「もっともっと欲しい」の貪欲の経済から、「足るを知る」知足の経済へ。さらにいのちを尊重する「持続の経済」へ。日本は幸せをとりもどすことができるでしょうか、考え、提言し、みなさんと語り合いたいと思います。(京都・龍安寺の石庭)
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惨敗した「美しい国、日本」
もう一つの改革を選択する時

安原和雄
 安倍政権初の「政権審判」である今回の参院選(07年7月29日投票)の結果、「美しい国、日本」を掲げて戦った自民は惨敗し、安倍自公政権として参院での過半数を大きく割り込んだ。これは「美しい国、日本」を推進する新自由主義路線そのものが国民から見放され、惨敗したというべきである。今後の課題は、新自由主義(=新保守主義、自由市場原理主義)とは異質の「もう一つの改革路線」を選択することである。その選択にどこまで取り組むことができるか、参院での第一党へと躍進した民主党の責任は重大といわなければならない。(07年7月30日掲載、同日インターネット新聞「日刊ベリタ」に転載)

▽社説は、「美しい国」、「格差拡大」をどう論じたか

 参院選の結果についてメディアはどう報道したか。まず大手6紙(7月30日付)の社説(または主張)の見出しを紹介しよう。
朝日新聞=安倍政治への不信任だ  参院選 自民惨敗
毎日新聞=民意は「安倍政治」を否定した  衆院の早期解散で信を問え
読売新聞=国政の混迷は許されない  参院与野党逆転
東京新聞=「私の内閣」存立難しく  安倍自民が惨敗
産経新聞=民主党の責任は大きい  首相は反省し態勢強化図れ
日本経済新聞=安倍首相はこの審判を厳粛に受け止めよ

次に社説(主張)の中から、安倍政権を特色づけている「美しい国」、「戦後レジームからの脱却」、「格差拡大」などにどう言及しているかを紹介する。朝日新聞と東京新聞が批判的であるのに対し、読売新聞と産経新聞の主張は、同情論、弁護論となっている。その要点はつぎの通り。

<朝日新聞>
 地方の疲弊に象徴される格差への国民の不満、将来への不安は、都市住民や若い世代にも共通するものだ。とりわけ弱者の暮らしや安心をどう支えるのか、これこそが、小泉改革を引き継いだ首相が第一に取り組むべき課題だった。
 ところが首相が持ち出したのは「美しい国」であり、「戦後レジームからの脱却」だった。憲法改正のための国民投票法をつくり、教育基本法を改正し、防衛庁を省に昇格させた。
 自民党は成長重視の政策などを打ち出し、実際、景気は拡大基調にある。なのになぜ負けたのか。

<東京新聞>
 忘れるわけにはいかないのは、主要な争点が小泉・安倍政権通算6年半の決算でもあったことである。地方・弱者切り捨て政治だ、と格差拡大を攻める野党に、与党の反論は迫力を欠いた。地方の荒廃が進み、都市住民にも不公平感が募る中での「政権審判」選挙だったのだ。

<読売新聞>
 格差の拡大は、「失われた10年」の間、経済再建に有効な手を打てなかったことや小泉前政権で、竹中平蔵・経済財政相が主導した極端な市場原理主義にも原因がある。安倍首相が、小泉政治の行き過ぎた面と一線を画していれば、小泉政治のマイナス面と同罪と見られることはなかっただろう。

<産経新聞>
 「戦後レジーム(体制)」からの脱却を掲げ、憲法改正を政治日程に乗せ、教育再生の具体化を図るなど、新しい国づくりに向かおうとした安倍首相の政治路線の方向は評価できるが、それを実現させる態勢があまりに不備であった。

▽新自由主義(=新保守主義、自由市場原理主義)について

 ここで新自由主義なるものについて以下に私の考えを説明しておきたい。この新自由主義の本質を理解しなくては、特に小泉・安倍政権下で広がってきた改憲への動きや格差拡大問題を正しくとらえることはできない。しかしメディアの多くはその認識が不十分であり、表面的であり、批判の視点が弱すぎるのではないか。

 新自由主義は1980年代前半の中曽根政権時代から導入され、小泉・安倍政権時代に本格化した。原産地は米国であり、1980年代のレーガン大統領時代から始まった。その2本柱の一つが経済の自由化・民営化の推進であり、もう一つの柱が軍事力の増強路線と世界支配をめざす覇権主義である。
 新自由主義の「自由」とは、多国籍企業など巨大企業の最大利益の自由な追求を意味している。いいかえれば自由化、民営化の推進(日本の郵政民営化はその一つの具体例)によって企業が最大利益を追求する自由な機会を保障し、広げることを指している。憲法で保障する「自由・人権」の自由とは異質である。だから新自由主義は弱肉強食の弊害、格差拡大、貧困層や自殺者の増大―などを必然的に生み出している。この実体を理解しなければ、構造改革という美名に幻惑させられる結果となる。

 しかもこの新自由主義は軍事力重視主義と表裏一体の関係にあることを見逃してはならない。いいかえれば新自由主義のグローバル化、つまり大企業の生産や資源のための海外拠点を確保するには軍事力という後ろ盾が必要だという思考に立っている。
 安倍政権が日米軍事同盟を基軸に憲法9条(=軍備及び交戦権の否認)を改悪して正式の軍隊を保持し、 憲法解釈変更(解釈改憲)による集団的自衛権の行使によって「戦争のできる国・日本」をめざし、一方、財界の総本山、日本経団連が安倍政権の主張に合わせて憲法9条改悪、正式の軍隊保有を唱えているのも上記の思考にとらわれているからである。

 しかしこの新自由主義は軍事力に支えられ、しかも弱肉強食と格差拡大を必然的にもたらすからこそ、矛盾を広げ、市民や庶民の大きな抵抗を招かざるを得ない。今回の参院選の結果にみられる自公政権への拒絶反応は、当然起こるべくして起こったものといえる。
 私は安倍路線について「再び日本を滅ぼすのか 針路誤る安倍自民党丸の船出」(06年9月21日付で「安原和雄の仏教経済塾」に掲載)、「首相の美しい国を批判する その時代錯誤で危うい方向」(06年10月2日付で「仏教経済塾」に掲載)などで批判してきたことをここに記しておきたい。

 それではなぜ小泉政権はあれほどの人気を博したのか。次のような理由が考えられる。
・改憲志向ではあったが、実施への意志を明示しなかったこと
・格差拡大(年間3万人という高水準の自殺者、低賃金の非正規社員急増など)が進みつつあったが、「自民党をぶっ壊す」という自民党離れしたキャッチフレーズに多くの有権者が幻惑させられたこと
・新聞、テレビなどマスメディアが「小泉劇場」の演出に大きな役割を果たしたこと

▽新自由主義とは異質の針路へ転換を (その一)憲法理念を生かせ

 参院で第一党になった民主党は、自民党同様に改憲派も含む寄り合い世帯であり、自公政権への明確な対抗軸をどこまで打ち出せるか、が今後の課題である。果たして民主党の政策が参院選でどこまで積極的に評価されたのか、疑問符が残る。自民党への嫌気から有権者の多くが、2大政党制論の波に乗って「もう一つ」の政党、民主党に票を投じたのではないか。この2大政党制ブームも実はかつての「小泉劇場」同様にマスメディアによって作り出されたという側面もあることを忘れないようにしたい。

 そうであればなおさらのこと、自民党の路線である新自由主義とは異質の日本の針路を「もう一つの選択肢」として打ち出す必要がある。自民党と大差ない政策にとどまる限り、「惨敗した今日の自民党」は実は「明日の民主党」になりかねないことを心に留めて貰いたい。

 望ましい路線選択はどうあるべきか。私は現行の平和憲法の理念を生かし、具体化していくことを土台にすべきだと考える。なぜなら平和憲法の理念は、小泉・安倍政権の下での新自由主義路線と共に事実上空洞化し、骨抜きになっているからである。

 生かすべき憲法理念の主な柱はつぎの通り。
*前文(世界諸国民の平和的生存権)
*9条(戦争放棄、軍備及び交戦権の否認)
*13条(個人の尊重、生命・自由及び幸福追求の権利の尊重)
*18条(奴隷的拘束及び苦役からの自由)
*25条(生存権、国の生存権保障義務)
*26条(教育を受ける権利、教育を受けさせる義務、義務教育の無償)
*27条(労働の権利・義務、労働条件の基準)
*99条(天皇、国務大臣、国会議員、裁判官その他の公務員の憲法尊重擁護義務)
特に99条の意味が国務大臣や国会議員に理解されていれば、今回のような自公政権の大敗は生じなかったのではないか。

具体策は以下の通りで、参院選で野党が公約した政策も織り込んでいる。

▽新自由主義とは異質の針路へ転換を (その二)年金改革と格差是正
 
(1)年金改革
 高齢化が進む中で年金改革は、憲法25条(生存権、国の生存権保障義務)にかかわる重要な課題である。

・年金受給のための加入期間条件を現行の「25年以上」から諸外国並みの「10年以上」に引き下げる
・現行の保険料方式の代わりに基礎年金へ全額税方式を導入し、生活保護費相当へ増額する

 5000万件の「消えた年金」問題の解消は、参院選の大きな争点になったが、これは泥棒が盗品を返す類の話で、盗品を返したからといって、その人が立派な人物になるわけではない。それと同じで、自民党の得票稼ぎには効果はなかった。年金改革とは次元の違う話である。

(2)格差是正
 13条(生命権など)、18条(奴隷的拘束からの自由)、25条(生存権)、26条(教育権)、27条(労働権)が深くかかわっている。格差拡大の背景には、自殺者の増加、長時間労働、低賃金、失業を含む差別労働などが広がり、人間が人間として尊重されないで、いわば奴隷的境遇に追い込まれている。これをどう是正するかというテーマである。

 格差の是正には弱肉強食の競争を止めること、雇用・賃金政策さらに税制の転換を進めることが必要である。
(イ)弱肉強食の競争からの転換
企業の労働現場ではいわゆる成果主義によって賃金、労働条件の悪化をもたらし、多くの労働者は連帯感をなくし、ノイローゼなどが増えている。
 学校の教育現場でも学力中心主義の競争と差別政策が持ち込まれ、人間性に反するいじめなどが多発している。「弱肉強食の競争」から「個性を競い合う競争」へと転換させることが急務である。

(ロ)雇用・賃金政策の転換
・パート、契約社員など非正規社員の正規社員化をすすめる
・最低賃金(注)の時給1000円以上をめざす。異常な長時間労働の是正
(注)06年度の全国平均最低賃金は時給673円。金額は都道府県ごとに決まり、最高の東京都は719円、最低の青森などは610円。中小企業が最低賃金を上げるためには下請け価格の適正化が必要となる。

(ハ)税制の転換
・住民税増税の中止、介護料や医療費の引き下げ、消費税の据え置き、その一方で高額所得者の所得税率や企業の法人税率の引き上げ
 このような税制の転換によって、新自由主義の特色である大企業と金持ち(資産家など)優遇、その一方での貧困の累増を是正する。
 なお参考までにいえば、参院選での自民党候補の4分の3が消費税引き上げ論者であった(7月14日付毎日新聞)。

▽新自由主義とは異質の針路へ転換を (その三)不公正な財政の転換

(1)経済成長と景気回復と財源
・不公正な果実配分と税負担の是正を

 安倍首相は選挙戦で「民主党には経済を成長させ、景気を回復させようという案も意思もない。経済を成長させないで、格差を解消できるか。財源をどうやって作っていくのか」と指摘した。しかしこの発言には大きな錯覚がある。
 それは経済成長や景気回復が格差の是正や財源の増大には結びつかない構造になっているからである。新自由主義路線がそういう構造を定着させている点に着目したい。経済成長や景気拡大の果実は、大企業や高額所得者にとって大幅な減税(法人税の引き下げ、所得税の最高税率の引き下げなど)のお陰で享受できるが、一方、多くの大衆には増税などによる負担増のほか、低賃金、悪化した労働条件の固定化によって果実を享受できない。
 しかも大衆の負担増は大企業などの負担減によって帳消しになり、政府の税収は総体として増えにくい構造になっている。

 このように経済成長、景気拡大の果実配分や税負担が不公正な構造になっていることを見逃すべきではない。この不公正を是正するためには税制、賃金、労働条件(長時間労働など)の改善が必要である。

(2)軍事費の大幅削減
・無駄な大型公共事業の中止
・軍事予算の大幅な圧縮

軍事予算は年間約5兆円で、これには「無用の長物」の無駄が少なくない。例えば、東西冷戦時代のソ連の脅威はソ連の消滅によってなくなったはずだが、冷戦時代と同じように外国からの北海道への侵攻を前提にした多数の戦車が今なお配置されている。
 このほか米軍基地再編に伴う日本側負担3兆円、北朝鮮からの弾道弾ミサイルを防ぐという名目の総額1兆円を超えるミサイル防衛―などがすでに動き始めており、いずれも莫大な大衆の税負担増につながる。こういう血税の浪費を止め、さらに大企業や高額所得者の軽減税率を是正して、優遇税制を止めれば、消費税を上げなくても財源に不足はない。
軍事費の大幅削減―中米のコスタリカ同様に軍隊廃止をめざす―は憲法前文(平和的生存権)、9条の理念を生かす道にほかならない。

▽ 新自由主義とは異質の針路へ転換を (その四)環境、原発、農業

(1)地球温暖化対策と原子力発電
・2050年までに日本の温室効果ガス(石油など化石燃料使用から排出される二酸化炭素)排出量を1990年比で70%削減する
・環境税を導入する
・原子力発電所の新増設を止め、原発から段階的に撤退する

 温室効果ガスの排出量削減について民主党は「50%削減」を打ち出しているが、ここでは「70%削減」(共産、社民案)を採りたい。
 増えつづけている温暖化ガスの排出量を世界全体で基準年の1990年比で2050年までに50%に削減することが求められており、これを実現するためには先進国は60~80%の思い切った削減が必要とされている。英独仏はすでに60~80%の削減を目標に掲げていることを考慮したい。思い切った削減のためには環境税の導入に踏み切るべきである。

 原子力発電は温室効果ガスを排出しないことを理由に、日本は温暖化対策という名目を掲げて原発を推進し、全国で55基がすでに稼働している。しかし今回の新潟県中越沖地震で東京電力柏崎刈羽原発で想定外のトラブルが次々と見つかって、改めて原発の安全性に大きな疑問符が付けられている。政府、電力会社が「原発は安全」と言い募ってきたそのとがめである。安全神話が崩壊した以上、原発依存症を改め、段階的な撤退策を検討すべきではないか。ヨーロッパでは多くの国が原発依存症を克服しつつある。
 ただ電力供給量のうち原発は約30%を占めているため、段階的撤退のためには経済成長主義への執着を離れて、脱「経済成長」への意識転換が求められる。

(2)農業再生と食料自給率の向上
・農産物輸入の完全自由化を止める
・食料自給率(現在40%)を計画的に引き上げる

自民党が地方で大敗した背景には長年の農業軽視がある。テレビ報道によると、自民党支持者の間にさえ「農業のためにはもはや自民党を支持するわけにはいかない」という不信と怒りの声が多い。
 農業はいのちを育てる産業であり、一方、工業はいのちを削る産業である。これは農業には工業と同様の効率・競争中心主義は適用できないことを示している。にもかかわらず歴代自民党政権は農産物の輸入自由化を進めて、農業の切り捨て策を採り、それが新自由主義導入によって拍車をかけられた。その成れの果てが食料自給率低下で、40%という先進国では異常に低い水準まで落ちたままである。いいかえれば日本人のいのちの60%を海外に依存しているのである。

 地球温暖化と共に世界の食料危機も予測されている。農村が荒れて、食料自給率が低いままでは近未来の食料危機に対応できないだろう。日本人のいのちをどう守るのかというテーマは軍事力では保障できない。むしろ農業再生と自給率の向上こそが重要であることを自覚するときである。


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知足と簡素な生活のすすめ
脱「経済成長」が時代の要請

安原和雄
 私(安原)は07年7月23日、日本プレスセンタービル(東京都千代田区)内で開かれた「仏教経済フォーラム」定例研究会で「知足と簡素な生活のすすめ」と題して講話を行った。
 安倍首相は今回の参院選で「成長を実感に!」などと相変わらず経済成長主義に執着しているが、経済成長によって資源エネルギーを浪費し、地球環境の汚染・破壊をさらに進めていくことはもはや許されない。ゼロ成長でもよし、と考える脱「経済成長」こそが時代の要請であることを強調したい。そういう脱「経済成長」時代には「消費こそ生活の目的」と考える従来の「消費主義」病を克服し、知足と簡素な生活への転換が求められる。(07年7月24日掲載、同月26日インターネット新聞「日刊ベリタ」に転載)     

▽戦争病、消費主義病にとりつかれたブッシュ米大統領
 「消費は生活の目的ではない」といったら「えっ、なぜ?」という反応を示す人と、「そんなこと、当たり前」と答える人とどちらが多いだろうか。残念ながら前者の消費主義信奉者たちが多数派であることは疑問の余地がないだろう。
 小泉純一郎前政権のキャッチフレーズは「改革なくして成長なし」であった。安倍晋三政権(06年9月発足)のそれは「成長なくして日本の未来なし」である。どちらも政策目標として経済成長の旗を掲げている。経済成長を計る尺度であるGDP(国内総生産=最近では年間約530兆円の規模)のほぼ6割は個人消費であり、この個人消費の増大なしには経済成長もおぼつかない。 

 もちろん消費拡大志向は日本に特殊な現象ではない。むしろ米国がその本場といってよい。「我々の時代は消費主義と定義される」という認識に立つ米国ワールドウオッチ研究所編『地球白書2004~05』は次のように述べている。
 「所有して消費したいという衝動は、いまや多くの人々の精神を支配し、かつては宗教や家族、共同体が占めていた精神のある部分もこうした衝動に浸食されている。消費は個人の成功度を測る一般的な基準になった」と。 
 このことは消費主義は、いまや「病」とも称すべき症状を呈するに至ったことを示している。
 あの戦争病にとりつかれたブッシュ米大統領が「9・11テロ」(2001年)の後、「テロを恐れることなくショッピングセンターに出掛け、買い物をすることが愛国者としての義務だ」と勧めたというエピソードが語り継がれている。テロとの戦いを宣言したブッシュ大統領も消費主義病との戦いまでは思いつきもしないらしい。大統領自身が消費主義病にとりつかれているからであろう。

 消費主義病を克服する処方箋は何か。以下の4本の柱を中心に考える。
1.「消費主義」病、それを促す経済成長主義
2.「豊かな生活」の再定義―消費者たちの反乱
3.知足のすすめ―「消費者の選択」の再定義
4.簡素な生活のすすめ―非暴力を求めて

(前出の仏教経済フォーラム=寺下英明会長、安原和雄副会長=は知足、共生、中道を合い言葉に仏教経済思想の形成と普及をめざす自主的かつ開かれた集まりで、宗派にこだわらず、入会、退会ともに自由である)

1.「消費主義」病、それを促す経済成長主義

 ここではまず消費主義病がどのように広がりつつあるか、その一端を報告し、その背景に経済成長主義が相変わらず根を張っていることを指摘する。

*中国の自動車保有台数がアメリカを抜く日
 02年には約1000万台の自家用車が中国の道路を走り、その保有台数は急増し、2015年には保有台数は1億5000万台になるという予測もある。これはアメリカの1999年の自動車保有台数を1800万台も上回る。

*アメリカを中心に広がる消費主義病
 大量消費社会の積極的な追求は、多くの国の国民健康指標の低下をもたらしている。次のような「消費主義病」が急増しつづけている。
・喫煙による死亡
 数百億ドルもの広告によって促進されている消費習慣の喫煙は世界中で毎年500万人の死亡に関係している。
・太りすぎと肥満症
 太りすぎと肥満症―栄養の偏った食生活と運動量の少ないライフスタイルの結果である―は、全世界で10億人以上を苦しめており、日々の生活の質を低下させ、社会に莫大な医療コストを課し、糖尿病の急増を招いている。アメリカでは成人の推定65%が太りすぎ、または肥満症であり、これに関連する死亡は年間30万人に達している。
・体が大きくなりすぎたアメリカ人
 アメリカ人そのものも大きくなっている。実際、体が大きくなりすぎたアメリカ人のニーズを満たすために数十億ドル規模の産業が出現している。特大サイズの衣類や、より頑丈な家具、さらには特大の棺などを供給する産業である。

*「消費主義」病を促すもの―経済成長主義
 先進国の生活習慣となった大量消費、そして消費主義病を蔓延させている元凶は何か。その答えは経済成長主義にほかならない。経済成長とは、GDP(国内総生産)の量的拡大を意味しており、その大半を個人消費が占めている。いいかえれば個人消費の増大なしには経済成長もむずかしい。経済成長主義が消費主義病を促し、逆に消費主義病が経済成長主義を増幅させる。こうしていまでは経済成長主義は一種の宗教にさえなっている。  
 次の指摘は的確である。「際限のない消費による継続的な経済成長が信奉されている様子は、まるで現代の宗教である。企業幹部は株主の期待に応えるために、政治家は次の選挙に勝つために、経済成長を目標に掲げる」(同『地球白書』)と。

2.「豊かな生活」の再定義―消費者たちの反乱

 ここで問うてみたい。「消費の拡大は果たして生活を豊かにし、人々に幸せをもたらしているのか」と。結論からいえば、「ノー」であり、豊かな国、すなわち所得の多い国では「所得増・消費増と幸せは一致しない」という調査結果がある。
 たとえばアメリカでは1957年から2002年までに個人所得は2倍以上に増えたが、意識調査で「大変幸せ」と答えた人の割合はこの期間を通じてほとんど変化していない。いいかえれば、すでに所得が多く、富裕になっている人々には「幸福はお金では買えない」という古い格言が生きている。
 ここから「豊かな生活」とは何か、という豊かな生活の再定義への試みが高まってきた。従来の経済成長主義、消費主義に対する消費者たちのささやかな反乱である。

▽生活の質の向上
 再定義から導き出される豊かな生活とは、「財貨の蓄積」ではなく、「生活の質の向上」にほかならない。要するに経済成長主義、消費主義とは異質の豊かさの追求である。

 その「生活の質の向上」は次のような柱からなっている。
*生存のための基本的条件=食料、住居、安定した生計手段などを含む
*良好な健康=個人の健康と自然環境の健全性を含む
*良好な社会関係=実感できる社会的結束と、実感できる助け合いの社会的ネットワークとを含む
*安全=身体的安全と個人的所有物の安全を含む
*自由=潜在能力(注)を実現する機会の保障を含む
 (注)潜在能力(Capability)とは、アマルティア・セン博士(1933年インド生まれ、1998年度ノーベル経済学賞受賞)独自の概念で、くだいて言えば、様々なライフスタイルを実践できる真の自由を指している。いいかえれば、財やカネの量で示されるのではなく、生活上の様々な選択肢に対する自由度によって測られ、その自由度が大きいほど生活の質が高いことを意味する。だから「潜在能力」という表現よりも「選択の自由度」の方が分かりやすいかもしれない。
 例えば財産家でも病弱であれば、その制約を受けて選択の自由度は低い。さらに飢餓と断食の例では、食事をとらない点では同じだが、飢餓は意に反して強制されるもので、そこには選択の自由はない。ところが断食の場合、食事を自由に選択できるにもかかわらず、あえて断食を選択するので、潜在能力の視点に立てば、断食のできる人は生活の質が良いということになる。

 以上の「生活の質」の柱は、日常感覚では次のように表現できる。
*日常の活動がゆったりと展開され、ストレスが少ない 
*家族、友人、隣人とのより親密な交流がある
*より直接的な自然との「ふれあい」ができる
*人々が財貨の蓄積よりも充足と創造的表現へのより強い関心を抱いている
*自分自身の健康、他の人々の健康、自然界の健康を損なうような行動を避けるライフス タイルを重視する

3.知足のすすめ―「消費者の選択」の再定義

 生活の質の向上を実現し、日常生活に定着させるには何が必要だろうか。東洋思想の知足(=足るを知る)の精神に着目したい。

▽老子の「足るを知る者は富めり」
 特に注目したいのはアメリカ人の手になる『地球白書2004~05』が「消費者の選択」の再定義に関連して、東洋思想である「知足の心」の重要性を説いていることである。次のように述べている。

 消費者の選択とは、個々の生産物やサービスの間の選択ではなく、生活の質を高めるための選択を意味するものと再定義されるべきである。個人にとって真の選択は、消費しないことの選択も含まれる。1つの指針は中国古代(前4世紀)の哲人、老子の「足るを知る者は富めり」という教えである―と。

 また老子は「禍は足るを知らざるより大なるはなし」(戦争の惨禍の原因は支配者が強欲、すなわち貪欲で、足ることを知らないのが最大である、という意)とも説いた。この今日的意味を一番理解して欲しい支配者は、いうまでもなくブッシュ米大統領であろう。貪欲そのものの姿勢がイラク攻撃のような軍事力行使に駆り立てているからである。

▽釈尊の「知足の人は貧しといえどもしかも富めり」
 知足の精神の重要性は、釈尊(前563~前483。古代インドのシャカ族の出身で、仏教の開祖)も力説した。その趣旨は次の通りである。

さまざまな生活の苦しみから逃れようと思うならば、足ることを知らなければならない。お金が十分なくても足ることを知り、感謝して暮らすことができる人が一番富める人である。足ることを知らない人は、どんなにお金があっても満足できないので貧しい人である。足ることを知らない人は、5欲(食欲、財欲、性欲、名誉欲、睡眠欲)という欲望の奴隷で、その欲望にひきずられて、「まだ足りない」と不満をこぼすので、足ることを知っている者から、憐れな人だと思われる。

 以上、知足にまつわる古代東洋思想を紹介した。ただ注意を要するのは、今日的な知足の精神とは何を意味するのかである。今日の地球環境の保全を最重要な課題とする地球環境時代に知足を説くことはどういう意味をもっているのか。果たして先進国・富裕国も貧しい発展途上国も一様に知足の心が求められるのかというテーマである。

▽先進国でこそ知足の精神の実践を
 知足の実践には環境保全(=持続可能性)と社会的公正(=格差の是正)という2つの命題を両立させることが重要である。

 具体的には欧米、日本など西側世界の大量消費を維持し、一方、発展途上国の貧しい人々の生活水準の向上を阻む「消費のアパルトヘイト(差別)」を是認することはできない。
 環境保全と社会的公正を両立させるためには、先進国の豊かな人々こそ、肥大化した物欲を抑制し、知足の精神の実践が不可欠である。いいかえれば持続可能性の範囲内に貪欲を抑え込むことが不可欠である。

 ただ先進国内でも特に日米では所得面で格差が拡大しつつある。貧者の増大、すなわち「生活の質の向上」の前提となる生存のための基本的条件に恵まれない人々の増大である。この格差を放置したまま、一律に知足の心を説くわけにはいかない。
また中国やインドなども今では高度成長を遂げつつあり、消費水準も急速に高まりつつある。発展途上国の消費水準の向上は、必要であるとしても、あくまでも環境保全に必要な持続可能性の範囲内に収める必要があるだろう。

4.簡素な生活のすすめ―非暴力を求めて

 消費主義が豊かな生活をもたらさないという事情を背景に大量消費社会からの離脱の動きが始まっている。それは草の根レベルで高まりつつあり、欧米、日本では簡素・質素な生活(シンプルライフ)を求め、実行する人々が増えつつある。これは知足の精神、非暴力の日常的な実践といってもよい。

▽4Sをめざすライフスタイル
 シンプルライフとは従来の大量消費型購買習慣の見直しだけでなく、ライフスタイル全体の簡素化をめざしている。スローガン風にいえば、4S(Simple Slow Small それにSmileの4つのS)運動と位置づけることもできるだろう。4Sとは「簡素で、ゆったりと、身の丈に合った暮らしを追求する。同時にほほ笑みを忘れない、一種の利他主義の実践」という生き方を意味する。
 これはわが国でいえば、新保守主義的な自由市場原理主義に立つ小泉流構造改革、さらにそれを継承発展させると宣言している安倍流構造改革とは180度異質の「もう一つの構造改革」である。以下では日本がもっと学ぶべき欧米での具体例を紹介しよう。

*アメリカで増えるLOHAS(ロハス)消費者
 アメリカでは健康と環境に配慮した生産物の購入に関心をもつ消費者が膨大な数に達しており、市場調査では「注目すべき消費者たち」として認知されている。LOHAS消費者(Lifestyles of Health and Sustainability:健康と持続可能性にかなうライフスタイルを追求する消費者)と呼ばれる人々で、環境への負荷の少ない小型蛍光電球や太陽電池、また生産者に正当な報酬が支払われる公正取引の対象であるコーヒーやチョコレートなどに関心をもつ。
 この種の消費者はアメリカの成人人口の3分の1を占め、2000年にその購入総額は約2300億ドル(約27兆円)にのぼった。これは同国の総個人消費の約3%に当たる。

*自転車専用路網を増やしているオランダとドイツ
 オランダ、ドイツは自転車専用路の建設や自転車を優先する信号の設置など、自転車利用を安全にするためのインフラ整備に投資している。オランダは過去20年間に自転車専用路網の総延長を2倍に増やし、ドイツは3倍に増やした。
石油をエネルギー源とする車社会はすでに崩壊過程に入っていることを認識する必要がある。人口13億人の中国の車社会への新規参入がこの崩壊過程に拍車をかけている。
 石油資源に限界があること、車の走行によって放出される膨大な二酸化炭素(CO2)による地球環境の破壊(地球温暖化、異常気象など)、多数の交通事故死(年間の死者は日本1万人以下、アメリカ約4万人)、巨額の必要コスト(道路整備、騒音防止など)―がその理由である。先進国では公共交通機関(鉄道、バスなど)、自転車、徒歩重視への転換競争が始まっている。一番出遅れているのが日本である。

▽ミサイル技師からシンプルライフへ
 米国におけるシンプルライフ実践のはしりともいえる人物を紹介しよう。
 『核先制攻撃症候群』(岩波新書)の著者、R・C・オルドリッジ(1926年生まれ)で、1973年米国最大の兵器メーカー、ロッキード社の弾道ミサイル設計技師を辞職し、平和活動家に転身した人物である。辞職の理由は、当時のペンタゴン(国防総省)の核政策が先制攻撃戦略(核攻撃を受ける前に相手の核ミサイル基地を叩く戦法)に転換したことにあった。その後広島で開かれた原水爆禁止世界大会などへの出席のため来日したこともある。
 彼は当時を追想して書いている。「快適に暮らせる毎週のサラリーがなくなって、まず手がけたことは、今までより贅沢を切りつめた生活すること。お金もかからず、それに環境保護にもかなう料理法による、さまざまな食事をやってみるようになった。それが次第に日常のパターンとして定着した。つまり質素に暮らすということ」と。

 さて今の時点で考えてみるべきことは、彼のシンプルライフがどういう意味をもっているのかである。彼自身、次の諸点を挙げている。
(イ)資源や食糧の配分の不公正を改善するのに貢献すること
 われわれ一人ひとりが質素な生活をすることは、食糧や資源の配分を公正にするのに役立つ。多額のサラリーを消費していたころに私がしていたことは、世界の富の半分でどうやら生きのびている全人類の94%に向かって、(食糧や資源を不当に収奪する形で)暴力を加えていたことを意味する。地球上の8人に1人が飢餓に直面している。今日の世界で死んでいく人びとのうち3人に1人は、飢えによる。世界の食糧が不足しているわけではない。問題は配分の不公正である。

(ロ)平和をかき乱す貪欲を一掃することができること
 必要としている物だけを消費していれば、われわれ自身の貪欲を一掃することができる。私はキリスト教徒だが、次のような仏陀の教えが実に説得力を持っている。

欲求は利益の追求をうながす。 利益の追求は欲情をうながす。
欲情は執着をうながす。執着は貪欲とより大きな所有欲をうながす。
貪欲とより多くの所有欲とは、所有物を見張り、監視する必要をうながす。
所有物の見張りと監視から、多くの悪い、よこしまなことが起こる。殴り合い、喧嘩、口論。中傷、うそ。
これが、めぐる因果の鎖である。欲求がなければ、利益の追求や、欲情や執着や貪欲や、より大きな所有欲があり得ようか?
己の所有欲というものがなかったとしたら、静かな平和がやってくるのではないか?

以上の仏陀の教えを紹介した後、次のように述べている。
 「これこそ、われわれの家庭や社会や、さらには国際関係のありさまをよく描いているではないか。因果の鎖を自覚し、質素に生活することにすれば、われわれはいつかは、われわれの本性から貪欲を拭うことができるはずである」と。

(ハ)自分の生活様式を私利中心でないものに改めるよう努めていること、いいかえれば利他主義実践への意欲
具体的には以下のような諸点を挙げている。
*既成の社会的な枠を変えるための非暴力的手段を模索し、かつ兵器こそ安全保障と雇用をもたらすという神話を追放するために活動している。
*アメリカ政治のあり方には同意できないが、この国を愛している。この祖国愛があるからこそ、利潤や権力への飽くことのない渇望にかられた軍産複合体(注)が、アメリカ国民に向けて繰り返し吐き続けている嘘(うそ)やごまかしを暴露しなければならない。
 (注)軍産複合体とは、巨大な軍事組織と大軍需産業の結合体を指しており、いまではアメリカの政治、外交、軍事を牛耳り、戦争を主導するほどの影響力を持っている。軍人出身のアイゼンハワー米大統領が1961年、大統領の座を去るに当たって全国民に向けたテレビでの告別演説で警告を発してから、一躍その存在が浮かび上がった。

 ここでは愛国心があるからこそ、軍産複合体と対決し、批判するという姿勢、生き方に着目したい。日本では保守政治家などが戦争のための愛国心育成を主張し始めているが、これとは異質の愛国心には大いに学ぶ必要があるのではないか。

 上述の簡素な行動こそ、貪欲(=不公正、収奪、暴力を意味する)の対極に位置する知足であり、持続可能性の追求であり、非暴力の実践であろう。特にR・C・オルドリッジのシンプルライフは反戦、反核、反権力への志向と重なり合っている。しかも注目すべき点はキリスト教徒であるにもかかわらず、仏陀の教えが、彼の思考と行動の支えとなっていることである。

▽脱「経済成長」をどう考えるか?
 講話後、質疑応答を行った。その一つを紹介する。
問い:脱「経済成長」、つまりゼロ成長でもよし、いわれるが、人間に成長が必要であるように、経済も成長しなければ、行き詰まると思うが、どうか。

答え:たしかに人間には成長が必要である。しかしその成長は50歳の実年を迎えてなお体重が増え続けることではない。体重が増え続けることは健康上もマイナスが多い。必要なのは人間的成長、つまり人間としての質的成長である。

 さて経済成長とは、経済規模の量的拡大を指している。質的充実とは無関係であることを理解する必要がある。経済成長はGDP(国内総生産=個人消費、公共投資、民間設備投資などで構成)という経済概念によって計るが、その質は問わない。ただ量だけが問題である。人間の体重が増えても、それが人間的成長とは無関係であるのと同じである。

 日本の年間GDPは現在500兆円を超えている。いわば成熟経済の規模に達している。この経済規模は米国に次いで世界第2位という巨大さで、この規模を毎年維持するのがゼロ成長であり、毎年増やしていくのがプラス成長である。
 ゼロ成長、つまり毎年500兆円という新しい富を創出するだけでも莫大な資源エネルギーが必要であり、それが地球環境の汚染・破壊につながる。ましてプラスの成長を追求すれば、資源エネルギーの浪費、環境の汚染・破壊に拍車がかかる。
ゼロ成長経済の下でも優れた企業は勝ち残るし、企業倫理に欠ける企業は没落していく。プラス経済成長下でも同じである。プラス成長がなければ、企業は行き詰まると考える必要はない。

 重要なことは経済成長ではなく、経済の質的な充実、すなわち「豊かな生活」の再定義から導き出される「生活の質の向上」をどう実現するかである。「生活の質」の柱として挙げられている5項目のうち、次の2項目の意味を考えてみたい。

*良好な健康=個人の健康と自然環境の健全性
*良好な社会関係=実感できる社会的結束と、実感できる助け合いの社会的ネットワーク
この健康や社会関係は、市場でお金で購入できる性質のものではない。例えば健康を維持するためにはお金が必要であるが、健康そのものをコンビニで買うことはできない。このようなお金で買えないモノはGDP(国内総生産)には計上されない。しかし生活の質を向上させるためにはお金で買えない、いいかえればGDPに計上されない良好な健康や良好な社会関係などが不可欠である。
 だから経済成長がなければ、「豊かさ=生活の質の向上」を実現できないと考える必要はない。それはGDP概念で計る「経済成長」に対する誤解からくる錯覚である。 


(本稿はワールドウオッチ研究所編『地球白書』に負うところが大きい。また拙論「知足とシンプルライフのすすめ―〈消費主義〉病を克服する道」=足利工業大学研究誌『東洋文化』第26号・07年1月刊に所収=が下敷きとなっている)

(寸評、提案歓迎! 下記の「コメント」をクリックして、自由に書き込んで下さい。実名入りでなく、仮名でも結構です)

一橋大学が世界初の総合誌を刊行
特集で「テロ対策は効果薄」と分析

安原和雄
 一橋大学が大学としてはユニークな総合誌の刊行を始めた。その創刊号は「創刊の辞」で「世界に先駆けて総合雑誌を刊行」と銘打っている。ユニークな点は、「特集:イスラーム」の切り口で、「目から鱗(うろこ)が落ちる」ほどの新鮮な印象である。それは過激派テロについて「欧米のテロ対策は、誤認に基づいており、テロ壊滅を図ろうとしているが、効果は薄い」と分析しているところなどにみられる。
 しかし新鮮な読後感も、欧米のメディアが流すテロのイメージが歪められており、日本のメディアもそれに影響されて、多くの日本人は「誤解されたテロとその世界観」に振り回されているためである。大学の知性と専門性を生かした新たな視点、つまり真実を提供するこの種の総合誌の登場は、欧米流の偏見を克服できない既存の商業誌だけではなく、大手メディアにとっても新たな脅威となるのではないか。(07年7月13日掲載、同月14日インターネット新聞「日刊ベリタ」に転載)

▽総合雑誌MERC 創刊の辞

以下に創刊号(07年5月)に掲載されている創刊の辞(全文)を紹介する。

 社会科学の総合大学として、一橋大学が世界に先駆けて総合雑誌を刊行することになった。校章のMERCURYを縮めてMERCという。本誌の創刊は、一橋論叢の廃刊にともなうものだが、学術雑誌であった一橋論叢とは性格を異にする。本学の教員は、その内容と編集に関わるが、学部学生、大学院生そして広く卒業生の叡智を結集し、現代世界の諸課題に答えることを目標とする。

 大学が学術上の成果を世に問う場は多様である。しかし教員による先端的研究だけが大学を発展させるわけではない。社会における大学存立の基盤とは、教育を通じて、有為な人材を送り出すことにある。その意味で、本誌の刊行は教員のみならず、学生も卒業生も、ともに一橋大学を核とした知の発信に携わることを意味する。
 さしあたり、特集企画の柱は、国際、経済、経営の三本柱とする。表紙のデザインから企画・執筆・編集まで本学にゆかりの人びとが自らの手で創りあげる雑誌の誕生である。

 編集長 内藤正典・一橋大学大学院社会学研究科教授(専門はイスラーム圏と西欧の相関地域研究)
(なお約100ページの総合雑誌MERCは、さしあたり07年度には卒業生=如水会会員に無料配布とするが、次年度以降は有料の定期購読となる)

▽特集:イスラーム、衝突か、融和か

 創刊号は、「特集:イスラーム、衝突か、融和か」―を組んでいる。特集に込める門題意識とその狙い(趣旨)を以下に紹介しよう。

 21世紀は、9.11とともに幕を開けた。ムスリム(イスラーム教徒)の過激派がテロを起こした。そのことが世界を脅威にさらすことになった。ムスリムにとっては、比率からいえば10万人に1人いるかどうかというテロリストの暴挙によって、ムスリム全体が暴力的であるかのような誤解を招き、信徒の社会を危険にさらすことになった。

 だが世界を脅威にさらした根本的原因は欧米諸国のイスラーム認識にある。欧米諸国には、イスラームとムスリムと対峙するにあたって、決定的な弱点がある。
 第一には、ムスリムとその信仰に対する理解があまりに浅く、それゆえにムスリムの人間像をひどく単純化してしまうことである。
 第二にはとりわけヨーロッパ社会に共通することだが、ムスリムに対する恐怖と侮蔑が入り混じった感情を払拭できていないために、彼らに対する態度がひどく傲慢になることである。

 だが世界に12億とも13億ともいわれるムスリムと敵対すること自体が、世界の安全保障にとって重大な脅威なのである。反りの合わない夫婦や知人は離別できるが、10億を上回る人間と離別することは不可能である。好むと好まざるとにかかわらず、ムスリムとの平和的共存を図らざるを得ないことを、世界は認識しなければならない。
 そのためにはまずイスラームとムスリムの実像を知る必要がある。

 以上が特集の問題意識と狙いである。その特集の目次はつぎの通り。

・イスラームと西欧の融和はなるかートルコ共和国外相とインタビュー
・EU加盟交渉一部凍結ートルコ、イスタンブル市民の声は
・イスラームに関する十の疑問
・唯一の世俗国家トルコー前駐日トルコ大使に聞く
・アメリカは何を見誤ったのかー駐日イラン大使に聞く
・東アフリカ国際情勢とアメリカの対テロ戦争
・アフガニスタンの復興と苦悩ータリバン政権崩壊5年後のカブールから
・ゼミ企画:ベルリン・フィールド調査ー西欧とイスラームが混在する都市

 この特集で注目すべき点の一つは学部学生(社会学部・内藤ゼミ生11名)が編集長の内藤教授と共にトルコ、ドイツを訪ね、インタビューを重ねるなどして、総合誌づくりに参加していることである。これは「創刊の辞」が述べている「本誌の刊行は教員のみならず、学生も卒業生も、ともに一橋大学を核とした知の発信に携わることを意味する」を実践したものといえよう。

▽テロはイスラーム原理主義思想のせいなのか?

 特集の一つの柱である「イスラームに関する十の誤解」は欧米からの誤解を多面的に分析している。これは我々日本人の誤解でもある。そのいくつかを紹介しよう。

*イスラームは暴力的宗教か?
 ジハードという言葉が安易に使われたことによる誤解である。ジハードの原義は、信仰を正すための努力を意味する。だが、ムスリムの共同体(国家の枠組みに限定されない)が存亡の危機にあると認識されると、ムスリムは、その敵と命を賭して戦うことが「信仰を正すための努力=ジハード」と認識する。世界の現状はパレスチナにせよ、イラクにせよ、ムスリムが相当に追い詰められた状況にある。だから世界各地で、彼らの敵と戦うにはテロも辞さないという暴力が発生するのである。

*テロはイスラーム原理主義思想のせい?
 関係ない。イスラーム原理主義というのはアメリカ生まれの用語。原理主義は英語のfundamentalismから来ているが、プロテスタントの一部にある偏狭で不寛容な信仰実践をする人びとを指す。イラン革命後、大国アメリカに暴力で反抗したムスリムの行動に逆上したアメリカで登場したのが「イスラーム原理主義」ということば。この用語のせいで、イスラーム過激派のテロの本質が見失われた。
 テロは、ムスリムが置かれている現状を著しく不公正なものと認識した人が、アドホックに組織をつくって起こすと考える方が論理的である。テロの原因は、パレスチナやイラクでムスリム同胞があまりに悲惨な境遇にあることへの義憤が、神の命令としてのジハードと結びつき、信仰の敵にはいかなる暴力も辞さないという暴走を招いていることにある。特定のイスラーム原理主義思想に洗脳されたために起きるわけではない。
 欧米諸国のテロ対策は、この点を決定的に誤認していて、「原理主義組織」を監視し、壊滅を図ろうとしているが効果は薄い。

<安原のコメント>ここでは「欧米諸国のテロ対策は・・・効果は薄い」という指摘に注目しておきたい。

*イスラーム教徒はキリスト教を敵視している?
 意外かもしれないが、ムスリムはキリスト教徒もユダヤ教徒も嫌ってはいないし、殲滅を図ろうなどと考えてもいない。イスラームが明確に否定する多神教徒や信仰のない人間を敵視するかといえば、そんなことはない。我々日本人が、イスラーム圏の国を訪れて親切にされることは多い。
 では今日、なぜイスラーム過激派は欧米を敵視するのか? それはアメリカをはじめ西欧諸国が、力で彼らを支配し、言葉で侮蔑するからである。力を過信して、さまざまなことを押し付けるからであって、キリスト教徒を憎んでいるからではない。ブッシュ政権による中東民主化さえもムスリムからみれば、欧米的民主主義の押し付けに見えているのである。

▽「民主主義」は押し付けるものではなく、多様性の理解を

 「アメリカは何を見誤ったのか―駐日イラン大使に聞く」では編集長・内藤正典教授が聞き手となってイランの立場、主張を引き出している。特に大使は、①「民主主義」は他国に押し付けるものではない、②イランにとって民主主義の要は「独立」にある、③社会や経済体制の多様性を理解し合うこと、④イランの核開発の目的は核エネルギー開発のみにある―と力説している。
 大使の主な発言(趣旨)は以下の通り。

*アメリカは民主主義を権力で他国に強要する
 (今日の中東社会にとって)最大の問題は、第二次大戦後のアメリカの外交政策にある。アメリカは世界の資源確保のために、この地域の「安定・安全」を求めてきた。ペルシャ湾岸諸国は重要な産油国であり、石油輸出国でもある。
 イランは世界で近年益々重要な地域になってきている。アメリカの外交政策は変わってきた。米ソ冷戦時代には、アメリカは世界各地に「安全」をもたらそうという政策を取ったが、現在は「民主主義」をもたらそうとしている。私には彼らの意味する「民主主義」が何であるか理解できない。「民主主義」は押し付けるものではないはずである。アメリカは「民主主義」が重要だと思っているだけではなく、権力で他国にそれを強要できると思っている。

*民主主義の要は「独立」
 イランにとって、民主主義の要は「独立」にあるので、国民にとって独立した国家であることが重要な価値となっている。特にイスラーム革命は、民主主義の観点からも重要である。国民の98%がイスラーム教徒であるイランは、国の文化基盤を保持し、互いの存在を敬い、人権を尊重する国家なのである。

*社会や経済体制は多様である
 経済に関しては企業の民営化を推進している。経済政策にはマクロ経済政策、アングロサクソン型の政策、社会主義さらに日本ような資本主義もある。日本の資本主義はアングロサクソンの資本主義とは異なっている。様々な体制があることを前提にして、社会の多様性、経済体制の多様性をふまえ、時には歴史的な背景も含め、それを互いに理解し合うべきではないか。

*核開発は核エネルギーの開発に限定
 イランの核開発問題に関しては、イランは国際機構であるNPT(核兵器不拡散条約)の加盟国である。他方、我々イランにも権利があり、それに伴う責任もある。イランの指導者は核兵器開発を禁止し、また核兵器開発はイスラームの価値観にも反する。核開発の目的は核エネルギー開発のみにある。
 2015年以降、イランでは石油産出がかなり減少する可能性がある。エネルギー確保のためのエネルギー源の多様化は、イランにとって緊急の課題である。

▽なぜ「目から鱗が落ちる」ほど新鮮なのか

 「特集:イスラーム」の分析視点がなぜ「目から鱗が落ちる」ほど新鮮なのか。ムスリム(イスラーム教徒)にとっては当たり前の常識が多くの日本人にとっては常識になっていないからだろう。いいかえれば欧米や日本では非常識と思われる視点が満載されているからである。

 その典型例として、「イスラームに関する十の誤解」で「欧米諸国のテロ対策は、効果が薄い」と指摘している点に着目したい。日本では政府はもちろんメディアも含めて「テロは文明への挑戦」と受け止めているが、実はそれが錯覚だということだろう。
 「十の誤解」ではさらに「テロの原因は、パレスチナやイラクでムスリム同胞があまりに悲惨な境遇にあることへの義憤が、神の命令としてのジハードと結びつき、信仰の敵にはいかなる暴力も辞さないという暴走を招いていることにある」とも指摘している。
 これは何を意味するのか。突き詰めていえば、テロの遠因は欧米、特にアメリカの覇権主義に立つ外交・軍事政策にあるということである。テロをなくすためにはアメリカのこの思い上がった外交・軍事政策を根本から改める以外に根治策はありえないことを示唆している。ここに気づかないテロ対策はただ世界を混乱と破滅に追い込むほかないだろう。

 さらに「非常識」の例として駐日イラン大使が強調している4点(前出の①「民主主義」を他国に押し付けないこと、②民主主義の要は「独立」、③多様性を理解し合うこと、④イランの核開発の目的は核エネルギー開発)を挙げたい。こういうイランの主張に対する理解がわが国で広く行き渡っているとはいえない。

 第一に駐日大使とのインタビューを試み、米国と対立しているイラン側の言い分を聞くだけの度量のある日本のマスメディアが果たしてどれだけ存在しているだろうか。その気になればいつでもできることだろう。誰に遠慮しているのか。これでは公正なメディアの姿勢とはいえない。

 第二に大使の「民主主義の要は独立」という考え方に日本人のうちどれだけの人が共感を覚えるか、疑問である。なぜなら日米安保体制=日米同盟下で日本はアメリカの属国状態に置かれているにもかかわらず、それを自覚し、そこから脱出しなければならないと考えているのは少数者にとどまっているからである。それほど日本人の多くは独立自尊という気概から遠いところにある。日米関係の算盤勘定を優先させるあまり、誇りを失っているとはいえないか。

 第三に「イランの核開発は核兵器の開発が目的ではない」という主張は以前からの主張であり、珍しいわけではない。しかし一般メディアではほとんど報道されない。それでいて、アメリカ発の「核兵器がらみ」という報道が大量に流されてくる。
 ブッシュ政権には核兵器開発を口実にした「イラクの次はイラン攻撃」という姿勢も見え隠れしている。そういうアメリカの策略に乗せられないためには、アメリカ型偏見に惑わされないようにイランの主張にもっと理解を示す必要があるのではないか。

▽編集への期待 ― 権力に対し、つねに一定の距離を保って欲しい

最後に雑誌MERC編集のあり方について要望しておきたい。それは今後とも権力とはつねに一定の距離を保って欲しい、という一点に尽きる。
 すでにメディアと権力との心理的癒着関係が進みつつある。その上、大学が、その知性と専門性を武器に権力と接近し、批判力を失うことになれば、大学の存在価値そのものが問われるだけではない。ひいては日本丸自体が方向舵を失って漂流するほかなくなることを恐れる。


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久間「原爆発言」に想うこと
「戦争絶滅法案」を生かす時

安原和雄
 広島、長崎への原爆投下について「しょうがない」と発言した久間章生防衛相が辞任した。防衛相は安全保障問題の責任者である。今回の発言に関連して想うのは、「戦争絶滅法案」のことである。同法案は100年も昔の20世紀の初めにヨーロッパの陸軍大将が起草し、各国議会に送り、「これを成立させれば世界から戦争がなくなる」と提案したが、どの国もこの法案を成立させることはなかった。なにしろ戦争になったら、「首相、閣僚、国会議員らを戦火の最前線へ一兵卒として送る」という内容であり、そういう法律を議員たちが賛成するはずもないからである。
 しかしこの話は、戦争好きの政治家たちは、本音では国民のいのちを守るために進んで自分のいのちを捧げる気概はゼロに等しいことを示唆していて興味が尽きない。戦争、特に侵略戦争とは何か、戦争を防ぐにはどうすべきかを考えるよい機会である。今こそこの法案の「戦争防止」という趣旨を生かす時ではないか。
 折しも7月7日は中国への日本の侵略戦争が本格化するきっかけとなった廬溝橋事件(1937年)から70年目に当たる。(07年7月7日掲載、同日インターネット新聞「日刊ベリタ」に転載)

▽久間衆院議員(前防衛相)による「原爆発言」の真意を追うと―

 久間防衛相(衆院長崎2区)が7月3日辞任に追い込まれるきっかけとなった今回の発言は、6月30日千葉県柏市の麗澤大学で行われた「我が国の防衛について」と題する講演の中で言及された。その趣旨は次の通り。

 「原爆が落とされて長崎は本当に無数の人が悲惨な目にあったが、あれで戦争が終わったんだ、という頭の整理で今、しょうがないな、という風に思っている。米国を恨むつもりはないが、勝ち戦ということが分かっていながら、原爆まで使う必要があったのか、という思いは今でもしている。国際情勢とか戦後の占領状態などからいくと、そういうことも選択肢としてありうるのかな。そういうことも我々は十分、頭に入れながら考えなくてはいけないと思った」(『朝日新聞』07年7月1日付)

辞任の理由は「長崎の皆さんに非常にご迷惑をおかけした。理解が得られないようなので、それに対して申し訳ない、けじめをつけなければいけない、辞任することにした」というものである。それに7月末の参院選への配慮もあるだろう。いいかえれば、原爆投下は「しょうがない」という考え方そのものが間違っていると認めたわけではないことを指摘しておきたい。

 しかも強調する必要があるのは日本の安全保障政策が米国の核抑止力、俗に言う「核の傘」に依存しているという事実である。安全保障政策の基本を定めた防衛計画大綱(04年12月閣議決定)は「核兵器の脅威に対しては、米国の核抑止力に依存する」と明記している。防衛相としての久間発言は、この事実を踏まえた上で場合によっては核使用もあり得るという本音を吐露したのだともいえるだろう。
 しかしこのような核兵器への理解が広島、長崎の市民はもちろん、多くの国民の平和や核廃絶への意志に反していることはいうまでもない。

▽戦争絶滅法案の骨子―首相、閣僚、議員らを砲火の下に

 ここで20世紀初めの戦争絶滅法案(正式名称は「戦争絶滅受合法案」=戦争が絶滅になることを受け合うという意)を紹介しよう。起草者はデンマークの陸軍大将リッツ・ホルムという人物である。

 同法案の内容(大意)は以下の通り。
 戦争行為の開始後または宣戦布告の効力が生じた後、10時間以内に次の措置をとるべきこと。すなわち下記の各項に該当する者を最下級の兵卒として召集し、できるだけ早くこれを最前線に送り、敵の砲火の下に実戦に従わせること。

1.国家の元首(君主または大統領)
2.国家の元首の男性の親族で、16歳に達した者
3.総理大臣、各国務大臣、並びに次官
4.国民によって選出された立法議会の男性の代議士。ただし戦争に反対の投票をした者は除く
5.キリスト教または他の寺院の僧正、管長、その他の高僧で、戦争に反対しない者

 上記の有資格者は、戦争継続中、兵卒として召集されるべきで、本人の年齢、健康状態等を斟酌しないこと。さらに上記の有資格者の妻、娘、姉妹等は、戦争継続中、看護婦または使役婦として招集し、砲火に最も接近した野戦病院に勤務させること。以上

 日本では長谷川如是閑(注)が創刊した雑誌『我等』の巻頭言(1929年1月号)で、この「戦争絶滅受合法案」を紹介している。
(注)長谷川如是閑(はせがわ・にょぜかん=1875~1969年)はジャーナリスト・思想家。大正デモクラシー期に新聞記者として民主主義的論説を展開したことで知られる。

 この法案のポイントは次の2点である。
*元首、首相、閣僚、議員らを一兵卒として砲火の最前線へ送り込むこと
*議員のうち戦争に反対投票をした者(賛否を公表する必要がある)は招集を免除すること
 この2点が意味することは、戦争に賛成する以上、その責任を果たすためにも、一兵卒として戦火の中に身を投じるべきだということである。これを義務づければ、戦争に賛成する議員はいなくなり、従って戦争は絶滅するだろうという趣旨である。

▽憲法9条改悪に反対する「九条の会」からの呼びかけ文

 さてこのような戦争絶滅法案に関連して「前橋市四中地区九条の会」呼びかけ人の森田博さんは以下の一文をつづり、配布している。
 憲法9条の改悪に反対する「九条の会」は日本列島の各地で次々と誕生しつつあり、その数は全国ですでに6000(07年6月現在)を超えている。「前橋市四中地区九条の会」は、その一つである。「九条の会」の草の根の動向は、マス・メディアではほとんど報道されないという奇妙な状態が続いている。メディアの怠慢というべきであり、そこで一つの事例としてここで紹介したい。呼びかけ文(大意)は次の通り。

 戦争絶滅法案は日本国憲法の基本理念である基本的人権、国民主権、国際平和にそわない考えである。最悪の人権侵害は殺されること、その次に酷い人権侵害は殺人である。人間が人間を殺したら、殺した方は人間の心を失う。人を殺しても人間として苦しまないように兵士を鍛えるのがかつての日本軍の初年兵教育であった。捕虜の虐殺には必然性があったといえる。
 実践に備えた実効性のある訓練とは隊員自身の人間の心を抹殺する作業でなければならない。そんなことをさせることはできない。災害地で命がけで人助けをしてきた自衛隊の人たちに人間としての心を喪失させるようなことはできない。
 仏の心をかなぐり捨てて鬼の心を養うことを黙ってみていることは人間として私にはできない。その意味でも私は日本国憲法九条第二項「国の交戦権はこれを認めない」は守らなくてはならないと思っている。
前橋市四中地区九条の会 呼びかけ人 森田 博

▽日本国憲法9条と戦争絶滅法案の今日的意義

 戦争絶滅法案は、戦争を前提にしてなお戦争をなくそうという着想で、奇抜ではあるが魅力的なアイデアと評価したい。ただ日本には憲法9条(=戦争放棄、戦力不保持、交戦権の否認を規定)があり、戦争を前提にしたこの法案は理念上はたしかに憲法9条とは矛盾している。だから憲法9条がある限り、国会にわざわざ提案する必要はないという意見が多いだろうことも理解できる。

 しかしここで考えてみるべきことは憲法9条は事実上空洞化しているという現実である。日本は9条の「戦力不保持」条項に反して、すでに強大な軍事力を保持している。その背景に日米安保体制がある。1960年に調印・発効した日米安保条約(第3条)は日本の「自衛力の維持発展」を明記しているのであり、日本は米国の要請を受けて日米軍事一体化をめざして着実に軍事力の増強を図ってきた。
 ただ「交戦権の否認」条項が生きているため、これまで自衛隊が海外で公然と戦争することはなかった。それが救いといえば救いであったが、安倍政権はこの9条を改悪し、戦力不保持と交戦権否認の条項を削除し、公然と「戦争できる国」になることをめざしている。

 こういう状況下だからこそ、今、戦争絶滅法案について改めて考えてみることは大きな意義があるのではないか。その理由として以下の2点を挙げる。

*憲法改悪に賛成し、戦争を肯定する議員たちが国民のいのちと安全を守るために一兵卒として自らのいのちを投げ出す気構えがあるかどうかを試すよい機会となる。例えばメディアは憲法9条を改悪しようと目論んでいる自民党などの政治家にこの法案を提示して、賛否を問いただしてはどうか。これは「政治家と戦争といのち」というテーマで本音ベースの意識調査を試みる作業でもある。

 参考までにいえば、米国の上下両院は02年10月、イラク攻撃容認決議を行ったが、上院では77対23、下院では296対133の賛成多数であった。しかし議員の子弟がイラク攻撃に参戦したのは、たしかわずかに1、2名にすぎなかった。戦争に賛成しながら、その「名誉ある戦い?」に子弟を送ることを拒否したのである。米国ではベトナム戦争当時の徴兵制が今では志願制に変わっており、兵士の多くは貧しい子弟の志願兵で、最前線に送られ相次いで犠牲になっている。
 憲法を改悪して、日本が米国と同じ道を歩むことを選択する政治家たちは、自分は保身第一でありながら、人のいのちを粗末に扱う卑怯者というべきである。

*私はこの100年前の古典的な戦争絶滅法案に「防衛省に兵器など軍事品を納入する企業の社長または副社長は一兵卒として戦火の下に出征すること」という条項を新たにつけ加えることを提案したい。

 100年前と比べて、当時は存在しなかったが、今日大きく根を張っているのが軍産複合体(軍部と兵器産業との複合体)である。
 かつてアイゼンハワー米大統領が「自由と民主主義の脅威になっている」と警告を発した軍産複合体は今日では新保守主義的な研究者・メディアも含めた「軍産官学情報複合体」に肥大化し、米国に限らず、日欧にまでその根拠地を広げている。しかもこの複合体は常に新兵器を開発製造し、それを政府・軍部に売り込み巨額の税金浪費をそそのかし、増税の元凶ともなっている。戦争になればさらに大儲けできる仕掛けが構造化しているわけだから、その責任をとるためにも兵器メーカーのトップは最前線で命を捧げる義務がある。

▽日米安保を解体し、日米平和友好条約へと転換すること

 ただこの法案が議会で成立し、戦争がなくなるかといえば、恐らく無理であろう。議員たちが賛成しないだろうからである。そこから何が明らかになり、新たに何を求めたらいいのか。次の3点を指摘したい。

*今日の戦争には政治家や企業家が命を捧げるに値するほどの大義は見出せないこと。だから国民の戦死も無駄死にであること。
 多くの場合、戦争は石油資源など物質的利益の確保が目当てである。しかも日本が米国の覇権主義と先制攻撃論に同調して、米国の下請けに等しい戦争に参加する大義はどこにも見出せない。

*全国で6000を超える「九条の会」の存在価値が輝いてくること。
 戦争をなくすためには、9条は事実上空洞化しているので、「9条守れ」だけでは一面的である。戦力不保持と交戦権の否認の2大理念を取り戻し、現実に生かしていく努力が不可欠である。そういう役割を「九条の会」に期待したい。

*憲法9条を守り、生かすためには軍事同盟としての日米安保体制を解体し、非軍事同盟としての日米平和友好条約へと切り換えること。
 日本の「核の傘」は日米安保体制の上に成立している。しかもその日米安保は「平和の砦」というよりも、「世界の中の日米同盟」を機能させるための「戦争策動拠点」にさえなっている。こうして日米安保体制は平和憲法体制と根本的に矛盾している。だからこそ平和憲法の理念を生かして、日米安保を解体し、新しい日米平和友好条約への転換が不可欠である。
 さらに核の脅威を免れるためには核保有大国の核廃絶をめざした核軍縮が大きな課題として浮かび上がってくる。


(戦争絶滅法案については、2005年6月北海道旭川で行われた高橋哲也・東京大学大学院総合文化研究科教授の「戦争絶滅法案」に関する講演などを参考にした)

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