「もっともっと欲しい」の貪欲の経済から、「足るを知る」知足の経済へ。さらにいのちを尊重する「持続の経済」へ。日本は幸せをとりもどすことができるでしょうか、考え、提言し、みなさんと語り合いたいと思います。(京都・龍安寺の石庭)
スポンサーサイト
上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。
--/--/--(--) --:--:--| スポンサー広告| トラックバック(-) コメント(-)
「大東亜戦争」と新聞の責任
「盲従の時代」再来を恐れる

安原和雄
 「安原和雄の仏教経済塾」に「財界人の戦争・平和観を追う―侵略戦争を認識した村田省蔵」を掲載した(07年6月16日付)。村田省蔵という財界人はかつての「大東亜戦争」を支え、推進する立場にあったが、敗戦後は「大東亜戦争は侵略戦争だった」と認識を180度改め、日本の侵略によって多くの犠牲を強いた中国との友好に尽力した異色の存在である。
 その大東亜戦争を国内外で体験した人は古稀(70歳)を過ぎた年齢層だから少数派となってきた。だからこそ大東亜戦争とはいったい何か、を問い直してみると、その陰に、いや堂々と侵略戦争を煽り、推進した新聞の責任が改めて大きく浮かび上がってくる。そして今、再びあの権力への「盲従の時代」の足音が聞こえはじめているのではないか、を恐れる。(07年6月29日掲載、7月1日インターネット新聞「日刊ベリタ」に転載)

▽大東亜共栄圏という名の植民地

 1941(昭和16)年12月8日の真珠湾攻撃による大戦開戦から4日後の12日、時の東条英機内閣は閣議で戦争の呼称について次のように決定し、情報局名で発表した。
「今次の対米英戦争は、支那事変も含め、大東亜戦争と呼称す。大東亜戦争と称するは、大東亜新秩序建設を目的とする戦争なることを意味するものにして、戦争地域を大東亜のみに限定する意味にあらず」(朝日新聞12月13日付)と。

 この情報局発表文に出てくる「大東亜」とは「東南アジアを含む東アジア」を指している。また「大東亜新秩序」とは、なにを意味するのか。「大東亜共栄圏」構想とほぼ同じで、大東亜地域に日本を盟主とする共存共栄の国際的新秩序を建設し、欧米諸国の植民地支配から東アジアを解放しようというスローガンを掲げた。大東亜戦争の大義名分とされたが、実体は、植民地解放どころか、銃と軍靴による植民地化そのものであった。

 大東亜戦争という呼称は、上記のように日本の戦争目的を表しているが、1945年8月の敗戦後、日本を占領統治した連合軍総司令部(GHQ)は、この呼称を公文書で使用することを禁止したという事情もあり、「太平洋戦争」(米英など連合国側の呼称)あるいは「アジア・太平洋戦争」と一般に呼ばれている。また「15年戦争」という呼称もある。日本の中国侵略が本格化する満州事変(1931=昭和6=年9月開始)から数えて敗戦(1945=昭和20=年8月)までの15年に及ぶ戦争期間による。

 上記の情報局発表文に関連して朝日新聞は次のように書いた。
 「一億国民はこの未曾有の大戦を戦ひ抜き勝利の栄光に到達しなければならない。かくてこそ日清、日露の両戦役によってもたらされた我が国運の発展に数倍する飛躍的興隆が帝国否十億大東亜民族の上に輝くであろう」と。
 ここには「権力の監視役としての新聞」という姿勢はかけらもない。「大東亜新秩序建設」のスローガンを無批判かつ積極的に容認し、戦争推進派の尻馬に乗って戦争を煽るという姿勢のみである。これは毎日新聞も同じであった。もっとも当時の新聞は国家権力の統制下にあり、今日のような「言論の自由」はなかった。

▽「食糧問題の前途洋々」―だがその前途に餓死が待っていた

 情報局発表文を載せた朝日新聞(12月13日付)に次のような見出しの記事が載っている。農相が放送で述べたことをそのまま記事に仕立ててある。
食糧問題の前途洋々
共栄圏は即ち糧秣庫
農相放送 自給の上、なほ余剰

 大東亜戦争を遂行する上で食糧問題には何の支障もない。大東亜共栄圏内で食料を自給した上、食料はなお余る―という趣旨のこの記事は果たして真実を伝えていたのか。
 15年に及ぶ戦争の犠牲者数は日本人310万人以上(内訳は軍人軍属などの戦死230万人、民間人の国外での死亡30万人、国内での空襲などによる死者50万人以上=1963年厚生省発表)で、そのうち軍人軍属の多くが戦闘による「名誉の戦死」ではなく、食料欠乏による餓死という「不名誉な犬死」であった。もっとも餓死という事実は戦後になって分かってくるのであり、戦争中はすべて「名誉の戦死」として処理された。

 上記記事の見出しになっている「共栄圏は即ち糧秣庫」、つまり兵員の食料と軍馬のまぐさを確保できる糧秣庫(りょうまつこ)としての機能を共栄圏に期待したわけだが、大誤算に終わった。それもそのはずである。植民地解放という名目に反して、その実体は植民地支配だったのだから、現地での食料調達はもともと無理であった。そのうえ本国と戦地との間の兵器、物資、食料などの輸送支援能力(いわゆる「後方支援」)は輸送船舶の破壊沈没によって壊滅状態となっていた。兵士たちは戦闘能力はなくなり、ただ餓死するほかない無惨な選択を運命づけられていたといえば、酷にすぎるだろうか。

▽新聞が作った英雄物語「肉弾三勇士」

 戦争を煽るための英雄、美談物語が次々と作られていく。その典型例の一つが朝日新聞が連載中の「新聞と戦争」で取り上げた「肉弾三勇士」物語(2007年6月13日付)である。この物語は戦争中の教科書にも載るなどあの手この手で流布されたので、私自身(大東亜戦争が始まった1941年=昭和16年に国民学校一年生だった)、子ども心に記憶に残っている。朝日新聞の「肉弾三勇士」に関する真相究明記事は優れたレポートなので以下に要点を紹介しよう。

 担当の藤森研・編集委員は次のように書いている。
 1932年の上海事変で、国民的英雄が生まれた。「肉弾三勇士」だ。〝自爆〟で進撃路を開いた自己犠牲の美談に読者の寄金が相次ぎ、新聞社は三勇士をたたえる歌を競作した。だが、その元をたどれば、断片情報から美談を仕立てた報道姿勢に突き当たる。「物語づくりの物語」からは、新聞が戦争をあおった一つの断面が浮かび上がる。

 〈第一報〉新聞が仕立てた「英雄」―の見出しで次のようにいきさつをまとめている。
 第一報は1932年2月24日の新聞に載った。大阪朝日新聞の上海特派員は次のように書いた。「自己の身体に点火せる爆弾を結びつけ身をもって深さ4㍍にわたる鉄条網中に投じ、自己もろ共にこれを粉砕して勇壮なる爆死を遂げ歩兵の突撃路をきり開いた三名の勇士がある」と。
 この記事の核心は「あらかじめ自爆を決心して鉄条網に身を投げ、という自己犠牲の物語」として作られているところにある。この記事はさまざまな素早い反応をもたらした。
陸軍省はその日のうちに恩賞授与を決め、さらに教科書への掲載や「天皇陛下の上聞に達したい」と検討をはじめる。一方、感激した読者は続々と弔慰金を新聞社に寄せはじめた。
大阪朝日はわざわざ「日本精神の極致」と題する社説を掲載、大和民族の特質をたたえ、「肉弾三勇士の壮烈なる行動も、実にこの神ながらの民族精神の発露による」と書きたてた。
 さらに雑誌が追いかけ、映画、演劇も飛びついた。当時の2大新聞である毎日と朝日も競い合い、ついに歌の競作が始まった。朝日が「肉弾三勇士の歌」の懸賞募集を発表すると、同じ日に毎日も「爆弾三勇士の歌」の懸賞募集で応じた。「肉弾」と「爆弾」が違うだけの張り合いである。

▽英雄物語の真相はどうだったか?

 この英雄・美談物語の真相はどうだったのだろうか。朝日新聞の上記「肉弾三勇士」物語は、〈ほんとのこと〉自ら死を決意したかは疑問―という見出しで真相を解き明かしている。
 自己犠牲の美談の核心は、「あらかじめ、自ら、死を決意し」という3点にある。しかしこの3点とも根拠は薄弱だった。国立公文書館の内務省警保局保安課のつづりに「『爆弾三勇士』のほんとのこと」という短い文書がある。これは死んだ3人の工兵と同じ工兵隊に属する1人の兵卒から聞き取った話で、それによると、次のようである。

 「三勇士」とされた人は、破壊筒の導火線に火をつけ、走っていって(敵陣の)鉄条網に突っ込み、素早く帰ってくる予定だったそうだ。ところが途中で1人が倒れ、時間をとってしまったため、3人は逃げ帰りかけた。すると伍長が「天皇のためだ国のためだ行け!」と怒鳴りつけたので、3人はまた引き返した。破壊筒を抱えて鉄条網に着いたか着かぬかに爆発したそうだ。命令に背いて銃殺された例もあり、同じ死ぬならと思って進んだのだろう。全くかわいそうでならない。

 この1人の兵卒の証言通りであれば、美談どころではない。上官・伍長の怒鳴り声による命令で殺されたのに等しい。実はもう一組の三勇士がおり、こちらは鉄条網に破壊筒を挿入したあと後退して地面に伏せて無事だった。

▽美談はどのようにして作り上げられたか

 上記の朝日新聞は、〈新聞の体質〉特ダネ競い、美談作り―という見出しで、美談が仕立てられていった過程を追跡している。ことの始まりはこうである。

 1932年2月22日夜、日本人クラブで食事をしていた朝日や毎日の上海特派員は、前線から帰った将校から「今朝3人の工兵が爆弾を抱いて鉄条網に飛び込み、突撃路を作った」という話を聞いた。特派員たちは凄惨な死に方に興奮し、翌23日、現場に行かぬまま、第一報を東京本社に送った。特ダネ競争の最中であり、爆弾の形も突撃状況もわからないままに、「点火せる爆弾を身体に結びつけ」などと壮烈な自爆物語を作り上げたのだ―と。

 ここまでくれば、第一報が真実からほど遠いことが後になって分かっても、なかなか修正しにくい。藤森研・編集委員は次のように解説している。
 「すでに第一報で国民を感激させ、陸軍も面子(めんつ)が立ったと喜んでいる時に、今さら日本軍隊の絶対服従の精神に従って、命令のままに死地に赴いただけの話で、日本軍隊にはありがちなこととも書けない」と。さらに次のようにも指摘している。
 「現場の記者が大きなニュースに接する。事実確認が不十分なままに初報を書いたことは想像に難くない。それが予想以上の反響を呼んだため、もう後から〈針小棒大だった〉とは言いにくいので、そのまま押し通した―というところではなかったか」と。

 その背景には特ダネ競争もあった。もう一つ私(安原)はつけ加えたい。「国民の戦意高揚に貢献したい」という意識が働いていたのではないか、と。当時の従軍記者には反戦記者はいなかったはずであり、戦争推進派で固められていただろうからである。それにかりに反戦記事が書かれたとしても、それが紙面に載る可能性はゼロであった。

▽「盲従の時代」が再び始まる―行き着く先は「メディアの自殺」か

 大東亜戦争時代には、以上のような政府当局や軍部が提供する宣伝情報がそのまま、あるいはメディアがそれをさらに加工してウソの情報を国民に流し、それを読み、聞いて多くの国民は安心し、手を叩いて喜ぶという構図が定着していく。それを主導したのがいわゆる「大本営(戦時中の最高軍事統帥機関)発表」で、負け戦を勝ち戦のように捏造(ねつぞう)し、国民の多くは、それを信じ込むという無批判で「盲従の時代」を過去に経験したことを忘れてはならない。
 小学生だった私自身、「敵戦艦三隻撃沈など敵の損害は甚大、我が方の被害は軽微」などというウソ八百の大本営発表ニュースが毎日のように流され、その時はそれほど疑問に思わず、信じていた記憶がある。

 さてあの戦争終結から六〇年余過ぎて、「盲従の時代」の再来はないと安心していられるだろうか。結論からいえば、私は残念ながら「盲従の時代」が再び始まりつつあることを指摘したい。テレビも含めて大手メディアがそれに加担しつつあると私は認識している。なぜそういえるのか。テレビを含む大手メディアがいかに批判力を衰微させ、不公正な報道を繰り返しているか、その事実は否定できないからである。
 一方、地方紙は健在なり、という声が高いが、ここでは大手メディアだけが対象であることを断っておきたい。

 かつての明治憲法下での戦前、戦時中には「言論の自由」はなかった。しかし今日では平和憲法で保障されているはずの言論の自由、つまり権力批判の自由はどこまで生かされているのか、宝の持ち腐れになってはいないか。
 メディアと権力との親密感、癒着関係が進行しつつある。もちろん取材のためには接近する必要があるが、そこには一定の距離を保つことが求められる。そうでなければ、その行き着く先は、当事者が仮に無自覚であるにせよ、権力の事実上の代弁者となり、ジャーナリズムの責任放棄につながる。これは「メディアの自殺」とはいえないか、それを恐れる。良心的なジャーナリストたちの活躍に期待するところ大である。

▽不公正な報道の具体例―日米安保体制、核不拡散、新自由主義

 大手メディアによる不公正な報道の具体例を以下に挙げる。
*日米安保体制について
 軍事同盟としての日米安保体制は今や戦争策動の拠点となっており、平和憲法9条の理念(=戦争放棄、戦力不保持、交戦権の否認)と真っ向から矛盾対立しているが、この日米安保を根本から批判する大手メディアは存在しない。積極的賛美論か消極的容認論かの違いはあっても、自由な批判精神を失っている点では同じである。
 大東亜戦争は日独伊3国軍事同盟(1940年9月調印)を後ろ盾にして突っ込んでいった。そういう苦い歴史的経験があるにもかかわらず、軍事同盟を「触らぬ神に祟(たた)りなし」とばかりにタブー視するのは危険である。

*核廃絶か核不拡散か
 北朝鮮の核実験、核保有が容認できないことはいうまでもないが、それにしても核不拡散のみに焦点を合わせた大手メディアの論調は公正ではない。これは核保有5大国(米英仏露中)、特に米国の利害に沿った論調であり、公正であるためには核保有国に対し、核廃絶を主張すべきである。核不拡散条約も核廃絶への方向を盛り込んでいることを忘れてはならない。

*新自由主義(=自由市場原理主義)について
 1980年代前半の中曽根政権時代から導入され、小泉・安倍政権時代に本格化した米国産の新自由主義への理解が一面的であり、批判の視点が弱すぎるのではないか。
 新自由主義の「自由」とは、多国籍企業など巨大企業の最大利益の自由な追求を意味している。いいかえれば自由化、民営化の推進(郵政の民営化はその一つの具体例)によって企業が最大利益を追求する自由な機会を保障し、広げることを指している。憲法で保障する「自由・人権」の自由とは異質である。だから新自由主義は弱肉強食の弊害、格差拡大、貧困層や自殺者の増大―などを必然的に生み出している。この実体を理解しないで、構造改革という美名に幻惑させられてはいないか。

 しかもこの新自由主義は軍事力重視主義と表裏一体の関係にあることを見逃してはならない。いいかえれば新自由主義のグローバル化のためには軍事力という後ろ盾が必要なのである。
 新自由主義導入の口火を切った中曽根首相は日米首脳会談(83年1月)のため訪米した際、「日米は運命共同体」、「日本列島不沈空母化・海峡封鎖」などと発言、日米安保=軍事同盟の強化路線を打ち出した。しかも現職首相として戦後初の靖国新春参拝(84年1月)にも踏み切った。
 そして今、安倍政権は憲法9条を改悪して正式の軍隊を保持し、「戦争のできる国・日本」の仕上げをめざしつつある。

しかしこの新自由主義は軍事力に支えられているからこそ、矛盾を広げ、市民や庶民の大きな抵抗を招かざるを得ないだろう。こういう視点がメディアには希薄すぎるとはいえないか。


(寸評、提案歓迎! 下記の「コメント」をクリックして、自由に書き込んで下さい。実名入りでなく、仮名でも結構です)

スポンサーサイト
日米安保体制の軌跡を追う
平和憲法9条を守る視点から
                   
安原 和雄
 今年(2007年)の6月23日は現行日米安保条約が発効(1960年)してからちょうど47年目に当たる。安倍晋三政権はその日米安保体制下で平和憲法9条(=戦争放棄、戦力の不保持、交戦権の否認)を改悪し、正式の軍隊を保持し、「戦争のできる国・日本」を目指しており、自民党は7月の参院選公約に「2010年の国会で憲法改正案を発議」を盛り込んでいる。
 半世紀近い歴史をもつ日米安保体制がどういう軌跡をたどってきたか。平和憲法9条の理念を守り、生かしていくという視点に立って日米安保の軌跡を追う。(07年6月22日掲載、同月23日インターネット新聞「日刊ベリタ」に転載)

▽安保反対の最中に父に宛てた葉書

 最近、私の生家(広島県)へ帰郷した折、手紙類を整理していたら、その中に私が父に宛てた葉書を発見した。日付は私がペン字で書いた6/24とあり、6月24日である。年代は字が消えかかっていて判読できないが、文面を読んでみると、なんと当時の岸信介首相を退陣に追い込んだ安保反対闘争最中の印象記がつづってあり、1960年6月24日付の葉書とわかる。その趣旨は次のようである。

 田植えはもう終わりましたか。毎日お忙しいことと存じます。東京は「新安保反対」、「国会解散」、「岸内閣退陣」などと革新陣営の旗あげデモで、自民党や岸内閣も押され押されて、連日荒れ狂っています。小生なども毎日のように国会、アメリカ大使館、首相官邸などでデモ取材の徹夜が続いています。
 元気ですからご安心下さい。くれぐれもお大事に。

 その父も他界してすでに20年にもなる。私は当時、1960年5月に毎日新聞地方支局勤務から東京本社社会部に配属になったばかりの駆け出し記者であった。短い葉書の文面だが、当時の雰囲気は手に取るようによみがえってくる。

 国会周辺を中心に都内のあちこちを埋め尽くしたデモ隊が繰り返す蛇行、渦巻きデモ、そして「新安保ハンタ~イ」ワッショイ、「岸は退陣せよ~」ワッショイ、ワッショイ、という威勢のよい大合唱は夕日が没してからも止むことはなかった。星が美しく輝く夜空(当時は大気がそれほど汚染されていなかったので星も輝いていた)にいつまでもこだましていた。

▽子どもだった安倍首相の「アンポ、ハンタイ」

 安倍晋三首相は、著作『美しい国へ』でこう書いている。
 当時まだ6歳だった私には、遠くからのデモ隊の声が、どこか祭りの囃子(はやし)のように聞こえた。ふざけて「アンポ、ハンタイ」と足踏みをすると、父母は「アンポ、サンセイ、といいなさい」と冗談交じりにたしなめた。祖父(岸信介首相)は、それをニコニコしながら、愉快そうに見ているだけだった。

デモ隊の「ハンタ~イ」の叫び声を首相の祖父とともに聞いていた孫が、40数年後に首相の座に登りつめようとは、デモ隊の誰が予想しただろうか。
 もう一つのエピソードを紹介しておきたい。
 1960年当時、水野成夫サンケイ新聞社長は有力な財界人として、その存在が知られていた。

 その水野が6月15日頃自宅の電話口で「官房長官を出せ」と電話の相手に言っていた。岸内閣の官房長官は椎名悦三郎であった。テレビやラジオは国会周辺のデモを伝えていた。すぐ椎名が電話口に出た。
 水野は一気に「どんなことがあっても自衛隊を出しては駄目だ。自衛隊を出したら内乱になる。君から岸によく伝えろ」と受話器を握りしめ、力を込めて繰り返し相手に言っていた。

 これは水野の側近、サンケイ常勤監査役・菅本進が水野の自宅で間近に目撃した歴史的一コマの証言(菅本著『前田・水野・鹿内とサンケイ』)である。自衛隊法は自衛隊の任務として「間接侵略の防衛」という名の治安出動を定めている。大規模デモの対策として、当時自衛隊を治安出動させるかどうかが政府内で検討されていたともいわれる。水野はこれを必死になって阻んだというのが証言の趣旨である。もし治安出動させていたら、その後の日本の政治状況はどう変わっていただろうか。

▽新安保条約発効前後の動き―岸内閣退陣から池田内閣登場へ

 ここで1960年6月23日に新日米安保条約が発効した、その前後の動きを年表風に追ってみよう。

・政府と自民党、衆院で質疑打ち切りを強行、警官隊を導入(5月19日)。新安保条約を自民単独で強行採決(20日未明)
・安保改定阻止第1次実力行使デモに全国で560万人参加(6月4日)
・米大統領秘書ハガチー来日、羽田でデモ隊に包囲され、ヘリで脱出(6月10日)
・安保改定阻止第2次実力行使デモに全国で580万人参加(6月15日~16日)。
 全学連主流派、警官隊と衝突、東大生樺美智子さん死亡(6月15日)
・安保阻止統一行動、33万人が国会デモ、徹夜で国会を包囲(6月18日)
・新安保条約、自然承認(6月19日)
・新安保条約批准書交換、発効。岸首相、閣議で退陣の意思を表明(6月23日)
・岸内閣総辞職(7月15日)
・池田勇人内閣成立(7月19日)、「寛容と忍耐」をキャッチフレーズに登場
・浅沼稲次郎社会党委員長、日比谷公会堂で演説中に右翼少年山口二矢に刺殺さる(10 月12日)
・経済審議会(首相の諮問機関)、国民所得倍増計画を答申(11月1日)。閣議、同計画を決定(12月27日)

 新安保条約が発効したその日の毎日新聞(6月23日付夕刊)には「新安保発効・政局急展開へ」、「岸首相、退陣を表明」、「新首班で人心一新」などの大きな活字が躍っている。メディアの関心は、すでに政局の急展開、人心一新がどこまでできるかに移行しつつあった。
 新しく登場した池田勇人首相の課題は「反岸内閣」のムードからどう局面展開を図るかにあった。そのキャッチ・フレーズが大平正芳官房長官(後の首相)演出による「寛容と忍耐」であった。同時に経済政策として打ち出したのが「国民所得倍増計画」である。「10年間で月給倍増計画」などとはやし立て、素人受けするプランであった。ささくれだった国民の気分もやがて沈静化し、「政治の季節」から「経済の季節」へと急旋回していった。
 大量消費、使い捨てが広がり、「浪費は美徳」の時代が始まる。車社会も急速に定着していく。経済成長賛美論が支配的イデオロギーとなった。半面、公害が広がり、円の切り上げ、石油危機など多難な出来事も次々と経済や暮らしを襲った。それでも「今日よりも明日はより豊かになるだろう」と多くの国民は信じようとした。

▽「旧安保」と「新安保」はどう異なるか

 さて旧日米安保条約(1952年4月28日公布)と新日米安保条約はどう違うのか。なぜあれほど大規模の改定阻止行動が当時盛り上がったのか。まず旧安保と新安保の違いをみよう。

*旧安保は軍事同盟一色だが、これに対し新安保は軍事同盟と経済同盟の両面を備えている。
*旧安保では米国は日本が「直接及び間接の侵略に対する自国の防衛のため漸増的に自ら責任を負うことを期待する」とうたい、防衛力漸増論を唱えているが、新安保では「自衛力の維持発展」(第3条)、「共同防衛」(第5条)などを明記している。
 ここが平和憲法9条の「戦力不保持」、「交戦権の否認」の規定と真っ向から矛盾対立する点である。

*旧安保(第1条)では米国軍隊は、外国の干渉によって引き起こされる日本国内の大規模な内乱を鎮圧するため使用できるとしている。新安保ではこの条項は削除された。
*条約の失効条件として、旧安保は「日本及び米国の政府が認めたとき」とうたい、一方的破棄を拒否している。これに対し、新安保(第10条)では「この条約が10年間効力を存続した後は、いずれの締約国も、他方の締約国に条約を終了させる意思を通告することができ、条約はその通告後1年で終了する」と規定している。これは一方的破棄が可能な規定である。

 「旧安保は日本に不利な不平等条約であり、それを改定する」が岸内閣のうたい文句であった。なるほど新安保条約の一方的破棄が可能な条項が盛り込まれた点などは改善といえる。ただ国民がその意志として、この破棄条項を活用しなければ、しょせん絵に描いたモチにすぎない。 
 一方、「自衛力の維持発展」、「共同防衛」が明記され、日本の責任が重くなった。また日本から行われる米軍の戦闘作戦行動などに関する日米政府間の「事前協議」が新たに設けられたが、実際は米軍側の意向をそのまま受け容れるわけで、事実上空文化している。

 こうして日本は安保体制下で軍事力偏重の米国世界戦略の中に組み込まれていく。その後の米軍によるベトナム侵略戦争、湾岸戦争、目下作戦行動中の米国主導のアフガニスタン・イラク戦争と占領は、日米安保体制下の巨大な在日米軍基地網の存在なくしては困難といっていいだろう。
 このように実質上の日本の戦争協力という予感があったからこそ、あれほど大規模の「安保ハンタイ」の声が響き渡ったのである。

▽中曽根政権時代を経て「世界の中の日米同盟」へ

 「経済の季節」から再び「政治の季節」へ、さらに「安保の時代」へと転回していったのは中曽根康弘首相の登板(1982年11月)がきっかけとなった。中曽根首相は日米首脳会談(83年1月)のため訪米し、「日米は運命共同体」、「日本列島不沈空母化・海峡封鎖」などと発言、さらに初の施政方針演説(同年1月)で「戦後史の大きな転換点」と強調した。おまけに現職首相として戦後初の靖国新春参拝(84年1月)に踏み切った。

 昨今の日米安保体制、すなわち日米同盟は当初からみると、著しく変質してきている。その節目となったのが1996年4月の日米首脳会談(橋本龍太郎首相とクリントン大統領との会談)で合意した「日米安保共同宣言―21世紀に向けての同盟」である。この共同宣言は次のように述べている。
 「首相と大統領は、日米安保条約が日米同盟関係の中核であり、地球規模の問題についての日米協力の基盤たる相互信頼関係の土台となっていることを認識した」と。
 ここでの「地球規模の日米協力」とはなにを意味するのか。

日米安保条約の適用範囲あるいは日米共同対処区域を従来の「極東」から「地球規模」へと無限大に拡大させたことに着目したい。これは「安保の再定義」ともいわれ、解釈改憲と同様に条文は何一つ変更しないで、実質的な内容を大幅に変えていく手法である。このような安保の再定義が地球規模での「テロとの戦い」に日本が参加していく布石となった。米国主導のイラク攻撃になりふり構わず同調し、自衛隊を派兵したのも、この安保の再定義が背景にある。
 2003年5月の日米首脳会談(小泉純一郎首相とブッシュ大統領との会談)でも「世界の中の日米同盟」を強化していくことで一致し、さらに07年4月の日米首脳会談(安倍晋三首相とブッシュ大統領との会談)で、「世界とアジアのための日米同盟」を改めて確認した。

 安倍政権と自民、公明両党は07年6月20日、参院本会議で自衛隊のイラク派兵を2年間延長する改正イラク復興支援特別措置法を強引に成立させたが、名目は「イラク復興支援」とはいえ、実体は「対米支援」である。これはイラクにおける米軍中心の軍事作戦を支援するために航空自衛隊が輸送活動を行うもので、後方支援という名の事実上の参戦協力である。その背景に「世界の中の日米同盟」がある。

▽「世界の宝」である憲法9条の悲劇は世界の悲劇

 「世界の中の日米同盟」にまで変質した日米安保体制は、憲法9条を中心とする平和憲法体制と真っ向から矛盾・対立し、憲法9条の空洞化をすすめた。その空洞化路線の最後の仕上げとして安倍政権の改憲が位置づけられている。自民党は07年7月の参院選に向けた公約に「2010年の国会で憲法改正案を発議」と明示している。安倍政権の改憲の中心テーマはいうまでもなく平和憲法9条の「戦力の不保持と交戦権の否認」を削除し、正式の軍隊を保持することである。

 中米の小国コスタリカは1949年の憲法改正で軍隊を廃止し、今日に至っている。日本国憲法9条の理念を実践しているともいえるのであり、世界各国から大きな関心を集めている。世界中で広く「9条は世界の宝」という高い評価を得ているのである。にもかかわらず、それに背を向けて安倍政権は宝物を投げ捨てようと画策している。それほどまでして米国に追随し、究極の国家暴力ともいうべき戦争をしたいのか。地球規模の「いのちと平和」を破壊したいのか。

 今、「9条を守れ、生かせ」という声は日本列島上に広がりつつあるとはいえ、半世紀前に噴き上げ、岸政権を退陣に追い込んだあの巨大なエネルギーはうかがえない。このエネルギーの落差はどこから来ているのか。9条の悲劇は、日本だけではなく、そのまま世界の悲劇でもあることを忘れてはなるまい。


(寸評、提案歓迎! 下記の「コメント」をクリックして、自由に書き込んで下さい。実名入りでなく、仮名でも結構です)
財界人の戦争・平和観を追う
侵略戦争を認識した村田省蔵

安原和雄
 安倍晋三政権は憲法9条(戦力不保持、交戦権の否認)を改悪し、「戦争のできる国・日本」を目指しており、それを経済界のリーダーである財界人の多くも支持している。しかし当の財界人たちがどのような戦争・平和観を抱いているのか、ほとんど語られることもないまま、財界には「憲法9条改正」は当然という空気が高まっている。これでは比類のない多くの犠牲者を出したあの「大東亜戦争―敗戦」という亡国への道を再び歩みかねないことを危惧する。
 半澤健市著『財界人の戦争認識―村田省蔵の大東亜戦争』は、日本海運界のリーダーであり、また大戦開戦前の近衛文麿内閣の大臣を歴任、さらに大戦開戦後はフィリピン派遣軍最高顧問として大東亜戦争を支えた村田省蔵という財界人が、戦後どのようにしてあの戦争を侵略戦争だったと認識し、平和志向へと転換していったかを追跡している。同著作を手がかりに財界人の戦争・平和観を考える。(07年6月16日掲載、同日インターネット新聞「日刊ベリタ」に転載)

▽侵略戦争の反省に立って日中間の「信頼、誠実、友好」関係へ

 まず同著作から村田省蔵(注1)最晩年の文章(「日中関係の現状を憂う」『世界』岩波書店、1955年11月号)を以下に紹介したい。戦争中、大東亜戦争を支え続けた財界人・村田はこの文章で「大東亜戦争は侵略戦争だった」という認識と反省を明示し、しかも日中関係のあり方として「信頼、誠実、友好」が基本であるべきことを力説している。

 われわれは中国人に対して10余年にわたって侵略戦争を行った。土地を侵し、余億の中国の民衆に与えた精神的物質的の損害は計り知れないほど大きい。われわれ日本人として過去の罪業を深く愧(は)じなければならね。
 周恩来氏は「過去のことは忘れましょう。・・・今まで日本からずいぶん不平等に扱われたが、過去は決して咎(とが)めません」と述べた・・・このようなおおらかな寛容の態度に接すると、私たちとしてはなおさらに愧じる気持ちを強くする。

 中国は共産主義国家であり、だから友好を結ぶべきでないという人があるが、私はその説はとらない。(中略)共産主義だから悪いという固定観念で中国を律するべきでない。要は日本と中国が離るべからざる関係にあることの認識から出発すべきなのである。
 日本が独立国として特定の一国に輸出入の多くを依存することはかなり危険なことである。だから他にマーケットを、それもなるべく近いところに拓くことが必要になってくる。中国という大きなしかも将来性をもったマーケット・・・をこちらの方でわざと忌避することは、日本として耐えられないことではないか。

 過般の日米共同声明(注2)で西太平洋の安全保障なることが謳(うた)われ、海外派兵が云々された事態を私は憂えるものである。折角、日本国民が平和を願っており、戦争を欲していないことがよく判ったと中国が言いだした矢先である。日本は米国に加担して再び侵略戦争を行うのではないかと恐れ、日本を仮想敵国とするかつての中ソ同盟条約の線に中国側としても帰らざるをえなくなってくる。
 国際関係は恐怖と偏見と猜疑によるものであってはならない。それは信頼と誠実と友好に基づくものでなければならない。

 (注1)村田省蔵(1878=明治11年~1957=昭和32年)は高等商業学校(一橋大学の前身)卒業後、大阪商船に入社。その後同社社長、日本船主協会(後に日本海運協会に改称)会長、さらに大戦前の近衛内閣で逓信大臣、鉄道大臣を歴任した。大東亜戦争開戦(1941年12月)後、比島(フィリピン)派遣軍最高顧問、駐比特命全権大使などに就任した。
 敗戦(1945年8月)以降はA級戦犯容疑者として巣鴨拘置所などに収監される。公職追放解除後、フィリピン友の会、日本関税協会,日本海事振興会、海運合理化懇話会、日本海外協力連合会、日本国際貿易促進協会(国貿促)などの会長、委員長を歴任した。晩年の1955年(昭和30年)以降、国貿促会長として何度も訪中し、中国の毛沢東主席、周恩来総理らと会談した。

 なお著者の半澤健市は、1958年一橋大学社会学部卒後、野村證券、東洋信託銀行などに勤務、定年後、神奈川大学院歴史民俗資料学研究科博士後期課程を終了。著書『財界人の戦争認識―村田省蔵の大東亜戦争』は博士論文で、07年3月刊。

(注2)1955(昭和30)年8月末、ワシントンで行われた重光葵外相とダレス米国務長官との会談の後に発表された日米共同声明は次の諸点を強調している。①日本の防衛力増強、②日本が西太平洋における安全保障の維持に寄与すること、③現在の安全保障条約をより相互性の強い条約に変えることで日米同意―など。③は現行の日米安保条約(1960年6月発効)として具体化し、今日に至っている。
 また当時の朝日新聞(1955年9月2日付)は「米政府筋は、日米双方とも将来日本が海外に派兵できることを考え方の基本にしている旨述べた」と報じた。

▽「臣下としての財界人」と「帝国主義的財界人」

 戦前、戦時中の財界人としての村田には2つの顔があった。1つは「天皇の臣下としての財界人」であり、もう1つは「帝国主義的財界人」である。
 前者の「臣下としての財界人」とは、「合理的で有能な経営者である日本の財界人が、天皇の前では〈天皇の戦争〉に批判の声を挙げることができず、屈折した心理のもとに非合理的な軍事優先の経済運営に屈服したこと」を指している。

 後者の「帝国主義的財界人」とはどういう財界人像なのか。日中戦争突入直前の村田の「年頭所感」(海運業界誌『海運』1937年1月号)を以下に紹介しよう。

 大和民族の鬱積(うっせき)せる活力は、その捌口(はけぐち)を世界に求め、軍事はもとより政治、外交、通商、海運などあらゆる方面に異常なる発展を遂げ、世界の脅威となった。列強は殊に我が貿易の躍進ぶりに驚き、高関税などあらゆる障碍(しょうがい)を設けて我が国の正常なる経済的発展を阻止せんとしている。「持てる国」と「持たざる国」、つまり旧大国と新興国の利害は対立する。持たざる国が打開してきた新情勢を無視してはならない。世界各地の危機や経済不安は、この新情勢を適当に顧慮せざるによる。(中略)持たざる国・日本の唯一の頼みは人力であり、我々が人力によって自己生存の運命を開こうとするのを持てる国の旧大国が障碍を築いているのは自然ではない。
 これの打開には(中略)和戦両様の構えで、「自ら恃(たの)むあるの覚悟」を持つべきである。

同著作は、この年頭所感について次のように解説している。
 これは「海運経営者」であるよりも、「帝国主義者」の言説であった。「持てる国」、「持たざる国」の概念は遅れてきた帝国主義国の自己主張であった。日本資本主義が1941年までは戦争とともに発展してきたという歴史的な事実に照らせば、日米開戦(41年12月)までブルジョアジーが戦争による繁栄を経営の基本方針とするのは自然なことであった。

 またこうも指摘している。
 村田が「過ぐる戦争」を「大東亜戦争」と認識したのは、日本神話に由来する幻想的な八紘一宇のイデオロギーを信じたからではない。次の3つの物質的な基盤に確信をもっていたからである。
①「大日本帝国」が過去、数次の戦争に勝利することで発展してきたこと
②日本の海運界が補助金と一連の戦争(特に第1次世界大戦)を背景に発展したこと
③大阪商船は主要市場である中国ビジネスで経営を拡大してきたこと

▽「聖戦」から「侵略戦争」への認識転換

 戦時中の「大東亜戦争=聖戦」という村田の戦争認識は、戦後になって「侵略戦争」へと転換した。その背景はなにか。同著作は以下のように指摘している。

 第1は海運業の「栄光と屈辱」である。
 海運業が戦争で栄えたという事実は開戦までの海運業者に「好戦性」を与えた。その海運業が大東亜戦争によって壊滅したという事実は、戦後の海運業者に「反戦性」を与えた。戦争が海運業の「栄光と屈辱」をもたらしたことは村田の戦争認識とその変化の第1の要因である。

 第2は大東亜共栄圏の理想と現実があまりにも隔たっていたことである。いいかえれば「植民地解放」の実態は「植民地支配」であったこと。
 戦争の生々しい実態を細部まで知った村田は大東亜共栄圏の「理念」と「実態」を峻別してゆく。「実態」を知った者としてかれは戦争の本質、侵略や戦争犯罪について考えないわけにはいかなかった。このことが村田の戦争認識とその変化の第2の要因である。

 村田は1942年2月から45年3月まで3年余りをフィリピンの戦場で日本軍軍政最高顧問、駐比特命全権大使として過ごした。その体験、見聞を「比島日記」に克明につづり、日本軍の非合理的な思考と行動に強い批判を加えている。そのうえ軍政批判として「対比施策批判」(1945年4月)をまとめた。そのめぼしい項目をいくつか拾ってみると、次のようである。

*経営論的視点
 軍隊の頻繁な人事異動=自己組織中心の論理への批判、陸海軍縦割りの弊害、「中央の指令届かず」、「中央の過剰干渉」
*専門知識の軽視
 軍票の乱発=金融知識の欠如とその自覚なき軍人への批判、食糧不足に対する専門家の対処失敗
*近代的意識あるいは民主主義の不在
 憲兵隊の暴力、対比差別意識と暴力、カトリックと消費主義への日本的精神主義による説得の困難、教養なき日本人

 この「批判」の手記はフィリピンから帰国後、当時の東郷茂徳外務大臣ら国内要人に手交された。村田と東郷外相との面談の際、「もし2年前にこの手記をみて、その誤りを正していれば、今日のような結果をみることもなかったとして、軍人の態度の批判を相互に語り合い、さらに国民全体の反省と教化なくしては大東亜共栄圏の建設は夢にすぎない、と一致した」とある(1945年7月9日付の日記・趣旨から)。
 8月15日の敗戦の日を目前にして、批判も反省も時すでに遅し、の雰囲気が伝わってくる。

▽ 21世紀に期待される「自立的財界人」

 半澤は同著作で村田のような「自立的財界人」の重要性は21世紀のいまこそ失われてはならない、と強調している。「自立的財界人」とはどういう財界人なのか。以下のような4つの条件を備えた財界人を指している。これは冒頭に紹介した最晩年の村田の文章「日中関係の現状を憂う」からも十分にうかがうことができる。

*反戦平和を求める財界人
 海運人村田には、日本の海運業が戦争とともに栄え、戦争とともに滅んだことから、敗戦によって「反戦平和」を求める海運人として再生しようとし、原水爆禁止運動にまでかかわった。
 また村田は周恩来の平和共存5原則(注)に賛意を示した。当時の西側諸国は「平和共存」外交に同意していたわけではない。平和共存政策は、東側の「平和攻勢」であり、イデオロギーを隠した外交戦略と見られていた。にもかかわらず村田は5原則に賛同した。

(注)平和共存5原則は1954年周恩来中国総理とネール・インド首相の会談に基づき合意された国際関係における原則で、次の5項目からなっている。領土・主権の相互尊重、相互不可侵、相互内政不干渉、平等互恵、平和共存。

*友好的なナショナリズム
 村田はかつて差別し支配する対象としていた中国を対等の相手としてみることになった。かれのナショナリズムは敵対的なものから友好的なものへと脱皮した。村田と周恩来の会談記録からもそれはいえる。村田は率直な問いを発して日中間の立場の違いを鮮明にした。しかし立場の違いの明示は両者の相互理解への道を開いた。
 ナショナリズムには偏狭で独善的な側面と開かれた共存的な側面があるが、村田が望んだのは後者である。村田のナショナリズムはアジア主義の色彩さえ帯びていた。

*経済的必要と道義的必要の両立
 村田は日中関係回復を重視すべきことを経済的必要と道義的必要(贖罪)の二つから説いた。かれは隣国市場の潜在力は巨大であり、その開拓は日本経済にとって有益と考えた。村田はそのうえ戦争責任を引き受け、償おうとする贖罪意識があった。村田の場合、日中間の経済的必要と道義的必要は矛盾することなく両立していた。日中間の経済協力が新興独立国家として発展しようとする中国への贖罪を意味していたからである。

*日米協力関係の相対化
 日本の戦後外交における自立性の欠如は冷戦を理由にして正当化されがちである。しかし村田が選んだ立場は、東西冷戦を所与とするものではなかった。もちろん冷戦の現実に目をつぶったわけではない。しかし容共か反共かという枠組みを当然視するものではなかった。親中国の思考ではあったが、容共イデオロギーではなかった。平和的なナショナリズムで対中接近を図った。これは日米協力関係を絶対視しないで、相対化した「自立的財界人」の理念と行動といってもよい。

▽昨今の財界人の戦争・平和観は?

 さて村田は「大東亜戦争」を肯定し、それに参加、推進したが、敗戦後には「侵略戦争だった」と戦争認識を根本的に転換させ、平和を求め、日中関係回復に貢献した「自立的財界人」であった。
 村田と他の多くの財界人とはどこがどう異なっていたのか。半澤の次の指摘は重要である。

 「戦争より平和を是とする存在」に変身するためには戦争の総括が必要である。それは厳しい内面の葛藤を伴うであろう。日本国民のほとんどがそうであったように財界人も戦争の総括を行わず、ズルズルベッタリに「吉田路線」(注)を当然の前提と考え、東西冷戦体制、「対米従属」を容認し(主観的には「対米協調」)、しかもそれが不可避と考えた。 東西冷戦の枠組み下では対共産圏接近はタブーであった。村田は東西冷戦構造が存在する事実は認めたが、それを変更不可能な所与の前提とは考えなかった。つまり村田は「自立的財界人」への転換を自覚的に主体的に行ったのである―と。

(注)敗戦後の昭和20年代にほぼ一貫して首相の座にあった吉田茂(第1次吉田内閣~第5次内閣まで)が主導したいわゆる吉田路線は、軽武装・通商国家、反共の「中共観」と対中外交の欠落、共産圏を敵視する対日講和条約・旧日米安保条約の締結―などを指している。

 その村田に比べて、昨今の財界人はどのようなイメージでとらえられるだろうか。果たして恥じることのない明確な戦争・平和観はあるのか。いうまでもなく戦争・平和観とは戦争否定・平和肯定の思想でなければならない。

 ここでは財界総本山、日本経団連(御手洗 冨士夫会長)が07年元旦に発表したいわゆる御手洗ビジョン(正式名称は「希望の国、日本」ビジョン2007)を手がかりに考える。戦争、平和さらに愛国心などに関連ある記述はほぼ以下のようである。

*アジア太平洋地域の平和と安定の強化に寄与していくため、日米同盟を安全保障の基軸として堅持しつつ、MD(ミサイル防衛)能力の向上をはじめ、適切な防衛力を整備し、2国間や多国間の共同演習などを含む安全保障対話の推進に努めなければならない。
*国民の安心・安全を確保するために必要な安全保障政策を再定義し、その展開を図っていくことが求められている。しかし自衛隊や集団的自衛権の憲法上の位置づけが不明確であり、実効ある安全保障政策の展開が制約されている。
*自衛隊が国際社会と協調して国際平和に寄与する活動に貢献・協力できる旨を憲法上、明示する必要性が高まっている。

*経団連は2010年代初頭までに憲法改正の実現を目指す。改正の内容は9条第1項の平和主義の基本理念は堅持しつつ、戦力不保持をうたった同条第2項を見直し、憲法上、自衛隊の保持を明確化する。自衛隊が主体的な国際貢献をできることを明示するとともに、国益の確保や国際平和の安定のために集団的自衛権を行使できることを明らかにする。
*安全保障会議を抜本的に強化し、日本版NSC(国家安全保障会議)として機能させる。
*愛国心を持つ国民は、愛情と責任感と気概をもって、国を支え守る。
*悠久の歴史が織り成してきた美しい日本の文化と伝統を子どもたちに着実に引き継ぎ、活力と魅力にあふれた「希望の国」を実現することは可能であるし、われわれの責務である。

▽「日米安保体制の臣下」と化した財界人たち 

 上記の御手洗ビジョンには戦争・平和に関する財界独自の構想や思想はうかがえない。 ただあるのは安倍首相の著作『美しい国へ』が語っている日米安保論や愛国心であり、安倍政権、自民党がすでに打ち出している安全保障政策とは異質の考え方は何一つ見出せない。具体例をあげれば、日米同盟の堅持、安全保障政策の再定義、憲法改正(9条第2項=戦力不保持、交戦権の否認=の見直しと自衛隊の保持)、集団的自衛権の行使、日本版NSCなどはすべて安倍政権、自民党が唱え、実施あるいは検討中のテーマである。

 「MD能力の向上」や「適切な防衛力整備」など日米安保と兵器ビジネスにかかわる課題を盛り込んでいるあたりがいかにも算盤勘定優先の経済界らしいというべきか。これもすでに動き出している周知の話だが、先行き大増税につながっていくことを見逃してはならない。

 特に注目すべきは「日米同盟を安全保障の基軸として堅持」という財界の認識である。昨今の日米安保体制=日米同盟は、いわゆる「安保の再定義」によって著しく変質している。具体的には日米安保条約の日米共同対処区域を従来の「極東」から「テロとの戦い」などを名目に「地球規模」へと拡大させている。07年4月の日米首脳会談(安倍・ブッシュ会談)でも「世界とアジアのための日米同盟」を確認した。
 この日米同盟を機能させて米国は大義なきイラク戦争に走り、日本は自衛隊を派兵した。日米安保=日米同盟はいまや戦争を画策する巨大な拠点と化している。

 財界は、そういう日米安保=日米同盟を堅持する、というのだから、これは日米一体化のもとでの戦争容認であり、御手洗ビジョンが掲げる「国際平和の安定」は単なる美辞麗句であり、空手形にすぎない。実体は米国主導の戦争という名の国家暴力の行使に引きずられて、地球規模の「いのちと平和」を破壊する結果を招く恐れが多分にある。

 戦前、戦時中の財界人が「天皇の臣下、財界人」として天皇批判がタブーであったように、戦後の財界人にとって日米安保はタブーとなった。日米安保はこれまで批判を許さぬ存在であり、それを改めて確認したのが御手洗ビジョンである。これでは「日米安保体制の臣下、財界人」といっても決して的外れではないだろう。ここでの「臣下」とは「批判能力を持たない家来」という意味である。

 財界が日米安保体制―軍事同盟と同時に経済同盟でもある―を支持する理由がないわけではない。例えば戦後の日本の貿易(輸出入)総額は対米貿易が最大であった。しかし最近日中貿易が急増し、2007年には対中国貿易総額が対米貿易総額を上回る公算大となっている。これは一例にすぎないが、世界に占める日米関係の地位は政治・外交、経済的に急速に沈下しつつある。日米関係を絶対視する時代はすでに過去のものとなりつつある。

 村田は戦時中の自らの過ちに気づいて戦後、日本外交の基軸である日米協力関係を思想と行動の両面で絶対視しないで、つまり価値観を相対化させて「自立的財界人」に脱皮した。昨今の財界人にそういう価値観の転換、成長脱皮を期待するのは、しょせん無理なことなのだろうか。


(寸評、提案歓迎! 下記の「コメント」をクリックして、自由に書き込んで下さい。実名入りでなく、仮名でも結構です)
憲法理念を地方行政に生かす
「足立モデル」構想の活用を

 東京・足立区長選(2007年6月3日投票)は私(安原)が選挙団体「ナイスfullハート!足立の会」会長として支援した宮崎わかこ候補(無所属新)が対立候補の近藤弥生候補(自民・民主・公明3党の推薦)に対し、善戦及ばず、の結末(その詳細は「仏教経済塾」に6月4日掲載の「宮崎わかこさん、善戦及ばず」参照)となったが、勝利した場合、「足立モデル」構想を発表すべく用意していた。これは従来のマニフェストや公約とは異質で、憲法理念を地方行政に生かすことを基本に据えて、区民に約束した公約の実現をめざすものである。
 区長選に勝利しなかったといえ、「足立モデル」構想を捨てて、幻(まぼろし)の「足立モデル」に終わらせるのは「もったいない」ので、ここに公表する。できることなら足立区をはじめ各地域の地方行政に活用していただきたいと考える。(安原和雄 07年6月8日掲載、9日インターネット新聞「日刊ベリタ」に転載)

▽「足立モデル」構想とその基本理念

 「足立モデル」は本文の《「足立モデル」の構想とその実現をめざして》と構想を説明した《付属説明資料》の2本柱からなっている。その内容は以下の通り。

《「足立モデル」の構想とその実現をめざして》
 2007年6月3日

1)基本理念
日本国憲法の改悪を阻止し、憲法の以下の理念を足立区政に生かし、その実現を図る
イ) 9条(戦争放棄、戦力不保持、交戦権の否認)
ロ)13条(個人の尊重、生命・自由・幸福追求の権利の尊重)
ハ)25条(生存権、国の生存権保障義務)
ニ)92条(地方自治の基本原則)
ホ)99条(公務員の憲法尊重擁護義務)

2)「足立モデル」とは
上記の憲法条項の理念を土台に据えて、それをどう生かすかを縦軸、横軸によって示す
〈縦軸〉=いのちと平和
〈横軸〉=自由・人権、民主主義、公正な社会、地球(自然)環境、地方自治(住民の参加・参画)

3)当面の具体策
「ナースの3大改革宣言(公約)」の実現をめざして
(詳細は07年5月28日「安原和雄の仏教経済塾」に掲載の「宮崎わかこ候補の3大改革宣言」参照)
イ)64万人の区民の代表をめざす
不正や汚職を許さない
ロ)地域密着型施設をつくる
  駅前豪華開発から転換する
ハ)家計の負担を軽くする
  保育料・介護保険料・国保料の値下げをめざす


《付属説明資料》

*なぜ日本国憲法の理念を区政に生かす必要があるのか。
 「世界の宝」とも評価される日本国憲法であるにもかかわらず、その憲法理念は軽視され、日本の現状は政治、経済、社会の分野で乱脈を極めている。
 いのちは軽んじられ、平和であるべき日常生活は脅かされている。地方自治の面でも住民の参加・参画(自己決定権を含む)が十分に機能しているとは言い難い。地球(自然)環境の汚染・破壊が果てしなく広がりつつあり、それをどう防ぎ止めるか、国レベルの対策とは別に地域住民の緊急にして適切な行動が求められる。
 9条を中心に憲法の改悪が行われ、戦争のできる国になれば、いのちと平和が大きな脅威にさらされ、自由・人権、民主主義、地方自治などが損なわれるだけではない。国民(地域住民)の税、保険料などの負担が増大し、社会の公正さが失われる。これに歯止めを掛けるためには憲法改悪を阻止することが地方自治体にとっても当面の緊急にして不可欠の課題となる。
 以上のような多様な課題に対応するためには憲法理念の原点に立ち戻り、その理念を生かし、そこから地域や国レベルの変革への道を開拓していくほかない。

*「足立モデル」の意味
 足立区として憲法理念を生かし、地域改革の一つの模範をつくることをめざし、それが東京に限らず、全国へと広がっていくことを期待する。

*「足立モデル」の縦軸と横軸について
 縦軸の「いのちと平和」が目標であり、横軸(自由・人権、民主主義、地方自治など)が目標実現のための方策と位置づけれるが、それに限定されるものではない。
 例えばいのちの尊重は、縦軸の平和のほかに、横軸の人権、地球(自然)環境などと密接な相互依存関係にある。なぜならいのちの尊重は、平和や人権が保障され、地球環境の汚染・破壊の防止によって初めて実現されるからである。

*「足立モデル」を支える憲法条項について
●9条=日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。
 ②前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。
●13条=すべて国民は、個人として尊重される。生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、公共の福祉に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大の尊重を必要とする。
●25条=すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する。
 ②国はすべての生活部面について、社会福祉、社会保障及び公衆衛生の向上及び増進に努めなければならない。
●92条=地方公共団体の組織及び運営に関する事項は、地方自治の本旨に基いて、法律でこれを定める。

〈参考〉地方自治法2条(地方自治行政の基本原則)=地方公共団体は、その事務を処理するに当たっては、住民の福祉の増進に努めるとともに、最少の経費で最大の効果を挙げるようにしなければならない。

●99条=天皇又は摂政及び国務大臣、国会議員、裁判官その他の公務員は、この憲法を尊重し擁護する義務を負う。

 以上が「足立モデル」の内容であるが、ここで以下に補足的説明を加えたい。

▽なぜ「足立モデル」と呼ぶのか

 地方行政としての区政に新しい風を巻き起こすためには、追求すべき政策目標が魅力的な理念に支えられたものであることが望ましい。しかも最近流行のマニフェストも公約も魅力的な名称とはいいにくい。そこから登場してきたのが新しい「足立モデル」という呼称である。

 私(安原)は「軍隊を捨てた国コスタリカに学び平和をつくる会」(略称・「コスタリカに学ぶ会」)の世話人のひとりとしてコスタリカの動向に注目している。その中米の小国コスタリカの国是が、①軍隊の廃止(1949年の憲法改正)・非武装中立と積極的平和外交、②人権・平和教育の重視、③自然環境保全の積極的推進―の3本柱である。私はこれを「コスタリカ・モデル」と呼んでいる。

 特に注目に値するのは、日本国憲法9条(戦争放棄、非武装)が、自衛隊という名の強大な軍事力を保有することによって事実上空洞化しているのに対し、コスタリカは1949年以来一貫して非武装を貫いてきていることである。日本国憲法9条の理念をコスタリカが実践しているともいえよう。だからこそこの「コスタリカ・モデル」は今や世界の大きな関心を集めつつある。
 そういう「コスタリカ・モデル」から日本の地域モデルとして「足立モデル」という呼称を連想したとしても不思議ではないだろう。

▽なぜ憲法改悪を阻止し、憲法理念を地方行政に生かすのか

 宮崎わかこ候補が区民一人ひとりとの対話の中で訴えたキーワードは、ほかならぬ「いのちと平和」である。私もこれには全面的に賛成である。対立候補との最大の相違点はこの「いのちと平和」といっても過言ではない。宮崎候補の「足立区長選挙 法定ビラ1号」(選挙団体「ナイスfullハート!足立の会」発行)は両候補の特色に関する比較表の中で憲法について次のように書いた。

宮崎候補=いのちと平和を大事にする愛憲派
近藤候補=改憲を進める自民党元都議

 要するに宮崎候補は「いのちと平和」のために憲法を守り、生かす愛憲派であり、対立候補は「戦争のできる国・日本」へと誘う改憲派である。改憲派は同時に新自由主義路線の推進派でもあり、改憲と新自由主義とが連結していることに着目したい。

 ここでの新自由主義とはなにか。米国から導入され、1980年代の中曽根政権時代から始まり、小泉=安倍政権で本格化してきたわが国の新自由主義は、新保守主義、自由市場原理主義ともいわれる。自由化、民営化の名の下に企業利益追求至上主義と弱肉強食の競争をすすめるほか、行政改革・小さな政府による行政サービス低下、福祉削減、その一方で税・保険料などの国民(住民)負担の増大を図る、いわば「市民・庶民いじめ」の路線を指している。
 対立候補の陣営が選挙期間中に声高く叫びつづけたのが「行政改革・小さな政府の推進」であり、一方、宮崎候補の「介護・福祉の充実」の主張に「ばらまき」という想像力、構想力ともに欠如した決まり文句を連呼しながら非難した。肝腎の「いのちと平和」については一言も語ろうとはしなかった。

 こうみると、両候補の対立軸は明確であり、改憲派は「安心・安全で生きがいのある暮らし」を堀崩し、破壊することはあっても、それを実現し、保障することはできない。だからこそ憲法改悪を阻止し、現行憲法の理念を地方行政に生かすことが不可欠の課題となってくる。

▽憲法9条と25条を守り、生かすことが最大の課題

 「足立モデル」を支える憲法条項として9条、13条、25条、92条さらに99条を挙げているが、特に重要なのは9条(戦争放棄、戦力不保持、交戦権の否認)さらに25条(生存権、国の生存権保障義務)で、これらの条項を守り、生かすことが大切である。
 前者の9条は外交、安全保障上の「いのちと平和」、後者の25条は国民の日常生活上の「いのちと平和」にそれぞれつながっている。9条と25条とは「いのちと平和」を守り、生かすために表裏一体の関係にあるととらえたい。

 その含蓄は次のようである。
9条が改悪されて、「戦争へと進む国」になれば、どういう事態が起こってくるか。
 例えば中国や北朝鮮の脅威を口実にして、目下、日米共同作戦で急いで進めつつあるミサイル防衛(MD)システム(米国向けに発射された弾道弾ミサイルを途中の段階で撃ち落とすことをめざすもので、技術的には欠陥システムといわれる)の配備は1兆円を超える戦争ビジネス(=兵器ビジネス)でもあり、その膨大なコストは結局国民の肩へ耐え難い増税などの負担となってはね返ってくる。
 これでは生存権が大きく損なわれるほかないだろう。9条の改悪はそのまま25条の空洞化を招くのである。

 一方、25条の生存権をしっかり守り、一人ひとりが「健康で文化的な最低限度の生活を営む」こと、いいかえれば人間らしく誇りを持って生きることができれば、そのことが改憲―「戦争のできる国」を阻み、防衛費など戦争ビジネスの財源を大きく削減させ、戦争ビジネスという名の利権グループを追いつめていく。これは9条の理念を生かす道にもつながる。

 限られた財源(国民の税金)を多数の国民の生存権を生かすために有効利用し、「いのちと平和」を守るのか、それとも一握りの利権グループのために悪用し、「いのちと平和」を破壊するのか、そのどちらを選択するのか、が突きつけられていることを承知しておきたい。



《医療福祉に関する補足資料》
以下はコメント欄に出てくるデンマークの医療福祉モデルなどに関する補足説明である。

増子忠道
 「デンマークの医療福祉モデル」について若干の説明を加えたい。

 1)デンマークでは1960年代から開始された福祉制度の進歩(特に保育所と介護施設)によって、女性労働が全面的に社会化されてきた。
 興味深いのはpleijemというデンマーク語は、一般的には日本の場合、特養と翻訳されるが、実は保育所という意味もある。したがってデンマークでは子供のためのpleijemと高齢者のためのpleijemという使い分けをする。pleijemは全室個室が原則で、30室前後を一施設としており、全国各地にほどよく設置されている。日本との違いは、一旦入居すると、一生そこで過ごすことが原則で、障害が重度になろうが、認知症になろうが、最後までいられるのである。
 こうした施設で働く人の配置は、その施設に入居しているひとの必要介護の程度によって柔軟に、適時に決定されている。
 ちなみにデンマークではpleijemに働くひとは公務員で、短時間でも公務員労働者となる。(短時間労働者と位置づけられ、権利は全く同等である)

 2)その後80年代後半から、入居したくない人々の希望から在宅ケアがはじめられた。その後次第に普及し、ついには入居者と同等のケアが保障されるべきであるとの理念から24時間巡回型在宅ケア(ナースとヘルパーのペアリングで)の試みが全国的に展開され、その効率性・QOL改善の効果などから国全体の制度となり、ついにはpleijemを全面的に解体して、すべてを在宅ケアに転換してしまった。 
 もちろん病院は残っており、施設もあるが、今では「高齢者住宅」と位置づけされて、その居宅に訪問するシステムとなっている。
 医療制度は、病院と開業医で構成されている。病院はすべて公立で、医療費は原則無料、外来は家庭医制度によって実施されている。往診も必要によって随時行われている。
 もうひとつ特徴的なことは、補助器具(日本では福祉機器と公称されているが、われわれはあえて補助器具と命名している)センターの役割が大きいことである。

 3)こうしたシステムを全体としてデンマーク方式と呼称している。
 同じようなシステムがスウェーデンやノルウェイ、フィンランドでも行われているが、少しずつ違いがある。その中でも24時間巡回型在宅ケアは、デンマーク発祥である。一方グループホームはスウェーデン由来とされている。

 4)このようなシステムに1988年遭遇した私たちは、大変刺激され、日本全体に実現させようとして、まず手始めに東京都足立区柳原・千住地域で全面的に展開した。92年に東京都第一号の北千住訪問看護ステーションを開設し、柳原病院付属補助器具センターも開設している。94年11月より巡回型在宅ケアを開始し、その後システムを充実させて現在ではほぼデンマーク・システムを実現し、柳原足立方式(健和会方式)と呼称している。
 現在この地域には 基幹病院としての柳原病院、老人保健施設、柳原リハビリテーション病院、往診診療所としてのかもん宿診療所と柳原ホームケア診療所(24時間往診体制)、3つの訪問看護ステーション、2つの訪問介護事業所―これの連携による24時間巡回型在宅ケア=看護婦とヘルパーのペアリング、補助器具センター、デイサービス(認知症デイも含めて)グループホーム等々がそろっている。
 近々、高齢者住宅も建設予定である。

 こうした試みを全国的に広げようとして様々な活動を展開してきた。厚生労働省からの評価も高いのはそのためであると思う。
  

(寸評、提案歓迎! 下記の「コメント」をクリックして、自由に書き込んで下さい。実名入りでなく、仮名でも結構です)
宮崎わかこさん、善戦及ばず
選任された足立区政の危うさ

安原和雄
 東京都内の首長選挙では初めての女性候補の一騎打ちとして話題を呼んでいた足立区長選挙は2007年6月3日投票が行われ、即日開票の結果、残念ながら私が支援していた宮崎和加子さんは善戦及ばず、の結末となった。その報告と同時に、選任された新しい近藤区政の危うさを指摘したい。(07年6月4日掲載)

▽「残念。だが敗北感なし」―宮崎陣営の総括

投票率は33.59%(前回47.07%)で過去3番目に低い水準にとどまった。当日有権者数は50万8600人。確定得票は以下の通り。

宮崎和加子=57,651
近藤弥生=110,556

 この数字をみて宮崎さんは「善戦」したのか、それとも「大差で敗北」したのか、そのどちらととらえるか、私は「善戦」と評価したい。なぜなら相手の近藤陣営には「元自民党都議の近藤候補に比べ、宮崎候補は全くの新人で、こんなに票を集めるとは想わなかった」との声もあるからである。
 それに近藤候補は自民、民主、公明3党の推薦を得て、既成政党の固定票に依存したが、宮崎候補はあえて特定政党の推薦は受けないで、無所属に徹し、市民・庶民派として区民との対話を重視し、広く支持を訴えたという違いもある。

 近藤陣営は5000人規模の集会を開くなど、その動員力には私(安原)自身、舌を巻く思いであった。相手の組織的動員力からみれば、「負けるべくして負けた」ともいえるが、見方はいろいろで、「残念な結果だが、敗北感なし」というのが宮崎陣営の総括である。

▽宮崎わかこの政策が近藤区政に生かされることを期待する

 確定得票が決まった時点の3日午後10時頃、宮崎候補の支援団体「足立の会」(会長・安原和雄)は選挙事務所(足立区梅島)で支持者ら約30人に向かって次のような声明を発表した。

 この度の足立区長選挙では多くのご支持をいただき、ありがとうございました。宮崎わかこを候補者として擁立し、戦って参りました。宮崎わかこは64万区民の代表をめざし、家計の負担を軽くし、地域密着型施設づくりを中心に多くの区民の皆様に訴えて参りました。
 また、区民の自発的な動きを中心として、政党の推薦を受けず、無所属候補として戦うという従来にない選挙を行いました。

 宮崎わかこの訴えは、限られた期間で急速に区民の中に広がりましたが、33.59%という低い投票率にみられるように、十分届いたとは言えません。

 さまざまな困難も多い区民の暮らしの中、宮崎わかこの政策は、足立区政に生かされていくことを期待しています。

 区民の皆様とともに、今後ともいのちと平和を守り、安心して暮らせる足立区をつくるために力を合わせていきましょう!

2007年6月3日
ナイスfullハート!足立の会
会長 安原和雄

▽「風が変わっていく選挙だった」と宮崎さん

 さて大手メディア(6月4日付)は、この投票結果をどう報道したか。宮崎候補に関する部分を以下に紹介したい。

 朝日新聞=宮崎氏は共産党などが加わる「足立革新区政をつくる会」の支持を受けて運動を展開。訪問看護師として足立区を中心に30年間つとめた経験を前面に出し、福祉の充実を訴えた。
知名度を上げるため、積極的に各地域を歩き、「区民一人ひとりの声を生かすため、政治の流れを変える」と呼びかけたが、及ばなかった。

 読売新聞=宮崎氏は「足立革新区政をつくる会」などの支援を受け、保育料や介護保険料の引き下げ、認知症対策の充実などを訴えてきた。
近藤氏には及ばなかったが、6万票近い支持を得た宮崎氏は、午後10時前、支持者約30人が詰めかけた事務所に現れ、「これまでの区政にうんざりしている区民が多いことを実感した。勝利には至らなかったが、風が変わっていく選挙だったと確信している」と述べた。支援者からは「よく頑張った」の掛け声とともに、大きなねぎらいの拍手があがった。

 毎日新聞=宮崎氏は、国民健康保険料の減額など福祉や医療分野を充実させる政策を掲げたが、及ばなかった。

 産経新聞= 宮崎氏は(事務所で)「1週間の選挙戦で、できる限りのことはやった。残念のひと言。私を応援してくれた区民の声が次第に大きくなったと感じている」とあいさつ。事務所に駆けつけた吉田万三氏ら支持者は「今後の活動を期待している」などと゛善戦゛した宮崎氏をねぎらった。

 東京新聞=宮崎氏は、看護師として培った人脈を中心に運動を展開。吉田万三元区長や作家の早乙女勝元氏らも応援に駆けつけたが、出馬表明が4月の統一地方選後と出遅れたことも響き、及ばなかった。
共産の支持を得たが、推薦は受けずに政党色を打ち消し「特定政党に縛られない無所属」を標榜(ひょうぼう)した。

▽新しい近藤区政の今後を占うと(1)―低投票率と低得票率が意味するもの

 6月20日から始まる近藤区政の先行きを展望すると、そこになにがみえてくるだろうか。

*近藤区政の特徴の一つは低投票率、低得票率という基盤の弱さ

 得票数110,556票という数字は、全有権者50万8600人の約2割にすぎない。昨今の地方自治体選挙は多くの場合、低投票率で、棄権者が全有権者の大半を占める。政治への無関心派が多すぎる。その結果、当選者の得票率が極めて低い。

 読売新聞は「解説」欄で次のように指摘した。
「投票率を下げたのは、近藤氏の訴えが、広く区民の関心を呼び起こさなかったのも一因だろう」と。
 ともかく区民全体の声を全身で受け止めて舵を取る「区民の、区民による、区民のための政治」というイメージからはほど遠いことを意味している。いったい誰のための区政となるのか、この点を心ある区民は凝視していきたい。棄権した人々が「しまった」と「後悔先に立たず」にならないためにも。

▽新しい近藤区政の今後を占うと(2)―「鈴木区政の継承」の危うさ

*近藤区政は前任の鈴木区政の継承であり、その新自由主義的な危うさ

 鈴木区政の継承が意味するものはなにか。朝日新聞の「解説」に次の指摘がある。
 「区が学力向上のため、都の学力テスト結果を小中学校への予算配分の判断材料にしたことは今も反発を呼んでいる」と。
 これは教育の分野に新自由主義的な競争原理を導入しようという鈴木区政の意図、それに対する教育現場などの反発を意味している。

 ここでの新自由主義とはなにか。米国から導入され、1980年代の中曽根政権時代から始まり、小泉=安倍政権で本格化してきたわが国の新自由主義は、自由市場原理主義ともいわれる。自由化、民営化の名の下に企業利益至上主義と弱肉強食の競争をすすめるほか、行政改革・小さな政府による行政サービス低下、福祉削減、その一方で税・保険料などの国民(住民)負担の増大を図るいわば「国民いじめ」の路線を指している。
 近藤陣営が選挙期間中に声高く叫びつづけたのが「行政改革・小さな政府」であり、一方、宮崎候補の「福祉充実」の主張を非難し続けた。

 また読売新聞の「解説」はつぎのように書いた。
 「近藤氏は、区の外郭団体の見直しや職員数を15%削減する行財政改革、教育改革などを公約に掲げたが、告示前から区職員の間では〈目新しさや具体性に欠ける〉、〈目指すべき区の将来像が分かりにくい〉との指摘も出ていた」と。

 近藤陣営の説明が不十分だから、〈将来像が分かりにくい〉のだろうが、行き着く先はみえているのではないか。職員削減、競争のすすめ、行政サービスの低下、住民の負担増大―などではないか。もちろん無駄をなくすための行財政改革は必要であり、当然のことだが、新自由主義路線がめざすものは、「いのちと平和」に反する道で、区民一人ひとりにとって甘いものではないだろう。


(寸評、提案歓迎! 下記の「コメント」をクリックして、自由に書き込んで下さい。実名入りでなく、仮名でも結構です)
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。