「もっともっと欲しい」の貪欲の経済から、「足るを知る」知足の経済へ。さらにいのちを尊重する「持続の経済」へ。日本は幸せをとりもどすことができるでしょうか、考え、提言し、みなさんと語り合いたいと思います。(京都・龍安寺の石庭)
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新自由主義路線からの転換を
福田「背水の陣」内閣に望む

安原和雄
福田康夫自民党総裁を首相とする福田自公政権は07年9月26日午前、正式に発足した。前日の25日に事実上発足した新内閣を首相自身、「背水の陣内閣」と性格づけた。先の参院選で惨敗した自民党は、一歩間違えば、政権から転落するという危機感を表明したものである。転落を避けたいのであれば、小泉・安倍政権が実施してきた新自由主義路線から思い切って転換する以外に妙手はない。その転換が先の参院選で示された民意からみて評価できない程度の中途半端なものであれば、福田政権も短命に終わるほかないだろう。(07年9月26日掲載、同日インターネット新聞「日刊ベリタ」に転載)

▽大手6紙の社説はどう論じたか

 福田自公政権の発足に当たって大手6紙の社説(産経のみ「主張」、9月26日付)はどう論じたか。まず各紙の主見出し(Ⅰ段目)と文中の小見出し(2段目)を紹介しよう。

*朝日新聞=福田新内閣 「1月解散」のすすめ
 「古い自民」の懸念も、政治の信頼回復を、予算案で競い合え
*読売新聞=福田政権組閣 政策実行へ難局を乗り越えよ
 仕事師内閣の陣容だ、不可欠な与野党協議、構造改革はどうなる、後景にある憲法だが
*毎日新聞=福田新政権 政治の漂流止める強い決意を 改革の影に光を当てよう
 次期総選挙が正念場、政権浮揚は世論がカギ
*東京新聞=福田康夫内閣が発足 最後かも、の現実味
 「選挙管理内閣」色濃く、給油の壁に野党の壁、引きずる「政治とカネ」
*産経新聞=福田新内閣 「内向きの競争」を排せ 改革と国際的責務の遂行を       財源で民主と論戦を、補給活動の延長貫け
*日本経済新聞=手探りで船出する福田「協調」内閣
 改革路線の根幹維持を、民主は大局的判断を

 以上の主見出しと文中の小見出しをみていると、社説の内容も自ずから浮かび上がってくるが、以下でインド洋での給油継続問題と新自由主義路線(新聞は通常、構造改革と呼んでいる)手直しへの各紙の主張を紹介する。

▽給油継続―疑問派は朝日、東京、中立派は毎日、推進派は読売、産経、日経
*朝日=焦点のテロ特措法の延長問題では、海上自衛隊がイラク戦争向けの米軍艦船に給油していた疑惑が発覚した。イラクへの自衛隊派遣も含め、実情をきちんと説明しない限り、道は開けない。

*東京=福田首相は直面するインド洋での給油活動の継続へ、高村正彦外相、石破茂防衛相、町村信孝官房長官という経験豊富な陣を敷いた。小沢民主との論点は、日米同盟や国際貢献の見直しにも発展するはずである。
 政府が米国のイラク戦争を支持した時の官房長官であった首相は、それが妥当であったか、総括を問われよう。

〈安原のコメント〉 朝日、東京ともに疑問は提起しているが、明確な反対論を主張しているようには読めない。

*毎日=今国会での最大の争点は、インド洋に展開する海上自衛隊給油活動の継続問題だ。防衛庁長官(当時)を経験した石破茂氏を防衛相に登用した。だが、参院は野党が多数の「ねじれ国会」での審議は容易ではない。
 一般法案は衆院で可決されても、参院で野党の同意を得なくては、成立させられない。賛同を得られないまま、給油継続を図ろうとすれば、与党が3分の2以上を占める衆院で再議決するしかない。

〈安原のコメント〉 賛否を明確にしない中立派ともいえる立場でありながら、与党を支援するニュアンスがにじみでている。「曖昧で、主張しない毎日」という印象が残る。

*読売=(民主党との)政策協議の最初のテーマとすべきは、インド洋での海上自衛隊の給油活動継続問題だ。政府は、活動継続のため新法案を提出し、今国会中の成立を図る方針だ。(中略)海上阻止活動に対する先の国連「謝意」決議が示すように、国際社会の要請と期待は大きい。テロとの戦いなど、国際平和協力活動自体は、民主党も重視している。接点を見いだす努力をすべきだし、また可能なことではないか。

*産経=海自の補給活動延長問題が最初の試金石となる。政府は民主党の出方にかかわらず、確実に延長を実現する方針を固めておくべきだろう。

*日経=海自の給油継続問題のメドがつけられずに安倍前内閣は行き詰まった。福田首相はこの問題を打開するため、民主党との話し合い協議を呼びかけている。同盟国の米国だけでなく、国際社会もテロとの戦いのため給油継続を日本に求めている。
 給油活動をやめれば日本の国際的な地位や発言力にも影響が出てくる懸念がある。

〈安原のコメント〉 読売、産経、日経の3紙は、従来から自民党政権擁護派の色彩が濃く、給油問題でも3紙は「よいしょ」の掛け声とともに政権支援の役回りを演じている。将来、自民党と対立している民主党が政権党になったとき、どういう主張を展開するのかが興味深い。

▽構造改革の手直し―バラマキ型を懸念する朝日、読売、産経

*朝日=構造改革の方向性は変えないというものの、総裁選の公約に福祉切り下げの見直しを掲げた。バラマキ予算への圧力も強まっている。改革の手直しといいつつ、行きすぎれば「古い自民党」に戻ってしまいかねない。

*読売=安倍政権から福田政権への交代によって、小泉政権以来の構造改革路線にも微妙な変化が生まれようとしている。
 組閣に先立つ自民党と公明党との連立政権合意は、構造改革路線を継続しつつ、「改革から取り残された人たちや地域、弱者」のために、負担増・格差の緩和などの政策断行をうたっている。
 具体的には、地域活性化のためのインフラ整備や、高齢者の医療費負担増の凍結などだ。(中略)公共事業など歳出増の圧力が強まれば、バラマキになりかねない。

*産経=究極の構造改革である財政再建では、目の前に来年度予算の編成がある。だが、参院選大敗や公明党との政権協議を受け、早くも高齢者医療費自己負担問題などで財政規律に緩みがみられるのが心配だ。
(中略)「政治の安定」を重視するあまり財源の裏付けを欠く政権公約が目立つ民主党との場当たり的妥協を重ねれば、ばらまき競争に陥りかねない。

*毎日=グローバル化の波は、今後は一段と大きくなることは間違いない。小泉純一郎首相当時からの「構造改革」路線は、一つの解答であったと私たちは考えている。しかし、参院選で示された民意は改革の影に光を当てるよう求めた。

*日経=従来の構造改革路線の根幹は基本的に維持すべきである。

*東京=安倍氏は、歴代政権が封印してきた改憲意欲と教育基本法改定、集団的自衛権の行使容認の姿勢で右派勢力の期待を集めながら、小泉政権が持ち込んだ、市場経済至上主義の「負の果実」処理に手をこまぬいて、挫折した。
 気負う新保守主義路線も、多くの国民の共鳴を得られなかった。福田政権はその反動で誕生したといってもいい。

〈安原のコメント〉
小泉・安倍政権が進めてきた構造改革を大筋で是認しているのが東京を除く5紙といえそうだ。5紙のうちバラマキ型への懸念を表明しているのが朝日、読売、産経の3紙である。残る東京だけは「安倍政権は小泉政権が持ち込んだ、市場経済至上主義の〈負の果実〉処理に手をこまぬいて、挫折した。(中略)福田政権はその反動で誕生した」という分析、認識から察するに、市場経済至上主義に批判的姿勢をうかがわせている。

 ところでここでの構造改革と市場経済至上主義は同じなのか、それとも違うのか。様々な用語が多用されているので整理しておきたい。私は主として新自由主義という用語に新保守主義(米国のいわゆるネオコン=neo-conservative)、自由市場原理主義を含めて使っている。恐らく東京新聞の「市場経済至上主義」という用語は、私の使う「自由市場原理主義」と重なっているだろうと理解している。

 一方、構造改革とは何を意味するのか。多くの新聞が使っている「構造改革」は、新自由主義のうちの経済分野にかかわるものと同義だと理解できる。産経新聞の「究極の構造改革である財政再建」という表現からも分かるように、いわゆる構造改革は「小さな政府」(社会保障の削減などによる財政再建をめざす政府)の実現が1つの重要な柱になっている。
 もちろん無駄な歳出の削減は必要であり、バラマキ型歳出も避けたい。しかしバラマキ型への批判者が、憲法25条(生存権の保障)を軽視して、必要な社会保障費の削減まで主張しながら、一方で軍事費(日本では年間5兆円)の無駄(これも税金のバラマキ型の変種)に批判の矢を向けないのは公正ではない。これは構造改革を経済、社会、軍事も含めて広くとらえないで、軍事を視野の外に置いているためであろう。

 私は「小泉・安倍政権の構造改革」に対し「もう一つの構造改革」という用語も使う。前者は「悪い構想改革」であり、後者は「良い構造改革」という意味を込めている。以下に述べる「新自由主義路線からの転換」のすすめは、「良い構造改革」のすすめにほかならない。

▽新自由主義路線からの転換を(1)―インド洋での給油中止を

 衆院総選挙を控えた福田新政権の前途は多難そのものであるだろう。福田氏は自民党総裁選を通じて「自民党の再生」の重要性を強調した。また「私を信じてついてきてください」とも言った。これを実のあるものにするためには何が必要だろうか。
 結論からいえば、小泉・安倍政権から継承しようとしている新自由主義路線から大きく舵取りを転換させること、これ以外に妙策はありえない。いいかえれば新自由主義路線こそが諸悪の根源であり、程度、ニュアンスの違いはあっても、この路線を継承する限り、福田政権は長期政権とはなりにくいだろう。新自由主義路線からの転換とは何を指しているのか。

 新自由主義は別名、新保守主義とも自由市場原理主義ともいわれる。1980年代初めのレーガノミックス(レーガン米大統領による軍事力増強、規制の緩和・廃止、民営化推進など)、サッチャリズム(サッチャー英首相による規制緩和・廃止、民営化推進など)、中曽根ミックス(1980年代前半の中曽根首相時代にみる軍備拡張、日米同盟路線の強化、規制緩和・廃止、民営化推進など)に始まり、日本では小泉・安倍政権が「構造改革」と銘打って本格的に取り組んだ。

 しかも日本の場合、この新自由主義路線の土台になっているのが日米安保=日米同盟(軍事同盟と経済同盟)である。ここで特に指摘しておきたいのは、新自由主義路線には2つの側面、すなわち1つは日米軍事同盟の強化、もう1つはグローバル化の名の下に強行されてきた弱肉強食、不公正、不平等、多様な格差拡大、貧困層増大―という2つの側面が表裏一体の関係で構造化している点である。
(新自由主義路線と日米安保=日米同盟とがどうつながっているか、その仕組みなどは、ブログ「安原和雄の仏教経済塾」に9月13日付で掲載した「日米同盟の見直しが必要な時―安倍政権破綻後の日本の針路」を参照)

 さて新自由主義路線からの転換の具体的事例としては、まずインド洋での海上自衛艦による米艦船などへの給油継続を中止することを挙げたい。
 この給油継続は日米軍事同盟強化の重要な柱として実施されてきただけに福田首相も給油 ― 仮に一時的に中断しても―にこだわっている。しかし国民の信頼を取り戻し、「自民党の再生」を本気で模索するのであれば、ここは今臨時国会最大の焦点であるテロ対策特別措置法(11月1日で期限切れ)を延長せず、また福田首相が唱えている新法による給油継続も断念するほかないだろう。

 なぜなら世論調査によると、多くの国民は給油継続に疑問を抱いている。それに米国主導の「テロとの戦い」そのものがすでに大義名分を失っているからである。「対外公約」だからといって、給油に執着する必要はない。
(その理由などは、「安原和雄の仏教経済塾」に9月12日付で掲載した「給油継続に執着するのは愚策―行き詰まり深まる安倍政権」を参照)

▽新自由主義路線からの転換を(2)― 「自立と共生」の真意を問う

 福田首相は自民党総裁選で打ち出した政権構想(公約)に「くにづくりの基本理念~改革を進め、その先にめざす社会」として「自立と共生の社会」を掲げた。この自立と共生は一体何を意味しているのか。メディアもほとんど解説を加えていない。民主党の小沢代表が1993年、自民党を飛び出して新たに結成した新生党の理念に「自立と共生」があった。
 そこで小沢代表が「ずっと昔から僕が使っていた言葉だ」と皮肉めいたコメントをつけたほかには福田本人からも格別の説明はない。ここで福田首相の「自立と共生」の真意を問うてみたい。

*自立について
日米安保=日米同盟からの自立、つまり安保破棄(日米安保条約第10条に「日米のうち一方の国が条約終了の意思を通告すれば、1年後に条約は終了する」と定めてある)という選択もあり得る。この日米安保=日米同盟のために多くの日本人の自立心が蝕まれている。「米国と喧嘩するのは得策ではない」という日米安保依存症の虜となっている政財界人、さらに研究者、メディアも少なくない。

仮に日米安保からの自立を選択すれば、その先に何が見えてくるか。1つは自主防衛論、つまり軍事力増強と核武装への衝動である。しかしこの選択は多くの国民の望むところではない。もう1つは、中米のコスタリカ(1949年憲法で常備軍の廃止を明記し、今日に至っている)にならって非武装中立への道を自立的に選択することである。私は中長期展望としては後者のこの選択が最善と考えるが、福田首相の自立への道にこの選択が含まれているわけではない。

 ここで指摘しておきたいのは、財源論の新しい視点についてである。財政再建策とからんで消費税増税が新たな財源として次第に既定路線となりつつあるという印象があるが、この消費税増税の代わりに、なぜ軍事費(年間約5兆円)の大幅な削減を提起しないのか、私には不思議である。多くのメディアも軍事費の削減を触れてはならない聖域とみなしているらしいことは「言論、思想の自由」からいっても恥ずかしいことではないか。

では福田首相にとって自立とはどういう含意なのか。どうも最近、流行の「自己責任論」と同義らしい。くだいていえば、自分のことは自立して自分で面倒を見よ、という意味で、これは一面では自己負担(税と保険料)の増加、他面では福祉など社会保障費の削減を含意している。何のことはない、これでは大幅な自己負担増、不公正、格差拡大、貧困を招く新自由主義路線と大差ないのではないか。

*共生について
共生には本来多様な意味が込められている。人と人との共生、人と企業との共生、世界の中の国と国との共生、さらに人と地球・自然との共生―などである。こういう多様な共生を実現させるためには、単に民間のボランティアだけにゆだねるのでは十分ではない。相互扶助、連帯にしても、単に個人同士や民間企業依存型のそれでは、限界がある。やはり公的支援が不可欠であろう。

 上記の多様な共生を実のあるものに育てるために必要な公的=社会的施策として次の諸点を挙げたい。
1)年金、医療など高齢者対策を含めて十分なセーフティネットを整備すること
2)労働条件の悪化(失業、低賃金、長時間労働、非正規労働の増大など)を改善すること
3)新自由主義に顕著な「軍事力中心の安全保障観」から脱・新自由主義をめざす「命・人間中心の安全保障観」へ転換すること
4)「持続可能な発展」を軸に地球環境保全(地球温暖化防止など)にもっと本腰を入れて取り組むこと
特に強調したいのは、この4本柱は憲法9条(戦争放棄、軍備及び交戦権の否認)と25条(生存権、国の生存権保障義務)の理念を生かすことにほかならないという点である。

 福田首相がどういう共生観をもっているのか、またこれらの4本柱をどう実行するのか、それともその意志はないのかは明確ではない。「国民の生活を守る」と繰り返し強調しているところをみると、自立、共生ともに多少手心を加えるハラなのだろう。しかし手心程度では小泉・安倍政権の構造改革という名の新自由主義路線を転換させるにはほど遠い。

▽「民意を離れた国益」とは?― 民意の尊重こそが民主主義の原点

 自民総裁選最中のテレビ(テレビ朝日)討論で福田氏の次の発言に違和感を覚えた。司会者からインド洋での給油継続問題に関連して、「国益と民意が異なった場合、どちらを選択するか、国益か民意か」と聞かれたとき、福田氏はこう答えた。「それは国益だ」と。国益が民意から支持されなくとも、国益を重視する、という意味である。
 この発言はメディアはあまり取り上げていないように思うが、「民意を離れた国益」とは一体何なのか。国益を論じるのは、政治家や官僚たちであり、一般国民ではない。その国益なるものは、通常、どういう文脈で議論されているのか。

 広辞苑(岩波書店)など辞書によると、「国の利益」、「国家の利益」とあり、それ以上の説明はない。
 インターネットでフリー百科事典『ウィキペディア』をのぞいてみると、「国益(英national interest)とは国家の利益」とある。また「何を国益と定義するのかは曖昧な部分も多い。ただし国益とは本来的に政府の利益であり、個人、特定団体の利益ではない」との説明もある。
 さらに「19世紀の欧州では侵略を目標とし、世界大戦時は各国とも軍国主義により国益を増進させていった経緯もある。米国では国家安全保障戦略として、自由、民主主義、人権、市場経済を機軸とした国家戦略を規定した文書がある。米国が重んじる価値は、自由、民主主義、人権、市場経済体制などであり、これに基づく米国の国益とは、米国の国際社会でのリーダーシップ自体である」という記述も載っている。

 以上をまとめると、国益とは次のような特性を備えているといえるのではないか。
1)国家(政府)の利益であり、国民(市民あるいは民衆)の利益あるいは福祉ではない。
2)国益は戦争によって守るべきものであること、いいかえれば国益は戦争と深くかかわっている。
3)国益の根幹をなすのは自由市場経済体制の擁護である。

 上記の3点は 昨今の米国の外交・軍事政策に顕著にうかがうことができる。米国が重視する価値として自由、民主主義、人権、市場経済体制(もう一つ「法の支配」が米国との共同声明にしばしば登場する)が挙げられているが、アフガニスタン、イラク戦争にのめり込むことによって、いいかえればアフガニスタン、イラクさらに米国の民意を無視あるいは軽視することによって自由、民主主義、人権、法の支配などは事実上空洞化しつつある。
 その一方でのさばっているのは市場経済体制であり、それが資本、企業の利益追求の「自由」と結合して「自由市場経済体制」の旗を高く掲げる新自由主義として、「弱肉強食、不公正、不平等、格差拡大、貧困層増大」をもたらす猛威を振るっている。その猛威ぶりは米国に追随する日本の新自由主義路線も例外ではない。

 福田首相は新内閣発足後初の記者会見(9月25日夜)で「国民生活」と「国家の利益」(つまり国益)を明確に分けて使ったのが印象に残った。これは国民生活に関する民意は尊重するが、国益と民意は関係ないといいたいらしい。つまり国益に関する判断は国家(政府)の専権事項という認識らしい。
 私はこの国家主義的色彩の強い福田発言に危険な思考を感じないわけにはいかない。国益という発想自体がいまや陳腐で、砲艦外交時代の悪しき遺物でしかない。仮に国益なるものがあるとすれば、それは民意を離れては存在し得ない。
 民意の尊重こそが民主主義の原点であり、自民党の再生にもつながるはずだが、福田新政権もしょせん民意を軽視する新自由主義路線の呪縛から抜け出せず、民意を汲み上げることは困難ではないか。

 福田首相は自民総裁選で公表した政権構想(公約)に「民意を大事にし、国民の意見が的確に反映される社会の構築」を掲げている。この公約と「民意よりも国益を重視」の発言とはどう両立するのか、民意を重視する立場からは不可解である。


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二度とない人生だから
〈折々のつぶやき〉33

安原和雄
 このごろ想うこと、感じたこと、ささやかに実践していること―などを気の向くままに記していきたい。
 「二度とない人生だから」という趣旨の一文を近隣の味で評判の寿司屋さんでお土産としていただいた。今回のお土産話は第8話。〈折々のつぶやき〉33回目。(07年9月20日掲載)

◇二度とない人生だから

二度とない人生だから 二度とない人生だから
一輪の花にも 無限の愛をそそいでいこう
一羽の鳥の声にも 無心の耳を傾けよう

二度とない人生だから 一遍でも多く
便りをしよう
返事はかならず書くことにしよう

二度とない人生だから まず一番身近な者たちに
できるだけのことをしよう
貧しいけれど心豊かに接していこう

二度とない人生だから 一匹のこほろぎでも
踏み殺さないように 心してゆこう
どんなにか喜ぶであろう

二度とない人生だから つゆ草のつゆにも
めぐりあいの ふしぎを思い
足をとどめてみつめてゆこう

二度とない人生だから のぼる日しずむ日
まるい月 欠けてゆく月 四季それぞれの
星々の光にふれて
わが心を洗い清めてゆこう

▽安原のコメント― 人間は自然の一員

 ひとくちに言えば、自然への感動と感謝の詩である。人間は日頃偉そうに自力で生きているようにみえても、しょせん自然の恵みによって生かされている、そういう真実への感動と感謝の心をうたっている。仏教では「人間は自然の一員」、いいかえれば人間が自然を支配しているのではなく、その逆に自然のお陰で生かされている―という考え方に立っている。

 こういう考え方は、実は仏教に限らない。
 具体例を紹介しよう。
 1982年の国連総会で採択された「世界自然憲章」の前文は「あらゆる生物はかけがえのないものであり、人間にとって価値があるかないかに関係なく、それ自体、尊敬に値する」と述べている。
 もう一つ、国際自然保護連合(IUCN)、国連環境計画(UNEP)、世界自然保護基金(WWF)の共同報告『新・世界環境保全戦略 かけがえのない地球を大切に』(Caring for the Earth―A Strategy for Sustainable Living,1991)を紹介したい。「生命共同体の尊重と保全」について次のように述べている。
 「互いの人々および地球に対し、私たちが示すべき尊重と思いやりは、持続可能な生活様式のための倫理という形で表現される。(中略)そして自然は人間の必要を満たすために守るだけでなく、本来それ自体、保護されなければならない。(中略)すべての生物種と生態系は、人間にとって利用価値のあるなしにかかわらず尊重しなければならない」と。

 以上のように「あらゆる生物あるいは自然は、人間にとって価値があるかないかに関係なく、それ自体、尊敬に値する、あるいは保護されなければならない」という認識は、生命中心主義、自然の権利を尊重する思想を表明したものであり、その思想は今や国際的に認知されているといえよう。
 この共同報告『新・世界環境保全戦略 かけがえのない地球を大切に』が発表された翌年(1992年)の第一回地球サミットのキーワード、「持続可能な発展」(=持続的発展・Sustainable Development)という概念、思想は、生命・地球中心主義と深く結びついている。

 以上のような「人間は大きな自然の一員にすぎない」という真理が理解されて、人間が謙虚になれば、いいかえれば貪欲なこころを捨てることができれば、この世から争乱が絶えて、もっともっと安穏な環境を手にすることができるのではないか。詩「二度とない人生だから」は、そのことを問いかけているような気がする。


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日米同盟の見直しが必要な時
安倍政権破綻後の日本の針路

安原和雄
安倍首相が突如、辞任した。政局の焦点は首相の後継者選びに移っている。しかし誰が新首相に選出されるか、よりも今後の日本の針路をどう設定するかが重要な課題であろう。
安倍首相の退陣は、日米同盟を基軸とする自民・公明路線の破綻を意味しており、ここは根本から出直す以外に良策はない。その中心テーマは日米同盟をどう見直すかである。日米同盟の呪縛から自らを解放する作業に取りかかるときである。(07年9月13日掲載、同日インターネット新聞「日刊ベリタ」に転載)

▽安倍首相辞任の記者会見

 安倍首相は9月12日午後2時からの緊急記者会見で辞任とその理由について次のように述べた。(9月13日付毎日新聞を参照)

 本日、首相の職を辞するべく決意した。7月29日、参院選の結果は大変厳しい結果だった。(しかし)この改革を止めてはならない、また戦後レジームからの脱却、その方向性を変えてはならないと続投を決意し、今日まで全力で取り組んできた。

 (インド洋での海上自衛隊の給油)活動を中断することがあってはならない、なんとしても継続していかなければならない。これが私の「主張する外交」の中核だ。
 本日、小沢(一郎民主党)党首に党首会談を申し入れ、私の率直な思いと考えを伝えようと(した)。残念ながら党首会談については実質的に断られてしまった。今後、このテロとの戦いを継続させる上において私はどうすべきか。むしろ局面を転換しなければならない。新たな首相の下でテロとの戦いを継続していく、それを目指すべきではないか。

 改革を進めていく、その決意で続投し、そして内閣改造を行ったわけだが、今の状況で国民の支持、信頼の上において力強く政策を前に進めていくことは困難だ。ここは自らがけじめをつけることによって局面を打開しなければならない、そう判断するに至った。

▽祖父、岸信介元首相と日米安保

 以上のような安倍首相の心境の吐露をテレビで聴きながら、私は安倍首相の祖父、岸信介元首相と日米安保のことを考えていた。岸元首相は、いうまでもなく60年(昭和35年)安保改定当時の首相で、現行の日米安保条約を強行採決などの手法を使って成立させた人物である。
 安倍首相は著作『美しい国へ』でその祖父と安保条約のことに詳しく触れている。興味深いのは、以下の描写である。

 安保条約が自然成立する前日の1960年6月18日、国会と官邸は33万人に及ぶデモ隊に囲まれた。官邸に閉じ込められた祖父は、大叔父(佐藤栄作・当時大蔵大臣)と2人でワインを飲みながら「私は決して間違ってはいない。殺されるなら本望だ」と死を意識したという。 

 「アンポ、ハンターイ!」という遠くからのデモ隊の声を聞きながら、まだ6歳、小学校に入る前の子どもだった私は祖父に「アンポって、なあに」と聞いた。
 すると祖父が、「安保条約というのは、日本をアメリカに守ってもらうための条約だ。なんでみんな反対するのかわからないよ」
 そう答えたのをかすかに覚えている。

 祖父は、幼いころから私の目には、国の将来をどうすべきか、そればかり考えていた真摯(しんし)な政治家としか映っていない。それどころか世間のごうごうたる非難を向こうに回して、その泰然とした態度には、身内ながら誇らしく思うようになっていった。間違っているのは、安保反対を叫ぶ彼らの方ではないか。長じるに従って、私はそう思うようになった。
 安保条約をすべて読み込んでみて、日本の将来にとって、死活的な条約だ、と確信をもつことになるのは、大学に入ってからである。

▽悲劇の根因は日米安保=日米同盟路線

 辞任の記者会見に臨んだ安倍首相自身が60年安保争乱当時の光景を思い出していたかどうかは知らない。当時私は新聞社の東京本社社会部駆け出し記者として安保争乱の一端を取材するのが仕事であった。その渦中にまだ幼い頃の安倍首相が居たとは、もちろん知る由もなかった。
 それはともかく私が言いたいのは、安倍首相は祖父、岸元首相の政治家としてのDNA(遺伝子の本体)をそのまま受け継いだ、骨の髄までの日米安保すなわち日米同盟の積極的推進者だということである。著作『美しい国へ』で指摘している「安保条約は日本の将来にとって死活的な条約だ」という確信は尋常ではない。宗教的信仰ともいえるのではないか。しかし彼の「異常にして唐突な辞任」という悲劇の根因は実はそこに伏在していた。

 悲劇の根因としてあげるべきは、信仰の対象である日米安保=日米同盟が彼の思い描くようには機能しなくなったことである。「テロとの戦いを継続させる上において局面を転換しなければならない」という記者会見での発言は、そういう意味であろう。
 自らの信仰が破綻したと思いこんだとき、―それが仮に錯覚であるとしても、その信者はどういう行動を取るだろうか。まして彼は一国の首相である。突然、政権を投げ出すほかなかったともいえるのではないか。
 ああ、そこまで日米安保=日米同盟に束縛されているのか、お気の毒に、と私はむしろ同情を禁じ得ない。

 しかし率直に言って、日米安保=日米同盟路線にこれほど固執するのは時代感覚がいかにもずれている。21世紀の今日、日米同盟路線は破綻しつつあり、その路線は世界の中でむしろ孤立しつつあるというのが私の基本的な時代認識である。従って安倍首相の退陣は単なる首相の辞任というひとつの政治的事件、というよりも日米安保=日米同盟路線を土台とする自民・公明路線そのものの破綻と受け止めたい。

 だから今後の日本の針路を設定する場合、日米同盟をどう見直すかが最重要な課題となるべきである。この一点を軽視すれば、ポスト安倍政権もしょせん時代の要請に応えられない、苦悩から抜け出せない政権となるほかないだろう。

▽大手メディアは首相辞任をどう論じたか

 以上のような時代感覚に立って、安倍首相の辞任を大手6紙(9月13日付)はどのように論じたかを考えてみる。社説(主張)の見出しは以下の通り。

*朝日新聞=安倍首相辞任 あきれた政権放り出し 解散で政権選択を問え
*毎日新聞=安倍首相辞任 国民不在の政権放り投げだ 早期解散で混乱の収拾を
*読売新聞=安倍首相退陣 安定した政治体制を構築せよ 大連立も視野に入れては
*東京新聞=安倍首相、退陣へ 下野か衆院解散か、だ
*産経新聞=首相辞任表明 国際公約を果たす態勢を 稚拙な政権運営をただせ
*日本経済新聞=突然の首相退陣、政局の混迷を憂慮する

 6紙の社説(産経のみ「主張」)を通読して、まず印象に残ったのは、異例、異常、唐突、無責任、前代未聞、職場放棄、政権運営の行き詰まり、リーダーとして未熟―などの表現の氾濫(はんらん)である。たしかにその通りで、それぞれが事態の一面をついているが、現象面の指摘にすぎない。

 臨時国会最大の焦点であるインド洋での海上自衛隊による給油活動の継続問題についてはどのように論評しているか。給油継続に積極的賛成を主張しているのは、どうやら読売と産経のようである。この2紙以外は含みの多い論評となっている。給油継続に明確に反対の立場を打ち出しているのは皆無である。

*朝日=それほど給油活動が大事だというなら、方法はほかにも考えられたろう。辞任で道を開くという理屈は理解に苦しむ。
*毎日=インド洋派遣が中断したとしても、(解散による)衆院選でテロ対策全般について自民、民主両党が競い合い、国民がどちらかを選択する方が賢明なやり方である。
*読売=「テロとの戦い」である海自の給油活動継続は、与野党を超えた幅広い合意で決めることが望ましい。小沢民主党代表も「局面の転換」を図る努力をしてもらいたい。
*東京=ともにテロと戦う国際社会への貢献のあり方は、急ぎ結論を得ねばならない逆転国会の重大テーマだ。首相の退陣が招いた政治空白を長引かせるわけにはいかない。
*産経=首相はブッシュ大統領らに対し、インド洋での給油活動の継続方針を説明してきた。この国際公約を何としても果たせる態勢の構築が急務となる。
*日経=国会は休会状態になり、給油継続問題も宙に浮く形となった。安倍首相に強い気持ちがあれば、一時中断はあっても国際公約である給油継続は可能だったはずである。

「安倍路線の破綻」に言及したのは朝日新聞のみである。いくつか拾い出すと、「基本的な安倍政治の路線は幾重にも破綻(はたん)をきたしていた」とした上で、次のような事例をあげている。

・小泉改革の継承をうたいながら、郵政造反議員を続々と復党させた。
・参院選で大敗すると「改革の影に光をあてる」と路線転換の構えを見せるしかなかった。
・首相の一枚看板だった対北朝鮮の強硬路線も、米国が北朝鮮との対話路線にハンドルを切り、行き詰まった。
・宿願だった憲法改正が有権者にほとんど見向きもされず、実現の見通しも立たなくなった。
・選挙後、「美しい国」「戦後レジームからの脱却」という安倍カラーが影をひそめざるを得なかったところに、安倍政治の破綻が象徴されていた。もはや、それは繕いきれなくなったということだろう。

 しかしこの朝日新聞の破綻論も日米安保=日米同盟路線の破綻を意味しているわけではない。もちろん個々の指摘が間違っているわけではないが、安倍政治の行き詰まりの事例をあげているにすぎない。

▽なぜ日米安保=日米同盟路線の見直しが必要なのか

 まず日米安保=日米同盟路線の2つの柱を指摘したい。それは経済同盟と軍事同盟である。日米安保条約は次のように定めている。
*第2条(経済的協力の促進)締約国は、その自由な諸制度を強化することにより、(中略)国際経済政策におけるくい違いを除くことに努め、また両国の間の経済的協力を促進する。
*第3条(自衛力の維持発展)締約国は、個別的に及び相互に協力して、(中略)武力攻撃に抵抗するそれぞれの能力を、憲法上の規定に従うことを条件として、維持し発展させる。

 第2条が日米経済同盟の根拠規定であり、ここから新自由主義(=自由市場原理主義、新保守主義)路線が1980年代の中曽根政権時代に導入され、小泉・安倍政権下で横行し、最高潮に達した。
 この2条の「自由な諸制度の強化」の「自由」、さらに新自由主義の「自由」の意味するところが曲者(くせもの)であり、市民レベルの自由・人権というよりも資本、企業の自由な利益極大化の追求を容認することにほかならない。
 そのために自由化、民営化を広げ、弱肉強食をすすめ、競争と効率を旗印に格差拡大をもたらした。昨今の自殺、犯罪、カネにからむ不正などの増大、さらに労働条件の悪化(非正規労働の増加、低賃金など)の多くはこの新自由主義路線の悪しき産物である。それに対する国民の反撃が参院選での自民党の惨敗であった。

 一方、第3条が日米軍事同盟の根拠規定であり、これを第5条(共同防衛)、第6条(基地の許与)などの規定が支えている。特に見逃せないのは、1990年代後半以降、「安保の再定義」によって従来の「極東の日米同盟」から「世界の中の日米同盟」へと安保の対象地域が変質したことである。
 安倍政権が憲法9条(戦争放棄、非武装、交戦権の否認)の改悪を意図し、「米国と共に戦争のできる国」への仕上げを急ごうとしたのも、また安倍首相が辞任会見で強調した「テロとの戦い」、「インド洋での給油の継続」も、この「世界の中の日米同盟」路線への忠誠にほかならない。

 しかしこの「テロとの戦い」ひとつをみても、すでに行き詰まっており、破綻している。こういう日米同盟路線に国民の多くは疑問を抱いている。米国主導の「テロとの戦い」に日本が事実上の参戦を続行する大義はすでに失われている。
(その理由などは、「安原和雄の仏教経済塾」に9月12日付で掲載した「給油継続に執着するのは愚策」を参照)

 さてではこれにどう対応するか。中長期的には日米安保=日米同盟路線の解体を視野に収めるほかないが、当面は情勢に応じて見直すときではないか。具体的には「テロとの戦い」から離脱することである。今臨時国会での焦点である給油継続のための法的措置を断念すれば、それでよい。政治的決断と大仰に考えるほどのテーマではないだろう。

 日米同盟だからといって、安倍首相のように「同盟の呪縛」に硬直状態になる必要はない。対等の日米関係であるはずだから、「今回は失礼」といえるのではないか。
 すでに離脱している国は多いのであり、日本が先頭を切るわけではない。船が難破して、さてどうするかというとき、日本人向けの有名なジョークがあるではないか。「他の国の方々はすでに飛び込みましたよ、日本の皆さんもいかがですか」と。日本人お得意の横並び行動様式を皮肉ったものだが、これを日常感覚で実践するときではないか。



〈参考〉このブログ「安原和雄の仏教経済塾」にこれまで掲載した安倍政権批判、日米安保=日米同盟批判に関する主な記事の見出しを以下に掲げる。かっこ内は掲載年月日。

▽安倍政権への批判
*給油継続に執着するのは愚策 行き詰まり深まる安倍政権(07年9月12日)
*集団的自衛権行使は許されぬ 前内閣法制局長官が明言(同年8月18日)
*惨敗した「美しい国、日本」 もう一つの改革を選択する時(同年7月30日)
*首相の「美しい国」を批判する その時代錯誤にして危うい方向(06年10月2日)
*「安倍劇場」演出にも加担するのか メディアは批判精神を取り戻そう(同年9月27日) *ふたたび日本を滅ぼすのか 針路誤る安倍自民党丸の船出(同年9月21日)

▽日米安保=日米同盟への批判
*久間「原爆発言」に想うこと 「戦争絶滅法案」を生かす時(07年7月7日)
*「大東亜戦争」と新聞の責任 「盲従の時代」再来を恐れる(同年6月29日)
*日米安保体制の軌跡を追う 平和憲法9条を守る視点から(同年6月22日)
*財界人の戦争・平和観を追う 侵略戦争を認識した村田省蔵(同年6月16日)
*日米安保体制は時代遅れだ 米国からの内部告発(同年5月18日)
*MDでほくそ笑む「軍産複合体」 北朝鮮ミサイル「脅威」の陰で(06年7月13日)
*日米首脳会談とミサイル防衛協力 「新世紀の日米同盟」の危険な選択(同年7月3日)
*06年元旦「社説」を読んで 日米同盟の呪縛から脱却を(同年1月2日)

(寸評、提案歓迎! 下記の「コメント」をクリックして、自由に書き込んで下さい。実名入りでなく、仮名でも結構です)
給油継続に執着するのは愚策
行き詰まり深まる安倍政権

安原和雄
 臨時国会(9月10日召集)最大の焦点は、インド洋で米軍中心の多国籍軍に対し、海上自衛隊が現在実施中の給油を今後も継続するための法的措置をとれるかどうかである。
安倍政権は現行のテロ対策特措法(11月1日で期限切れ)の延長策よりも、新法の成立によって、給油継続を図る考えと伝えられるが、参院で第1党になった民主党は給油継続そのものに反対している。
 肝心の米軍主導の対テロ戦争はかえってテロの拡大を招き、対テロ戦争としては失敗に終わっている。そういう対テロ戦争を後方支援するための給油を継続する理由はないだろう。継続にこだわるのは愚策というべきであり、参院選での自民党の惨敗以降、いよいよ行き詰まりが深まる安倍政権―という印象が広がるばかりである。(07年9月12日掲載、同日インターネット新聞「日刊ベリタ」に転載)

 (追記:この記事を掲載してから約2時間半後の12日午後2時から安倍首相は緊急記者会見を行い、辞任の意思を表明した)

▽型どおりの所信表明に終わった給油問題

 安倍首相は臨時国会召集に先立つ9日、訪問先のオーストラリア・シドニー市内で記者会見し、各紙の報道によると、インド洋での給油継続について「国際公約となった以上、、大きな責任がある。野党の理解を得るため職を賭していく」と表明し、給油継続ができなくなった場合、「職責にしがみつくことはない」と明言した。これは政治責任を取り、退陣する意向を示したものと受け止められている。
これだけの決意を明確にしたのだから、臨時国会での所信表明では、さぞかし給油継続がなぜ今重要なのかについて詳しく説明するだろうと予想していたが、実際にはごく短い型どおりの見解表明に終わり、「職を賭す」ほどの覚悟を感じさせるものではない。その内容は次の通り。

 私は今後とも主張する外交を展開する。世界の平和と安定なくして、日本の安全と繁栄はない。米国同時多発テロで、24名もの日本人の尊い命が奪われたことを忘れてはならない。テロとの闘いは続いている。
 テロ特措法に基づく海上自衛隊の活動は、諸外国が団結して行っている海上阻止活動の不可欠な基盤となっており、国際社会から高い評価を受けている。灼熱のインド洋で黙々と勤務に従事する自衛隊員こそ、世界から期待される日本の国際貢献の姿である。
 ここで撤退し、国際社会における責任を放棄して、本当にいいのか。引き続き活動が継続できるよう、是非ともご理解いただきたい。

▽大手6紙の社説にみる論調

 大手6紙の社説(産経のみ主張、9月11日付)は給油問題でどう書いたか。まず見出しを紹介しよう。
朝日新聞=首相の決意 理解に苦しむ論理だ
毎日新聞=安倍首相 退陣含みの国会が始まった
東京新聞=安倍演説 言葉が軽すぎないか
読売新聞=所信表明演説 海自の活動継続は国際責任だ
産経新聞=首相の決意 国民の心に届く説明必要
日本経済新聞=退路を断って臨時国会に臨んだ安倍首相

 これらの見出しから社説・主張の中身もそれなりに推測できるが、以下に要点をまとめてみる。大づかみにいえば、朝日、毎日、東京は批判的であり、読売と産経は給油継続に賛成の立場をとっている。一方、日経は悲観的な状況判断に立って首相を激励する視点をうかがわせている。
 
朝日=「国際公約」は手前勝手だ
 給油活動の継続を「国際公約」と位置づけたのも納得できない。テロ特措法の期限が切れる11月1日までの活動は、国会の多数が賛成したことであり、日本の国際公約と言えなくもない。だが、首相自身が米ブッシュ大統領らに「継続に最大限努力する」と誓ったからといって、それを「国際公約だ」と言いつのるのは手前勝手というものだ。

毎日=手詰まり状態にある首相
 国会審議前に自ら進退に言及するのは異例のことだ。それだけ首相が手詰まり状態にあることを示していよう。(中略)テロ特措法の期限切れを想定し、政府・与党で検討している新法も柱は海上自衛隊の給油活動だ。給油活動を休止し、アフガニスタンでの人道支援をという民主党との隔たりは大きく、歩み寄りは難しい。

東京=首相としての資質にかかわる発言
 私たちはバッシングを受けながらも、なお政権にとどまる理由を知りたかった。しかし、納得できる答えはなかった。そもそも、続投を宣言しながら、テロ特措法が延長できなければ退陣するとの発言は整合性を欠き、理解に苦しむ。少し混乱しているのではないか。首相としての資質にかかわる問題ともいえる。

読売=世界の平和と日本の繁栄
 首相は、所信表明演説で「世界の平和と安定なくして、日本の安全と繁栄はない」と述べた。通商国家である日本として当然である。日本の国益の観点からも、国際テロとの戦いの継続という「国際社会における責任」を放棄することはできない。政府は、民主党の主張も聞きながら新法案を提出する準備を進めている。

産経=給油は海上輸送路の維持にも貢献
 無償の給油には累計約220億円の費用がかかっている。しかし、日本の国際社会での地位や海上輸送路の維持にもつながることを考えれば、「無料ガソリンスタンド」といった批判は不謹慎で、自虐的すぎる。同盟国米国との信頼関係維持は拉致問題の解決や日本の安全保障にも資する。給油活動の継続がもつ意味は大きい。

日経=首相は捨て身の覚悟で政策遂行を
 9日の記者会見で自ら退陣の可能性に触れたことで、首相は今国会中に給油継続を実現するという目標を課したといえる。テロ特措法に限らず、野党が反対する法案を成立させることは極めて難しくなった。(中略)政権を取り巻く状況は一段と厳しい。首相は捨て身の覚悟で政策を遂行する責務を負っている。

▽対テロ戦争をどう考えるか?―「米国の爆撃こそが国際テロの見本」

 毎日新聞(07年9月11日付)は社会批評家、米マサチューセッツ工科大学のノーム・チョムスキー教授(78)とのインタビュー記事(聞き手は小倉孝保記者)を掲載した。これは「9.11」(01年9月11日の米同時多発テロ)から6年になるのにちなんで行われた。
 同教授は「米国の爆撃こそが国際テロの見本」などと語り、多くのアメリカ人や日本人が抱いているのとは180度異質のテロ観を提示している。そのテロ観には大筋で共感を覚えるので、以下に大要を紹介する。

*米国の対テロ戦争は、テロの脅威を増大させた
(同時多発テロが世界に与えた影響は、との問いに対し)9.11の直後から予測されたことだが、いろいろな国が「テロからの保護」を口実に市民の管理を強めた。そして最も大きなインパクトを与えたのが(米軍による)イラク侵攻だった。これによりテロの脅威は明らかに増大した。

*イラク、アフガン侵攻は戦争犯罪
 (ブッシュ米政権は「テロとの戦い」と主張している、との質問に対し)米国が「テロとの戦い」を宣言したのは初めてではない。レーガン政権も「テロとの戦い」を口実に中米、南部アフリカ、中東を軍事攻撃した。これは強国がプロパガンダとしてよく取る手法で、ブッシュ政権も同様だ。
 イラク侵攻は戦争犯罪であり、日本やドイツの指導者が(第二次大戦で)裁かれたのと同じものだ。アフガン侵攻も戦争犯罪だ。(アフガンを実効支配した)タリバンは米国に、9.11とウサマ・ビンラディン(9.11テロの首謀者とされる)との関係を示す証拠を出せと要求したが、米国はこれを拒否した。タリバン政権転覆のため米国が爆撃したことこそ国際テロの見本だ。

*暴力ではなく、警察的手法で解決を
 (米国は9.11テロにどう対処すべきだったのか、という質問に対し)テロ攻撃は犯罪であり、警察による捜査手続きが行われるべきだった。国際的な問題なら国連のような機関で対応しなければならない。ビンラディンのような人物を暴力で攻撃すると、怒りを増大させるだけに終わる。証拠を積み上げ、警察的な手法で解決するしかない。
 イラク侵攻でテロの脅威は増大した。テロの脅威を減らすには、警察的なやり方しかない。

*米国の中東政策がアラブ人に反米感情を植え付けた
 (9.11と米外交政策との関連は、との質問に対し)関連は当然、ある。長年の米国の中東政策がアラブ人に反米感情を植え付け、9.11へとつながった。第二次大戦以降、米国にとって石油資源の支配が重要な課題になり、それに即した政策を米国は取った。自国が石油を使用するためではなく、石油を支配することで日本のような産業国への拒否権を確保しようとしたのだ。

*もう一つの「9.11」の方が世界への影響は大きい
 (同教授が「これだけは言っておきたい」と切り出し、語ったこと)01年は2度目の「9.11」で、最初の「9.11」は1973年に米国の支援を受けた南米・チリの軍部が、民主的に選ばれたアジェンデ社会主義政権を打倒したクーデターのことだ。アジェンデ大統領ほか、多数(約3000人)が殺害あるいは行方不明となった。
 このクーデターによって中南米では、反対派を暗殺して独裁政権を打ち立てる歴史が始まった。最初の9.11の方が2番目よりはるかに大きな悪影響を世界に与えた。

 聞き手の小倉記者は最後に次のような解説で結んでいる。
 被害者として「9.11」を考えるとき、加害者としてもう一つの「9.11」に思いをはせるべきだ。それなくしてテロの恐怖は消えない。教授が伝えたかったのは、そういうことではないか―と。

 これには私(安原)も同感である。
以上のような同教授の見解の大筋は、これまで彼の著作で表明している持論であるが、こういう少数意見をこの時点であえて紹介した毎日新聞の見識を評価したい。

▽なぜ給油継続が愚策といえるのか?

 私は安倍政権が対テロ戦争支援のためにインド洋での給油継続に執着するのは、大道を見失った愚策だと考える。ここで給油活動を思い切って止めた方がアメリカからは失望を買うだろうが、多くの国々や良識ある世界の人々にはむしろ賞賛されるのではないかと考える。その理由は以下のようである。

1)テロ対策としてマイナスの効果しかないこと 
 上述のチョムスキー教授も指摘しているように米国主導の対テロ戦争は、むしろ怒りと反発を高め、かえってテロの脅威を増大させるという「マイナス効果」の悪循環に陥っている。 毎日新聞(9月12日付)は「自爆攻撃 急増」の見出しで次のように報じた。
 「アフガニスタンで07年1~8月に発生した自爆攻撃は103件に上り、今年は、過去最多だった06年(年間で123件)を大幅に上回ることが、国連アフガン支援ミッション(UNAMA)の調査で確実となった。標的は76%がアフガン治安部隊、北大西洋条約機構(NATO)軍主導の国際治安支援部隊だが、死者の66%は民間人だった」と。

2)米国主導の対テロ戦争は戦争ビジネスになっていること
 米国は対テロ戦争を口実に巨額の軍事費を計上し、そのお陰で米国の戦争勢力といえる「軍産複合体」(軍部、兵器メーカー、エネルギー産業さらに保守的な研究者、メディアなどの複合体)が潤っている。こうして米国では戦争ビジネスが構造化している。その一方で命・人権の軽視が横行し、多様な貧困が累積し、経済的社会的な格差拡大を顕著にしている。
 そういう大きな負の効果をもたらす対テロ戦争を日本が給油のための財政負担(給油費用は累計で約220億円)までして支援する大義名分はない。

3)事実上の参戦であり、憲法違反であること
米国は日本の給油活動の継続にご執心だが、それは給油という後方支援が中止されれば、米国の対テロ戦争そのものに支障を来すからである。日本では前線での戦闘・攻撃に参加しないで、後方支援(戦闘にかかわる給油、給水、物資の輸送など)にとどまっている限り、人道支援であり、参戦ではないという理解が多いが、これは誤解である。
 前線での戦闘と後方支援は表裏一体の関係にあり、日本の給油活動は事実上の参戦である。憲法9条(戦争放棄、交戦権の否認)の違反に相当するだろう。

4)軍事力でシーレーン(海上輸送路)を確保する時代ではないこと
産経新聞の主張(9月11日付)は、「日本の給油は海上輸送路の維持にも貢献」と書いた。また平成18年版『防衛白書』は次のように指摘している。
 「イラク人道復興支援特措法(03年7月成立)によるわが国の支援活動は、イラクをテロの温床とせず、(中略)将来にわたるイラクとわが国の良好な絆の礎(いしずえ)となるものである。これは中東地域全体の安定に寄与するのみならず、石油資源の9割近くをこの地域に依存しているわが国にとって、国家の繁栄と安定に直結する極めて重要なことでもある」と。
 要するに石油の安定的確保とその海上輸送路の維持が自衛隊派兵のねらいだというわけだが、資源の確保を軍事力に依存する時代ではない。軍事力志向は、いかにも陳腐な経済大国的衝動であり、それとは異質の平和外交こそが資源の安定的輸入の決め手となることを認識したい。


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「林住期入り」した友人
〈折々のつぶやき〉32

安原和雄
 このごろ想うこと、感じたこと、ささやかに実践していること―などを気の向くままに記していきたい。〈折々のつぶやき〉32回目。(2007年9月7日掲載)

 最近、商社マン出身で、教えられることの多い友人から次のような一文をいただきました。題して「林住期入りのご挨拶」とあります。その趣旨を紹介します。なお氏名はイニシャルとさせていただきます。

▽林住期入りのご挨拶

 私こと、このたび発心し、有縁のまち札幌で林住期に入ることと致しました。これからは俗世のしがらみと煩悩を断ち、方丈に隠棲し求道の日々を送ります。
 学生期、家住期を通じ賜りましたご芳情の数々、誠に有り難く、厚く御礼申し上げます。
ご縁を得て来世で、またお目にかかれますことを大変楽しみに致しております。
 末筆ながら皆々様の幾久しきご多幸を心よりお祈り申し上げ、ご挨拶とさせて頂きます。 合掌
  2007年9月  札幌にて  T.S.


 「俗世のしがらみと煩悩を断ち、方丈に隠棲し求道の日々を・・・」、さらに「ご縁を得て来世で、またお目にかかれますことを大変楽しみに・・・」とあることからみて、これからの現世における生き方に並々ならぬ決意のほどが伝わってきます。

 インドでは、人生を4つの時期に分ける考え方、生き方があります。第1は、学生期で修行に励む。第2は家住期で職業と家庭を中心に社会生活を営む。第3は、林住期で仕事と家庭を捨てて森林に住む。第4は、遊行期で、天下を周遊し、人の道を伝える。
 『岩波 仏教辞典 第二版』には遊行(ゆぎょう)について「諸国を回って仏道を修行すること。少欲知足を旨とし、托鉢(たくはつ)を糊口(ここう)の資としてひたすら解脱(げだつ)を求めるのが本意」とあります。 

 T.S.さん(1941年生れ)は仏教について理解が深く、かれのHPには示唆深いコラムがいくつも盛り込まれています。その一つ、「不殺生戒」に関する説法を以下に紹介しましょう。題名は、「不殺生戒」を今あらためて―です。

▽「不殺生戒」を今あらためて

 在家の人々に対する仏教の五つの戒め「五戒」、その第一番目は【不殺生戒】(ふせっしょうかい―殺すなかれ)です。生きとし生けるものは、たとえ小さな虫一匹であれ、決して殺してはならないという教えです。

 「人間」と「他の生き物」とは対称性の関係にある、「人間の命」と「他の生き物の命」とは繋がっているという考え方に基づく教えと理解しています。

 現代生活において、この教えを完全に実行することはかなり無理があります。しかし、一寸の虫にもかけがえのない「命」がある、殺すのはかわいそうという『慈悲の心』が拡がれば、無益な殺生は少なくなるでしょうし、いわんや「人間」を殺すなぞという野蛮で残酷なことはとても出来なくなる筈です。

 ユダヤ教・キリスト教・イスラム教の拠り所ともいえるモーゼの「十戒」にも、【殺すなかれ】はあります。しかし「十戒」は【汝、我以外の何者も神にするべからず】が最初の戒めであり、【殺すなかれ】はようやく五番目に(区切り方によっては六番目に)登場します。しかもそれは「人間」を殺すなかれです。仏教の「五戒」と較べる時、一神教の何たるかがよくわかる気がしますし、またそこでは「人間」と「他の生き物」とは必然的に非対称の関係になると考えられます。

 世界中で、特に9.11(2001年の米国における同時多発テロ)以降、「人間の命」が本当に軽くなってきています。明らかに何かが狂い始めていると思わずにはいられません。
 「生きとし生けるものの命は等しく重い、一匹の虫も殺すな」というお釈迦様の教えが、今あらためて求められていると考えています。

 尚「五戒」の残る四つは、
 【不偸盗戒】(ふちゅうとうかい―盗むなかれ)
 【不邪淫戒】(ふじゃいんかい―邪淫するなかれ)
 【不妄語戒】(ふもうごかい―嘘をつくなかれ)
 【不飲酒戒】(ふおんじゅかい―酒を飲むなかれ)です。 以上

▽異風・年賀状

 この機会に別人の「異風・年賀状」ともいえる一文を以下に紹介します。

 謹 賀 新 年
 2000年元旦
 良き新年をお迎えのこととお慶び申し上げます。
 さて20世紀最後の今春、小生、統計上の高齢者の仲間入りと相成る次第です。万般の感慨抑え難きものがありますが、とりわけ吉田兼好の『徒然草』の心境にこころ惹(ひ)かれるところがあります。

 「人間の儀式、いづれの事か去り難からぬ。世俗の黙(もだ)し難きに随(したが)ひて、これを必ずとせば、願ひも多く、身も苦しく、心の暇もなく、一生は、雑事の小節にさえられて、空しく暮れなん。日暮れ、途遠し。(中略)諸縁を放下(ほうげ)すべき時なり」(第百十二段)

 『徒然草』は21世紀にもなお日本文化の中に生き続けるに違いないとの感を深くしますが、その兼好の意にあやかって愚考するところあり、新世紀の明年から賀状を欠礼させていただきます。ご無礼の段、ご寛恕下さい。

 とは申しても、諸縁をすべて放下し、世捨て人になろうという気は毛頭ありません。今後とも21世紀の日本はいかにあるべきかに私なりに問いかけていく所存です。一期一会の精神を忘れず、人生道に精進を続ける気構えに変わりはありません。自由闊達な談論もよし、盃を傾けるのもまたよし。その機会あれば、万難を排して馳せ参じます。
 皆様のご多幸とご自愛専一を祈り上げます。  K.Y.   

▽安原のコメント―人それぞれの生き方

 前者のT.S.さんと後者のK.Y.さんの生き方の大きな違いは、前者が「煩悩を断ち・・・」と宣言しているのに対し、後者は「雑事は捨てて、一期一会の精神で生きるが、煩悩は捨て切れない、むしろ煩悩とともに生きていく」旨を指摘している点です。
 これはどちらが善いか、という善悪の問題ではありません。人それぞれの生き方をどう選択するか、でしょう。

 65歳を一つの区切りとして、それ以降の生き方にどういうイメージを描くことができるでしょうか。とりあえず4つの選択肢が考えられます。あなたなら、どれを選びますか?
1)煩悩を断ち、仏道に生きる
2)煩悩と共に生きながら、それを調整し、多少なりとも利他行(自利利他の調和を求める実践)と知足(足るを知ること)の精神を心掛けていく
3)「カネと欲」のままに ― つまり私利中心に貪欲に生きる
4)カネと欲はほどほどにして、他人様に迷惑を掛けないように趣味に生きがいを見出し、余生を過ごす

 なお上記の年賀状(2000年元旦)の発信者は実は私(安原)です。その年の春にちょうど65歳になり、高齢者の仲間入りする、その機会に発想を変え、遊び心を生かして新しい手法の年賀状を試みました。こういう年賀状をわざわざ送ったその意図、さらに年賀状を受け取った人たちの反響などは、2006年元旦の日付でこの仏教経済塾に「異風・年賀状 〈折々のつぶやき〉1」―として掲載してあります。
 関心のある方はご覧下されば、幸いです。


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自然にも権利があります
〈折々のつぶやき〉31

安原和雄
 このごろ想うこと、感じたこと、ささやかに実践していること―などを気の向くままに記していきたい。〈折々のつぶやき〉31回目。(2007年9月3日掲載)

 「自然にも権利があります」と題した一文を最近、手にしました。発信者は「自然の権利」基金事務局長 弁護士 籠橋隆明氏です。A4版1枚の裏表に書き込まれている趣旨に共感を覚えるので、以下にその内容を紹介します。

▽自然が自然のままであることの大切さ

「自然にも権利があります」というと、
多くの人は変に思うかもしれません。
でも、各地で進んでいる自然破壊の実態を見るとき
自然が自然のままであることの重要性を
肌で感じることはないでしょうか。

身近な自然にしても、多くの木々が伐採されるときや
ふるさとの川がコンクリート三面張りに改修されたとき
私たちはそこに棲んでいた野生生物に思いを馳せます。
メダカまでもが絶滅を心配されている今日、
深刻な自然破壊を前に私たちは
「自然にも生きる権利があれば・・・」と
願うことも稀ではありません。

それは、人と自然との関係の中で生まれた、すぐれて人間的な感性です。
「大切なものが失われた」と自然が破壊されたときに
私たちが受ける素朴で純粋な印象こそが
「自然の権利」の原点です。

▽「自然の権利」基金が取り組んでいる事件

 「自然の権利」基金は、アマミノクロウサギを原告とした「奄美『自然の権利』訴訟」を契機に1996年に設立されました。「自然の権利」運動を応援するとともに、自然保護のために裁判などの法的手段を利用する、全国各地のNGOを応援しています。
訴訟の具体例はつぎの通りです。

*諫早湾「自然の権利」訴訟
 農水省による干拓事業に反対し、諫早湾・ムツゴロウなどを原告として提起されました。干拓事業建設費の差し止めを求めています。

*泡瀬干潟「自然の権利」訴訟
 沖縄市の中城湾に面した広大な干潟を、開発から守る裁判です。地域の人々に加え、泡瀬干潟・ムナグロ・ユンタクシジミなども原告です。

*奄美ウミガメ訴訟
 奄美大島・戸円(とえん)地区で行われている海砂採取を中止させる裁判です。ウミガメが産卵できる砂浜をとりもどします。

*やんばる訴訟
 沖縄県北部、ヤンバルクイナたちのすむ亜熱帯の森を守る裁判です。また大規模開発による赤土流出からサンゴの海を守ります。

*沖縄ジュゴン「自然の権利」訴訟
 沖縄本島中北部・東海岸辺野古(へのこ)沖の米軍事基地建設から沖縄のジュゴンを守ります。ジュゴンを原告に米国法を使って訴えを起こしました。

*馬毛島「自然の権利」訴訟
 種子島近くの馬毛島(まげしま)という無人島の、一業者による開発差し止めを求めます。島にすむマゲシカや島の自然を守ります。

▽安原のコメント(1)―「自然の権利」の歴史をたどると・・・

 上述の記事は次の文言から始まっています。
 「自然にも権利があります」というと、多くの人は変に思うかもしれません―と。
 たしかにそうなのでしょう。ただこの機会に「自然の権利」の歴史を少し振り返ってみると、その歴史は、米国の環境思想史研究者、環境運動の実践的指導者として知られるロデリック・F・ナッシュ(1939年生まれ、カリフォルニア大学歴史学部名誉教授)著/松野 弘 訳『自然の権利―環境倫理の文明史』(ちくま学芸文庫、1999年)に詳しく紹介されています。

 それによると、環境倫理学の先駆者、エドワード・P・エヴァンズ(1831~1917年)は「人間以外の生命体には、本来固有の権利があり、それを人間は侵害すべきではない」と主張しました。しかも彼は「人間以外の生命体」にすべての「感覚をもつような」生物、さらに岩石や鉱物など無生物も含めていました。これが「自然の権利」説のはしりとはいえないでしょうか。
 その後、ノルウェーの哲学者、アルネ・ネスが1972年にディープ・エコロジー(deep ecology=生命中心主義的で深遠な生態学)を提案しました。その3本柱は、生物圏全体の民主主義、植物を含むすべての生物に対する平等の権利、その中心にあるのは自然や地球―です。ディープ・エコロジー派は、これ以外の生態学、環境主義派をシャロー・エコロジー(shallow ecology=人間中心的で皮相な生態学)と呼びました。

 わが国でも、このディープ・エコロジー論が一時脚光を浴びたように思いますが、「自然の権利」が裁判に持ち込まれるようになったのは、たしか1990年代後半からです。欧米流の思想や実践に比べれば、残念ながら20年以上も後塵を拝している状態といわざるを得ません。

(なおこの著作の文庫版への序文で著者は「仏教徒は、十分に発達した倫理が自然のありとあらゆるものを含んでいることを理解している」と環境倫理との関連で日本仏教への理解を示していることを紹介しておきたい)

▽安原のコメント(2)―「自然の権利」と「人間の生存権」と

 なぜ日本は、このように欧米に後れをとるのでしょうか ?
 その最大の要因は経済成長優先主義を捨てきれないからでしょう。政府や経済界が「経済成長と環境保全の両立」というスローガン、発想を克服しようという意志がないからです。このスローガンにこだわる限り、どうしても経済成長優先で、環境保全は二の次になってしまいます。これでは来年(2008年)7月の北海道洞爺湖・サミット(主要国首脳会議)の中心テーマ、地球環境問題で日本がイニシアティブを発揮できるかどうか、心もとないというほかありません。

 「自然の権利」感覚を広めるにはどうしたらよいでしょうか ?
 まず自然の多様な恵みを享受して、人間が生を営んでいる事実を認識することです。
 さらに「お陰様で」と自然の恵みに感謝することです。
 その上、「自然の権利」を大切にすることが、すなわち「人間の生存権」(憲法25条)の尊重、いいかえれば人間としての尊厳を失わずに生きることにもつながっていることを理解することです。

 小泉政権時代の新自由主義(=自由市場原理主義、新保守主義)路線に安倍政権がこだわると、弱肉強食(=優勝劣敗)のすすめによって、一部の強者(大企業、資産家、高額所得者)と大多数の弱者の間の格差拡大は止むところがないといわざるを得ません。
 それが何をもたらすでしょうか。結論を有り体にいえば、「自然の権利」も「人間の生存権」も踏みつけにされることを意味します。
だから一番大事なことは、「自然の権利」も「人間の生存権」も破壊し、台無しにしてしまう憲法9条改悪を阻むことです。

 昔、「万国の労働者よ、団結せよ!」と偉大な思想家が呼びかけました。それにあやかって「誇り高き大多数の弱者・自然の権利者たちよ、立ち上がろう!」と言いたいですね。
もちろん私自身、その弱者の一人です。
 ただのつぶやきのつもりが、脱線気味で大声の主張になってしまいました。ここまで読んでいただいた方々にはただただ感謝あるのみです。


(なお「自然の権利」基金事務局の連絡先は、〒451-0031 名古屋市西区城西1-12-12 パークサイトビル3階 名古屋E&J法律事務所内、 TEL:052-528-1562、FAX:052-528-1561)

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