「もっともっと欲しい」の貪欲の経済から、「足るを知る」知足の経済へ。さらにいのちを尊重する「持続の経済」へ。日本は幸せをとりもどすことができるでしょうか、考え、提言し、みなさんと語り合いたいと思います。(京都・龍安寺の石庭)
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軍隊はやはり捨てられませんか
米日両国首脳に遺憾の告発状

安原和雄
 今回は一風変わった趣向である。サル社会のサル太君からブッシュ米大統領と安倍日本首相に対する要望書が届いたので、仲介役としてここに紹介したい。
 その趣旨は「人間様はサルよりも上等だと思っていたが、そうでもないらしい。その上等でないところは、米国を例に挙げるまでもなく強大な軍事力を行使して、世界を混乱と破壊に追い込んでおり、それに日本が追随していることです。米日両国首脳殿、軍隊はやはり捨てられませんか」と遺憾の意を表している。これは広く人間社会への、特に日米両国首脳への一種の告発状ともなっている。(2007年4月28日掲載、同月29日インターネット新聞「日刊ベリタ」に転載)

▽毎日新聞「特集ワイド」から―モラルはどこへ

 米大統領および日本首相閣下に要望書を差し上げる非礼をお許し下さい。私は日本におけるサル社会のサル太と申します。同志を集めて時折研究会を開いております。テーマは「人間社会のあり方とモラル」で、その幹事役が私であります。
 かねがね人間社会のあり方が我々サル社会の存続を大きく左右すると考えておりまして、そういう感覚から人間様のモラルにも人一倍の関心を抱いております。この機会に我々の率直な意見を申し上げたいと存じます。

 4月27日の日米首脳会談直後に開いた研究会で誠に興味深い資料が配付されました。毎日新聞という歴史と伝統のあるメディアが「特集ワイド」(07年4月20日付東京版夕刊、藤原章生記者)欄に載せた記事です。我々サルのことも書かれているというわけで、これは無視できないと仲間同士で読み合いました。特集記事の見出しは以下のようになっています。

モラルはどこへ  優劣つけ人間退化
ゴリラ  謙譲や和の精神を重んじる
サル  強者のエゴがまかり通る

▽サルは弱肉強食、一方、ゴリラは心配りの社会

 「モラルはどこへ」などの見出しからも大体の趣旨は読みとれますが、もう少し紹介しましょう。アフリカのゴリラにモラルの起源を探る、という興味深い仕事に熱心な山極寿一・京大大学院教授から取材した話が中心になっています。

 「ゴリラやチンパンジーは、力の強いものが食物を弱い者に分け与える、一種の憐憫(れんびん)や心配りがあるが、ニホンザルにはそれがない」と。つまりゴリラなどの類人猿とサルの間に深い溝、越えられない違いがあるということです。

 「サルは優劣社会で、ボスが強い立場を前面に出して何でも解決する。エサが目の前にあれば強い者がまず取り、弱い者は手を出さない。だからサルの場合、攻撃やストレスの対象がどんどん下がり、弱い者がさらに弱い者を攻撃する」と。これはまさに弱肉強食の世界で、いじめ社会にも通じます。今の米国や日本の人間社会にそっくりです。

 だがゴリラはどうか。「ゴリラの場合、弱い者がエサをねだり、強い者が与えるという状況をきっかけに社会関係が生まれる。いわば食事は共存を確認する場だ」と。これは弱肉強食とは逆に弱者を足蹴にしないで保護する社会です。自由市場原理主義が横行する以前の日本にやや似ていないでしょうか。

▽金のある者、強い者が勝つ人間社会は、サル並み

 では人間はどうか。
 「人間は、食事という本来、葛藤やけんかの種をわざわざ会談や和解の場にし、それを文化にまで発展させてきた」と。そういえば「同じ釜の飯を食った仲」などともいわれます。そうすると、人間はゴリラなど類人猿より進んだ動物といえるかというと、どっこい、そうはいかないようです。
 山極京大教授は言います。「今は、すべてに優劣をつけ、数や価値に換えてしまう。金のある者、強い者が勝つという図式ができてしまっている」と。これは文字通り弱肉強食そのものです。

 そこで記者が質問します。「ブッシュ政権を例に挙げるまでもなく、人間は謙譲や和の精神を重んじるゴリラ的なモラルを薄め、強者のエゴが通るサルへと退化したのか」と。
ここにブッシュ大統領の名前が出てきます。
 残念なことに大統領はどうも好感をもたれてはいないようですね。「ブッシュ大統領の言動からも分かるように人間は強者のエゴをごり押しするサルに退化したのか」という意味ですからね。
 大統領閣下がゴリラより一段下のサルと同次元で扱われています。いや、大統領に限りません。日本首相も含む人間様がサルと同次元にまで落ちぶれたと読めます。

 教授の答えはもっと明確です。「そうです。何事もボスが強さを前面に出して解決しようという方に後退している。ゴリラが胸をたたくのは威嚇ではなく、暴力を避けるコミュニケーションです。いざけんかになっても、雌や子どものゴリラに仲裁させる。あえて勝者をつくらない知恵があるが、それが今の人間にあるかどうか」と。
 人間の知恵やモラルは今やゴリラ以下の水準だ、というこの指摘は手厳しいといわねばなりません。

▽強者をつくらない知恵、モラルが人間にあるかどうか?

 以上のような記事を読み合って、率直な意見交換を行いました。中心テーマは「ゴリラにはあえて勝者をつくらない知恵やモラルがあるが、それが人間にあるかどうか」という教授の解説をめぐってでした。席上、日米首脳会談のニュースを伝える毎日新聞朝刊(4月28日付)が届きました。それも読んだ上で「知恵やモラルはない」派と「ある」派が意見を述べ合いました。
 「ない」派の主張は、次のようです。

*米国にみる「新自由主義」という名の強者の論理
 強者のための新自由主義はとくにブッシュ政権下で顕著で、2つの柱からなっています。
ひとつは外交・軍事面の単独行動主義と覇権主義で、世界最強の軍事力を振り回して世界を混乱と破壊に追い込んでいます。イラクへのアメリカの軍事攻撃と占領が目下の具体例といえます。
 もうひとつは経済面の自由市場原理主義で、多国籍企業という名の巨大企業を中心に自由に企業利益の最大化を追求できる仕掛けを指しています。弱肉強食の原理の貫徹によって、一握りの富豪と数え切れないほどの貧者をつくり出しています。つまり世にいう格差拡大の再生産です。

 この2本柱は表裏一体の関係にあり、一つの原理で貫かれています。「勝者の、勝者による、勝者のための自由」という原理とでもいったらよいでしょうか。これでは勝者をつくらない知恵やモラルとは180度異なっています。

*日本で仕上げを急ぐ米国追随型の新自由主義
さて「日本にも期待できない」という意見はざっと次のようです。
 米国流の新自由主義を日本が導入したのは、1980年代の中曽根政権時代からです。その後小泉政権時代に本格化し、いまの安倍政権がその仕上げを急いでいます。
 経済面の自由市場原理主義は弱肉強食の論理によって格差拡大が顕著になってきています。一方、戦争を是認する愛国心を育てるために教育基本法はすでに改悪されました。つづいて平和憲法の改悪です。9条のうち「戦力の不保持」と「交戦権の否認」条項を削除し、正式の軍隊を保有し、米軍と一緒になって海外で戦争をする態勢をつくりあげようと計画しています。日本版の特色は、米国追随型の新自由主義というほかありません。

▽日米首脳会談の注目点は?―解釈改憲で集団的自衛権の行使へ

 安倍首相就任後初めて訪米し、4月27日行われた日米首脳会談で注目すべきことは何でしょうか。毎日新聞(4月28日付)によると、両首脳は日米関係は「かけがえのない同盟」であることを確認し、しかも「世界とアジアのための日米同盟」と位置づけたといいます。
 見逃せないのは、安倍首相が次のように述べた点です。「戦後レジームからの脱却が政権の使命」であり、「集団的自衛権の憲法解釈見直しを検討する有識者会議を設置した」と。これは一体何を意味するのでしょうか。ここが今回の日米首脳会談の核心であるといってもいいでしょう。

 集団的自衛権とは、日本が直接攻撃されていない場合でも、同盟国である米国への武力攻撃があった場合、それを日本の軍事力で阻止する日本国家としての権利を指しています。この権利は国連憲章や日米安全保障条約では認められていますが、日本政府は従来、「日本国憲法9条は、この権利行使を禁じている」と説明してきました。
 ところが安倍政権は従来の政府説明(憲法解釈)を見直して、憲法9条を変えなくても集団的自衛権を行使できるようにするハラです。それをどう実現するかを検討するための有識者会議を訪米直前の4月25日設置しました。このあわただしい動きの背景にはブッシュ政権からの強い要請があります。

 日本がこの集団的自衛権を解釈改憲で米国のために行使することは、「世界とアジアのための日米同盟」ですから、世界の至るところでの米国の武力行使につき合うことを意味します。重要な点は、憲法9条の条文を変えないまま、日本が海外で戦争に参加することは憲法9条の理念(戦争放棄、戦力の不保持、交戦権の否認)が完全に骨抜きになることです。

 日本政府は、これまでも米国の意向を受けて解釈改憲という手法を使って9条の理念の骨抜きを図り、いまや強大な軍事力を持つに至っていますが、ここへきてついに解釈改憲で海外で常時戦争する国へと、質的に転換することになります。9条の条文を守ることだけに目を奪われていると、肩すかしを食わされる懸念があります。これは人間世界のこととはいえ、決して黙視できることではありません。

▽強者をつくらない国―軍隊を廃止したコスタリカ

 以上のような「ない」派の主張に対し、「ある」派の意見は次のようです。
 視野を日米に限定しないで、地球規模に広げれば、人間も捨てたものでもないことが分かります。具体例は中米の小国コスタリカです。ここでは日米と違って、以下のように「強者のための自由」は野放しになってはいません。

*軍隊廃止と積極的な平和中立外交の展開
 その背景の第1は1949年の憲法改正によって軍隊を完全に廃止し、今日に至っていることです。しかも非武装中立、永世中立、積極中立の3本柱からなる中立宣言(1983年)を行いました。それ以降、特に周辺諸国との間で積極的な平和外交を展開して、積極中立策を実践しています。

*非武装だからこそ他国から攻撃されない
 第2の特色は平和・人権教育に熱心に取り組んでいる点です。非武装ですから、軍事力で他国に睨みをきかそうなどという発想はそもそもありません。
 「非武装であるため、他国を攻撃することはない。だから他国から攻撃される心配もない」という平和観が国民の間に浸透しています。ここが世界最強の軍事力を背景にした米国の先制攻撃論とはまるで異なるところです。

*軍事費が不要であるため暮らしが豊かに
 第3の特色は、自然環境保護を軸に持続可能な社会づくりにも積極的である点です。国土の25%が自然保護区、国立公園に指定され、環境先進国として世界的に評価されており、毎年多くの自然観光客が訪れます。社会福祉や医療の充実にも熱心です。
 このように教育や環境保全さらに社会保障の分野に積極的に取り組むことができるのも、軍事費がゼロ(ただし治安のための警察力に国家予算の約2%が充てられています)で、浮いた財政資金を振り向けることができるからです。軍事力を廃止したお陰で国や暮らしが豊かになっているともいえます。

▽米日両首脳殿、軍隊はどうしても捨てられませんか

 以上の「ない」派は米日の軍事力重視路線に批判的であり、一方、「ある」派はコスタリカの非武装路線を高く評価しています。だから両派は意見を異にしているようにみえますが、実際はむしろの共同歩調がとれる立場にあります。
 そこで米日両首脳に要望したいことがあります。結論を先に言いますと、強大な軍事力を捨てて下さいというお願いです。特に大統領閣下には新しい軍備のない世界秩序を形成する上で偉大なリーダーシップを期待したいのです。

 一挙に軍備を全廃することが現実的でないことくらいは承知しています。ただ米国が覇権主義、単独行動主義にこだわって、世界最強の軍事力を維持し、軍事国家であり続けることは、世界にとって危険であるだけでなく、米国の財政上、巨大な浪費であり、経済を疲弊させる負の効果しかありません。
 その上、軍事国家という暴力装置を持続する限り、銃乱射による大量殺人など国内の多様な暴力を誘発し続けます。社会不安は増幅される一方です。「百害あって一利なし」というほかありません。

 だから日米両首脳に以下のように従来の路線を大胆に転換する勇断を求めたいのです。それが期待できないようでは実に遺憾なことと申し上げるほかありません。

(1)長期的視野に立って核兵器の廃絶と通常軍事力の大幅な軍縮へと踏み出すこと。その第一歩として東アジアにおける米中ロシアおよび北朝鮮の核保有国による核軍縮会議を開くこと
(2)軍事同盟は時代遅れであることを認識すること。米国は海外軍事基地を順次撤去し、日本は在日米軍事基地の引き揚げを是認すること
(3)以上の軍縮に伴う「平和の配当」によって世界に貢献すること
(4)日本は米国への追随路線を返上して、日米安保体制の解体を含む路線転換をすすめる構想をもつこと

 年間総額約1兆ドル(110兆円超)という世界軍事費の削減によって浮く資金を環境、教育、飢餓、疾病、貧困対策などに回す「平和の配当」は1990年代の初めにソ連邦が崩壊し、東西冷戦が終結した頃、大いに期待されました。ところが、実現されず、むしろ米国一極主義がまかり通るようになり、軍縮どころか逆に軍拡へと突き進んだという経緯があります。特に大統領閣下がこの「平和の配当」実現に粉骨砕身されるなら、歴史にその名を残すだろうことは間違いのないところです。

 以上の提案を「サル知恵」と笑わないでください。米日ともにいまや知恵もモラルもゴリラ以下で、サル並みになっているわけですから、我々サルを笑う資格はないように思います。我々サル一同は、多くの人間と違って軍事力を振り回そうなどという愚劣な所業には関心がありません。ぜひ上記の提案の実現に取り組み、人間様は人間らしく、その誇り、さらに知恵とモラルを取り戻してほしいと心から願っています。


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人間の幸せか、景気動向か
財界人と企業人の器量の差

安原和雄
 朝日新聞(永田稔記者、2007年4月18日付)は経済小説の分野で異色の直木賞作家であった城山三郎氏(3月79歳で逝去)を悼んで、財界人らの回想記を織り込んだ特集記事を組んだ。
その趣旨は、真の財界人なら「人間の幸せ」のために行動すべきだが、昨今の企業人は「景気動向」しか視野にない、本来あるべき「経営者の志」はどこへ行ったのか、が城山氏の問いかけであった。同じ経営者でも、財界人として評価されるためには、器量(その地位にふさわしい能力や人徳)が備わっていなければならない。ところが、目先の小状況しかみえず、器量が乏しいのは、ただの企業人にすぎない―が城山文学の基調ではなかったか。(2007年4月19日掲載、同日インターネット新聞「日刊ベリタ」に転載)

▽今こそ「人間本位」の時代―城山文学の遺産

 朝日新聞特集記事の見出しは以下のようである。

 城山文学 遺産は  経済は人のために
 「野放し資本主義」に反発  「経営者の志」問いただす

 この見出しをみただけで特集の狙いは読みとれるが、もう少し紹介したい。
 城山文学の経済思想を知るためのお薦めの作品がいくつか挙げられており、トップに『粗にして野だが卑ではない』がある。これは三井物産の経営者を経て国鉄総裁になった石田礼助を描いた作品で、私(安原)も感銘深く読んだ記憶がある。「卑ではない」ところに重点があり、目先の利益しか念頭にない昨今の卑しい企業人との器量の差を感じさせる人物像となっている。

 業界利益に縛られず、天下国家の視点から提言することに存在価値があった財界団体の一つ、経済同友会の近況はどうか。城山氏は次のように語った。
 「景気をよくするかの議論はあっても、資本主義そのものを健全なものにするか、人間にとって幸福なものにするかという根源的な問いかけをしない。目先の小状況だけをみている」と。

 また城山氏は一橋大学の後輩でもある前日本経団連会長の奥田碩・トヨタ自動車相談役が「人間の顔をした市場経済」を掲げたとき、「あれはいい」とほめた。

 特集は〈視点〉で〈今こそ「人間本位」〉と題して次のように書いている。同感である。

 城山さんの経済思想は「どうしたら人間が幸せになれるか」に尽きる。「どうしたら景気がよくなるか」ではない。
 大企業の業績は好調だ。しかし正社員を低賃金の派遣や請負に置き換え、コスト競争力を高めている面がある。下請けの中小企業の悲鳴は、今も続く。
 リストラで築いた景気回復。幸せを実感できるはずもない。(中略)城山作品を貫く「人間本位」の思想は、今こそ重視されなければならない。

▽器量をめぐる一つのエピソード

 以上の〈視点〉の指摘は適切である。
 たしかに最近の企業人は規制排除による企業利益の最大化を追求する自由市場原理主義(=新自由主義)への便乗、悪用の傾向が強い。これでは企業人であっても、器量豊かな財界人とは言いにくい。

 器量といえば、想い出がある。
 日本の貿易黒字が膨らんで、円の切り上げ(実施は1971年)がささやかれはじめた頃(1969~70年頃)、私は日銀担当の経済記者であった。公定歩合変更の取材が主要な仕事であったが、公定歩合担当理事S氏の自宅へ夜押し掛け、聞いたことがある。
 「公定歩合の変更を決める際、その責任者として大事なことは何か」と。しばらく考えた後、こう答えた。「それは器量だね」と。 

 予想もしていなかった返答に一瞬とまどった。私は当時、まだ30歳代で若かった。しかしやがて「なるほど」と納得できるところもあった。景気動向や国際収支の数字やデータをいくら眺め検討しても、そこから直ちに答えが発見できるものではない。発想の飛躍をも含む総合的判断力だよ、と言いたかったのではないか。あるいは政界、経済界さらに米国あたりからの「雑音」も黙殺できない、察してくれよ、という思いもあっただろう。

▽企業批判に苦悩した財界首脳たち―石油危機と狂乱物価の中で

 さて昨今の経営者には自由市場原理主義に振り回されて、器量の乏しい企業人が多いとすれば、かつての経営者はどうだったのか。「安原和雄の仏教経済塾」に「財界人の器量度を採点する」と題する一文を掲載(07年4月6日)したところ、「一昔前の財界人の行動様式はどうだったのか。知りたい」というコメントをいただいた。
 その回答も兼ねて、参考までに「企業批判に苦悩した財界首脳たち―石油危機と狂乱物価の中で」と題する私の記事(2002年12月10日発行の「日本記者クラブ会報」に掲載)をここに紹介する。

 30年近くも前の1974年当時、私は経済記者として財界を担当していた。73年10月の第一次石油危機の直後で、物価が異常に急騰した狂乱物価の最中でもあり、企業批判の嵐が吹き荒れていた。74年暮れには金脈問題で田中角栄首相が辞任し、三木武夫首相の登場となった頃である。

 当時の財界首脳は土光敏夫経団連会長、永野重雄日商会頭(東商会頭)、木川田一隆経済同友会代表幹事、桜田武日経連会長という布陣であった。
 4氏に共通していたのは、単なる企業人、業界人の枠を超えた広い視野と行動半径を持っていたことである。ともにすでに幽明境を異にしている。もし今健在ならば、昨今の経済界にどういう苦言を呈するかを時折考えてみないわけにはいかない。

 当時の財界も決して一枚岩ではなかった。例えば狂乱物価を背景に国民の財界批判が高まったのに対応して、財界4団体が出した値上げ自粛宣言(74年1月)の始末記である。

▽値上げ自粛宣言の舞台裏―土光経団連会長と木川田経済同友会代表幹事 

 土光氏が経団連会長に就任(同年5月)すると、直ちに「原材料コストが上がれば、値上げせざるをえない。今後は一切自粛声明は出さんよ」と自粛宣言を反古にした。後に私の質問に「あの自粛声明を出すことに僕は反対だった。ところが僕が居ない間に出してしまった」と舞台裏を語ってくれた。土光氏は「私はどこまでも自由主義者だ」が口癖だったが、その自由主義哲学とは、反統制であり、民間企業優先主義である。

 土光氏の言動に対し木川田氏はこう語った。
 「あの自粛声明を出すことを呼びかけたのは、実は私である。現代が大きな転換期にあることを本当に理解しているのかどうか、その認識に厚薄があるのではないか。自由主義経済は大きなルネサンスに直面している。従来型の思考、政策、行動は時代の転換に即応して転換しなければならない。そうでなければ、我々の行動自体が進歩と福祉にチャレンジできない。私は、企業経営の社会的主体性の必要を長い間呼びかけてきたが、今日のような混乱を招いて失望している」と。

 この発言の中の木川田哲学ともいうべき「企業経営の社会的主体性」とは、人間価値の尊重、企業の社会性の増大、競争と協調の調和に集約される。そういう立場から土光氏の自粛宣言破棄を明確に批判したのである。これは現実派と理念派との対立でもあった。

しかし自由主義者を自任する現実派の土光氏も、弱肉強食を是認する今日の単純な市場原理主義者とは隔たりがあった。「企業の社会的責任をどう考えているのか」という私の質問に次のように答えたことがある。「良い製品を適正な価格で提供することがまず第一である。それに従業員の生活を保証する責任、株主への責任、地域社会への責任もある」と。
 この発想は今日のステークホールダー重視論(従業員も含めて企業の利害関係者すべてを配慮すること)のはしりともいえよう。

▽「会社よりも国家を」という桜田日経連会長の発想

 桜田氏とは初対面のとき、いきなり「現下の国際情勢のポイントを説明してみたまえ」と高飛車にいわれたことがある。当時の米ソ対立を軸に説明したところ、「まあいいだろう」と何とか合格点をもらった記憶がある。要するに昨今の多くの企業経営者のように一私企業の業績にのみ関心を見せるようなことはなかった。
 同氏の言によると、「我々は会社よりも国家というように、とにかく会社と国家を一体に考えざるを得ないぞ、という発想だった」のである。値上げ自粛宣言の直前、「今年は、自由日本がその将来をかけた試練の年だと思う」と語りもした。「自由日本の試練」という語り口はいかにも「憂国の士」桜田氏らしい。

 財界人との個人的な想い出にはきりがない。特に永野氏とは夜の懇談の席で何度か碁を打ったが、一度も勝てなかったことが忘れられない。早打ちでしかも急所を外さなかった。その後私の腕も多少上がったが、これも永野氏に鍛えられたお陰と感謝している。

▽渋沢栄一の「道徳経済合一論」と永野日商会頭

さてその永野氏を先頭に東京商工会議所首脳の面々が石油危機と狂乱物価の最中にくず籠を背負って上野の山へ繰り出し、空き缶などを拾って歩いたことがある。日本国土のクリーンと資源リサイクルの一石二鳥を狙った「クリーン・ジャパン」運動である。
 当時、永野氏は初代東商会頭の渋沢栄一の道徳経済合一論、つまり資本の論理と社会の倫理とが両立しないところに企業の発展は望み得ないという説を引用し、企業の社会的責任をしきりに強調していた。くず籠スタイルは、その実践版だったのである。

もう一つ、触れておきたいのは、死去の直前にまとめた事実上の遺言であり、永野哲学の集大成ともいえる「永野宣言」である。この内容はほとんど報道されなかったように思うが、例えばその一節に「いずれの国の人々も貧困を追放して豊かさを、(中略)戦争の相克を打ち負かして調和ある平和を希求している。人類に共通するこの心がある限り、いずれの日にか『世界は一つ』になると信じている」とある。

 永野氏は財界風見鶏とも評され、機を見るに敏な行動派であったが、永野宣言にみられるように地球規模の視野に立った理想主義者でもあったことをいま改めて強調しておきたい。土光氏はかつて造船疑獄に連座した苦い体験を経て、晩年は政財界の夜の酒席にはかかわらず、清廉を心掛けた。木川田氏は企業哲学の先駆的唱道者として哲人の風格が備わっていた。桜田氏は自己責任を前提とする自由経済信奉者としてときに頑固一徹の趣があった。

 このようにそれぞれが強烈な個性の持ち主であった。アメリカ主導のグローバル・スタンダード、弱肉強食の市場原理さらに株式市場などの「市場の声」なるものに振り回され、とかく倫理性を見失う昨今の企業人とは異質であった。企業の枠に囚われない最後の財界首脳たちではなかったかという思いが消えない。


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「礼儀立国・日本」のすすめ
平和へのもう一つのチャレンジ

安原和雄
 平和のためには何ができるのか、何をしたらよいのか。「平和憲法9条(戦争放棄、戦力不保持)を守れ」という声が広がりつつある。「九条の会」も日本列島の隅々まで行き渡り、全国ですでに6000を超えている。しかし平和を確かなものにするための方策はいろいろあるのではないか。
 井上琢郎著『日本人に生まるる事を喜ぶべし』(2007年1月、財界研究所刊)は「礼儀立国の提案」を試みている。いうなれば「礼儀立国・日本」のすすめである。私は同感であり、こういう発想も高く評価すべきではないか。平和へのもう一つのチャレンジといえよう。(07年4月14日掲載、同月15日インターネット新聞「日刊ベリタ」に転載)

▽平和をまもるため「礼節の国」へ(礼儀立国の提案)

 井上著『日本人に生まるる事を喜ぶべし』は、平和をまもるため「礼節の国」へ(礼儀立国の提案)―という見出しで、その思いをつづっている。以下にそれ(要旨)を紹介したい。
 井上氏は1930年東京生まれ、東京電力初代ロンドン事務所長、理事、さらに東京熱エネルギー社長などを経て、現在NPO法人日本ヴェルディ協会常務理事など。

 私は、日本は立派な国であると思い、この立派な国がいつまでも平和に存続、発展することを祈っている。しかし、この地球上で日本が末永く長寿息災でいるためには何の努力もしなくてよいわけではない。世界には力の原理が支配しているのが現状であり、この原理が簡単に消えてなくなることはない。そういう世の中で、日本は戦争を放棄することを憲法で定めている。今、憲法を見直すという声も聞かれるようになったが、日本はどうしたらよいのか。

 私はこれ一つだけでもやるべきだと考えたことがある。それは日本を「礼節の国」にすることだ。「する」というか、あるいは「元に戻す」と言ってもよいかもしれない。明治維新の前後、日本人が欧米各国を訪問し、ひとしく世界から賞賛されたのは日本人が礼儀正しいということであった。

 世界の大部分の人が日本はすばらしい、日本だけはいつまでも地球の一員としてとどまってほしいと思えば、日本は救われるのではないか。(中略)日本に来ると礼儀の国であるから心が洗われたような思いがする、ということになれば、日本を侵略する国は先ずなくなるし、あっても国際的な連帯活動が日本を守る可能性が高まる。

 国民に礼儀の大切さを訴えかけ、礼儀を守るよう呼びかけ、実行させていけば、国民は心のこもった礼儀を守るようになっていく。(中略)
 今見かけるような荒々しい、心のひだの荒れた、見苦しいひとびとの態度は、礼儀と共に、やさしい、気持ちのよい、心のこもった態度に変わってくるだろう。それにより世界の国々から尊敬され、愛される日本となり、日本の安全保障にも展望が開けるのではないか。

▽アインシュタイン博士の目に映った日本とは

 相対性理論で知られるアルバート・アインシュタイン博士(注)が1923年に来日した。その来日の時、日本は同博士の目にどう映ったか。同書は博士の次の言葉(要旨)を紹介している。

 「近代日本の発展ほど世界を驚かせたものはない。(中略)世界の未来は進むだけ進み、その間、幾度か争いは繰り返されて、最後の戦いに疲れるときが来る。
 そのとき人類は、まことの平和を求めて、世界的な盟手をあげなければならない。この世界の盟主なるものは、武力や金力ではなく、あらゆる国の歴史を抜きこえた最も古くてまた尊い家柄でなくてはならぬ。世界の文化はアジアに始まって、アジアに帰る。それにはアジアの高峰、日本に立ち戻らねばならない。我々は神に感謝する。我々に日本という尊い国をつくっておいてくれたことを」

 これは今から80年以上も昔の日本に対する博士の印象記である。博士の言葉を受けて、同書は次のように書いている。

 「アインシュタインの言葉は、日本人にとって、うれしく、ありがたい。決して買いかぶりではない。(中略)日本人の平和的な、和を尊ぶ精神、他人をいつくしむ心は、天才アインシュタインの目にはっきり見てとれたのだ。近代文明は人類に恩恵をもたらしたが、その前途には人間の心を失った荒涼たる世界がみえる。それを日本の心によって導いてほしいというのだ」と。

 (注)1879~1955年、ユダヤ系ドイツ人、1921年ノーベル物理学賞を受賞。来日後の1933年ナチスに負われて渡米、米政府のマンハッタン計画(原爆開発)に参加、その原爆が1945年夏、広島、長崎に投下される。第二次大戦後、博士は平和運動に尽力した。

▽マレーシア人、ノンチックさんの日本人変貌論

 さてその日本人が第二次大戦後どれほど大きく変貌したか。ここではマレーシアの元上院議員ラジャー・ダト・ノンチック氏の日本人に関する詩(一部)を井上氏の同著作から以下に紹介する。

 かつて日本人は 清らかで美しかった
 かつて日本人は 親切でこころ豊かだった

 戦後の日本人は 
  (中略)
 経済力がついてきて 技術が向上してくると
 自分の国や自分までが えらいと思うようになってきて
 うわべや 口先では 済まなかった悪かったと言いながら
 ひとりよがりの 自分本位の えらそうな態度をする
 そんな 今の日本人が 心配だ

 自分のことや 自分の会社の利益ばかり考えて
 こせこせと 身勝手な行動ばかりしている
 
 自分たちだけで 集まっては
 自分たちだけの 楽しみや ぜいたくに ふけりながら
 自分がお世話になって住んでいる 自分の会社が仕事をしている
 その国と 国民のことを
 さげすんだ眼でみたり バカにしたりする

 こんな ひとたちと 本当に仲よくしてゆけるだろうか
 どうして日本人は こんなになってしまったんだ

▽礼儀再生は、「いただきます」、「もったいない」、「お陰様で」―から

 日本人の一人としても「どうして日本人はこんなになってしまったんだ」と呻(うめ)かずにはいられない。

 さて素朴な疑問を発してみよう。礼儀とは何か? と。
 井上氏はすでに紹介したように次のように述べている。
 「今見かけるような荒々しい、心のひだの荒れた、見苦しいひとびとの態度は、礼儀と共に、やさしい、気持ちのよい、心のこもった態度に変わってくるだろう」と。ここでは「やさしい、気持ちのよい、心のこもった態度」が礼儀のありようとなっている。
 しかも「それにより世界の国々から尊敬され、愛される日本となり、日本の安全保障にも展望が開ける」と礼儀と日本の安全保障とを結びつけて捉えている。これはなかなかユニークな礼儀論であり、安全保障論、いいかえればもう一つの平和論といえるのではないか。

 重要なことは礼儀の乱れたこの日本国においてどうしたら「やさしい、気持ちのよい、心のこもった」礼儀を身につけることが出来るか、である。学校で子どもたちに教えるだけで、果たしてしっかり身につくだろうか。
 家庭に帰ってテレビを観ると、少年向けの番組で「てめーは」などと乱暴な言葉が飛び交っている。家庭に限らず、日本社会全体が乱暴な殺伐とした空気に包まれているのである。こういう現実の中から礼儀再生の道をどこに求めるか、そこが問題であろう。

 私は「やさしく」と説く直接話法よりも迂回作戦をとって「いただきます」、「もったいない」、「お陰様で」という素敵な日本語の再生を図り、その日常化を進めることによって自然に礼儀が身につくように工夫する方が効果的ではないかと考える。熟年層にはこの三つの日本語をまだ忘れてはいない人が多い。それを活用できないだろうか。

▽三つの言葉の含蓄は「いのち」、「感謝」、「節約」そして「利他」

「いただきます」などは、いずれも英訳しにくい日本文化ともいうべき性質のものである。その意味合い、その含蓄を説明したい。キーワード風にいえば、いのち、感謝、節約、利他―などである。これらは礼儀立国のキーワードでもあることを強調したい。

*「いただきます」
 出された料理を食べ始めるときの挨拶の言葉と一般に理解されているが、本来は動植物の生命(いのち)をいただくという意味である。牛や魚はもちろん、コメや野菜にもいのちがある。そのいのちをいただいて、そのお陰で人間は自らのいのちをつないでいる。そのことに感謝を表す言葉が「いただきます」である。感謝の心は他者との共生の心、他者への思いやり、やさしさにもつながっていく。
もう一つ大事なことは、折角いただいたいのちをどう活かすかである。もちろん「世のため、人のため」に活かすことであり、これが利他主義の原点となる。

*「もったいない」
 「そのものの値打ちが生かされず、無駄になるのが惜しい」が一般の理解であり、「捨てるのはもったいない」などが用例である。モノや心を大切にしようという意味で、地球環境保護のために資源・エネルギーを節約するのにぴったりの言葉でもある。
 毎日新聞社の招きで05年来日したケニアの環境保護活動家で、ノーベル平和賞(04年)を受賞したワンガリ・マータイ女史は「もったいない」という日本語に出会って感激し、「MOTTAINAI」を世界語として広める行脚を世界各地で重ねている。本来なら日本人が世界に向かって発信すべきであり、同女史には感謝しなければならない。

*「お陰様で」
 相手の親切などに感謝の意を表す挨拶語と一般に理解されているが、原義は若干異なる。今の自分のいのちが祖先のいのちにつながっており、それに対する感謝の心の表れを意味している。最近は他人のお世話にはならない、自力で生きていると考える人が少なくない。そういう心構えは必要だが、事実認識としては独りよがりの思い込みにすぎない。
多くの祖先のいのちがあって、そのお陰で今ここに自分が存在している。この事実に思いをめぐらせると、多くの人に支えられて生かされ、生きていることに「お陰様で」と感謝の念を抱かずにはいられない。「お陰様で」はそういう含意である。

▽軍事力・利己主義・拝金主義よ、さようなら―が礼儀立国のカギ

上述したアインシュタイン博士の日本印象記の中で私が注目したいのは「世界の盟主なるものは、武力や金力ではなく、・・・」という認識である。これは軍事力や拝金主義への疑問符と受け止めたい。
 一方、マレーシアの元上院議員ノンチック氏の次の指摘は、昨今の日本人に対する有り難い忠告と理解したい。
「自分のことや 自分の会社の利益ばかり考えて
 こせこせと 身勝手な行動ばかりしている」と。
 ここには拝金主義さらに利己主義への率直な批判が浮き出ている。

 軍事力第一主義は米国のイラク攻撃・占領が挫折に見舞われていることからみても、もはやその有効性を失い、時代錯誤と化している。礼儀立国のすすめは、軍事力という暴力のすすめとは180度異質であり、軍事力の後ろ盾は無用である。その意味では憲法9条の平和理念を活かすことが礼儀立国の大きな柱であり、軸となる。

 私が特に指摘したいのは、昨今の日本列島を覆っている利己主義、拝金主義を脱皮できるかどうか、いいかえれば利己主義や拝金主義よ、さようなら!といえるかどうかである。ここが礼儀立国へのカギになるのではないか。自分さえよければいいという身勝手な利己主義、「いのちよりもカネが大事」といわんばかりの拝金主義が個人に限らず、政治経済の分野でも横行するようでは礼儀の再生はおぼつかない。

▽利他主義と非貨幣価値の尊重を 

 利己主義や拝金主義に別れを告げるための必要条件は何か。
結論から先にいえば、今をときめく自由市場原理主義(=新自由主義=規制廃止による企業利益最大化の追求、弱肉強食、格差拡大など)路線の変更によって利己主義から利他主義へ、さらに拝金主義から非貨幣価値尊重への転換を図っていくことであろう。もちろん一朝一夕には事は運ばないが、これ以外に良策は見出せない。

 強調すべきことは、利己主義と拝金主義の産みの親は、実は現代経済思想(注)そのものであり、その責任は決して小さくないという点である。
 (注)現代経済思想とは、ケインズ(イギリスの経済学者)経済学(財政赤字による経済成長主義)、米国と日本で支配的となっている昨今の自由市場原理主義などを指している。

 現代経済思想は自己利益を第一とする利己的人間観を想定して体系を組み立てており、利他主義が入り込む余地はない。しかも市場経済の核である市場メカニズムはGDP(国内総生産)で表される貨幣価値として計ることのできるモノやサービスのみを対象にしており、その取引を利己的人間が担う仕組みとなっている。
 広い意味の経済価値には貨幣価値のほかに非貨幣価値(地球、大気、水、土壌、自然の恵み、生態系、主婦の家事労働などの無償奉仕、思いやり、やさしさ、連帯感、感動、生きがい、品格など沢山あり、いずれも貨幣で計ることができない価値)があり、人間が生きていく上で重要な意味を持っているが、これら非貨幣価値は市場には一切登場しない。いいかえれば市場では「カネこそわがいのち」となる。現代経済思想に支えられた市場メカニズムは、こうして利己主義と拝金主義をつねに再生産していくほかない。

 もう一つ、経済成長主義が利己主義、拝金主義を助長させていることも見逃せない。小泉政権のスローガンは「改革なくして成長なし」であった。今の安倍政権は「成長なくして日本の未来なし」である。このような経済成長路線の追求は何をもたらすか。プラスの経済成長は貨幣価値で計るGDPの増大を意味しており、非貨幣価値の重要性は無視される。損得勘定が中心で、ここでも「カネがものをいう世界」、いいかえれば利己主義、拝金主義が広がっていくほかない。

 利己主義から利他主義へ、拝金主義から非貨幣価値尊重へと転換を図るには現代経済思想をどう超えるか、さらに経済成長路線そのものをどう見直すかがテーマとならざるを得ない。
 私は現代経済思想に代わる仏教経済思想(いのち、平和=非暴力、知足、簡素、共生、利他、多様性、持続性の八つがキーワード)の構築、経済成長路線から「脱成長」主義への転換が礼儀再生の必要条件であり、それなしには礼儀再生も容易ではないと考える。
 ただし家庭で、教育の現場で、さらに会社で「いただきます」、「もったいない」、「お陰様で」を毎日唱えることは、本日ただいまからでも実践できる。


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財界人の品格度を採点する
危うさ示す「御手洗ビジョン」

安原和雄
最近「おねだり財界人」という批評が広がりつつある。企業人としての立場からビジネスや企業競争力強化のための施策を政府におねだりするという意味である。同時に「おごる財界人」ともいわれる。多くの国民を踏み台にして企業利益の追求に余念がない、というほどの意味であろう。
 それぞれ一面の特質を指摘しているが、これに加えて私は危険な路線を選択する「危うい財界人たち」と言いたい。リーダーにふさわしい品格はどこへ? という想いさえつのってくる。財界総本山の日本経団連(御手洗冨士夫会長)が07年元旦に発表した将来構想「希望の国、日本」(御手洗ビジョン)を読み、その後の動きを追跡すると、そういう印象が強い。(07年4月6日掲載、同月8日インターネット新聞「日刊ベリタ」に転載)

▽品川正治・経済同友会終身幹事の「御手洗ビジョン」批判

 ここでは財界総理とも称される御手洗冨士夫・日本経団連会長(キヤノン会長)に代表される最近の経済界リーダーの品格度について御手洗ビジョンを素材に採点する。
 結論からいうと、どうも評判が芳しくない。一例として朝日新聞の「ニッポン 人・脈・記」の「安倍政権の空気」⑭(07年3月26日付東京版夕刊)を取り上げよう。
 「財界おねだり〈見苦しい〉」という見出しで次のように書いた。

 御手洗経団連の姿に「こんなにまで政権にすり寄っていいのか」と異を唱える財界人がいる。品川正治(82)。経済同友会の終身幹事。「頼んだことを実現してもらおうと、おねだりしているようで見苦しいね」。
 一兵卒として中国戦線へ送られ、部隊は壊滅、九死に一生を得て復員した。中学教師をしたあと日本火災海上保険に入り、社長、会長に。戦争は人や国家を狂わせる。それが骨の髄までしみている。

 「米国は問題を解決するのに軍事行動も辞さない。戦争を放棄した日本と価値を共有する国ではない」。(中略)日本のめざす道ではないと品川は思う。
 (中略)品川は、財界の勢いを「おごりだ」とみる。「民主導と言っても、しょせん業界の利益。経済は国民が主権者だということを忘れている」
 品川の批判をどう思うか。記者会見で御手洗に聞いた。
 「価値観が違う人と議論しても神学論争になるだけです」(以上、朝日新聞の記事から)

 日本の進路選択について「神学論争」を理由に日本経団連会長その人が議論を避けるという姿勢自体に問答無用というおごりがのぞいている。ここですでに品格度は大幅に減点である。

▽ビジョンの骨格・その1―「成長重視」と「格差是認」

 以下にまず御手洗ビジョンのポイントを紹介したい。同ビジョンは未来構想について「基本的には成長重視の選択を提言する」と次のように指摘している。

 今、われわれの前で道は大きく二手に分かれている。一方には弊害が最も小さくなる道を歩むことを主張するひとびと(弊害重視派)がいる。所得格差の拡大、都市と地方間の不均衡など不平等を指弾する。改革を中断しても、その是正を急ぐことを訴える。税や社会保障を通じた所得再分配の拡充や公共事業の拡張が弊害重視派の処方箋である。

 他方にはベストのシナリオにチャレンジするひとびと(成長重視派)がいる。成長重視派は、いわゆる弊害は、グローバル化や少子高齢化がもたらす歪みであり、改革の手綱を緩めれば、かえって事態は悪化すると考える。改革を徹底し、成長の果実をもって弊害を克服する、これが成長重視派の基本スタンスである。

 以上のような成長重視の姿勢は何を意味するのか。いうまでもなく「格差是認」である。次のように指摘している。
 「結果の平等は求められない。公正な競争の結果としての経済的な受益の違いは経済活力の源泉として是認される。結果の平等は、ひとびとの研鑽、努力、勤労の意欲を殺ぎ、無気力と怠惰を助長する」と。

 「結果の平等」は悪だが、「機会の平等」は善という考えのようである。しかし競争の出発点では競争参加者の条件が平等であること、という「機会の平等」が実は「教育の機会不平等」にみられるように今や大きく歪んでいることには目を向けない。だからビジョンでは「失敗しても幾度でも再チャレンジができるようにする必要がある」と書いて、安倍晋三首相の国会答弁と同じきれいごとの建前論で逃げている。

しかも上述のように「競争の結果としての経済的な受益の違いは経済活力の源泉」と言ってのける。これは優勝劣敗、弱肉強食、いいかえれば競争に勝った者が所得を増やし、一握りの上位所得者へとのし上がることのどこが悪いのか、という開き直りである。拝金主義のおごりがある。ここでも品格度は減点となる。

▽ビジョンの骨格・その2―企業優遇、されどサラリーマン・高齢者冷遇

 成長重視の立場からどのような成長路線をイメージしているのか。
*一人当たり国民所得の増大
 2015年時点の一人当たり国民所得は2005年比3割増とする。成長率は2006年から2015年までの間、実質で年平均2.2%、名目で同3.3%を実現できる、と試算している。

 「国民所得の増大」というと、いかにもサラリーマンなど国民一人ひとりの所得が増えて、結構な話のように響くが、実態はそうではない。所得は大別すれば、企業所得と個人所得の2つで、昨今のようにいわゆる景気回復が大企業中心に企業利益(=企業所得)の増大をもたらす半面、サラリーマンなどの個人所得増にはほとんどはね返らないという現実は今後もあまり変わらないだろう。成長重視主義が多くのサラリーマンなどの懐を豊かにしてくれると歓迎するのは、お人好しにすぎる。

 特に重視すべき点は、以下のような企業優遇、すなわち企業負担の軽減をめざす多様な要求を企業の国際競争力強化の名目で掲げ、おねだりする一方、サラリーマン、高齢者などには冷遇路線を明示していることである。ここには米国流の自由市場原理主義の悪しき側面が露骨に浮き出ており、財界主導の「国民総いじめ路線」ともいえる。これでは品格に反する。

*法人税実効税率の大幅引き下げ
 国税、地方税を合わせた現行実効税率約40%を30%程度の水準に下げる。
*消費税の引き上げ
 2011年度までに2%程度引き上げる。
*労働者派遣、請負労働の規制改革
 この規制改革は何を意味するのか。労働法制の規制緩和・廃止によって低賃金の非正規社員が今後も増えていくだろう。その結果、正規社員の賃金水準も低下あるいは上昇抑制傾向を強める。全体として長時間労働、無権利状態の貧困層が増大していく。
*高齢化社会への対応策として「自立・自助」精神の重視
 高齢者医療、介護保険などには「自己負担の適正化」、すなわち負担の増大を求める。

▽ビジョンの骨格・その3―地球温暖化防止への視点が希薄

 ビジョンの中に地球温暖化防止、循環型社会の実現―などのことばは出てくるが、全体として地球環境問題への視点は希薄である。地球環境問題最大のテーマである地球温暖化にどう対応しようとしているのか。

 ビジョンは「持続的な成長」のためには「長期的、安定的なエネルギー供給の確保が必要」という認識に立っている。 いいかえれば成長優先主義に立って、必要なエネルギー供給をいかに確保するかという発想である。そういう発想から化石エネルギー(石油・天然ガス・石炭)の有効利用(利用効率の最大限化)と原子力の積極的活用(2030年の発電電力量に占める原子力比率を30~40%以上にし、原子力を基幹電源とすること)を打ち出している。

 原子力発電につては最近、原子炉制御棒の脱落隠しなど電力会社の不祥事が次々と明るみに出て、原発の安全性に底知れない不安と疑惑を抱かせている。ヨーロッパでは原発から離脱し、化石エネルギーから自然エネルギー(太陽光、風力発電、バイオマスなどの再生可能エネルギー)へと転換する傾向を強めているときに日本は相変わらず原発依存路線を突っ走っている。これでは危惧の念が消えないが、ここでは化石エネルギーと温暖化防止に絞って紹介する。

 ビジョンは化石エネルギーについて「引き続き主要なエネルギー源」という認識に立っている。これでは温暖化の要因であるCO2(二酸化炭素)を発生する化石エネルギーの思い切った削減に腰が入らない。
 例えばCO2削減をめざす京都議定書の誓約はまだ実現していないにもかかわらず、「すべての国が参加するポスト京都議定書の枠組みの下で地球温暖化対策の実効的な取り組みが進み、・・・」と書いて、対策を「ポスト京都議定書」へと先送りしている。これでは京都議定書から離脱したブッシュ米大統領の姿勢の追認・模倣というほかない。また化石エネルギー抑制のための環境税導入への視点は欠落している。

 あくまでも経団連の「環境自主行動計画」による省エネや環境負荷軽減をめざすという従来の枠にこだわっている。これは社会的規制抜きで自主的に、つまり自由気ままに、有り体にいえば企業利益追求に支障のない範囲内で環境対策に取り組むという態度であろう。これも規制を排除する自由市場原理主義の実践であり、おごり、おねだりの一種といえる。

▽ビジョンの骨格・その4―日米軍事同盟を持ち上げ、9条改悪へ

 冒頭で紹介した「こんなにまで政権にすり寄っていいのか」(品川正治氏)という良識派財界人の嘆きをそのまま納得できるのが、憲法9条改悪論である。以下のように憲法改悪の時期を明示した上で改悪の中身、さらに安全保障のあり方に言及している。

*経団連は2010年代初頭までに憲法改正の実現をめざす。
*戦力不保持をうたった憲法9条第2項を見直し、憲法上、自衛隊の保持を明確化する。集団的自衛権を行使できることを明らかにする。
*日米同盟を安全保障の基軸として堅持し、MD(ミサイル防衛)能力の向上をはじめ適切な防衛力を整備し、2国間や多国間の共同演習などを含む安全保障対話の推進に努める。
*現行の安全保障会議を抜本的に強化し、日本版NSC(国家安全保障会議)として機能させる。

 以上は安倍政権が追求しつつある路線にそのままそっくりの書き写しである。要するに日米軍事同盟の強化とともに、憲法改悪による軍隊保持、米軍を支援する集団的自衛権行使の明確化である。
 しかし軍事力がもはや有効ではないことは、米軍のイラク侵略が挫折していることからも明らかである。憲法9条の非武装の理念を投げ捨てて、軍事力強化に固執するのは時代錯誤であり、危険な路線選択というほかない。

 おまけにMD(ミサイル防衛)能力の向上にまで視野を広げている点は見逃せない。MDは1兆円を超える大型兵器ビジネスで、防衛予算(現在年間5兆円規模)を食い物にする巨大な浪費(税金の無駄使い)であり、軍部と産業界との癒着を意味する日本版「軍産複合体」の肥大化につながっていく。
 これこそ財界の時の政権に対するおねだりの典型例のひとつである。ここに至っては財界人の品格なるものは、すでにマイナスと化している。

▽ビジョンの骨格・その5―愛国心と国旗・国歌の日常化

 「公徳心の涵養」を力説しているのも特色である。次のように述べている。
 「新教育基本法の理念に基づき、日本の伝統や文化、歴史に関する教育を充実し、国を愛する心や国旗・国歌を大切に思う気持ちを育む。教育現場のみならず、官公庁や企業、スポーツイベントなど、社会のさまざまな場面で日常的に国旗を掲げ、国歌を斉唱し、これを尊重する心を確立する」と。
 さらに「悠久の歴史が織りなしてきた美しい日本の文化と伝統を子供たちに引き継ぎ、活力と魅力に溢れた〈希望の国〉を実現することは可能であり、われわれの責務である」とも書いている。

公徳心を説くことに「反対」と叫ぶつもりはない。しかしそれがなぜ愛国心、国旗・国歌の日常化と結びつくのか。画一的な強制は止めた方がいいだろう。ここは「自由な国・日本」であり、「専制国家・日本」ではないことを忘れないようにしたい。

 しかも「悠久の歴史が織りなしてきた美しい日本・・・」などという表現に出会うと、安倍首相の著作『美しい国へ』と重なってしまう。そこで首相は「日本国家のために命を捧げる愛国心」を説いているのである。命を捧げる愛国心、国旗・国歌の日常化は、憲法9条改悪による軍事力強化と表裏一体関係にあり、やはり危険な路線選択にほかならない。

 私がビジョンの中で注目したのは「CSR(企業の社会的責任)と企業倫理の徹底」を強調している点である。これには同感である。今日、CSRや企業倫理を忘却した企業に社会的存在価値はない。迷惑な存在でしかない。
 毎日のようにテレビで腰を90度に曲げて自社の不祥事を詫びる企業人たちの異様な光景にどう対応するのか。一片の「恥じる心」があるなら、そして品格度をプラスに高めたいのであれば、人に公徳心や愛国心を説く前に自らの自己反省こそが先決である。それを怠るなら、折角の「希望の国、日本」が変じて「絶望の国、日本」へと転落するだろう。


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