「もっともっと欲しい」の貪欲の経済から、「足るを知る」知足の経済へ。さらにいのちを尊重する「持続の経済」へ。日本は幸せをとりもどすことができるでしょうか、考え、提言し、みなさんと語り合いたいと思います。(京都・龍安寺の石庭)
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芭蕉の「歩く文化の旅」に学ぶ
クルマ依存型文明をどう超えるか

安原和雄
この大型連休をどう過ごすか、それは人さまざまである。旅でいえば、空もあれば、陸では鉄道、クルマ、歩く旅、と多様である。各自の自由な選択にゆだねられているが、できることなら、あの芭蕉の「奥の細道」紀行を想起したい。それは全行程2400キロにも及ぶ「歩く文化の旅」であった。
 現下のクルマ依存型文明は、温暖化防止など地球環境保全を優先すべき21世紀には限界に直面している。大型連休の機会に芭蕉の「歩く文化の旅」という智慧に学ぶことは少なくないのではないか。(09年4月28日掲載、公共空間「ちきゅう座」に転載)

▽「奥の細道」紀行から320年に

 俳聖、松尾芭蕉(1644~1694年)が元禄2年(1689年)、「奥の細道」紀行を果たしてから、今年(2009年)でちょうど320年になる。芭蕉が行脚した全行程は、江戸深川の芭蕉庵そばから舟で隅田川をさかのぼり、千住で上陸し、日光、奥州、北陸を経て、大垣に至る約600里(約2400キロ)に及ぶ。いまの陽暦でいえば、5月上旬に旅立ち、終点の大垣まで半年近い月日を要した。

 今日風に言えば、芭蕉は5月の大型連休を生かして旅立ったことになる。当時は石油(ガソリン)を浪費する自動車はなく、高速道の通行料金を1000円に、などと考える必要もなかった。門人の曽良をともなっての2人旅で、全行程2400キロを半年足らずで踏破している。1日平均15キロの歩く旅だが、毎日歩いたわけではないから、30キロ以上も歩き続けたことも多かったに違いない。現代の文明人が忘れている文字通り「歩く文化の旅」であった。
 
 私は記者現役時代に毎日新聞社説(1989年5月7日付)で、題して「芭蕉と旅 そしてゆとりと」という一文を書いた。ちょうど「奥の細道」紀行から300年のときで、ゆかりの各地で多彩な記念行事が催された。
 当時は1985年頃から始まったあのバブルの最盛期でもあり、やがて悲惨な崩壊へと向かおうとしていた時期でもある。その一方で、時間のゆとり、心の豊かさを求めて模索が始まっていた頃でもあった。そういう時代背景からすれば、芭蕉の「歩く文化の旅」に心寄せる雰囲気がみられたのも当然のことである。

▽「芭蕉と旅 そしてゆとりと」

 以下に20年前の社説(要旨)を紹介する。

 「奥の細道」の「月日は百代の過客にして、行きかう年もまた旅人なり」という書き出しからもわかるように、芭蕉は人生は旅であり、旅こそ人生そのものだと考えていた。この機会に、こうした芭蕉の心に思いを寄せてみたい。

〈いま再び世は乱れて〉
 芭蕉の精神がいまなお生き続けているとすれば、彼はいまの世になにを語りかけようとしているのだろうか。「奥の細道」に登場してくる人物とその評価がおもしろい。
 例えば日光近くの宿屋の主人は正直一点張りの男であった。芭蕉はそれを「仁に近い人物」として最大級の賛辞を呈している。山形の尾花沢で訪ねた豪商、清風のことを「かれは富めるものなれども、志いやしからず」と形容している。
 これは「徒然草」の「むかしより、かしこき人のとめるはまれなり」を踏まえたものといわれ、金持ちには卑俗な者が多いが、清風は富豪であるにもかかわらず、志の高い人物だと称賛しているのである。

 芭蕉が日本橋での俳諧宗匠の生活から深川での俳諧隠者へと転じた背景に、当時の「生類憐れみの令」で知られる五代将軍、綱吉治世の乱れがあった。そういう通俗的世界への批判精神から芭蕉は、恐らくお金には不自由しなかったはずの生活を捨て去ったともいえよう。
 300年後の今日、同じようにいやそれ以上に世は乱れ切っている。「カネ余り」をいいことに株だの土地だのと狂奔し、揚げ句の果てに恥ずかしくも不名誉なリクルート事件まで引き起こしてしまった。一片の芭蕉の心があれば、このような不始末もしでかさなかったにちがいない。正直者で志のいやしからざる人はいまは少なく、残念ながら芭蕉の世界に遠く隔たってしまった。

〈問われる心の豊かさ〉
 旅とはなんだろうか。芭蕉にとっての旅とは自然への感動であった。四季の風物の変化への思いやりであり、それを心の友とすることであった。
 松島について「うっとりさせるような美しさ」とも「大自然の風光の中で旅寝するのは不思議なほどすばらしい」ともしるしている。あまりの美しさに松島ではあの芭蕉にして一句もものすることができなかったとされている。「閑かさや岩にしみ入る蝉の声」とうたった立石寺では「佳景寂寞(かけいじゃくまく)として心すみ行くのみおぼゆ」という心境にひたっている。
 こうした自然への感動を失っていなければ、開発という名のもとに自然を破壊して平然としている無神経さとも無縁だろう。

 旅はまた歴史への深い関心をかき立てずにはおかない。その昔、平泉で戦いに敗れ、自害し果てた源義経をしのぶ「夏草や兵(つわもの)どもが夢の跡」は有名である。「奥の細道」紀行は一面、悲劇の武将の運命を嘆き、慟哭(どうこく)する旅であった。
 芭蕉が求めてやまなかった風雅の道とは実はこうした自然への感動であり、歴史への関心にほかならない。今日、風雅の心を求めることは浮世離れしていることだろうか。答えは否である。むしろ今日的なゆとりとは風雅を解しようと努める心のゆとりであり、またゆとりがなければ風雅にもほど遠いと考えたい。

 物の豊かさと心の貧しさ、その不均衡をどう均衡させるかがいま問われている。今春は豪華客船が次々と就航し、クルーズ元年ともいわれる。船旅も心を満たすのにまたよし、である。ただそのひとときでもいいから、風雅の心を楽しんでみたい。
 逆に句をひねらなければ、芭蕉の心に近づけないというわけでもない。また交通機関を利用する旅に出掛けなくてもいいのではないか。旅は人さまざまであり、心の旅もあるだろう。
 ただやはりそこに風雅の道を、しかもそれを日常生活の中で取り戻すように心掛けてみたい。今日的な真の豊かさは芭蕉の世界と決して異質のものではないはずである。

▽ クルマ依存型を超えることができるか

 以上の社説を20年後の今、読み返しながら、芭蕉が今生きていたら、自家用自動車中心社会という現代文明にどういう感想を抱くだろうかと想像した。想像を絶するとして、仰天するだろうか。逆に時代の進歩として受け容れるだろうか。それとも車社会はもはや時代に合わないと感じとるだろうか。

 はっきり言えることはつぎの点である。芭蕉の「歩く文化の旅」は、車に依存した文明社会が限界に直面している今日だからこそ、示唆するところも少なくないのではないか、と。
 今日、温暖化防止など地球環境の保全、資源エネルギーの節約、さらに再生不可能な化石エネルギー(石油など)から再生可能な自然エネルギー(太陽光など)への転換は急務である。このことは従来の車社会は時代に合わないことを意味している。クルマ依存型文明をどう克服するかが大きな課題となってきた。
そのためには総合交通体系を根本から変革する必要がある。現在のクルマ中心型から公共交通中心型への変革である。鉄道、バス(地域のコミュニティ・バスも含む)、路面電車などの公共交通のほかに、自転車、徒歩の重視である。道路づくりは自転車道、歩道の整備にもっと重点を置く必要がある。

 私(安原)自身のライフスタイルをいえば、徒歩、バス、鉄道の重視派である。自家用車も運転免許も持っていないし、持つ気もない。特に長距離の旅は鉄道に限ると思っている。最近、鉄道駅にはほとんどエスカレーターが付設されているが、私は階段を利用するよう努めている。健常者でも無造作にエスカレーターに乗る人が少なくないが、それを横目で見ながら「将来の寝たきり予備軍か」という想いを禁じ得ない。

 芭蕉が舟から上陸した地、「千住の大橋」(東京都足立区)を先日訪ねた。北千住駅から歩いて30分ほどの距離である。大橋のたもとのコンクリート岸壁に「おくのほそ道 旅立ちの地」と記されている。その脇に旅姿の芭蕉と門人の曽良が与謝野蕪村筆「奥の細道図屏風」として添えられている。近くに「奥の細道」の全行程を示す大きな地図も掲げてある。
 10数名の年輩男女のグループが地図を見上げながら、「ここ千住から最後は大垣まで歩いたのか・・・」などとささやき合っている。リュックを背負った姿は、歩くのが好きな仲間同士と見えた。最近は若者たちのクルマ離れも目立ち始めている。クルマ依存型文明から解放される日もそんなに遠くはないことを期待したい。


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軍隊を廃止したコスタリカの今
暮らしの中に根付いた平和文化

安原和雄
中米の小国、コスタリカは憲法を改正し、軍隊を廃止してから60年になり、今ではコスタリカの人々の間に「軍隊がないのが当たり前」という感覚が広がっている。しかも多様な平和の日常化という意味での「平和文化」が暮らしの中に根付いている。一方、日本は「戦力不保持」の憲法9条を持ちながら、強大な軍事力を保有する偽装国家となっており、その国としてのあり方はいかにも対照的である。
 日本も憲法本来の理念を生かして、平和を追求し、つくっていくときと考えるが、そのためには、コスタリカに学ぶべき点が少なくないだろう。コスタリカの「平和文化」なるものの実相を報告する。(09年4月22日掲載、公共空間「ちきゅう座」、インターネット新聞「日刊ベリタ」に転載)

▽駐日コスタリカ総領事の講演 ― 軍隊がないのが当たり前に

 「コスタリカに学ぶ会」(正式名称=軍隊を捨てた国コスタリカに学び平和をつくる会)は09年4月19日東京・文京区の文京区民センターで第6回定例総会を開き、駐日コスタリカ公使参事官兼総領事アマリリ・ビジェガス・コルデロさんを招き、講演会を開いた。
 テーマは「本当に軍隊を捨てて平和に暮らしている国~コスタリカはどうしてそれができるのか~」である。コルデロさんはラテンアメリカにおける若き女性リーダーとしても知られており、講演では「今では軍隊がないのが当たり前になっている」ことなどを強調した。
 なお私(安原)は「コスタリカに学ぶ会」世話人の一人として参加した。講演は司会者の質問に答える形で進行した。以下の講演趣旨は発言順序そのままではないことをお断りしておく。

問い:コスタリカでは軍隊を持っていないから外国から攻められないし、安心できると考えている。これは日本人の普通の感覚とは異なっている。どうしてそういう風に考えることができるのか。

答え:日本人にとってはミステリーだと言うことでしょうが、そういう疑問に答えることができれば、と思う。コスタリカ近隣の軍事独裁国家の話を耳にして、やはり軍隊を持った方がいいのではないかと質問される。しかしそういう質問が出されること自体が実は不思議である。
 戦争は特殊な状態であり、コスタリカ人のメンタリティから外れている。軍隊や武器を持っていると、もっと多くの軍隊を、もっと武器をということになるだろう。それを使うと、紛争が紛争を呼ぶという悪循環に陥ることにもなる。だから私たちは軍隊を持たない方がいいとして廃止したし、外国にも軍隊を持たない方がよいと呼びかけてもいる。紛争は武器ではなく、言葉の力、対話によって解決することになっている。

 平和プランを持たねばならない。軍隊を廃止し、そのカネを教育と医療のために使うことにした。人間として生きるために一番重要なこの2つの分野に軍隊廃止で浮いたカネを使っている。
 今は多くの人がケータイ電話を持っているが、ケータイがなかったときは、ないことが当たり前だった。私たちは内戦という非常につらい経験をして、翌年の1949年に憲法改正して軍隊を廃止した。今では軍隊がないことが当たり前になっている。

問い:子どもたちが育つ環境についてうかがいたい。日本ではビデオゲームで遊んでいる。それも戦争とか、相手を倒すとかをゲームの中で楽しむという習慣がある。コスタリカではそのような遊びはあるのか、学校の先生や親が注意することはあるのか。

答え:規制メカニズムがないわけではないが、むしろ家族の中での学びを重視する。お年寄りと孫が一緒になって過ごすなど家族が人間関係を学ぶ場になっている。ゲームは一人でやるから孤立した時間になっている。友人や家族と例えばフットボールでも見に行ったり、話し合ったりすればいいのではないか。
 学校では個人一人ひとりにも平和があり、イヌ、ネコ、魚のことまで考える。それが平和だと教えられる。

 私はコスタリカの外交官であることを誇りに思っている。自然との平和、環境との平和、自分自身の平和など多様な平和を打ち出しているから。それに軍隊がないからこそ、もっといい国をつくることができることを学んできた。
 日本の桜の花は美しいし、そこから平和をつくることもできるのではないか。平和の文化には歌や踊りを楽しむことも含まれることを指摘したい。

〈安原の感想〉 誇りを持てる日本人になれるか
講演を聴きながら私は、日本人の発想とは根本のところで大きく異なっていることを痛感していた。同時にコスタリカは日本よりも遙か先を進んでいることを感じてもいた。軍隊がないことが当たり前という感覚は、掛け値なしに素敵というほかない。日本人の多くは軍事力の虜(とりこ)になっており、コスタリカの人々は平和の日常的な作り手であり、同時に平和の享受者として暮らしている。どちらに誇りを持てるかは議論の余地はない。
 われわれ日本人の多くは誇りを持って生きるという肝心なことを忘れてはいないか。講演者の「コスタリカの外交官であることを誇りに思っている」という発言に私は「日本はコスタリカに負けた」と思った。

▽コスタリカの人々の平和観 ― 日本人の平和観との違い

 足立力也著『丸腰国家~軍隊を放棄したコスタリカ 60年の平和戦略~』(扶桑社新書、09年3月刊)は、コスタリカの人々が平和をどうとらえているのか、その平和観を描いている。日本人の平和観との違いを浮き彫りにしているところに本書の特色がある。
 同氏は、フリーランス・コスタリカ研究家で、1999年からコスタリカに滞在し、国立ナシオナル大学大学院博士課程に在学、2000年に中退した。本書のまえがきで「研究者としてコスタリカをさまざまな角度から調査し、また生活者としてコスタリカ人とともに暮らした。その成果と感覚を通じて,〈等身大のコスタリカ〉を紹介したい」と書いている。以下に『丸腰国家』の要点を書き留める。

(1)軍隊に関するコスタリカと日本の憲法規定の違い

〈コスタリカ共和国憲法12条〉(1949年改正)
恒久的組織としての軍隊は禁止される。 
公共の秩序の監視と維持のため、必要な警察力を持つものとする。
大陸間協定もしくは国家防衛のためにのみ、軍事力を組織することができる。

〈日本国憲法9条〉(1947年新憲法施行)
日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。
前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。

 以上から明らかなように日本国憲法は「戦力不保持」、「交戦権の否認」を掲げて、徹底した非武装の理念を打ち出しているのに対し、コスタリカ憲法は必要に応じて軍事力を持つことができる規定になっている。しかし現状は全く逆で、日本は戦力否定の9条を持ちながら、強大な軍事力を保有し、一方、コスタリカは再軍備可能な憲法の条文を持ちつつも、これまで60年間一貫して軍事力を持たないままでいる。

(2)日本人とコスタリカ人にみる顕著な平和観の違い

 平和とは何か、そのイメージについても日本人とコスタリカ人とではかなり際立った違いがみられる。

①「平和に対する想像力」が働かない日本人
 「平和」という言葉を聞いたとき、日本人の多くは何を連想するか? 小学5年生を対象に調べたところ、「戦争」という答えが多い。これでは「戦争は悪いこと」は分かるが、「ではどうすればよいのか」という視点に欠けるところが弱点である。そのため平和に対する想像力が働かなくなる状態に日本人の多くは陥っている。
 
 こういう「日本人の平和観」では心が未来に向かいにくい。つまり後退を食い止めるところまではできても、前進するところまではなかなかいかない。平和と聞くだけで戦争のことを想起してしまい、嫌な気分になってしまう。これが日本人が陥っている罠とはいえないか。
 日本では「平和=反戦」という既成概念にとらわれない平和観が求められているのではないか。

②コスタリカ人の多様な平和観
*小学生の平和観
 小学5年生を対象に調べたところ、平和について民主主義、人権、環境、愛、家族、理解 ― など多様な答えが出てくる。

 5年生の社会の授業で「自分自身の中の平和」というテーマでつぎのような発表が行われた。
 「自分の中に平和がなかったら、他人との平和もない。他人が自分より何かを多く持っているとしても、それは重要なことではない。自分自身をそのまま受け入れ、自分自身を尊重しなければならない。でなければ他人を理解し、尊重することもできない」

*自己尊厳と他者への尊重
 責任を持たせて自己尊厳を回復させると、他者も尊重するようになる。この場合の責任とは、問題があった場合、とがを負うという意味ではなく、何かの仕事を自らが主導して最後までやりぬき、その社会を構成するメンバー全員に対してきちんと説明できること。責任感は自己実現とセットになって、ポジティブな意味合いを持って、その子の心に定着する。
 責任を持たせてもらえることで、自分に対する尊厳を回復していく。そこから他者の尊厳も尊重しようという気持ちも生まれてくる。こうして子供達は笑顔を取り戻していった。

*大人たちの平和観
・公園の庭師(男性)=平和とはまず静寂、平穏ということ。平和でないときには。誰だってそわそわするだろう。落ち着いた暮らしができること、それが平和だ。
・裁判所職員(女性)=コスタリカ人にとって、平和とは、私たちに内在する固有の価値観で、私たちを私たちたらしめる重要なもの。自由を感じること。私たちの代表を選ぶことができること。国中を自由に移動できること。誰とでも気軽に話すことができること。思ったことを自由に表現できること。
・選挙最高裁判所(注)の判事=1949年以来、自由で公正な選挙を行ってきた。それは「民主主義としての平和」を意味する。
 (注)1949年の憲法改正でこの選挙最高裁判所の設置が決められた。

③「豊かな自然環境」は、平和な社会のお手本
一人のエコツアーガイドさんのつぎのような森に関する説明が興味深い。「環境先進国」・コスタリカならではの発想だ。

 森は私たちの社会のようなもの。土、日光、水、木、草があり、菌類、虫、鳥、動物がいる。土、日光、水はインフラであり、動植物は私たちのようなもの。互いに競争することもあるが、結局は相互依存している。収奪しすぎると結局共倒れになってしまう。森は私たちに、私たちの社会がどうあるべきかを教えてくれる、最も身近な教材だ。
 自然界の多様性、生態系の循環とバランスは、私たちの社会と相似関係にある。それに気づくと、自然環境に対する見方も、私たちが生きている人間社会に対する見方も変わってくる。環境破壊が進むと、水や食糧など私たちの生活に必要なものすら得られなくなる。豊かな自然とともに暮らすことで、そこから平和な社会を建設するためのインスピレーションを得て、次世代へとつなぐ― と。

④コスタリカの平和観は前向きのイメージ
 これまで私たちは人間のことばかり考えていたが、「環境民主主義」という言葉が出てきたように、動植物はもちろんのこと、海や山、森の声にも耳を澄ませ、その意思と人間の意志をつむぎ合わせていかなければならない時代になってきた。このプロセスには終わりがない。だからこそ、その終わりなき働きかけこそが、「平和」という言葉がもつ、本質的な概念なのだ。

 コスタリカでの平和観には平穏、自由、民主主義、文化、尊厳、環境など、常に前向きな方向性が含まれている。より平穏に、より自由に、より民主主義的に、より尊厳を持って、より豊かな環境の中で生きる文化を、常に求めていこうとする思想がその底には流れている。

〈安原の感想〉 日本に「平和文化」が根付くのはいつの日か
 ここでは平和観の大きな違いに着目したい。コスタリカ人にとって平和とは、非武装を前提にして、平穏、自由、民主主義、文化、尊厳、環境など多様であり、しかもそれが日常の暮らしの中に「平和文化」として根付いている。駐日コスタリカ総領事も講演で「平和文化には歌や踊りを楽しむことも含まれる」と指摘している。だからこそ「軍隊がないのが当たり前」という感覚が広がっているのだろう。
 一方、日本人にとって平和とは、反戦・非戦を指している場合が多い。著者の足立氏はこれを「平和に対する想像力が働かなくなる状態」であり、「日本人が陥っている罠」であり、これでは「心が未来へ向かいにくい」とも指摘している。

 ただ日本とコスタリカが置かれている客観的状況の違いを見逃してはならない。それは日米安保体制下で日本が強大な軍事力を保有し、その軍事力行使への衝動を強めようとしていることである。だから日本の平和にとっては反戦・非戦も必要なのである。
 重要なのは、そこで足踏みしないで、平和観を発展させることである。それは反戦・非戦に重点を置く従来型の平和観から多様な非暴力を目指す21世紀型の平和観(反戦・非戦のほかに、いのち尊重、地球環境保全、資源エネルギーの節約、貧困・格差の解消、人間の尊厳、安心・安全など)をどう実現させていくかである。
 脱「日米安保」、非武装・日本の構築は、必要条件ではあっても、十分条件ではない。「平和=非暴力」を実現していく長い道のりの出発点にすぎない。われわれの日常の暮らしの中に多様な非暴力としての「平和文化」が定着するのは、果たしていつの日なのだろうか。


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意見不一致もよし、と考えよう
民主主義の原点と人間の器量

安原和雄
われわれは日本国憲法の下で「自由にして民主的な社会」に居を構え、暮らしていることになっている。それが建前でもあるが、実際は、首を傾げざるを得ない事例にしばしば直面する。その一例が意見の相違を嫌う風潮である。
 しかし考えてみれば意見の不一致、いいかえれば多様な意見の容認こそが自由な民主主義社会の原点ではないか。これを是認し、競い合うことによって、人間としての器量も磨かれるだろう。こういう思考のゆとりを否定したら、不自由な抑圧社会に向かって走ることにもなりかねない。(09年4月18日掲載、公共空間「ちきゅう座」に転載)

▽意見の不一致は民主主義の原点

 私が現役記者時代に書いた記事の整理をしていたら、つぎの一文(毎日新聞コラム「論説ノート」1988年12月25日付)が目に留まった。20年も昔の作で、題して「民主主義の原点」とある。その主旨は、意見の不一致はむしろ民主主義の原点と考えよう、ということだ。その要旨を以下に紹介する。  

 3度目の西ドイツ訪問をしたとき、これが民主主義の原点ではないかと感じたことがある。日独ジャーナリスト交流セミナーの席上、あるドイツ人記者がこういった。
 「conflict(コンフリクト)の上にこそ民主主義は成り立っているというのがヨーロッパ人の考え方だ。ところが非ヨーロッパ世界ではconfrontation(コンフロンテーション)しかない」と。
 また別のドイツ人から「日本人の意見に対し、こちらが意見を言うと、考えを発展させるのに役立つどころかむしろ妨げとなるらしい」という発言も飛び出した。

 例の日本人論の一つかと受け止めることもできようが、私はこれを軽く聞き流すわけにはいかなかった。コンフリクトは思想、感情、意見などの不一致を指しており、コンフロンテーションの方は、例えば東西対立のようにもっと緊張感を伴ったいわば敵対状態のことである。
 日本では意見の不一致を前提にしてもっと冷静に意見を述べ合うべきであるにもかかわらず、それが直ちに敵対関係に発展してしまうことがいかに多いことか。本島・長崎市長の「天皇に戦争責任はある」という発言を自民党などが撤回させようと動いたことは、その典型的な例であるといえよう。

 これでは「日本に民主主義そのものが存在しているのか」と海外から問われるとき、人権、平和、民主主義を掲げた現行憲法のもととはいいながら、自信をもってそうだとは答えにくい。(中略)コンフリクト(意見の不一致)もまたよし、考えたい。

▽今も変わらぬ? 日本の「非民主的・民主主義」

 意見の不一致を尊重しないで、いきなり敵対関係に近い状態になるという雰囲気は、決して20年前の昔話ではない。21世紀の今日でも余り変わっていないような印象がある。今も変わらぬ日本の「非民主的・民主主義」とでも呼んだらいいだろうか。一体どうすれば、ここからの脱出口を見出すことができるか。良策はあるのか。

脱出口(その1)― 愛語こそ天を動かす力がある

 脱出策の一つは、曹洞宗の開祖、道元(鎌倉時代の禅僧、1200~1253年)の「愛語」の実践であろう。つまり愛の言葉を与えることである。これは異性間の愛情のことではない。慈愛の心を持って、言葉を発せよ、という意である。
 道元は言っている。「向かいて愛語を聞くは、面(おもて)を喜ばしめ、心を楽しくす」(顔を合わせながら愛語を聞くと、聞いた人は非常に嬉しく思う)と。
 さらに「愛語よく回天の力あるを学すべきなり」(愛語こそ天を動かすような力があるんだ)と。(西片擔雪著『碧巌録提唱』上巻から)

 なかなか難しいことではあるが、まず相手の声に耳を傾ける。そしてお互いに非難の言葉を投げ合うことを抑えることである。加齢と共に人の意見を無視し勝ちになる。お互いに自戒したいところだが、気になるのは最近、実年の世代、さらに若い人の間でご都合主義の自己主張ばかりが突出して、「聴く」という基本動作が疎(おろそ)かになっていることである。

 脱出口(その2)― 謙虚に複眼的に物事を見ること

皆、一人ひとり矢を持っている。その矢が人を活かす矢か、人を殺す矢か、その違いはこちらに謙虚さがあるかないか、に尽きる。謙虚さを欠いた善は偽善だ。人を殺す矢になってしまう。謙虚さを持った善は人を活かす矢だ。自分は完全ではない、欠点だらけだ、と自分の至らなさ、不完全さを自覚するところから生まれ出る謙虚さが人を活かすのだ。
 謙虚さとは、自分の不完全性を自覚することによって、複眼的に物事を見ることができるということだ。謙虚さがないということは、複眼ではなく、一方的にものを見て、一方的に非難することだ。

 人を活かす剣になるか、人を殺す剣になるか、ひとえに使う人の人間性にかかっている。「物を失う者は小さく失う。信用を失う者は大きく失う。勇気を失う者はすべてを失う」というが、真の勇気とは、実は謙虚さから生まれてくる。(西片擔雪著『碧巌録提唱』下巻から)

 「勇気を失う者はすべてを失う」とは至言である。その勇気なるものが謙虚さから生まれてくるとすれば、謙虚に日常生活を振る舞わなければならない。しかしこれまた「言うは易く、行うは難し」で、口先宣言に終わりかねない。
 私(安原)は最近、政権交代を目指す政治家にしても、新しい時代を切り開かんとする変革者にしても、現体制の担い手たちとの間の競い合いは、政策にとどまらず、人間力、器量の腕比べでもあると考えている。新しい時代を担おうとする者は人間力、器量の点でもより魅力的でなければ勝負にならないような気がしている。この点が見落とされ勝ちになってはいないか。これでは破壊者にはなり得ても、新しい価値観の創造者にはなりにくいだろう。


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「グリーンGDP」の導入を
脱「成長主義」へ転換するとき

安原和雄
 世界大不況への対策をめぐって経済成長政策論議が活発である。麻生首相も成長戦略を発表し、論壇誌などメディアも分析・提案に忙しい。その多くは経済成長論の焼き直しのように見える。しかし新自由主義路線破綻後の新経済モデルとして相も変わらず経済成長主義を追求するのは適切だろうか。
むしろここでは発想を転換して、経済成長には執着しない脱「成長主義」への転換を図るときである。しかも従来の成長主義のためのGDP(国内総生産)に代わる環境重視の「グリーンGDP」導入を提案したい。このことは、あのケインズ主義を超えることを意味している。(09年4月13日掲載、公共空間「ちきゅう座」、インターネット新聞「日刊ベリタ」に転載)

▽麻生首相の成長戦略構想への疑問

 麻生首相は4月9日、日本記者クラブでの記者会見で「新たな成長に向けて」と題する2020年までの日本とアジアの成長戦略を発表した。その骨子は以下の通り(朝日新聞09年4月10日付)。

1 はじめに
 「百年に一度」とも言われる経済危機。ピンチをチャンスに変えることができる国が大きな繁栄をつかむことができる。新たな成長戦略を示したい。名付けて「未来開拓戦略」。対象は2020年まで。伸ばすべき産業分野の姿と、その実現の道筋。

2 日本経済の未来
 2020年には実質GDP(国内総生産)を120兆円押し上げ、400万人の雇用機会を創出する。当面3年間で40兆円から60兆円の需要を創出、140万人から200万人の雇用創出を実現する。
・低炭素革命で、世界をリードする国=太陽光発電世界一プラン、エコカー世界最速普及プランなど
・安心・元気な健康長寿社会=30万人介護雇用創出プランなど
・日本の魅力発揮=キラリと光る観光大国など

3 アジア経済倍増に向けた成長構想
 アジアは21世紀の成長センター。膨大な中間層が育ちつつある。
・アジアの成長力強化と内需拡大

4 さいごに
 額に汗して働く。チーム全体で高い成果をあげていく組織力。日本のものづくりを支えてきたのは、この伝統。自らの強みを見失うことなく、その土台の上に作り上げたのが今回の成長戦略。日本とアジアの未来は明るい。

〈安原の感想〉21世紀版所得倍増計画はお目出度すぎる
一読して、池田内閣の所得倍増計画(1960年12月閣議決定、10カ年計画)の21世紀版ではないかという印象である。新安保(現行の日米安保条約)の強行締結に踏み切った岸内閣が退陣した後、「寛容と忍耐」のキャッチフレーズを掲げて登場した池田内閣の目玉政策が所得倍増計画という名の経済成長政策であった。「月給倍増政策」とも呼ばれた。
 10年間でGDP(当時は「GNP=国民総生産」という経済用語が使われていた)を2倍に増やし、国民生活を豊かにするという触れ込みで、本格的な高度経済成長時代を迎える。自動車、カラーテレビ、クーラーなどの新商品が一挙に普及したが、その半面、公害による深刻な被害も日本列島上に広がった。

それから半世紀を経て、時代は激変した。なによりも人類の生存にかかわる地球環境保全が最重要な課題となっていることである。だから地球環境保全と国民生活の質的充実(自然エネルギー、雇用、教育、健康、貧困対策など)のための多様なグリーン政策が必要である。しかし資源エネルギーの浪費と環境破壊につながる経済成長政策はもはや追求すべき課題ではない。首相の21世紀版所得倍増計画は時代感覚がずれてはいないか。まして「日本とアジアの未来は明るい」などという夢物語が通用すると考えているとすれば、お目出度すぎる。

▽『世界』の特集「日本版グリーン・ニューディール」にみる経済成長論

 論壇誌『世界』09年5月号(岩波書店刊)が特集「日本版グリーン・ニューディール」を組んでいる。その主な柱はつぎの通り。
*経済成長のパラダイム・シフト=佐和隆光(立命館大学教授)
*石油の終焉から持続可能なエネルギーの時代へ=槌屋治紀(システム技術研究所長)
*日本の環境エネルギー革命はなぜ進まないか=飯田哲也(環境エネルギー政策研究所長)
*若者を惹きつける農業の新たな価値=榊田みどり(ジャーナリスト) 
*林業再建のグリーン・ニューディール=熊崎 実(筑波大学名誉教授)
*介護分野に現代版ニューディール政策を本当に機能させるために=結城康博(淑徳大学准教授)
*エコツーリズムによる「自然と雇用」の融合=中嶋真美(玉川大学准教授)

 示唆に富む有益な論文が揃っているが、ここではトップ記事の佐和論文のうち経済成長に関する部分(要旨)を以下に紹介する。その主旨は「成長のための成長」を排し、「持続可能な成長」へ転換せよ、と読める。その疑問点にも言及したい。

《「成長のための成長」から「持続可能な成長」へ》

 地球環境問題の識者兼活動家として名高いレスター・ブラウンは「成長のための成長は、ガン細胞の増殖と何ら変わるところがない」と述べている。20世紀末の地球上に雑草のように繁茂していた経済成長至上主義に対して、環境保全至上主義者が打ち鳴らした警鐘である。増殖を続けるガン細胞は、宿主である臓器をむしばみ、ついには生命維持システムを破壊する。同様に野放図な経済成長は地球のエコシステムを破壊すると言うのだ。

 戦後日本の経済史を振り返ってみても、欧米先進諸国に「追いつき追い越せ」をモットーとする経済成長は、いつの間にか、「成長のための成長」すなわち経済成長が自己目的化し、実質国内総生産(GDP)の成長率を高めることのみが、経済政策の目的と化してしまった。
 産業界の錦の御旗には「経済成長こそが幸せの原点」と書き記されている。環境税を例にとれば、「その導入が成長率を低下させるから」というのが、反対の最たる理由として挙げられる。

 レスター・ブラウンは「だからゼロ成長を」と言うのではなく、成長の中身を見直すべきだと言うのである。(中略)
 「現世代が、次の世代がそのニーズを満たせるよう配慮しつつ、みずからのニーズを満たす」という持続可能(サステイナブル)な経済成長は、在来型の経済成長とはまったく位相を異にするのだ。要するに、今、私たちに求められているのは、経済成長のパラダイム・シフトなのだ。

 昨今、市場万能主義者の声は遠吠えと化し、代わって、財政出動を促すケインズ主義者(?)の声がやかましくなった。今、仮に本家本元のケインズに、世界同時不況の処方箋をと願い出れば、それは次のようなものだろう。「財政を出動させるのはいいけれども、使い途を誤ってはならないよ。教育、医療、環境、エネルギーなど『未来への投資』にカネを使いたまえ。いたずらに政府を大きくせよと私が言った覚えはない。必要なのは『大きくて賢い政府!』なのだよ」
 近時、日本でも頻用されるようになったグリーン・ニューディールという言葉が掛け声倒れにならないためにも、優遇税制などによる巧妙なインセンティブを、「賢明な政府」が迅速に仕掛けることを願いたい。

〈安原の感想〉「持続可能な経済成長」はあり得ない
以上の佐和論文では「成長のための成長」、さらに産業界の錦の御旗である「経済成長こそが幸せの原点」という考え、主張には疑問を投げかけている。これには賛成である。しかし同論文はゼロ成長を否定し、「持続可能な経済成長」の重要性を強調している。これにはいささか異を唱えたい。

「持続可能な経済成長」とは一体何を意味するのか。私は地球環境保全と生活の質的充実のために目指すべき新しい経済システムは「持続可能な経済」であって、「持続可能な経済成長」ではないと理解している。経済そのものと経済成長は同じではない。生産・消費・投資を含む経済活動そのものがなくなれば、人間は生存不可能に陥る。しかし佐和論文での「経済成長」は毎年、経済が量的に拡大していくことを意味しており、そういう経済成長は持続的ではあり得ない。
 目下世界が直面している世界大不況によって経済成長率がマイナスになっているのは、持続的ではあり得ない証拠の一つである。特に政府は「持続的経済成長」という言葉を安易に使いたがるが、それは例えば消費税引き上げを目論むための宣伝文句にすぎない。

▽ゼロ成長を含む脱「成長主義」へ転換しよう!

一般にプラス経済成長(GDP=個人消費、公共投資を含む財政支出、民間設備・住宅投資、輸出入差額など=の量的拡大)が毎年続かなければ、豊かな生活は実現できないという思いこみが強すぎないか。この思いこみは誤解、錯覚と言うべきである。経済成長がそのまま豊かな生活に直結しているわけではない。これからの経済のあり方としては脱「成長主義」への転換が必要である。
市場経済である以上、毎年の成長率を管理することは不可能で、プラス成長になったり、マイナス成長(経済の量的縮小)になったりする。平均してゼロ成長で十分と考えるのが脱「成長主義」である。重要なことは、プラス経済成長でなければ、経済は破滅するという思いこみを捨てることである。

〈提案1〉日本はすでに成熟経済であり、ゼロ成長で十分
 ゼロ成長とは年間GDPの量的規模が前年と同じ規模で推移することである。人間で言えば体重が増えもしないし、減りもしない状態である。
 日本経済の年間GDPは現在約500兆円で、すでに成熟経済の域に達しており、米国に次いで世界第2位の巨大な経済規模となっている。人間で言えば、すでに熟年であり、もはや体重を増やすことが目標ではない。人間としての人格、品格、智慧を磨くときである。同様に日本経済も「ゼロ成長、つまり500兆円の経済規模で十分」と考えて、成長よりも経済や生活の質的改善・充実に専念するときである。

〈提案2〉求めるべきは「持続可能な経済」
 政策目標として追求すべきことは「持続可能な経済成長」ではなく、「持続可能な経済」である。プラスの経済成長には資源エネルギーの浪費、自然環境の汚染・破壊を伴う。にもかかわらず量的拡大に執着するのは、子どもの頃もっと大きくなりたいと考えていたことを熟年になっても捨てきれないという幼さを感じさせる。そういう惰性から抜けきれない発想は思い切って捨てるときである。

ここで強調したいのは、GDPという概念にはもともとつぎのような限界、弱点があることだ。しかしなぜか、現代経済学者の多くは、限界、弱点を丁寧に説明することに怠慢である。そのため経済成長に対する誤解が広がっている。(レスター・C・サローほか編/中村達也訳『現代経済学 上・下』、TBSブリタニカ、1990年=参照)

*産出物の質を表示するには不完全な指標である=量を示すにすぎないので、個人消費や公共投資が増えても、それが生活の質の充実にそのままつながるわけではない。道路拡充と交通量増大が騒音、排ガス汚染、交通事故などを招くのはその一例。
*売買されない産出物を表示しない=市場で取り引きされないため、貨幣価値に換算できない豊かな自然環境、環境の汚染・破壊、健康と長寿、人間の尊厳や絆、品格、愛情、時間のゆとり、暮らしの安心・安全感 ― など生活の質にかかわるものは、GDPが増えても保障されるわけではない。
*所得分配を知るためにはまったく役に立たない=破綻したあの新自由主義路線下でプラスの経済成長を実現しながら、その一方で所得格差拡大、貧困、凶悪犯罪の増大をもたらしたが、それをGDPは表示できない。
 だから経済界などに見られる「経済成長こそ幸せの原点」という捉え方は錯覚である。「経済成長のためにも企業の売上増を!」という旗を掲げて、ノルマを課せられると、サラリーマンにとっては労働強化を強いられ、ノイローゼにもなりかねない。経済成長に執着することが不幸を引き寄せる一例である。

▽ケインズを超えるとき― 「グリーンGDP」の導入を

 新自由主義路線が破綻した後の新しい「経済モデル」をどう築いていくかが目下の大きな課題である。まず問われるのは財政拡大政策につながるケインズ主義に帰るだけで十分なのかである。麻生首相の「日本とアジアの成長戦略」も佐和論文の「大きくて賢い政府論」もケインズ主義への回帰は濃厚である。佐和論文はつぎのように指摘している。

 今、仮に本家本元のケインズに、世界同時不況の処方箋をと願い出れば、それは次のようなものだろう。「財政を出動させるのはいいけれども、使い途を誤ってはならないよ。教育、医療、環境、エネルギーなど『未来への投資』にカネを使いたまえ」― と。

 ケインズ(イギリスの経済学者、1883~1946年)流の今日的「賢い政府論」は、グリーン政策にもつながるが、むしろ世界不況への処方箋として登場してきた。麻生首相の「成長戦略」もグリーン政策を志向してはいるが、21世紀版所得倍増計画であるからには、やはり成長主義に著しく傾斜している。つまり「百年に一度」の世界不況に引きずられているという印象が残る。成長主義に回帰するのでは、またもや景気の浮沈に大きく左右されかねない。
 ここは「百年に一度」の世界不況を好機として活用する視点に立ちたい。その軸となるのが脱「成長主義」、さらにグリーン政策を含む生活の質的充実 ― の2本柱である。その意味ではケインズに帰るというよりも、むしろケインズを超えるときではないか。

 私(安原)は国連主催の第一回地球サミット(1992年)の頃から脱「成長主義」への転換を唱えてきた。当時、グリーンGNP(今日で言えば、グリーンGDP)という新しい発想が浮上していた。このグリーンとは、自然環境全体を指すもので、環境破壊をマイナス要因としてGNPに反映させようという試みであった。当然、成長率は低下するが、環境を含めて生活の質を重視する考え方で、ケインズにはみられない発想である。しかしこの貴重な試みであるグリーンGNPは新自由主義路線の猛威の中で消え去っていた。今こそ復活させ、導入する好機と考える。

 もう一つ、ケインズの主著『一般理論』(1936年)は「戦争は富の増進に役立つ」として戦争を肯定している点が軽視できない。今日、ケインズに帰ることは戦争肯定につながりかねない。だからこそケインズを超えなければならない。世界大不況の克服策として軍事力行使を志向し、兵器増産など戦争ビジネスを潤し、経済を活性化させようとするのは時代錯誤である。あの「1929年大恐慌」から世界経済が立ち直ったのは、多くの犠牲者を出した第2次世界大戦を通じてであった。その再現は時代が許さない。

 ともかくケインズを超えるという視点が不可欠である。中長期の「持続可能な経済」戦略は、脱「成長主義」とグリーン政策を含む生活の質的充実(環境、医療、教育、社会保障、自然エネルギー、農林漁業、中小企業などの重視。財源は消費税上げではなく、環境税導入、大企業・資産家への優遇税制廃止、道路建設・軍事費の削減など)が主軸であるのが望ましい。短期の不況克服策はその一環に位置づけられる性質のものであり、それ以上ではない。


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新自由主義破綻後の企業と経済
「無心」の境地から観察すると

安原和雄
 新自由主義破綻後の世界経済のあり方を探るロンドン金融サミット(G20)が金融の規制・監督の強化路線を打ち出したのに続いて、我が国では「北朝鮮のミサイル発射」をめぐる「戦争ごっこ」で、誤情報騒ぎも織り込んで右往左往する始末となった。
 ここは冷静さを取り戻して、仏教の「無心」の境地から観察すれば、見えてくるものは何か。企業経営、経済運営ともに「慈悲の心」、「利他と感謝」、「少欲知足」がキーワードとして浮かび上がってくる。(09年4月6日掲載、公共空間「ちきゅう座」、インターネット新聞「日刊ベリタ」に転載)

 臨済宗妙心寺派第31代管長の故西片擔雪老大師の『碧巌録提唱』(09年2月、岡本株式会社=岡本哲治社長=明日香塾編集発行・非売品)を手がかりに新自由主義破綻後の企業と経済のあり方を考えてみたい。
 序文に稲盛和夫・京セラ創業者が「人間が最も大切にしなくてはならない倫理観や道徳心が希薄化し、様々な問題が引き起こされている昨今、本書はそのような現代の社会を、より善いものにしていくにあたり、必ずや貢献するものと考える」と記している。
 岡本社長の解説によると、「『碧巌録』は唐から宋の時代に活躍した高徳の禅師の言行録から百話集めたもので、今日なお日本の禅宗では宗門第一の書」とされている。
 『碧巌録提唱』は1983年から10年間に行われた提唱を収録したもので、上・中・下の3巻で1600頁余に及ぶ大著である。そのうちごく一部を以下に紹介し、私(安原)の感想を付記する。

▽無心とは空のコップ、そして慈悲の心

 私は無心ということを説明するのに、空のコップのたとえ話をする。私たちの心というものは、憎い可愛い、惜しい欲しいという泥水がいっぱい詰まったコップのようなもので、もう何も注ぎ込むことはできない。しかしその泥水を捨て切ってコップをきれいに磨き上げれば、ビールなどが即座にたっぷりと注ぎ込むことができる。
 同じように本当にきれいな無心状態になると、森羅万象がことごとく、たちまち私たちの胸の中へ入ってきて私たちと一つになることができる。自他一如だ。相手と自分が一つになるのだから、相手の痛みが自分の痛みになり、相手の悲しみが自分の悲しみになっていく。相手の喜びは自分の喜びになってくる。
 無心とは、そういう相手と一体となった慈悲の心である。「仏心とは大慈悲心是れなり」。無心になることによって、そういう大慈悲心を自分のものとすることができる。

〈安原の感想〉地球も人間も「慈悲の心」を渇望
仏教、特に禅では無心は日常用語といえるほどに馴染みが深い。しかしこの無心なるものは、本当のところ何であるかが一般にはつかみにくい。頭では分かったつもりでも、身体で会得するのが難しい。ここでの「無心とは慈悲の心」という説法には「なるほど」と頷(うなず)くことができるが、その実践となると、これまた容易ではない。
 しかし地球も、世界も、国も、社会も、人間も、この「慈悲の心」を渇望しているのではないか。

▽世界の軍事費の1%を回せば、飢えを救える

 アフリカでは干魃(かんばつ)がひどい。子供たちがどんどん飢え死にしている。アフリカの飢えた子供たちを救えという運動が起こっている。アフリカ人口の3分の1、数百万人が餓え、死に瀕しているという。ただ世界の軍事費の1%を回せば、その人たちを救うことができるという。正論である。世界では1分間に130万ドルの軍事費が使われている。一方では1分間に30人の子供が飢え死にしているという報告がある。

〈安原の感想〉「戦争ごっこ」に右往左往しているときか
地球上の飢餓人口は約10億人で、6人に1人は飢えていることになる。この飢餓に日本は無縁かというと、実はそうではない。生活保護費を打ち切られて、食べ物がなく、最近、餓死した悲劇があった。
 その一方で巨額の軍事費が浪費されている。世界全体で年間約120兆円、うち米国一国だけで半分強を占めており、日本は年間約5兆円だ。ベトナム戦争で米国が敗北して以来、軍事力は無力化している。にもかかわらず軍事力に執着し、浪費を続けている。
 その世界の軍事費のわずかに1%といっても、1兆円を超える金額である。「北朝鮮のミサイル」を口実にした「戦争ごっこ」に右往左往して、血税を浪費しているときではないだろう。

▽利益とはお客様の満足料だ

 日本でも指折りのスーパーの社長さんが、雑誌の対談記事で立派なことをおっしゃっておった。その中で「利益とは、お客様の満足料だ。お客様の満足度に応じて利益が出てくる。お客様にその満足を得ていただくために従業員が努力したのだから、その利益は従業員にあげるのだ」と。
 普通、利益というたら、仕入れと販売との差額を、サービスをした当然の対価であると受け取る場合が多いけれども、「利益とはお客様の満足料だ」とサラッと言い切っておられた。競争の激しいスーパー業界で、その会社は売上高は日本一ではないが、利益ではなかなか奮闘しているということだ。こういう社長さんに率いられたら、ますます発展するだろうなと思いながら、その記事を読んだ。
 与えることのできる量の多い人ほど、徳の高い人と言えるのではないか。与えるというても、物を与えるのではなしに、人間的な何かを与えることのできる人、それが徳のある人と言うことができるのではないか。

〈安原の感想〉仏教経営の真髄は利他と感謝
 「仏教経営」なるものを心掛けている企業経営者は実は少なくない。「利益はお客様の満足料」という利他と感謝の心こそが仏教経営の真髄である。最近「企業の社会的責任」論議が活発になっているが、その核心はやはり利他と感謝である。これは企業経営に限らず、もっと広く経済全体の運営にも当てはまる。
 ところがその道理をわきまえず、手前勝手な私利中心の企業経営と経済運営に執着したのが、世界金融危機、大不況とともに破綻したあの新自由主義路線であり、その波に乗って悪用した企業群である。ごく当然の破綻であった。

▽「少欲知足」の教えが力を持ってくるに違いない

 戦前の日本は、貧乏は恥ではなかった。貧困に打ち勝つことこそ美徳だった。そういう昔人間からみると、今の日本の繁栄はまさに幻影ではなかろうか。まだ使える物を捨てて、修理できる物を修理しないでポイ捨てだ。昔でも物は最後には捨てられたが、必ず土か水に還って再生された。
 ところが現在の化学製品の多くは、土にも水にも還元しないで、汚染、公害の元凶となる。ゴミや廃品が出るのは、物が完全にそのはたらきを果たしていないからだと思う。
 「少欲知足」(しょうよくちそく)と申します。時節因縁が熟して、また「吾れ唯だ足ることを知る」の教えが力を持ってくるに違いないと思う。だいたい人間というものは、シンプルな生き方をするうちに、本当の安心感、安心立命、静かな喜びが生まれてくるものである。

〈安原の感想〉シンプルな生き方と質の改善・充実
 貪欲、強欲そのものの新自由主義路線が破綻した後の経済のあり方はいかにあるのが望ましいか。それは少欲知足であり、シンプルな生き方のすすめである。これは経済運営でいえば、成長主義にこだわらず、ゼロ成長で十分と考える立場である。
 経済成長はモノやサービスの量的拡大を意味するだけで、質の改善・充実とは無縁である。経済成長は人間でいえば、体重が増えるだけの意味しかない。米国に次いで世界第2位の経済大国・日本はすでに成熟経済であり、量的拡大に偏するのは良策ではない。大不況克服を名目とする成長主義の視点からの景気対策一本槍は時代感覚がずれている。
 むしろ温暖化防止、雇用創出、貧困克服などを織り込んだ日本版グリーン・ニューディールのような質的充実策が必要である。これこそが今日的「慈悲の心」、「利他と感謝」、「少欲知足」の経済版ではないかと考える。


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北朝鮮ロケットの「破壊命令」
真の標的は「血税と憲法9条」

安原和雄
北朝鮮の「人工衛星打ち上げ」をめぐってロケットの一部が落下してくるなど万一の場合を想定して、日本政府は自衛隊に「MD(ミサイル防衛)」による「破壊措置命令」を出した。命令を実行するためにイージス艦などがすでに配置済みとなっている。これは戦後初めて軍事力を行使する準備態勢を意味している。
 その真の標的は何か。目指すものは実は北朝鮮の脅威に名を借りた「MD利権拡大のための血税浪費」であり、ひいては「憲法9条の破壊」につながるとも言えるのではないか。(09年4月3日掲載、インターネット新聞「日刊ベリタ」、公共空間「ちきゅう座」に転載)

 メディアの多くは、政府の説明をほぼそのまま報道するだけで、今回の「破壊措置命令」が何を意味するのかが霧の中に隠されている印象がある。それだけに多面的な情報、分析を素材にして真相を探る必要がある。その一つとしてつぎの「声明」を紹介する。
 これは「杉原浩司:核とミサイル防衛にNO!キャンペーン」による声明で、「みどりの未来」(環境政党を目指す市民運動組織で、共同代表は稲村和美・兵庫県議、井奥まさき・兵庫県高砂市議)のメーリング・リストで入手した。声明は4月1日に行われた〈「迎撃」名目のミサイル防衛発動を許すな!4・1防衛省行動〉の際、防衛大臣あてに提出された。

▽ ミサイル防衛発動をやめ、自衛隊を撤収させよ!

 【声明】の内容(大要)は以下の通り。
 緊張激化と憲法破壊のミサイル防衛発動をやめ、自衛隊を撤収させよ!
~血税と9条を標的とした「迎撃ごっこ」の中止を求める~

 3月27日、麻生政権は、朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)による「人工衛星打ち上げ」に対して、「ミサイル防衛(MD)」を発動する「破壊措置命令」を決定した。現場指揮官に迎撃権限を丸投げする「文民統制」逸脱の命令を、浜田防衛相が発令し、空自PAC3部隊の首都圏展開及び浜松から東北への移動展開が行われた。SM3搭載の海自イージス艦2隻が日本海へ、非搭載1隻が太平洋へ展開した。米韓のイージス艦も展開している。
 自衛隊を戦後初めて戦闘準備態勢に入らせるこの措置は、歴史に大きな禍根を残す重大な転回点になりかねない。MDが「平時」に戦時体制を持ち込む危険な装置であることも実証された。

 北朝鮮のロケット打ち上げは、北東アジアの軍事的緊張を高め、軍拡競争を促進させる。私たちは北朝鮮に対して、打ち上げ中止を要求する。北朝鮮は、宇宙条約加盟や事前通告など正規の手続きを整えてはいるが、核開発に加えて長距離弾道ミサイル能力を獲得し対米交渉カードにすることへの懸念を払拭していない。「人工衛星」だと言うなら、ロケットを情報公開すべきだ。

 一方で、日米は、ロケット打ち上げを国連安保理決議違反だとしているが、ミサイルと確認できない現段階で、宇宙条約で保証された宇宙開発の権利まで制限することはできない。日本は、宇宙の軍事利用に踏み込む「宇宙基本法」を制定し、軍事衛星増強に向かっている。米国は、宇宙の軍事覇権に固執し、宇宙への兵器配備さえ視野に入れたMDを推進している。日米に一方的に北朝鮮を非難する資格はない。とりわけ日本は、米国でさえ「迎撃の用意はない」とする中、「潜在敵国の宇宙進出を軍事力によって阻止する」という2001年の米ラムズフェルド宇宙委員会のシナリオをなぞるかのような突出ぶりを見せている。

 北東アジアで繰り返される「ミサイル危機」の根本原因は、在日米軍の圧倒的な軍事力による北朝鮮や中国の包囲にある。トマホーク巡航ミサイルの増強やMD配備のみならず、原子力空母ジョージ・ワシントンの横須賀母港化や巡航ミサイル原潜オハイオの初寄港など、攻撃力の強化が続いている。日本も、イージス艦の増強やヘリ空母就役など、その攻撃性を進化させている。
 さらに、今回のMD発動は全くデタラメな茶番劇である。PAC3の実験は標的の飛翔距離が短い非現実的なものに過ぎず、ハワイ沖でのSM3の実験は失敗した。そして、日本政府が想定する、打ち上げ失敗によるロケットの突然の落下に対する迎撃は、当の米国さえ実験自体を実施しておらず、到底不可能である。今回の発動の目的は、データ収集とMD作戦の予行演習にある。

 MD発動の標的は、血税と憲法9条に据えられている。ここぞとばかりに自衛隊のプレゼンスを見せ付け、MDの正当性をアピールすること。さらに、戦時態勢に住民と自治体を動員することで憲法9条の足枷を取り払い、日米軍需産業に巨大なMD利権を保証することが目論まれている。これはまさしく、「憲法破壊命令」そのものだ。
 私たちは、北東アジアにおける軍拡競争が宇宙へと拡大しかねない重大な局面に立ち会っている。軍拡スパイラルからの脱却は、「ミサイル防衛」ではなく「ミサイル軍縮」の先にしかあり得ない。自らが相手に与えている脅威を自覚し、保有兵器を相互に削減していくアプローチを粘り強く探る以外に、持続可能な平和に至る道はない。

 米国のMDレーダーの建設候補地とされたチェコでは、市民の強力な運動によって、受け入れ協定批准が停止され、親米政権自体が崩壊に追い込まれた。私たちは、チェコの人々の努力に学びながら、MDからの撤退と北東アジアの脱軍事化に向けた取組みを継続することを表明し、以下の通り当事者に要求する。

*北朝鮮政府は、
・緊張を激化させるロケット打ち上げを中止し、宇宙開発計画の情報公開を行え。
・ミサイル発射実験と核・ミサイル開発を断念せよ。
*米国政府は、
・MD配備を撤回し、トマホークの発射態勢を解除し、すべての先制攻撃兵器を撤去せよ。
・「米軍再編」を中止し、核廃絶を行い、北東アジアから米軍を本国に撤収させ、縮小せよ。
*日本政府は、
・「破壊措置命令」を撤回し、自衛隊を即刻撤収させよ。
・PAC3のレーダー波の影響や発射時の爆風のガス成分などすべての情報を公開せよ。
・ミサイル防衛から撤退し、宇宙の軍事利用を放棄せよ。
・日米安保条約を破棄し、自衛隊を縮小・廃止せよ。  
*三者は、
・韓国、中国、ロシアなどとともに六カ国協議などあらゆる機会を活用して、北東アジアの非核・非ミサイル地帯化に向けた外交努力を行え。


2009年4月1日 核とミサイル防衛にNO!キャンペーン 事務局
(連絡先)東京都大田区西蒲田6-5-15-7
(E-mail)kojis@agate.plala.or.jp 
(TEL・FAX)03-5711-6478    
(HP)http://www.geocities.jp/nomd_campaign/

▽ミサイル防衛(MD)発動の標的は、血税と憲法9条

 今回のMD発動の真の狙いは何か。上に紹介した「声明」にはいくつかの示唆に富む指摘が含まれている。まず声明の基本的姿勢が公正であることを挙げておきたい。北朝鮮に対する感情的な反発を避けて、日米の対応を批判するだけでなく、北朝鮮への注文も忘れてはいないからである。 それにしても多くのメディアの反応は北朝鮮に対し、いささか感情的になってはいないか。この際、声明が言及しているつぎの諸点は冷静な検討に値すると考える。

(1)MDは「平時」に戦時体制を持ち込む危険な装置であること
「自衛隊を戦後初めて戦闘準備態勢に入らせるこの措置は、歴史に大きな禍根を残す重大な転回点になりかねない」という指摘に着目したい。
日本列島の上空で軍事力行使が公然と行われようとしていることの歴史的意味を見逃すわけにはいかないだろう。北朝鮮に対する国民の負の感情を巧みに操ろうとしているかにも見える。

(2)日米に一方的に北朝鮮を非難する資格はないこと
北朝鮮が悪玉で、日米が善玉という二分法は、ブッシュ前米大統領が得意とした手法だが、その手に簡単に乗せられるようでは、その結果としての災難はやがて我が身に降りかかってくるだろう。
 上記の声明の中のつぎ指摘はおおむね正しい。軍事力で見る限り、日米安保体制による日米軍事同盟を拠点とする日米一体の軍事力は世界最大にして最強である。

 北東アジアで繰り返される「ミサイル危機」の根本原因は、在日米軍の圧倒的な軍事力による北朝鮮や中国の包囲にある。日本も、イージス艦の増強やヘリ空母就役など、その攻撃性を進化させている ― と。

(3)MD発動の標的は、血税と憲法9条に据えられていること
以下の分析も的確といえるのではないか。

 ここぞとばかりに自衛隊のプレゼンスを見せ付け、MDの正当性をアピールすること。さらに戦時態勢に住民と自治体を動員することで憲法9条の足枷を取り払い、日米軍需産業に巨大なMD利権を保証することが目論まれている。これはまさしく、「憲法破壊命令」そのものだ ― と。

 「破壊措置命令」は何を隠そう「憲法破壊命令」そのものだという指摘はたしかに的を外していない。しかもそれがMD利権という血税の浪費にもつながることになれば、多くの国民にとって「泣きっ面に蜂」という表現ではいささか穏当にすぎるかもしれない。


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