「もっともっと欲しい」の貪欲の経済から、「足るを知る」知足の経済へ。さらにいのちを尊重する「持続の経済」へ。日本は幸せをとりもどすことができるでしょうか、考え、提言し、みなさんと語り合いたいと思います。(京都・龍安寺の石庭)
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よく聴いて、他人様にしてあげる
〈折々のつぶやき〉50

安原和雄
 想うこと、感じたこと、ささやかに実践していること ― などを気の向くままに〈折々のつぶやき〉として記していきます。今回の〈つぶやき〉は50回目。題して「よく聴いて、他人様にしてあげる」です。(09年5月28日掲載、公共空間「ちきゅう座」に転載)

 毎日新聞「日曜くらぶ」に掲載されているコラム「心のサプリ 一日一粒」(筆者は心療内科医・海原純子さん)は考えさせられる話題が多い。ここでは最近の2つの「サプリ」(要旨)を紹介し、私(安原)の感想を述べたい。

▽意見を聴いてくれなくなった上司

 立場が上になったら ― という見出しの「心のサプリ」(5月10日付)。これはある中小企業での話題である。

 オーナーの友人で、大企業幹部を定年退職したAさんは相談役として、週に1回ほど来社し、その中小企業社員たちとも交流し、「話しやすい好いひと」と評判だった。ところが取締役に就任したとたんに態度が一変した。
 それまでの話しやすさは消え、社員の態度をオーナーに報告したり、会社の利益のためという名目で、仕事や人事までうるさく口出しするようになり、部下の意見に耳を貸さなくなってしまった。

 えらくなったとたん人の話を聴くことができなくなる人は多い。人とのコミュニケーションは、自分一人では生きていけないと思ったときに始まるという。立場が上になると、どうしても「自分ですべてができる」と思ってしまい、そんな無意識のおごりが他者とのコミュニケーションを妨害する。

 立場が上になった時こそ、自分が主張するより相手の話を聴くことが大切なのだが、日本の場合全く逆で、上の人ほど話し、部下ほど聴いてばかりである。こうした組織は会社だけでなく、すべての場でコミュニケーション障害を起こしてしまう。
家庭、会社、学校、自分のまわりのコミュニケーションを見直してほしいものである。アメリカのオバマ路線は聴くことを大切にしている。日本はどうだろう。

▽人にしてもらうことばかり求める女王様症候群

 女王様に「ノー」を ― という見出しの「心のサプリ」(5月17日付)。これは自分の都合しか念頭にない人の話題である。

 向こうから連絡してくるのは、頼みごとがあるときだけ、という人がいる。つまり自分の都合のよい時に連絡してくるだけで、あとは全く音さたがない。Bさんがそうだ。連絡も一方的な依頼で、その後にありがとうとも言わないし、報告もない。

 人間を役に立つ人と役に立たない人に分けていて、役に立つ人としか付き合わない。相手を自分の都合に合わせて振り回し、普段から人にして貰うばかりで、してあげることがない傾向の人。女王様症候群とでもいおうか。
 子供のころから「してもらう環境」に育つと、そうなる率が高まるのだろうか。Bさんの父親は大企業幹部で、夫はマスコミ関係。取り巻きの人たちは、Bさんとかかわることが「役に立つ」と考えているから、Bさんの頼みごとは拒否されないらしい。

 そんな女王様症候群のような人が周囲にいたら、上手にノーと言うのを念頭に置いておくことが不可欠。相手が怒ったり、機嫌を悪くしたりしても、自分が傷つかないことも大切だ。
 それにしても最近気になるのは、人にしてあげるより、人にしてもらうことばかり求める人が多いことである。困ったものである。

▽心を開いて聴くことは、「利他」の実践

 以下は私(安原)の感想である。
 人の意見や心情に耳を傾けてじっくり聴くことがいかにむずかしいかを痛感する昨今である。上に紹介した2つの事例 ― 「意見を聴いてくれなくなった上司」と「人にしてもらうことばかり求める女王様症候群」― とも根っこは同じではないか。自己中心、独り善(よ)がりという同種の根っこをもつ悪癖といえる。
 人の意見を無視して、独断専行に走れば、仕事は速い。しかしそういう仕事にどれだけの価値があるのか。一方、相手の気持ちも迷惑もお構いなく、身勝手な願望を貫けば、たしかに自己満足感を味わうことは間違いない。しかしただそれだけのことにすぎない。自己満足であっても心底からの充実感ではない。他者と分かち合う充足感からはほど遠い。

 こういう人間像は、想うに1980年代後半のあのバブル経済とその崩壊を経て形成され、21世紀初頭の小泉政権時代に顕著になったあの新自由主義路線のなかで大量生産されたのではないか。損得勘定優先、拝金主義に汚染され、いのちよりもカネが大きな顔をするようになった。弱肉強食の非道な論理が横行した、その渦中でのさばるようになった歪められた人間像といえる。

ではどうすればよいのか。破綻したはずの新自由主義を復活・推進しようという策動がみられるが、これには「ノー」の声をあげること。それを大前提にして、まず自分の悪癖に気づくことである。「自分自身が見えていない」という表現があるように、現実には気づかないことが多いから始末が悪い。だからこそ自己反省、いいかえれば自分自身をもう一人の自分が観察する姿勢、あのイギリスのアダム・スミス(1723~90年)が著書『道徳感情論』(岩波文庫)で説いた「公平無私な観察者」の眼が不可欠である。
 ここまでくれば、自己中心、独りよがり、思い上がりという名の小我、自己執着を棄てることも不可能ではない。むずかしいことだが、その気になれば、できないことではない。やがて心も開いてくる。そうすれば自然に相手の意見や心情が心に届いてくる。聴くとはそういうことではないか。

 「聞く」のは耳に入ってくる音声にすぎないが、「聴く」とは心に響くことであるだろう。そういう聴き方は自己中心ではなく、他人様(ひとさま)中心の姿勢だから、畏(かしこ)まった言い方をすれば、仏教でいう利他主義の実践に通じる。くだいていえば「よく聴いて、他人様にしてあげる」ことである。この利他の実践は結局は自分自身に充実感として返ってくる。仏教ではこれを「自利利他円満」ともいう。「世のため人のため」に考え、行動すれば、自分自身も輝いてくるという意である。


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最悪GDPにみる日本経済診断
個人消費の底上げと生活安定を

安原和雄
日本の経済規模を示す国内総生産(GDP)が戦後最大の落ち込みを示し、メディアに「最悪GDP」など前例のない表現があふれている。こういう事態を招いた元凶は、ほかならぬあの新自由主義路線そのものである。この苦境をどのようにして克服するか。
 個人消費の落ち込みが背景にあることに着目すれば、当面の目標は、個人消費の底上げによる生活の安定である。同時に破綻したはずの新自由主義路線の復活・推進の動きに「ノー」の声を挙げるときである。なぜなら大企業を中心に経済界は新自由主義路線に今なお執着し続けているからである。国民生活の安定を図るか、それとも新自由主義路線の復活・推進を許すか、大きな選択を迫られている。(09年5月22日掲載、公共空間「ちきゅう座」、インターネット新聞「日刊ベリタ」に転載)

▽大手紙社説は最悪GDPをどう論じたか

 5月20日発表された09年1~3月期の国内総生産(GDP)統計速報は、過去最悪の数字が並んだ。実質成長率は、年率換算でマイナス15.2%、前年同期比でも4四半期連続マイナス成長になったため、9.7%減まで下がった。
 昨年10~12月期分もマイナス14.4%に下方修正された。ともに第1次石油危機当時の同13.1%(1974年1~3月期)を上回り、戦後最大の落ち込みを更新した。2四半期連続の2けた減少も初めてである。
 年度ベースでも08年度は実質3.5%、名目3.7%と過去最悪のマイナス成長となった。

 以上のような最悪GDPというデータを踏まえて、大手5紙社説(5月21日付)は何をどう論じたか。各紙の見出しは以下の通り。

*毎日新聞=最悪GDP 家計を元気付ける時だ
*朝日新聞=最悪GDP 怖いデフレと失業の連鎖 
*読売新聞=GDP急減 「戦後最悪」を乗り切るには
*東京新聞=GDP最悪 夜明け前が最も暗い
*日本経済新聞=戦後最悪の急落後の反転探る日本経済

 以上の見出しから判断する限り、望ましい政策を論じているのは、毎日新聞だけで、残りの4紙は経済・景気の現状とそれに対応する心構えに触れている程度、という印象である。以下に各紙社説の要点を紹介し、私(安原)の感想を述べる。

▽毎日新聞 ― 家計を元気づける以外に経済再生策はない

 こういう時期だからこそ、本質をとらえた経済政策が講じられなければならない。家計が経済を支える構造の回復である。1~3月期のGDP速報で最も深刻なのはGDPの約56%を占める家計最終消費支出の減少が定着したようにみえることだ。07年ごろまでは家計支出が下支えの役割を果たしていた。それが様変わりしたのは所得減少や失業増加のためだ。

 こうした環境変化を勘案すれば、企業への支援よりも、失業対策や再就職支援、雇用創出策中心の政策が必要なことが導き出される。こうした政策は安心や安全の実現にも、経済社会の活力回復にも寄与する。
 海外需要に過度に依存する経済の弱さは今回の世界危機でも経験した。企業設備も外需向けで高い伸びを続けてきた。こうしたことが夢と消えたいま、内需の柱である家計を元気付けること以外に、本質的な経済再生策はない。補正予算案をより効果のあるものにすることも、有効な選択肢である。

▽ 朝日新聞 ― 悪循環を避けるべく、細心の配慮を
 
 景気が「V字」形の急回復の道をたどるという期待感はない。年内は「L字」形の横ばいが続き、経済対策の効果も出てくる年末には徐々に回復軌道に乗る、というのが国際機関などの楽観的な見通しだ。だが、世界金融不安が再燃すれば、あっけなく「二番底」に落ちる危険もある。

 当面警戒すべきは、デフレと雇用の悪化だ。国内の消費者物価は石油製品などの値下がりで3月はマイナスに転じた。これが消費不振によって加速するようだと企業経営をさらに圧迫し、失業の増加に拍車がかかりかねない。3月の失業率は4.8%だったが、いずれ5%を突破するだろう。雇用悪化→消費減→デフレという悪循環を避けるべく、細心の配慮が求められる。

▽読売新聞 ― 景気を再び底割れさせてはならない 

急激な悪化に歯止めをかけるため、まずは追加経済対策の実施に欠かせない補正予算関連法案の成立を急がねばならない。
 景気は最悪期を脱し、4~6月期にプラス成長に回復するとの見方もある。7~9月期からは追加対策の効果も出てきそうだ。だが、そのまま日本経済が本格的な回復軌道に入ると見るのは早計だろう。正社員の人員整理や賃金カットなどは、むしろこれからが本番と見られる。リストラの恐怖が消えない状況では、エコカーや省エネ家電の購入補助による消費促進効果も限られよう。失業や賃金の動向に注意を払わねばならない。
 
 行き過ぎた悲観は景気下押しの原因になるが、安易な楽観ムードはさらに危うい。
 財政事情はかつてない厳しさだが、一時的な明るさに惑わされて政策の手を緩め、景気を再び底割れさせてはならない。

▽東京新聞 ― 成長確保のためにも規制改革が必要

 こうなると、企業も家計も「いまは我慢の時」と覚悟を固めるしかないが、明るい材料がないわけではない。
 中国向けなど輸出も回復の兆しがあることから、民間エコノミストの間では「四-六月期には実質成長率がプラスに転じる」という見方が増えている。

 むしろ大きな問題は、景気刺激に巨額の財政出動をした陰で、民間活力を伸ばす改革の努力がなおざりになっている点である。補正予算の中身をみても、庁舎改修に充てる施設整備費の増加など「官の焼け太り」が目立つ。
 国際通貨基金(IMF)は、日本経済について「内外需のバランスがとれた成長を確保するためにも構造改革が必要」として、農業や医療、保育、高齢者サービスなどの規制改革を求めた。長年懸案の政策課題に手を付けず、その場しのぎではだめだ。

▽日本経済新聞 ― 成長力の強化につながる規制改革も

 統計だけをみると、日本経済はお先真っ暗のようにみえるが、最近の経済指標には下げ止まりの兆しを示すものも出始めている。
 ジェットコースターの下り坂でどこまで落ちるかわからないという恐怖感がひとまず和らいだというのが、今の日本経済の姿だろう。平らな道に入ったと思ったら、再び下り坂に入るリスクは残っている。

 政府・日銀は景気下支えのために財政出動や金融緩和を打ち出してきたが、今後も景気動向に応じて機動的に効果のある政策を打ち出すべきだ。また、日本経済を持続的な成長軌道に戻すには、産業構造の転換を促す規制改革など成長力の強化につながる構造改革も欠かせない。

〈安原の感想〉(1)― 望ましい政策を論じている毎日新聞

 上述の5紙社説(要旨)を読んだ印象をいえば、望ましい政策を論じているのは、毎日新聞だけである。毎日は「GDP速報で最も深刻なのはGDPの約56%を占める家計最終消費支出(個人消費)の減少が定着したようにみえることだ」と指摘し、その原因として「所得減少や失業増加」を挙げている。つまり働く人たちの賃金収入が減るか、あるいは職を失って、収入の道を閉ざされれば、個人消費が減退するのは経済学のイロハのイである。ここをどう改善していくかが経済対策の基本でなければならない。

 ところが不思議なことに他紙の社説はこの点を素通りしている。
 朝日は「雇用悪化→消費減→デフレという悪循環を避けるべく、細心の配慮が求められる」と書いている。雇用悪化を原因として指摘しているにもかかわらず、「細心の配慮」を挙げるにとどめている。「細心の配慮」とは何を意味しているのか。なぜ雇用悪化を改善していく方策を論じないのか。肝心の点を逃げて「細心の配慮」でお茶をにごすとはどういう「配慮」(?)なのか。

 読売は「政策の手を緩め、景気を再び底割れさせてはならない」と主張している。それはそうだろう。しかしわざわざ指摘するに値する論点だろうか。問題はどういう「政策の手」が考えられるのかである。「まずは追加経済対策の実施に欠かせない補正予算関連法案の成立を急がねばならない」と書いているところをみると、政策の手とは、補正予算を指しているらしい。読売社説は政治についても一貫して政府与党の立場を支持してきた。それは信念のつもりかも知れないが、ジャーナリズムとしての信念を貫くことと権力を支持し続けることとは異質のはずである。

 東京新聞と日経新聞は珍しく同じ論調の社説を掲げている。
 東京はIMFが日本経済について「成長を確保するためにも構造改革が必要」として、農業、医療、保育、高齢者サービスなどの規制改革を求めたことを指摘し、一方、日経は「産業構造の転換を促す規制改革など成長力の強化につながる構造改革も欠かせない」と主張している。
 つまり両紙ともに規制改革推進の立場を明示している。野放図な規制の緩和・廃止によって所得減少、失業増大など大きな災厄をもたらしたあの新自由主義路線は破綻したはずであるが、その復活・推進をあえて唱えようというのだろうか。災厄の肥大化をあえて求めたいのか。

〈安原の感想〉(2)― 新自由主義の復活・推進を目論む経済界

 以上のように各紙社説の意見、主張は入り乱れている。もちろん論調は多様であっていい。しかし必要にして望ましい経済政策は何か、といえば、必要条件としてつぎの諸点が欠かせない。

*現在のマイナス成長をゼロ成長程度の水準に戻すこと
いたずらにプラスの経済成長を追求する必要はない。なぜなら温暖化防止など地球環境の汚染・破壊を防ぐためにもプラス成長にこだわるのは良策とはいえないからである。日本経済はすでにGDP(国内総生産)で年間500兆円を超える成熟経済で、米国に次ぐ世界第2の経済大国である。
 この経済規模をさらに量的に拡大させるプラス成長に執着するのは、一種の経済成長主義「病」というほかない。プラスの経済成長なしには豊かになれないと考えるのは錯覚であり、この経済成長主義「病」をどう克服するかを考えるときである。有り体に言えば、中長期的にはゼロ成長(規模として横ばいの経済)下で国民生活の質的改善・充実を図ることである。

*個人消費の底上げを軸に生活安定を図ること
 現在のマイナス成長をゼロ成長水準(落ち込む前の水準)に戻すにはGDPの約6割を占める個人消費を増やすことが肝心である。そのことが落ち込んだ個人消費の底上げにも役立つし、生活安定にもつながるだろう。
 そのためには労働の分野での改革(雇用創出、非正規雇用の大幅削減、最低賃金制など)が不可欠である。さらに財政面から教育・医療・社会保障の充実、農林水産業・中小企業の再生・発展を重点的に追求することが求められる。

*新自由主義路線の復活には「ノー」の姿勢を
 財界の総本山、日本経団連は今後の優先的な政策として、つぎの項目を挙げている。
法人実効税率の引き下げと消費税率の引き上げ、規制改革と官業の民間解放、円滑な労働移動など雇用・就労の多様化促進、農業の構造改革を含むグローバル競争の推進、など。
 以上の諸政策は明らかに新自由主義路線の復活・推進を目指すものである。しかも法人税の引き下げで大企業の税負担を軽減させ、一方消費税引き上げで大衆の税負担増大を目論んでいる。このような新自由主義路線の復活・推進を容認すれば、個人消費の底上げと生活の安定など夢物語に終わるほかないだろう。生存権、生活を踏みつけにされながら、なお耐え続ける必要はもはやない。


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循環型社会づくりは平和と共に
環境先進国・コスタリカに学ぶ

安原和雄
地球規模の温暖化防止、気候変動への対策をめぐって内外で賑やかな論議が交わされている。この論議は循環型社会をどうつくっていくかというテーマとも深くかかわっている。
循環型社会の構築は、実は例の新自由主義路線破綻後の新しい経済モデルをどう設計するかというテーマとつながっている。ここで改めて問うてみたい。新しい経済モデルとしての循環型社会の望ましい姿は何か、と。常識とも言える従来の「資源エネルギー消費の抑制」と「環境負荷の低減」の2本柱だけではもはや物足りないのではないか。
 新たに「平和=非暴力」という視点を組み込みたい。平和に背を向ける循環型社会はそもそも成り立たないはずである。軍隊を廃止し、非武装国家となって60年の歴史をきざみ、環境先進国としても知られる中米のコスタリカに今こそ学ぶべきことが少なくない。(09年5月15日掲載、公共空間「ちきゅう座」、インターネット新聞「日刊ベリタ」に転載)

 私(安原)は5月13日、NPO法人循環型社会研究会(山口民雄 代表・所在地=東京都中央区京橋)主催のセミナーで「平和のあり方と循環型社会づくり ― 中米のコスタリカに学ぶ」と題して講話する機会があった。 
 循環型社会基本法(2001年1月施行)による循環型社会とは、大量生産、大量消費、大量廃棄型社会のあり方や国民のライフスタイルを見直し、社会における物質循環を確保することにより、天然資源の消費が抑制され、環境への負荷の低減が図られた「循環型社会」(2003年版循環型社会白書から)― とされている。いいかえれば、天然資源消費の抑制と環境負荷の低減を2本柱とする経済社会を指している。これにもう一つ「平和=非暴力」という柱を採り入れた循環型社会のありようを構想する必要があると考える。
 なお私は循環型社会研究会理事であり、同時に「コスタリカに学ぶ会」(正式名称は「軍隊を捨てた国コスタリカに学び平和をつくる会」)世話人の一人である。

 私が講話で指摘した新しい循環型社会の大枠は以下のようである。         
Ⅰ.〈平和=非暴力〉をめざして
(1)平和観の再構築
(2)日本人とコスタリカ人の平和観の違い
Ⅱ.循環型社会づくりと平和の新時代
(1)コスタリカにみる平和的循環型社会の現状
(2)日本版循環型社会づくりの条件

 以下、講話の趣旨を紹介する。

▽〈平和=非暴力〉をめざして

 日本人の多くは〈平和=反戦〉という固定観念に囚われている。これは従来型の狭い平和観である。循環型社会づくりのためには〈平和=非暴力〉という反戦も含む新しい21世紀型平和観を身につける必要がある。

(1)平和観の再構築
*狭い〈平和=反戦〉観から広い〈平和=非暴力〉観への発展を
〈平和=非暴力〉の実現のためには、生きとし生けるものすべての「いのち」、さらに「人間性」の否定、破壊の日常化を意味する「構造的暴力」(=内外の政治、経済、社会構造に起因する多様な暴力)を克服することが不可欠である。これは憲法9条(戦争放棄、非武装)と25条(生存権)の理念を実現していくことにつながる。
 しかも構造的暴力の克服と循環型社会づくりは表裏一体の関係にある。例えば日本列島上に広がる多様な構造的暴力を放置したまま、どこかの片隅で循環型社会づくりに勤しんでも、あまり意味はないだろう。逆に言えば、日本列島上に循環型社会づくりが進めば、それが構造的暴力の克服にも貢献できる。
(ヨハン・ガルトゥング教授著『構造的暴力と平和』中央大学出版部、1991年刊・参照)

《構造的暴力》の具体例を以下に挙げる。
*戦争も今や構造的暴力
 戦争は大量の人命殺傷、資源・エネルギーの浪費、自然環境破壊、財政資金の浪費をもたらすなど構造的暴力の典型である。戦争仕掛け装置ともいうべき軍産複合体(軍部と兵器メーカーなどとの相互癒着関係)による負の影響力(大量の兵器生産など)が大きすぎる。
*自殺(日本:年間3万人超)、凶悪犯罪、交通事故による死傷(日本:年間死者約6000人、負傷者100万人超)、失業、貧困、病気(生活習慣病)、飢餓、人権無視、長時間労働、不平等など
 自殺の場合、自殺に追い込まれざるを得ない状況の存在は構造的暴力といえる。また交通事故による死傷者数が依然高水準にあるが、車社会そのものが多数の死傷者をもたらす構造的暴力装置として機能しているととらえる。
*貪欲な「経済成長追求」による地球上の資源エネの収奪・浪費、地球環境の汚染・破壊(地球温暖化など)なども構造的暴力

*破綻した新自由主義路線が残した大きな負の遺産 ― 豚(新)インフルエンザ
豚インフルエンザが異常な広がりを見せているが、ほとんどのテレビ、新聞メディアは、豚インフルがなぜ発生したのか、その原因、背景に触れようとしない奇妙な風景が広がっている。ただインターネット上では真実に迫ろうとする記事が散見される。例えばインターネット新聞「日刊ベリタ」(5月9日付)に「新インフルエンザ、根本原因は工業化された巨大畜産にある」という見出しでつぎのような記事(一部)が掲載された。

新インフルエンザの発生について新自由主義グローバリゼーションに対する反対運動を展開している市民組織ATTAC(アタック)フランスとフランス農民連盟が5月6日共同声明を発表した。同声明は、今回の新インフルエンザ発生の根本原因は、工業化された巨大畜産にあると指摘。さらに自由貿易を進めるため、家畜の衛生管理基準や規制が大幅に緩められたことが、いっそう問題を拡大した、と警告している。

 以上の記事の指摘通りとすれば、あの破綻したはずの新自由主義はしぶとく生き残り、多くの市民を犠牲にし、苦しめ、狼狽させており、構造的暴力として深い傷跡を累積させていることになる。

(2)日本人とコスタリカ人の平和観の違い
 ここでは日本人とコスタリカ人の平和観の違いを考えてみる。
*日本人の平和観
 「平和=反戦」という既成観念では「戦争は悪いこと」は分かるが、「ではどうすればよいのか」という視点に欠ける。そのため平和に対する想像力が働かなくなる状態に日本人の多くは陥っている。

*コスタリカ人の平和観
 コスタリカ人に平和とは何か?と聞くと、民主主義、人権、豊かな環境、愛、家族、理解、自己尊厳と他者への尊重、静寂、平穏、自由を感じること、表現の自由 ― など多様なイメージが挙げられる。日本人の「平和=反戦」という単純なイメージと違って、コスタリカでは日常の暮らしの中に「平和文化」(平和感覚が日常化していること)として根付いている。
 特に一人のエコツアーガイドさんの森に関するつぎのような「豊かな自然環境は、平和な社会のお手本」という説明が興味深い。「環境先進国」・コスタリカならではの発想といえる。

 森は私たちの社会のようなもの。土、日光、水、木、草があり、菌類、虫、鳥、動物がいる。土、日光、水はインフラであり、動植物は私たちのようなもの。互いに競争することもあるが、結局は相互依存している。収奪しすぎると結局共倒れになってしまう。森は私たちに、私たちの社会がどうあるべきかを教えてくれる、最も身近な教材だ。
 自然界の多様性、生態系の循環とバランスは、私たちの社会と相似関係にある。それに気づくと、自然環境に対する見方も、私たちが生きている人間社会に対する見方も変わってくる。環境破壊が進むと、水や食糧など私たちの生活に必要なものすら得られなくなる。豊かな自然とともに暮らすことで、そこから平和な社会を建設するためのインスピレーションを得て、次世代へとつなぐ― と。

(足立力也著『丸腰国家~軍隊を放棄したコスタリカ 60年の平和戦略~』扶桑社新書、09年3月刊・参照)

▽ 循環型社会づくりと平和の新時代

 循環型社会づくりは単に「資源エネの浪費よ、さようなら 環境保全よ、こんにちは」だけではなく、同時に「平和の新時代=非暴力の日常化」づくりを担うというイメージが不可欠である。

(1)コスタリカにみる平和的循環型社会の現状
*常備軍の廃止(1949年憲法改正)、非武装・永世・積極中立外交宣言(1983年世界初)、平和・人権・環境重視の教育
 コスタリカは1948年の内戦によって約2000人の犠牲者を出した。この悲劇を2度と繰り返してはならないという深い洞察に立って、翌1949年の憲法改正で軍隊を廃止した。同時に軍隊廃止で浮いた財政資金を活用して、環境保全、教育、医療、福祉などの充実を図ってきた。
 私(安原)が訪問団の一員として2003年1月コスタリカを訪れたとき、首都サンホセ市内公園でたまたま巡回中の警官2人(日本でいえば巡査部長クラス)と出会って、訪問団が警官を取り囲む形で平和問答を行った。その一部を紹介したい。

問い:コスタリカは、警備と治安のための警察力はあるが、他国との紛争に軍事力を行使する軍隊を持っていない。そのことについて警察官としてどう考えているか。
警官:大変素晴らしいことだと思っている。軍隊を持つと、必ずといっていいほどその軍事力を行使し、暴力を振るいたくなるものだ。それを避けるためにも軍隊を持たないことはいいことだ。
問い:もし他国から攻められたら、どうするつもりなのか。
警官:まず警察隊が対応する以外にない。しかし最終的には政治家が話し合いによって平和的に解決してくれることを信じている。

 この対話で印象に残ったのは、警官が「軍事力を持つと、その暴力を振るいたくなる。だから軍隊を持たない」という認識を示したことである。いのち尊重を基本とする達見というべきである。さらに初めて出会った見ず知らずの外国人に向かって自由に発言する、その姿勢に驚いた。「平和すなわち自由」という平和文化が根付いているという印象である。
ここでいのち尊重について憲法上の規定はどうなっているか、コスタリカと日本を比較したい。
 コスタリカ憲法21条は生命の不可侵性を宣言している。
 一方、日本国憲法13条は「生命、自由、幸福追求に対する国民の権利は、公共の福祉に反しない限り、国政上最大の尊重を必要とする」となっており、生命に対する権利は条件付きである。

*国土の25%が自然環境保全地区(自然保護区、国立公園に指定し、森林伐採や乱開発の禁止)
 コスタリカは「動植物の宝庫」といわれ、地球上の0.034%にすぎない国土面積に全動植物種の5%が存在している。この「動植物の宝庫」を生かしたエコツーリズムの発祥国として知られる。

*二酸化炭素(CO2)排出量を2030年までに「ゼロ」にすると環境相が声明(2007年5月)
 日本では先日、日本経団連会長が「排出量が増えるのは止むを得ない」と発言し、環境相が「それでは世界の笑いものになる」と戒める一幕があった。これに比べると、「排出量ゼロに」とは、思い切った発言であり、その実現を疑問視する向きもあるが、実はコスタリカではすでに電力の95%はCO2を排出しない再生可能な自然エネルギー(水力など)に依存している。ここがCO2を排出する火力(石油など)、安全性に問題の多い原子力など再生不可能なエネルギーに依存している日本との大きな違いである。

(2)日本版循環型社会づくりの条件
 日本で、コスタリカのような平和的循環型社会をつくっていくためには以下の諸条件が必要不可欠と考える。

*脱「日米安保」、非武装・日本、「地球救援隊」創設構想(自衛隊の全面改組)
*地域重視のグローカリゼーション(グローバル化とローカル化の融合)を視野に
*日本版循環型社会(=持続的経済)の望ましい姿
・脱「経済成長主義」― 生活の質的豊かさを求めて(「持続的経済成長」は誤用)
・化石エネルギーから自然エネルギーへの転換 ― 再生不能エネ依存型からの脱却
・くるま社会の構造変革 ― 公共交通(鉄道、バス、路面電車)、自転車、徒歩の重視へ
・田園、森林、水の再生と農林水産業の育成 ― 食文化、雇用創出、地産池消・旬産旬消
・企業の社会的責任(CSR)と社会的貢献度 ― 企業の発展力

 以上のすべての柱について講話の全容を紹介するのは避けて、若干の説明にとどめる。

*地域重視のグローカリゼーションについて
 循環型社会づくりは地域の再生・発展と表裏一体の関係にある。地域の荒廃と循環型社会づくりは両立しない。破綻した新自由主義路線下のグローバル化重視主義では地域が軽視され、荒廃が進んできた。これをどう方向転換させるかが大きな課題となっている。地域重視のグローカリゼーションを進めるのが時代の要請であり、その柱として農林水産業の再生・発展が必要である。
 特にいのちの源である食料は国産を重視する方向へ政策転換するときである。世界的な食料危機が広がりつつある現状で食料の多くを海外に依存するのは、食料安全保障の見地からも疑問である。

*持続的経済、持続的経済成長、脱「経済成長主義」について
 今求められているのは「持続的経済」であって、破綻への道を意味する「持続的経済成長」ではない。持続的経済とは「持続的発展の原理」(注)が構造化している経済社会、すなわち循環型社会のこと。
 (注)持続的発展の原理とは、生活の質的改善、共生、循環、環境、平和、生命共同体の尊重などがキーワード。持続的発展の原理がめざすものは、地球環境の保全だけに限定しないで、広く動植物を含む自然と人間のいのちを尊重することが基本である。

 一方、GDP(国内総生産)で計る「経済成長」という概念は、年々の経済(個人消費、公共投資など財政支出、個人住宅投資、輸出など)の量的拡大を意味するにすぎない。それに伴う資源エネルギーの浪費、環境の汚染・破壊などは視野の外に置かれている。そういう経済成長には持続性はない。人間でいえば、人格、人間性を磨かないで、体重を増やし続けることが人生の目的であるかのように錯覚して生きるに等しい。そういう人生は病気などマイナスが大きいし、持続性はなく、破綻するほかない。

脱「経済成長主義」とは、経済成長しなければ、経済は破綻するという思いこみを捨てること。市場経済であるから、成長率を計画的に管理することはできないが、趨勢としてゼロ成長すなわち「横ばいの経済規模」を続けることで十分と考える。
 成人した人間でいえば、体重を増やさないことである。米国に次ぐ世界第2位の経済大国、すなわち成熟経済の域に達している日本経済にとって、もはや経済成長は必要ではない。必要なことは、貧富の異常な格差を生まない公正な分配である。

*企業の社会的責任(CSR)と企業の「発展力」について
 ここでのCSRは持続的経済、すなわち循環型社会をどの程度担っているかを基準に計られる。つまり〈資源エネルギー消費の抑制〉と〈環境保全〉への貢献度にとどまらない。企業の付加価値(=賃金と利益)の社会還元が重要な課題になってくる。利益部分を減らし、賃金部分を増やすこと。例えばリストラ(人員整理)をしないこと、短時間労働の非正規社員は自分のライフスタイルとして希望する者のみにとどめること。しかも正規と非正規の時間当たり賃金は同一にすることが望ましい。
 企業の「成長力」ではなく、あえて「発展力」としているのは、なぜか。成長力は量的に拡大していくというニュアンスが強い。企業も量的拡大を目指す時代は終わった。いいかえれば規模、量のナンバーワンではなく、商品、サービスの質のオンリーワンをめざす時代ではないか。だから量の成長力というよりも質の発展力が求められる。


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軍拡を戒める「たった一人の反乱」
遺言「間違いだらけの防衛増強論」

安原和雄
 28年も前に「間違いだらけの防衛増強論」というユニークな著作を書いた元防衛庁幹部が最近亡くなった。この著作は自衛隊幹部ら向けに行った講義を公表したもので、日米安保批判にとどまらず、軍備拡張を戒める内部告発ともいえる内容で、当時「たった一人の反乱」と評された。自衛隊の海外派兵が恒常化しつつある今、「間違いだらけの防衛増強論」は決して間違ってはいない。むしろ今こそ熟読玩味に値する遺言にもなっている。(09年5月9日掲載、インターネット新聞「日刊ベリタ」、公共空間「ちきゅう座」に転載)

▽日米安保を批判し、軍拡派の暴走を戒める

 5月初めの新聞で報じられた一人の死亡記事をみて、私(安原)は28年も昔の記憶がよみがえってくるのを感じていた。その記事は「元防衛庁防衛研修所室長の前田寿夫(まえだ・ひさお)さんが4月10日死去した。89歳」と伝えている。
 実は1981年7月30日付毎日新聞夕刊(東京版)の「ゆうかん ブックス」欄に前田著『間違いだらけの防衛増強論』(講談社刊)の紹介と私が前田さんにインタビューした記事が1ページを埋めつくす形で載っている。

 その見出しとして「軍拡派の暴走を戒める」、「小細工をしてでも危機意識をあおり防衛意識を高めてやろうという役所でついこの間まで講義していた専門家のたった一人の反乱」という大きな活字が躍っている。
著作は前田さんが自衛隊の一佐、二佐クラスの幹部や防衛庁内局の課長クラスら向けに行った講義を退官後に全公開したもので、日米安保批判に始まって軍拡派の軍事力増強論に真正面から挑戦する内容である。それだけに、講義していた頃から拒否反応は大変なものだったらしい。前田さん自身、当時「たった一人の反乱」と自任していたほどである。

 あれから28年の歳月が過ぎ去ったが、記事を今読み返してみて、決して時代遅れにはなっていないという印象を得た。当時の防衛庁は現在、防衛省に格上げされ、自衛隊の海外派兵も日常化してきた。むしろその予兆を28年前の記事から垣間見ることもできるような印象がある。今となっては著作『間違いだらけの防衛増強論』とインタビュー記事は、平和に対する前田さんの遺言のような気がしている。そこでこの機会に記事の内容(要旨)を紹介したい。

▽今も通用する『間違いだらけの防衛増強論』

 著作『間違いだらけの防衛増強論』の要点は以下のようで、今なお通用する主張であり、21世紀の今日、なお生き続ける遺言となっている。

*「万一に備える」はひとりよがりの議論だ
 軍事力増強を図るうえで「万一の場合」に備えるという主張ほど防衛当局にとって都合のいい議論はない。戦争や侵略の可能性があろうとなかろうと、そんなことは一切問題外で、つねに「最悪の事態」に対処できるよう準備していればよろしい。「最悪の事態」とはなにか。論者の都合のよいように内容が決められる不思議な言葉で、ときにソ連海軍が日本の海上交通路を全面しゃ断したりする。
 正真正銘の「最悪事態」はわが国が核ミサイルの大量攻撃を受けることのはずだが、わが防衛関係者でそのような事態を強調する人をみたことがない。しかしその「最悪事態」も自然現象ではないので、話し合いなどで防ぐこともできる。
 ところが、たとえば何十年に一度の確率で襲ってくる大地震はそうはいかない。私が大蔵大臣なら、「最悪事態」よりも東海地震に備える方に金を出したい。

*「勇ましい財界人」は高みの見物のつもりだ
 「滅私奉公」を説き、「徴兵制度復活」を提唱する財界人の勇ましい議論は、財界サロンのお茶飲み話から出たものでしかない。
 核攻撃の危険が迫っているとお考えなら、早速わが国の生活環境に適したシェルター(核防御用地下壕)を設計していただき、それこそ「滅私奉公」、採算を度外視して、関連器材を大増産してもらわねばならない。
 また爆撃を受けて生産が止まってしまうのでは、財界としても申し訳が立たないはずである。そこで地下工場や地下居住施設をつくる必要がある。そのための経営者の出費は莫大なものになるが、当然の負担である。しかし財界の勇ましいお歴々からこういう声があがったのを聞いたことがない。政府や国民にお説教を垂れるのは、お好きなようだが、ご自分たちは、高みの見物のおつもりかノホホンとしてござる。

*「安保タダ乗り論」はマヤカシだ
 米国の唱える「日米安保タダ乗り論」、つまり「日本の戦後の繁栄は、日米安保によって軍事費を軽減できたからだ」という説ほどマヤカシの議論も少ない。
 もともと日米安保条約なんてものは、米国がアジアにおける戦略拠点として日本を確保するため、講和条約とワンセットで日本に無理やり押しつけたものではないか。これほど迷惑なものはない。
 それに「安保により米軍が守ってくれたお陰でわが国の平和が保たれた」という説はフィクションにすぎない。なぜなら①わが国は周辺諸国との間に軍事的争点の全くない国(米軍基地の存在を除いて)であり、②若干の自衛力があれば、周辺諸国の紛争がわが国に波及することを恐れる必要はない ― からだ。つまり日米安保条約は日本にとっては不要なのである。にもかかわらず米軍に施設・区域を提供し、その経費を日本が負担しているのだから、日米安保にタダ乗りしているのは、むしろ米国なのだ。
 このようにタダ乗りしているのは米国だと認識すれば、日本の対外交渉力を高めることができるメリットがある。

〈安原の感想〉― ライシャワー元駐日米大使の証言
 上記の3つとも、もっともな主張である。特に「安保タダ乗り論」はマヤカシだ、は今日こそ有効な視点といえる。なぜ「安保にタダ乗りしているのは米国」という説が正しいかについて若干補足しておきたい。かつてライシャワー元駐日米大使が日米安保の存在価値についてつぎのように証言したことがある。

 「日米安保は日本防衛のためだけではない。米国の国益にも合致している。そうでなければ、納税者としての米国民に説明し、納得してもらえない。自国の防衛とは関係なく、日本の防衛という他国の利益のためになぜ米国民は税金を納めなければならないのか、という疑問に答えられないからだ」と。
 「米国の国益」とは、米国の世界戦略を指しており、その極東における要石として同盟国・日本が存在しているのは、日米安保のお陰だという意味である。素直にかつ正直に観察すれば、米国こそが安保にタダ乗りしていることは否定できないのである。

▽「たった一人の反乱」者とのインタビュー

 『間違いだらけの防衛増強論』著者とのインタビューの一部(要旨)を以下に再録する。

安原:防衛庁の政策、ものの考え方に真っ向から反対するような内容の講義に対する反応は?
前田:みんなニヤニヤしながら聞いていた。変なことをいう奴だな、というのと、なかなかいいことをいっている、と思う者の二つに分かれた。半分くらいは高く評価してくれたが、本心で私の話に同調してくれたとしても、防衛庁という組織の中では、それが生かされない。組織の論理に埋没してしまう。なんとなく軍事的発想になっている。

安原:竹田五郎前統幕議長が、辞める寸前に「専守防衛」などを批判した。
前田:勇ましいことをいうのが受けるムードになってきた。いかにも武人の硬骨性をあらわしているようにみえるが、その発言が日本にとってどういう意味を持つかを余り考えない。

安原:5月の日米首脳会談を境に日米の軍事協力は一段と緊密になりつつある。
前田:日米共同声明で「日米同盟関係」を初めて明記したのは、対ソ対立をあおることになり、失敗だった。鈴木善幸首相は、外務官僚のペースに乗せられて、「しまった」と思ったのではないか。米国に要求されるままに防衛力を増やすのは、日本の対米交渉力を弱めるだけだ。

〈安原の感想〉― 「日米同盟」が公式にうたわれてから28年
慣れることは恐ろしいもので、真実を見抜く眼をふさいでしまう。今では多くのメディアが「日米同盟」という用語を社説などでも当然のように肯定する意味で使っているが、実は28年前の日米首脳(レーガン米大統領と鈴木善幸首相)会談後の日米共同声明 (1981年5月)で初めて明記された。
 この「同盟」には命を懸けて誓い合うというニュアンスが込められており、当時大騒ぎとなった。これを境に日米間の軍事協力関係が一段と緊密化し、日米共同軍事訓練も活発化していく。翌1982年、政権の座についた中曽根康弘首相は、「日米運命共同体」、「日本列島不沈空母」説まで唱え、軍拡路線へと突っ走る。そして今、東アフリカ・ソマリア沖に海賊対策の名目で海上自衛隊を派遣するなど事実上の海外派兵が恒常化しつつある。

 上記の一問一答に出てくる日本の「専守防衛」、「対米交渉力」はどうなったか。日本の防衛力は日本の国民と領土を守るためだけに存在する、という専守防衛論はどこかへ吹っ飛び、今では口にする防衛関係者は誰もいない。一方、対米交渉力は弱まることはあっても、強まる兆候は見出せない。前田さんの28年前の懸念通りに推移しつつある。すべては28年前の日米共同声明に書き込まれた「日米同盟」を跳躍台として始まった。ちょうど同じ頃、最近破綻し、世界を大不況に突き落としているあの新自由主義路線も作動し始めていた。


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09年「憲法」社説を読んで
米国に依存しない自前の平和を

安原和雄
 2009年5月3日は日本国憲法施行以来62年目の憲法記念日である。大手5紙の憲法社説を読んだ。その憲法社説の中で注目に値するのは、「25条の生存権保障は自前の規定」、つまり米国から与えられたものではなく、「日本国産」という指摘である。この25条と9条(戦争放棄、非武装)は車の両輪として平和憲法の基軸となっている。
 自衛隊の海外派兵が恒常化しつつある今、それに歯止めをかけるためにも従来の米国依存型の安全保障政策を脱した自前の平和をどうつくっていくかが大きな課題となってきた。25条と9条に軸足を置いて、憲法社説を手がかりに考える。(09年5月4日掲載、インターネット新聞「日刊ベリタ」、公共空間「ちきゅう座」に転載)

▽大手メディアが憲法記念日に論じたこと ― 護憲派と改憲派と

まず5紙の09年5月3日付社説の見出しはつぎの通り。
*東京新聞=憲法記念日に考える 忘れたくないもの
*朝日新聞=憲法記念日に 貧困、人権、平和を考える
*毎日新聞=憲法記念日に考える もっと魅力的な日本に
*読売新聞=憲法記念日 審査会を早期に始動させよ
*日本経済新聞=日本国憲法を今日的視点で読み返そう

 5紙社説の主張を護憲派か改憲派か、という二分法でくくれば、東京、朝日は護憲派であり、一方、読売、日経は改憲派といえる。しかも読売、日経ともに2本社説のうちの一つで憲法問題に言及しており、自説を繰り返す社説となっている。毎日は憲法論議よりもソフトパワー論を展開している。
 東京、朝日、毎日3紙の社説の内容は後述することにして、ここでは読売と日経の要点を紹介する。

〈読売新聞社説〉
 2年前、憲法改正の手続きを定めた国民投票法が成立した。国民の手で憲法を改正するための画期的な法律である。
 国会は、改正論議を、サボタージュし過ぎているのではないか。

 海賊対策にあたる海上自衛隊のソマリア沖派遣や、北朝鮮の弾道ミサイルへの対処の論議を聞けば、集団的自衛権は「保有するが、行使できない」とする政府解釈が、自衛隊の実効的な活動を妨げていることは明らかだろう。
 与野党ともに、憲法審査会を早期に始動させるため、取り組みを強めるべきである。

〈日本経済新聞社説〉
 私たちは2001年の米同時テロの後、集団的自衛権の行使を禁じた政府の憲法解釈を見直し、多国籍軍後方支援法の制定を求めた。今日風にいえば、海賊法を包み込む形で、自衛隊の国際活動を包括的に定めた一般法である。国連平和維持活動(PKO)参加の根拠となっている国際平和協力法も吸収する。

 安倍政権が検討し、福田政権が無視した集団的自衛権をめぐる解釈見直しは当然だろう。

〈安原の感想〉 改憲を迫る読売、日経
 両紙ともに改憲派としては従来から一貫している。しかも集団的自衛権(日米は日米安保によって軍事同盟を結んでおり、米国が攻撃された場合、日本が直接攻撃されなくとも、日本が軍事的に米国を支援すること)を積極的に容認する立場である。
 軍事力によって紛争を打開できないことは、米軍がイラクからの撤退を余儀なくされている事実からも明らかだが、そういう現実は見えないらしい。

▽東京新聞 ― 「25条の生存権保障は自前」を強調

 東京新聞社説の内容(要旨)は以下の通り。

 寒空の下のテント村が思い出させたもの、“北”をにらむミサイルが忘れさせたもの…いずれも憲法の核心です。いまこそそれを再確認しましょう。

◆生存権の保障は自前
 「すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する」(日本国憲法第二五条第一項)― 第二項は国に社会保障、福祉の向上、増進を命じています。
 改憲論者から押しつけと攻撃される憲法ですが、生存権を保障したこの規定は衆院の審議で追加された自前の条項です。
 第一三条は「すべて国民は、個人として尊重される。生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については(中略)国政の上で、最大の尊重を必要とする」となっています。

 現実はどんな状態でしょうか。
 OECD(経済協力開発機構)のデータによる、いわゆる貧困率は先進国中で第二位、金融広報中央委の調査では、一九八〇年代に5%前後だった貯蓄ゼロ世帯が二〇〇六年には23%に増え、三千万人が何の蓄えもなしにその日暮らしをしています。

◆社会の階層化が進む
 貧困層が急増し「富める者はますます豊かに、貧しい者はますます貧しく」なり、社会が分断されつつあるのです。貧困が親、子、孫と継承される社会の階層化も急速に進みつつあります。
 誰でも働いてさえいれば食べていける状態が崩れ、最近は働く場さえ次々なくなっています。仕事を失えば住まいもなくなって路上に放り出され、たちまち生命の危機に瀕(ひん)します。
 「個人として尊重される」どころか、モノのように扱われ、捨てられているのです。

 景気回復は当面の最大課題ですが、雇用、福祉制度の見直しも同じく急務です。雇う側、使う側の視点から雇われる側の視点へ、効率、コスト優先から人間らしく生きる権利の最優先へ ― 憲法第一三条、第二五条の再確認が必要です。

 桜前線が北上し、派遣村の余韻が消えかかったころ、今度は「北朝鮮ミサイル」のニュースが注目を集めました。政府は対応策を積極的にPRし、危機感をおおいにあおりました。
 その効果でしょうか、一般道路を走る迎撃ミサイル運搬のトレーラーや、首都の真ん中で北の空をにらむミサイルの映像にも、違和感を覚えた人はさして多くなさそうです。北の脅威、迎撃などの言葉が醸し出す緊迫感は、憲法第九条の存在感を薄れさせました。

◆現実に流されない覚悟
 自民党を中心に広がった幻想のような改憲論が沈静化したいまこそ、憲法に適合した政治、行政の実現を目指したいものです。
 それには、国民の一人ひとりが「忘れたくないもの」をはっきりさせ、目まぐるしく動く社会の現実に決して流されない覚悟を固めなければなりません。

〈安原の感想〉 憲法25条、13条、9条の三位一体的実践を
東京新聞社説の最大の眼目は、国民の生存権を保障している憲法25条「すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する」という規定は、敗戦直後の憲法草案作成の段階で米占領軍から押しつけられたものではなく、衆院の審議で追加された自前、つまり日本国産の条項 ― ということである。この点は大いに力説されるべきである。
 もう一つ大事なことは、この25条と13条「すべて国民は、個人として尊重される。生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については(中略)国政の上で、最大の尊重を必要とする」、さらに9条(戦争放棄、戦力不保持、交戦権否認)は三位一体として相互に連結させてとらえ、理解し、生かすべきだという点である。

25条と13条の理念を生かすためには9条を改悪させてはならないし、逆に9条が改悪されて海外派兵を恒常化させる「軍事国家」になれば、25条と13条の空洞化が進む。米ブッシュ政権との連携で「小泉改革」の名の下に強要され、破綻したあの新自由主義路線が目指したのが9条の改悪であり、25条と13条を蔑(ないがし)ろにすることであった。
 9条改悪は踏みとどまってはいるが、日本列島上に悲惨な現実をもたらし、事実上の空洞化が進んだ25条と13条の理念をどう取り戻し、生かしていくかは今後に残された大きな課題である。

▽朝日新聞 ― 「25条は先進的な人権規定」と指摘

朝日新聞社説の要点を以下に紹介する。

 昭和初期。漁業の過酷な現場で働く若者の姿を描いた小林多喜二の小説「蟹工船」が発表されたのは1929年。金融大恐慌が始まった年だった。日本でも経済が大打撃を受け、都市には失業者があふれ、農村は困窮して大陸への移住も盛んになった。
 そうした社会不安の中に政治テロや軍部の台頭、暴走が重なり、日本は戦争と破滅へ突き進んでいく。

 この過去を二度と繰り返したくない。繰り返してはいけない。日本国憲法には、戦争をくぐり抜けた国民の思いが色濃く織り込まれている。
 「健康で文化的な最低限度の生活を営む権利」。憲法25条のこの規定は、連合国軍総司令部(GHQ)の草案にもなかったものだ。後に文相を務めた森戸辰男議員らの要求で加えられた。
 だれもが人間らしく生きる権利を持つ。政府にはそれを具体化する努力義務がある。当時の欧米の憲法にもあまりない先進的な人権規定だった。

 転機を迎えているのは日本だけではない。世界の戦後秩序そのものが大きく転換しようとしている。そんな中で、より確かな明日を展望するために、やはり日本と世界の大転換期に誕生した憲法はよりどころとなる。

〈安原の感想〉 戦後秩序の大転換と平和憲法の存在価値
25条が国産であることは東京新聞よりもくわしく言及している。「連合国軍総司令部(GHQ)の草案にもなかったものだ。後に文相を務めた森戸辰男議員らの要求で加えられた」、「当時の欧米の憲法にもあまりない先進的な人権規定だった」などである。
 いくらグローバル化の時代とはいえ、やはり国産ものは重要である。まして市場で売買される一商品ではなく、平和・人権にかかわる文化遺産ともいうべき貴重な思想であれば、なおさら大切に育んでいきたい。

 私が注目したいのは次の指摘である。「世界の戦後秩序そのものが大きく転換しようとしている中で、より確かな明日を展望するために、やはり憲法はよりどころとなる」と。 今日の歴史的大転換期における平和憲法の大きな存在価値に着目した指摘と受け止めたい。着眼点は評価するが、できることならもっと掘り下げた分析と展望が欲しかった。東京新聞の感想でも指摘したが、25条と9条とを相互連関のもとで把握し、生かし、実現していくという視点を曖昧にしたままでは、平和や人権を饒舌に語っても空しく響く。

▽毎日新聞 ― 「ソフトパワー論」がよい素材

 毎日新聞社説の眼目は以下の通り。

 駐日米大使に、ハーバード大学のジョセフ・ナイ教授が任命されるという。
 今日の憲法問題でもっとも鋭い争点となっている「集団的自衛権」の行使の是非も、もともとは日米同盟の強化に不可欠のものという文脈で登場してきた。その最も有力な論客が米国の大使として日本に赴任する意味は小さくない。

 「国の安全」という問題に限定しても、問題は山積している。とりわけ、世界的なパワーシフトの中で、従来の日本の安全保障政策でよいのか、再考する必要がある。ナイ教授が提唱する「ソフトパワー論」自体がよい素材であろう。

 ブッシュ前政権はハードパワー(軍事力など)を過信してイラク戦争に突入し、世界の信望を失った。クリントン米国務長官は今後はこれにソフトパワーを加えたスマートパワーを米外交の基礎とすると表明した。強制力でなく人権重視の価値観や文化的魅力によって相手の自発的協力を引き出そうというのだ。

 米国で「G2」論が台頭していることにも注目すべきだ。米中による世界経済運営論である。米国のアジアにおける2国間関係で優先順位ナンバーワンは日本から中国に移ったのではないか。北朝鮮が核とミサイル開発を手放そうとしない現状では、米国との同盟が日本の安全に不可欠なのは明らかだ。しかし、追随するだけでは日本は国際政治の脇役に追いやられ国益を守れない。

 ソフトパワーが問われているのは米国よりむしろ日本であろう。

〈安原の感想〉 なぜ自前の平和論を語らないのか
 東京や朝日の社説と読み比べて感じることは、毎日は「なぜ自前の平和論を語らないのか」である。ソフトパワー論の提唱者、ジョセフ・ナイ教授が駐日米大使になるからといって、彼ににじり寄ることはないだろう。いつまで米国産の安全保障政策に依存しているのか、という思いが消せない。
 軍事力中心のハードパワー論が沈没状態に近いことは今さら論じるまでもない。だからつぎはソフトパワー論の登場だ、と単純に考えるのはいかがなものか。図式的に言えば、片やハードパワー論があり、その対極に日本国の平和憲法(平和的生存権を説く前文のほか、9条、25条など)が存在している。ソフトパワー論はその中間に位置しているのかどうか、いささか疑問である。

 重要な点は、クリントン米国務長官のスマートパワー論が米軍の在外軍事基地、日米軍事同盟を前提にしていることである。オバマ米大統領は核廃絶を長期目標として打ち出したが、在外米軍基地の完全撤去、軍事同盟の解消を展望するところまでは進んでいない。こういう事情を考えれば、ソフトパワー論はハードパワー論にソフトな味付けを試みる程度のものとはいえないか。
 軍事同盟を土台にした米国産の安全保障政策から自らを解放しないかぎり、変革のスピードの速い時代に取り残される懸念が強い。見据えるべきは平和憲法9条と25条の歴史的意義とその存在価値である。これ以外に毎日社説見出しの「もっと魅力的な日本」になる道筋は考えにくい。


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