「もっともっと欲しい」の貪欲の経済から、「足るを知る」知足の経済へ。さらにいのちを尊重する「持続の経済」へ。日本は幸せをとりもどすことができるでしょうか、考え、提言し、みなさんと語り合いたいと思います。(京都・龍安寺の石庭)
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「ごまかし」満載の日本列島
根因は憲法と日米安保との矛盾

安原和雄
 メディアは連日のように相次ぐ官民のごまかし、偽装を伝えている。「ごまかし」満載の日本列島 ― といっても決して誇張ではない、目を覆いたくなるほどの乱脈ぶりである。なぜこれほどのごまかしが広がってきたのか。
 その根因を探し求めていくと、見えてくるのは、平和憲法体制を掘り崩していく日米安保体制の強化である。その矛盾を覆い隠すかのように黒を白と言いくるめてきた歴代保守政権の曲がった姿勢が浮かび上がってくる。この憲法体制と安保体制との矛盾を是正しないで官民のごまかし、隠ぺいを根絶する妙手は期待できないのではないか。(07年10月28日掲載、同日インターネット新聞「日刊ベリタ」に転載)

▽大手メディア社説が取り上げた官民による「ごまかし」の実例

* 東京新聞社説(10月26日付)は「福田政権1カ月 『官』の統制が課題に」と題してつぎのように指摘した。

「試練の連続。福田康夫です」
今週の福田内閣メールマガジンはこんな書き出しで始まる。
(中略)身内の組織から突きつけられた「試練」が防衛、厚生労働両省の不祥事だ。防衛省では、守屋武昌前事務次官の軍需業者との癒着疑惑や、米補給艦給油量の誤りの隠ぺいが発覚。厚労省でも薬害肝炎問題での情報放置が分かった。

*毎日新聞社説(10月24日付)は、「給油量隠ぺい 真相解明が審議の前提だ」と題して防衛省内部の相次ぐ不祥事につぎのように言及した。

 一つは、油の転用疑惑(海上自衛隊提供の油がイラク戦争に転用されたのではないかという疑惑)にかかわる給油量の誤りを海上自衛隊が確認しておきながら、内部で隠ぺいしていた問題。もう一つは、守屋武昌前防衛事務次官が防衛関連の専門商社から度重なる接待を受けていた問題である。
 とりわけ給油量の隠ぺいは、自衛隊運用の大原則である文民統制(シビリアンコントロール)を根幹から揺るがすものだ。また次官として4年余も省内で権勢を振るってきた守屋氏は、この問題でも責任がある。

*朝日新聞社説(10月26日付)は「食品の偽装 ごまかしはもうご免だ」と題して以下のように論じた。

 発覚から4カ月、一連の食品偽装問題の始まりだった食肉加工卸会社ミートホープの社長が逮捕された。
(中略)うその表示をしてだますことが、食品業界では日常的におこなわれているのではないか。ミートホープの事件で浮かんできたのは、そんな疑問だった。
 案の定、人気のチョコレート菓子「白い恋人」で賞味期限の改ざんが発覚した。老舗(しにせ)の菓子メーカー「赤福」は、製造日を偽ったばかりか、売れ残った商品まで再使用していた。
 秋田県の会社は「比内地鶏」とうたいながら、別の鶏肉を使った品物を売り続けた。「名古屋コーチンの2割は偽物」という調査結果も発表された。

 以上の各紙社説にみるように官民挙げてのごまかしの大量生産というほかない状況である。これに最近の事例として厚労省の大量の年金記録漏れのほか、マンションの耐震偽装、全国の遊戯施設の安全点検漏れや事故の報告漏れ ― なども加えて列挙すれば、際限がない。

 朝日川柳(朝日新聞10月26日付)につぎの一句があった。
「給油偽報赤福偽装とどこ違う」
選者のコメントに「ミスにあらず、ともに悪意」とある。

 ここで特に強調しておきたいのは、海上自衛隊による給油偽報も、前防衛事務次官の軍需業者との癒着疑惑も共に日米安保=軍事同盟にからむ偽報であり、ごまかしだという点である。今話題となっている軍需業者による前防衛次官への「ゴルフ接待」などは序の口にすぎない。構造的巨悪にこそ目を向けるときである。
 一例を挙げれば、仮想敵を作り上げて、すでに閣議決定(03年12月)し、動き出している日米共同のミサイル防衛(MD)システムの導入・配置計画を見逃すべきではない。これは総額1兆円を超える大型兵器ビジネスであり、日米安保=軍事同盟が「政軍産官の癒着複合体」として巨大な利権構造化しつつあることを暗示している。「ゴルフ接待」を追及の切り口にするのはよいが、それに視野を限定している時ではない。

▽静岡地裁よ、お前もか ― 原発で住民の訴えを全面棄却

 中部電力浜岡原子力発電(静岡県御前崎市)は将来の東海地震に耐えられないとして、周辺住民たちが原発の運転差し止めを求めた訴訟で、静岡地裁は10月26日住民側の訴えを全面的に棄却した。これを大手各紙の社説はどう論じたか。まず見出しを以下に掲げる。

*朝日新聞(10月27日付)=浜岡原発判決 これで安心できるのか
*毎日新聞(同)=浜岡原発訴訟 これで「ひと安心」ではいけない
*読売新聞(同)=浜岡原発訴訟 設計・運転の実態を重視した判決
*日本経済新聞(同)=差し止め棄却でも原発耐震強化怠るな
*産経新聞(同)=浜岡原発訴訟 中部電力は一段と備えを
*東京新聞(同)=浜岡原発 安全対策に限りはない

 これらの見出しから推測できるように読売新聞だけが判決に寄り添う主張といえるが、他の各紙は疑問、注文あるいは批判的な視点を打ち出している。ここでは東京新聞社説(要旨)を以下に紹介する。

 市民団体が運転差し止めを求めた裁判で、静岡地裁は住民側の請求を全面的に棄却した。だがこれは、決して安全への“お墨付き”ではない。
 国内に五十五基ある原発のうち半数近くが稼働後二十五年を超えている。が、老朽化による影響のメカニズムについては、未解明の点もある。二〇〇〇年十月の鳥取県西部地震は活断層の見つかっていない地域で起きた。今年七月の新潟県中越沖地震では、設計時に想定した最大値の二・五倍もの激しい揺れに、史上初めて原発施設が直撃された。

 浜岡原発は、三十年以内に九割近い確率で起きるとされる東海地震の震源域の真ん中にある。中越沖地震で黒煙を上げる柏崎刈羽原発の恐怖の記憶も新しい。
 原子力という極めて危険な素材を扱う以上、事業者側には危険と背中合わせで暮らす住民の不安解消に努める義務もあるはずだ。
 そのためには、情報の透明性と住民対話が欠かせない。中電が提出した耐震性計算書は、重要部分が「企業秘密」で白塗りにされており、住民の不安と疑惑をかき立てた。

 原発の安全神話は崩れて久しい。科学や法律を現時点で満たしていることだけに甘んじず、住民の素朴な不安などにも配慮した不断の安全対策が、事業者側にはこれからも、これまで以上に望まれる。

 東京新聞の以上のような視点に立てば、電力会社の言い分をほぼ全面的に受け容れた判決は、住民の不安や主張を無視した一種のごまかしともいえるだろう。これでは「静岡地裁よ、お前もか」ともの申したくなるではないか。

▽「ごまかし」の背景 (1)― 経済成長主義と拝金主義

 さてなぜこのような偽装、ごまかしが横行しているのか。その背景は何かを問わなければならない。「相次ぐ偽装 プロのモラルから問い直せ」というタイトルの毎日新聞社説(10月20日付)に一つの手がかりを見出すことができる。同社説はつぎのように主張している。

 あきれた、ではすまない。食べ物から耐震の構造計算まで相次いで表面化した「偽装」は、食や住まいの安全・安心をあざ笑うものだ。先行した問題があり、それを重い教訓として受け止めていたはずなのになぜ繰り返すのか。プロとしての責任感や誇りをどこかに置き忘れたか。
 戦後、私たちの国は先人の血のにじむ努力で、ものづくりやシステムの質、安全性を高め、国際的信頼も獲得した。そのモラル。プロとしての自覚と誇り。そうした土台がどこか崩れ始めてはいないか。一連の偽装事件発覚はその警鐘とも受け止めたい。

 この社説の主張は一つの見識を示すものとして評価したい。たしかに政官財の「モラル」は著しく低下し、そのことは「プロとしての自覚と誇りと責任感」の崩壊を進めてもいる。この事実は否定できない。問題はなぜそうなったのかである。「モラル」と「プロとしての自覚と誇りと責任感」を再生するには何が求められているのかである

 私はその背景として、敗戦後の経済立国の基本路線として追求してきた経済成長主義、それと表裏一体の関係にある拝金主義を挙げたい。経済成長主義と拝金主義の成れの果てが昨今のごまかし、偽装の大量生産なのである。

 経済成長主義は国内総生産(GDP)の量的拡大こそが豊かさを保証するものだという考え方、政策路線を指しているが、このGDPは市場でカネと交換して入手できるモノ、サービス(=市場価値・貨幣価値)のみで構成されている。
いいかえればカネで入手できない生命、地球環境、責任感、誇り、品格、思いやり、生きがい、働きがい(=非市場価値・非貨幣価値)などは視野にない。だから経済成長主義の追求は同時に拝金主義(マネーゲーム、利益第一主義など)を助長していく。「いのちよりも大事なカネ」の世界ともいえる。
上でみたごまかし、偽装の多くが利益第一主義(=必要なコストをあえて負担しない儲け主義)と深くかかわっているのはこのためである。

 ごまかしや偽装を日本列島上から追放するためには、成長主義から脱・成長主義へ、また拝金主義から脱・拝金主義への転換以外に良策は期待できない。さらに生命、思いやりなど非市場価値・非貨幣価値の重要性を認識することが不可欠である。

▽「ごまかし」の背景(2)― 平和憲法と日米安保との基本矛盾

 ごまかし、偽装の遠因、根因を求めて辿っていくと、その先に見えてくるのが平和憲法と日米安保とが相容れないという基本的な矛盾の存在である。

 日本国憲法が平和憲法と呼ばれるのはつぎの二本柱による。
*前文でうたわれている平和共存権
 「われらは、平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと努めている国際社会において、名誉ある地位を占めたいと思う。われらは、全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から免れ、平和のうちに生存する権利を有することを確認する」と。
*第九条の「戦争の放棄、軍備及び交戦権の否認」(条文は省略)

 一方、現行の日米安保条約(正式名称は「日本国とアメリカ合衆国との間の相互協力及び安全保障条約」・1960年6月発効)は、つぎのように日米間の軍事同盟(第三、五、六条など)と経済同盟(第二条)という二つの同盟関係を定めている。
*第二条の「経済的協力の促進」
 「(日米の)締約国は、その自由な諸制度を強化することにより、(中略)その国際経済政策におけるくい違いを除くことに努め、また、両国の間の経済的協力を促進する」と。
*第三条の「自衛力の維持発展」
 「締約国は武力攻撃に抵抗するそれぞれの能力を(中略)維持し発展させる」と。
*第五条の「共同防衛」(条文は省略)
*第六条の「基地の許与」(条文は省略)

 以上の日米安保=軍事同盟体制(=自衛力という名の軍事力を強大化させ、日本列島上に広大な米軍事基地網を張りめぐらし、名目は共同防衛を掲げながら、実態は米国の先制攻撃論と覇権主義に基づく戦争基地として機能している)が平和憲法体制(=平和共存権、軍備及び交戦権の否認)に反し、根本的に矛盾していることはいうまでもないだろう。
 にもかかわらず歴代保守政権は日米安保体制を強化する一方、平和憲法体制の骨抜きを図り、事実上空洞化させてきた。しかもその手法が黒を白と言いくるめる「解釈改憲」(条文を改定しないで、解釈の変更によって事実上の改憲を図る)という名のごまかしの上に成り立っている。

 日本という国の成り立ちの土台が、このようなごまかし、偽装に満ちているのだから、他の政治、経済、社会の諸事象は推して知るべし、というほかない始末である。だからといってごまかしの日常化はやむを得ないというわけではない。ごまかし、偽装を根絶するためにはどうすればよいのか。

 選択肢は二つ考えられる。一つは憲法体制が安保体制に合致するように改憲を果たす道であり、もう一つは安保体制を変革して憲法体制に合致させる道である。前者の道、すなわち軍事力中心主義は、米国主導の「テロとの戦争」がかつてのベトナム侵略戦争と同様に泥沼に陥っていることからも分かるようにもはや時代錯誤であり、有効性を失っているので選択の余地はない。

 残る選択は日米安保体制の変革、解体以外には考えにくい。それと同時にみえてくるのが平和憲法体制の再生であり、活性化であろう。いいかえれば、平和憲法体制をわが国の成り立ちの土台に据え直すことにほかならない。そして政府自らが先頭に立って、ごまかしの手法を駆使することを潔く止めることである。


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正しい「もったいない」精神を
老舗「赤福」の不祥事に考える

安原和雄
 企業の不祥事が相次いでいる。最近耳目を集めたのは、創業300年の歴史を誇る餅菓子の老舗「赤福」(本社・三重県伊勢市)が売れ残り商品の製造日偽装問題で本社工場の無期限営業禁止処分(07年10月19日)となった不祥事である。回収品の再使用などのルール違反をつづけていたもので、社長は「もったいない」をその理由に挙げている。
 しかしこれは「もったいない」精神の無理解のうえに立った誤用である。本来の正しい「もったいない」精神は、どういう意味かを改めて考えさせる不祥事といえよう。(07年10月21日掲載、同日インターネット新聞「日刊ベリタ」に転載)

▽「もったいない」で営業禁止処分に

 老舗の有名「赤福餅」の無期限営業禁止処分であるだけにメディアも詳しく報道し、ついに社説でも取り上げた。例えば『朝日新聞』社説(10月20日付)は「赤福 老舗よ、お前もか」と題してつぎのように指摘した。

 まず農林水産省が12日に、製造日の偽装を発表した。いったん包装して製造日まで印刷しておきながら、工場や配送車内に残った製品を再包装し、製造日を印刷し直して出荷していた。
 さらに18日深夜になって、じつは店頭で売れ残った製品も再使用していた、と前言をひるがえした。製造日を印刷し直すだけでなく、一部は餅とあんに分け、生産ラインに戻したり、原料として子会社に販売したりしていた。

 赤福餅包装には「生ものですからお早めにお召し上がり下さい」とある。製造日後1~2日での消費を求め、新鮮さを売り物にしている。その裏で「製造日の印刷し直しは2週間以内」という社内規定を設け、そのうえ店頭に並べたものまで再使用するとは、あきれるばかりだ。
 これは表示の不正にとどまらず、食品衛生上の問題である。三重県が無期限の営業禁止処分にしたのは、当然だ。

 製造日の印刷し直しは少なくとも34年前から、回収品の再使用は7年前から行われていた。社長は「もったいないと思った現場の判断」と説明したが、ではいったいだれが指示したのか。
 製造日の再印刷は生産量の2割もあった。回収品も本来、処分するしかないものだった。こんな方法など、神宮の前でだけ客の顔を見ながら製造販売していた時代には思いつかなかっただろう。
 ご当地名物を急成長させたことに無理があったのではないか。大阪、名古屋へ販路を拡大すれば、在庫が必要になり、売れ残りも生じる。 

 以上の社説の中で私が注目したのは、次の2点である。
*社長は「もったいないと思った現場の判断」と説明した。
*ご当地名物を急成長させたことに無理があったのではないか。

 このような社長の言い訳ともいうべき「もったいない」感覚は、本来の正しい「もったいない」精神からみてふさわしいのだろうか。

▽自転車走行のライフスタイルと「もったいない」精神

 ここでもう一つの「もったいない」精神の重要性を強調している記事を紹介したい。これはエコライフコンサルタントの中瀬勝義さん(E-mail:k.nakase@ka.baynet.ne.jp)が私(安原)宛にE-メールで送ってきた記事(10月19日付)で、その内容はつぎの通り。

 仲間が江戸川と利根川間に人々の交流を求めて江戸川・利根川を自転車で北上中です。(10月20日までの)3日間の予定です。 
 安心安全まちづくり 「言うは易し 行うは難し」でしょうか。
 自動車による道路走行の機械的な時代から歩いたり、自転車で走ったりの人のスケールでのライフスタイルを石油が少なくなり、ガソリンが高くなった今こそ根本的に見直す時が来たのではないでしょうか。

 自動車を造る金属やプラスチック資源も(地球)人口70億人時代には人々に平等には配分できません。自国の土地に依存した資源で生きる生態的な生き方を抜本的に研究する時代ではないでしょうか。
 日本中の環境研究所や大学や企業の研究者が集中的に「もったいない」を研究すると嬉しいのですが。

 この記事中の江戸川・利根川を自転車で北上中の仲間、とはNPO「地域交流センター」(交流サロンSHU)の浜田靖彦さんら 江戸川利根川交流実行委員会の面々である。3日間かけて120キロを走破した。環境汚染のCO2を排出する自動車依存症を脱して環境保全型の自転車を愛用し、それによって友だちの輪を広げようという試みである。
 「自国の土地に依存した資源で生きる生態的な生き方」とは資源エネルギー節約型・環境保全型の「もったいない」精神の実践でもある。さらに中瀬さんは「もったいない」精神の集中的な研究のすすめを説いている。

▽ノーベル平和賞受賞者、マータイ女史の「もったいない」

 ノーベル平和賞(04年)受賞者のケニアの環境保護活動家、ワンガリ・マータイ女史は05年2月初めて来日した時、「もったいない」という日本語に出会って、感激し、「日本文化に根ざした〈もったいない〉という言葉を世界語にしたい」と考えるようになった。

 それ以来国連を始め世界各地で「MOTTAINAI(もったいない)」の普及行脚に精力的に取り組んでいる。「もったいない」精神を地球規模で広げていくその功績には計り知れない価値がある。
 翌06年2月に再来日したときには日本の各地でつぎのように語りかけた。
 「小さなことでよいのです。皆さんのMOTTAINAIを見つけて最善を尽くして下さい。それが地球を守ることになるのです」と。

 本来なら日本人がお互いに語り合い、世界に向かっても説くべきところを日本人ならぬケニアのマータイ女史が「日本文化のもったいない」を説いてくれているのである。感謝しなければ、罰が当たるだろう。

▽勘違いに陥った赤福の「もったいない」感覚

 さて本来の「もったいない」(勿体無い)とはどういう含意なのか。つぎの4つに大別できる。(松村明編『大辞林』・三省堂から)
①(有用な人間や物事が)粗末に扱われて惜しい。有効に生かされず残念だ。用例:まだ使えるのに捨ててしまうとはもったいない。
②(神聖なものが)おかされて恐れ多い。用例:神前をけがすとはもったいない。
③(目上の人の好意が)分にすぎて恐縮だ。用例:御心づかいもったいなく存じます。
④ (あるべき状態からはずれて)不都合だ。不届きだ。用例:帯紐解き広げて思ふことなくおはすることもったいなし/『源平盛衰記』。

 いいかえれば、それぞれの存在の尊さ、ねうち、いのちなどの価値を無駄にすることの意である。最近では主として資源エネルギーの節約、地球・自然環境の保全に関連して使われることが多い。大量生産―大量流通―大量消費―大量廃棄という近代工業文明の経済構造の中で大量の廃棄物(ごみ)の山を築いて、それを豊かさと錯覚したり、平然と自然環境を破壊したりしているのは、まことに「もったいない」仕業といわなければならない。

 以上のように理解すれば、赤福の「もったいない」感覚には勘違いがあったといえる。上記の①の用例:まだ使えるのに捨ててしまうとはもったいない―を応用したつもりだろうが、売れ残りを偽って売りつけるのは「もったいない」精神を悪用し、客を欺く利益第一主義であり、望ましい商人道にも反する。

 本当に「もったいない」と考えるのであれば、販路を広げ、成長をめざすための大量生産―大量流通―大量販売―大量廃棄の悪しき構造からの脱却をめざして、売れ残りが出ないようにすべきであった。そういう悪しき構造の落とし穴が分かっているからこそ、地方の特産品では売れ残りを出さないように限定販売を心掛けている店舗も少なくないのである。

 私自身、京都駅で赤福餅を買い求めた経験がある。朝日新聞社説が示唆しているように「(伊勢)神宮の前でだけ客の顔を見ながら製造販売していた時代」を守り通していれば、こういう破綻とは無縁であっただろう。過大な成長を期待せず、むしろお伊勢様にお参りしなければ、手に入らないという商法の方が赤福の価値を高めたに違いない。
 昨今、「売らんかな」の曲がった商法が横行している現実があるとしても、それに目がくらみ、改革精神を忘れ、一種の悪徳商法の惰性に流れたのは、歴史と伝統を誇る老舗としてはまことに「もったいない」話である。


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温暖化防止に拍車がかかるか
ノーベル平和賞授賞に想う

安原和雄
 2007年のノーベル平和賞は、国連の「気候変動に関する政府間パネル(IPCC)」(世界の科学者らが参加)と、米前副大統領のアル・ゴア氏に贈られることが決まった。 授賞の理由は「地球温暖化は人間の行為によって起きていることを明らかにし、それに関する広範な知識の蓄積と普及に努め、必要な対応策の基礎づくりに貢献したこと」である。
 環境問題に関連するノーベル平和賞の授賞は、ケニアの環境活動家、ワンガリ・マータイさん(04年の授賞)に続くものである。果たしてこれを機に地球温暖化防止に拍車がかかるのだろうか。(07年10月15日掲載、同日インターネット新聞「日刊ベリタ」に転載)

▽大手メディアの論評を批評する

大手メディアはこのノーベル平和賞の授賞をどのように論じたか。まず大手メディアの社説(10月13日付)の見出しを紹介しよう。
*朝日新聞=ノーベル平和賞 温暖化という脅威に警鐘
*毎日新聞=ノーベル平和賞 温暖化防止策を進める弾みに
*日経新聞=温暖化が脅威になった時代の平和賞
 なお読売新聞、産経新聞、東京新聞は社説では取り上げていない。

 さて社説の中身はどうか。3紙の読後感を一言でいえば、お祝いの言葉を中心とする「ご祝儀社説」といったところであろうか。もちろん授賞の背景、狙いなどが手際よくまとめられており、地球温暖化問題の勉強の手助けにはなる。各紙社説の要旨は次の通り。 

*朝日新聞
 いま「気候の安全保障」が叫ばれている。地球温暖化は、戦争や核の拡散と同じように人類の生存を脅かすとみなされる時代になった。今回の授賞は、この潮目を読み取った。これを機に世界の取り組みが加速されるよう期待したい。

 今年、脱温暖化の動きを決定づけたきっかけは、IPCC部会の報告だった。
 温暖化の主因は、人間の活動が出す二酸化炭素(CO2)などの温室効果ガスだとほぼ断定し、悪くすれば今世紀末の気温は1980~90年代より4度ほども上がると予測した。上昇幅が2~3度以上でも、温暖化の被害は地球全域に及ぶという警告も発している。
 6月のG8サミットが「温室効果ガス排出を50年までに半減」という目標を真剣に検討することで合意したのも、IPCCが背中を押したからだった。
 科学の力が政治を動かしたのである。

 ゴア氏は、脱温暖化の語り部として大きな役割を果たした。
 00年の大統領選に敗れた後、地球環境の危機を訴える講演に力を入れた。その記録映画「不都合な真実」は世界中で話題を呼び、アカデミー賞を受賞した。

 脱温暖化に向けて、いま最大の課題は、京都議定書第1期が12年に終わった後の枠組みづくりだ。CO2の最大排出国でありながら、議定書を離れた米国の出方がカギを握る。
 ゴア氏の受賞が米世論を動かし、米国の変化が中国やインドなど、今は義務を課されていない排出国を引き込む。そんな流れが起こればよい。

*毎日新聞
 気候変動は単に、生態系の破壊や洪水・干ばつの増加などによって人類を脅かすだけではない。資源の奪い合いにつながり、ひいては地球の平和をも脅かす。今回の授賞は、気候変動を防ぐための一致した行動が人類の平和に不可欠であるとのメッセージだ。
 IPCCは88年に発足。日本を含む100カ国以上の科学者らが協力し、人間活動による気候の変化、影響、対策などを科学的立場から評価し公表してきた。90年にまとめた第1次評価報告書は国連気候変動枠組み条約につながり、ここから京都議定書が生まれた。

 ゴア氏は、気候変動に世界が直面していることに早くから気づき、副大統領退任後は世界各地で温暖化対策を訴える講演を行ってきた。ブッシュ政権が消極的な態度をとる中で、講演を基にした映画と著書「不都合な真実」は世界で広く受け入れられた。

 ただ、温暖化対策の行方は楽観できない。日本は京都議定書の約束を守るめどがたたず、既に断念した国もある。京都議定書から離脱している米国や、削減義務のない中国やインドなどの大量排出国を、京都以降の枠組みにどう組み込むか。排出量半減にどう道筋をつけるか。課題は山積している。
 ノーベル平和賞をきっかけに今後の対策に弾みをつけられるか。各国の覚悟が求められている。

*日本経済新聞
 今年は、二酸化炭素(CO2)など温暖化ガスの削減が国際政治の舞台でも最重要命題の一つとして明確に位置付けられるようになった年である。温暖化が世界の平和や安全保障も左右する脅威だとの認識が強まり、国連安全保障理事会も4月に温暖化について初の公開討論を開いた。今回のノーベル平和賞は、温暖化が世界の脅威になった時代を象徴する平和賞と言えるだろう。

 ゴア氏は10年前、米副大統領として自ら地球温暖化防止京都会議に出席し、先進国全体の温暖化ガス排出量を1990年比で5%以上削減する京都議定書の採択を主導した。
 京都議定書に従って排出を減らす約束期間に来年から入る。6月の主要国首脳会議は2050年までに世界の温暖化ガス排出半減を目指す長期の方針を示した。科学的根拠に異を唱えて京都議定書の枠組みから離脱した米国のブッシュ政権も含め、13年以降の「ポスト京都」の枠組みづくりがこれから本格化する。

▽社説よりも短評や談話がおもしろい

 以上の社説よりも、むしろ以下の短評や談話などの方がおもしろい。
 『朝日』の「素粒子」(10月13日夕刊=東京版)はつぎのようにゴア氏にとっては政治上の敵(かたき)であるブッシュ米大統領を登場させている。

 なに、ゴアにノーベル平和賞だと? 「戦争賞」なら、おれなんだがなア―ブッシュ米大統領。

 『毎日』の「近事片々」(10月13日付夕刊=東京版)はつぎのように皮肉った。

 映画「不都合な真実」を通じて温暖化防止を訴えた功績でノーベル平和賞に決まったゴア前米副大統領。温水プール付きの大豪邸。保守系団体から「邸宅の電力消費量は一般市民の20倍。資源節約は自分から率先を」と批判されたことも。誰にでも「不都合」はあるさ。

 また作家でナチュラリストのC・W・ニコルさんはつぎのように話している。(毎日新聞10月13日付)
 ゴア氏は以前から温暖化防止に力を入れていた。「よくやった。おめでとう」と言ってあげたい。一方で、ブッシュ米大統領など温暖化を認めたくない人たちには「ざまあみろ」と言いたい。温暖化とは結局、資源の無駄遣いのことだ。ゴア氏は、資源の「ワイズユース(賢明な利用)」に向けリーダーシップをとってほしい―と。

 もちろんIPPCとゴア氏の大きな功績は評価しなければならないが、問題はこれを機に地球温暖化防止にどこまで拍車がかかるかである。明日では遅すぎるほどの局面を迎えているのが温暖化防止問題であり、今何をなすべきなのか。何よりも一人ひとりに何ができるのかを改めて自覚し、実行するときではないだろうか。

▽ハチドリのささやき―「私にできることをしているだけだ」

 クリキンディという名のハチドリ(注)の「小さな物語」を紹介しよう。これは南米アンデスの先住民の間に伝わる物語である。

 あるとき、森が燃えて、森の生き物たちはわれ先にと逃げていった。しかしクリキンディというハチドリだけは、行ったり来たりしながら、クチバシで水のしずくをひとしずく運んでは、火の上に落としている。ほかの動物たちがそれを見て、「そんなことをして一体何になるんだ」と笑っている。クリキンディはこう答えた。「私は、私にできることをしているだけだ」と。

 この物語は今、わが国でシンプルライフ(簡素な暮らし)を求める人々の間で静かなブームとなって広がりつつある。
(注)ハチドリは中南米と北米に生息する体長10センチ程度の鳥で、「飛ぶ宝石」とも呼ばれる。身体が玉虫色で、光の当たり具合によって多様な色に変化するからである。英名はhumming bird(ハミングバード)。ハチのように「ブーン」という音を立てることからきている。

 さて地球温暖化防止のために我々一人ひとりに何ができるのか。いいかえれば日本版クリキンディにどこまでなれるのかを自らに問うてみたい。ただし多くの人々から「そんなことをして一体何になるんだ」と笑われることは、覚悟する必要があるかもしれない。
 ただ参考までにいえば、ドイツの哲学者、ショーペンハウアー(1788~1860年)は「すべての真実は3つの段階を通る。まず嘲られ、次に猛烈に反対され、最後には自明のこととして受け入れられる」と喝破しているというから、「笑われるのは、真実の実践のゆえ」と受け止めよう。

▽ささやかな日常の実践例―歩くことを重視

 ここではわたし自身のささやかな実践の具体例を紹介する。
 まずできるだけ歩くことを重視している。東京の各駅にはいまではエスカレーターが完備しているが、私は原則として階段を使う。脚力が衰えないようにするための私なりの工夫である。私の観察によると、階段利用派は1割程度で、9割がエスカレーター依存派である。
 エスカレーターは電力で動かしているわけだから、エスカレーターの運転を止めれば、それだけ電力の節約になり、地球温暖化の主要な原因、二酸化炭素(CO2)の排出削減にも寄与するはずである。もっとも私がエスカレーターを利用しなくても、エスカレーターは常時運転されているから、私の地球温暖化防止への貢献度はゼロである。

 ただ歩行を重視する姿勢は、できるだけ車に依存しない暮らし方につながっていく。私は自動車の運転免許は持っていないし、また新たに持つつもりもない。交通網が発達している東京で自分の車を所有することは負担も増し、かえって不便である。それに車の運転はCO2を排出するから地球温暖化を助長するだけで、望ましい選択とはいえない。

 環境省のデータによると、一人が一定の距離を移動するのに必要なエネルギー消費の比率は、鉄道利用の場合を1とすると、バス2に対し、自家用乗用車6となっている。わが国の交通体系は現在、乗用車中心となっており、最もエネルギー効率が悪く、エネルギー多消費の車依存型になっているわけである。

 わが家の付近を国道4号線(日光街道)が通っており、毎日何千何万という車が排ガスをまき散らしながら疾走している。こういう光景を日常の暮らしの中で見るにつけ、車社会の構造変革なしには地球温暖化防止に拍車をかけることは困難であることを痛感する。だからこそ日本版クリキンディが一人でも増えていくことを期待したい。

▽地球温暖化防止のための「大きな物語」

 日本版クリキンディのすすめは、「小さな物語」であり、その効果には限界がある。温暖化防止を進めるためには政府が関与する「大きな物語」も不可欠である。次のような柱を挙げることができよう。

*循環型経済社会の構築=企業の商品設計、生産の段階から廃棄物を出さないような工夫が必要である。
*循環型農林漁業の再生=食料自給率向上、地産地消による雇用の創出を図るとともに農林漁業の環境保全効果を重視する。。
*エネルギーのグリーン化=化石エネルギー(石油、石炭など)から自然エネルギーへの転換を進める。原子力発電は地球温暖化の原因、CO2を排出しないことを理由にわが国では推進しているが、安全性に大きな欠陥があり、段階的撤退が望ましい。
*高率環境税の導入=日本の経済界は温室効果ガス(CO2など)の自主的な削減計画を実施し、それなりの効果を挙げてはいるが、限界がある。税制などによる公的規制が必要である。
*コミュニティバスの積極的活用=特に地方では車社会が構造化しており、車なしには生活がなり立たない。これを変えるためにはコミュニティバスの導入・普及が急務である。
*脱「成長経済」のすすめ=資源の浪費につながる成長経済に執着する時代は過去の物語となった。上述のニコルさんの談話にもあるように「資源の賢明な利用」が不可欠である。
*日米安保・軍事同盟の解消=日米軍事同盟は米国主導の戦争の基地になっている。戦争こそ最大の環境破壊要因である。
*米国、中国、インドにも削減義務を=温暖化防止の京都議定書(1997年)から離脱している米国、削減義務を免れている中国、インド ― このCO2排出の3大国を削減義務国に引き入れることが地球規模での温暖化防止を成功させる決め手になる。

 以上、望ましい変革プランを挙げたが、これを実現していくためにはその意志を持つ政府、地方自治体をつくり出さなければならない。そのためには日本版クリキンディが一人でも多く誕生し、多数派を形成していくことが必要である。自らのささやかな実践を試みないで、政府に依存するだけでは、惰性から抜け出せない。

 日本国憲法第12条(自由・権利の保持義務)は「この憲法が国民に保障する自由及び権利は、国民の不断の努力によって、これを保持しなければならない」と定めている。この規定は案外、多くの人々の念頭から忘れられてはいないだろうか。笑われながら一人でやってみることには小さな勇気を要するが、この際、「国民の不断の努力」の深い含意を噛みしめたい。


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「体育の日」に健康を考える
〈折々のつぶやき〉34

安原和雄
 このごろ想うこと、感じたこと、ささやかに実践していること―などを気の向くままに記していきたい。
 10月8日(10月の第2月曜)は体育の日である。この「体育の日」は東京オリンピック(1964=昭和39年)にちなんで設けられた。体育のあり方よりもむしろ健康について考えてみたい。〈折々のつぶやき〉34回目。(07年10月8日掲載)

この日、大手の新聞社説(10月8日付)も「体育の日」に寄せて、次のようにいろいろ主張しています。まず見出しを紹介しましょう。
*朝日新聞=体育の日―こどもの体力は遊びから
*読売新聞=体育の日 自分の「体力」を確かめてみては
*毎日新聞=子供の体力 まず運動の楽しさを教えよう
*東京新聞=体育の日 子供はもっと運動を

 これらの見出しをみて、読者は何を感じるでしょうか。この4紙を毎日読んでいる読者はほとんどいないはずだから、まあいいとしても、どうしてこうも画一的な発想しか生まれてこないのかという印象です。社説の筆者のみなさん、あなた方の発想の「体力?」はどれほどなのか、測定してみてはいかがでしょうか。そういう物言いをついしてみたくなるような気分でもあります。

 問題は社説の中味です。
*朝日=思い切り遊んで体を使うことの楽しさを知り、自然に体力をつけていく。スポーツの多くは、そもそも遊びから始まっている。原点の遊びに返ることから、こともの体力づくりを進めたい。
*読売=家庭や地域にも、今以上に子どもたちが運動やスポーツと触れあえる機会・場所をもっとつくりたい。子どもたちが、楽しみながら体力を向上させていくことが望ましい。
*毎日=(東京オリンピックから)40年余を経て社会もライフスタイルも大きく変わったが、体を動かす楽しさや効能に変わりはない。まして子供たちの体力・運動能力が長く低水準傾向にある今、これを将来への重大な「シグナル」と受け止め、問題意識を共有して取り組みを急がなければならない。

 こういう社説を読まされると、読後感として「ああ、そうですか」、「そうでしょうね」という感想しか浮かんでこないのは、私がへそ曲がりのせいでしょうか。わたし自身はごく普通の常識人だと自己認識していますが、見方はいろいろです。
 要するに子供に限らず、一人ひとりが具体的に何をどうすればよいのでしょうか。本日ただ今から日常生活のなかでできることは何か、です。

 次の東京新聞の主張は具体的です。
*東京=具体的にどんな運動がいいのか。「かつてエアロビクスが流行したが、心肺機能だけでなく、足腰も鍛えなくてはいけない。筋力は下半身から衰えてくる。効果的なのは『階段を上ること』だ」という。まずはエレベーターやエスカレーターを使わないことから始めたい。

 私もこの単純な具体策には賛成です。私自身、少し早足で歩くことが体力と健康を維持するための基本だと思っているし、実践しています。駅に備えつきのエスカレーターはできるだけ利用しないようにしています。私の観るところ、エスカレーター依存派は約9割、残りの1割が階段利用派です。階段を上がっていく人は生き生きとしている印象さえうかがえます。

 車社会の定着、つまり文明の浸透によって、歩行という基本的な移動手段が軽視され、それが体力、健康の低下の大きな要素になっているように思います。便利さを追求する文明の進歩が人間の体力と健康を阻害しているということでしょうか。だから車社会とは無縁だった江戸時代に一度返ったつもりで生き方、暮らし方を考え直してみる必要があります。シンプルライフ(簡素な暮らし)のすすめ、ともいえます。


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外資も敵わぬ「おもてなしの心」
TVドラマ『どんど晴れ』を観て

安原和雄
 先週末(9月29日)まで半年続いたNHK・朝のテレビドラマ『どんど晴れ』は、乗っ取りを図る外資とその標的になった老舗旅館との抗争を描いた物語で、興味深く観ました。乗っ取りは失敗に終わり、それは老舗旅館の「おもてなしの心」にはついに敵(かな)わなかったという筋書きとなっています。
 昨今、米国主導のグローバル化の波に乗って利益追求を第一とする自由市場原理主義が猛威を振るっていますが、それに対抗して「日本のアイデンティティ」をどう主張していくかが論議を呼び始めています。このドラマは、そういう論議に向けて有力な視点を示唆していると評価できるのではないでしょうか。(07年10月1日掲載、同日インターネット新聞「日刊ベリタ」に転載)

▽外資も白旗を揚げた「おもてなしの心」

 ドラマの中で強く印象に残ったセリフを紹介しましょう。
 先行きの経営不安の中で外国資本による買収工作の標的にされた老舗旅館「加賀美屋」をあくまで守ろうとする主役の若女将、夏美とその応援団の人々のセリフは次のようです。そのキーワードは「おもてなしの心」です。

・外資に加賀美屋の株の過半数を握られて、買収される瀬戸際に追い込まれたとき、夏美は言います。
「大丈夫です。加賀美屋は一番大事なものを失ってはいません。それは、おもてなしの心と家族の和です。いのちを賭けても加賀美屋を守ってみせます」

・加賀美屋に宿泊し、夏美のお陰で自分の息子を精神的に救われた経済評論家(女性)はテレビで訴えます。
「カネで買うことのできない日本の良き伝統であるおもてなしの心は大切にしなければなりません」

・ドラマの圧巻は大企業にのし上がった日本企業の会長と夏美の次のやりとりです。
会長「世の中は勝つか負けるかだ。君たちは負けたんだよ」
夏美「そうでしょうか。勝つか負けるかだけではないと思います。人と人との心のつながりを大切にしたいと思います。その原点はおもてなしの心ではないでしょうか。それを守るために力をお貸し下さい」

 会長はなかなか首を縦に振ろうとはしませんが、そこへ会長の母(加賀美屋に泊まって、高齢のため体調を崩し、夏美のもてなしに感激した体験の持ち主)が現れて助け船を出します。
「同じ日本人としてその心の分からない人はいないと思いますよ」と。
 会長も結局、老舗旅館の支援に乗り出し、外資の買収工作は失敗に終わります。会長が要求した支援の条件は「伝統と格式を守り抜くこと」、「おもてなしの心を大切にすること」―の二つです。

 買収をめぐる交渉場面で外資側は「私たちのもとで再建の道を選ぶか、それとも(経営破綻して)従業員を路頭に迷わせるか」と冷ややかに迫りますが、おもてなしの心にはしょせん敵わず、最後には外資が「参った」としぶしぶ白旗を揚げるという展開です。

▽日本人が大切にしてきた価値観とは

 ドラマのねらいについてNHKチーフ・プロデューサー、内藤慎介氏は次のように述べています。(ドラマの公式HPから)
 「効率優先」「結果の重視」「個人主義」―こうした価値がよしとされている現代。どんなこともスムーズに進んでいきますが、そこには何かが欠けているようにも見えます。『どんど晴れ』は、欠けた何か、つまり「思いやり」や「気配り」といった、古くから日本人が大切にしてきた価値観を「老舗旅館」という場を借りて改めて見つめ直すドラマにしたいと考えています―と。

 この文章冒頭の「効率優先」「結果の重視」などは、利益追求至上主義の自由市場原理主義―小泉・安倍政権が取り組んできて、9月下旬に誕生したばかりの福田政権がどの程度手直しを図るかが関心を集めている―を指しています。一方、後段の「思いやりや気配りなど古くから日本人が大切にしてきた価値観」は、日本のアイデンティティ(英identity)と同義だと理解できます。
 このidentityの適切な日本語訳は難しいのですが、ここでは日本人に固有の独自性、つまり日本人らしさ―と理解しておきます。そうすると、「おもてなしの心」は欧米の人々には身についていない、日本特有の日本人らしさということになります。

▽「おもてなしの心」を広く定着させるには

 しかしこの「おもてなしの心」が現実の日本社会で果たして健在でしょうか。薄れつつあるのではないでしょうか。また夏美の言葉に出てくる「家族の和」は、昨今の親殺し、子殺しの横行などからも分かるように残念ながら崩壊しつつあります。

 その根因として指摘できるのは、一つは貨幣価値しか視野にない経済成長主義です。経済成長とは、GDP(国内総生産)の量的拡大(質的充実とは無関係)を意味しています。しかもこのGDPにはお金で買えるモノやサービスのみが含まれます。このため経済成長主義は「カネ、カネの世の中」を助長してきました。経済成長を「善」と思い込んでいる人々(現代経済学者を含めて)がいまなお少なくありませんが、経済成長の「悪」の側面を見逃してはならないと考えます。

 もう一つは利益追求を至上とする自由市場原理主義です。これが「カネ、カネ」に拍車をかけました。いまや「いのちよりも大事なカネ」という雰囲気です。いのちは手段でカネが目的―という価値観の逆転現象が日本列島にあふれています。これでは世の中、いのちを無視し、殺伐とした空気に包まれるほかないでしょう。
 いいかえれば経済成長主義も自由市場原理主義もお金では買えない非貨幣価値(例えば地球環境やもてなしの心など)は一切無視しています。昨今の世の乱れは、その成れの果てというべきです。

 以上を念頭に置いて、テレビで訴えた経済評論家のセリフ、「カネで買うことのできない日本の良き伝統であるおもてなしの心を大切に」を聞くと、「なるほどその通りだ」と相づちを打ちたい心境になります。

 「家族の和」を取り戻し、「おもてなしの心」をもっと日本社会に広く定着させるためにはどうしたらよいでしょうか。お金では買えない非貨幣価値を大切にしてこそ、カネの価値も生きてくると考え直すことではないでしょうか。
 まず「おもてなしの心」の旗を高く掲げ続けること、それが結果として加賀美屋の経営基盤を強固にしてゆきます。外資の手法は多くの場合、この逆で、まず利益つまりカネを稼ぐことを優先するあまり、一時的にその企業の株価は上昇しますが、連帯感も和も壊し、結果として経営基盤が崩壊してゆくことにもなりかねません。

 実はこの非貨幣価値を貨幣価値以上に重視するのが仏教経済学の何よりの特徴です。このドラマは非貨幣価値尊重派(加賀美屋)と貨幣価値執着派(外資)とが四つに組んで、最後に貨幣価値執着派が投げ飛ばされた相撲にたとえることもできます。

▽「おもてなしの心」と慈悲の心

さて「おもてなしの心」とは、何でしょうか。改めて考えてみると、答えはそれほど簡単ではありません。
 米国から導入し、今では全国に広がっているスーパー・マーケットはセルフ・サービスが基本で、そこにもてなしの心を発見することは困難です。サービスとは本来、奉仕の精神も含まれているはずですが、価格(廉価販売が売り物)に見合った機械的な事務処理があるだけです。

 すでにみたように、大切なのは、「思いやり」や「気配り」であり、それは「効率優先」、「結果重視」の対極に位置する価値観です。もう一つ大事なのは、「人を信じて、心を込めて接すること」です。夏美役を演じた比嘉愛未さんは次のような感想を述べています。

 「夏美に一番あこがれるのは、人を信じることができるということ。夏美は自分に好意を持っていない相手にでも、心を込めて接することができる。それってすごく難しいと思いませんか。夏美は、どんな人も受け入れられる純粋な気持ちを持っているんだろうなって、その心のきれいさにいつも感心させられています」(ドラマの公式HPから)
 たしかに「自分に好意を持っていない相手にも、心を込めて接すること」は難しく、なかなかできることではありません。夏美はドラマの中でいつも笑顔を忘れない、笑顔の美しい若女将の役柄を演じきったように観ました。私はそこに仏教の慈悲を連想していました。

 慈悲について仏教伝道教会編『和英対照仏教聖典』はつぎのように解説しています。
 「仏教における最も基本的な倫理項目で、〈慈〉とは相手に楽しみを与えること、〈悲〉とは相手から苦しみを抜き去ること。これを体得して、対象を差別せずに慈悲をかけるものが〈覚者〉(かくしゃ)すなわち仏(ほとけ)であり、それを象徴的に表現したものが、観音・地蔵の両菩薩である。やさしくいうと、慈悲とは〈相手と共に喜び、共に悲しんであげる〉ということになる」と。
 そういえば、加賀美屋の庭の一角にお地蔵様が鎮座していました。このお地蔵様に向かって時折手を合わせていた乗っ取り屋のリーダー(日本人)は土壇場で加賀美屋の味方につくという筋書きでもありました。

 ドラマの最終場面での夏美の言葉を紹介しましょう。
 「家族の笑顔、仲間の笑顔、加賀美屋みんなの笑顔があるからこそ、自分もまた笑顔になれることに気づいたのです」と。
 「皆様のお陰」と感謝する謙虚な心が慈悲の心につながっているということでしょうか。沢山の夏美が日本列島の各地に健在の姿を現せば、日本のアイデンティティといえる「おもてなしの心」もまた見事に復活し、広がっていくように想います。

▽『どんど晴れ』と『おしん』との距離

 いつまで「おしん」なのか―という見出しでNHK・朝の連続テレビドラマ『おしん』について私(安原)が書いた毎日新聞社説(1984年4月1日付=放映が終わった翌日)を参考までに紹介します。社説は無署名であるため、私が問題提起をして、論説室で意見交換の末、私が執筆するという形をとりました。当時、多くの視聴者の涙を誘ったこのドラマを取り上げた社説はほかにはなかったように記憶しています。

 『おしん』物語は20年以上も昔の話で、中曽根康弘政権時代のことです。1980年代後半のあのバブル経済がまさに始まろうとしていた時期に当たります。『どんど晴れ』と『おしん』の時間的距離はかなり開いていますが、経済的社会的距離は意外に接近しています。働く人たちの「忍耐と我慢」は今も変わらないし、むしろ強まっているくらいです。社説の内容(一部)は以下のようです。

 人気テレビドラマ「おしん」が終わった。何度も頬をぬらした人たちにとっても、このドラマはそのうち忘却のかなたへと消えていくことになるだろう。しかし忍耐と我慢のシンボルとさえいわれた「おしん」は本当にドラマの世界での主役でしかなかったのだろうか。
 身近な生活を見回してみても、心なごむ話は意外に少ない。
(中略)

 財界首脳が「我慢の哲学」を国民に向かって説くのに大いに活用したのがおしんブームであった。そこには春闘による賃上げをできるだけ抑制しようという意図が働いていることは明らかである。
 収入がふえず、それでいて、その収入に占める税負担など非消費支出がふえれば、否応なしに私たちが「おしん」の生活をしいられることは小学生でもわかる単純な算術の問題である。「おしん」を拡大再生産していくメカニズムが定着してしまったのか。

 中曽根康弘首相は「我慢しているのはおしん、康弘、隆の里」と言ったことがある。ドラマは終わっても現実のおしんが日本列島のあちこちで、きょうも頑張っていることを忘れないでもらいたい。(以上)


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