「もっともっと欲しい」の貪欲の経済から、「足るを知る」知足の経済へ。さらにいのちを尊重する「持続の経済」へ。日本は幸せをとりもどすことができるでしょうか、考え、提言し、みなさんと語り合いたいと思います。(京都・龍安寺の石庭)
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創価学会による「日本占領計画」
総選挙後の公明党の去就に注目                   

安原和雄
初めての「政権選択」となる8.30総選挙の結果、民主党が勝利するとしても、もう一つの焦点は第三党公明党の去就ではないか。有り体にいえば、新政権の一翼を担うのか、それとも新政権から去らざるを得ないのか、である。元公明党委員長が明かした〈創価学会「日本占領計画」〉によれば、公明党は創価学会に操られて、「政権与党であり続けることが使命」となっている。「一度でも与党という権力を握ると、その蜜の味が忘れられなくなる」とも記している。
 メディアの予想通り民主党が圧勝すれば、公明党が政権与党の一角に食い込むことは困難だろう。それにしても公明党の去就がどうなるか、その雲行きが気がかりな日本の秋ではある。(09年8月27日掲載、インターネット新聞「日刊ベリタ」、公共空間「ききゅう座」に転載)

▽ 元公明党委員長による内部告発

 元公明党委員長・矢野絢也(注)著『黒い手帖 創価学会「日本占領計画」の全記録』(講談社刊・09年6月)を読んだ。本書のタイトル、「日本占領計画」からして刺激的である。まえがきの見出しも「池田大作名誉会長による独裁国家の建設」となっている。創価学会、さらに公明党の内情は一体どうなっているのか。これは元公明党委員長による内部告発とでも呼ぶにふさわしい内容である。
 (注)矢野氏は、1967年衆議院議員になり、連続9回当選。1986年第4代公明党委員長に就任。1988年汚職事件で公明党議員が相次いで逮捕され、その責任を取って、翌89年委員長を辞任、最高顧問となる。1993年に政界を引退、政治評論家となる。

 まず同書の「まえがき」の要点を紹介しよう。
 本書では私(矢野)がこの数十年間に見聞きし、体験してきた事実を淡々と記し、創価学会と公明党の実態と事件、その底に流れる思想にアプローチしている。
 今、(公明党、学会とも)距離を置いて振り返ってみると、恥ずかしながら、当時の私はマインドコントロールにかかっており、創価学会によって操られていたと思わずにはいられない。池田大作名誉会長の野望 ― 学会の「日本占領計画」、一言でいえば独裁国家の建設 ― を成就させるため、その計画のど真ん中で働いていたのではないか、との思いが日増しに強くなっている。

 創価学会の意のままに動かされている公明党は、自民党と連立政権を組んできた。私の政治家時代などより、はるかに学会の政治への影響力が強まっている。「池田創価学会」によって、日本の民主主義は、今や危機に瀕しているのだ。「日本占領計画」はまさに民主主義にしのびよる「クーデター」といっても過言ではない。

▽ 公明党は政権与党であり続けることが使命

ここでは創価学会が小選挙区制導入のお陰で政権を操れるようになったそのからくりに触れて、「公明党は政権与党であり続けることが使命」「自民党が与党から転落すれば、創価学会は見放す」とまで言いきっている。その要点は以下の通り。

 自民党候補者の基礎票が少なくなって、創価学会でも支えきれなくなり、自民党が与党から転落すれば、学会は見放す。
 今後、政界再編成が行われ、政界地図が大きく変わろうが、一つだけはっきりしていることがある。どのような形になろうと、公明党は与党の一角に加わろうと必死の努力を続ける、ということだ。
 「政権与党であり続けよ」「常に権力の一角に居座れ」は、一つには創価学会の組織防衛本能からでてくるものだろう。
 昔は、野党であるがゆえに「是々非々」(ぜぜひひ)を貫けたともいえるが、一度でも与党という権力を握ると、その蜜(みつ)の味が忘れられなくなる。野党と与党とでは、権力に対するグリップが天と地ほど違うということなのだろう。公明党は今や、与党であり続けることこそが使命になっている。

 二大政党時代といわれながら、第三党の公明党、そのバックにいる創価学会が政権を意のままに操れるような力を得ていることになる。
 このような奇妙な現象を生みだした原因は、皮肉にも二大政党を意図した小選挙区制導入にある。小選挙区制が導入された後五年間、政界再編の渦のなかで翻弄(ほんろう)された公明党だったが、気がつけば、与党の立場を手に入れるとともに、学会は時の政権を動かし得るポジションを得ていた。なぜこのような不思議な現象が起こったのか。

 小選挙区制では三〇〇の選挙区のうち公明党が勝てるのは一〇選挙区ほどで、あとの二九〇は空く。その選挙区では選挙協力によって二大政党のいずれかに学会票を回せる。いいかえれば、学会が選挙協力をした党が政権を握るという構図ができあがっている。(中略)それまで公明党の議席を通じてしか政治を支配できなかったが、学会票で政治を支配できる構図が生まれた。すなわち創価学会直営の政治が実現したのだ。同時に公明党は学会の傀儡(かいらい)でしかなくなってしまった。こうして自民党の派閥領袖(りょうしゅう)さえ、学会票の前にひれ伏すようになった。
 自分たちに不利だと思っていた小選挙区制が実は、政権を牛耳れるほどの強大な権力を創価学会に付与してしまったのだ。これは小選挙区制が議論されたときには、ほとんどの人が気づかなかった。

▽ 日本占領計画のシナリオ ― 政権奪取の青写真

ここでは池田創価学会名誉会長の「日本占領」なるものの野望に言及している。池田会長の理想は自・公政権で、それはすでに実現した。さてそれではつぎは何を狙っているのか。日本占領、つまり政権奪取のために「クーデターもやりかねない怖さがある」という指摘は穏やかではない。要旨はつぎの通り。

 池田氏は、私たちに「天下を取れ」「創価王国をつくる」とハッパをかけた。われわれは半分は夢物語としてしか聞いていなかったが、池田氏の頭の中には、政権奪取までの青写真が描かれていたようにも思える。その青写真によると、第一段階として自民党との連合政権をつくり、第二段階として大臣のポストを三つ(法務、文部、厚生)取る。
 その後勢力を拡大し、総理大臣のポストを取り、政権を完全に掌握し、天下取りを現実のものにするという筋書きだったらしい。

 三つの大臣のポストをまず握るというのもごく自然な発想である。
 内向きの論理で進んでいった創価学会は、過去にたびたび裁判沙汰を起こし、世間から叩かれていた。創価学会への弾圧を阻止するためにも、学会が法務大臣のポストを握っておきたいと考えても不思議ではない。
 宗教法人を管轄しているのは文部省(現文部科学省)の宗教課である。それだけではない。学会は創価学園、創価大学を擁し、学会員の子弟の洗脳教育にも力を注いでいる。文部省を支配下に置くという発想もうなずける。
 公明党は福祉にとくに力を入れていたので、厚生(現厚生労働)大臣のポストを手中にしたいと考えたのも理解できる。

 池田氏は、かつて「学会が自民党候補を応援することがあるのか」と記者に問われて、つぎのように語っている。
 「もともと、私の理想としているのは自・公政権です。国民は自民だと安心します。保守中道なんてスタンスはポーズですよ。本質的にはやっぱり保守だ」
 現在、自民・公明政権が現実になっていることを考えると、この池田発言は意味深長である。
 自民党が分裂すればしたで、学会にはもっけの幸いである。自民党を飛び出した方と手を組み、政権を握る。あるいは過半数を割った自民党と手を組み、内閣に入るという道が開ける。まさにその通り事は進み、自公政権が続いた。

 池田氏は、国家を転覆させても、自分が天下を取りたいという野望を抱いており、中国の『水滸伝(すいこでん)』『三国志』、ヒトラーの「第三帝国」を、公明党議員や青年部幹部に勉強させ、あらゆる権謀術数を会得させようとしているという話もある。いざというときには、日本占領のためにクーデターもやりかねない怖さがある。
 実際、青年部最高幹部の間で過激なクーデター計画が話し合われていたという証言もある。学会の人材を密かに送り込んで、自衛隊と放送局、電波を全部押さえ、クーデターを決行するという内容だったらしい。
 そこまではしまいと思いたいが、池田名誉会長の執念深さは、生やさしいものではない。「日本占領」という野望は決して諦(あきらめ)めることはないだろう。

▽総選挙後に問われる公明党の去就 ― 野望はどうなる?

 私(安原)は部外者なので、上記の著作の内容がどこまで真相をついているのかを判断できる立場ではない。しかし元公明党委員長という要職にあった矢野氏が責任を持って書いた著作であるだろうから、十分評論するに値するものと考える。
 読後の感想をいえば、8月30日に行われる衆院総選挙(定数480=小選挙区300、比例代表180)投開票後の公明党の去就はどうなるのかである。

 毎日新聞(8月22日付)の党派別推定当選者数によると、民主が320議席(公示前115)を超す勢いであり、一方自民は100議席(公示前300)を割り込む可能性もある。公明は多くて27議席(公示前31)である。一方、朝日新聞(8月27日付)の総選挙中盤情勢調査によると、毎日新聞の予測とほぼ同じで、「民主、320議席獲得も」「自民激減 100前後」の大見出しが並んでいる。公明は「24前後」となっている。
 このように民主が圧勝すれば、公明にとって政権に参加する機会はなくなる。つまり日本占領計画は挫折することになる。ただ民主が予測と違って、単独過半数(241議席)を若干上回る程度になった場合は、第三党の公明の出番である。しかし民主がそれを受け容れるだろうか、疑問である。

 ここで気になるのは、矢野氏のつぎの指摘である。
 池田名誉会長の執念深さは、生やさしいものではない。「日本占領」という野望は決して諦めることはないだろう ― と。
 率直に言って、この種の野望は宗教家、特に仏教者の信条とは異質である。参考までに私(安原)が唱える仏教経済学(思想)で大切と考える八つのキーワードを挙げると、以下のようである。
 生きとし生けるものすべてのいのち、非暴力、知足(貪欲を捨て、足るを知ること)、共生、簡素、利他、持続性、多様性の八つで、さらに慈悲心なども貴重だと考えている。これに反し、野望は貪欲、暴力、無慈悲などにつながりかねない性質のもので、大乗仏教の思想とは相容れないのではないか。

 最後に著者、矢野氏が公明党に贈る忠言を紹介したい。
 池田氏に面と向かって直言、諫言(かんげん)できる人はいまや見当たらない。
 創価学会は社会から虐(しいた)げられた人、見捨てられた人の精神的支柱となって組織を拡大した。公明党もまた、庶民、大衆の政党として存立意義を保ってきた。今、格差社会が訪れ、無情な派遣切りや高齢者医療の切り捨てがまかり通っている。公明党もそれに手を貸してきた。
 公明党は出来たての頃、小さくとも清流だった。汚濁した大河に、微力ながら清らかな水を注ごうと、われわれは懸命に働いた。決して自らが大河になることが目標ではなかった。今は、政界の汚れた大河と合流し、自身も濁流となって流れている。私は公明党が大きな清流となる日が来ることを信じている ― と。


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自立力を失った日本に未来はない
農業と教育の危機から抜け出す道

安原和雄
 わが国の食料自給率は4割程度で、米欧の先進諸国と比べて格段に低い。いのちの源の大半を海外に依存して、農業の自給力=自立力を失った状態が続いている。一方、若者たちの自立力の弱さも最近顕著になってきており、自立を促す教育を求める声が高まっている。わが国の土台ともいうべき農業と教育が直面しているこのような危機的状況から脱出する道は何か。
 まず自立力を失った日本に希望の持てる未来はないことを認識しなければならない。しかもその背景に「いのち軽視」の風潮が広がっていることを理解する必要がある。自立力の再生をどう図っていくか。総選挙後の新政権が取り組むべき緊急かつ重要な課題となってきた。(09年8月23日掲載、公共空間「ちきゅう座」に転載)

 毎日新聞(09年8月21日付)に注目すべき記事が二つ載っている。一つは経済面のコラム「経済観測」で柴田明夫・丸紅経済研究所所長が論じいている〈日本は「農業」を捨てたのか〉、もう一つは総合面の「09衆院選 私はこう見る 教育改革」欄で尾木直樹・法政大キャリアデザイン学部教授が〈若者の自立を支えよ〉と求めている一文である。この農業と教育にかかわる二つの記事が指摘している問題点は相互に連関していると考える。またそういう風にとらえなければ、現下の日本が直面している農業と教育の危機的状況を的確に認識することは、むずかしいのではないか。まず二つの記事の大要を紹介する。

▽農業の危機 ― 日本は「農業」を捨てたのか

 農林水産省は11日、08年度の食料自給率(カロリーベース)が41%となったと発表した。食料自給率は国内で消費している食料のうちどの程度国内生産でまかなったかを示す数字で、60年代に80%近かった自給率は98年には40%と半分になった。米国の128%、フランス122%、ドイツ84%、英国70%と比べ極端に低い。
 主要国における食料・農業の位置づけを日本と比べると、改めて驚かされる。人口1億2700万人の日本の穀物生産量は1000万トン程度なのに対し、人口6000万人の英国は日本の3分の2の国土で3000万トンの穀物を生産している。工業国のイメージのドイツは8200万人の人口で5500万トンの穀物を生産している。日本の10倍以上の人口を抱える中国の穀物生産は日本の50倍の5億トンだ。しかもこれら諸国の国内総生産(GDP)は世界上位5カ国に入る経済大国だ。

 「農業をおろそかにする国は滅びる」という考えが欧州には根付いているという。欧州の国々は農業を犠牲にしてまで経済大国になろうとはしなかった。改めて日本という国を振り返ると、ひたすら工業化による経済大国を目指す一方、「農業」を切り捨ててきたのではないかと疑いたくなる。それは自然に対する畏敬(いけい)の念や他人に対する思いやりの文化をも失ってきた道でもある。現在の世界的な経済危機と食料危機は日本にとって「農業」を根本的に立て直す好機といえよう。(以上引用)

 ここで大事な指摘を拾いあげると、以下の諸点である。
・農業をおろそかにする国は滅びる
・日本は工業化による経済大国を目指す一方、農業を切り捨ててきた
・それは自然に対する畏敬の念や他人に対する思いやりの文化を失ってきた道でもある

▽ 教育の危機 ― 若者の自立を支えよ

 多くの日本人は、高校の授業料を払うことを「当然」と思い込んでいるが、世界の大勢は無償化だ。日本は79年に国際人権規約の社会権規約を批准したが、「高等教育の無償化」を定めた条項の批准は留保いている。締約国160カ国で、留保しているのは、マダガスカルと日本だけだ。
 すべての国民に高校卒業程度の教育を受ける機会を保障することは、国家の利益でもある。今回の衆院選で「高校の実質無償化」という政策が出てきたのは遅すぎるくらいだ。
今の政治からは「国が教育に責任を持つ」との強い意思を感じない。重要なのは、若者が精神的に自立し、常識を持った大人として生きていく力を高める教育の実践なのだ。

 日本の若者の精神状態は危機的だ。「トイレにこもって食事する大学生がいる」という話を聞き、学生465人にアンケートしたところ、11人が「経験がある」と回答し、驚愕(きょうがく)した。「一緒に食事する友人がおらず、ひとりで食べている姿を見られると『友人がいないことの証明』になるから」だという。人として生きていく力が衰弱している、というほかない。
 今の大学生の振る舞いは幼稚で、しばしば20年前の中学生と同じに見える。若者が自立して生きる力を失った国に未来はない。目先の学力を向上させる前に、自立を促す教育が求められている。(以上引用)

 ここでの要点をまとめると、以下のようである。
・政治から「国が教育に責任を持つ」との強い意思を感じない
・日本の若者の精神状態は危機的で、人として生きていく力が衰弱している
・若者が自立して生きる力を失った国に未来はない

▽「自立力喪失」の背景 ― 「いのち」の軽視

 以上、二つの主張に共通している点は、前者の「農業をおろそかにする国は滅びる」であり、後者の「若者が自立して生きる力を失った国に未来はない」である。どちらも日本という国の現状と未来に危機感を抱き、警告を発している。その共通のキーワードは「自立力の喪失」である。農業の自給率が他の先進国に比べて異常に低水準にあり、食の大半を海外に依存している状態は、農業の自給力=自立力の喪失にほかならない。

 考えてみれば、農業も教育もともに「いのち」を育てる事業である。農業(畜産、水産、林業などを含む)はいのちある動植物を育て、一方、教育はいのちある人間を育てる。一国のあり方の土台を築くのが農業と教育である。それが危機的状況にあることは、いのちそのものが危機状態に陥っていることを意味する。しかも日本列島上にいのち軽視・無視の風潮がはびこってきたのは、昨日や今日のことではない。

 その背景として指摘できるのは、いうまでもなく工業化の異常な肥大ぶりである。一口に言えば、工業は農業や教育と違って、いのちを削る産業である。いのちを育てる産業ではない。エネルギー源や原材料を見れば、いのちとは無縁であることは明らかだろう。
欧州が「農業をおろそかにする国は滅びる」と考え、工業化を進める一方、農業を厳然と保持してきたのは、恐らく「いのちの産業」への深い洞察に導かれたためではないか。
日本ではその洞察に無知であった。工業化に伴う目先の小利を優先させて、いのち軽視への道を進んできた。その結果、今、日本そのものが危機に陥っている。
 外国産の食べものが安く買えるのであれば、輸入すればいいという安易な自由貿易推進の発想も背景にあるわけで、これには現代経済学者の市場原理主義的考え方にこだわる責任も大きい。もう一つ指摘すれば、市場原理主義的思考にはそもそも「いのちの尊重」という発想そのものが欠落している。

▽ 打開策は(1) ― 「田園価値」の尊重へ転換を

 「いのちの尊重」を軸に据えて、日本の再生をどう図っていくかが総選挙後の重大な課題となってきた。
 まず食料自給率を高めながら、「食と農」をどう再生・充実させていくか。地産地消(その地域の農産物をその地域で消費すること)、旬産旬消(季節感豊かな旬ごとの農水産品を大切にすること)を基本に国内・地域で「生産と消費」、「人と人」との相互結びつきの環を再生・拡大し、地域経済を発展させていくことが重要である。
 そのためには「価格と所得の保障システム」も必要だろう。自然を相手の農業は、生産効率を高める余地のある工業とは質的に異なり、しかもわが国特有の国土地勢条件の制約を受けて、米国型の模倣にすぎない大規模農業には限界があるからである。つまり労働集約型産業であり、多くの労働力を吸収できる。「食と農」の分野こそこれからの成長産業という見方も十分成り立つだろう。

 もう一つ、「田園価値」尊重へと転換していくことの重要性を強調したい。
 水田、棚田、里山、森林、河川などからなる田園には米、野菜、果物、山菜、淡水魚など食料の生産・供給のほかに、多様な外部経済機能(=「外部経済」効果、つまり市場メカニズムを経ないで暮らしや経済活動に及ぼすプラスの影響、効果)があることを見逃してはならない。その主な柱はつぎの通り。
*国土・生態系の保全機能=自然のダム機能、地下水の補給、豊かな生態系の保全など
*自然・環境の保全機能=美しい田園、きれいな川の保全、大気の浄化、汚水の分解、静かな環境の形成と維持など
*社会的、教育的、文化的機能=都市と農山村の交流、児童農園での体験学習、コメ文化(日本酒と和食の文化=料理、食器などの多様性)など

 米、野菜などの食料は市場メカニズムを経て、供給される市場価値であるが、後者の国土・生態系の保全機能など外部経済機能は市場メカニズムを経ないで、働いているので価格で表示されることはなく、非市場価値である。つまりいくらお金を積んでも購入できない貴重な資産である。私(安原)は、田園が持つこの多様な非市場価値を「田園価値」と呼んでいる。農水省の試算ではこの田園価値は、食料生産全体の価値(価格)よりもはるかに巨額なものである。
 農業の衰勢と共に失ってきたとされる「自然に対する畏敬の念」や「他人に対する思いやり」の日本本来の文化もこの田園価値と重なり合っている。

 このような日本の優れた田園価値は他国には例を見ないもので、日本国憲法9条(戦争放棄、非武装、交戦権の否認)と並んで世界に誇るべき「日本の宝」である。この日本の宝を尊重し、守り、再生する方向へどう転換していくか、総選挙後の大きな課題である。

▽ 打開策は(2)― 自立を促す教育へ

 毎日新聞(09年8月22日付)にもう一つ、興味深い記事が載っている。「ひと」欄に登場した武藤敏郎さんの教育論である。武藤さんは1966年旧大蔵省(現財務省)入りし、事務次官、日銀副総裁を経て現在大和総研理事長。最近母校の開成学園の理事長に就任した。開成学園は東大合格者数日本一を続けている高校で、武藤さんが「私は教育のプロではないから」と謙遜して語った教育論はざっとつぎのようである。

・50年前の自分の中高時代について
 「塾なんかには行かず、ボートレースや運動会など学校行事に明け暮れ、仲間と協力することの大切さや全体への貢献を学んだ。当時は質実剛健をたたき込まれた」
・最近の学生たちの印象について
 「とても洗練されている。小学生から受験の準備をして、安定した生活を目指すのが現代。やりがいがあっても家庭を犠牲にするような職場を選ぶ、なんてはやらないね」(そんな風潮に不満もある)
・人材育成について
 「青白い秀才を育てるのが教育ではない」(社会に貢献できる人材育成へのこだわりを見せる)
 記事は「学ぶこと、自分を鍛えることの面白さを発見できる教育現場作りを目指している」と結んでいる。

 教育の望ましいあり方への抱負として読むと、「仲間と協力することの大切さ」「社会に貢献できる人材育成」「自分を鍛えることの面白さ」など共感できる部分も少なくない。しかし相手の高校生は受験競争に勝ち抜くことを目指す秀才たちである。しかも社会へ出て「安定した生活」を目標にしているというわけだから、「質実剛健」「仲間との協力」「社会への貢献」「自分を鍛えること」が念頭にある理事長・武藤さんの期待とはどうかみ合うのか、そこが読みとれない。
 一方、「若者の自立を支えよ」と唱えている尾木教授は、「目先の学力を向上させる前に、自立を促す教育」を求めている。つまり受験重点の教育に疑問を感じている。最近の若者の「トイレにこもって食事をする」という生態を見れば、自立を促す教育は必要不可欠である。とはいえ、大事な点は、その「自立力」とはどのような性質のものなのか。

 私(安原)の直観だが、ここでも田園価値に関連して触れた「自然に対する畏敬の念」や「他人に対する思いやり」など日本本来の文化と重なり合う自立力が求められる。これは自然や他者との「共生のなかでの自立力」であるだろう。そうでなければ競争に打ち勝つ自己本位の実力を自立力と錯覚しかねない。自利本位の競争力という価値観は、あの新自由主義=市場原理主義の破綻とともに重視すべきものではなくなっている。この認識を共有したい。


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市民派企業経営者・堤清二の今
自公政権退場は転換への第一歩

安原和雄
戦後初めての「政権選択」が焦点の衆院総選挙戦たけなわである。自民党が居残るのか、それとも民主党が新政権の座につくのか、といえば予測の大勢は民主の勝利と出ている。小泉政権時代に猛威を極めた新自由主義=市場原理主義路線の破綻とともに自民・公明政権の寿命は尽きているというべきである。無用な悪あがきはいい加減にして、政権を譲り渡す方が後世において評価されるかも知れない。
 問題は民主中心の政権が誕生した場合、変革によって果たして新しい日本をつくることができるのか、である。かつての市民派企業経営者・堤清二、今、市民派文化人として活躍中の辻井喬さんが「自公政権の退場は転換への第一歩にすぎない」など総選挙後の日本の進むべき道について示唆に富む発言を行っている。(09年8月19日掲載、公共空間「ちきゅう座」、インターネット新聞「日刊ベリタ」に転載)

▽辻井 喬 「自公政権は退場するとき」

 「しんぶん 赤旗」(日曜版・09年8月16日号)が「総選挙目前 作家 辻井喬さん語る」という特集記事を組んでいる。つぎの大きな見出しも並んでいる。
自公政権退場は第一歩です
次へ踏み出すために
憲法守る政党が伸びないと

 的確な情勢分析と傾聴に値する問題提起が少なくないので、その大要を以下に紹介する。
*アメリカの一極支配は終わった
 今回の経済危機でアメリカの一極支配は終わった。世界は多極化の時代を迎える。中国、EU(欧州連合)をはじめ、アメリカと並ぶ複数の極が生まれるだろう。そうなると、日本にとってアジアでどういう役割を果たすかが一番大きな問題だ。アジアには大きな発展の可能性がある。金融資本・独占企業中心のグローバリゼーションと対抗するためにもアジアの地域的な連携が必要だ。
 一言つけ加えれば、私は日本を多極化時代の極の一つに考えていない。

*憲法を守る政党が伸びないといけない
 現在の日本は中国、韓国などアジア諸国から信頼されていない。憲法「改正」を党是に掲げる政党がいつまでも政権についているのでは、信頼されるわけがない。自民党はマニフェスト(政権公約)で、いまだに「自主憲法の制定」を掲げている。総選挙でこの勢力を退場させるのが第一歩だ。共産党が言うように、いまの(自公)政権を倒すことがまず第一歩だ。
 その後、第二歩、第三歩をどう踏み出すのか。民主党の中にも改憲志向がある。憲法をしっかり守る政党が伸びないといけない。平和主義に徹して、本当の意味で豊かな生活を送れる社会を実現する。憲法を掲げて、世界中にその道を示せるのは日本だけである。

*大事なのは平和と自然環境
 日本経済は大きな転換期にある。転換期とは経済だけ考えていれば、経済がうまくいく時代は終わったということで、こういうときは、大事なものから押さえいかなければいけない。それは平和と自然環境だ。人間生活の根本は衣食住。日本の食料自給率40%は深刻だ。この点からみれば、日本は国際的な平和のなかでやっていくしかない。もう一つはきれいな水と空気。これを守ることは国民のためはもちろん、外国から来る人にも魅力だ。

*政治に問われるのは自民か民主かではない
 政治に問われるのは深刻な不況で苦しんでいる人の側に立つか、それとも、前と同じもうけを維持しようという側に立つのかだ。あえていえば自民か民主かではない。
 メディアは「大きい政府か小さい政府か」「バラマキか財政均衡か」と、すぐに短絡的な図式をつくるが、これは国民を誤誘導するものである。政府は必要なところは大きくしていいし、不必要なところは徹底的に減らす。その結果、全体として減ればいい。
 共産党の政策をみると、反対するところがない。筋が通っている。私はどこに(一票を)入れたら日本のためになるかを考えて投票しようといっている。

▽堤清二 「〈市民の国家〉に改造を」

 以上は作家・辻井喬としての発言であり、自公政権退場の必要性を明確に指摘している。私(安原)は財界担当の経済記者として市民派企業経営者・財界人としての堤清二とは30年以上も前の1970年代に何度も取材インタビューを含め対話する機会があった。当時すでに辻井喬のペンネームで作品を発表していた。
安原「最近のあの作品、読みましたよ」
辻井「そう、それは有難い」
 この程度の会話はあったが、私の関心はやはり堤清二の方に向いていた。当時のインタビュー記事の一部を紹介したい。「〈市民の国家〉に改造を」などと語っている。
(毎日新聞経済部編『揺らぐ日本株式会社 政官財50人の証言』=毎日新聞社刊、1975年=参照)

〈安原〉:公正取引委員会の大企業分割論などを中心とする独禁法強化の動きに対し、経済界は「いまの自由主義経済にとって自殺行為だ」と反対している。独禁法強化は日本資本主義の延命策であるはずだが、経済界の目にはそうではないと映るらしい。どうも経済界はかつて公害反対運動を「目の敵」にしたのとよく似ている。同じ愚を繰り返すのではないか。
〈堤〉:その通りだ。公経済の分野がひろがって、それと私経済との混合による新しい資本主義になっているのに、日本の経営者はいまなおアダム・スミス当時の自由主義経済を頭に置いている。財界だけがタイム・カプセルに入って凍結されている。しかしスミスを読み直してみると、自由競争には限界があるとして、企業家の自己抑制の必要を強調している。とにかく自由にやらせるのが自由主義経済だといっていたのでは、大衆から見放される。

〈安原〉:公経済の分野がひろがっているということだが、どの程度の公権力の介入ならよいと考えるか。
〈堤〉:いまの国家は「市民社会のための装置」という認識を持つべきだ。市民社会のための政府であれば、介入も市民のための介入になるので、企業にとっても歓迎すべき介入になるはずだ。介入が是か非かではなく、介入する国家の体質が市民社会のためになっているかどうかが問題だ。しかしいまの政府はそうなってはいないので、市民社会のための国家に改造していく必要がある。そして介入の仕方、分野、度合について介入を認める立場で注文をつけていく。

▽市民派文化人として今なお健在

 以上のインタビュー記事をまとめた1975年当時、堤さんは西武百貨店社長、西友ストアー会長、西武流通グループ代表などの地位にあった。そういう地位にありながら、財界に向かって苦言を呈することに極めて率直であった。だから「体制内反逆者」とでもいうべき特異な存在であった。
 インタビューのなかで私(安原)が注目したのは、つぎの点である。これは市民派企業経営者・財界人と呼ぶにふさわしい。
 国家は「市民のための装置」であるべきだが、現実はそうなってはいないので、市民社会のための国家に改造していく必要がある。そして国家による介入(行政による公的規制など)を認める立場で市民の側から注文をつけていく ― と。
 こういう認識と発言について一面的な観察力しかない昨今の評論家たちは、恐らく「それは社会主義だ」と叫ぶに違いない。社会主義ではなく、市民第一主義ととらえるべきだろう。

 もう一つ、私が「えっ?」と感じたのは、イギリスの経済学者アダム・スミス(1723~90年、主著は『道徳感情論』『国富論』)への理解である。彼はこう語った。
 「日本の経営者はいまなおアダム・スミス当時の自由主義経済を頭に置いている。しかしスミスを読み直してみると、自由競争には限界があるとして、企業家の自己抑制の必要を強調している」と。

 この指摘に私自身もスミスを読み直してみなければならない、と受け止めたことを記憶している。
 例えばスミスの国富論は、自由競争について「正義の法を犯さぬかぎり」という厳しい条件を付けている。いいかえればスミスは決して身勝手な「自由放任のすすめ」を説いたのではない。あの長編の国富論のなかで「自由競争」という言葉はあるが、「自由放任(レッセ・フェール)」は一度も出てこない。堤さんはそこに着目したが、日本の経営者たちで、これを正確に理解している者はごくまれである。むしろ「スミスすなわち自由放任説」という誤解がまかり通っている。

 1980年代に入ってから中曽根政権の登場以来、米国主導のあの新自由主義=市場原理主義が導入され、小泉政権時代に猛威を極めることになるが、その基本的な考えは、企業利益を最優先にし、一方、大衆の生活を破綻に追い込む身勝手な「自由放任のすすめ」である。これでは当のスミスにとっては実にありがた迷惑な話そのものである。

 堤さんはこうも指摘している。「とにかく自由にやらせるのが自由主義経済だといっていたのでは、大衆から見放される」と。
 彼の予測通り、それから30年以上という歳月の経過は、いささか長すぎたとはいえ、新自由主義=市場原理主義は破綻し、その推進役を果たした自民・公明政権が今まさに総選挙によって大衆から見放され、退場を求められようとしている。
 かつての市民派企業経営者は今では作家であり、同時に市民派文化人として、その健在ぶりは変わらない。その証(あかし)が「辻井さん語る」の「自公政権の退場」「憲法を守る政党が伸びること」「大事なのは平和と自然環境」などである。

▽二大政党制にこだわるメディアにもの申す

 09年8月30日投開票の衆院総選挙が8月18日公示された。新聞メディアの大手紙社説は総選挙の意義をどうとらえているのか。まず5紙(8月18日付)の見出しを紹介する。
*朝日新聞=総選挙公示 「09年体制」の幕開けを
*毎日新聞=衆院選 きょう公示 日本の未来を語れ
*読売新聞=6党党首討論 有権者の疑問に率直に答えよ
*日本経済新聞=09衆院選 政策を問う 政権を選ぶ歴史的な選挙の幕が開く
*東京新聞=09年衆院選きょう公示 さあ本番 覚悟新たに

 毎日社説はつぎのように指摘している。
 歴史的な選挙戦のスタートである。「歴史的」なのは、言うまでもなく政権選択の選挙だからだ。外国では選挙による政権交代は何ら珍しくない、しかし日本では1955年の保守合同以来、もっぱら自民党を中心とする政治が続いてきた ― と。
 「政権選択の選挙」という認識は各紙に共通している。この認識に異をはさむ余地はない。その通りである。ではどのような政権選択なのか。

 朝日社説はつぎのように論じている。
 健全な民主主義をつくるために2大政党による政権交代が望ましいという考え方は、昔からあった。(中略)せっかくの2大政党・政権交代時代の流れを逆戻りさせることは許されない ― と。
 一方、読売、日経、東京の各社説はつぎのように連立政権に言及している。
 読売=今回の選挙は、自民・公明の連立政権の継続か、民主・社民・国民新の連立政権か、を選ぶ性格を持っている。
 日経=自民、民主のどちらが第1党になっても連立は不可避の情勢だ。「建設的野党」の立場を打ち出した共産党を含め、各党は選挙後の連立政権に臨む基本方針を示して、有権者の判断を仰ぐ必要がある。
 東京=国民新、社民両党は民主との連立政権を見込み、共産と渡辺喜美氏らの新党は自民とも民主とも一線を画す。
 毎日は外交、安全保障、日米同盟に重点を置き、2大政党制にも連立政権にも触れていない。

 以上から分かるように2大政党制にこだわっているのは朝日である。また3紙の連立政権論も2大政党を軸にしたものである。問題は自民と民主の2大政党の間で政権交代を行う2大政党制の是非である。冒頭の辻井発言、「政治に問われるのは自民か民主かではない」、つまり2大政党制にこだわるのは疑問という説に賛成したい。
 その理由は自民と民主は政策面で大差ないこと、この両政党の間の政権交代だけでは日本の現状打開にも未来にも希望が持てないこと、さらに小選挙区中心の現行選挙制度では死票が多すぎて、有権者の意思を正しく反映しないこと、などである。
 ただ今回の総選挙では民主党が勝利を収めて、自公政権は退場するのが望ましい。それを第一歩として新しい日本への変革が始まることを期待したい。


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戦後世代にとっての戦争と平和
64回目の終戦記念日を迎えて

安原和雄
「戦争と平和」というテーマはこれまで戦争体験者たちの独占物となっていたきらいがる。しかしこれでは戦争を拒否し、平和を新たにつくっていくことはできない。なぜなら戦争体験者は少数派であり、戦争を知らない戦後世代が日本全人口の4分の3を超え、多数派となっているからである。こういう時代の変化を踏まえて、戦争を反省し、平和をつくっていくためには何をどうしたらいいのか。戦後世代の活躍に期待するほかない。
 戦後世代の青年男女は青年らしく真剣に考え、行動を始めており、新しい感覚で平和の集いをあちこちで開催している。64回目の終戦記念日を迎えて、青年たちによる手づくりの平和イベントを紹介したい。(09年8月15日掲載、公共空間「ちきゅう座」、インターネット新聞「日刊ベリタ」に転載)

▽大手紙の社説は「戦争と平和」をどう論じたか

 64回目の終戦記念日「8.15」を迎えて大手紙の社説(09年8月15日付)は平和について何を論じたか。5紙社説の見出しはつぎの通り。
*朝日新聞=あの戦争の記憶 世代を超え、橋を架ける
*毎日新聞=終戦記念日に際して 「打たれ強い日本」に 低エネルギー化急げ 
*読売新聞=終戦の日 追悼めぐる論議を深めよ
*日本経済新聞=悲劇を繰り返さぬ決意を新たにしよう
*東京新聞=終戦の日に考える 九条とビルマの竪琴

 見出しの多様さを競い合っている印象だが、多くは割愛して、朝日社説の一部のみを紹介する。つぎのように書いている。
 神(じん)直子さん(31)は、学生時代にスタディーツアーでフィリピンを訪ねた。現地の集会で、一人のおばあさんに「日本人なんか見たくない」と言われたことが胸に突き刺さった。日本兵に夫を殺されたという。
 フィリピンは太平洋戦争の激戦地だ。日米両軍の死闘のなかで、日本の軍人・軍属60万人中50万人が死亡した。フィリピン人も100万人以上が犠牲となった。
神さんにとって戦争の歴史は、モヤモヤとよどんでいる、という。
 あの時代に近づき、戦争に携わった当事者に向き合わなければ、モヤモヤを埋めて先へと進めない ― 。
 神さんは「ブリッジ・フォー・ピース」という団体を立ち上げた。若者たちが手分けして70人近い元兵士の話を聞いた。フィリピンの市民団体などの協力で、毎年のように上映会を開く。(以上、引用)

 ここに出てくる「ブリッジ・フォー・ピース」が主催する集いに私(安原)自身、参加したので、その体験と感想を以下に報告する。

▽夏のイベント「平和をつくる・みんなと出会う」に参加して

 「ブリッジ・フォー・ピース」、すなわち「BRIDGE FOR PEACE」(略語BFP、代表・神直子)主催の平和集会、「つながるBFP夏のイベント~平和をつくる・みんなと出会う~」が09年8月8日、東京メトロ日比谷線広尾駅脇の「JICA(国際協力機構)地球ひろば」で開かれた。BFPは、戦後30年以降生まれの世代の自主的な集団で、戦場体験者から生の非人間的な体験を掘り起こしながら、それを語り継ぎ、戦争を拒否し、平和をつくっていくことを目指している。イベントに集まったのは私(安原)を含めて老若男女合わせて100名余。

 この集団は、テーマ「戦争と平和」やBFPそのもののあり方にどう向き合おうとしているのか。イベントに参加したBFPメンバーの声を紹介したい。
 (『私たちの歴史認識~戦後世代の声~戦争について知らなくていいの?戦後世代だって考える!!』=企画・発行:ブリッジ・フォー・ピース〈BFP〉=を参照)

*代表・神直子さん(昭和53年生まれ)=BFP5周年を迎えて~緩やかなネットワークであり続けたい
 今年で活動も5周年を迎え、何らかのきっかけで戦争に関心をもつようになった人が共感し、どんどん輪に入ってくれている。外国で戦争被害者と出会ったり、戦争について日本人として意見を求められて戦争を考えるようになったり、本や映画がきっかけとなったり、家族や語り部の方から戦争体験を直接聞いて関心をもった者もいる。それぞれの原点は様々である。
 同じ過ちが繰り返されないためにも戦争を語り継いでいきたい。私は、メンバー全員が同じ意見を持つ必要はないと思っている。違って当たり前である。私の掛け声のもと、皆が同じ方向を向くような集団だったら、戦時中と変わらないかも知れない。これからもそのような緩やかなネットワークであり続けたいと思っている。

*Mさん(開発コンサルタント・昭和51年生まれ)=日本はまた戦争になる
 戦争放棄をうたった9条を含む日本国憲法がつくられた当時と比べて、現状、日本はまた戦争になるという危機感が大きくなっていると主張しても、それほど的外れではない。私にそう危惧させるのは、昨今の憲法改正の動きだけではない。
 根本的かつ危機的な動きは、政府に対する主権を持っている国民の考えのなかにある。それは「平和のための戦争、戦争を終えるための戦争など、正当化される戦争もある」という理屈に納得する人々が増えていること。その原因は彼ら自身が戦争の悲惨さ、殺戮の恐ろしさ、人間が人間でなくなる悲しさを知らないこと、換言すれば、「戦争を知らない世代」が増えているためではないか。

*Aさん(イベントコーディネーター・昭和55年生まれ)=「戦争」から「平和」を考える
 どれだけの人に平和に対する想いを伝えることができるか。
「何を言ってるの?日本は平和じゃない」「そんな過去のことを掘り返してどうするの?」「戦争はなくならないよ」など否定的なことを言われる。
 ある時、『戦争』という単語を使うと、人は敬遠することに気づいた。BFPは「平和のための架け橋」で、戦争体験を語り継いでいくことは、平和を求める活動なんだと気づいた。「私たちの未来のために平和を守っていきたい」と言った時に違う反応が返ってきた。多くの人に広めていくためにも、伝え方を変えるべきだと気づいた時でもある。

〈安原の感想〉― 新しい平和人群像の登場
 戦争を知らない戦後世代のなかでも若い世代に属する青年たちの平和イベントに参加して得た第一印象は、旧来の平和活動家とは異質の新しい活動家たちが育ちつつあるということである。平和人(へいわびと)群像とでも呼んだら適切だろうか。「戦争反対」のスローガンを叫び、スクラムを組み、あるいは拳を振り上げて「頑張ろう!」などと気勢をあげることはしない。日常感覚で「戦争と平和」について語り合う。しかも目を輝かせながら、である。
 代表の神直子さんは「緩やかなネットワーク」を目指している。こういうネットワークは旧式の団結感覚とは合わない。多様な個性を集めるには「緩やかなネットワーク」が最上といえる。Mさんは、「戦争を知らない世代」が増えているからこそ、日本はまた戦争に走りそうだという危機感を抱いている。Aさんは『戦争』を語ると、敬遠されることに気づき、平和をどう伝えるかに苦心している。いずれも地に足がついている。考え、工夫している。今後の大いなる成長と発展に期待したい。

▽元日本兵・戦地体験者たちと膝を交えて語り合う

 ゲストとしてつぎの元日本兵・戦地体験者4名が参加した。ゲストの中には90歳過ぎの高齢者もいる。(50音順)
*谷口末廣さん=フィリピンでの戦争・戦場の生き地獄を知る人。
*中谷孝さん=陸軍の特務機関要員として中国・南京周辺で活動。捕虜の斬首などに立ち会った。
*成川貞治さん=フィリピンでの戦争体験を告白する「フィリピン戦記」を執筆。
*松浦俊郎さん=1943年(昭和18年)学徒兵として召集され、フィリピンに送られる。

 元日本兵4名と参加者との交流は、元日本兵1名をそれぞれ囲み、膝を交える形で4つのグループに分かれて行われた。私(安原)が参加したのは、中谷孝さんのグループで、印象に残ったのはあの南京大虐殺(1937年=昭和12年から始まった日中戦争初期に南京で行われた日本兵による大虐殺)のこと。中谷さんは要旨つぎのように語った。

 中国で日本兵たちは、人には言えないほど残虐なことを数多くやってのけた。だから多くの元日本兵はいまなお本当のことを語ろうとしない。どうしても事実をそのまま語ることはできいないのだ。このように「言わない」状態が続いていると、事実を知らない人は「事実そのものがなかった」と誤解してしまう。これが問題である。
 あの南京大虐殺の中国人犠牲者は12万人から10数万人に上ると思う。20万人以上という説もあるが、それは違うのではないか。逆に南京大虐殺そのものがなかったという人も自衛隊関係者の中などにいるが、そういう意図的な発言は事実に基づいていない。私(中谷)自身は手を下したわけでないが、自分で殺した当事者本人から直接話を聞いたのだから間違いない ― と。

 こういう証言は戦争の残酷な真実を知る上で貴重である。
 さて最近の自衛隊海外派兵に関連して、後方支援について私(安原)が中谷さんに質問したこと、それへの回答を紹介しておきたい。明白になったことは、自衛隊はすでに海外での戦争に参加しているという事実である。こういう事実に対する認識を共有して、今後の「戦争と平和」を考えるようにしたい。

〈安原〉「日本では憲法9条(戦争放棄)のお陰で戦争に参加していないし、また自衛隊員が海外で人を殺したこともないと考えている人が少なくない。これは後方支援は戦争への参加ではないと誤解しているためだと思う。例えば海上自衛隊がインド洋で米軍などに石油を補給しているのは軍事上の後方支援であり、明らかに戦争参加であると思うが、いかがですか」
〈中谷〉「その通りだと思う。石油など燃料のほかに弾薬や食糧の補給は後方支援であり、これらの後方支援がなければ前線での戦争は出来ないのだから」

▽「天皇陛下、お国のため」「上官の命令」は言い訳になるのか

 なぜ戦争が始まってしまったのか、なぜ戦地では人殺しなど残虐なことが出来るのか―などが戦争を知らない戦後世代にとっては大きな疑問となっている。
 フィリピン人や元日本兵たちが戦地での生々しい体験を語るビデオが会場で上映されたが、その中で元日本兵らは「天皇陛下のため、お国のためと言われたら、戦争に行くほかなかった」「捕虜らを殺せという上官の命令には逆らえない」などと語っている。
 当時の侵略戦争を肯定し、推進する軍国主義教育によって国民一人ひとりが心身共に拘束されて、自由に考え、行動することができなくなっていたこと、さらに治安維持法(最高刑は死刑)によって戦争批判者らは逮捕され、牢獄に閉じこめられたこと、などの事情も大きい。

 これに対し、年配の女性Bさんからつぎのような趣旨の問題提起があった。
 「天皇陛下、お国のため」と言われたら、戦争に行くほかなかった ― などという言い訳をしていていいのだろうか。一例を挙げると、当時川柳を武器にして反戦に生きた若者がいた。鶴彬(つる・あきら)、本名は喜多一二(きたかつじ)。その若者を主役にした映画「鶴彬 こころの軌跡」(注)が最近出来上がった ― と。

 大変重みのある問題提起であるが、話題はあまり発展しなかった。女性Bさんが言いたかったのは恐らくつぎのようなことではないか。
 今再び戦争への流れが目立ち始めている。これにどう立ち向かうのか。日本国憲法9条は戦争放棄、非武装、交戦権否認を定めている。しかも生存権も自由も人権も民主主義も憲法上は保障されている。そこがかつて侵略戦争に突入していった明治憲法下とは180度異なっている。そういう恵まれた条件を生かさず、行動もしないで、再び悲惨な体験(戦後世代にとっては初体験)をしてから、またもや言い訳をあとになってするのか ― と。

 有り体に言えば、「昔陸軍、今企業」である。「上官の命令」は今では、会社の上司の指示と同じようなものだと考えれば分かりやすい。上司の指示に対し、例えばそれは犯罪に相当するとか、企業の社会的責任に反するとか、の視点から疑問を感じたら、率直に指摘しなければならないはずだが、現在のサラリーマンたちはどれほど実行しているだろうか。そもそも疑問に感じない風潮もあるのではないか。「無自覚」「無批判」「無抵抗」が累積した結果、企業破綻に追い込まれるケースが少なくない。
 「企業破綻」を「日本破綻」に置き換えてみると、根っこは、真実を見ようとせず、批判にも行動にも訴えようとしない点で同じだと分かる。Bさんの問題提起は単なる昔話ではなく、今日のテーマ「戦争と平和」にどう向き合うか、と深くかかわっている。

(注・安原)映画監督は『郡上一揆』などの作品で知られる神山征二郎さん。同監督は「人の子鶴彬が、戦争という暴力の、暗黒の時代を、平和とリベラリズムのためにどう生きたかを、とにかく描いてみようと・・・」と語っている。
 鶴彬を演じた俳優の池上リヨヲマさんは「苦しい状況の中でも必死に命を燃焼させて生きようとしていた鶴彬や当時の人たちのパワーを感じてもらって、魂を燃やして生きようよ、ってみんながちょっとでも思ってくれるきっかけに、この映画がなってくれたら嬉しい」と期待をかけている。
 なお鶴彬は1909年(明治42年)石川県生まれ、15歳の頃から川柳を作りはじめる。軍隊内での反戦活動で逮捕され2年間服役、さらに1937年(昭和12年)治安維持法違反で逮捕され、留置所で赤痢にかかり、翌38年29歳で亡くなった。短い生涯に1000を超える句と90余の評論、自由詩などを残した。(『鶴彬こころの軌跡』=シネ・フロント社刊「シネ・フロント」別冊37号、09年3月=から)

▽戦争はなぜなくならないのか(1)― 戦争勢力・軍産複合体に着目しよう

 イベントの会場でつぎのような質問用紙が配られた。「なぜ戦争はなくならないのか? なぜなくせないのか? 自分の答えに近いものをつぎの中から三つ選んで下さい」とある。選択肢の主なものを紹介すると、以下の通り。
・過去の憎しみを消すことができないから
・「テロリスト」がいるから
・大国が自分の考えを押しつけようとするから
・戦争によって利益を得る人がいるから(国、企業があるから)
・差別され、抑圧されている人たちがいるから(地域、国があるから)
・宗教、民族、言葉などのちがいを人間は乗りこえることができないから
・平和を求めようとする(戦争に反対する)力が弱いから
・貧富の差があるから
・武器を持っているから(軍事基地・施設があるから)
・大国・豊かな国(に暮らす人)が資源や領土など自分の国の利益ばかりを考えているから
・メディアが人々を戦争へとあおるから

 どの選択肢も、それぞれ戦争の背景となり得るが、私(安原)は戦争勢力・軍産複合体の存在を指摘したい。
 広島市、広島平和文化センター、朝日新聞社主催の国際平和シンポジウム「核兵器廃絶への道」が朝日新聞(09年8月6日付)に掲載された。その中で基調講演者の平和運動家 ブルース・ギャニオンさん(米国の市民団体「宇宙への兵器と原子力配備に反対するグローバルネットワーク」のコーディネーター)がつぎのように語っている。
 日本は憲法9条を守っていただきたい。北朝鮮の能力が過大評価され、恐怖をかき立てられることで、新たに多額の資金を軍拡競争、宇宙開発に振り向けることが正当化されている。私たちは、軍産複合体が何をしようとしているのかを吟味する必要がある ― と。

 この発言の中で注目に値するのは、末尾に出てくる「軍産複合体」である。一般のメディアではこの軍産複合体に言及することは皆無といってもいいほどである。珍しく新聞記事に登場してきたが、軍産複合体とは何か、の説明がない。実は上記の選択肢のなかにヒントがある。つぎの諸点である。
・戦争によって利益を得る人、企業がいる
・武器を持っている
・大国が資源など自国の利益ばかりを考える
・メディアが人々を戦争へとあおる
 これらを総合的にとらえないと、軍産複合体の素顔は描けない。その正体は、以下、戦争はなぜなくならないのか(2)、で明かしてみたい。念のため指摘すれば、この軍産複合体は第二次世界大戦後に新たに形成された戦争勢力であり、大戦前には存在しなかった。

▽戦争はなぜなくならないのか(2)― 日米軍産複合体の正体

 1961年1月、アイクこと軍人出身のアイゼンハワー米大統領が、ホワイトハウスを去るにあたって全国向けテレビ放送を通じて、有名な告別演説を行った。
 「アメリカ民主主義は新しい巨大で陰険な勢力によって脅威を受けている。それは軍産複合体(Military Industrial Complex)とでも称すべき脅威であり、その影響力は全米の都市、州議会、連邦政府の各機関にまで浸透している。これは祖国がいまだかつて直面したこともない重大な脅威である」と。
 この警告から半世紀近くを経て、昨今の米国軍産複合体は、「政軍産官学情報複合体」とでも呼ぶべき存在に肥大化している。その構成メンバーは、ホワイトハウス内で影響力を行使する新保守主義者=市場原理主義者たちのほか、保守系議員、ペンタゴン(国防総省)と軍部、国務省、CIA(中央情報局)、兵器・エレクトロニクス・エネルギー・化学産業などの軍事産業群、さらに保守的な科学者・研究者・メディアからなっている。
ブッシュ前米大統領の「イラン、イラク、北朝鮮は悪の枢軸」という有名な言を借用すれば、「悪の枢軸・軍産複合体」と名づけることもできよう。

 これがブッシュ大統領時代に覇権主義に基づく身勝手な単独行動主義を操り、イラク、アフガニスタンへの侵略戦争を行うなど世界に大きな災厄をもたらしてきた元凶である。オバマ米大統領はイラクからは米軍を撤退させるが、アフガニスタンへはむしろ米軍を増派することになっている。このような「終わりなき戦争」の持続は、戦争ビジネスを拡大し、国家財政を食い物にしようとする軍産複合体との妥協の産物というほかない。オバマ大統領が唱える「核兵器の廃絶」も、大統領自身が軍産複合体とどこまで戦うのか、その成否にかかっていると言っても過言ではない。
 一方、地球上の発展途上国で多発している内戦(政府軍と反政府軍との戦争)は、米国主導の侵略戦争とは異質であるが、米国の軍産複合体が兵器輸出によってその内戦を煽っている側面もあることを軽視するわけにはいかない。ここには兵器輸出という名の戦争ビジネスがかかわっている。

 米国版軍産複合体という権力集団に追随しているのが日本版軍産複合体である。米国ほど巨大ではないが、その構成メンバーは、首相官邸、国防族議員、防衛庁と自衛隊、外務省、エレクトロニクスを含む多様な兵器メーカー、保守的な科学者・研究者、さらに大手新聞・テレビを含むメディア ― などである。一口にいえば、日米安保体制=軍事同盟推進派のグループである。しかも日米安保体制=軍事同盟を軸に日米両国の軍産複合体が一体化しているところに特色がある。
 アフガニスタンへの米軍増派と日本の対米協力、ミサイル防衛(米国向け長距離弾道弾をミサイルで撃ち落とす構想)、憲法9条の改悪(非武装平和の理念を放棄し、正式軍隊保持へ転換)、― などを狙う日米連合型軍産複合体の欲望をどう封じ込めることができるか。これは平和を求める戦後世代の青年たちにとって未経験で新しく、かつ巨大な挑戦的課題といえる。


〈ご参考〉軍産複合体に関連する掲載記事は以下の通り。かっこ内は掲載年月日
・国家破産に瀕するアメリカ帝国 軍事ケインズ主義の成れの果て(08年3月13日)
・MD「成功」こそ最大の「偽」 国民に大重税を強要する計略(07年12月24日)
・兵器の価格・原価を公開しよう 防衛利権の巨悪一掃のために(07年11月29日)
・防衛利権の構造的巨悪にメスを 軍需専門商社元専務らの逮捕で(07年11月10日)
・日米安保体制は時代遅れだ アメリカからの内部告発(07年5月18日)
・MDでほくそ笑む「軍産複合体」 北朝鮮ミサイル「脅威」の陰で(06年7月13日)

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世界は核廃絶へ向けて動き出した
広島・長崎平和宣言が目指すもの

安原和雄
 オバマ米大統領の「核兵器のない世界の実現を目指す」というプラハ演説以来、世界は核廃絶へ向けて急速に動き始めた。恒例の広島、長崎の平和宣言は、ともに年来の核廃絶への悲願を強調し、広島平和宣言は日本政府に対し、「2020年までの核兵器廃絶運動の旗手として世界をリードすべきだ」と訴えた。日本政府が旗手となるための必要条件は何か。
 まず日米核密約によって事実上、「非核二原則」に変質している「非核三原則」を名実ともに本物の「非核三原則」に正常化することである。そのためには核容認派が執着している「核抑止力」論という迷妄から目を覚ます時である。さらに日本列島を覆っている米軍による「核の傘」に別れを告げなければならない。それが核廃絶を求めて止まない広島、長崎の被爆者たちや、平和を希求する世界の人々の期待に応える道である。(09年8月9日掲載、インターネット新聞「日刊ベリタ」、公共空間「ちきゅう座」に転載)

▽核廃絶へ前向きになってきた大手紙の社説

 大手4紙の社説(09年8月6日付)の見出しを紹介する。カッコ内は前年の4紙の社説(08年8月6日付)の見出しである。
*朝日新聞=被爆64年 「非核の傘」を広げるとき (被爆63年 核廃絶は夢物語ではない)
*毎日新聞=広島・長崎 原爆の日 「核なき世界」へ弾みを 被爆者の救済を急げ (原爆の日 世界は核廃絶の頂を目指せ)
*読売新聞=原爆忌 オバマ非核演説をどう生かす (原爆忌 核拡散を止めねばならない)
*日本経済新聞=「核のない世界」へ日本は主導的役割を (核拡散への監視を緩めるな)

 以上4紙の社説を見比べて分かることは、今年は4紙ともに核廃絶あるいは非核を主眼にした論調となっている。その背景にあるのは、いうまでもなくオバマ米大統領が今年4月行ったプラハ(チェコの首都)演説、すなわち「米国は核兵器を使用したことがある唯一の核保有国として、核兵器のない世界の実現に向けて行動する道義的責任がある」である。だから核廃絶を軸にした社説を掲げるのは、当たり前であり、逆にオバマ演説を無視するとすれば、日本のジャーナリズムとしては鈍感であり、失格ということになる。

 さて昨年の社説はどう論じたか。各紙のカッコ内の見出しから分かるように朝日と毎日は核廃絶に力点を置いたが、読売と日経は核廃絶ではなく核拡散をどう防ぐかに重点を置いていた。その背景は何か。
 多くの人々の記憶は薄れているかも知れないが、08年1月の「核兵器のない世界に向けて」(米紙ウオール・ストリート・ジャーナルに掲載)と題するアピールが世界に大きな反響を広げたことを想い出したい。アピールの執筆者は、米国の核政策を推進してきたキッシンジャー元国務長官、シュルツ元国務長官、ペリー元国防長官、ナン元上院軍事委員長の4人である。かつての核政策推進者たちが「核不拡散」の主張にとどまらず、そこから大きく踏み出して、究極の望ましい「核廃絶」へと転換したのだから、その衝撃度は手応えがあった。

 朝日と毎日はその変化を察知したから、昨年の社説ですでに核廃絶に言及したのだろう。しかし読売と日経は相変わらず従来の核不拡散にこだわった。核不拡散だけにこだわることは肝心の核保有大国の核廃絶を主張しないことを意味する。時代の新しい流れへの察知力の差が社説の質の差となったといえるのではないか。

 もう一つ、指摘しておきたいことがある。読売の今(09)年の社説がつぎのように指摘している点である。
 北朝鮮の核ミサイルなどに対して日本は、米国の「核の傘」に頼らざるを得ない。オバマ演説のあと、日本政府が、核抑止力の低下を懸念して「傘」の再確認に動いているのは当然のことだ ― と。

 この核抑止力依存説は疑問である。核廃絶が実現できれば、核抑止力そのものが成り立たないし、無用の長物となる。逆に核抑止力に依存し続ける姿勢は「核廃絶はノー」とならざるを得ない。読売はいつまで核抑止力に執着するのか、いつまで核廃絶を疑問視するのだろうか。
 秋葉忠利・広島市長は広島平和宣言(09年8月6日)、田上富久・長崎市長は長崎平和宣言(09年8月9日)でこもごも核廃絶への悲願を訴えた。読売新聞にはこの被爆地からの発信に真摯(しんし)に答えようとする意思はないのか。

▽核廃絶実現に必要なこと(1) ― こども代表の「平和への誓い」に学ぶ

 秋葉忠利・広島市長は広島平和宣言で日本政府に対し、つぎのように要望した。
 日本国政府は、今こそ被爆者たちの悲願を実現するため、2020年までの核兵器廃絶運動の旗手として世界をリードすべきだ ― と。

 ここでの「2020年」には特別の意味が込められている。平和宣言はこう指摘している。
 2020年が大切なのは、一人でも多くの被爆者と共に核兵器の廃絶される日を迎えたいからであり、また私たちの世代が核兵器を廃絶しなければ、次の世代への最低限の責任さえ果たしたことにはならないから ― と。
 生存している被爆者たちの多くは75歳以上の高齢者である。だから10年以上はもう待てない、それがぎりぎりの期限だという悲痛な思いが「2020年」には凝縮しているのだ。

 ともかく日本政府が核兵器廃絶の旗手として、その責任を果たすためには何が求められるのか。私(安原)はまず広島平和記念式典でのこども代表の「平和への誓い」から学ぶことを提案したい。
 「誓い」の一節を紹介する。
 話し合いで争いを解決する、本当の勇気を持つために、核兵器を放棄する、本当の強さを持つために、原爆や戦争という「闇」から目をそむけることなく、しっかりと真実をみつめます。そして世界の人々に、平和への思いを訴え続けることを誓います ― と。

 この「誓い」のなかで注目すべきことは、つぎの二つである。
・話し合いで争いを解決する、本当の勇気
・核兵器を放棄する、本当の強さ
 曇りのない眼(まなこ)で世の中の現実を見つめているこどもたちが唱えるこの「本当の勇気」と「本当の強さ」を念頭に置けば、大人(おとな)の核政策肯定論者たちがしがみついている「核による平和」、「核の抑止力」説なるものがいかに馬鹿げた妄想でしかないかが自ずから分かってくるのではないか。

▽核廃絶実現に必要なこと(2) ― 「核の傘」を棄て、「非核三原則」実現を

 最近、日米核密約の存在が改めて浮上してきた。この核密約は、1960年の日米安保条約改訂時に日米政府間で合意された秘密協定で、その内容は、核兵器積載の米艦船・航空機がわが国政府との事前協議なしに日本国内に自由に出入りできることを日本政府が容認 ― となっている。これが現在の日本にとって何を意味するのか、核廃絶とどうかかわってくるのか、そこが問題である。

 麻生太郎首相は広島と長崎の平和記念式典での挨拶でつぎのように述べた。
 本日、私は改めて日本が、今後も非核三原則を堅持し、核兵器の廃絶と恒久平和の実現に向けて、国際社会の先頭に立っていくことをお誓い申し上げます ― と。

 この挨拶を額面通りに受け取れば、実に立派というほかない。ところが事実は言行不一致の見本のような挨拶である。
 まず指摘したい点は、この挨拶の文言は歴代首相が毎年述べているもので、「非核三原則を堅持」「核兵器の廃絶と恒久平和の実現」「国際社会の先頭に立っていく」は判で押したように同じである。
 重要なことは「非核三原則を堅持」は偽装であり、事実は核密約から明らかなように「非核二原則」に変質している点である。つまり非核三原則の「核兵器を持たず、作らず、持ち込ませず」のうち「持ち込ませず」が、実際には「米軍の持ち込み自由」に変わっている。これによって、米軍によるいわゆる「核の傘」が維持されるというのが日本政府の本音である。

 麻生首相は広島市での記者会見(6日)で北朝鮮の核保有に言及した上で、「核抑止力を持っている米国と日本は同盟を結んでいる現実を踏まえる必要がある」という趣旨を述べて、米国の「核抑止力」と「核の傘」を容認する立場を示した。
 しかし最近、核抑止力に対する疑問が元核政策推進者たちの間にも広がっていることを指摘したい。キッシンジャー元米国務長官ら4氏によるアピール「核兵器のない世界に向けて」は上述の08年だけでなく、07年1月にも発表されており、その際、「テロリストが核兵器を手にする危険がある状況下では核抑止力に依存することは危険であるだけでなく、有効でもなくなっている」と警告していた。これにはゴルバチョフ元ソ連大統領らも賛同していると伝えられる。

 このように危険であり、有効でもないとされる「核抑止力」や「核の傘」に固執し続けているのが日本政府である。だから日本政府が唱える「核兵器廃絶」はしょせん口先だけの空宣伝でしかないことを承知しておく必要があるだろう。以上の背景事情を考えれば、日本政府が核廃絶のための本物の旗手になるためには、思い切って核密約を破棄し、「核の傘」を棄てて、正真正銘の「非核三原則」の実現をめざすことが不可欠となっている。

▽核廃絶実現に必要なこと(3) ― 国連のなかに市民の声が届く仕組みを

 広島平和宣言は、「2020年までの核兵器廃絶」と並んでもう一つ、注目に値する提案を行っている。つぎのように述べている。
 温暖化防止等、大多数の世界市民の意思を尊重し、市民の力で問題を解決する地球規模の民主主義が今、まさに発芽しつつある。その芽を伸ばし、大きな問題を解決するためには、国連のなかに市民の声が直接届く仕組みを創(つく)る必要がある。例えば、戦争等の大きな悲劇を体験してきた都市100、人口の多い都市100、計200都市からなる国連の下院を創設し、現在の国連総会を上院とすることも一案である ― と。
 これはたしかに妙案というべきである。

 一方、平和記念式典に寄せられた潘基文国連事務総長のメッセージはつぎのように指摘している。
 核兵器と国連は同じ年(1945年)に生まれた。一方は、恐怖と破壊に基づく平和を象徴したのに対し、もう一方は議論、妥協、法の支配、人権、正義の追求そして経済の繁栄を通じ、各国が力を合わせてつくり出す平和を体現したのだ。
 私たちは今、核兵器の廃絶によって安全を保障しようという新たな力強いアイデアの奔流を目の当たりにしている。市民社会による取り組みも次々と生まれている。
 私たちは核兵器がない世界をつくりあげる力がある。私は全人類に対し、この理性的で達成可能な目標を支持するよう呼びかける ― と。

 国連事務総長が指摘しているように、核兵器と国連が同じ年に生まれたという因縁があることに改めて着目したい。このことは国連は核兵器廃絶のために最大限の努力を払わなければならない責任があることを示唆していると受け止めたい。
 その一つの具体例が広島平和宣言が提案する「国連に上下院の設置」である。重要なことは、政府代表だけでなく、政府とは異質の市民の声を汲み上げていく国連へと組織替えすることである。新しい時代の先駆けとなるのは、政府代表よりもむしろ核廃絶を希求する市民パワーである。世界の市民パワーとの連携なしには核兵器廃絶は困難であるだろう。国連に新しい時代の新しい役割を大いに期待したい。

▽核廃絶実現に必要なこと(4) ― 核保有国指導者の被爆地来訪を

 長崎平和宣言(8月9日)は大要つぎのように訴えた。
 核保有5カ国は、(中略)徹底して廃絶を進めるために、昨年、潘基文国連事務総長が積極的な協議を訴えた「核兵器禁止条約」(NWC)への取り組みを求める。インドやパキスタン、北朝鮮はもちろん、核兵器を保有するといわれるイスラエルや、核開発疑惑のイランにも参加を求め、核兵器を完全に廃棄させるのだ。
 日本政府はプラハ演説を支持し、被爆国として、国際社会を導く役割を果たさなければならない。また、憲法の不戦と平和の理念を国際社会に広げ、非核三原則をゆるぎない立場とするための法制化と、北朝鮮を組み込んだ「北東アジア非核兵器地帯」の実現の方策に着手すべきである。
 オバマ大統領、メドベージェフ・ロシア大統領、ブラウン・イギリス首相、サルコジ・フランス大統領、胡錦濤・中国国家主席、さらに、シン・インド首相、ザルダリ・パキスタン大統領、金正日・北朝鮮総書記、ネタニヤフ・イスラエル首相、アフマディネジャド・イラン大統領、そしてすべての世界の指導者に呼びかける。
 被爆地・長崎へ来てください ― と。

 以上、長崎平和宣言が訴えている要点はつぎの通りである。
*「核兵器禁止条約」への取り組みを
*日本政府は「非核三原則」の法制化を
*日本政府は北朝鮮を組み込んだ「北東アジア非核兵器地帯」の実現に着手を
*オバマ米大統領、金正日北朝鮮総書記ら核兵器保有国と開発疑惑国のすべての政治指導者は、被爆地長崎への来訪を
 いずれも核廃絶のためには不可欠な対応策といえるが、特に核兵器保有国の指導者らは核廃絶への決意と誠意を被爆者たちに示すためにも広島・長崎を訪問することを期待したい。


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マイケル・ジャクソンと蚊のお話
幸せは達成感よりもプロセスに

安原和雄
 この世に生を受けたからには誰しも幸せを願うのが人情というものである。ただ人間にとって幸せとは何か。このテーマに頭を悩まし始めたらきりがない、永遠のテーマともいえるが、焦点は、物事を成し遂げたときの達成感なのか、それとも行為のプロセス(過程)そのものにあるのか、である。ここでは幸せはプロセスにあり、という視点から話題を提供したい。
 話題の主の一人は、最近死去したあのマイケル・ジャクソンであり、もう一つは夏の夜の厄介者で知られる蚊(か)である。蚊がここでは人間様から感謝される生き物に早変わりして登場してくる。(09年8月4日掲載、公共空間「ちきゅう座」、インターネット新聞「日刊ベリタ」に転載)

▽人間は達成感で幸せになるのではない

「幸せはプロセスに」と題する海原純子さん(心療内科医)の「心のサプリ・一日一粒」(毎日新聞日曜くらぶ=09年7月26日付)を興味深く読んだ。まずその要旨を以下に紹介する。

才能があったらどんなに幸せだろう。お金があれば一生幸せなのに。と思うものだが、そうではないらしい。
マイケル・ジャクソンさん(米国のミュージシャン)の死で、それを強く感じた方も多いのではないか。
人は宝くじで数億円当たっても、その幸せに慣れ、お金があるのが当たり前になる。そして、満足度、幸せ度は目減りしてしまうというデータがある。達成感というのは一瞬のもので持続しない。すぐに、もっともっとと欲望が増えていく。
世界を巻き込む大ヒットを放ってしまい、かなえられないような目標を達成できたら、次の目標をどこへ置いたらいいのか。マイケルさんの場合も、その目標を設定できず、心のなかに膨れ上がった不安と焦燥をまぎらわすための浪費や薬だったのだろうか。

人間は達成感で幸せになるのではない。目標に向かって少しずつ登る努力のプロセスに幸せを感じるのだ。マイケルさんもコンサート動員などの数の目標ではなく、より内的、音楽の質的変容を目指していたら、違ったかもしれない。
さて、今、目標に向かって努力する楽しみをもっている人が少ないように思う。単に社会的地位やお金を目標にすると、限りがある。
私事だが、米国で研究することになり、これはどうやら一生やってもしつくせない学問テーマになった。やれやれ、これで死ぬまでプロセスを楽しめそうである。お金にはならないが。(以上引用)

上記一文の要点をまとめると ― 。
・達成感というのは一瞬のもので持続しない。
・人間は達成感で幸せになるのではない。
・目標に向かって努力するそのプロセスに幸せを感じる。

こう指摘されると、ハッとする。達成感がすなわち幸せ感につながると思っている人もいるはずである。ところがそれは、悪しき思い込みにすぎないというのだ。普通、達成感と幸せ感は同じ、それとも違う? ― などと深く考えてはいないので、改めて正面から突っ込まれると、「なるほど」とうなずくほかない。こういう幸せ感からみれば、大富豪(?)マイケル・ジャクソンも決して幸せではないという結論になる。

▽坐禅しながら六波羅蜜(ろくはらみつ)を行ずる

さて仏教の世界ではどうか。「幸せはプロセス(過程)にあり」といえるのかどうか。大乗仏教での修行に六波羅蜜(ろくはらみつ)がある。涅槃(ねはん)、すなわち「一切の悩みや束縛から脱した円満・安楽の境地、分かりやすくいえば幸せ」に至るためのつぎの六つの行(ぎょう)を指している。
・布施(ふせ・他者に施すこと)
・持戒(じかい・不殺生戒などを守ること)
・忍辱(にんにく・じっと我慢すること)
・精進(しょうじん・辛抱して努力すること)
・禅定(ぜんじょう・精神を集中すること)
・智慧(ちえ・真理を見きわめる認識力)

ここでのテーマは坐禅(本来は座禅ではなく、坐禅が正しい)しながら、この六波羅蜜を行ずる方法があるか ? である。
主役として夏の夜に飛び回るあの蚊(か)が登場してくる。じっと坐り続ける坐禅の最中に蚊に襲われたらどうするか、六波羅蜜とどのように関係してくるのか、それが問題である。答えは以下の通り。

・布施=蚊に食われるにまかせて、蚊に血を施す。
・持戒=痒(かゆ)くとも叩かない。これは蚊を殺さないという不殺生戒の修行である。
・忍辱=痒くともじっと我慢する。
・精進=痒くとも辛抱して坐り続ける。
・禅定=蚊に食われても、それに気づかないほどの心境になって坐り抜く。
・智慧=蚊に食われるのではない、食わしてあげるのだ、という智慧を磨く。
坐るだけで、六波羅蜜を行ずることができる。これほどありがたいことはないではないか。ちょっと発想の転換をするならば、蚊に食われることも、実に楽しいではないか。

(以上の答えは、臨済宗妙心寺派第31代管長の故西片擔雪老大師の『碧巌録提唱』=09年2月、岡本株式会社・明日香塾編集発行・非売品=から引用。『碧巌録』は、中国の唐から宋の時代に活躍した高徳の禅師の言行録から百話集めたもので、今日なお日本の禅宗では宗門第一の書とされている)

▽蚊にお布施を!という心境になれるか

田舎育ちの私(安原)にとって高校生の頃までは夏になると、室内でも団扇(うちわ)で蚊と格闘したものである。最近の都会では蚊の影も薄くなり、蚊を追い払ううちわも余り必要がなくなっているように思うが、そういう世の移り変わりはさておいて、蚊にお布施を!という心境にどこまでなりきれるか。凡夫としてはなかなか・・・、ということだが、だからこそあえてやり抜けば、その行為は「幸せはプロセスに」と相通じることになる。修行とはそういうものなのだろう。昔の禅僧は蚊の巣窟とも言える藪(やぶ)のなかであえて挑戦したという。これは蚊に食われて感謝する行為である。

夏の夜の怪談ならぬ小さな蚊のお話となってしまった。もしあなたが、多数の蚊に食われるままに坐禅を続ける人物から血を腹一杯吸い込んで、飛べなくなった蚊が、バタバタと落ちてくる光景を、目の当たりにしたら、どう感じるか。想うに夏の夜の怪談よりも「ぞーっと」身の縮む思いがするに違いない。
一口に「幸せはプロセスに」といっても、そのプロセスは、人の生き方、幸せ感と同様に様々である。


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禅僧・松原泰道老師を偲んで
仏教思想を現代に生かした功績

安原和雄
仏教にいう「人生の四苦=生老病死」の最後の死はやはり誰しも避けられないのか ― 禅僧・松原泰道老師死去の知らせに静かに胸中に広がる感慨である。著作や講話から数え切れないほど多くのことを教わった。汲めども尽きぬ智慧の泉のような存在でもあった。しかも2000年以上も昔の仏教思想を21世紀という現代にどうつなぎ、生かしていくかが老師の終生のテーマであったに違いない。その功績は顕著である。
 老師自身は仏教経済学(思想)を志向しているようにはみえなかった。とはいえ、その柔軟にして深い仏教思想を変革の思想、仏教経済学とどう融合させていくか。仏教経済学の構築を心掛けている者の一人として、今後に残された大きな課題である。(09年8月1日掲載、インターネット新聞「日刊ベリタ」、公共空間「ちきゅう座」に転載)

 松原泰道老師の死去について朝日新聞(09年7月30日付)は、要旨つぎのように報じた。

 わかりやすい仏教の本や講演で人気だった臨済宗龍源寺前住職の禅僧、松原泰道(まつばら・たいどう)さんが29日午前、肺炎のため死去した。101歳だった。葬儀は8月3日午後1時から東京都港区三田5の9の23の同寺で。
 東京都生まれ。臨済宗妙心寺派教学部長や仏教伝道協会理事などを歴任。65歳のときに書いた「般若心経入門」がベストセラーに。著書は130册以上あり、100歳を過ぎてからも執筆や講演をこなしていた。76年には、多くの人に仏教に親しんでもらうため都内の喫茶店などで辻説法や講演をする「南無の会」を宗派を超えて結成し、会長を務めていた ― と。

 私(安原)は老師の講話を身近に聴く機会に何度も恵まれた。その機知とユーモアに富んだ語り口にはいつもうなずきながら学ぶところが多く、感謝あるのみである。晩年はさすがに車椅子愛用となっていたが、語り口の妙味は衰えることがなかった。

▽松原老師の「経典入門シリーズ」に学ぶこと

 死去のニュースを聞いて、私は無造作に書籍が積み上げられているわが家の本棚を探した。松原老師の著作である「経典入門シリーズ」(新書版、祥伝社刊)が埃(ほこり)を被ったまま並んでいる。15年ほど前に読んだつぎの6册である。
・『般若心経入門』(276文字が語る人生の知恵)
・『観音経入門』(もう一人の自分の発見)
・『仏教入門』(あなたの家は何宗か?)
・『法句経入門』(うつろう人生の意味を解く50詩句)
・『法華経入門』(七つの比喩に凝集した人間の真実)
・『わたしの歎異抄入門』(こころ豊かに生きる知恵)

 ページをめくってみると、余白のあちこちに読んだときのコメントなどが書き込まれている。一例を紹介すると ― 。
 『般若心経入門』の36頁に「本当に別個か?」という疑問符つきの短いコメントがある。これだけでは意味不明だが、そこの老師の文章はつぎのようである。

 人間は、貧しければ悲しみのあまり消えたくなります。ところが、豊かになると、またそれがうとましくて蒸発したくなります。現代は、この両方の蒸発希望者を産みだしています。前者は政治や経済の責任だと一応は考えられても、後者の、豊かなる世界からの脱出は、自我の現実的満足にあきたらず、より高次なものを求めての自己の願いであるから、政治や経済とは別個の問題です ― と。

 末尾に「政治や経済とは別個の問題」という文言があり、それへの疑問符であることが分かるが、さて何をどのように疑問に思ったのか。自分自身のコメントを読み解く、というのもおかしいが、15年ほども前のことだから、ここは記憶を辿りながら読み解く以外にない。多分つぎのようなことではないか。

 私(安原)は当時、現役経済記者を辞めて、大学教員になったばかりで、政治・経済社会の真実に目を背ける既存の現代経済学に空しさを感じ、仏教経済学(思想)に関心を持ち始めていた。それなりの構想も頭の片隅に芽生え始めていた。いいかえれば現実の政治・経済と仏教との相互関係、融合のあるべき姿を考え始めていた。ちょうどその頃、上記の老師の一文を読んだ。そして何を考えたか。
 今、読み返してみると、老師は「貧しさによる悲しみの責任は、政治や経済にあるといえるが、豊かでうとましい世界からの脱出は、政治や経済とは別個の問題だ」と指摘している。問題は後半の部分で、私の考えでは「豊かな世界」にも「量的な豊かさ」と「質的な豊かさ」がある。前者の量的豊かさは、貪欲な物的豊かさにつながるところがあり、うとましく感じもするが、後者の質的豊かさは、例えば簡素な暮らしのように持続性があり、決してうとましくはない。このように一口に「豊かな世界」といっても、その中身は政治や経済のあり方と深くかかわっている。そうとらえなければ、仏教経済学そのものが成り立たない。そこで「本当に別個か?」のコメントを書き込む気になったのだろう。

 以上は私にとって仏教経済学的思考上の遍歴の一つといえるが、ここで強調したいのは、仏教経済学(思想)を構想していく上で、老師の著作に負うところが極めて大きいということである。今、「経典入門シリーズ」を改めて読み直してみたいと考えている。多少読み方も変わってくるだろうし、新たな発見がいくつも期待できるのではないかと楽しみにしている。

▽仏教を駆使して現代の諸問題に切り込む

 もう一つ、老師の著作を紹介したい。松原著『「足るを知る」こころ ― 般若心経と仏教の智慧』(プレジデント社刊、1999年)も教えられるところが多く、つぎのように現代の諸問題、原子力発電から臓器移植までを多面的に論じている。

 「自分だけでは決して自分というものはあり得ないんだという相互依存関係、縁起関係を突き詰めていって、初めて口をつく〈お陰様〉という言葉が、般若心経の最高の理想だと思う。(中略)〈お陰様〉がわかるということは、言葉を換えていえば、〈足ることを知ること〉である。しかし足ることを知るところで納まってしまってはいけないんで、そのポールを超えなければならない。それは〈与える〉ということだろう。マックス・ウェーバー(注)は、働け、儲けよ、蓄えよ、そして与えよといっている。儲けて与えることができれば、エコノミック・ヒューマンで、それを自分のポケットに入れたらエコノミック・アニマルになってしまう。〈与える〉は仏教の言葉ではお布施だが、それでは若い人たちはついてこないんで、今の言葉で〈貢献〉と言えばいい」
 (注)マックス・ウェーバー(1864~1920年)はドイツの社会科学者。ベルリン、フライブルク、ハイデルベルク、ミュンヘンの各大学教授を歴任。著書『プロテスタンチズムの倫理と資本主義の精神』が知られる。

 「〈知足の英知〉を身につけること。今日の不況はそれを実行するいいチャンスではないか。今、人々の心は、ようやく〈倹約が美徳〉という風潮に少しずつ傾きつつある。だから例えば節電に務め、用が済めば電気器具のスイッチは必ず切ることを習慣づけるよう心がける。便利な機械のスイッチを切るというのは、欲望をコントロールすること」
 「冷暖房完備、トイレの温水洗浄を当然のこととしながら、原子力発電反対を唱えるのは、道理が通らない。やはり〈足ることを知る〉ことによって、現在の高度な生活のレベルを下げる実践が必要である」

 「仏教の思想からいうならば、欲が悪いんじゃなくて、とらわれることを非とする。だから人間、長生きしたいという欲望が悪いんじゃない。それにとらわれて他人の内蔵まで貰おうという執着、それも外国まで行ってカネに任せて臓器を貰ってくる。仏教徒として、それはいけませんというのが親切だと思う」
(以上は安原和雄著『足るを知る経済 ― 仏教思想で創る二十一世紀と日本』=毎日新聞社刊、2000年=から転載)

▽仏教の先達からの遺言と受け止めて

 松原老師の文章や語り口は、やさしく分かりやすいが、それだけではない。仏(ほとけ)の教えを駆使しながら、現代のわれわれが直面している政治、経済さらに生き方に至るまで切り込んでいくところに特色がある。ここが葬式仏教に甘んじている多くの僧侶たちとの大きな違いである。
 その具体例を上述の文章から引用すると ― 。
・〈与える〉は仏教の言葉ではお布施だが、それでは若い人たちはついてこないんで、今の言葉で〈貢献〉と言えばいい。
・冷暖房完備、トイレの温水洗浄を当然のこととしながら、原子力発電反対を唱えるのは、道理が通らない。やはり〈足ることを知る〉こと。

 以上のように高齢を重ねながら、現代の現実的課題から逃げないで、絶えず創意工夫をこらすという精進ぶりにはただただ頭が下がるほかない。こういう生き方は、仏教の先達からの遺言と受け止めて胸中に納めておきたい。できることなら実践してゆきたい。


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