「もっともっと欲しい」の貪欲の経済から、「足るを知る」知足の経済へ。さらにいのちを尊重する「持続の経済」へ。日本は幸せをとりもどすことができるでしょうか、考え、提言し、みなさんと語り合いたいと思います。(京都・龍安寺の石庭)
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今日はお寺で6時間過ごそう
原子力発電と仏教をテーマに

安原和雄
 「今日はお寺で6時間!」というタイトルの一風変わったビラが手に入った。イベントの主催は「お寺で6時間!実行委員会」とある。プログラムには原子力発電にかかわる映画と仏教講話が盛り込まれており、「原子力発電と仏教を考えよう!」がテーマとなっている。
 原発と仏教がどうつながるのか、興味を抱いて、早速出掛けてみた。時は2008年1月19日(土)午後1時から6時間、場所は青松寺(せいしょうじ・東京都港区)で、目指すこの寺は東京タワーがそびえ立つ、その麓のビル群の谷間に広い庭を構えている。会場の観音聖堂に人の群れが入り込み、あっという間に定員の約200名を超えて、はみ出す人もかなり出た。以下は私の参加印象記としたい。(08年1月25日掲載、同月26日インターネット新聞「日刊ベリタ」に転載)

▽「足るを知る。こだわりのない自由な心で・・・」

 ビラには以下のように綴ってある。私は「足るを知る。こだわりのない自由な心で」つまり貪欲という際限のない欲望を排す、という趣旨と受け止めた。

知る・感じる・ただ坐るetc. with映画「六ケ所村ラプソディー」

お寺は癒しの場だけじゃない。
禅僧たちの毎日がそうであるように、
大切な気づきの場なんだ。
話題のドキュメンタリー映画を見て考えよう。
今生きていることや、自分にとって大切なこと。
身体をほぐすための時間もあるよ。
6時間たっぷり、身も心も、深呼吸。
お寺に行くのが初詣だけなんてもったいない。

 なるほど、たしかに「もったいない」 ― 読んでみて、こういう発想、アイデアもあるのか、と感心した。ビラの呼びかけ文をもう少し紹介しよう。

足るを知る。
こだわりのない自由な心で知るべきことを知る。
誰かの言い分をうのみにせずに、いろんな情報を知る。
これからの先のいのちのために。

心休まる観音聖堂で過ごす一日。
映画上映、仏教系ヨガ&坐禅教室、トークセッション&ライブ、お寺かふぇ&しょっぷなど盛りだくさん!
美味しい精進スイーツ、玄米おむすびなどの軽食や、身体が温まるお茶などで、ほっとひと息タイムもご自由に。

 プログラムがまた多彩である。
 まず映画「六ケ所村ラプソディー」の上映、その後にヨガ、原子力講座、さらに曹洞宗住職を加えたトークセッション&ライブ、坐禅講座など―と。どうやら中心テーマは「原子力発電と仏教」らしい。

 さて私は会場の観音聖堂に入る前にイベントの詳しい小冊子をもらい、玄米おむすびをいただき、腹ごしらえをして6時間という長丁場に備えた。

▽映画が語りかけるもの ― 「光と影を見て自分で考え、選択する」

  映画「六ヶ所村ラプソディー」は何を語りかけようとしているのか。監督・鎌仲ひとみさんは、小冊子の中でつぎのように書いている。なお六ケ所村は青森県下北半島の付け根にあり、人口1万2千人である。

くらしの根っこ、そこに核がある(見出し)

 原子力発電所で電気を作っていることは誰でも知っている。原発に反対する人々と容認・推進する人々がいる。普通の人が原発について考えようとすると、両極端の情報が混在し、多くの人々は良く分からない。仕方ない、自分には関係ないと思っている。
 この映画は日本の原子力産業の要、使用済み核燃料再処理工場(注・安原)がある六ケ所村に生きる村人を取材している。六ケ所村に生きることは核と共に生きることを意味している。けっして他人事ではない。日本に55基の原発があり、総電力の3分の1をまかなっている。私たちの暮らしに電気は欠かせない。そう、日本人1億2千万人、全員が核技術による電気の恩恵にあずかっている。それは私たちにいったいどんな意味を持っているのだろう?

 賛成、反対を超えてその内実や意味を見つめてみようとこの映画を作った。
六ヶ所村の再処理工場は世界で最も新しいプルトニウム製造工場となる。ここが稼働すれば日本は新たな原子力時代に入ってゆく。
 どんな素晴らしい科学技術にも光と影がある。その両方をみて初めて私たちは自分で考え、選択することができる。(中略)映画には賛成・反対、双方の村人が出て、語ってくれる。原子力、それは一方では未来の可能性であり、また一方では命を脅かす存在として捉えられている。六ヶ所村の人々はそれぞれ、自分自身の選択を生きている。そんな人々の暮らしや日常から私たちの未来が立ち上がってくる。

(注)六ヶ所村再処理工場は日本原燃を事業主体に、電力業界などが約2兆2千億円をかけてつくった。初の大規模な商業用再処理工場で、今(08)年2月中に試運転を終え、3月に本格操業に入る予定である。再処理工場は一度使った使用済みの核燃料を再処理してプルトニウムを取り出す工場で、フル稼働すれば年間800トンの使用済み燃料を処理して約5トンのプルトニウムを取り出せる。(朝日新聞・08年1月18日付)
 なおプルトニウムはウランからつくる人工放射性元素。容易に核分裂するので原子爆弾、水素爆弾にも利用できる。半減期は約2万4000年。毒性はきわめて強い。


 毎日新聞(08年1月23日付・東京版)に「低レベル埋設施設 住民側控訴を棄却 六ヶ所村訴訟」という見出しの記事が載っているので以下に紹介する。

 日本原燃が操業する青森県六ヶ所村の低レベル放射性廃棄物埋設施設をめぐり、住民らでつくる「核燃サイクル阻止1万人訴訟原告団」が国を相手に事業許可取り消しを求めた訴訟で、仙台高裁は22日、1審・青森地裁判決(06年9月)を支持、原告側控訴を棄却した。
 放射能による地下水汚染の可能性や施設の耐震性などが主な争点となった。高裁は「都合の悪い地質調査データを隠ぺいした」と原告側主張を認め、原燃に詳しい調査結果を提出させたが、裁判長は国の安全審査について「誤りがあるとは認められない」と判断した。原告側は「上告を検討したい」としている。

▽「仕方がない」が悪事をはびこらせる

 映画の中で印象に残った地元の人の言葉が二つある。

一つはつぎの言葉である。
 県民の中には国策だから推進するという人もいる。私にはお金が貰えるから受け入れている、に聞こえる。安全だと言っているから賛成だという人もいる。私には安全なんだと自分に言い聞かせているように見える。
なんで私が中立から心配派に変わったかというと、ある先生が、中立というのは、いい言葉なんだけど、核燃に関しては賛成か反対しかない。中立っていうことは賛成なんだよ、って。だって反対を言わないし、行動もしない。原燃がやってることをただ見てるだけだ。見てるってことは容認してる。賛成派なんだよ、って。
(中立は)楽だよね、だって賛成していないと思っているから、自分で自分を。中立の怖さみたいなのを誰も、考えないの、深くね。

もう一つ、紹介しよう。
 こういう風に(工場が)できてからなんだかんだ言ったって、どうもならないしょ。本当は青森に来てほしくないの。でも私たちがなにやかや言っても、まあ仕方ないんだけど。

 以上の「中立」という立場、「仕方がない」という心の動き ― は、多くの日本人の体質なのだろうか。当初、盛り上がった反対運動も、再処理工場建設を推進する権力側のごり押し、そしてカネの威力でつぶされていった。
 「(中立は)楽だ。賛成していないと思っているから」が印象に残る。「中立」は結局、事実上賛成に回ってしまったことになる。
 「仕方がない」は「長い物には巻かれろ」(権力者とは争わないで従った方が得策という意)と重なり合っている。

 あのアジア・太平洋戦争(1931~45年)のとき、「仕方がない」を繰り返しているうちに開戦となり、敗戦を迎え、日本人だけでなんと300万人(軍人のほか、米軍の空襲による一般民間人の死者も含めて)を超える犠牲者を出した。これはまだそう遠い過去の歴史ではないことを想起したい。仕方がない、というあきらめに近い思いが悪事をはびこらせる。日本語から「仕方がない」を追放できれば、この現世をかなり変革できるような気がしている。

▽ 曹洞宗住職の仏教講話 ― 「自他一如」と「少欲知足」

 映画上映後のトークは監督の鎌仲ひとみさんと曹洞宗住職の佐藤達全(育英短期大学教授)さんらとの間で行われた。ここでは以下に住職の「環境破壊と仏教 一人だけの幸せはありません」と題した講話の一部(要旨)を紹介しよう。そのキーワードは「自他一如」(じたいちにょ)と「少欲知足」(しょうよくちそく)である。

 私たちの「豊か」な生活は、地球の犠牲(環境破壊)のうえに築かれている。ものごとを役に立つかどうかだけで取捨選択するのは、大きな間違いである。それは、ものの一面しか見ていないからで、どのようなものにも、必ず相反する二つの面がある。(中略)役に立つものばかりを追い求めていると、いつのまにかすべてを失ってしまうのではないか。

 地球という閉鎖された世界では加害者も被害者になる。地球の反対側で発生した汚染も、やがては自分のところに影響してくるから、「私だけは安全」という保証はない。このまま進むと、とりかえしのつかないことになるのではないかと、多くの人びとが気づきはじめた。なかなかよい考えが浮かばないが、この袋小路から抜け出すヒントは何か。
 仏教に「自他一如」という教えがある。これは自分と他人とは別のものとして対立しているのではないという意味である。
 みんなが幸せになるためには、自分以外のあらゆる人やものを大事にしなくてはならない。それは大量生産・大量消費による使い捨てをやめることである。

 ものを大切にすることは水や空気が循環している地球の姿にかなった生き方で、それを仏教では「少欲知足」と教えている。人間の欲望は、満たされるとさらに大きくなるから、おさえることが必要である。大量生産・大量消費こそが幸せにつながるという発想を転換し、リサイクルを生活の基本にしなくてはならない。
 私たちが際限なく豊かさを追い求めると、森も川もきれいな空気もなくなってしまう。人や動物や植物を、すべて大切にすることが、地球というかぎりある世界で生きる正しい方法なのである。それこそが仏教で理想と考える彼岸の世界へつづく道といえるのではないか。

▽ 女性たちの手作り、イベント「原発と仏教―いのちを軸に」

 イベントの場所がお寺であったせいか、講話のキーワード、「自他一如」、「少欲知足」という仏教語が違和感を感じさせることはなかった。多くの参加者も同じ印象だったのではないだろうか。
 この二つのキーワードはまさに今日の地球環境時代のそれである。欲望をほしいままに行動すれば、地球環境の汚染・破壊によって地球上の生きとし生けるものすべてのいのちが損なわれる。逆にいのちを尊重するためには「自他一如」と「少欲知足」の社会的実践が求められる。
 「仏教は、非社会的な宗教」という認識は仏教界には意外に根強い。しかし仏教を「自分だけの宝物」として囲い込み、社会的実践を拒む狭い心根はいかがなものか。偉大な教え、思想は時代とともに発展し、時代が投げかける課題に正面から応えるものでなければ、存在価値はないだろう。仏教も例外ではない。その意味では佐藤住職の講話は、仏教の社会的実践のよき見本である。

 一方、映画「六ケ所村ラプソディー」の監督、鎌仲さんが「くらしの根っこ、そこに核がある」という一文で書いているように「原子力、それは一方では命を脅かす存在」である。そうだとすれば、いのちを大切に育むためには「原発推進」に待った!を大声で掛ける必要があるだろう。
 こう考えると、仏教も原発もともに「いのち」に深くかかわっている。一見縁遠いものに見えるが、実は「いのち」を軸に深くつながっているといえる。

特筆すべきことは、今回のイベントを盛り上げる役割を演じたのが若い女性たちであったことである。実行委員会の面々もほぼすべて女性であった。参加者たちも若い女性が圧倒的に多かった。
 私は数年前に慶応大学で「地球環境時代と仏教経済学」というテーマで講話をする機会があった。そのときの聴講生もやはり女子学生が多かった。しかも感想文に「仏教経済学の話は初めて聞いたが、これからの時代に合っているように思う」という趣旨の女子学生の声がいくつもあったように記憶している。

 男性優位の時代は終わりを告げて、女性がリードしてゆく時代が始まりつつあるのではないか、― 若い女性たちがお寺を一時的にせよ、占拠(?)状態にした手作りの「お寺で6時間」から得た印象であり、収穫である。


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危険な「遺伝子組み換え」作物
遅れる最大輸入国日本の対抗策

安原和雄
人間、自然環境にとって危険な要素を含む遺伝子組み換え(GM)による作物/食品が広がりつつある。米国でGM技術は開発されてからまだ歴史が浅く、GM作物/食品を今後長期摂取した場合、どういう悪影響に見舞われるのか、未知の分野が多すぎる。
 しかし自然の摂理に反するこのGMが不自然であることは自明であり、「日本は今、遺伝子汚染の瀬戸際」に立たされているという傾聴すべき警告も聞こえてくる。特に欧州は有効な対抗策を打ち出しつつあるが、最大の輸入国日本はかなり遅れを取っている。以下はGMに関する現況報告である。(08年1月21日掲載、同月22日インターネット新聞「日刊ベリタ」に転載)

 NPO法人循環型社会研究会(山口民雄 代表・所在地=東京都中央区京橋)主催のセミナー「食の未来ー決めるのはあなた」が1月17日開かれ、ドキュメンタリー映画「食の未来」(米国のデボラ・ガルシア監督製作)の上映後、安田節子さん(「食政策センター ビジョン21」主宰人・NPO法人「日本有機農業研究会」理事)による解説講演があった。
 私(安原)はこのセミナーに参加し、映画、安田さんの解説講演、さらに映画の解説テキスト「『食の未来』と日本の現状ー遺伝子組み換えで広がる緑の砂漠」も手がかりにしてGM(注)に関する現況報告を以下にまとめた。

(注)遺伝子組み換え(GM=Genetically Modified)とは
 すべての生物種は、異種DNA(遺伝子の本体)から身を守る壁を何百万年もかけて精巧に作り上げてきた。遺伝子組み換え技術は、細菌や動植物に別の遺伝子を組み込むためにその種の壁を打ち破る技術。この技術は食物へ化学物質を注入するのではなく、細胞の中に他の生物の遺伝子を入れて、これまでにない「成分」を作り出すことを可能にしたわけで、細胞を侵略する技術ともいえる。
 例えばヒラメの遺伝子をトマトに組み込み、低温に強いGMトマトを作ろうとする場合、その唯一の手段は、ヒラメの遺伝子をトマトの細胞に注入することで、細胞への侵入のために細菌とウィルスが使われる。

▽遺伝子組み換え(GM)作物の悪影響は?

 まずGM作物の主要栽培国の栽培総面積は9,000万(単位ヘクタール、2005年)。うち国別は米国が4,980万(55%)で断然トップの地位にあり、次いでアルゼンチン1,710万(19%)、ブラジル940万(10%)、カナダ580万(6%)、中国330万(4%)とつづき、この5カ国で全体の94%を占める。

 一方、日本は目下、最大の輸入国で、日本で認可・流通しているGM作物は7作物86種に及んでいる。その主なものは以下の通り。かっこ内は種。
トウモロコシ(34)、ワタ(18)、菜種(15)、ジャガイモ(8)、大豆(5)、てんさい(3)など(07年11月12日現在)

 さてGM作物にはどういう悪影響があるのか? 多様な悪影響が世界各地から報告されている。
 例えば米国では飼料用のみが認可され、食用では認可されていないGMトウモロコシ「スターリンク」が食品に混じり、これを食べて異常を訴え、アレルギーが疑われた人たちが出た。日本に輸入された飼料や食品からも「スターリンク」は検出されている。このように飼料用が食用に混入するのが避けられない実態がある点に危険性がひそんでいる。
 これは一例にすぎないが、GM作物/食品を作る技術の歴史も浅く、これを今後長期摂取した場合、どういう影響が出るかは未知の世界として残されたままである。

 以下、すでに判明している悪影響の具体例のうちごく一部を紹介する。
*健康への影響
・動物実験で栄養価の不足・変化、免疫力の低下、内臓障害(英国)
・被験者による実験で人の腸内細菌に食べたGM大豆由来の遺伝子が転移(英国)
・GMトウモロコシで鶏の成長にばらつきが生じ、死亡率が2倍に(カナダ)
*農業への影響
・殺虫コーンを餌にした豚の不妊、受胎率80%低下(米国)
・従来品種よりGM大豆の方が大きかった干ばつの被害(ブラジル)
・高価格種子、収量の低下、国際市場の価格低下で自殺農家が続出(インド)
*環境への影響
・チョウの幼虫を殺す(米国)
・野生原種トウモロコシが組み換え遺伝子で汚染(メキシコ)
・輸入されたGM種子(大豆、トウモロコシ、菜種など)が荷揚げ港埠頭、輸送道路、製油工場、飼料工場などでこぼれて、種子が発芽し、花をつけて自生している(日本)

 日本での自生がこれまで確認された地域は、茨城、千葉、神奈川、静岡、愛知、三重、兵庫、岡山、福岡の各県。花粉を飛ばし、農作物と交雑(遺伝子組成の異なる二個体間の交配)すると、普通の種子がGM種子となってしまう恐れがある。全国で自生菜種の調査が行われ、すでにGM菜種が見つかっている。日本国内でのGM汚染は広がり始めているわけで、さらに広がるのを容認するか、防ぎ止めるか、その瀬戸際に立たされている。防ぎ止めるにはGM種子の輸入中止以外の対策は考えられない。

▽GM食品の表示―米、日、欧はどう対応しているか

 GM食品の表示があれば、消費者は選択できるし、健康被害の原因を追跡することも可能であり、さらに企業責任を追及できる。だからGM作物を含むものはすべて表示されるべきであるが、米、日、欧の現状はどうか。

*米国=GM技術を最初に開発し、普及させてきた米国の世論調査では80~90%のアメリカ人がGM表示を望んでいるが、業界側の反対によっていまだに実施されていない。

*日本=GM作物の世界最大の輸入国である。表示を求める200万の署名提出や全国地方議会の半分近くから意見書決議が出された結果、01年4月から大豆、トウモロコシの加工品一部に、また03年1月からジャガイモ加工品に表示することが義務となった。しかし輸入のGM混入の大豆やトウモロコシを原料にしている大量の飼料、醤油や食用油にはいまなお表示がない。
 表示対象の加工食品でも表示義務条件が緩やかで、例えば原材料に占める重量の割合が5%以上のものにしか表示義務はない。このためGM原材料を使っているのに表示されない食品が多数あり、消費者が表示でGMであることを知ることができるのは輸入量のわずか1割程度にすぎない。だから消費者にとって選択できる余地はきわめて限られているのが現状である。

*欧州=GM作物を0.9%以上含む場合、添加物も含めてすべての食品に表示義務が課せられている。

▽種子を支配する者は世界を制す―恐るべき「自殺種子」

そもそも米政府はGMという疑問の多い新技術をなぜ承認したのか。父ブッシュ政権の時、経済政策を決める大統領直属の競争力委員会(ダン・クエイル委員長)はバイオ(生物)分野で世界のトップの地位を確保するためにGM食品は規制しないという基本方針を打ち出した。つまり米国世界戦略の重要な柱の一つにGM技術は位置づけられた。

 現在、GM作物を手がけているのは種子企業で、世界の種子企業上位5社の種子売上高(単位100万ドル、2006年)はつぎの通り。
1.モンサント(米国)=4,028
2.デュポン(米国) =2,781
3.シンジェンダ(スイス) =1,743
4.リマグレイン(フランス)=1,035
5.ランド・オ・レイクス(米国)=756

 GM種子は特許で保護されているが、これらの企業は1990年代から遺伝子操作をしていない通常の種子にまで特許を広げて種子支配力を強めている。トップの多国籍企業、モンサント社(農薬を含む総合化学会社)だけで市場の5分の1以上を握っており、上位4社で49%、10社で64%の支配力を持っており、企業の寡占化が進んでいる。モンサント社は推定1万1千の特許を持っているともいわれる。

 種子はいわば生命の源である。その種子を特許で排他的に囲い込み、種子市場を支配しようと目論むことは、いわば生命を市場化し、支配しようと画策することにほかならない。遺伝子組み換え(GM)の危険性を警告する人々の間では「種子を支配する者は世界を制す」という危機感が高まりつつある。

 「ターミネーター技術」をご存知だろうか。これは「自殺種子」を作る技術で、2世代目の種子に毒ができて、種子が自殺するように仕掛ける遺伝子操作技術を指している。この技術開発に成功した企業をモンサント社が買収し、傘下におさめた。米国ではこの技術をGMワタに認可している。
 この技術の効果は何か。農家が独自に自家採種できないように種子の命を絶ち切るわけだから、これまで自家採種してきた農家は、自家採種が不可能になり、毎年新しい種子をモンサント社などの種子企業から買わなければならない。種子企業には莫大な利益が転がり込むという算盤勘定だろう。

 しかも農業者は事前にはそれを察知できないところが厄介である。例えばターミネーター作物の花粉が昆虫や風によって通常品種の畑に運ばれ、受精した場合、その種子が後に植えられて、発芽しなかったときになって初めて事の真相がはっきりする。農家にとっては大打撃である。ターミネーター技術は種子企業の利益のためばかりではなく、生命そのものに対する恐るべき策略といえるのではないか。たしかに「種子を支配する者は世界を制す」という危惧の念は決して過大とはいえない。

▽「種子(生命)産官複合体」の支配力に「NO!」のうねり

 米国でGM作物/食品の安全規制がまともに取り組まれない背景には企業と規制当局との間の緊密な癒着関係が指摘されている。
 例えばモンサント社副社長が環境保護庁次官に、モンサント社理事が商務長官に、モンサント関連会社副社長が米国食品医薬品局副長官にそれぞれ転出し、一定期間後に元の企業に復職するという往復人事は珍しくない。
 私(安原)は、これを米国型軍産複合体(軍部と兵器メーカーとの癒着関係)になぞらえて「種子(生命)産官複合体」と呼ぶこともできるだろうと考える。軍産複合体のスローガンが「平和」であるのに対し、種子産官複合体のそれは、例えば「人道主義」(食料増産によって世界の飢餓人口約8億人を救うこと)である。しかしこの「人道主義」というスローガンは軍産複合体の「平和」と同様に覇権と利益を目指すプロパガンダ(意図的な宣伝)にすぎない。

 種子産官複合体を支援しているのが米国の農業補助金政策であり、WTO(世界貿易機関)である。補助金の多くは種子企業がGM作物として標的にしてきたトウモロコシ、小麦、綿花、大豆などに充てられる。過剰生産で市場価格が下がっても、それを上回る生産費との差額を補助金で補填する仕組みだから、過剰生産も高価な種子のセールスも自由にできる余地が確保されている。

 もう一つのWTOの目的は自由貿易体制の強化であり、その実態は輸出国の利益優先である。生産費よりも安く輸出できる輸出補助金を温存する米国のような輸出国の農産物によって輸入国の国内農業は崩壊し、これでは公正な自由貿易とはいえない。
 その悪しき具体例が食料輸入大国・日本の食料自給率で、すでに4割を切って、先進国では異常な低水準に落ち込んでいる。いいかえれば命の源である食料の6割強を他国からの輸入に依存しているわけで、国民にとって不可欠の食料安全保障は空洞化している。

 WTO体制が食の安全、農業の自立、食料主権を脅かし、環境破壊を引き起こしていることが明らかになってきた。だから食料自給権と公正な貿易を求めて、「WTOにNO!」の声が世界に広がりつつある。これはすなわち「種子産官複合体」の支配力に「NO!」を突きつけるうねりともいえよう。

▽世界各地に広がる対抗策―「GMOフリーゾーン」

 種子産官複合体のグローバルな攻勢に世界各地で市民運動などによる様々な対抗策が試みられている。その有力な手だてが「GMOフリーゾーン」で、これは遺伝子組み換え作物(GMO=Genetically Modified Organisms)がない地域のことで、欧州を中心に広がっている。
 具体的にはGM作物の栽培を認めず、GM家畜や魚を禁止し、チーズやワインなどの生産に使う微生物もGMで改造したものは認めない。スーパーマーケットや小売店でGM食品を売らない、学校給食にも使わないなどの規制を実施している自治体もある。
 この運動はイタリアのスローフード運動に取り組んでいるワイン生産者たちによって、米国の食料戦略や多国籍企業による種子支配に対抗し、多様な農業や食文化、地産地消(その地域でとれた作物はその地域で消費する)、地元の農業を守る闘いとして始まった。

 各国の現状はつぎの通り。
・ギリシャ=世界で初めて全土でGMOフリーゾーンを宣言
・イタリア=全土の約80%で宣言
・オーストリア=9州のうち8州で宣言
・ポーランド=16州のうち15州で宣言
・スイス=2005年の国民投票でGMOの栽培も実験も5年間禁止
・英国=5州で実施
 このほかドイツ、ハンガリー、米国カリフォルニア州、カナダ、オーストラリア、ブラジル、アフリカ諸国へと広がりつつある。

▽対抗策が遅れている日本―主食コメはどうなる?

 さて上記のGMOフリーゾーンは日本ではどうなっているのか。山形県遊佐町が街ぐるみで宣言しているほか、全国で1,994人の生産者が自分の畑に看板を立てて、フリーゾーンを宣言し、その面積は合計4,116ヘクタールに達している(06年3月現在)。

 一方、フリーゾーンにはほど遠いが、条例などで規制をする地方自治体も広がっている。規制条例を実施している自治体はつぎの通り(2007年1月末現在)。
北海道=06年1月施行
千葉県、京都府=06年4月施行
新潟県=06年5月施行
徳島県=06年6月施行
愛媛県今治市=06年9月施行

 ただ規制の内容が栽培の認可制、野外実験の届出制、罰則などを定めているだけで、GMをすべて禁止する「望ましい禁止条例」からみれば、大きな隔たりがある。 
 いずれにしても欧州に比べれば、日本はその対応がかなり遅れているが、その背景には農水省の「バイオ産業育成」、「植物新品種開発者などの権利保護強化」に対する積極的な姿勢がある。この方向に進めば、やがて米国同様、農家の自家採種の権利が奪われ、種子が企業の所有物となる日も遠い将来の物語ではなくなる。その意味するものは企業による単一作物の大量作付け、農薬や化学肥料の多用、さらに環境汚染である。

 「遺伝子組み換え(GM)イネ」の開発もすでに日本国内で進められていることもみのがせない。それに加えて米国のモンサント社など種子企業が日本のコメ市場への参入に積極的な姿勢をみせている。日本人の主食コメは、一体どこへゆくのか? という新たなテーマも浮上してきた。


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故・平田精耕禅僧に心から感謝
「知足の経済学」のヒントを得て

安原和雄
 私は毎日新聞(08年1月10日付)のつぎの見出しの記事に注目した。特定の人の死亡ほど関係者にとって衝撃的な出来事はない。毎朝できるだけ死亡記事は目を通すようにしているが、この記事はしばし注視するほかなかった。ご縁を思い出し、その縁が足早に去っていくのを感じた。(08年1月15日掲載)

平田精耕住職 死去
禅の国際化に尽力

 禅の国際化に向け行動した臨済宗天龍寺派管長で天龍寺住職の平田精耕(ひらた・せいこう)さんが9日午後5時39分、多臓器不全のため亡くなった。83歳だった。
 1961年秋から1年半、西独(当時)留学、ハイデルベルグ大で禅を講義。花園大教授のほか、禅文化研究所長などを歴任した。日本の禅僧と欧州の修道士の精神的交流をはかろうと79年以来続く「東西霊性交流」の推進役。「外国へ出て行くことで禅、仏教とは何かを自己確認できる。国際化とは自己に帰るということ」と喝破した。

 なぜ以上の死亡記事が目に留まったかというと、実は平田禅僧とは、ある機会にご縁をいただき、私の「知足の経済学」を構想する上で重要なヒントを得たからである。そのいきさつを紹介して、ご冥福を祈りたい。

▽『知足の経済学』の「はじめに」で

 縁あって私は足利工業大学(仏教系の工業大学)で2005年春まで15年間、経済学講義を担当した。その間の1995年に『知足の経済学』(新書版)を著し、その「はじめに」でつぎのように書いた。

 禅僧の平田精耕氏が数年前、テレビで「これからは知足の経済学といったものを考えられないか」といったことがある。ただそれだけの指摘にとどまったが、私はそれを観ていて、「なるほど」と深くうなずくものがあった。それ以来、この一言ヒントを何らかの形で活かすことができないだろうかと折りにふれ考えてきた。それをまとめたのが本書である。
 題名はずばり「知足の経済学」をそのまま活かした。副題の「文化志士のすすめ」の文化志士は私の造語で、もちろん志士というからには幕末の志士のイメージが念頭にある。しかし時代が異なる現代にあっては、幕末の志士そのままではありえない。21世紀版志士といえば、それなりのイメージが浮かんでくるだろうか。

 知足の経済学の特色は3つある。
 1つは人生をいきいきと面白く全うしていくための経済学だということである。だからこそ文化志士のすすめなのである。精気の乏しい志士では格好がつかないではないか。
 最近は経済学部の大学生の間でさえ経済学はあまり評判がよくないらしい。細分化され、しかもひからびた分析の用具としての既存の経済学に魅力があるはずはあるまい。私には経済学といえども、人生論を視野に収めない経済学はナンセンスに近いという思いがある。人生論とはここでは一人ひとりのライフスタイルのあり方を考え直し、実践していくことであり、そのための経済学だということである。
 知足の経済学を身につければ、どういう功徳があるか。とりあえずは精神的に若返ること請け合いである。私自身、すでに還暦を迎えたが、気持ちとしては一回り若い48歳のつもりになっている。

 2つ目に経済社会の構造改革、企業改革、分散型国土づくりのための指針となりうる経済学だということである。
 1995年は第2次世界大戦における日本の敗戦からちょうど50年目に当たる。この年を境にポスト戦後期に入ったというとらえ方もできよう。戦後期の50年間にさまざまな制度疲労が蓄積し、その根本からの変革なしにはもはや前に進めない地点にきてしまっている。
 そういう1995年の初頭に阪神大震災の衝撃に見舞われたことは、きわめて象徴的な出来事であった。ここから引き出すべき最大の教訓は、新規蒔き直しで一から世直しに取り組むことではないだろうか。
 こうして知足の経済学に関心を抱けば、変革への意欲が湧いてくる。

 3つ目に地球環境時代の経済学だということである。
 第2次大戦後の長い間、経済成長時代と呼ぶにふさわしい時代があった。しかしそれも日本でいえば、1990年頃を境に終わりを告げた。経済成長時代の終焉を印象づけたのがかのバブル経済の破綻であった。
 これから21世紀は地球環境時代というこれまで経験したことのない新しい時代に入る。中国古代の哲人・老子の「足るを知る」思想を21世紀に汲み上げていかなければ、地球環境時代に対応していくことは困難であろう。経済成長時代の既存の「貪欲の経済学」に代わって新しい「知足の経済学」が求められる歴史的背景がここにある。
といっても決して「我慢の経済学」ではない。むしろ「活力の経済学」であり、「充足の経済学」ともいえよう。こういう知足の経済学的な感覚を磨けば、21世紀の望ましい姿が見えてくる。

1995年陽春  安原 和雄


以上の「はじめに」から始まる著作『知足の経済学』はもちろん平田禅僧に謹呈した。早速丁重なお礼状をいただき、それに「知足の経済学への精進と発展を祈る」旨の激励の言葉が添えられていた。平田禅僧の一言ヒントがなければ、私は『知足の経済学』を構想していなかったかもしれない。ここに改めて心から感謝申し上げる。

▽「知足の経済学」から「仏教経済学」へ

 著作『知足の経済学』は足利工業大学の経済学講義の教科書として活用した。やがて内容をもう少し充実させる必要を感じるようになり、それを新たにまとめたのが拙論「知足の経済学・再論 ― 釈尊と老子と〈足るを知る〉思想」(足利工業大学研究誌『東洋文化』第20~21号、2000~2001年)である。参考までにこの拙論の柱を以下に紹介する。従来の経済学教科書とはかなり異質であると自負している。

第 一講 二十一世紀を担う文化志士―新時代のライフスタイル
第 二講 「知足の経済学」を求めて―「貪欲の経済学」を超えて
第 三講 生活者主権の確立をめざして―非市場的価値の尊重
第 四講 「持続可能な発展」とは―地球環境時代の課題
第 五講 歩く人こそ文化志士―くるま社会の構造変革
第 六講 ごみ列島ニッポンの大掃除―循環型経済社会の構想
第 七講 田園の貴重さを見直すとき―世界の食糧不足の中で
第 八講 低負担型高齢社会の設計―新しい健康観を身につけよう
第 九講 拝金教よ、さようなら―人間はカネの奴隷ではない
第 十講 生き残る「良い会社」の条件―「社会分配率」導入のすすめ
第十一講 景気観のコペルニクス的転換―ゼロ成長経済だからおもしろい

 この「知足の経済学・再論」から数年を経て今では呼称として「知足の経済学」よりも「仏教経済学」を多用している。友人の間では「知足の経済学」の方がよいという意見も少なくない。いささか迷うところもあるが、《仏教経済学(=別称・知足の経済学)》で通そうかと考えている。
 最近では仏教経済学の国際交流も広がりつつある。英語名は「Buddhist Economics」(仏教経済学)であり、「知足の経済学」ではないことも理由の一つである。
 どちらの呼称をとるにせよ、中身が質的に異なっているわけではない。だから仏教経済学の呼称を多用しても平田禅僧からお叱りをこうむることはないだろうと秘(ひそ)かに考えている。


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今こそ「生活者主権」の確立を
「生活者、消費者が主役」とは

安原和雄
 福田首相は、1月4日の年頭記者会見で「生活者、消費者が主役に」と語った。首相発言の真意は今ひとつ不明だが、首相の発想自体は悪くない。貧困層が増えるなど国民生活が混乱、不安に陥っている今こそ「生活者を重視する生活者主権」の確立を求めるときだと考える。
 あのバブル経済が崩壊した1990年代の初頭に政府が「生活大国計画」を打ち出し、また首相が「生活者主権の確立」を唱えたこともある。生活者、生活者主権とは何を意味しているのか、この機会に生活者主権のあり方を提案したい。(08年1月10日掲載、同日インターネット新聞「日刊ベリタ」に転載)

 福田首相の記者会見での生活者、消費者に関する発言内容はつぎの通り(朝日新聞1月4日付夕刊東京版)。
 「安全で安心な社会、活力と希望に満ちた持続可能な社会を作っていくためには、政治も行政もこれまでの発想、やり方を大きく転換し、生活者、そして消費者の立場にたったものへと変わっていかなければならない。本年を生活者、消費者が主役へと転換するスタートの年にしたい」

▽宮沢内閣時代に生活者・消費者重視を唱える

政府作成の文書で、生活者・消費者重視に言及したのは1992年、宮沢喜一内閣が策定した「生活大国五か年計画ー地球社会との共存をめざして」(計画期間・92~96年度)である。このプランを今読み返してみると、日本政府が「生活大国」というビジョンを掲げた時代もかつてあったのか、という懐かしい思いにも駆られる。

同計画は、まず生活大国を「国民一人ひとりが豊かさとゆとりを日々の生活の中で実感でき、多様な価値観を実現するための機会が等しく与えられ、美しい生活環境の下で簡素なライフスタイルが確立された社会」と定義づけたうえで、それを実現するための政策運営の基本方向としてつぎのように指摘している。
「個人を尊重することを基本として、単なる効率の優先から社会的公正にも十分配慮した視点へ、また生産者中心から生活者や消費者をより重視した視点へと転換させていかなければならない。その際、個人においてライフスタイルの変革が求められているとともに、企業についても意識の転換を進め、二十一世紀に向けた企業行動への変革を行うことが求められている」

さらにつぎのようにも述べている。
「これまでは、経済成長の成果が結果として国民生活の向上に還元されてきたが、今後は経済活動の過程においてより直接的に生活の質の向上が図られるようにすることが重要である。このため、生産のためだけではなく、ゆとりある暮らしのためにも時間を配分すること、フローの所得だけではなく、生活環境などストック面の充実を図ること、東京への過度の集中を是正し、各々の地域の特色ある発展を図ることなど、さまざまなバランスが見直されなければならない」

 以上の文章でまず注目すべきことは「生産者中心から生活者や消費者を重視した視点への転換」を指摘している点である。いいかえれば生産者、すなわち企業よりも生活者、消費者という国民大衆を重視するという姿勢を打ち出した。その上で、「ゆとりある暮らしの実感」、「多様な価値観の実現」、「美しい生活環境」、「簡素なライフスタイル」、「効率優先から社会的公正への転換」、「生活の質の向上」、「地域の特色ある発展」―など、言葉の上だけにせよ、歓迎すべき結構な政策目標が並んでいる。
 この政策目標が実現していれば、21世紀初頭の今日のような「人間の尊厳を失った貧しい国・ニッポン」というイメージとは異質の素敵なニッポンへ向かって進んでいたに違いない。しかし現実は逆の方向に走った。

▽「生活者主権の確立」を強調した細川首相

宮沢内閣の退陣による自民党一党支配の崩壊を受けて、93年8月登場した細川首相(首相就任前に臨時行政改革推進審議会=第3次行革審の「豊かなくらし部会」部会長歴任)は、生活者優先と生活者主権の確立を強調した。細川首相の著書『日本新党・責任ある変革』の中でつぎのように述べている。

 「これまでの生産者優先の経済、社会システムは、戦後の荒廃から今日の繁栄をもたらしたという側面もある。だが、経済的には大国となったいま、そのシステムを生活者優先に転換して、生活者主権の確立を果たさなければならない」
 ここには「生活者主権の確立」という文言が盛り込まれており、宮沢政権時代の生活大国計画よりも一歩進んだ印象を与えた。問題は、それにどういう意味を込めているのかである。つぎのように述べている。
 
「生活者主権を確立する基本原則は、規制の緩和、撤廃である。つまり生活者の選択肢を広げ、豊かさを実感できる社会を実現していくためには、これまでのような生産者・供給者側優先の政治、経済、社会の仕組みを改革して、生活者・需要者側を優先する経済体制へと構造転換していかなければならない」

 生活者優先、すなわち生活者主権の確立の中心軸に置かれているのが、なんと公的規制の緩和、撤廃である。これでは生活者優先の名の下に、今日の無惨な日本経済社会を招いた小泉政権以降の新自由主義路線(=市場原理主義)による規制の緩和・撤廃への橋渡しを演じたにすぎないとはいえないか。

 細川政権後の村山首相は、94年9月、衆参両院本会義で行った所信表明演説で「生活者重視等の視点に立った配分の再検討」などと生活者重視の表現を使ってはいるが、「生活者重視等」とわざわざ「等」という官僚的文言をつけ加えたところに腰の引けた印象があり、結局言葉だけに終わった。

▽消費者主権、そして生活者主権とは

 消費者主権は、消費者が主人公としてあたかも主権を行使するかのように経済社会の方向づけを行うことを意味している。これは政治用語の国民主権、すなわち国民一人ひとりが主役として主権を行使する、つまり選挙で自由に投票することなどによって一国の政治の方向を決めることを念頭においている。
 これと同じように、生活者主権は、生活者がまさに主役として、生活者の豊かさを実現するためにあたかも主権を行使するかのように経済社会のありようを方向づけていくものである。

 それでは消費者と生活者とはどう違うのか。消費者という用語は、消費者主権と並んで既存の現代経済学の教科書に載っているが、生活者、生活者主権という表現は教科書に登場してこない。なぜだろうか。生活者、生活者主権は現代経済学(市場価値=貨幣価値のみを視野に置いている)をはみ出した概念といえるからである。

 私(安原)は消費者、生活者の違い、特質をつぎのようにとらえたい。
*消費者=市場でお金と交換に財・サービス(市場価値=貨幣価値)を入手し、消費する人々を指している。広い意味の消費者には個人(家計)に限らず、企業、政府も含まれるが、消費者主権という場合の消費者にはカネの裏付けのある個人消費者に限るのが普通である。
*生活者=消費者よりも広い概念で、国民一人ひとりすべてを指す。だから消費者はもちろん、企業経営者、自由業者、労働者、生産者(農業者など)、それ以外の老若男女、さらに購買力を持たない赤ん坊も含めて、いのちある人間はすべて生活者といえよう。一人の生活者が現実には消費者であり、同時に労働者であるなど多様な顔を持っているケースは多い。

 このような生活者はお金をいくら出しても市場では入手できないが、生活を豊かにするために不可欠の非市場価値=非貨幣価値(いのち、地球環境、自然の恵み、生態系、利他的行動、慈悲、ゆとり、生きがい、働きがい、連帯感など)にかかわる点が消費者とは質的に異なる。

▽「生活者の4つの権利」を提案する

 さて消費者主権、生活者主権とは具体的になにを指しているのか。まず消費者主権についてケネディ米大統領は1962年(昭和37年)、「消費者の利益保護に関する教書」の中で、つぎのような「消費者の4つの権利」を提起した。これらの権利の行使が消費者主権の具体的な内容である。ただいずれも消費行動に関連した権利であることに留意したい。
(1)安全の権利
(2)情報を得る権利
(3)選択の権利
(4)意見を述べる権利

このうち安全の権利は、「健康や生命に関して危険な商品販売から保護される権利」で、その具体化の一例がPL(Product Liability・製造物責任=商品の欠陥が原因で消費者が生命、身体、財産上の損害を被った場合の製造業者の責任のこと)制度である。欧米の多くの先進国に著しく遅れて、日本では94年6月、やっとPL法が成立し、95年夏から施行されるというまことに遅い対応ぶりであった。
 それはともかく「消費者の4つの権利」の提唱が日本の消費者保護基本法の制定(1968年)に大きな影響を及ぼしたことは間違いない。消費者運動の活性化にも寄与した。

しかしいのちが粗末に扱われ、貧困層が増え、労働者の権利が軽視され、ニセ物が横行し、その上地球環境の汚染・破壊が進みつつある21世紀初頭の今日、この「消費者の4つの権利」ではもはや不十分であり、現実の変化に対応できない。だから生活者主権の確立という視点からこれを発展させる必要がある。そこで私は、つぎのような「生活者の4つの権利」を提案したい。この権利の行使が生活者主権の具体的な内容となる。

(1)生活の質を確保する権利(いのち尊重のほか、非暴力=平和を含む生活の質的充実を図る権利、消費しないことも含む真の選択権など)
(2)ゆとりを享受する権利(時間、所得、空間、環境、精神の5つのゆとりの享受権)
(3)地球環境と共生する権利(「持続可能な経済社会」づくりへの積極的な関与権)
(4)参加・参画する権利(望ましい生産・供給のあり方や政府レベルの政策決定への参加・参画権)

 以上、4つの権利は相互にからみ合っており、現行の平和憲法のつぎの条項の理念を具体化させようとする実践でもある。
*前文の平和共存権
*9条の「戦争放棄、軍備および交戦権の否認」
*13条の「個人の尊重、生命・自由・幸福追求の権利の尊重」
*18条の「奴隷的拘束および苦役からの自由」
*25条の「生存権、国の生存権保障義務」
*27条の「労働の権利・義務、労働条件の基準、児童酷使の禁止」
 (ブログ「安原和雄の仏教経済塾」に1月2日付で掲載した「08年元旦〈社説〉を読んで」を参照)

▽生活者主権の目指すもの―消費者よりも生活者こそが主役

 生活者主権が目指すものは何か。まず生活者の4つの権利について説明する。

(1)生活の質を確保する権利について
 「生活の質」を充実させるためには、いのちが蔑(ないがし)ろにされる現状ではなによりも「いのちの尊重」、「非暴力=非戦を含む平和」が大前提となる。その上で、(2)の「ゆとり享受」、(3)の「地球環境との共生」― が実現していくことが必要である。
また「消費しないことも含む真の選択権」が掲げてあるが、これはどういう意味か。消費者主権の中の「選択の権利」は、個々の生産物やサービスの間の選択を意味しており、消費増大への志向はあっても、消費抑制という観念はない。これと違って生活者主権の中の選択権は、消費を追い求めないという選択も肯定している。いいかえれば消費の増大こそ豊かさだと思いこむ「消費主義」病を克服し、仏教の知足(=足るを知ること)の精神、簡素な暮らし(シンプルライフ)のすすめにほかならない。

(2)ゆとりを享受する権利について
 ゆとりは、大別すれば、以下の5つが考えられる。
*時間のゆとり(非貨幣価値)=労働時間の大幅な短縮、ゆったりした自由時間の確保
*所得のゆとり(貨幣価値)=生存権を保障できるだけの所得の余裕
*空間のゆとり(貨幣価値と非貨幣価値)=生活関連の社会資本による公共空間、街並みの美しさ、美しい自然・景観の保全・創造、働きやすい職場空間の確保など
*環境のゆとり(非貨幣価値)=生命共同体としての地球環境の保全(地球温暖化防止など)、循環型社会の構築とその保全、 きれいな空気・水の確保、多様な動植物との共生など
*精神のゆとり(非貨幣価値)=こころの余裕と意欲、健康、利他主義の実践、個性の尊重、生きがい、働きがい、絆(きずな)・連帯感など
 以上の大半がお金では入手できない非貨幣価値であることに着目したい。

(3)地球環境と共生する権利について
 地球環境の汚染・破壊(地球温暖化など)をいかに防止するかが最優先課題となっている今日の地球環境時代に不可欠の権利である。この共生権は、「持続可能な発展=Sustainable Development」(1992年の第1回地球サミットが打ち出したキーワード)を追求する権利でもある。
地球環境と共生することも、循環型社会すなわち「持続可能な経済社会」づくりを追求することも、今や一人ひとりにとって義務というべきかもしれないが、明確な自覚に基づく行為の裏付けがなければ、しょせん絵に描いた餅にとどまるので、やはり行使すべき権利として位置づけた方が適切であろう。

(4)参加・参画する権利について
生産・供給のあり方や政策決定への参加・参画権を掲げている。まず生産・供給への参加とは、企業が生産・供給するモノ・サービスの内容、あり方に注文をつけていくことであり、さらに例えば農薬を使わない自然食品の生産に自ら携わることである。
 一方、政策決定への参画のためには、選挙のときの一票にとどまらず、政府・行政の政策決定過程への日常的な発言、関与のシステムが必要になってくる。

 以上のように生活者主権がめざすものは、第一に消費者よりも生活者こそが主役だという点である。福田首相は「生活者、消費者が主役」と指摘したが、両者を並列してとらえる姿勢ではあまり成果は期待できない。消費者が主役で、生活者は端役に追いやられる可能性があるからである。
 第二に豊かさの再定義を求めている。それは消費の量的増大を豊かさの尺度としていた従来型「浪費のすすめ」から転換して、「生活の質の充実」、「参加・参画権の行使」を実践していくことを意味している。

▽生活者主権の事例―地球温暖化防止、薬害肝炎被害者の救済など

 生活者主権の視点から、最近の具体例を考える。
*地球温暖化防止について
 08年7月開かれる北海道洞爺湖サミット(主要国首脳会議)の中心テーマは地球温暖化の防止である。このテーマこそ、生活者主権を行使すべき典型例といえる。生活者の4つの権利がそのままかかわる課題である。特に政策決定への「参加・参画権」行使の成否が問われる。

 地球温暖化は特に第二次大戦後の経済成長と過剰消費主義の産物であり、この経済成長、過剰消費主義からの根本的な転換なしには的確な対応はできない。にもかかわらず政府、経済界ともに積極的な姿勢がうかがえない。
 日本の温室効果ガス(二酸化炭素=CO2など)の京都議定書(1997年)による排出削減目標(1990年比6%削減)が目下のところ達成できないだけでなく、逆に増えている。肝心の経済界は「日本経団連自主行動計画」に執着し、「できることを実施する」というにとどまり、必要な削減目標数値を掲げること、さらにCO2排出を抑制するための環境税を導入することに難色を示している。政府も掛け声だけで、及び腰である。

*インド洋での給油問題について
福田政権が最重要課題としている海上自衛隊によるインド洋での米軍艦船などへの給油(07年11月1日以降中止)再開は、補給支援特別措置法が1月11日成立し、可能となると伝えられる。このテーマは生活者主権の視点からどうとらえられるだろうか。
 1月9日行われた福田首相と民主党の小沢代表との党首討論は「低調」などとメディアの評判はよくないが、私(安原)は給油問題については興味深く聴いた。
 福田首相は「自衛隊による給油は、テロ撲滅の一環としての国際平和協力であり、憲法9条が禁止している武力行使にはあたらない」と述べた。これに対し、小沢代表は「油がなければ戦争はできない。給油は兵站(戦争に必要な弾薬、油、食料などの支援補給)の一部である」として「憲法違反」という趣旨を指摘した。

 このやりとりでは福田首相の発言は「偽」で、小沢代表の指摘は「真」であり、こちらに軍配を挙げたい。給油は米軍主導の戦争への協力であることは明らかであり、すでに給油のために200億円を超える血税を浪費している。戦争協力としての給油そのものが憲法違反であり、国民主権上はもちろん生活者主権からみても容認できない。

*薬害肝炎被害者の救済について
 薬害肝炎被害者救済法案が1月8日衆院本会議で全会一致で可決された。これによって被害者側が要求していた「一律救済」の方向で解決に向かい、5年に及ぶ被害者たちの訴訟の努力が実ることになる。被害者ら原告団が求めていた国の責任と謝罪については、法案の前文につぎの文言(要旨)が盛り込まれた。
 「政府は、感染被害者に甚大な被害が生じ、その被害の拡大を防ぐことができなかったことに責任を認め、被害者と遺族の方々に心からおわびすべきである」

 被害者総数は全国で350万人ともいわれ、これまで放置してきた政府の責任は大きい。「一律救済」をしぶっていた政府が、それを受け容れざるを得なくなったのは、被害者たちが生活者主権 ― 生活者主権という意識はなかったにせよ、結果として― の中の政策決定への参加・参画権を行使(訴訟)することによって政府の政策変更を勝ち取った成果といえるのではないか。


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08年元旦「社説」を読んで
地球益を共有、実践する年に

安原和雄
大手メディアの元旦社説を読んだ。今年の大きな課題は何かを発見するためである。主張、意見が多様で共通項はないようにも見えるが、あえて「地球益」というキーワードを引き出した。日本が議長役を務める洞爺湖サミット(08年7月)の主要テーマは地球温暖化防止である。その成否に人類存亡の命運がかかっていると言っても誇張ではないだろう。地球益を共有し、実践を開始する08年としなければならない。(08年1月2日掲載、同日インターネット新聞「日刊ベリタ」に転載)

 まず大手6紙の社説または主張の見出しを紹介しよう。
読売新聞=多極化世界への変動に備えよ 外交力に必要な国内体制の再構築
朝日新聞=平成20年の意味 歴史に刻む総選挙の年に
毎日新聞=08年を考える 責任感を取り戻そう まず政治から「公」の回復を
日経新聞=国益と地球益を満たす制度設計を
東京新聞=年のはじめに考える 『反貧困』に希望が見える
産経新聞=年頭に “危機の20年”へ備えと覚悟

 産経新聞だけは千野境子・論説委員長の署名入りの主張だが、他の5紙は無署名の社説である。 

▽読売新聞 ― 日米同盟は堅持 
 
読売新聞はつぎのように書いている。
 「唯一の超大国」とされてきた米国の地位が揺らぎ、多極化世界へのトレンドが、次第にくっきりしてきた。米国の揺らぎは、イラク戦争の不手際が招いた信頼感の減退によるものだけではない。より本質的な要因として、長らく世界の基軸通貨として君臨してきたドルの威信低下がある。
 他方では、中国がめざましい経済成長を続けている。早ければ数年以内にも日本を追い抜いて、世界第2の経済大国となる勢いだ。それと並行して軍事力をも急拡大しつつあり、いずれは、軍事パワーとしても、米国に拮抗(きっこう)する一つの「極」をなすだろう。
 しかし、日本外交の基軸が日米関係であり続けることには、変わりはない。中国との関係を適切に調整していくためにも、見通しうる将来にわたり、日米同盟を堅持していかなくてはならない―と。

 現在の米国一極の世界から多極化世界への流れの行き着く先は「米中2大極」の世界だろうという読みなのか。多極化はもちろん避けられない。しかしそれでも「日米同盟は堅持」という考えである。なぜ軍事同盟としての日米同盟にしがみつく必要があるのか、その説明はない。
たしか大平首相が「日米安保=日米同盟は神棚に祭って拝むべき存在」といったことがある。「神聖にして侵すべからざる安保」だから臣民(?)はひたすら思考停止病を装うほかに手はない、ということなのか。

▽朝日新聞 ― 日本沈没を避けるために

朝日新聞はこう書いている。
 外から押し寄せる脅威よりも前に、中から崩れてはしまわないか。そんな不安にかられる。日本防衛の重責を担っていた官僚トップに、あれほどモラルが欠如していようとは。暮らしの安心を保証する年金が、あんなにずさんに扱われていたとは。 生活苦のワーキングプアも増えた。日本は沈みつつある船ではないのか。
 どんな道があるだろうか。ここは衆参の1勝1敗を踏まえて、改めて総選挙に問うしかあるまい。政権選択の、いわば決勝戦である。
 今度の総選挙はそんな勝負だけに、あらかじめ厳しい節度を求めておきたい。まず、与野党とも受けねらいのバラ色の政策ではなく、政権担当を前提に、可能な限り現実的な公約を競うこと。第二に、敗者は潔く勝者に協力することだ。世界の中の日本も曲がり角にあるが、まずは日本の沈没を防ぐため、政治の体勢を整えるしかあるまい―と。

 「どうするか」、ではなく、「どうなるか」という視点に立っている。長文の一本社説を読んで、どうもしっくり来ないのは、どうなるか、という状況分析に終始しているためであろう。インターネット上ではピンからキリまで個性的な主張、意見が乱舞している。そういう状況下で「どうなる」という視点から踏み出さない評論家風の社説が果たして存在価値があるのだろうか。
 日本沈没を防ぎたいのであれば、条件付きにせよ、ここは「民主党政権の出番だ」となぜ書かないのだろうか。

▽毎日新聞 ―「公」をどう回復させるか

毎日新聞は以下のように主張している。
 日本と世界の混迷を振り返ると、そこには共通項がある。「責任」の欠如である。「公(おおやけ)」の感覚の喪失とも言えるだろう。
 イラク戦争でも地球環境問題でも、米国がその理念と構想力で世界をリードするのが難しくなった。もう冷戦終了直後の精神的指導性を有していない。米国の混迷の間に、中国と資源国ロシアの台頭がめざましい。露骨に国益を追うことが多く、世界の不安定化に拍車をかけている。
 責任回避は地球温暖化問題ではなはだしい。しかし、無責任では日本も同断だ。
 「公」の回復について、思いをめぐらしてみたい。公共心や公共への責任感は、私たちが共通する課題にどう対処するか、平等な立場で、オープンに議論をたたかわせるなかで血肉となっていくはずのものだ―と。

 「公」や「責任」感覚をどう取り戻すか、これを「復古的な国家優先主義を否定する」という留保条件付きでテーマに選んだのは悪くない。責任回避の具体例として地球温暖化を取り上げているのも適切である。
 ただこのテーマは直ちに日米にはね返ってくる。京都議定書から離脱した米国の責任は重大である。EU(欧州共同体)に比べて何かと腰が引けている日本もいささかみっともない。「公」、「責任」を指摘するからには、この際「地球益」に視野を広げることはできないだろうか。

▽日経新聞 ― 国益と地球益の実現をめざして

日経新聞の主張はこうである。
 2012年までに1990年比で欧州が8%、日本が6%、温暖化ガスの排出を削減する。この京都議定書の目標は、温暖化を食い止めて気候を安定化させるという究極の目標に比べれば、本当にささやかな1歩でしかない。ただ、それは文明史上画期的な意味を持つ1歩でもある。
 地球温暖化の責任には「共通だが差異がある」という原則の確立は先進的だ。92年採択された国連気候変動枠組み条約に明記されたこの原則により、産業革命以来膨大な累積排出量になる先進国がまず差異ある責任を果たすのが京都議定書だ。
 経済社会の中に、環境という価値をきっちり組み込まない限り、ことは成就しない。
 京都議定書から10年、制度設計に背を向けてきた日本は、特殊な国というレッテルをはられつつある。洞爺湖サミットが不安だ―と。

地球温暖化防止をめぐって国益と地球益とについて大いに議論するときである。地球益の重要性はこれまで主としてNGO(非政府組織)やNPO(非営利団体)が唱えてきた。この時点で大手メディアが社説で言及したことは評価したい。
 ただ国益と地球益を見出しにうたいながら、なぜかそれぞれの説明が十分ではない。すでに周知のことという判断なのだろうか。また国益と地球益とは果たして両立するのか、という問題も残されている。特に地球益は今後のキーワードになるだけに少し詰めた議論が必要ではないか。

▽東京新聞 ― 広がるワーキングプア

東京新聞はつぎのような論調である。
 2002年から6年連続の景気拡大があった。が、各統計が示したのは裏腹の貧困の広がりだった。ワーキングプア層とも呼べる年収200万円以下が1023万人(06年)。相対的貧困率(平均所得の半分に満たない人の比率)はOECD諸国中、米国に次いで世界2位。若年層に絞ると、4人に1人が非正社員で、3人に1人は年収は120万円ほどとの調査も。
 グローバル競争の勝者は一部の大企業で、労働者の7割を占める中小企業に恩恵はなく、06年の全産業の経常利益は54兆円。10年前の倍ながら、全雇用者の報酬は6%減で残業時間も増となるところに一部の勝者と大多数の敗者の法則が貫かれてる。
 税と年金、医療、介護などの社会保障制度の検討も早急に行われるべきである。消費税増税をいう前に政府・行政には信頼の回復など為(な)すべきことが多い―と。

 この社説の結びに「たすけあいネット」代表運営委員氏のつぎのような指摘が紹介されている。「最後には社会を変えたい。いくら働いても暮らしが成り立たないような社会はどうかしている」と。同感である。
 小泉政権以来顕著になった「構造改革」という名の新自由主義路線が産み落とした現実がこれである。多くの人々が人間としての尊厳を失っている。その一方で一握りの勝ち組の拝金主義者たちが笑みを隠さない。こういう不公平なひん曲がった社会に持続性はない。

▽産経新聞 ― GNPよりGNHの哲学

産経新聞の以下の主張は興味深い。
 世界至るところで、国益むきだしの資源あさりやグローバル化とは名のみの野放図な経済活動が跋扈(ばっこ)している。(中略)
 ヒマラヤの麓(ふもと)にブータン王国という小国がある。いま、この国は国民総幸福量(GNH)という独自の国家戦略で国際社会の熱い関心を集めている。
国家戦略には①道路と電力の開発②教育・医療の無料化③功利主義経済学批判④グローバリズムへの警戒⑤自己啓発と伝統文化の維持⑥自然環境の保全⑦足るを知る仏教経済学の尊重―などの具体的な政策目標を伴う。
 国民総生産(GNP)よりGNH。小国は小国らしく。それは、やむにやまれぬブータン流「覚悟の国家戦略」とも言えるのだが、経済的に豊かでも幸せを実感できない勝ち組先進国から、ブータンの政策立案者に講演依頼などが相次ぐ状況は、極めて示唆的である―と。

 21世紀は小国の世紀である。ここに登場するブータンがその一つである。7つの国家戦略は、日米などの大国とほぼ180度の差異を浮き彫りにしている。「国民総幸福量」という発想とその実践が卓抜である。
 注目すべきもう一つの小国は中米のコスタリカである。憲法改正(1949年)によって常備軍を廃止し、今日に至っている。日米安保=軍事同盟下で平和憲法9条(軍備放棄など)の空洞化を進め、強大な軍事力を保有する日本とは異質である。しかも自然環境保全、人権・平和重視の教育 ― に徹しているのも特色である。世界の多極化を論じる場合、これら小国の存在感こそ見逃せない。

▽地球益と国益、企業益そして民益と

 以上、大手6紙の社説、主張を紹介した。それぞれの論調が多様で、さながら社説という商品の百貨店という印象もあるが、日経社説にヒントを得て、そこからあえて「地球益」というキーワードを引き出したい。08年7月には北海道・洞爺湖サミット(主要国首脳会議)が地球温暖化防止策を中心テーマに開かれる。地球益か、国益かをめぐって火花が散るのだろう。

 さて地球益とは何を指しているのか。その含蓄を考えたい。地球益のほかに国益、企業益がしばしば持ち出されるが、私はこれに民益も加えたい。

(1)国益と企業益の再定義を
まず国益はこれまで国家の利益あるいは権益と考えられてきたが、この国益論はもはや時代遅れとなっている。その理由は軍事力中心の安全保障観に支えられた国益論であり、米国主導のアフガン、イラク攻撃・占領政策の行き詰まりから明らかなように、世界に混乱と破壊をもたらす以外に「益」は期待できない。
 日本の自民・公明政権がインド洋での米軍などへの給油活動再開にこだわっているのも、国益論に基づいている。石油の大半を中東地域に依存している日本は、石油確保のためにも米軍への協力は必要という考えに執着しているが、これは軍事力による資源確保論であり、人命や自然環境を破壊してまで資源エネルギーを収奪する正当性はない。
 21世紀の国益は、その国が世界から尊敬されるところから始まる―という再定義が必要である。ブッシュ政権が率いる米国はもはや世界の尊敬を失っている。冷笑さえ浴びている。

 企業益は従来、目先の企業利益追求を第一と考えてきた。一握りの勝ち組と大多数の負け組を生み出す弱肉強食型の新自由主義路線がその具体例である。しかしこの種の企業益も行き詰まりが顕著になってきている。東京新聞社説が主張している「広がるワーキングプア」の実態がそれを実証している。
 新しく再定義されるべき企業益は、企業の社会的責任(CSR=企業の社会的貢献度を重視すること)、社会的責任投資(SRI=環境、雇用、人権などに配慮のある企業の株式に積極的に投資すること)を軽視しては成り立たなくなってきた。目先の利益に執着することがいかに「偽」を誘発し、企業の没落へとつながっているかをイヤというほど見せつけられた昨年だった。

(2)民益と平和憲法理念
 民益(国民益、市民益、民衆益など)はどう理解したら適切だろうか。民益は守り、生かさなければならない。また民益の欠落した国益、企業益はそもそも成り立たないと考える。民益を支える条件としてつぎの平和憲法の理念、精神を生かし、実現していくことを挙げたい。米国主導のグローバリゼーション、新自由主義路線(=市場原理主義)、それに追随する日本の自民・公明政権によって、以下の憲法の理念、精神は事実上、空洞化が進んでいる。これをどう再生していくかが大きな課題であることを強調したい。

*前文の平和共存権
*9条の「戦争放棄、軍備および交戦権の否認」
*13条の「個人の尊重、生命・自由・幸福追求の権利の尊重」
*18条の「奴隷的拘束および苦役からの自由」
*25条の「生存権、国の生存権保障義務」
*27条の「労働の権利・義務、労働条件の基準、児童酷使の禁止」

(3)地球益―破滅か生存か
 このまま地球環境の汚染・破壊をつづけて地球の破局に進むのか、それとも立ち止まって引き返すことができるのか、その重大な岐路に立っている。その行方を占ううえで7月の洞爺湖サミットは重大な責任を負っている。地球益を共有し、その尊重と実践で足並みが揃えばまだ希望は残されているが、楽観は許されないだろう。

 地球益を実践していくための条件として次の諸点を挙げたい。地球益、再定義された国益・企業益、さらに民益は相互依存関係にあると考える。

*「共通だが差異ある責任」の実践
 地球温暖化防止という目標は先進国、途上国に共通だが、その責任の負い方は異なる、という原則で、米、日、EU、ロシアのほか中国、インドなど二酸化炭素(CO2)の大量排出国が特別の責任を果たす必要がある。その責任を果たしてこそ新しい国益、企業益にもつながることを理解したい。

*平和、発展、環境保全の相互依存性
 第一回地球サミット(1992年)のリオ宣言に盛り込まれた「戦争は持続可能な発展を破壊する。平和、発展、環境保全は相互依存的であり、切り離すことはできない」を今こそ再認識し、実践するときである。そのためには軍事力中心の安全保障観が時代遅れであるという理解を共有しなければならない。さらに世界から軍事同盟を解消し、海外軍事基地を撤去することが求められる。
 
*脱「成長主義」戦略への転換
 ブータンの国民総幸福量(GNH)も一つの有力な選択肢である。経済成長主義にこだわるのは資源・エネルギーの収奪・浪費、ひいては温暖化など地球環境の汚染・破壊を招くほかない。地球規模での古い国益論に立つ資源・エネルギー争奪戦は軍事力行使にもつながる。大国は小国に「経済成長は国民の幸せに直結しないだけでなく、反することもある」ことを学ぶときであろう。


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異風・謹 賀 新 年
〈折々のつぶやき〉35

安原和雄
 想うこと、感じたこと、ささやかに実践していること―などを気の向くままに〈折々のつぶやき〉として記していきます。新年の手はじめは題して「異風・謹賀新年」。〈折々のつぶやき〉35回目。(08年元旦掲載)

 謹 賀 新 年

 2000年元旦
 良き新年をお迎えのこととお慶び申し上げます。
 さて20世紀最後の今春、小生、統計上の高齢者の仲間入りと相成る次第です。万般の感慨抑え難きものがありますが、とりわけ吉田兼好の『徒然草』の心境にこころ惹(ひ)かれるところがあります。

 「人間の儀式、いづれの事か去り難からぬ。世俗の黙(もだ)し難きに随(したが)ひて、これを必ずとせば、願ひも多く、身も苦しく、心の暇もなく、一生は、雑事の小節にさえられて、空しく暮れなん。日暮れ、途遠し。(中略)諸縁を放下(ほうげ)すべき時なり」(第百十二段)

 『徒然草』は21世紀にもなお日本文化の中に生き続けるに違いないとの感を深くしますが、その兼好の意にあやかって愚考するところあり、新世紀の明年から賀状を欠礼させていただきます。ご無礼の段、ご寛恕下さい。

 とは申しても、諸縁をすべて放下し、世捨て人になろうという気は毛頭ありません。今後とも21世紀の日本はいかにあるべきかに私なりに問いかけていく所存です。一期一会の精神を忘れず、人生道に精進を続ける気構えに変わりはありません。自由闊達な談論もよし、盃を傾けるのもまたよし。その機会あれば、万難を排して馳せ参じます。
 皆様のご多幸とご自愛専一を祈り上げます。   安原 和雄

▽世間の枠から飛び出してみる

 冒頭の「2000年元旦」は「2008年元旦」が正しいのでは? という疑問を持たれた方はきっとしっかり読んで下さるはずです。いや、間違いではありません。実はもう8年前の、世間様とはいささか異なる私の年賀状で、06年元旦に「異風・年賀状」と題してこのブログで紹介しましたが、今回はその再録です。
 こころ惹かれるのは「諸縁を放下すべき」です。「もろもろの縁を棄ててしまえ」という意味ですから、浮き世の横並びのしがらみから自分を解放してみたら、という助言と受け止めました。

 こちらから賀状を出さなかったのに戴いた人々には、上記の賀状を次の添え書きとともに封書で送ったこともあります。 

 「吉田兼好にあやかって、いわゆる世間の枠をほんの少し飛び出してみました。決して早々と人生の手仕舞いをしようというわけではありません。毎年数百枚の賀状を1枚々々手書きすると、1週間以上はかかります。それほど拘束されることから脱却してみたいとかねがね思っていました」と。

▽「やられた!」という感想も

 さて異風・年賀状への反応は?
 1つは「やられた!」で、これは少数派です。ある友人は「自分も欠礼の方向で考えていたが、踏み切れなかった。先を越されて残念」と口惜しがっていました。
 「なるほど、これもひとつの見識だな」もありました。

 次は「1年に1度のことだから、賀状交換くらいは続けてもよいのではないか」という横並びの常識派です。これが多数派です。「君がくれなくても、私は出すよ」と言った友人もいましたが、やがて音沙汰なし、となりました。
 3つ目は、無反応という反応で、結構多かったという印象です。

 なかには「世捨て人になったの」というコメントもありました。賀状に「世捨て人になるつもりはない」と明記してあるにもかかわらずです。こういう反応をみると、賀状は多くの場合、読むのではなく、眺めるだけに終わっているな、と感じました。

 あれから8年、新しい友人もできました。以前に比べれば賀状は減りましたが、なお沢山届きます。
 返信を出すか、それとも?
 吉田兼好(鎌倉末期の歌人・随筆家)が今健在なら、なんとコメントするでしょうか。「諸縁の放下そのままに」でしょうか。あなたならどうしますか。


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