者の医療費は、高額所得者は別にして原則無料とする。高齢者の前・後期の差別を廃止する。
・健保本人の自己負担は1割に引き下げるが、糖尿病など生活習慣病は、自己責任の原則に立って自己負担を引き上げる。
・70歳以下の人で、1年間に1度も医者にかからなかった者は、健康奨励賞として医療保険料の一部返還請求の権利を認める制度を新設する。「健康に努力した者が報われる社会」づくりの一つの柱として位置づける。
・禁煙の促進も重要で、受動(間接)喫煙で多くの人の健康が害されることを防ぐため、タバコ税の大幅引上げを行う。
・改革案を国民に説明してから2年の準備期間(自己負担が増える生活習慣病などの対策期間)の後、実施する。

<健康教育>
・「いのちと食と健康」の密接な相互関連について小学生の時から教育する。その健康教育は、いのちの尊重はもちろん、添加物を使わないこと、地産地消(地域で育てた食材を地域で消費すること)・旬産旬消(季節ごとの旬の食材を旬の時期に味わうこと)のすすめ ― など安心と安全を第一とする食のあり方を含む「健康のすすめ学」としたい。
・次の3つの日常用語を家庭や学校で理解する機会をつくり、日常生活で実践する。
「いただきます」(食事前に唱える言葉で、動植物のいのちをいただいて自分の命をつないでいることに感謝すること)
「もったいない」(モノを無駄にしないで、大切に扱うこと。食べ残しをしないこと)
「お陰様で」(他人様=ひとさまのお陰で生かされていることを自覚し、感謝すること)
・教育担当者として定年退職者、大病体験者、ボランティアなどを積極的に活用する。

 以上の医療改革・健康教育策の実現に取り組めば、病人、医療費の削減も可能である。そうなれば高齢社会対策を名目とする消費税引き上げは根拠を失うだろう。

(ご参考)ブログ「安原和雄の仏教経済塾」(08年2月2日付)に「冷水摩擦でカゼを退治しよう 健康のすすめとニッポン改革」と題する記事を掲載している。


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「地球救援隊」の創設を提唱する
宮沢賢治「雨にも負けず」を生かして

安原和雄
 カリブ海のハイチ(1月)に続いて、南米のチリ(2月)で大地震が発生、数え切れないほどの多くの犠牲者を出す大惨事をもたらしている。日本政府はハイチでの復興支援のため、国連平和維持活動(PKO)として陸上自衛隊1次隊(約200人編成)を派遣した。
大地震に限らず、地球温暖化に伴う異常気象のほか、疾病、飢餓など地球規模の支援策が求められる脅威が今後強まることは避けられない。この多様な脅威にはいうまでもなく軍事力は無力であるだけではなく、有害でさえある。
 この機会に自衛隊を全面改組して、「地球救援隊」(仮称)を創設することを提唱したい。これはわが国の平和憲法本来の「平和と非武装」理念を具体的に実践していくことを意味しており、同時に宮沢賢治の「雨にも負けず」に込められている詩情を地球規模で生かすことにもつながるだろう。(2010年3月5日掲載。公共空間「ちきゅう座」、インターネット新聞「日刊ベリタ」に転載)

▽自衛隊を非武装の「地球救援隊」へ全面改組すること

(1)なぜ今、地球救援隊なのか
 日米安保=軍事同盟は、憲法前文の平和共存権と9条の「戦争の放棄、非武装、交戦権の否認」という平和理念と矛盾しているだけではない。日米安保体制を「平和の砦」とみるのは錯覚であり、むしろ平和=非暴力に反する軍事力を盾にした暴力装置というべきである。諸悪の根源ともいえる。だから日米安保体制=軍事同盟は解体すべきであり、それこそが平和への道である。
 いのち・自然を尊重し、多様ないのちの共生を希求する仏教思想から導き出される日本の新たな進路選択が非武装の「地球救援隊」(仮称)創設である。なぜいま非武装の地球救援隊なのか。

 第一は今日の地球環境時代における脅威は多様である。脅威をいのち、自然、日常の暮らしへの脅威と捉えれば、主要な脅威は、地球生命共同体に対する汚染・破壊、つまり非軍事的脅威である。非軍事的脅威は地球温暖化、異常気象、大災害、疾病、飢餓、貧困、社会的不公正・差別など多様で、これら非軍事的脅威は戦闘機やミサイルによっては防護できないことは指摘するまでもない。もちろん軍事力の保有自体、資源・エネルギーの浪費であり、軍事力の直接行使は地球、自然、人命、暮らしへの破壊行為である。
 第二は世界の軍事費(2009年)は総計1兆4640億ドル(1ドル=90円で換算すると約130兆円、「ストックホルム国際平和研究所」・SIPRI調べ)の巨額に上っており、限られた財政資金の配分としては不適切であり、巨大な浪費である。この軍事費のかなりの部分を非軍事的脅威への対策費として平和活用すれば、大きな効果が期待できる。にもかかわらず巨額の軍事費を支出し続けることは、軍事力の保有による軍事的脅威を助長するだけでなく、むしろ戦争ビジネス(例えば日米の軍産複合体)に利益確保の大きな機会を与える効果しかない。
第三は「9・11テロ」(2001年アメリカの政治、軍事、経済の中枢部を攻撃した同時多発テロ)以降、テロの脅威が独り歩きしているが、最近のテロの背景にアメリカの世界戦略、外交、軍事政策に対する反発、報復があることを認識する必要がある。いいかえればアメリカの先制攻撃論に支えられた強大な軍事力を梃子(てこ)とする覇権主義が、むしろ世界における脅威となっている側面を見逃すべきではない。アメリカの国家権力こそ世界最大のテロリスト集団という見方も成り立つ。このアメリカの戦略、政策を根本から変更しない限り、テロ対策として軍事力を行使することは、むしろ暴力と報復の悪循環を招くにすぎない。

 以上から今日の地球環境時代には軍事力はもはや有効ではなく、むしろ世界に脅威を与えることによって「百害あって一利なし」である。こういう事情は、「核兵器廃絶」を唱えるオバマ米大統領登場後の今も大きな質的変化は期待できそうにない。武力に依存しない対応策、すなわち地球の生命共同体としてのいのちをいかに生かすかを21世紀という時代が求めているというべきであり、そこから登場してくるのが非武装の地球救援隊構想である。
中米のコスタリカは1949年の憲法改正で軍隊を放棄し、今日に至っている。日本が自衛隊の全面改組によって地球救援隊の創設に踏み切れば、コスタリカとの連携を深めつつ、世界の平和(=非暴力)を創っていく上で先導的な貢献を果たすことにもなるだろう。

(2)地球救援隊の具体的な姿
 さて地球救援隊構想の概要(目的、達成手段)は次の諸点からなっている。
*地球救援隊の目的は軍事的脅威に対応するものではなく、非軍事的な脅威(大地震などの大規模災害、感染症などの疾病、不衛生、貧困、劣悪な生活インフラなど)に対する人道的救助・支援さらに復興・再生をめざすこと。
*活動範囲は内外を問わず、地球規模であること。特に海外の場合、国連主導の国際的な人道的救助・支援の一翼を担うこと。
*地球救援隊の積極的な活用によって、国と国、人々との間の信頼感が高まり、軍事的脅威の顕著な削減を実現できるという認識に立っていること。
*自衛隊の戦力なき「地球救援隊」への全面改組であること。従って地球救援隊と縮小した自衛隊とが併存するものではないこと。

*自衛隊の全面改組を前提とする構想だから、自衛隊の装備、予算、人員、教育、訓練などの根本的な質の改革を進めること。
・装備は兵器類を廃止し、人道救助・支援に必要なヘリコプター、輸送航空機、輸送船、食料、医薬品、建設資材・機械類などに切り替える。特に台風、地震、津波など大規模災害では陸路交通網が寸断されるため、空路による救助・支援が不可欠となる。それに備えて非武装の「人道ヘリコプター」を大量保有する。
・防衛予算(現在年間約5兆円)、自衛隊員(現在定員約25万人)を大幅に削減し、訓練はもちろん戦闘訓練ではなく、救助・支援・復興のための訓練とする。
・特に教育は重要で、利他精神の涵養、人権尊重に重点を置き、「いのち尊重と共生」を軸に据える新しい安全保障を誇りをもって担える人材を育成する。

*NPO(非営利団体)、NGO(非政府組織)などと緊密な協力体制を組むこと。
*必要な新立法を行うこと。例えば現行の自衛隊法は自衛隊の主な行動として防衛出動、治安出動、災害派遣の3つを定めているが、このうち災害派遣を継承発展させる方向で新立法を行う。自衛隊法、有事関連諸法は廃止する。

 以上の構想を実現させるためには国民多数の支持が不可欠であることはいうまでもない。そのためには我々自身の歴史的かつ画期的な意識変革が求められている。

▽「雨にも負けず」の詩情を地球規模で生かす

(1)込められている慈悲と利他の心
 地球救援隊構想にはイメージとして宮沢賢治(注)の「雨にも負けず」の慈悲と利他の心が込められている。その詩情を地球規模で生かしていくのが地球救援隊である。
(注)詩人、童話作家の宮沢賢治(1896~1933年)は岩手県生まれで、花巻で農業指導者としても活躍し、自然と農業を愛した。日蓮宗の信徒として仏教思想の実践家でもあった。

 よく知られている「雨にも負けず」の大要を紹介したい。
雨にも負けず、風にも負けず、慾はなく、決して怒らず、いつも静かに笑っている
(中略)
東に病気の子供あれば、行って看病してやり
西に疲れた母あれば、行ってその稲の束を負い
南に死にそうな人あれば、行って、怖がらなくてもいいと言い 
北に喧嘩や訴訟があれば、つまらないからやめろと言い
旱(ひでり)の時は涙を流し、 
 (中略)
みんなに、木偶坊(でくのぼう)と呼ばれ、褒(ほ)められもせず、苦にもされず
そういう者にわたしはなりたい 
   
 この詩を地球規模の視野に立って、21世紀版「雨にも負けず」として読み替えれば、何がみえてくるか。以下のように解釈し直すこともできるのではないか。宮沢賢治の深い仏の心と詩情が戦力なき地球救援隊の創設をしきりに促していると受け止めたい。こういう道を大胆に選択することこそが21世紀の地球環境時代に生きる智慧といえるのではないか。

(2)21世紀風に読み解くと
(以下の<>内が読み替え)
*雨にも負けず、風にも負けず、いつも静かに笑っている   
 <地球温暖化に伴う異常気象が世界各地で猛威を振るっている。日本では2004年夏の台風で死者・不明者は220名を超えた。自衛隊ヘリコプターの活躍がテレビを通じて放映された。異常気象への備えが十分で、いつでも地球救援隊が駆けつけてくれるという安心感があれば、笑っていることもできよう>

*東に病気の子どもあれば、行って看病してやり
 <開発途上国では生まれてから1歳までに亡くなる赤ちゃんが年間約700万人、5歳の誕生日を迎えられずに命を失ってしまう子供は年間1100万人にものぼる。その過半数は栄養不良による。どのように看病すれば、いいのか。世界中で自然環境を汚染・破壊し、いのちを奪うために浪費されている巨額の軍事費のうちほんの一部を回せば、子ども達の目も生き生きと輝いてくるだろう>

*西に疲れた母あれば、行ってその稲の束を負い
 <世界中で安全な飲料水を入手できない人は11億人(地球総人口は現在推定67億人)で、コンピュータ利用者の約2倍に及んでいる。また基礎的な衛生施設を利用できない人は24億人もいる。人口増加を考慮に入れると、2015年には予測される世界人口の40%に相当する約30億人が「水不足国」に住むであろう。水をめぐる局地的な紛争や武力衝突は増加する可能性が高い。アフリカや西アジアでは水瓶(みずがめ)を頭の上に乗せて何キロも離れた距離を運ぶ女性の姿は珍しくない。これでは女性、母たちもたしかに疲れるだろう!>

*南に死にそうな人あれば、怖がらなくてもいいと言い
 <世界で南の発展途上国を中心に8億人が飢えている。地球上の住民のうち8人に1人が飢えている勘定だ。南の国々でマラリアの患者は3億人超ともいわれる。スマトラ沖大地震・インド洋大津波(04年12月26日発生)による死者・行方不明者約30万人、避難民約150万人。毎年50万人超の女性が妊娠と出産のために死んでいる。「怖(こわ)がらなくてもいい」と言われても、死に直面する恐怖から自由になるのは容易ではない。地球救援隊が素早く駆けつけて、救援の手を差し伸べることができれば、少しは恐怖が軽減されるかも知れない>

*北に喧嘩や訴訟があれば、つまらないから止めろと言い
 <「北に喧嘩」の北とはアメリカであり、喧嘩とは、アフガニスタン攻撃に続くアメリカ主導のイラク攻撃とイラク占領を指している。正当な理由もなく、正義に反し、世界中の非難を浴びているのだから、性懲りもなく続けるのは止めなさい、という声は地球上を覆っている>

*旱(ひでり)のときは涙を流し
 <欧州西部(フランス、スペイン、ポルトガル)で05年水不足が深刻になり、庭の水まきやくるまの洗車を禁止する自治体が増えた。国境をまたいで流れる河川の水の奪い合い、広域の山火事も発生。03年夏は35度を超す酷暑となり、フランスでは高齢者を中心に1万5000人が死んだ。異常気象がもたらす悲劇にはたしかに涙も流れる!>

*みんなに「でくの坊」と呼ばれ、褒められもせず、苦にもされず
<日本がイラクへ自衛隊を派兵しなければ、アメリカは日本を「でくの坊」、つまり「役立たず」と非難し、褒めてはくれないだろう。しかし自衛隊の派兵を日本が拒否していたら、イラクをはじめ、多くの国や人々からは「苦にもされず」つまり「結構ではないか」と評価されただろう>

*そういう者にわたしはなりたい
 <そういう国に日本はなりたい、私はそれをお手伝いする人間になりたい>または<そういう思いやりがあり、「世のため人のため」に働く人間に私はなりたい>

 もし宮沢賢治が今健在なら、この読み替えをみてどういう感想を洩らすだろうか。もはやそれを聴く術(すべ)はないが、想像すれば、日本を含めて世界の激変、悪化に驚き、歎くに違いない。


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