「もっともっと欲しい」の貪欲の経済から、「足るを知る」知足の経済へ。さらにいのちを尊重する「持続の経済」へ。日本は幸せをとりもどすことができるでしょうか、考え、提言し、みなさんと語り合いたいと思います。(京都・龍安寺の石庭)
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作文「進化する親切」の波紋に期待
相手が喜ぶからこそ自分も楽しい

安原和雄
 新聞投書はよく読むようにしているが、最近は寒々とした光景、殺伐とした体験などをつづる投書が目立つ。現実の日常生活でも路上を歩いていて、あるいは電車の中で争いや乱暴な姿勢に出会うことが珍しくない。有り体にいえば、その背景には破綻したはずのあの新自由主義(=自由市場原理主義)路線の残影が色濃く浮き出ている。弱肉強食の争いの渦中で目先の私利、小利を追い求める自分本位の姿勢が目立つのである。
 しかし救い、希望がないわけではない。「小さな親切」作文コンクールで女子中学生が受賞した「進化する親切」は光っている。その趣旨は自分本位とは正反対で、「相手が喜んでくれれば、自分も楽しい」という利他的行為を日常感覚で表現した作品である。「進化する親切」が日本列島上に次々と波紋を広げていくことを期待したい。(09年11月22日掲載。公共空間「ちきゅう座」、インターネット新聞「日刊ベリタ」に転載)

▽ 「本当に相手のことを考えたとき、親切は進化する」

 第34回「小さな親切」作文コンクール(「小さな親切」運動本部主催、毎日新聞社後援)で、西東京市立明保中学校3年、本橋りのさん(15)が、「小さな親切」運動本部賞を受賞した。作文のタイトルは「進化する親切」で、本橋さんは、このコンクールでは1年生で特別優秀賞、2年生で優秀賞、さらに今回で3年連続の受賞となった。
 作文「進化する親切」(毎日新聞09年11月11日付・大要)を紹介しよう。

 母の職場に行ったときのこと。近くにある駐輪場の管理人さんが、自転車のサドルを雑巾で拭いているのを偶然見かけました。一生懸命拭き続ける姿を見て、(駐輪場を利用している人は、おじさんがサドルをきれいに拭いているのを知っているのだろうか。おじさんは会社から言われて拭いているのだろうか。)と、とても気になりました。しかし聞く勇気はなく、そのまま通り過ぎてしまいました。
 職場についてから、おじさんのことを話すと、「私もよく見る。どうなんだろうね。」母も気になっていたようです。
 それから何ヶ月かして・・・(中略)

 数カ月後、母は少し興奮したように駐輪場のことを話し始めました。その日は、午前中から雨が降っていました。駐輪場にあるすべての自転車のサドルに白いビニールがかぶせられていたというのです。近くにも駐輪場がありますが、ビニールがかけられているのはここだけだ、というのです。
 「あなたに頼まれていたから、気をつけて見ていてよかったわ。本当にきれいなのよ。」
 きちんと並べられた自転車。白いサドル。
 (私も見てみたかったな。)
 中学校生活最後の夏休み。私はおじさんに会う決心をしました。

 はじめは、「親切だなんて。」と言って、大きく手をふっていたおじさんですが、私が前からこの親切に関心をもっていたことを話すと、いろいろなことを教えてくれました。
水を吸収してしまうサドルと、はじくサドルがあること。サドルが拭かれていることに気がついた人が、お礼を言ってくれたこと。レジ袋を、奥さんに頼んで集めておいてもらったこと。しかし三百台近くある自転車すべてにかけるため、ポケットマネーで袋を買ったこと。「自分だったらどうしてもらいたいかな。」と考えて、自分で始めたのだということ。

 私だったら、仕事は楽なほうがいいし、なぜそこまでするのですか、と聞いたところ、おじさんは会社を退職するまで毎日、お客様がどうしたら喜んでくださるかと考えていたからだ、と楽しそうに話してくれました。
 「本当に相手のことを考えたとき、親切は進化する。」
 長い間の疑問の答えは、これでした。

▽ 寒々とした光景、そして殺伐とした体験

 さて親切とはまるで逆の事例を新聞の投書欄から紹介しよう。一つは、「無言で道尋ね、去る 寒い光景」と題する投書(朝日新聞・09年11月11日付「声」欄、投書者は東京都東村山市 駅員31歳)である。

 新宿駅の駅員として、一昔前ならなかったであろう光景を目にします。
 道を尋ねてくる人が「すいません、これ」という一言の後、携帯の画面にある乗り換え案内や地図を無言で駅員に見せる。目指す方向がわかった途端、案内を最後まで聞かない。「ありがとう」も言わずに立ち去る人が、予想以上に多い。ゲーム機を操作しながら尋ねる人もおり、目と目が合わないコミュニケーションもあります。
 いつからこのようになってしまったのでしょう? コミュニケーション能力の問題以前に、モラルの低下を感じます。
 ターミナル駅では疲弊した人の往来を含め、豊かな国の貧しい一面を目の当たりにするつらさがあります。礼節を尊ぶ日本人の道徳観が失われる現状に危機感を覚えます。今見逃すと、取り戻すのに時間がかかりそうです。何とかしなければいけません。

 もう一つは、「殺伐とした通勤電車はつらい」という見出しの体験記(朝日新聞・同月17日付「声」欄、筆者は東京都稲城市 会社員44歳)である。

 通勤ラッシュの夕方の地下鉄で、女性にけられたり、男性に絡まれたりした。世の中に殺伐とした雰囲気が漂い、通勤がつらいと感じる機会が増えた。
 銀座線の赤坂見附駅で3週間前のこと、ドア脇にいた20代後半のOL風の女性が、降りる乗客が多いため、ホームに押し出された。この女性から2人後ろにいた私もホームに降りた。いきなり後ろからこの女性に右足のふくらはぎをけられた。振り向くと、女性は無言で地下鉄に乗り込んだ。痛くて見たら血がにじんでいた。
 同線虎ノ門駅で先週には、携帯を見ながら乗り込んできた30代のスーツ姿の男性に絡まれた。車内は満員に近く、私の後ろには年配の男女がいた。少し踏ん張って、乗り込んできた男性の勢いを制した。すると男性は「てめえ、やる気か!」と怒鳴った。私が無視をしてことなきを得た。
 物騒な人には思えない2人がなぜ、と思う。これからも気が立っている人が増え続けるのだろうか。

▽ 〈安原の感想〉 ― 「自分本位」は楽しくない

 地下鉄銀座線の虎ノ門駅で、携帯を見ながら乗り込んできたスーツ姿の男性が「てめえ、やる気か!」と怒鳴った ― を読んだとき、私(安原)自身のささやかな体験を想い出した。

*「文句あるか!」 とすごまれたことも
 もう10年も前のことで、場所はJR秋葉原駅の長距離列車の切符売り場であった。窓口は2つあったが、どういうわけか1つしか開いていなくて、10数人が行列を作っており、私はたしか先頭から5、6番目に並んでいた。駅員に相談しながら切符を求める人もいて、流れが停滞し、行列に多少イライラ気分がみられ始めた頃、もう一つの窓口も開けられた。

 小さな事件はその時、起こった。最後尾で待っていた40歳前後の男が、その窓口を目指して突進し、1番目となったのである。私はその男に向かって声をかけた。「順番を守りましょうよ」と。その男は私を振り向いてすごんでみせた。「文句あるか」と。スーツ姿でネクタイもちゃんと締めて、それなりの会社のサラリーマン風であった。
 「申し訳ないが、事情があって急いでいるので・・・」とでも説明すれば、こちらも「どうぞ、どうぞ」で、丸く収まるはずだが、ルールを破っていながら、「文句あるか」はないだろう。私はその瞬間、「こういう男が勤めている会社なら、間もなく倒産だな、お気の毒に」と内心感じて、怒るよりもむしろ憐れみを覚えた。

*ゲーム機やケータイ電話の奴隷に
 「ありがとう」も言わずに立ち去る人、ゲーム機を操作しながら尋ねる人 、さらに携帯(ケータイ電話)を見ながら歩く人・自転車に乗る人・車を運転する人 ― 投書の指摘にまつまでもなく、こういう光景は今では珍しくない。
 要するにゲーム機やケータイ電話を自主的に活用しているというよりも、その奴隷と化しているようなもので、周囲のこと、他人様(ひとさま)のことに目が届かない、気づこうともしない。まさに自分本位の横行である。自分本位の所作で楽しいだろうか、幸せを感じるのだろうか。いのちの危険に直面する恐れもあることに気づかないのだろうか ― など様々な感慨が湧いてくる。

*相手が喜んでくれるから自分も楽しい
 これに対し、作文コンクールの「進化する親切」は自分本位とは対極の位置にある。作文中の「お客様がどうしたら喜んでくださるか、と楽しそうに話してくれました」に注目したい。「相手が喜んでくれるから、自分も楽しくなる」というお返しがあるということだろう。目先の私利、小利にこだわる自分本位では相手は喜ばないし、自分自身も楽しくならない。そこに着目した女子中学生の作文は光っている。こうした若者が次々と増えていけば、日本の未来は明るいだろう。

 仏教に「自利利他円満」という考え方、生き方がある。その意味するものは、まず他人様のお役に立つこと、そうすれば、結局自分へのプラスとなって返ってくるということ。いいかえれば「世のため、人のため」の利他的行為のすすめである。たとえば電車、バスで座席を譲るようなささやかな行為も、利他の実践といえる。そこにはささやかであるにせよ、満足、喜びがある。


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日米同盟から日米友好へ大転換を
軍事基地に執着する時代ではない

安原和雄
オバマ米大統領の初来日による日米首脳会談(11月13日)は「日米同盟の深化・発展」で合意した。これは日米同盟の役割を従来の安全保障分野に限らず、地球温暖化対策や「核なき世界」の実現など「新しい課題」にも取り組むことを目指している。メディアの多くは賛成しているが、基本的な疑問がある。日米安保条約に基づく日米同盟の真の姿は在日米軍基地の存在を前提とする軍事同盟である。地球温暖化対策や「核なき世界」は当然追求すべき課題だが、その実現のためになぜ軍事同盟が必要なのか。
 鳩山首相はシンガポールで持論の「東アジア共同体」構想について講演(同月15日)し、「不戦共同体」として性格づけた。それならなおさらのこと、日米軍事同盟とは合わないのではないか。もはや「負の影響力」が大きすぎる在日米軍事基地の維持に執着する時代ではない。来2010年は日米安保50年である。半世紀も続く軍事同盟は異常であり、長すぎる。軍事同盟を中軸とする日米安保条約を解消して、日米友好を基軸とする新「日米友好平和条約」(仮称)締結へ向けた大転換を図ることを提案したい。(09年11月16日掲載。公共空間「ちきゅう座」、インターネット新聞「日刊ベリタ」に転載)

▽ 新聞社説は日米首脳会談をどう論じたか

 オバマ米大統領の初めての来日による日米首脳会談について新聞社説はどう論じたか。

(1)大手新聞3紙社説(09年11月14日付)
 その見出しと要点を紹介する。要点は日米同盟をどう論じているかを中心に取り上げる。

*朝日新聞社説=日米首脳会談 新しい同盟像描く起点に 
 さまざまな分野で協力を強化する日米同盟の「深化」。半世紀に及んだ自民党政権にとってかわった鳩山民主党政権にとって、日本の安全保障と外交の基本を米国との同盟に置くこと、地球規模の課題でも信頼できる同盟パートナーであり続けること、の2点を米大統領と確認しあった意味は大きい。
 首脳会談では、地球温暖化対策や「核なき世界」への取り組みなどで一致してあたることを合意した。
 鳩山首相が選挙で訴えてきたテーマでもある。従来の、安保と経済に偏りがちだった日米協力が新しい次元に入るということだろう。日本の有権者は歓迎するに違いない。21世紀の同盟のあり方を描き出す起点としたい。

*毎日新聞社説=日米首脳会談 連携の舞台が広がった 安保50年へ信頼深めよ
 鳩山由紀夫首相とオバマ米大統領が会談し、来年の日米安保条約改定50年へ向け同盟関係を発展させていくことを確認した。日米両国やアジア・太平洋地域の安定に寄与してきた同盟関係を、地球温暖化やエネルギー問題、核拡散など21世紀の世界が直面している地球規模の課題に対処するために強化しようという試みは時代の要請に沿ったものだ。両首脳の合意を評価したい。
 日本は軍事以外の分野での役割を広げる中で相互補完的な関係を構築することを模索すべきだろう。鳩山首相も会見で「日米同盟は安全保障のみに限らない。防災、医療・保健、教育、環境問題など、さまざまなレベルで日米がアジア・太平洋地域を中心に協力していくことによって深化させることができる」と述べた。

*読売新聞社説=日米首脳会談 同盟深化へ「普天間」の決着急げ
 首相は、来日したオバマ米大統領との会談で、来年の日米安保条約改定50周年に向けて、同盟関係を重層的に深化させるための政府間協議を開始することで合意した。
 同盟を深化させるという以上、米海兵隊普天間飛行場の移設問題は避けて通れない。政府は、今年中に現行計画の推進を決断し、決着させるべきだ。
 安保条約の根幹は、米国が日本防衛の義務を負う代わりに、日本が米軍の国内駐留を認めるという相互依存の関係にある。
 今後も、従来と同様、日米同盟の強化が日本の国益にかなう道と言えよう。鳩山首相は、日米同盟の意義を改めて熟慮したうえ、普天間問題の解決に取り組んでほしい。

(2)米軍の普天間基地移設が焦点となっている沖縄の琉球新報社説
 琉球新報社説の見出しと要点を紹介する。

*琉球新報社説(11月14日付)=鳩山・オバマ会談 軍事同盟より民生の鎖を 
 懸案の米軍普天間飛行場移設問題に関しては公表内容を見る限り、最小限のやりとりにとどまった。突っ込んだ議論を期待した県民は肩透かしを食った格好だ。
 人権を説く大統領に、友愛が口ぐせの首相。その2人が「県外・国外移設」を求める沖縄の民意を踏まえた形で問題解決への道筋を示せば、鳩山・オバマ時代の到来をアピールできたはずだ。好機を逃した印象は否めない。
 来年は日米安全保障条約改定から50年の節目だ。軍の論理がまかり通った世紀が終わり、人道を最優先に考える時代が始まるととらえたい。同盟関係も軍事偏重から、人々のきずなを深める「民生の鎖」づくりに軸足を移すほうが賢明だ。それならアジア太平洋地域の人々も大いに歓迎するだろう。

*琉球新報社説(同月13日付)=オバマ米大統領へ/沖縄基地もチェンジの時 平和賞にふさわしい英断を
 ようこそ、米大統領バラク・オバマ殿。せっかくの機会ですので、沖縄の人々の率直な声、切なる願いを伝えます。日本の国土面積の0.6%にすぎない島しょ県の沖縄に、在日米軍専用施設の4分の3が集中しています。広大なスペースを占有されると、県民が暮らす地域の発展はままなりません。
 米軍機の離着陸や訓練による激しい騒音もさることながら、最も問題なのは、駐留軍に起因する悲惨な事故、残忍な事件が後を絶たないことです。

 普天間飛行場を県内の別の場所に移す現行計画は「危険のたらい回し」にほかなりません。最近の世論調査でも、沖縄の人々の大多数は「県外・国外への移設」を求めています。
 あなたは「新しい時代に合った新しい発想、新しい政治を米国民が求めるからこそ変革は起きる」と説きました。ブッシュ共和党政権を批判し、大統領に就いたのですから、普天間問題でも前政権の日米合意に縛られる理由はないと考えます。

 沖縄には「命(ぬち)どぅ宝」(命こそ宝)という言葉があります。多大な犠牲を払って得た教訓です。小さな島々に、巨大な軍事基地は似合いません。
 「未来は言葉でなく、行動によって築かれる」という大統領の信念に偽りがないなら、強いリーダーシップで、沖縄を「悲劇の島」から「平穏な島」に劇的にチェンジすべきです。平和賞にふさわしい英断と行動を願ってやみません。

▽ 沖縄の「命こそ宝」という悲痛な叫びに耳を傾けよ!

 本土の大手3紙社説と沖縄の琉球新報社説を通読して、感じるのは日米安保体制と在日米軍基地の現状に対する認識度の大きな隔たりである。
 琉球新報はこう主張している。
 来年は日米安全保障条約改定から50年の節目だ。軍の論理がまかり通った世紀が終わり、人道を最優先に考える時代が始まる ― と。
 さらにつぎのようにも訴えている。
 沖縄には「命(ぬち)どぅ宝」(命こそ宝)という言葉があります。多大な犠牲を払って得た教訓です。小さな島々に、巨大な軍事基地は似合いません ― と。

 日本の国土面積の0.6%にすぎない沖縄に、在日米軍専用施設の4分の3が集中している。そのために米軍機の離着陸や訓練による激しい騒音に悩まされるだけではなく、駐留米軍に起因する悲惨な事故、残忍な事件が後を絶たないことである。「人道を最優先に」、「命こそ宝」は心底からの悲痛な叫びと受け止め、耳を傾けなければならないだろう。

一方、本土の3紙社説の主張は、日米首脳会談の内容をほぼそのまま肯定している。朝日、毎日、読売ともに「日米同盟の深化」、「同盟の発展」を高く評価し、読売に至っては「米海兵隊普天間飛行場の移設問題は避けて通れない。政府は、今年中に現行計画の推進を決断し、決着させるべきだ」とワシントンと同類の姿勢で日本政府に決断を迫っている。小沢民主党幹事長流にいえば、「聞いていない」が、読売新聞は本社をワシントンにでも移設したのだろうか?

 朝日、毎日も日米同盟への批判力を失って、日米同盟容認派に転じている。以前は批判力をのぞかせていたように思うが、いつ頃から腰くだけになったのか、不可解である。
 その昔、新聞販売部数を増やそうという意図もあって、日独伊3国軍事同盟やアジア侵略、日米開戦を煽る新聞作りに狂奔した悪しき歴史がある。戦前、戦争中の毎日、朝日の大手2紙が競い合ったのである。まさかその再現めいたものを意図しているわけではないだろうが、危惧の念が消えない。

▽ 日米同盟の深化・発展が目指すものは何か
 
 日米同盟の深化・発展とは一体何を意味するのか。日米首脳会談とその後の記者会見で明らかになった諸点は、上述の各紙社説も論じているが、大要はつぎの通り。

・来年の日米安保50年に向けて、同盟深化のための日米間の新たな協議を始めることで一致した。
・首相は、会談で日米同盟が「日本外交の基軸」としたうえで、「米国による核の傘、ミサイル防衛、宇宙など従来の安全保障分野に限らず、新しい課題 ― 防災、医療・保健、教育、環境など ― も含めた協力の強化進めていきたい」と述べた。
・米軍の普天間基地移設問題で、首相は早期解決を目指す考えを表明した。
・「核のない世界」を目指す考えで日米が一致した。
・大統領は、広島、長崎を将来訪問できれば「非常に名誉」と発言した。
・地球温暖化を促す温室効果ガスを2050年までに80%削減することで合意した。
・アジア太平洋における米国の存在の重要性を確認した。

 さらにつぎのような日米共同声明とメッセージを発表した。
・「核のない世界」に向けた日米共同声明=日米政府は「核兵器のない世界」を実現する決意を確認する。
・気候変動交渉に関する日米共同メッセージ=両首脳は、低炭素型成長への転換が世界経済を再生させるうえで、中心的な役割を果たすとの認識を再確認した。両国は2050年までに(温室効果ガスの)排出量80%削減を目指すとともに、同年までに世界の排出量を半減させるとの目標を支持する。

 以上から分かるように、日米同盟深化・発展の具体的な中身は、「従来の安全保障分野」に限らず、鳩山首相の唱える「新しい課題」も視野に含めることを意味している。前者の「従来の安全保障分野」とは、いうまでもなく在日米軍基地の存在を前提とする日米軍事同盟の問題である。後者の「新しい課題」については、首相は防災から環境まで幅広く取り上げているが、その中心テーマは、共同声明でうたった「核のない世界」実現のための日米協力であり、もう一つは共同メッセージで明示した「地球温暖化防止」のための日米協力だと受け止めたい。

▽ 日米軍事同盟から日米友好平和条約へ転換を

 さて以上の日米同盟の深化・発展について疑問点を指摘しないわけにはいかない。まず日米軍事同盟そのものの存在価値が疑問視される情勢となってきた。日米軍事同盟の根幹をなしているのが在日米軍事基地であり、そこからの海外派兵を当然視するわけにはいかない。その負(マイナス)の影響が大きすぎるからである。米軍基地の海外への撤去を視野に入れて、検討を始めることを提案したい。
 さらに日米同盟の深化・発展の新しい柱として「核のない世界」と「地球温暖化防止」のための日米協力が挙げられている。この新しい次元の日米協力の方向には異論はない。大いに推進すべきである。問題はこの日米協力を進めるうえで、なぜ日米軍事同盟という古い日米安保体制が前提になるのか、なぜ在日米軍基地が必要なのか、である。いつまで軍事基地に執着しているのか、不思議である。新次元の日米協力を進めるためにはむしろ「脱・安保」への視座が不可欠だと考える。つまり現行の日米安保条約から新しい日米友好平和条約に切り替える好機ととらえることはできないか。日米友好関係の増進によって「日米協力」の実をあげていく。これこそ本物の対等な日米関係構築のための「チェンジ(変革)」ではないのか。軍事同盟が前提である限り、対等の日米関係はあり得ない。

(1)日米軍事同盟の存在価値は疑問である
 上述の読売新聞社説はこう主張している。
 安保条約の根幹は、米国が日本防衛の義務を負う代わりに、日本が米軍の国内駐留を認めるという相互依存の関係にある ― と。

日本列島には沖縄をはじめ広大な米軍事基地網が張りめぐらされているが、その法的根拠となっているのが日米安全保障条約(1960年改定)第6条(基地の許与)である。日米安保体制信奉者たちは「日本の防衛のため」と称しているが、事実はそうとは限らない。現実には米国の軍事的覇権主義行使のための前方展開基地として機能している。
 特に沖縄駐留の米海兵隊は海外で軍事作戦を展開するのが本来の任務である。沖縄などはかつてのベトナム戦争、そして現在のイラク、アフガニスタンへの米軍侵攻のための出撃基地としての役割を担って来たし、現在もそうである。ベトナム、イラク、アフガニスタンのいずれも日本を攻撃する恐れがあるから、それを防止するために、すなわち「日本防衛のため」に米軍が出撃したわけではない。

 ベトナム戦争では多くの犠牲者を出して、米軍が敗退した。オバマ米政権はアフガニスタンへの米軍増派を検討しているが、現地の犠牲者はいうまでもなく、米軍側の犠牲者も急増しており、「第二のベトナム化」が次第に明白になりつつある。そういう米軍の海外戦争の足場としての在日米軍基地そのものの存在価値が疑問視される情勢となってきた。

軍事同盟は本来、存続するためには常に「敵の存在」を必要とするので、あえて「敵」が意図的に創作される。ブッシュ前米政権時代にイラン、イラク、北朝鮮などを「悪の枢軸」として敵視し、イラクには現実に侵攻した。「大量破壊兵器の存在」がその口実とされたが、大量破壊兵器は存在していなかった事実がすでに判明している。虚構に基づく「正義なき侵攻」だった。
 日本では北朝鮮の脅威が、核開発、拉致問題などもからんで喧伝されるが、オバマ政権はブッシュ前政権と違って、敵視する姿勢ではなくなっている。そこには「チェンジ」の跡がうかがえる。

 鳩山首相は11月15日、シンガポールで開かれたアジア太平洋経済協力会議(APEC)首脳会議のため滞在中のホテルで「アジアへの新しいコミットメント(関与) ― 東アジア共同体構想の実現に向けて」と題して講演した。つぎのように指摘した点に注目したい。
 過去の戦争で日本が被害を与えたアジア諸国との「真の和解」が達成されていない。「不戦共同体」としての欧州連合(EU)をモデルに東アジア共同体構想の実現を目指したい ― と。
 この認識には賛成したい。首相が東アジア共同体構想を「不戦共同体」と認識するのであれば、なおさらのこと、この「不戦共同体」にとって、戦争を辞さない多数の在日米軍基地を抱える日米軍事同盟はふさわしくないのではないか。首相の発言は立派ではあるが、つじつまの合わないところが多いのが気がかりである。

(2)「核なき世界」と「温暖化防止」の日米協力に軍事基地は不要
 何よりも21世紀の今日、軍事力そのものの有効性、打開力が失われている。軍事的脅威よりもむしろ地球温暖化に伴う災害のほか、新型インフルエンザ、世界的な貧困・飢餓、劣悪な保健・衛生、水や教育の不足 ― など多様な脅威が地球上の切実な課題になっているからである。
 世界の年間軍事費は米国を筆頭に総額120兆円にものぼり、巨大な浪費となっており、軍事費を削減して、民衆の暮らしの質的改善に回せ、という声が地球上に響き渡っている。
 だからこそ「核なき世界」の創出と「温暖化防止」の実現は急務と言うべきであり、この分野での日米協力が軌道に乗れば、大きな世界貢献となるだろう。ただし在日米軍基地を背景に軍事力をちらつかせながらの日米協力はいただけない。それは血の匂うような負の世界貢献となるほかないだろう。

米国との2国間軍事同盟は急速に時代遅れになりつつある。米軍基地の撤去を求め、米国の支配から離脱しつつある中南米諸国の動きがその顕著な事例といえる。真の意味で対等な日米関係の構築を目指すのであれば、ここは日米安保体制の質的改革、つまり日米安保条約破棄によって日米友好平和条約に切り替え、日米関係の在り方の大転換を図るときである。そういう新しい日米関係の枠組みの中でこそ、「核なき世界」、「温暖化防止」の日米協力を進めたい。

ついでながら日米安保条約第10条(条約の終了)を想起したい。こう定めてある。
「いずれの締約国も、他方に対し、この条約を終了させる意思を通告することができ、その場合、この条約は通告後1年で終了する」と。
 これは一方的な破棄が可能な規定といえるが、だからといって事を荒立てる必要はない。「現行安保条約を日米友好平和条約に切り替えたい。ついては米軍基地はすべてお引き取り願いたい」と冷静に申し出るのが賢策である。民主党政権にそれができるかどうかは未知数だが、鳩山首相の唱える「対等な日米関係」を実現させるには目下のところ、この方策以外の手は見出せない。

 問題は米国政府がどういう反応を示すかである。反対のための高圧的な態度に出る可能性も否定できない。その時には在日米軍基地は、メディアも含めて日米同盟容認派が頑迷に思い込んでいる「日本防衛のため」ではなく、本音(ほんね)では米国主導の軍事的覇権主義のための前方展開基地であることを米政府自身が告白したも同然となる。そこでやっと気づくようでは遅すぎて、日本人はお人好し、ともいえるが、気づかないよりはましと腹を決めて、「対等な日米関係とは何か」を国民的規模で考え直す好機としたい。


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経済界のリーダーシップ論を採点
明治時代の渋沢栄一翁に学ぶとき

安原和雄
 経済界で目下、リーダーシップ論が盛んである。経済団体の一つ、経済同友会の「大きな時代変化の中でリーダーシップを考える」はその具体例である。「大きな時代変化」として、あの企業利益至上主義の新自由主義(=市場経済原理主義)路線の破綻を挙げることができる。ただあえてその論議を採点すれば、破綻したはずの企業利益至上主義を克服できないまま、模索が続いているという印象が消えない。
 明治時代の財界巨頭で、「日本資本主義の父」ともうたわれる渋沢栄一翁は社会的に必要な事業かどうかを第一に重視し、利損(利益と損失)は第二と考え、実践した。今、渋沢翁が生存していれば、利損を第一に考え、右往左往する企業トップの多い現状を慨嘆し、戒めるに違いない。21世紀版リーダーシップ論を発展させるためにも、「日本資本主義の父」の戒めに耳を傾け、学ぶときではないか。(09年11月7日掲載。インターネット新聞「日刊ベリタ」、公共空間「ちきゅう座」に転載)

▽経済同友会のリーダーシップ論議

 日本経団連、日本商工会議所と並ぶわが国の代表的な経済団体の一つ、経済同友会(代表幹事・桜井正光リコー会長)はリーダーシップ論議に取り組んでいる。テーマは「大きな時代変化の中でリーダーシップを考える」で、去る2003年度から始めて、08年度の活動は5期目となった。最新の『経済同友』(経済同友会のオピニオン誌・09年10月号)が08年度の活動内容を特集(テーマは「次世代を担うリーダーへ ~ イノベイティブ・トップリーダーとの対話から、学び・考える」)している。その概要を以下に紹介する。

 講師(一部)の講話(要旨)はつぎの通り。
*今道友信氏(東大名誉教授)=4つの社会的な徳
 リーダーがいなければ危機を救うことはできない。平時には必要ないように見えても、危機の時に必要とされる人がリーダーである。自ら立てた理念を求め続け、それを理解して貰うためによく話し合うこと、高い理念や強い使命感、奉仕の心を持つことも大切だ。仲間に感謝し、さらに自らの去る時期も考えなければならない。哲学で言う4つの社会的な徳、「正義」「中庸・賢慮(Prudence)」「勇気」「節制」を自分なりに身に付けてほしい。

*桜井正光氏(経済同友会代表幹事)=変革のためのリーダーシップ
 まずビジョンを描くことが大切である。ビジョンがあって、将来を予測する。それを原点にして現在とのギャップをつかんでいけば、変革しなければならない要素がおのずと見えてくる。また変革はリスキーなことなので、率先垂範、行動力も大切となる。トップが自ら先頭に立って旗を振り続けない限り、変革は進まない。当然のことながら変革の理由・背景を説明することは必要である。

*小枝 至氏(経済同友会副代表幹事・日産自動車相談役名誉会長)=国際競争の中で
 国際競争の中で求められることは、会社全体の現状を正確に把握すること、また多様性に対する認識を高めて、日本独自の文化、歴史、言語を理解し、他の文化や考え方に対する評価尺度を持つことが必要になる。さらに日本ブランドの価値を認識してその維持向上に努めること、リーダーが魅力的なビジョン・計画を示すことが必要だ。

*細谷英二氏(りそなホールディングス代表執行役会長=「りそな再生」に学ぶ教訓
 変化に鈍感な組織は滅びる。「離見の見」― 自分の姿を一歩離れたところでどう見られているかを意識する ― このような視点で自らの戦略を変える気概と行動力がなければ、組織は変わらない。日本の組織の最大の欠陥は、論理的な議論を回避することにある。きちんと議論を戦わせる風土がないと、企業は衰退する。雑音や足を引っ張られることがあっても、誠心誠意やり続ければ、必ずお天道様は見ていてくれる。

*長谷川閑史氏(経済同友会副代表幹事・武田薬品工業社長)=高い倫理観、価値観
 リーダーに求められる資質とは、「高い倫理観と揺るぎない価値観」だ。企業トップになる人は、会社に対して倫理上、コンプライアンス(法令遵守)上で迷惑をかけることがない、という覚悟を持つこと、その覚悟がない人はトップになるべきではない。また自分なりの価値観を身に付けることが非常に大事だ。それは本人が苦慮し、努力し、本などを読んで自ら育んでいくものだ。常に人の意見を聞き、謙虚に学ぶ姿勢を忘れてはならない。

*中村邦夫氏(パナソニック取締役会長)=大きな地殻変動の兆し
 今、大きな地殻変動の兆しが見えてきた。脱・石油、エネルギー、環境産業革命だ。環境・ECOにつながっていない企業は消滅し、まだ小さいがECOに集中・特化しているベンチャーは巨大な企業になっていくだろう。経営とはイノベーションであり、大変なことでも変えていかないと、潰れてしまう。若い人には是非チェンジ・リーダーになってほしい。世界の中の日本という観点で、将来を眺めていくと、面白いことが発見できる。

*北城恪太郎氏(前経済同友会代表幹事)=高い志と迅速な意思決定
 高い倫理観・価値観、高い志がなければリーダーにはなれない。その上で迅速に意思決定をして実行することが大切だ。的確な判断をするには、都合のよい情報ばかりが正しい情報では決してないことを認識する必要がある。問題があれば軌道修正をする勇気がなければ、変化の速い時代には成功しない。そしてこれをやってやろうという情熱(Passion)が大事だ。組織の活性化さらに人材育成もリーダーの重要な役割だ。

 以上の講話のなかから経済界リーダーの必要条件を拾い出してみると、以下のようである。
・4つの社会的な徳、「正義」「中庸・賢慮」「勇気」「節制」
・変革のためのビジョン、率先垂範・行動力
・日本ブランドの価値を認識
・議論を戦わせる風土
・高い倫理観と揺るぎない価値観
・脱・石油、環境産業革命
・高い志と迅速な意思決定

▽企業の社会貢献と利益の還元を

 瀬戸内海などを足場に現代アートを核にした地域振興支援を積極的に進めている福武總一郎氏(ベネッセ会長)は「企業の社会貢献として利益の還元を」などと以下のように主張している。(毎日新聞09年10月30日付のインタビュー記事・要旨から)

 何のための企業活動か、人にとっての幸せとは何か、真剣に考え、社名も福武書店から「よく生きる」という意味のベネッセに変更した。
 「あるものを活かし、ないものを創る」発想が必要だ。「あるものを壊して、ないものを創る」― 現在主流のそんな文明史観を覆したい。

 年を取れば取るほど幸せでなければならないのに、現代社会は若者に目を向けすぎだ。人生経験を積んだお年寄りが笑顔でいられるような地域でなければ、人は幸せになれない。また物質的に豊かでも、精神的に豊かでなければ幸せになれない。企業も経済活動で富を生み出すが、それだけでは豊かな社会は築けない。社会的な存在である企業は精神的にも満ち足りた暮らしのために、利益を還元すべきだ。「経済は文化のしもべ」であると言っている。
 環境問題は子どもたちの未来にかかわる重要なテーマだ。

 祖父がクラレに勤めていて、私の名前は大原孫三郎(注)の長男總一郎さんからもらった。孫三郎は美術館のほか、病院、学校、社会問題研究所などもつくり、企業経営と社会貢献を車の両輪として進めた。最も尊敬する経営者だ。(以上、記事から)

(注・安原)大原 孫三郎(おおはら まごさぶろう、1880 ~1943年)は倉敷紡績、倉敷絹織、倉敷毛織、中国合同銀行(中国銀行の前身)、中国水力電気会社(中国電力の前身)の頭取、社長などを務めた。社会、文化事業にも熱心に取り組み、大原社会問題研究所(現法政大学大原社会問題研究所)、大原美術館などが知られる。1926年設立の倉敷絹織が現在のクラレの前身。

 福武氏が企業経営者の必要条件あるいは不可欠な発想として挙げているのは、以下のようである。同氏にはリーダーシップ論という感覚はないかもしれないが、福武流リーダーシップ論と受け止めたい。
・人にとっての幸せ
・「よく生きる」
・「あるものを活かし、ないものを創る」発想
・お年寄りが笑顔でいられるような地域づくり
・社会的存在である企業は利益を還元すべきだ
・「経済は文化のしもべ」
・環境問題は子どもたちの未来にかかわる
・企業経営と社会貢献は車の両輪

▽新自由主義路線にこだわるのか、それとも拒否するのか

 上述の経済同友会のリーダーシップ論と福武氏の考え方とを比較すると、その違いの大きさが際立っている。その背景にあるものは何だろうか。結論から言えば、あの破綻(はたん)したはずの新自由主義(=市場経済原理主義)路線の残影の中で企業経営の在り方を追求するのか、それとも新自由主義路線を拒否する位置で企業経営の方向を模索しつづけるのか、その違いではないか。
 もちろん前者は経済同友会の面々であり、後者の立場が福武氏だと考える。私が審査員なら軍配はもちろん後者の福武氏に挙げたい。
 同氏は大原孫三郎について「美術館のほか、病院、学校、社会問題研究所などもつくり、企業経営と社会貢献を車の両輪として進めた。最も尊敬する経営者だ」と言い切っている。今どき、敗戦(1945年)以前の明治憲法下で活躍した企業人・大原孫三郎の「経営者としての社会貢献論」を持ち上げる企業トップも珍しいのではないか。それだけでも評価に値する。

 といっても経済同友会の講師たちが口々に指摘しているリーダーシップ論が間違っているというのではない。正義、変革のビジョン、高い倫理観、高い志 ― などどれも言葉としてはもっともである。立派すぎるともいえる。
 しかし例えば正義の旗を振りかざしながら悪事を働く事例が歴史上多すぎないだろうか。21世紀初頭の事例ではブッシュ前米大統領のアフガニスタン、イラクへの侵攻作戦もたしか正義の旗を掲げての蛮行ではなかったか。

 正義はもちろんのこと、変革のビジョン、高い倫理観、高い志のいずれもリーダーには不可欠の資質である。問題は、その具体的な中身である。正義とは何を意味するのか、何をどう変革するビジョンなのか、高い倫理観とはどういう行動原理なのか、高い志とは、何を実現しようとする志なのか、その具体的な説明がなければ、ただの作文にすぎない。『経済同友』の特集からは、その具体的中身が伝わってこない。

 福武氏は「企業の社会的貢献」、いいかえれば「企業の社会的責任」(CSR)にこだわっている。その一環として「利益の社会還元」を唱えている。これは社会からいただいた企業利益の一部を社会にお返ししたい、という発想だろう。この発想はまさしく貪欲な利益追求至上主義の新自由主義路線とは異質であり、望ましい経営姿勢である。
 これに対し、経済同友会のリーダーシップ論からは、「企業の社会的責任」「利益の社会還元」という発想はうかがえない。むしろ企業内リーダーシップの発揮によって、利益を確保し、企業の生き残り、さらなる成長を目指すための「変革のビジョン」「高い志」が見え隠れしている。そうだとすれば、これは新自由主義路線の残影の中での模索というほかないだろう。

▽ 明治の実業家、渋沢栄一翁に学ぶとき

 日本資本主義の父ともいうべき存在で、明治・大正の財界巨頭、渋沢栄一翁(注)の「論語・算盤」説(「道徳経済合一」説、「利義合一」説とも呼ばれる)は有名である。21世紀の企業トップのリーダーシップ論を考える上でも、今こそ、この「論語・算盤」説に学ぶときではないか。その核心となっているのが『論語』の次の名句である。
 (注)渋沢栄一(1840~1931年)は、日本最初の銀行「第一国立銀行」(旧第一勧業銀行の前身)を創設し、頭取に就任したほか、引退するまでに500余の企業の設立に関係、さらに東京商工会議所(1878年設立)の初代会頭に就任。教育分野にも関心を抱き、一橋大学の創立と発展に貢献した。著書は『論語講義』(全七巻・講談社学術文庫)、『論語と算盤』(大和出版)など。

◆「君子(くんし)は義に喩(さと)り、小人(しょうじん)は利に喩る」
〈大意〉君子、つまり立派な人は正しいか正しくないかという道義、道理中心に考え、行動するが、小人、つまりつまらない人間は利にさとく損得を中心に考え、行動する。
◆「利によりて行えば、怨(うら)み多し」
〈大意〉治者はもちろん、たとえ一個人にしても自己の利益のみを図る者は、他の怨みを取ることが多い。
◆「不義にして富み、かつ貴(たっと)きは我において浮雲のごとし」
〈大意〉道義、道理に反して得た富貴はまさに浮雲に等しく、いかえればバブルにほかならない。

 私(安原)は10年ほど前、渋沢栄一記念館(埼玉県深谷市)を訪ね、渋沢の録音講演を聞いたことがある。少し高い調子の声でつぎのように話しているのが印象に残った。
「経済は道徳とともに進まなければならない・・・」と。

 さて渋沢自身は自らの「論語・算盤」説をどう実践したのか。「君子は義に喩り、小人は利に喩る」に関連して、次のように述べている。
 (注)「喩」は感得の意。「利」は私慾をいう。

 「今日世に処するに、義に喩った方が利益であるか、利に喩った方が利益であるか、利に喩るのがむしろその人の利益になる場合がある。少なくとも目前の利益は確実なる場合がある」
 「投機は絶対にせぬ。(中略)(値上がりする株を)買い入れて利益を占めたとすれば、世人より投機者流とみられ、世間の信用を失うようにならぬとも限らぬ。すなわち一時は利益を得ても永い歳月の中には大いに損をすることになる」
 「余はいつでも事業に対するときには、まず道義上より起こすべき事業か、盛んにすべき事業かどうかを考え、利損は第二位において考えることにしている。もとより利益を度外に置くことは許されぬが、事業は必ず利益を伴うと限ったものではない。利益本意であれば、利益の上がらぬ事業会社の株は売り払うことになり、必要な事業を盛んにすることができなくなる。そう考えて事業を起こし、これに関与し、あるいは株を所有する。ただし株が騰貴するだろうと考えて、株をもったことはない」(『論語講義』(二)p53~55)

 要するに渋沢は次の諸点を強調している。昨今の利益追求至上主義の虜(とりこ)になっている企業経営者にとっては耳の痛い忠言であろう。特に「事業の利損は第二位に考える」は市場原理主義者らにとって戒めの助言となっている。
*投機は絶対にせぬこと
*道義上、つまり社会的に必要な事業を盛んにすることを第一位に考えること
*事業の利損は第二位に考えること
*騰貴を目当てに株を持ったことはないこと


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「いのちのための経済」を提唱する
鳩山首相初の所信表明演説を読んで

安原和雄
鳩山政権に対し、公共事業を削減して福祉・雇用などの予算増加を図るなど目先の政策には積極的だが、どういう経済社会をめさすのかという長期的ビジョンに欠けるという批判がある。そうだろうか。首相初の所信表明演説で「いのち」の大切さと、「人間のための経済」を説いた。首相としては「人間のための経済」は長期的ビジョンのつもりなのだろう。問題は長期ビジョンの有無ではなく、その質ではないか。
 「人間のための経済」は一見批判の余地のないビジョンのようだが、実はそうではない。21世紀の時代感覚からいささかずれている。なぜなら「人間のための経済」にこだわると、自然や動植物を含む地球全体の「いのち」を視野から遠ざけるからである。今こそ地球全体と人間の「いのち」を視野に収めた「いのちのための経済」を提唱するときではないか。(09年11月1日掲載。公共空間「ちきゅう座」、インターネット新聞「日刊ベリタ」に転載)

 首相所信表明演説(全文)を繰り返し読んだ。政権交代後初めてであり、さすがに変革(改革、転換を含む)の文言が多い。数えてみると、16回も使われている。当然であり、驚くにあたらない。むしろ私(安原)が注目したのは「いのち」が7回も出てくることである。自民・公明政権時代の所信表明演説との違いはここにあるのではないかという印象を受けた。
 鳩山演説の構成はつぎのようになっている。
一 はじめに
二 いのちを守り、国民生活を第一とした政治
三 「居場所と出番」のある社会、「支え合って生きていく日本」
四 人間のための経済へ
五 「架け橋」としての日本
六 むすび

▽「いのち」はどういう文脈で使われているか

 さて「いのち」はどういう文脈で使われているのか。その具体例を紹介する。なお文中の「いのち」のカギ括弧は私(安原)が付記した。

(その1)友愛政治の原点
 青森県に遊説に参った際、大勢の方々と握手させていただいた中で、私の手を放そうとしない、一人のおばあさんがいられた。息子さんが職に就けず、自らの「いのち」を絶つしか道がなかった、その悲しみを、そのおばあさんは私に対して切々と訴えられた。毎年3万人以上の方々の「いのち」が、絶望の中で絶たれているのに、私も含め、政治家にはその実感が乏しかったのではないか。おばあさんのその手の感触。その目の中の悲しみ。私には忘れることができないし、断じて忘れてはならない。社会の中に自らのささやかな「居場所」すら見つけることができず、「いのち」を断つ人が後を絶たない、しかも政治も行政もそのことに全く鈍感になっている、そのことの異常を正し、支え合いという日本の伝統を現代にふさわしい形で立て直すことが、私の第一の任務である。
 かつて、多くの政治家は、「政治は弱者のためにある」と断言してきた。大きな政府とか小さな政府とか言うその前に、政治には弱い立場の人々、少数の人々の視点が尊重されなければならない。そのことだけは、私の友愛政治の原点として、ここに宣言させていただく。
(その2)国民の「いのち」と生活を守る政治
 本当の意味での「国民主権」の国づくりをするために必要なのは、まず、何よりも、人の「いのち」を大切にし、国民の生活を守る政治である。

 以上のように「いのち」を大切にする基本姿勢を述べた上で、年金、医療、介護、子育てや教育、生活保護、障害者支援、先住民族の歴史や文化の尊重 ― などについて多面的に言及している。

▽鳩山演説は「人間のための経済」を提唱

 一方、鳩山演説は「人間のための経済」への転換を提唱している。「人間のための経済」とは何を目指すのか。その具体例を紹介する。

(その1)強者優先、経済合理性の追求は成り立たない
 市場における自由な経済活動が、社会の活力を生み出し、国民生活を豊かにするのは自明のことである。しかし、市場にすべてを任せ、強い者だけが生き残ればよいという発想や、国民の暮らしを犠牲にしても、経済合理性を追求するという発想がもはや成り立たないことも明らかだ。

(その2)暮らしの豊かさと安心を求めて
 私は、「人間のための経済」への転換を提唱したいと思う。それは、経済合理性や経済成長率に偏った評価軸で経済をとらえるのをやめようということである。経済面での自由な競争は促しつつも、雇用や人材育成といった面でのセーフティネットを整備し、食品の安全や治安の確保、消費者の視点を重視するといった、国民の暮らしの豊かさに力点を置いた経済、そして社会へ転換させなければならない。
 年金、医療、介護など社会保障制度への不信感からくる、将来への漠然とした不安を拭い去ると同時に、子ども手当の創設、ガソリン税の暫定税率の廃止、さらには高速道路の原則無料化など、家計を直接応援することによって、国民が安心して暮らせる「人間のための経済」への転換を図っていく。そして物心両面から個人消費の拡大を目指していく。

(その3)「緑の産業」と「コンクリートから人へ」
 内需を中心とした安定的な成長を実現することが極めて重要となってきた。世界最高の低炭素型産業、「緑の産業」を成長の柱として育てあげ、国民生活のあらゆる場面における情報通信技術の利活用の促進や、先端分野における研究開発、人材育成の強化などにより、科学技術の力で世界をリードするとともに、今一度、規制のあり方を全面的に見直し、新たな需要サイクルを創出する。
 公共事業依存型の産業構造を「コンクリートから人へ」という基本方針に基づき、転換していく。暮らしの安心を支える医療や介護、未来への投資である子育てや教育、地域を支える農業、林業、観光などの分野で、しっかりとした産業を育て、新しい雇用と需要を生み出す。

(その4)「地域主権」改革の断行
 「人間のための経済」を実現するために、私は、地域のことは地域に住む住民が決める、活気に満ちた地域社会をつくるための「地域主権」改革を断行する。

▽「人間のいのち」、「人間のための経済」にひそむ限界

 以上のように鳩山演説は、「いのち」の大切さを力説しながら、他方で「人間のための経済」への転換を説いている。この鳩山演説を読んで直ちに感じた疑問は、「いのち」とは何を指しているのか、である。「いのち」といえば人間に限らず、自然界の動植物など生き物すべての「いのち」を視野に収める「広いいのち観」もあるが、鳩山演説では「人間のいのち」に視野を限定している。ここではあくまでも人間が中心であり、「狭いいのち観」である。といってももちろん「人間のいのち」を尊重することそれ自体に異論はない。

鳩山首相はつぎのように述べている。
 毎年3万人以上の方々の「いのち」が、絶望の中で絶たれているのに、私も含め、政治家にはその実感が乏しかったのではないか ― と。
 「友愛政治」を説く政治家として当然の反省であろう。自民・公明政権時代には多数の自殺者への思いやりはほとんどうかがえなかったのに比べれば、評価できる。
 「コンクリートから人へ」という民主党政権のスローガンも悪くはない。「人間のための経済」の一環として位置づけることもできよう。公共事業という名の、人間を軽視したコンクリートづくめの政治をもはや受け容れることはできない。

しかし日米同盟、在日米軍再編問題となると、途端に曖昧な姿勢が顕著になる。焦点の米軍普天間基地(沖縄)の移設については所信表明でつぎのように述べた。 
 在日米軍再編については、安全保障上の観点も踏まえつつ、過去の日米合意などの経緯も慎重に検証した上で、沖縄の方々が背負ってこられた負担、苦しみや悲しみに十分に思いをいたし、地元の皆さまの思いをしっかりと受け止めながら、真剣に取り組んでいく ― と。

 民主党はたしかマニフェスト(政権公約)などで普天間基地移設について「県外、国外移転」をうたっていたはずだが、ゲーツ米国防長官の来日以来、それが不明確になってきている。マニフェストにこだわる民主党にしては不可解というほかない。軍事基地こそ「人間のいのち」と深くかかわっているにもかかわらず、八方美人的な姿勢に終始している。そこに鳩山演説の「人間のいのち」と「人間のための経済」に限界を感じる。

▽「いのちのための経済」を求めて(1) ― 生命中心主義の潮流

 「人間のための経済」に限定しないで、もっと視野を広げて、「いのちのための経済」を追求するときである。なぜそういえるか。
 まずいのち(生命)尊重(=生命中心主義)と人間尊重(=人間中心主義)とは質的に異なっていることを指摘したい。仏教思想ではいのちとは人間に限らず、地球上の生きとし生けるものすべてのいのちを指している。人間も動植物も平等であり、人間だけが格別上位に位置しているわけではない。これが仏教思想の生命中心主義であり、平等観である。 これに対し人間を万物の霊長として自然、動植物を支配する位置に押し上げているのがキリスト教的人間中心主義といえる。キリスト教の世界である欧米では生きとし生けるものすべてのいのちではなく、「人間のいのちの尊厳」がしばしば強調される。

 以上のようないのち尊重(=生命中心主義)という考え方が20世紀末からの新しい大きな世界的な潮流になってきていることに着目したい。
 一例を挙げれば、1982年の国連総会で採択された「世界自然憲章」の前文は、「あらゆる生物はかけがえのないものであり、人間にとって価値があるかないかに関係なく、それ自体、尊敬に値する。また人間以外の生物をそのように価値あるものとして承認するためには、人間が道徳的な行動規範をもたなければならない」と述べている。

 もう一つ、国際自然保護連合(IUCN)、国連環境計画(UNEP)、世界自然保護基金(WWF)の共同報告『新・世界環境保全戦略 かけがえのない地球を大切に』(Caring for the Earth―A Strategy for Sustainable Living 1991)を紹介したい。「生命共同体の尊重と保全」について次のように述べている。
 「互いの人々および地球に対し、私たちが示すべき尊重と思いやりは、持続可能な生活様式のための倫理という形で表現される。この倫理は、(中略)この惑星を人間と分かち合っている他のすべての生物に、私たちが責任をもっていることを強調している。そして自然は人間の必要を満たすために守るだけでなく、本来それ自体、保護されなければならないものであるとしている。(中略)すべての生物種と生態系は、人間にとって利用価値のあるなしにかかわらず尊重しなければならない」と。

 世界自然憲章のなかの「あらゆる生物は、人間にとって価値があるかないかに関係なく、それ自体、尊敬に値する」、さらに『新・世界環境保全戦略』の「自然は本来、それ自体保護されなければならない」という認識は、自然を人間にとっての手段と考える人間中心主義ではなく、生命中心主義を尊重する思想の表明である。そういう生命中心主義の思想は今では国連などの場で国際的に認知されてきていると理解できよう。
 『新・世界環境保全戦略』が発表された翌年(1992年)の第一回地球サミット(ブラジルのリオデジャネイロで開催)で採択されたリオ宣言にキーワードとして「持続可能な発展」(=持続的発展・Sustainable Development)という概念、思想が盛り込まれたが、その持続的発展は人間中心主義ではなく、生命中心主義と深く結びついているものと理解したい。

▽「いのちのための経済」を求めて(2) ― 簡素な緑の経済を

 以上のような世界の新しい思想的潮流に着目すれば、「人間のための経済」ではなく、「いのちのための経済」への転換をこそ提唱しなければならない。それが21世紀にふさわしい経済の在り方といえよう。では「いのちのための経済」とはどういうイメージの経済だろうか。私(安原)はその骨格としてつぎの5本柱を挙げたい。
(1)人間に限らず、自然、動植物を含めて、地球上の生きとし生けるものすべてのいのちを尊重すること。
(2)平和=非戦という狭い平和観を超えて、平和=非暴力という広い平和観に立つこと。
(3)平和的共存を重視すること。ただし世界の人々だけの平和的共存に限らず、広く人間と自然との平和的共存も重視すること。
(4)軍事力神話の時代は終わったという認識に立って、非武装の立場を打ち出すこと。
(5)「簡素な緑の経済」をつくる構造変革をすすめること。

 ここでは(1)と(5)について素描するにとどめる。
(1)「地球上の生きとし生けるものすべてのいのち尊重」について
 現代はもはや人間のいのちだけを守ることは困難な時代となっている。なぜなら地球は人間のいのちも自然(生態系)のいのちも合体した広大な生命共同体であり、その共同体丸ごとのいのちを守らなければ、人間のいのちも安全も危ういからである。
 巨大な様々な自然災害が人間社会に襲いかかり、数え切れないほどの多くの人命が犠牲になっている。自然からの逆襲が始まったのである。人間が文明の美名の下に自然を開発・汚染・破壊し、自然のいのちを犠牲にしてきたことの報いともいえる。今日の地球環境保全時代とは、そういういのちの再生をどのようにして達成するかが最重要な課題となってきた時代である。すべてのいのちを尊重する思想と実践を共有することから再生を開始する以外に妙手はない。

(5)「簡素な緑の経済」について
 望ましい平和経済のあり方として「簡素な緑の経済」(=低炭素経済社会)の構築を提唱する。その基本となるのが脱「石油浪費経済」であり、エネルギー(日本は石油の9割を中東地域に依存)の大量海外依存型構造を変革することである。そのためには経済全体を環境破壊・浪費型の生産・消費から環境保全・節約型へと変革しなければならない。
 石油確保に固執することは、しばしば武力行使を伴う。アメリカのイラク攻撃と日本の協力・参戦の背景に「石油資源の確保は国益」という考えがひそんでいる。恒常的な石油不足時代の到来は遠い未来のことではない。武力行使も含めて石油争奪戦が激化し、石油価格が高騰する。そういう持続的経済とは両立しない石油浪費経済の行く末を示す兆候はすでに顕著になっている。
 原子力エネルギーも安全とは無縁であり、リスクが大きすぎる。だからこそエネルギー源が豊富で国産可能な自然エネルギー(風力、太陽光発電など)への転換を急がなければならない。 

 簡素な経済は、脱「経済成長」をめざすが、決して貧しい社会ではない。経済成長とは、生産・消費の量的拡大を意味するにすぎず、生活の質的充実とは無縁である。簡素な経済とは、質の充実した社会、分かりやすくいえば、「いのち、非暴力を重視し、住み良い、生きがいのある社会」にほかならない。
 これは自民・公明政権時代の破綻した新自由主義(=市場原理主義)路線とは異質の「いのちのための経済」をつくっていく変革路線であることを強調したい。


〈ご参考〉安原和雄の論文〈「いのちの安全保障」を提唱する ― 軍事力神話の時代は終わった〉(足利工業大学研究誌『東洋文化』第25号、2006年1月刊)が上の記事の下敷きとなっている。

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