「もっともっと欲しい」の貪欲の経済から、「足るを知る」知足の経済へ。さらにいのちを尊重する「持続の経済」へ。日本は幸せをとりもどすことができるでしょうか、考え、提言し、みなさんと語り合いたいと思います。(京都・龍安寺の石庭)
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「日米同盟強化」がめざすもの
日米安保体制50周年を前に

安原和雄
共同記者会見も、共同声明もないままに終わった異例の日米首脳会談は何を残したのか。一口にいえば、日米同盟強化路線そのものである。日米同盟についてメディアの多くは当然の既定事実として受け入れる傾向があるが、日米同盟の実体を軽視してはならない。日米安保体制を土台とする軍事・経済同盟として諸悪の根源になっているからである。
 麻生太郎政権はやがて退陣するとしても、この同盟強化路線は機能し続けるだろう。来年2010年は現行の日米安保が発足してから50周年を迎える。夫婦ならお目出度い金婚式であるが、日米安保50周年は決して歓迎できるものではない。(09年2月27日掲載、公共空間「ちきゅう座」、インターネット新聞「日刊ベリタ」に転載)

▽日米同盟強化を打ち出した日米首脳会談

 テレビ、新聞ともに多くのメディアには、オバマ米政権下で各国首脳に先駆けて最初に麻生首相がホワイトハウスに招かれたことを、持ち上げる雰囲気がある。しかし東京新聞社説(2月26日付)の次のような指摘は見逃せない。
 「米側による対日重視の表れ。これが日本政府の事前の触れ込みだった。しかし今回は招待というよりも、日本外務省が頼み込んで、米側から呼んで貰ったとみる方が実態に近いのではないか」と。
 事前の演出、根回しがあったということで、外務省のやりそうなことである。「最初の招待客」の舞台裏の真相はともかく、日本が最初だからと力説するのは、学校の先生に頭をなでて貰ってニコニコ喜んでいる小学生の姿と大差ないとはいえないか。外務省もメディアも大人げない。

毎日新聞のコラム「近事片々」(2月26日付夕刊・東京版)がおもしろい。
 日米の間は遠き片思い? 地球の裏側から訪ねてきた客人にそっけないこと。そんな程度ならケータイですませれば ― と。

 「これも一案か」と思わず笑ってしまったが、仮にケータイ首脳会談が実現したとしても、重要なことは日米首脳会談で何が話し合われたのか、である。各紙の伝えるところによると、今回の首脳会談の骨子はつぎのようである。
・日米同盟の一層の強化。地球規模の課題に日米で取り組む
・在日米軍再編の着実な実施
・基軸通貨ドルの信認維持
・北朝鮮の非核化の実現に協力
・クリーンエネルギー、地球温暖化対策などで協力するための協議開始

 政治、外交、軍事、経済と多岐にわたっており、地球温暖化対策までも視野に入れている点がブッシュ前政権時代との質的差異を示しているが、首脳会談の焦点は「日米同盟強化」の路線を打ち出したことである。この一点こそが重要ではないか。この同盟強化は先のクリントン米国務長官の訪日の際にすでに打ち合わせ済みであった。麻生政権はいずれ退陣するとしても、その後の政権を拘束する性質のものといえるのではないか。

▽日米同盟強化を是認するメディア

 以上のような日米首脳会談について大手メディアはどう論評したか。社説(いずれも2月26日付)の要点を紹介すると、つぎの通りで、結論としていえることは、各紙に共通しているのは日米同盟の強化路線を是認していることである。批判的視点はほとんどうかがえない。
 わずかに東京新聞のみが以下のような懸念を指摘している。しかもこの指摘は重要であり、その行方は今後の見どころである。
 同盟強化の名の下に、自衛隊のさらなる貢献や巨額な戦費負担を迫られはしないか。「ドルの信頼維持」の確認で、米国債の引き受け圧力が強まる懸念もあろう。十分に留意すべき点だ ― と。

*朝日新聞
 会談にはそれなりの大きな意義があった。
 深刻さを増す世界同時不況に対し、各国は破局を防ぐための国内対策に追われる一方、国際的な協力、助け合いの道を探っている。経済規模が世界1位と2位の国のトップが互いの認識を確かめ合い、協調を語った。
 もう一つ、米大統領が8年ぶりに交代したことで、国際政治の方向が変わろうとしている。主要国は外交を活発化させ、新しい流れに対応しようとしている。
 そうした動きに日本も後れをとってはならない。「日米同盟は東アジアの安全保障の礎石」(オバマ大統領)という認識を土台に、さまざまな国際問題や地球環境対策などで協調していく方向となったのは、予想されたこととはいえ、出発点としてはいい。

*毎日新聞
 麻生太郎首相とオバマ大統領の初の日米首脳会談は、同盟国として責任を共有していくことを確認する場となった。
 大統領は日米同盟を東アジアの安全保障の「礎石」と位置づけ、「私の政権が強化したいものだ」と述べた。「強化」とは、日米関係を2国間の問題だけでなく国際社会共通の課題に協調して取り組めるような関係に発展させたいという期待を込めたものだろう。
 首相が口癖のように言う世界第1位、2位の経済大国の日米が手を携えなければならない時であるのは論をまたない。

*読売新聞
 幅広い分野で重層的な協力を続けることが、日米同盟の強化にも大いに役立つだろう。
 麻生首相とオバマ米大統領が初めて会談し、世界同時不況やアフガニスタン、北朝鮮問題などで日米両国が緊密に連携する方針を確認した。
 オバマ政権は多国間協調外交を志向している。日本は、これに呼応し、従来以上に能動的な外交を展開する必要がある。互いに信頼できるパートナーになる努力を重ねることが肝要だ。
 百年に一度の経済危機から早期に脱するには、世界1位と2位の経済大国による政策面での共同歩調が欠かせない。

*東京新聞
 会談では、テロ対策や経済危機など地球規模の課題に対処するため、日米同盟を「重層的」に強化することで一致した。例えば混迷が続くアフガニスタン問題で、日本が得意とする非軍事分野で存在感を示すのは好ましいことだ。
 だが、同盟強化の名の下に、自衛隊のさらなる貢献や巨額な戦費負担を迫られはしないか。「ドルの信頼維持」の確認で、米国債の引き受け圧力が強まる懸念もあろう。十分に留意すべき点だ。

▽日米同盟の「重層的」強化とは何か

 以上4紙の論評から日米首脳会談のキーワードを引き出せば、以下のようである。

・「日米同盟は東アジアの安全保障の礎石」(オバマ大統領)
・同盟国として責任を共有
・日米同盟を「重層的」に強化することで一致
・オバマ政権は多国間協調外交を志向
・世界1位と2位の経済大国による政策面での共同歩調

 キーワードの中で「日米同盟は東アジアの安全保障の礎石」(オバマ大統領)という認識はクリントン米国務長官も繰り返し、言及しており、これがアメリカの今後の対日同盟戦略の基本であろう。これまでもそうだったし、それを継承するという意図の表明である。これを受けて日本側は「同盟国として責任を共有」することを改めて約束した。「責任の共有」といえば、そこに対等平等の関係が保持されているような印象を与えるが、現実にはむしろ日本側の責務として位置づけられているのではないか。
 しかしこれだけではブッシュ前政権時代と大差ない印象を与える。つまり米国の軍事的覇権主義と単独行動主義を前面に押し立てて、日本がその一翼を担うという構図は変わらない。これではオバマ政権のChange(変革)路線そのものに疑問符が投げかけられる。変革路線はまやかしなのかという批判も浴びることにもなるだろう。そこで登場してくるのが日米同盟の「重層的」強化であり、オバマ政権の多国間協調外交である。

「重層的」とは、軍事一本槍を捨てて、非軍事の分野、つまり外交、経済、さらに地球環境問題を含む多様な対外政策の展開を意図している。それを補強するのがブッシュ時代の単独行動主義に替わる多国間協調外交なのであろう。このこと自体は評価できるとしても、注意を要するのは、軍事的覇権主義を放棄するのかといえば、決してそうではないという点である。
 イラクからの米軍撤退は実施する一方、アフガンには米軍増派を決定しているし、また日本で進む米軍再編にしても、巨大な在日米軍基地網の一部再編ではあるが、決して米軍基地網の完全撤去ではないことを指摘しておきたい。
 アメリカが海外に軍事基地網を維持する限り、アメリカの軍事的覇権主義は機能し続ける。こういう認識が日本国内でもっと広がって欲しいが、現実はそうではない。沖縄をはじめ、米軍基地問題で日常的に苦しんでいる基地周辺の人々は別にして、米軍基地が及ぼす負の影響への認識は概して希薄ではないか。

 キーワードのうち最後の「世界1位と2位の経済大国による政策面での共同歩調」は主として麻生首相の主張だが、こういう感覚はいささか古すぎる。というのは「経済大国」という感覚が21世紀という時代に合わないからである。
 まず経済大国とは、いうまでもなく国内総生産(GDP)という物差しで測った一国の輸出、設備投資、消費などの量的大きさを示すにすぎない。それは石油浪費や大量の廃棄物排出を意味しており、地球環境を汚染・破壊する大国でもある。決してその国の生活の質的豊かさを示す指標ではない。
 つぎに世界1位の経済大国アメリカが何と先進国で最大の貧困国であり、2位の日本が2番目の貧困国であることを忘れてはならない。この貧困は相対的貧困率(中位の所得水準の半分以下にランクされる低所得者層の割合)を指しており、日米両国ともに今や貧困大国であり、経済大国などと自慢できる国柄ではない。

▽日米安保の金婚式(?)は歓迎できない

 それにしてもメディアの多くが日米同盟(=日米安保体制)への批判力を失っているのはどういうわけなのか。日米同盟を当然の現実として受け入れる雰囲気さえある。現役記者でいわゆる安保世代は皆無であることも一因だろう。生まれたときからテレビに囲まれていたように、多くの現役記者にとって安保は既定事実として存在していた。
 私(安原)自身は安保世代である。新聞社の地方支局から東京本社社会部に配属になったのが1960年春で、駆け出し記者でありながら、取材記者として日米安保(1960年6月新安保条約が国会で成立)反対闘争の渦に巻き込まれた。国会周辺での大規模な渦巻きデモ、夜空にこだまする「安保ハンターイ」の叫び声はいまなお脳裏から消えない。

もう一つ、私の想像だが、現役記者の多くは日米安保条約に目を通したことがないのではないか。安保世代でもなく、その上勉強不足が重なれば、批判力が育たないのは当然であろう。
 来年2010年には日米安保50周年を迎える。夫婦でいえば、お目出度い金婚式である。盛大なお祝いに相当するが、安保の金婚式(?)はとても歓迎できない。なぜなら日米安保体制は諸悪の根源といえるからである。なぜそういえるのか。以下、日米安保条約の条文に沿って考えてみたい。

▽軍事・経済同盟としての日米安保体制

 日米安保体制は、以下のように日米間の軍事同盟と経済同盟の2つの同盟の土台となっている。

*「軍事同盟」としての日米安保体制
 軍事同盟は日米安保条約3条「自衛力の維持発展」、5条「共同防衛」、6条「基地の許与」などから規定されている。
 特に3条の「自衛力の維持発展」を日本政府は忠実に守り、いまや米国に次いで世界有数の強力な軍事力を保有している。これが憲法9条の「戦力不保持」を骨抜きにしている元凶である。
 しかも1960年、旧安保から現在の新安保に改定された当初は対象区域が「極東」に限定されていたが、今では変質し、「世界の中の安保」となっている。その節目となったのが1996年の日米首脳会談(橋本龍太郎首相とクリントン大統領との会談)で合意した「日米安保共同宣言 ― 21世紀に向けての同盟」で、「地球規模の日米協力」をうたった。

 これは「安保の再定義」ともいわれ、解釈改憲と同様に条文は何一つ変更しないで、実質的な内容を大幅に変えていく手法である。この再定義が地球規模での「テロとの戦い」に日本が参加していく布石となった。小泉政権がブッシュ米大統領時代の米国の軍事的覇権主義にもとづくアフガニスタン、イラクへの攻撃に同調し、自衛隊を派兵したのも、この安保の再定義が背景にある。
 こうして軍事同盟としての安保体制は、「日米の軍事一体化」、すなわち沖縄をはじめとする広大な在日米軍基地網を足場に日本が対米協力していく巨大な軍事的暴力装置となっている。

*「経済同盟」としての日米安保体制
 安保条約2条(経済的協力の促進)は、「自由な諸制度を強化する」、「両国の国際経済政策における食い違いを除く」、「経済的協力を促進する」などを規定している。「自由な諸制度の強化」とは経済面での自由市場主義の実行を意味しており、また「両国の国際経済政策における食い違いを除く」は米国主導の政策実施にほかならない。

 だから経済同盟としての安保体制は、米国主導の新自由主義(金融・資本の自由化、郵政の民営化など市場原理主義の実施)による弱肉強食、つまり勝ち組、負け組に区分けする強者優先の原理がごり押しされ、自殺、貧困、格差、差別、人権無視、人間疎外の拡大などをもたらす米日共同の経済的暴力装置となっている。それを背景に日本列島上では殺人などの暴力が日常茶飯事となっている。小泉政権時代に特に顕著になり、その甚大な負の影響がいまなお尾を引いていることはいうまでもない。
 これが憲法13条の「個人の尊重、生命・自由・幸福追求の権利の尊重」、25条の「生存権、国の生存権保障義務」、27条の「労働の権利・義務」を空洞化させている元凶である。

 日米首脳会談の場に限らず、日本政府は機会あるごとに「日米同盟堅持」を強調するが、これは、以上のような特質をもつ軍事・経済同盟の堅持を意味する。
 重要なことは、最高法規である平和憲法体制と条約にすぎない日米安保体制が根本的に矛盾しているにもかかわらず日米安保が優先され、憲法の平和・生活理念が空洞化している現実である。つまり日本の国としてのありかたの土台、根本原理が歪められ、蝕まれているわけで、ここに日本の政治、経済、社会の腐朽、不正、偽装の根因がある。
 この矛盾、偽装からどう脱出するか。答えはただ一つ、従属的な日米安保条約を破棄して、真に平等互恵の日米平和友好条約(仮称)に切り替えていくことである。


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仏教は信仰の宗教ではない
〈折々のつぶやき〉49

安原和雄
 想うこと、感じたこと、ささやかに実践していること ― などを気の向くままに〈折々のつぶやき〉として記していきます。今回の〈つぶやき〉は49回目。題して「仏教は信仰の宗教ではない」です。(09年2月22日掲載、公共空間「ちきゅう座」に転載)

 仏教者の佐々木 閑・花園大学教授のコラム「日々是(これ)修行」(朝日新聞夕刊=東京版・毎週木曜日付)は興味深く読ませていただいている。教えられるところが多く、感謝している。

▽「信仰ではなく信頼する」― 「釈迦は普通の人間だ」

 「信仰ではなく信頼する」というタイトルのコラム(09年2月12日付)の要旨を以下に紹介する。「釈迦は普通の人間だ」という指摘はきわめて示唆に富んでいる。

 お釈迦様の教えは素晴らしいが、だからといって私は、釈迦を完全無欠な超人だとは思っていない。釈迦も我々と同じ人間。そのことは歴史的事実である。その釈迦の前でひたすらひれ伏し、その言葉や行いの、なにからなにまで、すべてを一切疑うことなく受け入れる、そういう生き方が正しいとは思えない。
 この私の考えに、反発する人も多い。「宗教は、教祖様の言葉を理屈抜きで丸ごと信じるものだ。それができないのは、信仰がない証拠だ」という批判である。仏教が「信仰によって成り立つ宗教」なら、この批判は正しい。

 しかしそもそも釈迦の仏教は、信仰で成り立つ宗教ではない。仏教でも「信じなさい」とは言うが、それは「釈迦の説いた道が、自分を向上させることに役立つ」という事実を「信頼せよ」という意味である。仏教の「信」とは、信仰ではなく、信頼なのだ。この違いは大きい。

 釈迦自身は普通の人間だ。ただ常人よりもすぐれた智慧があって、「超越者のいない世界で、生の苦しみに打ち勝つ道があること」を独力で見つけ出した。それを私たちに教えてくれた。だから私たちは、その道を信頼する。釈迦という人物を信仰して「助けてください」と祈るのではない。釈迦が説いた、その道を「信頼して」、自分で歩んでいくのである。だから釈迦が完璧(かんぺき)な絶対者でなくても少しも構わない。道を信頼する気持ちがあれば、それだけで仏教は成り立つのである。

〈コメント〉信頼の上に成り立つ仏教経済学
釈迦を完全無欠な超人だとは思っていない。釈迦自身は普通の人間だ ― とさらりと言ってのけるのは、仏教者では珍しい。仏教の開祖、釈迦は歴史的な実在の人物であり、「完全無欠ではない」はその通りであるが、ここまで言い切る仏教者にお目にかかったことはない。しかも佐々木教授はつぎのようにも指摘している。
 仏教は信仰で成り立つ宗教ではない。仏教の「信」とは、信仰ではなく、信頼なのだ ― と。

 常識を覆すようなこの指摘にはハッとさせられるところがある。多くの人は「宗教は信仰」だと、深く考えた上でのことがどうかは別にして思いこんでいるところがある。たしかに信仰と信頼とは大きな質的な違いがある。信仰にとどまっている限り、それは宗教ではあるが、科学的とはいえない。仏教が信仰の域を出ない限り、私(安原)が唱道している仏教経済学も成り立ちにくい。しかし信仰ではなく、信頼と考えれば、その上に社会科学としての仏教経済学が浮かび上がってくる。

▽「釈迦の遺言は二本立て」― 仏教は「自分で修行する宗教」 

 「釈迦の遺言は二本立て」というコラム(09年2月19日付)も「なるほど」と心底納得できるところがある。目の前の霧が晴れる思いもする。特に仏教の特色として「自分で修行する宗教」を強調しているところに注目したい。以下に骨子を紹介する。

 釈迦は遺言を残している。弟子が「お釈迦様、あなたが亡くなったら、私たちは何を拠(よ)り所にして生きていけばよいのですか」と尋ねたときに答えた言葉だ。「私が死んだ後の拠り所は二つある。一つはお前たち自身。そしてもう一つは私の教えである」と言った。
 「悟りへの道順は教えておくから、それを頼りに自分で進んでいきなさい」と釈迦は言い残したのである。だから仏教は「自分で修行する宗教」になった。拠り所を二つしか言わなかったことに意味があるのだ。
 それが一つでなく、二つあるということも重要だ。もし「自分自身を拠り所にせよ」とは言わず、「私の教えだけが唯一の拠り所だ」と言ったとすると、弟子たちは、釈迦の教えを金科玉条として崇拝し、「それさえ守ればよい」と考え始める。言葉だけが権威化していく。

 それに対して、「お前たち自身もまた、修行の拠り所なのだ」と言われると、安易に教えを伏し拝むだけではすまなくなる。教えを受け取る自分のあり方が問われるからだ。「立派な教え」と「たゆまぬ自己改良」、この両者が対になってはじめて釈迦の遺言は実を結ぶ。
 世にすぐれた教えや思想は多いが、それを知るだけでは意味がない。自分で考え、実践する気概があってはじめて価値が出る。それが釈迦の遺言に込められたメッセージである。

〈コメント〉釈迦がこの21世紀に現存していれば
 仏教とは何か、と改めて問いかけてみると、その答えは簡単ではないが、ここには明快な一つの解答が用意されている。「二本立ての遺言」がそれである。一つは釈迦の悟りへの教えであり、もう一つは弟子たち自身の修行、すなわち「たゆまぬ自己改良」である。私(安原)はむしろ後者の修行、「自己改良」の重要性に着目したい。釈迦の真意もそこにあったのではないか。

 教えの言葉にこだわると、時代の変化に取り残されて、教えが教条化し、陳腐化を免れない恐れがあるだろう。昨今の仏教にはそういうかび臭さがつきまとっていると言えば、誤解だろうか。時代と共に歩むためには、それこそたゆまぬ修行、自己改良が不可欠である。今、仮にこの21世紀に釈迦が現存していれば、どう考え、実践するだろうかという発想も必要ではないか。そこには信仰ではなく、信頼を基礎にして想像力、構想力を豊かにしていく営みが求められる。知識の集積にすぎない単なるもの知りであることを仏教は歓迎しない。仏教はすぐれた実践者であることを求める。それが仏教の特質である。釈迦は類い希な偉大な教育者でもある。


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風邪をひくのも悪くはない
〈折々のつぶやき〉48

安原和雄
 想うこと、感じたこと、ささやかに実践していること―などを気の向くままに〈折々のつぶやき〉として記していきます。今回の〈つぶやき〉は48回目。題して「風邪をひくのも悪くはない」です。(09年2月16日掲載、公共空間「ちきゅう座」に転載)

風邪がはやっている。通りにはマスク姿の人が目立つ。何年も風邪知らずできた私(安原)も風邪の爪にがっしり捕まれてしまった。熱は困るほどではないが、咳が止まらない。病院で薬を貰ったが、どうも効き目がない。だから人前に出にくい。遠慮している。

▽風邪のお陰で緊張感がなくなる

 さて弱ったなあ、と思っているとき、「風邪をひいても」というコラムを見つけた。風邪への心の対処法が紹介されているので、その大要を紹介する。(09年2月8日付毎日新聞「日曜くらぶ」掲載、心療内科医・海原純子さんのコラム「心のサプリ 一日一粒」から)

 Aさんは大事な試験の1週間前に風邪をひき、母親から「プレッシャーに弱いんだから」と言われ、自信をなくしてしまった。
 大事な仕事や試験やここぞと言うときに体調を崩すと、プレッシャーに弱いとか、緊張しすぎとか言われてしまう。だから体調の悪さに加え、「自分は精神的に弱い人間だ」と自信を失いやすい。

 体調万全で試験や試合に臨めるならそれが一番だが、風邪をひくのはそんなに悪いことだろうか。実は、私もついさきごろ風邪をひき、鼻水とのどの痛みがひどい時に大学研究班のミーティングで報告をしなければならなくなった。本来なら報告内容を一生懸命吟味するところなのだが、鼻水がひどく、話の間にくしゃみが出ないようにとかで、頭がいっぱい。お陰で緊張するひまもなかった。
 そう。風邪をひくといいこともある。力が抜けるのだ。余計な緊張がどこにもなくなる。緊張して力が入りすぎても実力は出せない。
 試験や大事な仕事の前に風邪をひいたら、自分は弱い、と落ち込まないでほしい。力が抜けていいんだ、ととらえてはいかがか。

▽「諸行無常」感にみるプラスとマイナスの変化

 風邪のひき方もいろいろだろうが、上のコラムを読むと、風邪との向き合い方もいろいろあることを感じる。人は負け惜しみというかも知れないが、以下のような受け止め方も確かにある。

〈その1〉:「禍を転じて福となす」
 故事に「禍を転じて福となす」(わざわいに襲われても、それを逆用して幸せになるように取り計らうこと)というが、この精神を生かせば「風邪をひいて残念、しまった」と悔やむ必要はさらさらない。むしろ「風邪と共に」と受け止めよう―という心の配り方にもなる。
 昨今の現実社会には風邪にも勝る悪病がはびこっている。これに正面から向き合うにはまさに「禍を転じて福となす」というそれなりの変革への心情が欠かせないだろう。風邪も同じといえるかもしれない。

〈その2〉:「諸行無常の響あり」
この「諸行無常(しょぎょうむじょう)の響(ひびき)あり」は、あの『平家物語』の冒頭の有名な書き出しの一句である。つぎのようにつづいている。
 盛者必衰(じょうしゃひっすい)の理(ことわり)をあらはす
 おごれる人も久しからず、ただ春の夜の夢のごとし
たけき者も遂にはほろびぬ、偏(ひとへ)に風の前の塵(ちり)に同じ

 ただこの一節には仏教で言うところの「諸行無常」感のマイナス面が強く出過ぎているという批評がある。「諸行無常」は「あらゆる存在、事物は変化していく」という意であり、変化にはくだいていえば、マイナスの変化とプラスの変化とがある。
 前者の変化は例えば健康な人が病気になることであり、後者は病人が健康に快復することである。風邪をひくことだけが諸行無常なのではない。風邪から快復するのも「諸行無常」という仏教的法則のお陰である。「諸行無常」感は常にこの両面をみる必要がある。つまり健康だからといって慢心しているわけにもいかないし、逆に病気になったからといって悲観する必要もない ― ということだろうか。


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高負担福祉国家がなぜ元気なのか
変革モデル、スウェーデンの秘密

安原和雄
 北欧の一つ、スウェーデンがいまテレビ、新聞でも話題の渦中にある。高負担高福祉の国として知られるが、高負担でありながらなぜ元気な国なのか、その秘密に関心が集まっている。あの新自由主義路線の破綻が明白になった日米では新自由主義路線のつぎの新しい路線をどう設定するかが最大の課題である。にもかかわらず、まだ明確な答えを見出せないまま暗中模索の域を出ていない。だからこそスウェーデンが有力な変革モデルの候補として浮かび上がってきている。米国の模倣に慣れすぎた日本は、ここらで「脱アメリカ」という発想の大転換が求められているのだ。(09年2月9日掲載、公共空間「ちきゅう座」、インターネット新聞「日刊ベリタ」に転載)

 高負担の福祉国家・スウェーデンが元気である、その秘密は何か。藤井 威氏(みずほコーポレート銀行顧問・元駐スウェーデン大使)とのインタビュー記事「高福祉・高負担 スウェーデンに学ぶ点」(毎日新聞・09年2月3日付夕刊=東京版=「特集ワイド」)と、もう一つ、同氏の論文「消費税引き上げ・高福祉がもたらすもの スウェーデン型社会という解答」(『中央公論』09年1月号)を手がかりに考える。

▽スウェーデンに学ぶ点(1)― 消費税25%が受け入れられている理由

 まず元駐スウェーデン大使とのインタビュー記事(聞き手は遠藤拓記者)の要点はつぎの通り。

問い:スウェーデンの消費税は現在25%という高率である。初めて導入したのは1960年で、その時の税率は4.2%。増税路線が成功した理由は?
答え:福祉サービスの権限と財源を国から地方に漸進的に移したこと。しかも地方のコミュニティーがちゃんと残っていて、市民がそのコミュニティーを大切にしようとする気持ちを持っていたこと。
 例えば介護の場合、要介護度で内容を縛られる日本よりも、水準ははるかに上で、費用も格安。生まれ育った町並みをのんびり散歩し、ビールを1杯飲むのも介護の対象になる。こうして市民に、満足なサービスを受けた「受益感覚」が生まれる。

〈安原のコメント〉満足できる「受益感覚」
満足なサービスを受けた「受益感覚」というのが日本ではなかなか得難いところだろう。しかも町並みをのんびり散歩し、その上、ビールを1杯飲むのも介護の対象だというのだから、人生の晩年を人間としてささやかではあるが、尊重されながら送っていることになる。これまた日本では縁遠い物語ではないか。

問い:税などの負担は収入の約4分の3にも上る。「税金が高すぎる」とは思わないのか?
答え:「高い」と思っている。でも「それだけのことはしてもらっている」、「富の再配分につながる」との意識もある。自信を持って言えるが、低所得者は喜んで税金を納める。納税すれば収入以上に高価であろう各種サービスを受けられるからだ。高額納税者も「高負担」には反対できない。彼らは年収が低かった時期にさんざん世話になっているから。

〈コメント〉喜んで納税できる日は来るか
 喜んで税金を納める、という感覚が日本にはない。「税金は取られる」のだから「できるだけ少なく」というのが多くの日本人の納税感覚である。これは政治不信が根底にあるからで、この不信感を日ごとに助長しているのが日本政治の現実である。例の「政官業」(政治、官僚、経済界の相互癒着)に巨額の果実が配分される。これを根本から是正しない限り、消費税上げを含む増税などは論外である。果たして日本で喜んで税金を納める日が将来期待できるだろうか。

問い:スウェーデンでの政治家や官僚に対する評価は?
答え:世界中で政治家や官僚を信用する国は、どこにもない。酒の席で本音を聞くと、政治家はつぎの選挙に勝つことしか考えない存在で、官僚は前例踏襲・事なかれ主義だと思っている。
 ただし、スウェーデンと日本の最大の違いは、「公共部門にやって貰いたいことは山ほどあるし、やらせなければならない。それが民主主義だ」と考えていること。スウェーデンでは政治家も官僚も仕事をやらなければ職を追われることがあり、必死に仕事をする。日本との差は大きい。日本の官僚はあまりにも質が悪い。

〈コメント〉スウェーデン型民主主義精神を
「なるほどこれが民主主義か」という感慨を覚える。スウェーデン型の民主主義精神をわれわれ日本人も本気で身につけるときが来た。日本では最近、市民運動が広がりつつあり、政治・経済・社会的要求を遠慮なく持ち出すようになってはいるが、政治家や官僚の「国民への奉仕」という感覚はまだ低い。政治家や官僚への要求として「やらせなければならない」という感覚が重要である。与えられるのを待っていては、「日暮れてなお道遠し」の感が深い。「日本の官僚は質が悪い」という発言は経済官僚出身者(旧大蔵省出身)として率直である。民主主義と霞が関改革とは車の両輪といえよう。

▽スウェーデンに学ぶ点(2)― 人間中心の地域再生を

問い:税金に対する納税者の負担感は低くないはずなのに、福祉が充実しているとは言い難い日本は、スウェーデンから何を学べばよいのか?
答え:まず人間中心の地域再生を考えること。車中心ではなく、じいちゃんも赤ちゃんも安心して歩ける町をつくること。すると、失われたコミュニティーも再生できる。コミュニティーへの帰属意識は、公共部門に対する市民の健全な評価につながる。
 つぎは次世代のことをもっと考えること。財政赤字の先送りは責任逃れでしかない。
 最後は中期的な成長率を維持すること。次の世代にじいさんばかり多く、子どもが少ない、よどんだ社会を残したくないのではないか。
 今の世代が責任を持ってこれらを進めようとしたら、答えは一つ、増税しかない。

〈コメント〉「中期的な成長率の維持」は疑問
 人間中心の地域再生には大賛成である。車中心の社会がコミュニティー(地域)を壊したことは今さら指摘するまでもないからである。日本では日常生活の基盤であるコミュニティをどう再生させるかという感覚がグローバリズムの陰に隠れて弱すぎる。
 一方、財政再建も重要である。といって「増税しかない」と考えるのは、一面的ではないか。増税すれば、高速道路、ダムなど惰性でつづいている財政資金の浪費が止むことはないだろう。どうするか。毎年の社会保障費削減を中止して、中・高福祉ビジョンを提示し、その財源は現在の財政・税制の根本的な組み替えで対応することから出直す必要がある。

 指摘されている「中期的な成長率の維持」の含意が今ひとつ不明だが、プラスの経済成長維持を意味しているのであれば、疑問である。「経済成長主義よ、さようなら」という主張は今では世界的には決して珍しいわけではない。最新の米国ワールドウオッチ研究所編『地球白書二〇〇八~〇九』はつぎのように指摘している。

 時代遅れの教義は「成長が経済の主目標でなくてはならない」ということである。経済成長は自然資本(森林、大気、地下水、淡水、水産資源など自然資源のこと。人工資本=工場、機械、金融などの対概念として使われる)に対する明らかな脅威であるにもかかわらず、依然として基本的な現実的命題である。それは急増する人口と消費主導型の経済が、成長を不可欠なものと考えさせてきたからである。しかし成長(経済の拡大)は必ずしも発展(経済の改善)と一致しない。1900年から2000年までに一人当たりの世界総生産はほぼ五倍に拡大したが、それは人類史上最悪の環境劣化を引き起こし、(中略)大量の貧困を伴った ― と。

 特に「成長(経済の拡大)は発展(経済の改善)とは一致しない」という認識に学ぶ必要がある。今の日本に必要なのは生活の質的改善を意味する発展である。あの新自由主義路線は成長重視だったが、発展を無視した。そこに災厄の背景があった。

▽高負担で元気な4つの秘密

 上記のインタビュー記事を補足する意味で、日本とスウェーデンの税社会保険料の国民負担、教育費公的負担、社会保障給付費(国内総生産=GDP比)を比較してみよう。(論文「消費税引き上げ・高福祉がもたらすもの スウェーデン型社会という解答」『中央公論』09年1月号参照)
 
税社会保険料負担 26.4/50.4
教育費公的負担・・・ 3.4/ 6.2
社会保障給付費・・ 18.6/31.9
(内訳)
医療・・・・・・・・・・・・ 6.2/ 7.1
年金・・・・・・・・・・・・ 9.2/10.4
その他・・・・・・・・・・・ 3.3/14.4
(単位:%、GDP比。数字は左側が日本、右側がスウェーデン)

 スウェーデンは日本に比べ負担も高いが、社会保障給付費や教育費公的負担も高い。たしかに高負担高福祉となっている。特に高負担でありながらスウェーデンはなぜ元気なのか、その秘密としてつぎの4点を挙げることができる。
①産業構造・雇用構造の弾力的変動
②家庭からの女性の解放政策の推進に伴う出生率の上昇
③福祉国家特有の高度の所得再配分機能による、市場経済下の格差拡大の是正
④全国にわたり一定の福祉水準を確保するという福祉国家としての当然の政策に伴い、国と地方あるいは都市と農村などの経済力格差拡大の是正

▽新自由主義路線とは異質な路線の成果

 以下、それぞれについて日本とどう異なるかを紹介する。
①産業構造・雇用構造の弾力的変動
 上記の社会保障給付費のうちの「その他」は介護や児童保育などの福祉サービス、職業訓練などの再チャレンジ関係の支出が主なもので、日本に比べ4倍以上の手厚さとなっている。このことが雇用構造に大変化をもたらした。
 高福祉国家への転換政策が始まった直後の1965年と2000年を比較すると、製造業と農林水産業の就業者比率は大幅低下(製造業30%から19%へ、農林水産業12%から2%へ)し、一方、公共部門が倍増以上(15%から32%へ)の伸びを見せている。民間サービス業も若干の増加(43%から47%へ)となっている。
 就業者実数をみると、民間就業者は30万人減少したのに対し、公共部門は70万人増加し、差し引き40万人の雇用増となった。公共部門での就業者増はコミューン(市町村)での増大によるもので、この分野のほとんどは教師、介護士、保育士たちで、コミューン就業者の4分の3は女性である。
 (なお参考までにいえばスウェーデンの総人口は約900万人にすぎない)

②家庭からの女性の解放政策と出生率の上昇
 夫婦が就業と子育てを両立させうる環境づくりに政府は積極的に取り組んでいる。そのための公的資金の投入を惜しまない。具体的には育児コストを一部補填する家族手当(総額はGDP比0.85%)、就業と育児を両立させるための保育・就学前教育(そのコストの95%の公的負担、総額はGDP比1.74%)、出産・育児休業給付(従前所得の80%の公的負担、総額はGDP比0.66%)で、安心して子どもを産める環境となっている。この結果、出生率は1.8を超える水準にまで回復している。わが国の1.3程度の出生率とは質的な差がある。

③福祉国家の所得格差の是正効果
 公的介入による所得配分の公平度はどうか。所得格差が公的介入によってどう改善されるか、その改善幅は日米欧の主要国の中でスウェーデンが最大で、日本が最小である。OECD(経済協力開発機構)調査によると、公的介入後の公平度はスウェーデンなど北欧諸国がトップクラスに入っている。
 福祉国家における不公平度是正の高さは、平均以下の所得層にとって受益と負担の差が大きくプラスになることを意味しており、これが高福祉高負担を推進した社民党政権が長期安定政権として市民の支持を得た理由である。

④福祉国家の地域格差是正効果
 年金、医療、介護、児童保育などの福祉システム、教育などに地域格差があってはならない。これは国民に高い負担を課す以上当然のことであろう。そのため地方の小集落であっても、最低限の医療、介護、保育、教育の提供システムが作り出され、これを担う人材が家族を伴うことから、地方からの人材流失も結果として阻止される。ノーマルな人口構成が維持され、小規模の生産施設も生き延びる。
 わが日本にみられるような65歳以上の人口が過半を占めるような限界集落の出現は阻止できる。わが国の見果てぬ夢であった国土の均衡ある発展がスウェーデンではごく自然に達成されたのである。(以上は『中央公論』09年1月号から)

〈コメント〉新自由主義路線との明確な決別を
 元気な4つの秘密の共通項は、米日両国に顕著だった、あの新自由主義路線とは異質の路線を追求してきたその成果だということである。公共部門での雇用の増加、夫婦にとって就業と子育てを両立できる環境づくり、所得格差の是正、さらに地域格差の是正、これらのどれをみても猛威を振るってきたあの自由主義路線とは180度異なっている。

 企業の私利追求を第一とし、そのためには詐欺的行為も横行し、一方に一握りの富者つまり勝者、他方に大多数の貧困者つまり敗者に差別し、相対的貧困率(中位の所得水準の半分以下にランクされる低所得者層の割合を指す)をみると、米国最大、そのつぎが日本という不名誉な結果を招いた。米日は世界で1位と2位の経済大国でありながら、同時に1位と2位の貧困大国ともなっている。
 その上、社会保障分野に悲惨な現実を広げた。これでは福祉の名に値する面影はみえてこない。これをどう打開するか。なにはともあれまずは新自由主義路線との明確な決別宣言が必要不可欠であろう。それが再出発の前提である。ごまかし、偽装はもう沢山である。


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定額給付金反対者は寄付を!
「拒否」して貰うのは筋違い

安原和雄
あの定額給付金問題はもみにもんだ末、国会で通った。支給は3月以降になるらしい。世論調査によると、7割の人が反対していると伝えられる。私は反対論者ではないので、少数意見に属することになるが、反対の多くの国民に肝心なところで錯覚があるのではないかという印象が消えない。
 賛否はもちろん自由だが、反対者は給付金を「拒否」しているわけだから、今さら受け取るわけにもいかないのではないか。「もったいない」精神を発揮して、恵まれない人や施設に寄付したらいかがだろうか。それにも反対ならば、主張に一貫性がなくなり、筋が通らないだろう。(09年2月2日掲載、公共空間「ちきゅう座」、インターネット新聞「日刊ベリタ」に転載)

▽給付金反対論への疑問 ― 財政・税制の根本的組み替えを

 私はこの定額給付金について「遠慮せずにいただきましょう」という視点から昨08年12月、以下のような趣旨を書いた。その要旨を再掲する。(ブログ「安原和雄の仏教経済塾」に掲載の08年12月17日付記事「定額給付金だけがバラマキなのか 財政、税制を根本から組み替えよ」参照)

 総額2兆円の定額給付金はバラマキであり、有効な政策ではないから容認できないというバラマキ返上論はいくつかのタイプに分けられる。

(1)景気対策優先説
 国庫に2兆円もの余裕があるなら、景気対策に真剣に取り組んで貰いたい。首相は1人当たり1万2000円から2万円の給付金で景気が上向くとでも思っているのか。
〈安原のコメント〉― ささやかなゆとりと幸せを求めて
「景気が上向くとはいえない」は、その通りである。しかし給付金をどう使うかは国民の自由であり、景気回復を目標に掲げて我々は日常生活を送っているのではない。多くの庶民はささやかなゆとりと幸せを求めて生活を営んでいるにすぎない。
 少しでも生活費の足しになれば、それで十分ではないか。それ以上のことを大げさに期待するその感覚の方がおかしい。

(2)選挙向けの買収行為説
 「定額給付金は選挙に向けての買収行為だ」という不評が聞こえてくる。選挙が近づくと、今回の給付金のような人気取りとしか思えない予算措置がどんどん出てくる。
〈コメント〉― 麻生首相への義理立ては無用
 麻生政権側は内心では「選挙向けの買収行為」のつもりかもしれないが、麻生首相のポケットマネーを恵んで貰うわけではない。近い将来の総選挙では現政権を担う面々に1票を投じる義理はない。交付金は、国民が納めた税金のほんの一部の「スズメの涙」が戻ってくるにすぎない。「何の遠慮がいるものか」であろう。

(3)消費税引き上げ誘導説
 定額給付金を一時的に支給されても、その引き換えに消費税率を引き上げるというのでは結局、低所得者、年金所得者、中小企業経営者らをますます苦しめることになる。消費税率の引き上げを止めて欲しい。
〈コメント〉― 消費税上げを撤回させるには
こういう疑問は少なくない。だから消費税率引き上げに「待った」を掛けるのは正しい。ただし1回限りの2兆円交付金を止めたからといって、それだけで消費税率引き上げの撤回を期待するのは甘すぎる。お人好しともいえよう。
 麻生首相は「3年後の消費税引き上げの姿勢は変わらない」旨を明らかにしている。消費税引き上げを阻み、ひいては将来引き下げるには財政・税制の根本的な組み替えが不可欠である。

(4)2兆円の有効活用説
 2兆円の使い道としては、本当に「国民の生活不安」に応える政策を検討してもらいたい。「健康で文化的な最低限度の生活を営む権利」(憲法25条・生存権)が保障されるよう真剣に考えてもらいたい。
〈コメント〉― 生存権保障のためには発想の大転換を
 憲法25条は、国民の生存権と同時に、その生存権を保障する義務が国にあることを定めている。ところが国はその義務の怠り、生存権の保障とはほど遠い寒々とした現実が日本列島上に広がっている。だから2兆円の有効活用説は一見もっともにみえるが、なぜ交付金2兆円にこだわるのか。2兆円程度の資金で国民の生存権が保障できると考えるのはお人好しだろう。

 ここは2兆円執着説から発想を大転換させようではないか。それは国の一般会計予算(09年度は総額88兆円台で過去最大、うち政策経費を示す一般歳出も52兆円と初めて50兆円の大台を突破)の根本的な組み替えである。
 財政・税制組み替えのいくつかの事例を挙げると―。
*防衛費(年間約5兆円)、公共事業費(高速道路・ダムなど)の大幅な支出削減
*大企業や資産家への優遇税制の廃止・見直し、環境税の導入
*「早くあの世へ往け」と言わんばかりの後期高齢者制度を廃止するなど年金、医療、生活保護など社会保障制度の充実

▽反対者に提案する ― 寄付などに回してはどうか

 以上のような総額2兆円の定額給付金問題に関する私(安原)の見解は、今も変わらない。正論だと思っている。ところがこれが少数意見だというのだから、私は不思議な感覚に襲われている。突然、多くの日本人がお人好しになったのではないか、肝心なところで錯覚が生じているのではないかという印象さえある。
 世論調査によると、定額給付金を「評価しない」が7割を超えているとも伝えられる。この数字を前提にすると、7割の人が「給付金を貰わない」という意思表示をしたも同然である。いうまでもないが、言論・思想の自由は憲法で保障されている。「貰わない」という拒否の意思表示に反対する理由はない。私はむしろ尊重したい。尊重するからこそ以下の提案をしたい。

いったん受け取った給付金を国庫に返上する理由はない。ここは「もったいない」精神を生かして寄付することをすすめたい。恵まれない人や施設など寄付先は多様であるだろう。これが折角の給付金の有効活用というものではないか。7割の人が寄付すると、概算で2兆円の7割で1兆4000億円にものぼる。寄付先にも歓迎されるのではないか。毎日新聞(1月31日付)によると、寄付を募っている地方自治体(東京都多摩市、大阪府箕面市)もある。 
 給付金は通常の政策とは異質である。「貰わない」という意思表示をした以上は、あくまでもその主張を貫いて欲しい。それが己の考えや主張に責任を持つということではないか。給付が決まったのだから、受け取るというのでは筋が通らない。「嘘つき」「無責任」という批判を招くかもしれない。

▽大手紙社説は説明責任を果たせ

 特にメディア関係者に注文したい。なかでも大手紙社説で給付金に反対の論陣を張った新聞は一社に限らない。その新聞社説は無署名であり、個人としてではなく、論説委員会の共同責任で書かれた社説と理解できる。だから反対論を掲げた新聞の論説委員全員は当然のことながら、自分に対する給付金を寄付などの形で有効活用すべきであると考えるがどうか。寄付などして、言行一致の範を示して欲しい。そうすれば、社説への評価は一段と高まるに違いない。
 しかもどういう形で有効活用するかを社説で公開して、例の「説明責任」を果たして欲しい。そういう前例のない新しいスタイルの社説もあっていいのではないか。今や「チェンジ(変革)」の時代である。間違いなく注目されるだろう。

 さて一介のささやかな年金生活者にすぎない私(安原)自身はどうするか。反対論者ではないので、遠慮なくいただく。何に使うか、そこが問題である。
 私は景気回復、消費増大に貢献しようという感覚には無縁である。景気回復、消費増大は個人の消費行為の結果にすぎない。それを目的にして生活をしている人がどこにいるだろうか。経済のために人間があるのではない。逆に人間のために経済がある。人間が主役であり、経済は手段にすぎないことを再認識したい。

 だから使い途は自主的に決める。それが個人として責任ある生き方だと心得ている。税金の支払いに充てるかもしれない。あるいは久し振りに日本の銘酒を味わってみるのもまた一興かと思案している。できることならその時に「説明責任」を果たしてくれるであろう新聞社説を朱筆で採点しながら、ひとときを過ごしたい。その日が来るのを楽しみにしている。


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