「もっともっと欲しい」の貪欲の経済から、「足るを知る」知足の経済へ。さらにいのちを尊重する「持続の経済」へ。日本は幸せをとりもどすことができるでしょうか、考え、提言し、みなさんと語り合いたいと思います。(京都・龍安寺の石庭)
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仏教を生かす日本の変革構想
人生の四苦をどこまで癒せるか

安原和雄
私は先日、「仏教を生かす日本変革構想 ― 〈四苦〉緩和への必要条件」と題して講話する機会があった。仏教経済思想の視点に立って日本の政治、経済、社会をどう変革すべきかを述べたもので、変革構想の主な柱は、(1)平和憲法と仏教経済思想、(2)簡素な持続型社会をめざして、(3)非暴力(=平和)の世界を求めて ― である。
 これらの変革構想が多くの人々の努力で実現すれば、「この世に生まれてきてよかったなあー」といえるだけの現世をつくることはできる。だから現状の変革はどうしても必要だが、釈尊が説いた「人生の四苦=生老病死」を変革によってどこまで癒すことができるか、そこが一人ひとりに遺された切実なテーマであることも指摘した。(09年6月28日掲載、インターネット新聞「日刊ベリタ」、公共空間「ちきゅう座」に転載)

 私の講話は、東京・小金井市の高齢者の集い、「クリスタル」(森田萬之助会長)で行った。「クリスタル」は同市公民館主催の「シルバー大学」講座受講者の有志が「親睦と学習・意見交換を通じて自らを高め相互のコミュニケーションを深め合うこと」を目的に1996年に発足した。この学習会は今回の私の講話で230回を数える。

 講話の内容は以下の柱からなっている。
▽仏教経済学の特質 ― 八つの柱と菩薩の精神
▽日本の変革構想(1)― 平和憲法と仏教経済思想
*石橋湛山が憲法9条の平和思想を絶賛
*21世紀版「奴隷解放宣言」が必要
▽日本の変革構想(2)― 簡素な持続型社会をめざして
*経済成長主義よ、さようなら
*病人を減らし、健康人を増やす医療・教育・社会改革
▽日本の変革構想(3)― 非暴力(=平和)の世界を求めて
*自衛隊を非武装の「地球救援隊」(仮称)へ全面改組すること
*地球救援隊構想の概要 ― 非武装・「人道ヘリ」の大量保有を
▽変革プランの実現は人生の「四苦」を癒せるか ?
*「この世に生まれてきてよかったなあー」・・・

▽仏教経済学の特質 ― 八つの柱と菩薩の精神

 まず仏教経済学の特質は以下の諸点である。
・一般の大学経済学部で教えられている現代経済学(新自由主義経済論など)への批判から出発している。
・仏教経済学は信仰に基づくものではなく、真理の追究であり、その実践である。
釈尊(仏教の開祖)は実在の人物であり、神ではない。キリスト教、イスラム教などが絶対神を想定して崇めるのとは本質的に異なる。仏教経済学は仏教思想を応用する実践学で、社会科学の新しい分野を切り開く思想である。
 例えば仏教の説く「縁起論=空観」、すなわち(イ)諸行無常(万物流転=すべてのものは変化し、移り変わること)と(ロ)諸法無我(相互依存=宇宙をはじめ、地球、自然、人間、政治、経済、社会さらに様々な事物などすべては独自に存在しているのではなく、相互依存関係のもとでのみ存在していること)は、信仰ではなく、客観的な真理である。
・既存の現代経済学と違って、教科書が完成しているわけではない。ここでは私(安原)が構想する「仏教経済学・政策論」(骨子)を提示したい。

 仏教経済学の八つの柱(キーワード)はつぎの通り。
一)いのち尊重(人間は自然の一員)
二)非暴力(平和)
三)知足(欲望の自制、「これで十分」)
四)共生(いのちの相互依存)
五)簡素(美、節約、非暴力)
六)利他(慈悲、自利利他円満)
七)持続性(持続可能な「発展」)
八)多様性(多様な自然、人間、社会、文化と個性)

 ここでは八つ(漢数字の八は末広がりを意味しているので、あえて八を使っている)の柱のうちの「いのち尊重」と「利他」に限って若干の説明を加える。
・いのち尊重=現代経済学(いのち尊重という観念はない)とは異質であり、ここが仏教経済学の最大の特色でもある。人間と自然(動植物など)のいのちは平等対等であり、人間だけが特別上位にあるとは考えない。人間は自然の一員ととらえる。
・利他=「世のため人のため」の行動が回り回って自分のためにもなるという思想で、仏教経済学はこの利他主義的人間像を前提にして組み立てる。一方、現代経済学は私利、すなわち自分さえよければいいという利己主義的人間像を想定している。
・仏教経済学のいのち尊重と利他は、非暴力、知足、共生、簡素、持続性、多様性につながっていく。一方、現代経済学はいのち無視、私利重視であり、非暴力ではなく暴力(戦争など多様な暴力)、知足ではなく貪欲、共生ではなく孤立、簡素ではなく浪費、持続性ではなく非持続性、多様性ではなく画一性をそれぞれ特質とする。
(くわしい説明は08年10月13日付のブログ「安原和雄の仏教経済塾」に掲載の「仏教経済学と八つのキーワード」=これは「仏教経済学・原論」に相当=を参照)

 仏教思想にも深い理解を示したイギリスの歴史家、アーノルド・J・トインビー(1889~1975年)は、「21世紀に要請される人間像は、大乗仏教で説く菩薩の精神を持った人間」、つまり「慈悲と利他」を実践する人間だと言っている。

▽日本の変革構想(1)― 平和憲法と仏教経済思想

 21世紀は、地球環境保全を優先する地球環境時代であり、持続型社会、すなわち持続的発展を基調とする社会を創ること、同時に非暴力(=平和)の世界を構築していくこと ― が緊急の課題となっている。
 仏教経済学の視点では、上記の課題を達成するための変革構想は、現下の「貪欲社会」、すなわち「暴力社会」から「非暴力・知足・共生社会」、すなわち「平和社会」へと転換していくこと。そのためには平和憲法に盛り込まれている以下の6項目の理念を生かす変革プランが求められる。

憲法前文の平和的共存権
9条「戦争放棄、軍備及び交戦権の否認」
13条「個人の尊重、生命・自由・幸福追求の権利の尊重」
18条「奴隷的拘束及び苦役からの自由」
25条「生存権、国の生存権保障義務」
27条「労働の権利・義務、労働条件の基準、児童酷使の禁止」

*石橋湛山が憲法9条の平和思想を絶賛

 特に前文の平和的共存権と9条「戦争放棄、軍備及び交戦権の否認」の平和理念は仏教の平和思想の反映ともいえる。
 1946年3月幣原内閣が「マッカーサー草案」(2月)をもとに練り直し、公表した「憲法改正案要綱」の9条について日蓮宗の仏教者、石橋湛山(注)は、当時つぎのように述べて、9条を絶賛している。

 独立国たるいかなる国もいまだかつて夢想したこともない大胆至極の決定だ。この一条を読んで、痛快きわまりなく感じた。我が国民が「全力を挙げてこの高邁なる目的を達成せんことを誓う」ならもはや日本は敗戦国ではない、栄誉に輝く世界平和の一等国に転ずる。これに勝った痛快事があろうか ― と。
(注)石橋湛山=1884~1973年。日蓮宗の仏教哲学と欧米の自由主義思想を背骨とするジャーナリストの大先達。1956年12月首相の座につくが、わずか2か月間で、病のため首相の座を去った「悲劇の宰相」として知られる。

 もう一つ、「9条の会」(憲法9条の改悪に反対する自主的な会で、その数は全国ですでに7000を超えている)に多くのお坊さんたちが参加している事実も指摘しておきたい。

*21世紀版「奴隷解放宣言」が必要

 上記の6項目すべてに説明を加えるのは割愛して、ここでは18条「奴隷的拘束及び苦役からの自由」について説明しておきたい。
 18条全文は「何人も、いかなる奴隷的拘束も受けない。また犯罪に因る処罰の場合を除いては、その意に反する苦役に服させられない」

 本条は「奴隷制または自由意思によらない苦役」を禁止するアメリカ合衆国憲法修正条項をモデルとして制定されたとされる。
 ここでの「奴隷的拘束」(英文ではbondage)とは、「自由な人格を否定する程度に人間の身体的自由を束縛すること」、「苦役」とは、「強制労働のように苦痛を伴う労役」を意味している。
 特に憲法で「奴隷的拘束」という文言を明記したこの条項をどれだけの人が自覚して認識しているだろうか。
 新自由主義経済路線の下では長時間労働、サービス残業で酷使され、一方新自由主義破綻に伴う大不況とともに、大量の解雇者が続出する現状では奴隷同然、人権無視の扱われ方というほかないだろう。サラリーマンの場合、企業内で自由な批判的意見を表明することは歓迎されない現実がある。この18条の含意を玩味して尊重し、「奴隷的拘束からの自由」の精神を身につけなければ、何よりもわが身を守ることができないだろう。日本の現状では21世紀版「奴隷解放宣言」が必要ともいえるのではないか。

▽日本の変革構想(2)― 簡素な持続型社会をめざして

 現代経済学は経済成長主義に今なお執着している。この「成長」には、石油などエネルギーの浪費が必要であり、アメリカのブッシュ前政権が2003年イラク攻撃に踏み込んだ狙いの一つは石油確保であった。
 日本の自民・公明政権が自衛隊によるインド洋での米国艦船などへの給油に執着しているのも、また東アフリカのソマリヤ沖海上へ海賊対策の名の下に海上自衛隊を派兵しているのも、中東石油(日本の石油消費量の9割を依存)の確保につながっている。戦争を肯定し、石油をがぶ飲みするような「貪欲社会」に別れを告げるのが持続型社会とシンプルエコノミー(簡素な経済)をめざす変革プランである。

 具体的な変革プランの主要な柱はつぎの通り。
イ)経済成長主義よ、さようなら
ロ)循環型社会づくり
ハ)自然エネルギー活用型へ
ニ)クルマ社会の構造変革
ホ)ワークシェアリングの導入
ヘ)「食と農」の再生と食料自給率の向上
ト)病人を減らし、健康人を増やす医療・教育・社会改革
 ここではイ)経済成長主義よ、さようなら、ト)病人を減らし、健康人を増やす医療・教育・社会改革 ― に絞って以下に概略紹介する。

*経済成長主義よ、さようなら

 経済成長とは経済の量的拡大を意味しているにすぎない。1960年代までのモノ不足の時代には経済成長も必要であった。また経済成長が必要な発展途上国は多い。しかしわが国のGDP(国内総生産)はすでに約500兆円で、米国(約1000兆円)に次ぐ世界第2の巨大な規模で、成熟経済の域に達している。
 人間でいえば、熟年で、これ以上体重を増やす必要はない。むしろスリムになった方が健康によいし、なによりも人格、智慧を磨くべき熟年である。
 21世紀の日本経済に必要なのは、量的拡大を目指す経済成長主義ではなく、環境も含む生活の質的充実である。
 経済成長を万能と考える時代はとっくに終わり、脱「成長主義」の時代に入っている。にもかかわらず現実には政治家も企業経営者もサラリーマンたちも、その多くが今なお経済成長主義にこだわっている。有り体に言えば、「経済成長=豊かさ」という錯覚の奴隷となっている。

 米国ワールドウオッチ研究所編『地球白書二〇〇八~〇九』はつぎのように指摘している。
 時代遅れの教義は「成長が経済の主目標でなくてはならない」ということである。経済成長は自然資本(森林、大気、地下水、淡水、水産資源など自然資源のこと。人工資本=工場、機械、金融などの対概念として使われる)に対する明らかな脅威であるにもかかわらず、依然として基本的な現実的命題である。それは急増する人口と消費主導型の経済が、成長を不可欠なものと考えさせてきたからである。しかし成長(経済の拡大)は必ずしも発展(経済の改善)と一致しない。一九〇〇年から二〇〇〇年までに一人当たりの世界総生産はほぼ五倍に拡大したが、それは人類史上最悪の環境劣化を引き起こし、(中略)大量の貧困を伴った ― と。

*病人を減らし、健康人を増やす医療・教育・社会改革

 政府主導の医療改革は国が負担する医療費の削減が目的で、その結果、患者負担が増大する一方、病人はむしろ増えている。病人を減らし、健康人を増やすためには従来の薬・検査漬けの治療型医療から食事・暮らしのあり方の改善を含む予防型医療への転換が急務である。

 そこで以下の医療・教育・社会改革案を提起したい。
・70歳以上の高齢者の医療費は、原則無料とする。高齢者の前・後期の差別を廃止する。
・健保本人の自己負担は1~2割に引き下げるが、糖尿病など生活習慣病は、自己責任の原則に立って自己負担を5割に引き上げる。この引き上げには最低2年間の猶予期間をおく。
〈データ〉糖尿病患者は07年現在2210万人。20歳以上では3人に1人の割合となっている。なお遺伝子型の糖尿病に苦しむ人々には自己責任の原則を適用すべきではないので適切な配慮が必要である。

・一年間に一度も医者にかからなかった者には、健康奨励賞として医療保険料の一部返還請求の権利を認める制度を新設する。「健康に努力した者が報われる社会」づくりの一つの柱として位置づける。
・「いのちと食と健康」の密接な相互関連について小学校時代から教育する。
食事の前に「いただきます」を唱えるのがかつては普通だったが、今は少ない。「いただきます」は「動植物のいのちをいただいて、自分のいのちをつないでいる」ことへの感謝の心を表す言葉である。こういう意識が小学生の頃から社会に浸透すれば、いのちを尊重する風潮が広がり、犯罪も減るのではないか。

▽日本の変革構想(3)― 非暴力(=平和)の世界を求めて

 第一回地球サミット(1992年)で採択した「リオ宣言」は「戦争は持続可能な発展を破壊する。平和、発展、環境保全は相互依存的であり、切り離すことはできない」とうたっている。これは地球環境保全のためには平和こそ不可欠であり、軍事力は有害であるという認識を示しているものと読みとることができる。 
このリオ宣言の精神を生かして非暴力(=平和)の世界をつくるうえで日本が貢献するためには何が求められるか。

*自衛隊を非武装の「地球救援隊」(仮称)へ全面改組すること

 私は自衛隊を非武装の「地球救援隊」へ全面改組することを提案したい。
 日米安保=軍事同盟は、憲法の「戦争の放棄、軍備及び交戦権の否認」という平和理念と矛盾しているだけではない。日米安保体制を「平和の砦」とみるのは錯覚であり、むしろ平和=非暴力に反する軍事力を盾にした暴力装置というべきである。だから日米安保体制=軍事同盟は解体すべきであり、それこそが平和への道である。
 しかもいのち・自然を尊重し、多様ないのちの共生を希求する仏教思想から導き出される日本の政策選択が自衛隊の全面改組による非武装の「地球救援隊」創設である。このような地球救援隊の意義は何か。

 第一は今日の多様な非軍事的脅威に対応すること。
 脅威をいのち、自然、日常の暮らしへの脅威ととらえれば、主要な脅威は、地球生命共同体に対する汚染・破壊、つまり非軍事的脅威である。非軍事的脅威は地球温暖化、異常気象、大災害、疾病、貧困、社会的不公正・差別など多様で、これら非軍事的脅威は戦闘機やミサイルによっては防護できないことは指摘するまでもない。もちろん軍事力の直接行使は地球、自然、人命、暮らしへの破壊行為である。
 第二は巨大な浪費である軍事費を平和活用すること。
世界の軍事費は総計年間1兆ドル(約100兆円)超の巨額に上っており、限られた財政資金の配分としては不適切であり、巨大な浪費である。この軍事費のかなりの部分を非軍事的脅威への対策費として平和活用すれば、大きな効果が期待できる。

 以上から今日の地球環境時代には軍事力はもはや有効ではなく、むしろ世界に脅威を与えることによって「百害あって一利なし」である。武力に依存しない対応策、すなわち地球の生命共同体としてのいのちをいかに生かすかを時代が求めているというべきであり、そこから登場してくるのが非武装の地球救援隊構想である。

*地球救援隊構想の概要 ― 非武装・「人道ヘリ」の大量保有を

 地球救援隊構想の概要(理念、目標、達成手段)は次の諸点からなっている。
・地球のいのち・自然を守り、生かすために平和憲法9条の理念(戦争放棄、軍備及び交戦権の否認)を具体化する構想であること。
・地球救援隊の目的は軍事的脅威に対応するものではなく、非軍事的な脅威(大規模災害、感染症などの疾病、不衛生、貧困、劣悪な生活インフラなど)に対する人道的救助・支援さらに復興・再生をめざすこと。
・活動範囲は内外を問わず、地球規模であること。特に海外の場合、国連主導の国際的な人道的救助・支援の一翼を担うこと。

・自衛隊の全面改組を前提とする構想だから、自衛隊の装備、予算、人員、教育、訓練などの根本的な質の改革を進めること。
 具体的には兵器類を廃止し、人道救助・支援に必要なヘリコプター、輸送航空機、輸送船、食料、医薬品、建設資材などに切り替える。特に台風、地震、津波など大規模災害では陸路交通網が寸断されるため、空路による救助・支援が不可欠となる。それに備えて非武装の「人道ヘリコプター」を大量保有する。
 特に教育は重要で、利他精神の涵養、人権尊重に重点を置き、「いのち尊重と共生」を軸に据える新しい安全保障を誇りをもって担える人材を育成する。

▽変革プランの実現は人生の「四苦」を癒せるか ?

 釈尊は「人生は苦なり」と説いた。苦とは仏教では「四苦八苦」を指しているが、ここでは四苦〈=生(生まれること)、老、病、死〉について考える。
 念のため指摘すれば、「苦」を「苦しみ」、というよりも「思い通りにはならないこと」と理解する方が分かりやすい。生老病死にしても何一つ思い通りにはならない。例えば自分の意志でこの世に生を享けた者は誰一人存在しない。老病死にしても、拒否したいと思っても、いつの日かは人それぞれであるにしても、必ずわが身に迫ってくる。

問題は仏教経済思想による日本の変革構想が四苦の解決にどの程度貢献できるのかである。結論からいえば、変革構想がそのまま実現したとしても、四苦が全面的に解決できるという性質のものではない。いいかえれば四苦を癒すうえで必要条件ではあるが、決して十分条件にはなりえない。

 変革構想の実現は、私が提唱する仏教経済学の八つのキーワード(いのち尊重、非暴力、知足、共生、簡素、利他、持続性、多様性)の現世における実現を意味する。地球規模で混乱、破壊、殺戮が広がっている現状からみれば、いのち尊重、非暴力がそれなりに定着する未来社会ではそれぞれの人生は安穏、幸せに向けて質的な変化が生じるだろう。
 貪欲(あるいは強欲)な資本主義的市場経済や貪欲な生き方が、2008年秋の世界金融危機、世界大不況の発生による新自由主義路線(私利追求を第一とし、弱肉強食の競争を強要)の破綻を境にして知足、すなわち「足るを知る」経済、生き方に変化し、それが広がっていくことを時代は求めている。
 そういう社会では共生、簡素、持続性、多様性を尊重し、それを経済、日常の暮らしの中に生かしていくことも期待できる。貪欲な私利追求ではなく、利他、すなわち「世のため人のために」をモットーにして生きていく人、利他こそが結局は自分の幸せ、人生の充実感をもたらしてくれると思い直す人も増えてくる。

*「この世に生まれてきてよかったなあー」

こういう世の中になれば、「この世に生まれてきてよかったなあー」と感謝せずにはいられない人が増えることは間違いないだろう。こうして仏教経済学がめざす「現世での幸せ」に大きく歩み寄ることはできる。しかし四苦の生老病死のなかの老病死はどこまでも思い通りにはなりにくい。
それを承知の上でやはり仏教経済思想を生かす変革を進めなければならない。昨今の現世は地獄そのままの様相を呈しているからである。変革に精進を重ねるのが大乗仏教でいうところの利他の実践であり、衆生済度(しゅじょうさいど・人間に限らず、いのちあるもの一切の救済)への努力にほかならない。

 ここで明恵上人(みょうえしょうにん・1173~1232年、鎌倉時代初期の名僧、京都市の栂尾で高山寺を再興)の臨命終(りんみょうじゅう)説法に触れておきたい。これは今の一瞬一瞬がわが命が終わるときだと思って真剣に生きなさい、という教えである。臨命終に精進を重ねていれば、死も平常心で迎えることができると説いた。


〈ご参考〉今回の仏教経済学講話「仏教を生かす日本変革構想」と昨(08)年10月13日付でブログ「安原和雄の仏教経済塾」に掲載されている講話「仏教経済学と八つのキーワード」の下敷きになっているのが、以下の私(安原)の論文である。
*「二十一世紀と仏教経済学と(下)― 仏教を生かす日本変革構想」(駒澤大学仏教経済研究所編『仏教経済研究』第38号、09年5月刊)
*「二十一世紀と仏教経済学と(上)― いのち・非暴力・知足を軸に」(同『仏教経済研究』第37号、08年5月刊)


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21世紀の日本型社会主義とは
あの江田ビジョンから学ぶこと

安原和雄
 今から半世紀近くも昔の話だが、当時日本社会党書記長だった江田三郎氏が提唱した「社会主義の新しいビジョン」と題するいわゆる江田ビジョンが最近、時折話題に上っている。
その背景として、あの新自由主義路線破綻後の資本主義はどうあるべきか、さらには資本主義後の新しい体制として社会主義社会を展望できるのかどうかに関心が持たれつつあるという事情をあげることができる。これは21世紀の日本型社会主義のイメージを模索する新しい潮流ともいえるのではないか。今、あの江田ビジョンから学ぶことは何か。(09年6月19日掲載、公共空間「ちきゅう座」、インターネット新聞「日刊ベリタ」に転載)

▽再浮上してきた「江田ビジョン」

 毎日新聞の企画記事「権力の館を歩く― 御厨 貴・東大教授」(09年5月20日付)は「フル回転した江田人脈 東京五輪の年、政権獲得に思いはせ」という見出しで、江田三郎・日本社会党書記長(注)が1962年に唱えた江田ビジョンに言及している。
 江田ビジョンとは、①アメリカの高い生活水準②ソ連の徹底した社会保障③英国の議会制民主主義④日本の平和憲法 ― を掲げた望ましい日本型社会主義のビジョンを指している。
 そのくわしい内容は江田三郎・日本社会党書記長名で「社会主義の新しいビジョン」と題して、毎日新聞社刊『エコノミスト』誌(1962年10月9日号)に掲載された。全文は当時の『エコノミスト』誌の9頁にも及ぶかなりの長文である。

(注)江田三郎(えだ・さぶろう、1907~77年)。東京商大(現一橋大学)卒、1950年参院議員に当選。1960年の浅沼稲次郎暗殺後、委員長代行に就任、テレビ討論では柔和な語り口が人気を呼んだ。江田ビジョンは1962年の社会党大会で左派から批判される。63年衆議院に転じ、77年社会党を去り、社会市民連合を結成した。江田五月参院議長は長男。

江田ビジョンの要点を以下に紹介しよう。

1 なぜ新しいビジョンが必要か

*心をゆさぶる社会主義を
 私たちの考えている社会主義について長洲一二教授(注)はつぎのように要約されている。「社会主義とは人間の可能性を未来に向かって開花させることだ。人間は歴史のなかで偉大な可能性をきずき上げてきた。(中略)人類史の成果はいま私たちの目の前に巨大な生産力として、(中略)存在する。こんにちの生産力は、本当に人間のために運営されるならば、やがて貧困を地球上から追放する可能性がある。(中略)飢えや抑圧や戦争を追っ払う可能性が、ようやく人間の未来に見えはじめた。社会主義はこの可能性を実現しようとするものだ。
 社会主義が資本主義を批判するのは、資本主義がこの可能性の開花をじゃまするからである。(中略)社会主義は不満分子の陰謀ではない。絶望者の反抗ではない。それは希望ゆえの革新であり、人間の可能性を信ずるゆえの創造である。その顔は未来に向かっている」(月刊社会党1962年9月号)。

 教授の指摘はあまりに当然のことかもしれない。しかし日本の社会主義者の間では、実はこの当たり前のことが忘れられている。党員をふるい立たせ、全国民の心をゆりうごかすような社会主義のビジョンがなければ、いくら組織の拡大・強化を唱えてみても、それだけではみのり少ないものになるだろう。
 (安原注)長洲i一二(ながす・かずじ、1919~1999年)。当時横浜国立大学教授で、構造改革派の理論家として知られていた。後に神奈川県知事選に出馬し、当選、1975年から20年間5期在任した。

*後進国型のソ連社会主義
 日本で社会主義といえば、人々はすぐにいままでのソ連や中国型の社会を連想する。(中略)少なくともそこでは資本主義にもとづく人間による人間の搾取は一掃されている。だからといって、ソ連や中国の社会主義の建設方式がそのまま私たちのお手本になるわけではない。革命前のロシアや中国は後進国であり、革命方式も、社会主義建設のやり方も、後進国独特の性格をもたざるをえなかった。スターリンの独裁体制と政治的テロルの支配という、社会主義にあってはならないものまで生みだされた。
 そこで私たちとしては、ソ連、中国型とは異なった近代社会における社会主義のイメージを明確にすることが必要になってくる。
 わが党こそ社会主義のビジョンをあきらかにする責任をおわねばならない。

2 未来をきり開く社会主義 ― 人類の到達点と四つの成果

 人類は、何千年の歴史のなかで多くの血を流し、汗を流して貴重な成果をきずきあげてきた。その基礎の上に人間のもつ可能性を最大限に開花させてゆくこと、これが社会主義である。人類がこれまで到達した主な成果として、米国の平均した生活水準の高さ、ソ連の徹底した社会保障、英国の議会制民主主義、日本の平和憲法の四つをあげてみた。

*高いアメリカの生活水準
 第一にアメリカの現在の生活水準は、こんにちこの地上で人間の経験しているもっとも高い生活水準である。乗用車の普及率が二・五人に一台でほとんどの勤労者が自家用車をもっているという社会は、まだアメリカ以外にはない。
 しかしアメリカではその生産力水準にそぐわない社会的不均衡がめだっている。社会保障のいちじるしい立ちおくれ、膨大な富が国防に浪費されるために生ずる学校や病院のいちじるしい不足と都市環境の悪化、教育の機会不均等、スラム街、黒人に対する人種差別、数えあげれば多くの欠陥を指摘できる。
 しかしアメリカの勤労者の賃金水準の高さが、こんにち人類の到達した偉大な成果であることに変わりはない。今日、世界各国の国民がアメリカの生活水準を到達すべき目標と感じていることも間違いない。

*ソ連の徹底した社会保障
 第二にソ連の徹底した社会保障をあげる。
 この国では失業しても病気になっても、年をとって働けなくなっても心配が要らない。国民のすべてが最低の生活を保障されている。
 生産手段の公有とか、搾取の一掃といった社会主義の理論はわからなくても、これはすべての国民がそのまま受けいれうることである。
 かりに民主主義の面でおくれがあるにしても、この地球上で最初に社会主義をうちたて、失業や病気や老年についての社会的不安を一掃したというソ連国民の偉大な事業は否定できない。

*英国の議会制民主主義
 第三に人類の到達した大きな成果として、イギリスの議会制民主主義を考えてみた。
 イギリスの労働者は、獲得した民主主義と福祉国家的水準に一応満足して、さらに社会主義へ向かって前進するという気迫に欠けているといわれる。
 しかしそれにしても、イギリスの国民がつくりあげた議会制民主主義は立派である。普通選挙権、言論・集会・結社の自由、そして国民のすべてが国の政治生活に参加し、自分の欲する政党を政権につけ、欲しない政党を政権から追い払う自由、これはいかなる場合にも否定できない人間の基本的な権利だと思う。

*日本の平和憲法
 人類の到達した偉大な成果のひとつとして日本の「平和憲法」をあげうることは、日本民族の誇りである。
 第二次大戦中に私たちが体験したものは、実に筆舌につくしがたいものであった。国民の多くは家を焼かれ、家族を失った。なによりも痛ましいものは、人類最初の経験である原子爆弾による非人道的な破壊であった。これらの苦しみと悲しみのなかからほとばしり出た人々の願い、二度と戦争はしたくないという国民の悲願、それが憲法九条にほかならない。
 今日、人類は核兵器を廃止し、全面軍縮を実現して平和に生きるか、それとも人類史のおわりを記録しなければならないか、二つに一つしかありえない。このとき、わが憲法第九条は、まさに千金のおもみをもって燦然と輝いている。現在、世界に大きく高まりつつある核実験禁止と全面軍縮の行動は、言葉を換えていえば、憲法九条の規定を世界各国の憲法に書き込ませる運動にほかならない。

3 新しいビジョンをつくろう

*日本にふさわしい社会主義を
 人類のきずきあげた偉大な成果を考えながら、日本の体質にあった、日本にふさわしい社会主義のビジョンをつくりあげてゆきたい。これが私の念願である。
 人類が今日までになしとげた達成に比べると、日本の現実は、憲法第九条を別とすれば、あまりにも貧弱である。この九条でさえ、アメリカの沖縄占領や自衛隊の拡充、核兵器の持ち込みなどの動きによってふみにじられ、おびやかされている。
 たしかに日本の工業生産力は、世界一流のものになってきている。世界レベルの工場,そこに世界最新の機械がすえつけられている。しかし一歩工場の外に出ると、交通事故の不安におののきながら道を歩く。晴天がつづけば、水飢饉におちいり、大雨が降れば、水害に見舞われる。住宅条件はあまりにもひどい。過剰設備になやむ世界一流の大工場と、世界三流、四流の消費生活と貧弱な社会施設、だれが考えてもあまりに極端なアンバランスである。

*豊かな生活を保障する物質的条件
 しかしこの近代的な工業力は、それが合理的に管理され、利用されるなら、すべての日本国民にそうとう豊かな生活を保障する物質的条件となりうるであろう。これは戦前の軽工業中心の工業力ではとうてい期待できない条件であった。ソ連の社会主義のように、消費をきりつめて重工業を建設する必要は、いまの日本にはない。
 労働者の権利の保障も、すべての労働組合が弾圧されていった戦前と比べてはるかに前進したことは事実である。国民は普通選挙権と言論・集会・結社の自由をもち、自分の支持する政党を政権につける権利をもっている。戦前の治安維持法のもとでの選挙とは大変な違いだといわねばならない。
 私たちが日本国民のおかれている現実のなかに、深い苦しみと悩みをみるだけでなく、そこに未来への希望をもみいだすのは、こうした違いのなかに、社会主義へ向かって進むとどめがたい時代の流れ、歴史の歯車の動きを感ずるからである。

▽〈安原の感想〉(1)― 江田ビジョンにかかわった一人として

 この江田論文が『エコノミスト』誌に掲載されるに至った舞台裏をまず紹介したい。当時の江田社会党書記長に原稿を依頼したのは、実は私(安原)である。私は1960(昭和35)年5月地方支局から東京本社社会部に配属になり、警察担当のかたわら「60年安保」すなわち日米安保反対闘争のデモ取材などに右往左往する駆け出し記者であった。
 2年後の62年春、エコノミスト編集部に移って間もない頃、江田ビジョンなるものが浮上してきた。「高い米国の生活水準」などの四本柱は分かっていたが、それ以上のくわしい内容は分からない。

 編集会議で「江田本人に書いて貰おうではないか」という話になって、依頼役を私が引き受け、国会の議員控え室へ出掛けた。江田氏は碁を打ちながら、「ああ、分かった」といって、あっさり承諾してもらえたのにはいささか拍子抜けした。
というのは当時エコノミスト編集部には社会党左派系に食い込んでいたベテラン記者(すでに故人)がいて、その記者が「江田は書かないよ」と私に忠告(?)してくれていたからである。社会党右派系の江田氏の論文を『エコノミスト』誌に載せるのは好ましくないという思惑があったのかも知れない。

 それはさておき、後で分かったことだが、江田氏本人のほか、長洲一二教授、竹中一雄国民経済研究協会主任研究員(後に同協会会長などを歴任)ら当時の構造改革派の面々が月に一回程度集まっては江田ビジョンを練っていた。『エコノミスト』誌掲載の論文「江田ビジョン」を代理執筆したのは、その一人の竹中氏である。

 江田論文が公表されてから、約一か月後の1962年11月開かれた社会党の党大会で「江田ビジョン」が左派からの猛反撃に遭い、書記長を辞任するという展開となった。そのニュースは一面のトップ記事で大きく報道された。駆け出し記者として江田ビジョンにかかわった私にとっては忘れがたい歴史の一断面である。

▽〈安原の感想〉(2) ― 「日本にふさわしい社会主義」と憲法九条、二五条

さて私自身として江田ビジョンを今の時点でどう評価するかに触れないわけにはゆかない。原稿を依頼してから半世紀近い時を経た今、改めて全文を再読してみて、つぎの二点は高く評価したいと考える。
第一は「日本にふさわしい社会主義」という視点である。
第二は日本国平和憲法の九条を高く評価している点である。

 江田ビジョンがソ連型社会主義全体をモデルとして評価しなかったのは先見の明があったといえる。その後、ソ連型社会主義は崩壊し、すでにこの世に存在しないからである。他国の資本主義にせよ、社会主義にせよ、それをそのまま模倣したがるという日本的悪癖は返上したい。米国型の新自由主義路線に追随して、世界中が経済破綻と世界大不況に陥ったのが何よりの教訓である。社会主義も同様である。

 では第一の「日本にふさわしい社会主義」とはどういう社会主義なのか。日本の社会主義を展望するとすれば、それは「日本にふさわしい社会主義」、つまり日本型社会主義以外にはあり得ない。問題は日本型社会主義を今の時点で展望することが可能かどうか、もし可能であれば、具体的にどういうイメージなのか、である。社会主義の決め手として資本(生産手段)の私的所有を社会的所有(あるいは共同所有)へと転換すること、ととらえるのは、従来型の発想で、あまり魅力的とはいえない。土地や一部の産業には適用できても、それ以上ではない。

 私の目下の関心は、従来型の社会主義論よりも、むしろ第二の憲法九条を高く評価している点にある。結論からいえば、先駆的であり、「世界の宝」ともいうべき九条の理念(戦争放棄、非武装、交戦権の否認)を単なる理念にとどめないで、具体化していく必要がある。ソ連、それに今の中国もそうだが、巨大な軍事力を抱え込んだ社会主義国家は壮大な自己矛盾というほかない。社会主義の名に値しない。
 資本主義社会とは、資本の私的利益を最大限尊重する社会であり、一方、社会主義社会とは、社会的利益、すなわち人権、自由、民主主義の尊重さらに地球と自然を土台とする国民生活の質的充実を最大限尊重する社会である。いいかえれば、市民、民衆が主役として責任を持ってつくっていく社会体制である。21世紀の新しい日本型社会主義をそういうイメージでとらえれば、これからの社会主義社会は、憲法九条のほかにもう一つ、二五条(生存権、国の生存権保障義務)を軸に据えた日本型を構想できないだろうか。

 なぜ二五条も軸になるのか。江田ビジョンが描く「米国の高い生活水準」はもはやモデルにはなり得ない。なぜなら米国は所得格差の顕著な拡大によって貧困層が異常に肥大化し、先進国一番の貧困大国に転落しているからである。日本も今では先進国でビリ(米国)から二番目の貧困大国である。日米の経済大国がそろって貧困大国という不名誉な地位に墜(お)ちている。だから国民生活の質的充実を実現していくためには、生存権をどう実のあるものにしていくかが大きな課題となってきた。

▽〈安原の感想〉(3)― 日米安保破棄と九条、二五条の追加条項

 もう一つ、日本型社会主義の前提として日米安保体制の破棄が不可欠である。日米安保は日米間の軍事同盟(安保条約三条=自衛力の維持発展、五条=共同防衛、六条=基地の許与=などで規定)と経済同盟(安保条約二条=日米間の経済的協力の促進=で規定)という二つの同盟の土台となっている。
 しかも見逃せないのは、軍事同盟が憲法九条(非武装など)の理念を空洞化させ、一方、経済同盟が憲法二五条(国民の生存権の保障)の理念を骨抜きにしている点である。従って九条と二五条の理念を名実ともによみがえらせるためには、安保破棄が不可欠である。

日米安保破棄とともに憲法九条と二五条の理念を一段と強化する必要がある。具体案として「持続的発展」(第一回地球サミットが採択した「リオ宣言」の「持続可能な発展=Sustainable Development」)を軸とする憲法追加条項を提案したい。
 これは『新・世界環境保全戦略』(世界自然保護基金などが1991年、国連主催の第一回地球サミットに先立って発表した提言)が「政府は憲法その他、国政の基本となる文書において持続可能な社会の規範を明記すべきである」と憲法条項追加論を提起しているのにヒントを得た。具体案(私案)は次の通り。

*九条に「国及び国民は、世界の平和と持続的発展のために、世界の核を含む大量破壊兵器の廃絶と通常軍事力の顕著な削減または撤廃に向けて努力する」を追加する。
*二五条に「国、企業、各種団体及び国民は生産、流通、消費及び廃棄のすべての経済及び生活の分野において、地球の自然環境と共生できる範囲内で持続的発展に努める」を新たに盛り込む。

 以上のような九条と二五条を軸とする社会主義をイメージするのは、従来の社会主義論からみれば、おそらく異端である。しかし異端を理由に排するのは視野狭窄症である。いうまでもなく社会主義論 ― 社会主義への道と社会主義のイメージと ― は、国ごとに多様であっていいはずであり、また多様でなければ現実性をもたないだろう。

〈ご参考〉:「安原和雄の仏教経済塾」に09年6月8日付で掲載されているつぎの記事は日本型社会主義への模索の現状を報告している。
《「変革のアソシエ」が発足 資本主義体制の克服を目指して》


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批判浴びる日本の「中期目標」
環境不熱心国・日本の汚名返上を

安原和雄
麻生首相が発表した日本の温室効果ガス排出削減に関する中期目標に批判が広がっている。欧州諸国が基準年(1990年)比で20%以上を削減させる中期目標を掲げているのに対し、日本は同年比8%削減といかにも低いからである。経済界の消極的な姿勢の反映であり、このままでは「環境不熱心国・日本」という汚名を着せられることにもなりかねない。そういう汚名をどう返上していくか、そのカギは温室効果ガス排出を大幅に削減し、低炭素社会づくりを急ぐことである。それは新たな機会創出という変革への挑戦でもある。(09年6月13日掲載、インターネット新聞「日刊ベリタ」、公共空間「ちきゅう座」に転載)

▽中期目標(90年比)― 日本8%減、ヨーロッパ諸国20%以上減

 麻生首相が6月10日、発表した二酸化炭素(CO2)など温室効果ガスの排出削減の中期目標は以下の通りである。
・2020年までに、日本全体の排出量を05年に比べて15%削減する。
・上記の15%削減は従来基準の1990年比では8%減にとどまる。

 15%削減と8%減という数字の開きはどこから生じるのか。1997年に採択された京都議定書では日本は「08~12年に90年比で6%減」を約束していた。ところが実際には6%減どころか、約9%の増加となっている。このため基準年を、増えた後の05年に移動させれば、削減幅は見かけでは大きくなる。こういう操作で削減幅を大きく見せているが、他の先進国はどうなっているのか。日本も含めて各国の中期目標(削減幅)、基準年は以下の通り。

日本=15%(基準年2005年)、8%(基準年90年)
米国=14%(同05年)、4%(同90年)
欧州連合(EU)・基準年はいずれもみな90年=20%または30%、ドイツ=40%、イギリス=34%、スウェーデン=30%、フランス=20%、ノルウェー=30%

 以上から分かるように日本の基準年は米国式の05年に同調しており、基準年を90年にとれば日米ともに削減幅は一ケタにとどまり、一方、欧州諸国は20%を超えている。

▽日本政府の中期目標をメディアはどう論じたか

 大手メディアは中期目標についてどう論じたか。まず大手紙社説(6月11日付)の見出しを紹介する。
*日本経済新聞=国際交渉を主導できる中期目標なのか
*朝日新聞=15%削減 低炭素革命の起爆剤に
*毎日新聞=中期削減目標 意志と理念が伝わらぬ
*東京新聞=数値より大切なもの 温暖化対策の中期目標
*読売新聞=CO2中期目標 多難な国際交渉が待っている

一読した印象では日本経済新聞社説が批判・疑問点を指摘しており、一方、読売新聞社説は麻生太郎首相の立場と経済界の考え方を反映させようと努める社説となっていて、対照的である。そこで2つの社説(要点)を以下に紹介する。

〈日本経済新聞〉
 麻生太郎首相が決断した2020年までに温暖化ガスの排出を05年比で15%削減するという中期目標でまず問われるのは論拠である。
 中期目標は排出削減を比較する基準年をこれまで議論されてきた1990年から05年に移し、数値を米欧とそろえてみせている。だが、05年の排出量は欧州が90年比で減っているのに対し日本は約8%増。増加年を基準にして見かけの数値を高め、問題の本質をそらしていないか。

 温暖化防止は将来の子孫に残すべき地球のありようを問うている。科学が予見している地球規模の気候変動と被害を抑える強い意志があるか。それが問題の本質である。目先の利益にとらわれず、将来をにらんで経済や社会を変える。その強い意志を示すのが政治の役割である。
 中期目標からこの強い意志はほとんど見えてこない。欧州連合(EU)は2100年に産業革命以来の温度上昇を2度以下に抑えるとの理念のもと、20年に90年比20%減の目標を掲げている。EUと理念を共有できず、溝は深まったのではないか。

 国連の気候変動に関する政府間パネル(IPCC)は気温上昇を2~3度に抑えるには先進国が20年までに排出量を90年比で25~40%削減する必要があると指摘している。次期枠組み交渉はこれを前提に議論を進めているが、日本の中期目標はそれとの整合性を問われるだろう。

〈読売新聞〉
 大幅な削減には厳しい排出規制が必要だ。それは経済の停滞や国民の負担増につながる。14%の削減でさえ、国内総生産(GDP)を押し下げ、失業者が11万~19万人増えるという試算がある。
 削減率について、首相が「大きいほど良いという精神論を繰り返すのは、国民に対して無責任だ」と指摘したのは的を射ている。

 忘れてはならないのは、公平性の視点である。首相は、「日本だけが不利になることがないように、国際交渉に全力で取り組む」と語った。
 先進国間で省エネの進展に応じて削減率を割り当てる手法の導入などを訴えていく必要がある。

 大量排出国の中国、インドの参加が、ポスト京都の絶対条件である。しかし、一方で、両国の要求を丸のみして、非現実的な削減率を負うことは避けねばならない。
 日本の国益を維持しつつ、中国、インドを同じ枠組みに引き入れる。極めて難しい交渉となるだろうが、それができなければ、日本が不利な立場に追いやられた京都議定書の繰り返しとなる。

〈安原の感想〉― 目先の小利にこだわる国益論を排す

 焦点は、「気温上昇を産業革命前に比べて2度に抑えるには先進国が20年までに排出量を90年比で25~40%削減する必要がある」(IPCC報告)という点である。「次期枠組み交渉はこれを前提に議論を進めているが、日本の中期目標はそれとの整合性を問われる」という日経の指摘はもっともである。「90年比8%の削減」という日本案ではとても整合性があるとは考えにくい。

 一方、読売の社説は、このIPCC報告の主張に反論することに主眼があると読める。「大幅な削減には厳しい排出規制が必要だ。それは経済の停滞や国民の負担増につながる」という指摘一つをみても明らかである。
 読売は「日本の国益を維持しつつ、・・・」とも述べている。この国益とは何を意味しているのか。地球温暖化が一段と進行すれば、干ばつ、洪水、海面上昇、食料生産低下など計り知れない、しかも後戻りできない被害、災厄が予想されている。それを回避するためにも、CO2排出を大幅に削減し、低炭素社会づくりを急がねばならない。それは新たな機会創出という変革への挑戦でもある。こういう時代の要請に背を向けて、目先の小利にこだわるような国益論を振りかざしているときではない。

▽国際環境NGOの声明(1)― 麻生首相はヒーローになれない

 国際環境NGOの発言・主張は一般紙ではあまり報道されないので、ここで紹介する。

 その一つ、WWF(世界自然保護基金)ジャパンは6月10日、地球温暖化対策に向けた政府の中期目標に対する声明を発表し、《「05年比15%削減」=「90年比8%削減」ではヒーローになれない!》と指摘している。その要旨は以下の通り。

WWFジャパンは他のNGOと共同で、新聞の意見広告などを通じ、麻生首相に温暖化対策の「ヒーロー」になることを訴えてきた。しかし、この削減目標「90年比8%削減」では、国際市民社会のヒーローには、到底なることはできない。理由は、3つある。

その1)温暖化の影響を最小限に食い止めるためには不十分
 京都議定書の目標は2012年までに90年比「6%削減」であり、2020年までに「8%削減」では、京都議定書以降に明らかになってきた温暖化問題の緊急性に応えているとは言えない。

 京都議定書の「6%削減」については、「森林吸収源による3.8%削減」、「京都メカニズムによる1.6%削減」を計上できるので、実質的には「0.6%削減」でしかなく、そこからすれば進歩という主張も見受けられる。しかし、それは極めて内向きな理屈である。国際公約はあくまで「6%削減」である。それをどのように達成するのかは国内の議論でしかない。議定書採択から12年経った今、「6%削減は厳しい」という言い訳は通用しない。

その2)国際社会の一員としての日本が果たすべき責任を果たしていない
 この目標では、国際社会の一員としての責任を十分に果たしていない。他の先進国の目標に関する意欲にも悪影響を与え、途上国の削減行動への参加意欲も削ぐ可能性がある。そうなれば、日本政府が度々主張している「全ての国々が参加する枠組み」の達成すら危うくなる。

その3)日本を低炭素社会に変革するためには不十分
 この目標では、あくまで現状の延長線上にしか2020年を見ていない。経済危機、人口減少など、日本が転換期に来ていることは確かである。いずれにせよ、日本は今の経済社会構造を変革しなければならない。現状の延長線上におかれた目標では、変革は起きるはずがない。

 日本が誇りにしてきたエネルギー効率も、90年以降は改善が滞っているのは統計から見て明らかである。また国際的にも、70年代以降に確保した優位性は失われつつある。今一度、刺激がなければ、いずれ追い抜かれてしまう。

WWFジャパン 自然保護室気候変動プログラム・グループリーダー 山岸尚之のコメント
 「この中期目標に関するこれまでの議論は、そもそも、何のためにこの目標が必要なのか、という部分が抜けてしまっていた。温暖化対策の費用が高く、いかに難しいかという点は語られたが、温暖化によって、どのような被害が起きるのか、それをどうやって最小限に抑えるのかという観点が希薄だった。特に、日本のように食糧などを海外に頼っている率が高い国にとっては、日本だけでなく、世界全体に対する温暖化の影響をもっと重視すべきだった。京都議定書のホスト国が、次の枠組みへ向けての合意形成にリーダーシップを発揮できないことが残念である」

▽国際環境NGOの声明(2)― 先進国としての責任放棄

もう一つ、FOEJapan(Friends of the Earth Japan)は6月10 日、日本の中期目標の発表に関して《「90 年比ー8%」では先進国としての責任放棄》と題して以下の声明(要旨)を発表した。

 この日本の発表は、京都議定書の次の国際枠組み合意に向けた交渉に大きく水を差すものであり、気候変動の深刻な影響を受ける途上国の人々の怒りを呼ぶものである。日本は、科学の警告に基づき、先進国としての責任を果たす中期目標として、1990 年比25%以上の削減を約束すべきである。
 国際社会は、人類の生存を脅かす危険な温暖化の影響を回避することを目的として次期枠組み交渉を進めている。IPCC の第4次報告書の警告に基づき、先進国には2020年に少なくとも1990 年比25~40%の削減が求められることは、交渉のベースとなる認識として確認されている。歴史的排出責任および技術力・経済力のある先進国が、率先した削減を約束することが、新興国、途上国を含む新たな枠組み合意のためには不可欠である。

 しかし今回の中期目標検討作業は、この国際社会の常識を恣意的に無視し、経済界の思惑どおりの低い目標が着地点となるように進められた。シナリオ作成は、20 世紀型の産業構造からの変革なしの前提条件のもとに行われたため、選択肢はいずれも低い目標に留まった。京都議定書の次の目標であるにもかかわらず、これより増加、横ばいの選択肢が含まれていたことは、極めて恥ずべきものであり、本来であれば、30%、40%も選択肢に含めるべきであった。
 さらに、産業構造変革なしの前提条件から家庭の負担が強調され、温暖化影響への対策コストや長期的な投資回収を含めずに経済へのマイナス影響が大きいと結論づけられていることで、国民を誤った判断に誘導するものであった。

 今回の中期目標の検討は、国内における省エネ等の対策による化石燃料由来の排出削減等に限り、海外における排出枠購入や森林吸収を含まないとしている。その国内対策分が8%ではあまりに低すぎる。欧州がエネルギー消費に占める再生可能エネルギーの割合を2020 年までに20%に拡大することを明言しているように、国内における削減ポテンシャルへの取組みを最優先し、海外でのオフセット(埋め合わせ)を念頭に置くべきではない。国内対策の先延ばしは低炭素経済へのシフトにおいて、日本が他国に比べ大きく遅れをとることを意味し、日本の将来を担う世代にツケを負わせることになる。

 日本政府は、12 月のコペンハーゲン会合に向けて、中期目標を再検討し、大幅に引き上げるべきである。先進国としての責任を放棄したに等しい「90 年比8%削減」では、日本は「世界の笑いもの」どころか「無責任な嫌われもの」になってしまうであろう。

〈安原の感想〉― 国際感覚からの批判

 2つの声明からは国際環境NGOの面々が切歯扼腕(せっしやくわん)している姿が浮かび上がってくる。日本は「世界の笑いもの」どころか「無責任な嫌われもの」になってしまう ― という表現はその一例にすぎない。NGOのメンバーは、ドイツ・ボンで6月12日まで2週間にわたって開かれた「国連・気候変動に関する会議」の周辺に詰めかけており、会議の雰囲気を身近に感じとることができる位置にいる。
 欧州連合(EU)は、温室効果ガスの削減に積極的であり、特にドイツは「先進国の中の環境先進国」という折紙つきだから、日本とはまるで雰囲気が違うだろう。そこで感じとる「国際感覚」からみれば、日本の中期目標は「我慢できない」、「恥ずかしい」という批判的気分になるのも無理はない。
 しかし勝負はこれからである。環境問題では無視に近い姿勢だったブッシュ前米大統領とは違って、オバマ現米大統領はグリーン・ニューディールを掲げて積極的である。このままでは環境問題で日本が先進国の中で最後尾をもたもたしているということにもなりかねない。そういう「環境不熱心国・日本」という汚名を甘受するわけにはいかない。


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「変革のアソシエ」が発足
資本主義体制の克服を目指して

安原和雄
 「変革のアソシエ」という名の新しい運動体が発足した。掲げるスローガンは「資本主義に対抗し、新しい地平を開く批判的・創造的知性の舫(もやい)を!」、「違いを結ぶ批判と創造の新機軸を構築しよう!」である。このスローガンからも分かるように「変革のアソシエ」は資本主義体制そのものに批判の目を向け、克服していくことを目指している。この資本主義体制の克服を視野に収めている点では従来の反戦反核・平和運動、憲法改悪反対運動、労働運動などとは性格を異にしているところに新鮮さがある。(09年6月8日掲載、インターネット新聞「日刊ベリタ」、公共空間「ちきゅう座」に転載)

▽「もう一つの世界への希望を育てること」

 「変革のアソシエ」発足総会が09年6月6日、東京・千代田区神田駿河台の総評会館で開かれ、正式に発足した。共同代表に伊藤誠・東京大学名誉教授、本山美彦・京都大学名誉教授、足立眞理子・お茶の水女子大学准教授ら数名のほか、事務局長に大野和興・農業ジャーナリストがそれぞれ就任した。
 総会では「変革アソシエ」の「呼びかけ文」(後述)と「会則」が採択された。「会則」は会の目的について「現代資本主義がもたらしている格差の拡大、生き甲斐の喪失、生活と労働の破壊、自然と人間の荒廃を深く憂慮し、それに対抗する批判的知性の広範な結集と展開をはかり、もう一つの世界への希望を育てること」と明記している。
 また同会のあり方として「この目的を実現するために会員の平等な自発性を尊重しつつ、会員相互の知的な交流、啓発、連帯のために適切な諸活動を企画し、実行する協働組織として設立される」とうたっている。

 なお同会の事務所所在地は以下の通り。
〒164-0001 東京都中野区中野2-23-1 ニューグリーンビル3F309号
TEL:03(5342)1395 FAX:03(6382)6538

▽「生きていてよかったなあー、という世の中にしたい」

 総会に続いて発足記念講演とシンポジウムが行われた。会場には200人近い現代版「志士」たちが集まった。講演は本山美彦氏による「世界恐慌と危機の真相 ― わたしたちはどこへ向かうのか」で、つぎの柱からなっている。
はじめに ― GM破綻=金融資本主義終焉の象徴
1 現代資本主義の最終局面=証券化 ― 時間搾取システムとその変形
2 金融寡頭制 ― 資本主義精神の消滅
3 ソマリア ― システムからこぼれ落ちた民衆の惨状
4 辺野古新基地協定 ― 結集される沖縄民衆の怒り
おわりに ― 作ろう新しい世界を

 内容の詳しい紹介は割愛して、ここでは「おわりに ― 作ろう新しい世界を」(全文)に限って以下に書き留めておく。

 グローバリズムには、「普遍性強制」が決定的にまといついていた。それは西洋中心史観、最近では米国普遍性史観として人々の心をとらえていた。しかしいまや私たちは、公然と、米国的普遍性を「似而非(えせ)普遍性」、米国的グローバリズムを「虚偽の共同性」として拒否することができるようになった。

 いまでは真の変革を生み出す人々の真の連合を生み出すことができる。「結」(ゆい)の共同作業による「舫」(もやい)の場を作り出すことができる。
 人類は、「アソシエーション社会」の大道を紆余曲折を経ながらも確実に歩んできた。自然と人間、人間と人間、そうした折り合いが世界的に人類史的に実現されようとしている。私たちは、「資本の商品化」がもたらす金融の暴走を十分に経験してきた。いまや労働を人間の元に取り返すことが緊要である。国家と市場は残存させざるを得ないだろう。しかしそれには資本主義を廃棄させるアソシエの介在がなければならない。

 人間には人間の行があり、動物には動物の行がある。植物にも、水土にも行がある。そうした「天地人三才の徳」を会得して、私たちは人間の行として「変革のアソシエ」を推し進めよう。
 生きていてよかったなあー、という世の中にしたい。

 末尾の「生きていてよかったなあー、という世の中にしたい」は配布された講演原稿にはなかったが、その場で講演者がつけ加えたものである。

▽「呼びかけ文」― 資本主義は内部から自己崩壊

 発足総会で採択された「変革のアソシエ」の呼びかけ文(大要)を以下に紹介する。その主見出しは「違いを結ぶ、批判と創造の新機軸を構築しましょう」である。

 社会の至る所でほころびが目立つようになった。一握りの金融資本家が、公の富を私物化し、むさぼり食っている。強欲資本主義の先頭を進むアメリカでは、社会の全資産の半分が、人口比にして100万分の1でしかない、一握りの金満家の手にある。彼らが世界を破壊してしまった。日本も例外ではない。日本の所得格差を基準とする貧困度もOECD諸国の中ではビリから3番目で、アメリカはメキシコに次いでビリから2番目だ。
 社会から倫理性・責任感・安全性・生き甲斐が急速に失われてきた。その大きな要因は、想像を絶する経済格差の存在である。アメリカ型金融資本主義は、現代資本主義の究極の形で、このシステムこそが、私たちの生活と労働を破壊している。

サブプライム問題の深刻化に象徴されているように、金融恐慌の津波が世界を襲っている。資本主義は、内在的な不安定性を深刻なかたちで露呈し、あきらかに外的な力によってではなく、内部から自己崩壊現象を示しているのだ。いまや、ほんとうにスケールの大きな歴史の危機と転機とが共に訪れているのだ。

 それとともに孤独な個人に分断されてストレスを内部にため込みながら、苦しむ人々が増えている。日本では15分に一人が自殺に追い込まれている。なかでも女性へのしわ寄せはこれ以上放置できないほどの過酷なもので、民間企業で生涯働いても、自らの生活を支えるだけの賃金を得る女性は、ごくわずかの人々にすぎない。 
 現実に進行しているのは、私たちが共に生きていくことの絶望的な困難さであり、社会そのものの存立基盤の破壊なのだ。

 さらに地球温暖化、資源枯渇のおそれ、農村や山林の荒廃などから、人間の生存基盤となるべき自然環境破壊も深刻な問題になっている。いまや近代以降の資本主義市場経済の歴史的限界が人間と自然の深刻な荒廃・破壊に示されている。
 にもかかわらず日本ではこの忌まわしい時代に反抗する批判的知性の力が強くなっているとはいえない。新自由主義イデオロギーが猛威を振るったこの30年間で、資本主義体制に批判的に対峙する思想、文化、理論の戦列から多くの人々が離れた。新自由主義の重圧のもとでの労働運動、社会諸運動の内部分裂がそうした情況を生み出した。

 いま必要なことは、社会変革の新しい基軸を早急に構築することである。資本主義に反抗し、新しい地平を開く批判的・創造的知性の舫(もやい)を生み出すことである。違いを結ぶ批判と創造の星座を作り出すことが喫緊に重要なことである。
 世界ではアメリカ流の資源略奪型グローバリズムへの抵抗が強くなり、アメリカの軍事力で圧殺され続けてきた民族の尊厳回復を目指す運動が燃えさかっている。
 アメリカ帝国主義は急速に世界から孤立する様相を深めている。
 日本では戦前には脱亜入欧の近代国家形成がアジア人民の犠牲の上に遮二無二進められた。戦後では日米安保体制の下で、日本の保守層は対米従属を国是としてきた。いまその構造が行き詰まったのだ。私たちはいまこそ、政治的、経済的、文化的に脱アメリカの自治・生活スタイルを構築しなければならない。

 世界に吹き荒れるこうした抵抗の風を、私たちもしっかりと受け止め、もっと大きな風を起こすべく、謙虚な自己反省を忘れずに、批判的・創造的知性を結集すべきである。
 人間の尊厳を踏みにじる労働力商品化の深化に抵抗し、反安保、反改憲、沖縄の解放を目指す従来からの反資本主義運動をもっと大胆に展開すべきである。そうした反資本主義の文化的・知的対抗運動の根底のひとつに、被差別部落民、先住アイヌ民族、琉球民族、在日朝鮮民族・アジア人などの人々の困難な闘いも大切に据えよう。差別と分断は、権力システムから打ち出されたものだが、私たちの心の中にも、差別と分断に呼応する一面もあるのではないか。
 それぞれの違いを意識しつつも、連帯の可能性の絆でお互いが結ばれれば、そこには差別、分断、格差、貧困への強固な抵抗の地場が形成されるだろう。

 こうした可能性の絆、新しい基軸の拡充と構築という営為の上に、農漁村の崩壊・都市における貧困の累積、様々な格差、因習・慣行と無自覚による女性差別、等々を食い止める広範な人々のアソシエが形成されるのだ。
 現在は、危機の頂点である。それは、古代ギリシャの哲人、ヒポクラテスが喝破したクライシスである。究極の危機を迎えたとき、人間は劇的な回復力を発揮する。そうした極限状態がクライシスと呼ばれているものなのだ。
 資本主義そのものを克服し、新しい価値観に基づく新しい時代の創造を目指して、それぞれの生活空間・運動空間で苦闘している現場の知を尊重しつつ、広く世界の批判的知性との交流・協力も大切に、志を新たにさまざまな分野での課題や知的作業を重ねあい、歴史の危機を突破する希望を育みたい。
 こうした私たちの願いに、協力し結集してくださることを心からお願いする。

▽資本主義をどう克服していくのか

 以上の「呼びかけ文」から資本主義の批判と克服に関する指摘、分析の要点を再録すると、以下のようである。

*資本主義は内部崩壊
資本主義は、内在的な不安定性を深刻なかたちで露呈し、あきらかに外的な力によってではなく、内部から自己崩壊現象を示している。

*資本主義市場経済の歴史的限界
人間の生存基盤となるべき自然環境破壊も深刻な問題になっている。いまや近代以降の資本主義市場経済の歴史的限界が人間と自然の深刻な荒廃・破壊に示されている。

*アメリカ帝国主義は世界から孤立
世界ではアメリカ流の資源略奪型グローバリズムへの抵抗が強くなり、アメリカの軍事力で圧殺され続けてきた民族の尊厳回復を目指す運動が燃えさかっている。
アメリカ帝国主義は急速に世界から孤立する様相を深めている。

*日米安保体制の構造的行き詰まり
日米安保体制の下で、日本の保守層は対米従属を国是としてきた。いまその構造が行き詰まった。私たちはいまこそ、政治的、経済的、文化的に脱アメリカの自治・生活スタイルを構築しなければならない。

*資本主義そのものを克服
 資本主義そのものを克服し、新しい価値観に基づく新しい時代の創造を目指して、(中略)志を新たにさまざまな分野での課題や知的作業を重ねあい、歴史の危機を突破する希望を育みたい。

〈安原の感想〉脱「資本主義」と脱「日米安保」と

 記念講演で本山美彦氏は「いまや労働を人間の元に取り返すことが緊要である。国家と市場は残存させざるを得ないだろう。しかしそれには資本主義を廃棄させるアソシエの介在がなければならない」と述べた。
 資本主義廃棄後にも国家と市場は残るという指摘である。それはそうだろう。問題はそういう新しい社会は、旧ソ連型とは異質の社会主義社会なのか、それとも新しいタイプの共同体社会なのか。後者らしいが、その具体的イメージははっきりしないし、今後の課題である。

 一方、上述の「呼びかけ文」の分析、指摘から再録した諸点は傾聴に値する。特に資本主義の内部崩壊、歴史的限界という客観的事実と、日米安保体制の構造的行き詰まりという現実とは日本では表裏一体の関係にあるととらえたい。いいかえれば日米安保体制下の日本資本主義が内部崩壊、歴史的限界に直面しているということではないか。しかもこの新しい歴史的事態はアメリカ帝国主義の世界での孤立によって加速されており、変革の可能性は現実味を帯びてきている。
 日本の目指すべき戦略目標は脱「資本主義」と脱「日米安保」であり、この二つは車の両輪にたとえることができる。
 しかしそれを担うべき主体の弱さは否定できない。呼びかけ文が「日本ではこの忌まわしい時代に反抗する批判的知性の力が強くなっているとはいえない」と指摘している通りであろう。反転攻勢にどう出るか。今後の注目点である。


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GM「国有化」が示唆するもの
脱クルマ社会への模索と実践を

安原和雄
米国最大手の自動車メーカー・GMの経営破綻に伴う「国有化」は大きな波紋を広げている。この経営破綻と国有化が示唆するものは何か。多くの関心は経営再建はどのようにして可能なのかに向けられているが、肝心なことを見逃しているとはいえないか。それはクルマ社会そのものの終わり、いいかえればガソリン大量消費の車依存型時代の終わりの始まりではないか、という視点である。温暖化防止の観点からも、移動手段としてのクルマはもはや時代遅れの感が深い。脱クルマ社会への模索と実践を時代は求めている。(09年6月4日掲載、インターネット新聞「日刊ベリタ」、公共空間「ちきゅう座」に転載)

▽大手紙社説はGM国有化をどう論じたか

 大手5紙の社説(6月2日付)が今回のGM(ゼネラル・モーターズ)国有化についてどう論じたかを紹介する。各紙社説の見出しはつぎの通り。

朝日新聞=米GM破綻 クルマ文明変革の機会に 
東京新聞=GM国有化 『緑の社会』に残れるか
毎日新聞=GM国有化 再生への道のりは長い
読売新聞=GM破綻 “売れる車”が再建のカギだ
日本経済新聞=自己変革怠った巨大企業GMの破綻

 私(安原)は朝日の「クルマ文明変革の機会に」と東京の「『緑の社会』に残れるか」という見出しに興味を感じ、どのように新しい視点を打ち出しているのかと期待を抱いて読んだ。しかし両紙ともに見出しのテーマをくわしく論じているわけではない。

 朝日はつぎのように言及しているにすぎない。
 燃費のいい小型車やハイブリッド車、電気自動車などの新製品をいかに開発し、効率的につくるか。その鍵を握るのは、経営陣と働く人々の意識変革だ。日本や欧州の車づくりから謙虚に学び、新しいグリーンな歴史を作るのだという気概を持てるか。突破口はそこにある ― と。
 モデルになるのは「日本や欧州の車づくり」ということらしい。

 一方、東京新聞は以下のように書いている。
 ガソリン大量消費のスタイルは既に終わった。GMはオバマ大統領の「緑の新政策」に沿った脱化石燃料・低炭素化への転換を求められている。
 自動車産業は米国が目指す緑の新政策の重要な一角を占める。新政策は化石燃料の大量消費から脱却し、風力などの新エネルギーに移行する大胆な社会変革だ。GMは大型の多目的スポーツ車などを主力に据えたため、ガソリンが値上がりすると消費者に敬遠され途端に売れ行きが失速した。
 (中略)保護ではなく、自力で環境技術などの魅力を際立たせ、堂々と競争してもらいたい ― と。

ここでも車社会そのもののあり方よりも環境技術の枠内で論じているにすぎない。
他の3紙も、魅力ある売れる車をどうつくるか、GMの経営再建をどう図っていくかに力点を置いて論じている。米国自動車3大メーカーのうちクライスラーに続いて最大手GMの経営破綻、そして国有化の直後だから、そこに焦点を合わせるのはやむを得ないとしても、果たしてそれだけで十分なのだろうか。端的に指摘すれば、車社会そのものが果たして生き残れるのか、と問い直すときではないのか。いいかえれば車依存型社会は、もはや時代遅れではないのか、である。
これに関連して若干気になるのは、毎日社説が「最近は若い人を中心に自動車への興味が薄れている」と指摘している点である。若者の意識変化は何を意味しているのかをもっと論じてほしかった。重要なことは、若者たちは車に乗ること自体をかっこ悪いと感じ始めているのかどうか、である。

▽未来予測 ― 高速道路で自家用車は走っているか

 ここでクルマ社会に関するつぎのような未来予測を紹介したい。
問い:30年後の未来の日本の高速道路で果たして自家用車は走っているだろうか?

答え:なにしろSFの未来予測に属する部分もあるので、正直にいって正解は分からない。しかし可能性を考えてみると、マイカーは恐らく走っていないのではないだろうか。環境破壊とエネルギー浪費型の元凶である自家用車がなお走っているようでは、人間が生存していく基本条件である環境が相当破壊されていることになる。マイカーは健在だが、肝心の人間様が息も絶え絶えという状態では落語のネタにはなっても、様にならない。高速道路を走る車としては高速バスが主体になっている可能性が高い。そのバスもソーラーカーになっているのではないか。

 また日曜日など休祭日には人間がマラソンで汗を流しているかもしれない。あるいは「歩け歩け大会」を緑の豊かな山間地の高速道路のあちこちで盛大に催しているだろう。瀬戸大橋が開通する前日、多くの人々が「翌日からはもはや歩けない」というわけで、一斉に歩いて渡った事実がある。 
 本来は、人間の歩行が禁止されている高速道路だからこそ、そこで歩いたり、走ったりすることは、なによりのレジャーといえるかもしれない。それだけではなく、人間性回復への試みであり、さらに環境保全にとどまらず、破壊された環境を再生させ、新たに創造していく営為であるということになるだろう。

 以上は、実は私(安原)が2000年末に書いた講義用教科書『知足の経済学・再論(上)』(足利工業大学研究誌『東洋文化』第20号、2001年1月刊)の一節で、その時点から30年後といえば、2030年の未来予測である。書いてから8年経た今日、GMの「国有化」、つまり車が売れなくなったという事実を目の前にして、この未来予測は一段と現実味を帯びてきたように感じている。

▽クルマ社会がもたらす悲劇と災厄と非効率

 クルマ社会がどれだけの悲劇と災厄と非効率をもたらしているか、ここで改めて整理しておきたい。

*大量の人命破壊が毎年続く
 交通事故による死亡者はかつて多いときには年間1万7000人に上っていた。最近では減ってはいるが、それでも年間約6000人である。負傷者は毎年100万人を超えている。あの阪神・淡路大震災の犠牲者は6000人を超えた。阪神・淡路大震災級の犠牲者が毎年出ていると考えれば、理解しやすいかも知れない。大震災の死亡者一覧表は、当時新聞等に掲載されたが、交通事故死亡者一覧表も年末にでもまとめてみてはどうか。
 私自身、信号待ちしていた交差点で2、3メートル先で発生した交通事故を目撃した体験がある。被害者は軽傷で済んだが、それ以来事故は他人事ではないと痛感している。

*温暖化など環境の汚染・破壊を進める元凶
 クルマ社会は工場・事業場、航空機などと並んで二酸化炭素(CO2)の排出によって温暖化を進める元凶の一つである。
 しかも温暖化に伴うマイナスの影響は多様であることが見逃せない。温暖化に伴う災害の増加(台風の大型化と頻発、激しい雷雨、豪雨など異常気象による被害の増大)、食料危機(異常気象や病虫害の増加による食料生産の低下と飢饉の増大)、生態系への悪影響(森林の生育・再生能力への悪影響など)、健康への悪影響(熱波の影響による死亡者の急増など)、海面上昇による沿岸地域の水没など。

*自家用乗用車はエネルギー多消費型で非効率
 自家用乗用車(マイカー)は、エネルギー多消費型である。わが国の交通機関別のエネルギー消費比率をみると、ざっと次のようになっている。 
 [旅客輸送=鉄道1、バス2、自家用乗用車6]

 これは旅客輸送では1人を1㌔輸送するのに鉄道1に対し、バス2、自家用乗用車6の比率でエネルギー消費を必要とすることを示している。つまり自家用車は鉄道よりも6倍のエネルギーを浪費し、それだけエネルギー消費効率が悪いといえよう。
 もう一つ自家用車は輸送効率が低いこともあげなければならない。つまり道路の占有空間(1人当たり)が大き過ぎる。これは多数の乗客を収容できるバスと比較すれば、明瞭であろう。

 このことはわが国の総合的な交通のあり方として自家用車というエネルギー消費効率、輸送効率ともに悪い車への依存度が高くなった結果、エネルギーを浪費し、CO2を発生させ、環境を破壊していく構造が定着してきたことを意味している。
 もはや今後とも車社会を推進していくことは大いなる疑問といわなければならない。GM破綻と国有化はこのことを示すシグナルと受け止める必要があるのではないか。どう対応したらいいだろうか。

▽マイカー中心から公共交通活性化へ ― 富山市のケース

 対応策の中心テーマは車への依存度をどう低下させていくかである。変革の方向は、今日のマイカー中心社会から鉄道、路面電車、バス、自転車、徒歩への重点的移行が不可欠である。脱クルマ社会づくりへの模索と実践を開始するときである。
ここでは08年7月政府から環境モデル都市に認定された富山市(全国89都市の応募のうち富山市を含む6都市が認定)のケースを紹介しよう。

 富山市のホームページによると、森雅志・富山市長は「環境モデル都市の覚悟」と題する「市長ほっとエッセイ」でつぎのように書いている。

 「環境モデル都市」認定は、モデル都市の二酸化炭素の排出量が少なくて成績が良いというのではなく、将来に向けて二酸化炭素の削減が期待できる都市であるという意味の認定である。
 富山市の現状は決してほめられるような状況にはなく、様々な取り組みによって二酸化炭素排出量の削減を目指さなければならない。特に極端に車に依存している暮らし方を改めることが効果的である。そのために、公共交通を活性化させながらコンパクトなまちづくりを進めることを計画の中心に位置づけたことが評価された。モデル都市に認定されたことによって(中略)しっかりと結果を出すという責任を負う。自動車一辺倒の暮らし方から公共交通も使う暮らし方へ転換し、車の相乗りやエコドライブを心がけるなどの変化が求められている ― と。

市長のエッセイの眼目は2つある。一つは二酸化炭素排出量の削減のためには、極端に車に依存している暮らし方を改めること、もう一つは公共交通を活性化させること、である。

 具体策としては以下のような地域に密着した安心・快適で環境にやさしい公共交通「富山ライトレール」(全国初のLRT=次世代型路面電車)の開業(06年4月)である。
・バリアフリーの低床車両を導入。車椅子やベビーカーでも楽に乗り降りできる。
・地域に密着した公共交通をめざし、新しい停車場の設置、高頻度運行などでサービスを向上させる。
・路面電車は道路混雑の緩和や交通事故の削減、二酸化炭素や窒素化合物の削減などに効果がある環境にやさしい乗り物である。

 もう一つ紹介したいのは、「まいどはや」という名のコミュニティバスの活用である。運賃は1回100円(小学生以上)、午前9時から午後7時まで20分間隔で1日31便運行し、路線バスや市電など既存の交通網に接続しており、通勤、通学、買い物などに手軽な足として利用できるようになっている。
 マイカー依存から脱出するためには、小回りが利いて、使い勝手のいいコミュニティバスは欠かせない必需品である。富山市はそのモデルにもなり得るのではないか。


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