「もっともっと欲しい」の貪欲の経済から、「足るを知る」知足の経済へ。さらにいのちを尊重する「持続の経済」へ。日本は幸せをとりもどすことができるでしょうか、考え、提言し、みなさんと語り合いたいと思います。(京都・龍安寺の石庭)
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正義とPeaceとWar
〈折々のつぶやき〉29

安原和雄
 このごろ想うこと、感じたこと、ささやかに実践していること―などを気の向くままに記していきたい。〈折々のつぶやき〉29回目。(2007年3月31日掲載)

 毎日新聞のコラム「発信箱」は読ませる記事が多いが、なかでも広岩近広記者の「平和から正義への懸念」(07年3月25日付)は実に示唆に富んでいる。毎日新聞売り物の「万能川柳」風にいえば、秀逸である。その要旨は次の通り。

 今年の小学1年生は、改正教育基本法のもとで義務教育のスタートを切る。私が懸念するのは平和教育である。というのも昨年12月に改正された教育基本法の前文が旧法と異なっているからだ。「人間の育成を期する」につながる記述で、旧法には「真理と平和を希求する」とあったが、新法では「真理と正義を希求し」に変わった。「平和」がなくなり「正義」が登場した。
 私は正義という言葉にうさんくささを覚える。米国の例を持ち出すまでもなく、他国に軍事介入するときはたいがい「正義の戦い」となる。こうなると「正義」は「平和」の対極に位置する。そんな「正義」が新出した改正教育基本法とともに新1年生は歩み出す。彼らの未来も平和であってほしい、と願うのみである。

 このコラムには共感を覚える。触発されて、あの戦争屋、ブッシュ米大統領が年頭の一般教書(07年1月24日=日本時間=連邦議会上下両院合同本会議で演説)で平和や正義にどのように言及しているかに興味を感じ、ホワイトハウスのホームページにアクセスした。読み上げるのに1時間近くはかかると思われる長文の一般教書(英文全文)を読んでみた。その結果は何と出たか?

 驚くなかれ、Peace(平和)という言葉はたったの1回のみである。しかも次のような文脈で使われている。
 The people of Iraq want to live in peace. (イラクの人々は平和と共に生活したいと望んでいる)。
 これには何たる言い分か、という印象が拭えない。イラクの平和を壊したのは米大統領の命令による米軍のイラク侵略の結果ではないのか。

 一方の正義(Justice)はどうか。こちらはイラクがらみでは1回も出てこない。しかしこれまた驚くなかれ、登場回数の多い順に並べると、なんとEnemy(敵)14回、Terrorists(テロリスト)11回、War(戦争)9回、Terror(テロ)6回、Attacks(攻撃)4回がワースト5である。このほかKill(殺害)、Danger(危険)、Evil(悪)、Battle(戦闘)などの言葉が盛り込まれており、これらは総計で58回も出てくる。

 正義などと悠長なことは言ってはいられないという気分なのか。「9.11テロ」(2001年)翌年の一般教書(02年1月)で「悪の枢軸」(Axis of Evil)として北朝鮮、イラン、イラクを名指しで非難したブッシュ大統領のことである。今年の一般教書でもEvilは2回出てくる。「戦争屋・ブッシュ」の面目躍如(?)というところだろうか。

昨年(06年)秋の国連総会でブッシュ大統領が演説した翌日、登壇した反米・反自由市場原理主義の旗手ともいうべきチャベス・ベネズエラ大統領がこう叫んだ。
 「昨日、この演壇にあの悪魔・米大統領がいた。・・・」と。
 会場に笑いと拍手が広がったことはまだ記憶に新しい。「悪」とか、「悪魔」とか、世界の首脳の間でことばのミサイルが飛び交っている。


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「社長の品格」を決める条件は
ライブドア拝金主義に実刑判決

安原和雄
粉飾決算で不正な利益を荒稼ぎし、罪に問われた拝金主義・ライブドアの被告に次々と実刑判決が言い渡された。企業の犯罪、不祥事は1980年代のバブル時代から絶えることがない。厳しく問われているのは、「企業の品格」、「社長の品格」であり、同時に企業をどん欲な利益追求に走らせる自由市場原理主義そのものである。(07年3月25日掲載、同日インターネット新聞「日刊ベリタ」に転載)

 東京地裁は07年3月16日、証券取引法違反に問われたライブドア(LD)前社長のホリエモンこと、堀江貴文被告(34)に懲役2年6月の実刑判決、つづいて同月22日、同じく証取法違反でライブドア前取締役の宮内亮治被告(39)にも懲役1年8月の実刑判決を言い渡した。さらに同月23日、公認会計士(42)に懲役10月の実刑判決となった。

 堀江前社長に対する判決文は、次のように拝金主義を厳しく批判している。
 「粉飾により株価を不正につり上げて、LDの企業価値を実態よりも過大に見せかけ、人為的にLDの株価を高騰させ、同社の時価総額を短期間で急激に拡大させた。一般投資家をあざむき、その犠牲の上に立って、企業利益のみを追求した犯罪で、強い非難に値する」

 「企業経営者には高い倫理観と順法精神が求められるのであって、企業利益のみを追求し、法を無視することは許されない。まして上場会社には廉直かつ公正な、透明性のある経営が要請されている。堀江被告らは見せかけの成長にこだわり、短期的な企業利益のみを追求したものであって、そこには上場企業の経営者としての自覚はみじんも感じられない」

▽実刑判決を大手メディアはどう受け止めたか

 堀江被告に対する実刑判決をメディアはどう受け止めたか。大手6紙の3月17日付社説(見出し)を紹介しよう。
読売新聞=金銭至上主義が断罪された
朝日新聞=断罪された「錬金術」
毎日新聞=ルール無き拝金が断罪された
日本経済新聞=実刑判決だけでは量れぬ堀江被告の「罪」
産経新聞=断罪されたのは「軽さ」だ
東京新聞=断罪された虚業の実態

 拝金主義への批判が各紙社説の基調にうかがわれるが、ここではその背景分析に広がりをもたせている毎日新聞社説の一部を紹介しよう。以下のように述べているところが目についた。

 堀江前社長は刺客候補として05年の総選挙に登場した。その際、自民党の幹事長が「わが息子、わが弟」とまで言って持ち上げた。信条は「稼ぐが勝ち」で、カネがすべてという人物をヒーローのように扱い、もてはやしたことについても反省が必要だ。
 勝ち組・負け組、格差社会と堀江前社長の存在は、裏腹の関係にある。金銭欲が人を突き動かすのは否定できない。しかし、まじめに働くよりマネーゲームがほめそやされるのは、決していいことではない。
 ルール無視のどん欲は通用しないことを、実刑判決は、改めて私たちに示した。

 以上のメディアの論評をまつまでもなく、ルール無視のどん欲なマネーゲーム、つまり拝金主義が批判されるべきであることはいうまでもないが、問題はこの拝金主義をどういう広がりでとらえるかである。ライブドア社に局限されるあだ花にすぎないのか、それとももっと根は深いのかを問わなければならない。

▽負の悪循環を招く自由市場原理主義

 実刑判決について国民新党の亀井静香代表代行(05年総選挙広島6区で堀江刺客候補を破った)が語った次のコメント(3月16日付毎日新聞夕刊)が興味深い。
 「私に刺客として(堀江被告を)送ってきた自民党の責任ってないのかね。小泉純一郎前首相や武部前幹事長は頭を丸めたらいい」、さらに「何をやってもおカネを握った方が勝ちという風潮を作ったのが小泉改革である。目的のために手段を選ばないということはホリエモン君のやってきた仕事と共通している」と。
 
これは単に自民党を批判するだけでなく、拝金主義を助長した小泉改革そのものにも批判を浴びせた発言であり、的確なコメントといえる。ここで改めて考えたいのは、小泉改革とは、一体何だったのか、である。
 その旗印はアメリカ主導の自由市場原理主義である。ここでの「自由」とは、企業が市場で自由に、つまり公的規制から自由にどん欲に企業利益を追求し、増やしていくことを奨励するという意味である。憲法が保障している多様な自由、例えば思想、良心、表現、学問の自由― などとは無縁であるだけでなく、基本的権利にかかわる多様な自由と対立する位置にあることを認識する必要がある。

 そういう企業利益を追求するための手だてが民営化、自由化、公的規制の緩和・廃止を軸とし、勝ち残りをめざす激しい競争のすすめである。これは弱肉強食、勝ち組・負け組の選別に伴う格差拡大、非正規社員の増大、長時間労働、精神的抑圧感、過労死、自殺―など多くの弊害と悲劇を拡大させずにはおかない。これが、目下進行しつつある現実である。

 この負の悪循環を招く自由市場原理主義は小泉政権から安倍政権に変わっても大筋では継承されていることを見逃してはならない。自由市場原理主義を土壌とする利益至上主義=拝金主義は決して一企業のみにみられるあだ花ではなく、日本列島を汚染し続けて止むことがない、といっても誇張ではないだろう。

▽「社長の品格」その1―自らの「業」が深いと気づいたとき

 自由市場原理主義の基本路線に変更がない限り、「拝金主義よ、さようなら」と告別することも容易ではない。しかし個々の企業の立場からみれば、露骨な利益追求、拝金主義はお客様、消費者から見放されることもまた事実である。どうすべきか。ここで問われるのは「企業の品格」、「社長の品格」である。
 月刊誌『BOSS』(07年5月号)の特集「社長の品格」を手がかりに考えてみる。

 読んでみて「なるほど」と感じる記事を2つ紹介したい。どちらも実践的品格論である。1つは古田英明・縄文アソシエイツ社長の「〈私利私欲〉は副社長まで―社長に求められる条件」(要旨)である。

 儲けるだけの野蛮な経営者は、品格がなくてもできる。(中略)生命力の強さ、私利私欲の強さについて、エネルギーレベルが高いなどという言い方を耳にすることもあるが、これは仏教でいう「業」が深いということではないか。自らの「業」が深いと気づいた時に品格が生まれ始める。私利私欲を抑える術を得たとき、ようやく品格ある人間になれるといえるのではないか。
 歴史ある大企業で、すばらしい会社は、「俺が俺が」という私利私欲は副社長や専務で終わりにさせておいて、品位品格を担保できる人を社長にするというシステムが機能している。
(企業の)継続力、復元力を考えた時、何が一番必要かというと、会社の品格である。別の言葉で言えば、徳をもつということ。徳のある会社であるためには、やはり会社を代表するリーダーに品格がなければならない。

▽「社長の品格」その2―「淡泊にあらざれば志あきらかならず」

 もう1つは、SBIグループ代表の北尾吉孝氏の「時空を超えて私淑できる人間を持つこと」(要旨)である。

 企業に限らず、教育の現場も含めて、リーダーとしての資質を磨くという風土が社会全体になくなってしまった。(論語に)「君子は義に喩(さと)り、小人は利に喩る」というが、この利を優先して、義を後回しにしてしまっている。あるいは志と野心とを勘違いしている。
 志は非常に壊れやすいものだから、この志をどうやって保っていくかというと、まず私利私欲をなくすことだ。諸葛孔明(181~234年、中国・三国時代の軍略家)は戦場から息子に送った遺書の中で「淡泊にあらざれば志あきらかならず」といっている。淡泊でないと志を持続していくことができないということだと思う。
 企業のトップはきちんとした企業観をもつべきだ。企業は社会があって初めて存在し得る。決して株主のためだけの存在ではない。お客さま、取引先、地域社会、役職員など企業を取り巻くすべての利害関係者があってこそ存在できるのに、株主だけをクローズアップして考えると間違ってしまう。

 以上2つの品格論に私は次のことをつけ加えたい。「私利私欲、拝金主義をそそのかす自由市場原理主義の前に大手を広げて待った、をかけること、これが品格の決め手とはいえないか」と。

▽あの雪印乳業はいまどうしている?

 2000年6月から7月にかけて近畿地方を中心に発生した過去最大の集団食中毒事件(被害認定者数は13000人超)で苦境に追い込まれた雪印乳業は、今どうなっているのか。
 事件後の02年6月、長年の消費者運動の経験を生かして社外取締役に就任、雪印乳業の経営建て直しに取り組んできた日和佐信子氏は、「危機管理と広報」というテーマでの講演(経済広報センター発行の『経済広報』07年3月号に掲載)で企業不祥事の原因として次の諸点を挙げている。
①〈社会の常識〉と〈企業の常識〉が乖離(かいり)していること
②安全性よりも利益が優先されること
③リスクを隠したがること

同社は信頼回復のために〈社会の常識〉をどう社内に取り入れるかという視点に立って、企業倫理委員会によるチェック機能の導入など多様な試みを実施しているが、問題は〈社会の常識〉とは何を指しているのか、であろう。
 経済広報センターの「生活者の企業観に関するアンケート」調査(06年11月実施)結果(上記の『経済広報』に掲載)によると、生活者(消費者)が企業評価基準として「非常に重要」と考える上位3つは次の通りである。
①商品・サービスの高い質を維持している
②企業倫理が確立され、不祥事が起きにくい
③不測の事態が発生した際に的確な情報発信をしている

▽自由市場原理主義に歯止めをかけること

 以上のような〈社会の常識〉に対し、依然として利益を優先し、不祥事のリスクを隠したがるようでは適切な対応は不可能である。重要なことは、企業として自由市場原理主義に翻弄(ほんろう)されないことである。
 同氏が講演で次のように述べた点に着目したい。これは雪印乳業に限らず、すべての企業への適切な助言と受け止めたい。

 「雇用環境の変化をみると、正規社員が減り、非正規社員が増えている。つまり何か不満があれば、すぐに告発される環境にあるということで、だから企業経営は誰からみられても、どんな場合でも絶対に大丈夫、という正しいやり方、ルールに従ってきちんとやっていなければならない。そして今、企業倫理が問われている。法律さえ守っていればいいわけではない。そこがかつての社会状況と全く違っている」と。

 ここには自由市場原理主義路線の下で企業がどん欲な利益を追求する結果、低賃金の非正規社員が増大し、その非正規社員による告発―良質の告発であることが必要条件―が企業の野放図な利益追求を阻むという構図が浮かび上がってくる。
 自由市場原理主義に歯止めがかかれば、それは企業社会が企業倫理を取り戻し、健全な発展を遂げていくためにはむしろ歓迎すべきことである。


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「9条守る」防衛省元幹部の志
自衛隊を愛す故の「内部告発」

安原和雄
 著作『我、自衛隊を愛す 故に、憲法9条を守る―防衛省元幹部3人の志』(かもがわ出版・2007年3月刊)を読んだ。著者は小池清彦(元防衛庁教育訓練局長)、竹岡勝美(元防衛庁官房長)、箕輪 登(元防衛庁政務次官)の3氏で、対米追随の軍事政策、自衛隊のイラク派兵、憲法9条改悪の動き―などを厳しく批判し、「憲法9条を守ろう」と主張している。
 3氏は防衛庁(現防衛省の前身)の要職にあった人物であるだけに、その「憂国の士」らしい気概ある発言は「内部告発」のような性格をもっており、傾聴に値する重みがある。以下に3氏の主張の要点を紹介し、私(安原)のコメントをつけた。(07年3月20日掲載、同日インターネット新聞「日刊ベリタ」に転載)

▽日本中でひろがる「九条の会」

 本書は「はじめに」で編集部の想いを次のようにつづっている。その要旨を紹介しよう。

 いま、憲法9条を守ろうという運動が日本中にひろがっている。加藤周一氏ら9名がよびかけた「九条の会」は全国で軽く6000を超え、日々勢いを増している。
 この運動には平和をどう考えるかについて様々な立場の人々が参加している。9条を守るということでは一致しているが、他の問題では必ずしも意見が同じではない。

 なかでも自衛隊をめぐる問題は、とりわけ意見の違いが大きい分野である。9条への熱い想いは同じでも、自衛隊・軍隊を全否定する9条論もあれば、9条は自衛権と自衛隊を当然のこととして認めているという立場もある。
 それでも9条を守ろうという運動がひろがっているのは、自衛隊についての立場の違いが脇に置かれているからである。この運動が自衛隊を認めるかどうかという見地をお互いに押しつけあうことなく、9条改憲のねらいは自衛隊の海外派兵を恒常化することにあるのだと見抜き、「海外で戦争する国づくり」に反対することを共通の目標としてかかげているからである。

 本書に登場するのは、自衛隊を認知するどころでなく、誰よりも国の行く末を想い、自衛隊とその隊員を愛しているが故に、なんとしても9条を堅持したいと決意し、奮闘している防衛省元幹部のみなさんである。

 自衛隊を認めたら護憲ではなくなると考えている方々はびっくりし、護憲の立場で頑張っている人々には、運動の幅をひろげる観点を提供するに違いない。自衛隊を認めるから改憲は当然だという立場の方々には、大きな衝撃を与えるかも知れない。迷っている人々には決断を促すはずである。

▽小池清彦氏の主張―国民の血を流さない保障が憲法9条だ

 (小池氏は防衛庁防衛研究所長、教育訓練局長を歴任し、1992年退官。1995年新潟県加茂市長に当選し、現在3期目)

 小泉前総理がテロを許さないとか、国民の精神が試されているなどと、ヒトラーのようなことを言って(イラクへの)出兵を強行したことは正気の沙汰ではない。思慮の浅い軍事外交戦略であり、国を危うくし、国民を不幸にするものである。兵を動かすことを好む者は滅ぶ、は古今兵法の鉄則である。日本は海外派兵中心の防衛政策を改め、平和憲法のもとに、祖国防衛中心の防衛政策に立ち返るべきである。

 もしこの憲法9条がなかったら、まず朝鮮戦争(1950~53年)の時から日本は出兵させられている。現に朝鮮戦争の時に旧帝国海軍の軍人が集められて掃海活動をやらせられて、戦死者まで出た。9条がなかったら、ベトナム戦争(1965~75年)にも出兵させられていた。湾岸戦争(91年)も憲法9条がなかったら即座出兵だ。そして今ごろは徴兵制、間違いない。

 外国の方々は9条を極めて高く評価している。私の親友のイラク外交官も「日本はいいね。平和主義でいいね。本当に平和な国でいいね」と言っていた。そういう高い評価がある。日本は原爆を2発落とされた特別の国だから、世界平和の先兵としてやっていってこそ、日本の地位の高まりがある。世界も「ああ、日本は素晴らしい国だ」と。

 イラクへの自衛隊派兵は「国際貢献」ではなく「対米貢献」である。「安全確保支援活動」という重大な使命がイラク特措法に書いてある。これはイラクでの米英軍の軍事活動を「支援するために我が国が実施する措置」のことで、後方支援すなわち兵站(たん)補給である。この兵站補給は戦闘行為の中で一番大事な部分で、戦争になると、お互いにたたくのは兵站補給である。これを国民に言わずに、もっぱら「人道支援活動」と言い続けて、2007年初頭の現在も派遣が継続している航空自衛隊がこの活動をやっている。

 「剣は磨くべし、されど用うべからず」、これが古今兵法の鉄則であり、日本武士道の本義に合致する。剣聖、上泉信綱(室町時代末期の剣客・兵学家、新陰流の祖。秀綱を後に信綱に改名)が到達した世界は「無刀」、すなわち剣を捨てた形であった。武の本質は和である。これが日本の、東洋の武の鉄則である。総理たる者は渾身の力を振るって直ちにイラクから撤兵すべきである。

▽竹岡勝美氏の決意―憲法九条改定論を排す

 (竹岡氏は防衛庁人事教育局長、官房長、調達実施本部長を歴任後、1980年退官)

 個々の人間、生命こそが天賦(てんぷ)のものであり、これに替わるべき価値はない。国家といえども、、人間がお互いの命を守るための人為の二次的価値にすぎない。まして人工の旗や歌にすぎない日の丸や君が代に人間が頭を下げる理などない。
 個々の生命に至高の価値があるならば、これを殺し合う戦争こそ、避けるべき人類最大の愚行であるといわねばならない。

 日本、極東さらにはアジア、太平洋、中東に至るまでの米軍の軍事覇権確立に自衛隊が隷属し、これにまとわりつくような共同作戦や後方支援の具体化が、閣議や国会で討議されることもなく、「在日米軍再編」の名のもとに進行している。
自衛隊はガードマンのごとく米軍基地を警護し、宅配業者のごとく国内外の米軍基地間の輸送、さらには米艦艇へのガソリンスタンド役まで引き受ける。これでは自衛隊員が哀れである。それほどまでして守ってもらわねばならぬ「日本有事」とは何か。

 日本有事とは、在日米軍を含む米軍と日本周辺国家との戦争に巻き込まれる波及有事のみである。万一にも米軍が一方的に北朝鮮を崩壊させようとした時、北朝鮮のノドン・ミサイルが日本海沿岸に濫立する十数基の原発を爆砕するかも知れない。
 有事とは「国土の戦場化」のみである。この小さな島国で1億2000万人の国民は、8000万台の自動車、53基の原子炉、巨大な石油化学工場、石油やガスの一大備蓄基地、乱立する大都市の超高層ビルらと共存している。いかに米軍の支持があろうとも、本格的な国土戦は戦えないというのが偽らざる実態ではないか。同時にそれは起こり得ない虚構でもあるだろう。

 独立国・日本の安全と名誉のために、南北朝鮮や中台の和平確立に日本も貢献し、その成果として日米安保条約を日米友好条約に切り替え、在日米軍の縮小から撤収への道を切り開くべきではないか。

 改憲勢力が現在の憲法では米国や多国籍軍に十分な支援ができないと改憲をほのめかすのは、歴代政権が一貫して国是として誇ってきた「専守防衛」の枠を外そうとするからである。米国を除く世界は日本にそのような要求はしていない。なせ日本国民が自制し続けてきた自衛隊が「軍」でなければならないのか。国家が「軍」一色に変貌した時が恐ろしい。日本では戦前も今も、政治家も経済人も、とりわけマスコミが軍に弱い。
 今「平和憲法」「専守防衛」の金看板を廃棄するのは、我が国の安全保障と徳義のため、かつ周辺隣国への影響からも余りに惜しい。改憲に何のプラスがあるのか。

▽箕輪 登氏の遺言―命をかけて自衛隊のイラク派兵阻止を訴える

 (箕輪氏は衆議院議員として8期連続当選、1990年に政界から引退。2004年1月、自衛隊イラク派兵は憲法9条と自衛隊法に違反することを理由に派兵の差し止めを求める訴訟を起こした。以下は06年2月札幌地裁における証言(要旨)である。同氏は同年5月死去、この証言が遺言となった)

 重装備をもっていくのは、今回のイラク派兵が初めてである。軍事行動ではないというけれど、航空自衛隊は何をやっているか。米軍が使う武器、弾薬の輸送をやっている。旧陸軍の輸送兵の役をやっている。これは戦争参加ですよ。日本は米軍の輸送兵の役をやるのか。そのために自衛隊はできたのか。
 こんなことを許しておいたら、これが違法だと言えるのは法律しかない。そんな気分で訴訟を起こした。

 自衛隊法第3条が定める自衛隊の任務(自衛隊の主任務として直接侵略と間接侵略への防衛を挙げている)の中に外国の治安維持、人道支援、復興支援は、入っていない。イラク派兵は米国の言う通りやっているだけではないか。その米国は、国際法違反のイラク戦争だとアナン国連事務総長(当時)が言い切っている。
 パウエル米国務長官(当時)が(イラクの大量破壊兵器保有に関する)情報は間違いだったと言った。情報の間違いで多くの国民を殺すことを許すのか。こんなばかなことは、だれだって分かり切ってる。

 (自衛隊のイラク派兵)が前例となって、米国のやる戦争(への協力)は、日米同盟を結ぶ日本にとってこれからも起きるかも知れない。そのときは米国と一緒に戦えるよう、憲法を改正しようとするのではないか。やっていることが間違っている。

 過去に日清戦争、日露戦争、満州事変、支那事変、大東亜戦争などいずれの戦争も、自衛のためという理由だった。私は、そういう戦争をしては駄目だということで、日本の新憲法ができたのだと思っている。

 なぜ戦争不可能な現憲法を戦争可能な憲法に直すのか。日本人としての良心にかんがみて、平和がいいなら平和がいいと言ったらいい。それが男らしいのではないか。
 政権をあずかる者は、反対意見に耳を傾けるべきではないか。過去の戦争でも、戦争反対の意見の日本人は沢山いた。ところがそれを口に出すと、特高(特別高等警察の略。敗戦の1945年まで当時の内務省直轄で思想・社会運動を取り締まった警察)に捕まってブタ箱行きだ。だから反対意見を言えなくなる。
 しかし今はそうじゃない。反対意見に耳を傾けたら、2度と戦争は起きないよ。

〈コメント・その1〉―3氏主張の共通点は「憲法9条と専守防衛を守れ」

 箕輪氏は2004年11月、オランダ・ハーグ国際司法裁判所における「中東の正義と平和のための国際会議」に招待されたが、高齢でもあり、自宅で転倒して負傷したため、出席できなくなり、用意されていた原稿が代読された。その趣旨は以下のようである。

 みなさんと同じように私もまた日本で「誤った権力」に抗(あらが)う小さな勇気を示している。イラクに自衛隊を出すことは自衛隊法、日本国憲法に違反することを理由に小泉首相を相手に提訴している。
 米国のイラク戦争は、何の大義もない、覇権的先制攻撃、すなわち侵略戦争だと思っている。その米国に加担する日本は侵略戦争の「共犯者」である。自衛隊法には「自衛隊は、祖国日本の防衛のために行動せよ」と書いてあるが、「侵略戦争に加担せよ」とは書いてない。日本国憲法は、すべての侵略戦争を固く禁じている。

 また同氏は同年11月、札幌地裁で次のような意見陳述(要旨)を行った。

 自衛隊は専守防衛を任務とするものであり、そのために志願して若い人が入隊した。それを侵略戦争の共犯者にするのか。小泉首相はあんまりだ。裁判官には公平な裁判をお願いしたい。

 以上(佐藤博文・北海道訴訟弁護団事務局長の「解説」から)のような箕輪氏の米国批判、侵略戦争拒否、専守防衛堅持―という心情は、本書に登場する小池、竹岡両氏も共有するところである。こういう心情は当然のことに「憲法9条を守れ」という声になるほかない。そこには憲法9条の理念から言えば、侵略戦争は容認できないが、専守防衛の枠組みは容認できるという理解がある。こういう認識は昨今の平和勢力、護憲派の中では多数派を占めるともいえるのではないか。

〈コメント・その2〉―「日本国土の戦場化」は現実無視の危険な想定

 以下の諸点にも注目したい。

 「人道支援活動」という名のもとに今なお続けている後方支援、すなわち兵站(たん)補給(航空自衛隊による米軍向けの武器、弾薬の輸送など)は参戦、すなわち軍事行動を意味している(小池、箕輪氏)― 後方支援も実は軍事行動だという認識は、軍事に関する国際常識である。ところが我が国ではその理解が軍事専門家を除くと、少なすぎるという印象がある。「人道支援活動」という名目に惑わされないようにしたい。

 人工の旗や歌にすぎない日の丸や君が代に人間が頭を下げる理などない(竹岡氏)―この考えに立てば、特に東京都の場合のように君が代の斉唱などに同意しない学校教員を処分することに理はない。

 米軍が一方的に北朝鮮を崩壊させようとした時、北朝鮮のノドン・ミサイルが日本海沿岸に濫立する十数基の原子力発電を爆砕するかも知れない(竹岡氏)―この指摘は重要である。北朝鮮の核の脅威がしきりに喧伝されているが、核兵器ではなく、通常兵器で原発が攻撃された場合、放射能汚染も含めて日本列島にどういう惨状が現出するか、想像力をめぐらせる必要がある。「日本国土の戦場化」という日本有事がいかに現実無視の危険な想定であるかに気づきたい。日本はもはや戦争できる国柄ではないのである。

 日米安保条約を日米友好条約に切り替え、在日米軍の縮小から撤収への道を切り開くべきではないか(竹岡氏)― 私は今や「世界の中の安保」と化した日米安保条約=軍事同盟体制こそが世界の平和を脅かす「諸悪の根源」だと考える。だから日米安保解体説を唱えているが、その場合、軍事的な現日米安保条約を軍事色のない日米友好条約に切り替えることは有力な選択肢となる。 


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笑顔にまさる化粧なし
〈折々のつぶやき〉28

安原和雄
 「笑顔にまさる化粧なし」という趣旨の一文を隣組の評判高い寿司屋さんでお土産としていただいた。今回のお土産話は第7話。〈折々のつぶやき〉28回目。(07年3月11日掲載)

 以下のように日常の平凡な言動の中に感動があり、幸せが潜んでいることを、この一文は示してくれる。平凡なこととはいえ、これを実行するのはなかなかむずかしい。できることなら本日ただ今からその気になってみたいですね。

笑顔・感動の輪を広げよう

 わたしが笑えば、あなたも笑う
 わたしが怒れば、あなたも怒る
 わたし自身が変わらなければ
 あなたを変えることは出来ない

 気にくわないだろうが
 そのふくれ顔がまわりを暗くする

「笑顔に まさる 化粧なし」
心のゆたかさは感動する心から生まれる

考えない、感じない
考えることは上手だが
感じることは下手
そんな人が多い世の中です
物事に感じないようでは
心のゆたかな人にはなれません

手を合わせる、それは花のつぼみのよう
あなたの人生は、合掌で花ひらく

人生は感激の絵巻である


〈安原のコメント〉笑顔こそお布施の実践

 「わたし自身が変わらなければ、あなたを変えることは出来ない」。たしかにそうです。ところが現実には「あなたが変わらなければ、わたしも変わらない」と人任せにする考え方、あるいは自分の非を人のせいにする怠惰な思いが横行しています。これではいつまでも「笑顔にまさる化粧なし」という境地には手が届きません。

 ここでちょっと考えてみたいのは仏教のお布施(ふせ)のことです。お布施には大別して法施(法=真理の施し)、財施(モノ、カネの施し)、無畏施(むいせ=人に安心を与えたり、不安や恐怖を取り除く施し)の3つがあります。
 しかし現実には寺への財施のことしか念頭にない場合が多いでしょう。これはとんでもない誤解です。まずお坊さんたちがもっと法施を説かなければなりません。残念ながら手抜きをしているお坊さんが少なくありません。

 多くの人の感覚にないのが無畏施です。この無畏施を広く理解すれば、電車の中で座席を譲るのも無畏施のひとつです。「お陰様で」、「有り難う」、「済みません」という日常用語もそうです。なによりも笑顔こそ無畏施の実践です。
 財施は貨幣価値(=市場価値)重視のお布施であり、拝金主義につながります。しかし無畏施はお金では買えない非貨幣価値(=非市場価値)です。笑顔を振りまいて「お金を寄こせ」という人はいないでしょう。だからこそ笑顔には無上の価値があり、「笑顔にまさる化粧なし」といえるのでしょう。


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戦争でだます人、だまされる人
あの大悲劇を繰り返さぬために

安原和雄
 60年以上も昔の1945年8月、日本の敗戦で終結したあの侵略戦争にかかわる「だます人、だまされる人」の話である。戦争が終わってから、多くの民衆は「だまされていた」と感じた。
 では一体誰がだましたのかというと、東条英機(開戦時の1941年=昭和16年12月当時の首相)ら処刑されたA級戦犯だというのが一つの答えである。それでは彼ら以外はすべてだまされたのかというと、そうではなく、だます人に手を貸した多くの人がいたのではないか、そうでなければ戦争は遂行できないという問題が浮上してくる。
 重要なことは、これは単なる過去の物語ではなく、実は目下同じ過ちを繰り返しつつあるのではないかという容易ならざる話である。あの大悲劇を繰り返さぬためにはどうしたらよいのか。
 「みどりのテーブル」(環境・平和の「緑の政党」結成をめざす組織で、私もその一会員。共同代表は小林一朗、稲村和美の両氏)の情報交換MLに最近掲載されたメールを紹介しながら、考えたい。(07年3月3日掲載、同月4日インターネット新聞「日刊ベリタ」に転載)

▽ 映画監督、伊丹万作のエッセイ「戦争責任者の問題」から

 以下は「みどりのテーブル」会員のT.K.さんがMLに載せた映画監督、伊丹万作さん(1900~46年、「無法松の一生」などの脚本もある)の敗戦直後のエッセイ「戦争責任者の問題」(『映画春秋』1946年8月号所収)の一部である。

 さて、多くの人が、今度の戦争でだまされていたという。みながみな口を揃えてだまされていたという。
 私の知っている範囲では おれがだましたのだといった人間は まだ一人もいない。ここらあたりから、もうぼつぼつ分からなくなってくる。
 多くの人は だましたものとだまされたものとの区別は、はっきりしていると思っているようであるが、それがじつは錯覚らしいのである。
 たとえば 民間のものは軍や官にだまされたと思っているが、軍や官の中にはいれば、みな上のほうをさして、上からだまされたというだろう。上のほうへ行けば、さらにもっと上のほうからだまされたというにきまっている。
 すると、最後にはたった一人か二人の人間が残る勘定になるが、いくら何でも、わずか一人や二人の知恵で一億の人間がだませるわけのものではない。

(中略)
 つまり日本人全体が夢中になって互いにだましたり、だまされたりしていたのだと思う。
 つまりだますものだけでは戦争は起こらない。
 だますものとだまされるものとがそろわなければ、戦争は起こらないということになると、戦争の責任もまた(たとえ軽重の差はあるにしても)当然両方にあるものと考えるほかはないのである。
 そしてだまされたものの罪は、ただ単にだまされたという事実そのものの中にあるのではなく、あんなにも造作なくだまされるほど批判力を失い、思考力を失い、信念を失い、家畜的な盲従に自己をゆだねるようになってしまっていた国民全体の文化的無気力、無自覚、無反省、無責任などが悪の本体なのである。

〈安原のコメント〉―批判力を失い、無自覚、無責任になってはいないか 

 ここでの主眼は、だまされた者の側に責任はないのかである。伊丹万作さんは「あんなにも造作なくだまされるほど批判力を失い、思考力を失い、信念を失い、家畜的な盲従に自己をゆだねた国民全体の文化的無気力、無自覚、無反省、無責任が悪の本体」と指摘している。
 問題は、これを今日、どう受け止めるかである。いま再び「批判力を失い、家畜的な盲従に自己をゆだね、無自覚、無責任」となってはいないかを民衆である我々一人ひとりが反省してみなければならないだろう。

 戦争には敵が、その手前の脅威論には仮想敵がそれぞれ必要不可欠である。例えば「北朝鮮は脅威だ」とメディアの多くは無造作に書き続けている。拉致問題があるから、感情的反発も理解できる。しかし北朝鮮のミサイル発射や核実験―もちろん歓迎すべきことではないし、容認もできないが―を理由に脅威をはやすのは、いかがなものか。北朝鮮の脅威を言うなら、大量のミサイルや核兵器を保有している米国など核保有大国こそが脅威ではないのか。

 こういうバランスのとれた視点を欠落させた北朝鮮脅威説には、だます人が存在していて、それに手を貸すお人好し―あるいは確信犯か?―が批判力を失い、無責任にはやし立てるという構図がみえてくる。60年以上も前のあの歴史的悲劇・大失敗もこれと同じ構図ではなかっただろうか。

▽日本は一貫して戦争責任を曖昧にしてきた

 次は「みどりのテーブル」会員のY.K.さんが、伊丹万作さんの主張について情報交換MLに載せた感想である。

 戦後(1945年に日本が負けた戦争の「戦後」です。日本はその後もいろいろな形で参戦し、今や公然とイラク戦争に参戦しているので、「戦後」という言葉は、注釈抜きには使いがたい)間もなく、「映画人○○」というような団体が、積極的に戦争宣伝映画を制作した映画人を告発する運動をしようとしたとき、伊丹万作さんは告発運動する側に名を連ねることを拒否したそうです。

 その関連の文章で「日常的に戦争に協力的でない言動が抑圧されたのは、決して官憲の取り締まりが厳しかった、というようなことだけではない。『病気がちだとかいって町内会の訓練に出てこない。戦地の兵隊さんのことを考えたら、少しくらい体調が悪くても出てくるのが当たり前だ』と非難し、『あの家の××は、外出時にゲートルを巻いて居なかった』『派手な着物を着ていた』等々日常的に監視し、抑圧していたのは、普通に暮らす、普通の善い人、庶民だった」という趣旨のことを、伊丹万作さんは、書いておられました。

 戦争は、多くの「国民」が「騙される」という受動的な状態であるだけでは遂行できない。積極的に協力してこそ、遂行できるのです。・・・・日本は一貫して、戦争(1945年に日本が負けた戦争)責任を曖昧にしてきました。天皇の責任、侵略した先で非人道的な戦争犯罪を繰り返した事実、強制連行・強制労働の事実、「慰安婦」問題、沖縄での真実・・・・それらに蓋をしようとしたのは、実は、「普通に暮らしながら、積極的に戦争協力した庶民達」だったのではないか、と、背筋の寒くなる思いで感じています。

 その類の陰口を恐れて無理をし、結核を重くして亡くなった人も居る。私の祖母がそうでした。

〈安原のコメント〉― 戦争と権力と大きな嘘

ここでは普通に暮らしながら、隣人たちを日常的に監視し、抑圧し、戦争に協力してしまう善良な庶民たち―というイメージが浮かび上がってくる。悪意に満ちているならともかく、そうではなく善良な人々なのだから、事は厄介である。いいかえれば自己主張に制約のある世間という名の呪縛の中に自らを閉じこめ、そこから脱出しようという自覚も努力もない善人たち―といえば誇張にすぎるだろうか。

 こういう話になると、私自身の過去を振り返らないわけにはゆかない。あの戦争終結の1945年、小学5年生だった。戦争中には「チャンコロをやっつけろ!」などと、叫んでいた。「チャンコロ」は中国人の蔑称であった。叫ぶ行為によって無邪気にして善良な一人の小学生として侵略戦争を間接支援していたことは間違いない。

 もう一つ、思い出すのは大本営(戦時の天皇直属の最高統帥機関)発表なるものを無邪気に信じていたことである。小学校の朝礼で校長先生が大本営発表そのままの新聞報道を読んで聞かせてくれた。「敵艦5隻撃沈」、「敵機30機撃墜」「我が皇軍の被害は軽微」―などと。
 こういう戦果が毎日、新聞やラジオ(当時はまだテレビはなかった:若い人のために注釈)で報道され、「こんなに日本は勝っているのに、なぜアメリカは降伏しないのか」と子ども心に不思議に思った記憶もある。このような大本営発表が真っ赤な嘘と知ったのは戦後もずっと後のことである。

 侵略戦争は常に大きな嘘の上に成り立っている。米国のイラク攻撃は「イラクの大量破壊兵器保有」が口実だったが、これはやがて嘘と判明した。今は「中東の民主化」がスローガンである。しかしこういうスローガンが正当化されるのであれば、ホワイトハウス自身も例えば国連軍?に攻撃されなければならないだろう。嘘をつく権力が唱える「民主化」を信頼するわけにはゆかないし、「ホワイトハウスの民主化」が必要だからである。
 嘘をつく権力とその周辺に群がる追随者たちに安易にだまされる人になることだけは、しっかり返上しよう!

▽季刊誌『ひとりから』の編集後記から

 以下は「みどりのテーブル」会員のS.S.さんがMLに流した季刊誌『ひとりから』の編集後記の内容である。

「主権者が主権者意識を喪失して精神の奴隷状態にされていることに気づかず、これまで平和や人権を求める闘いを六十年間やってきても、欺瞞的ではない真の民主主義を創造することを真剣に模索して来なかったのではないかと思う」

 またいわゆる「護憲運動」について高畑通敏「市民政治再考」で書いておられるのも同じ姿勢だと思う。
 「現在平和憲法があるという既成事実に『寄りかかり』、保守勢力に対抗するスローガンとして護憲を唱えるだけで、平和憲法を前進させ具体化するために何をなすべきかという積極的な姿勢も、なくなってきたのが、この半世紀の現実だった」ことが2003年の総選挙での護憲勢力の瓦解の理由だ、と。
 こころしてかかりたいと思っている。合掌 鞍田東

〈安原のコメント〉―憲法の「非武装の理念」をどう取り戻すか

 私が重視したいのは次の文言である。
 一つは「主権者が主権者意識を喪失して精神の奴隷状態にされていることに気づかず・・・」、もう一つは「平和憲法があるという既成事実に寄りかかり、保守勢力に対抗するスローガンとして護憲を唱えるだけ・・・」である。

双方に共通しているのは、一種の精神的拘束状態に慣らされていることであろう。
 端的に言って、現在サラリーマンのうち少なからぬ人々が精神的な奴隷状態に陥っているという印象がある。バブル崩壊による混乱、さらに小泉政権以来の自由市場原理主義による弱肉強食、成果主義、格差の拡大、労働時間の延長とサービス残業の強化、自由時間の喪失―などを背景に抵抗力を磨滅させ、異議申し立ての意志力を衰微させている。このままではだまされる人が続出しかねないのではないか。

 もう一つの「スローガンとして護憲を唱えるだけ・・・」という指摘はどう受け止めたらいいだろうか。結論から言えば、この指摘は的を射ていると思う。
 なるほど護憲、つまり憲法9条(戦争放棄、非武装、交戦権の否認)の条文を改悪させないことは重要である。しかしそれだけで事足れりと考えているとすれば、お人好しに過ぎるのではないか。なぜそういえるのか。

 憲法9条は事実上すっかり空洞化しているからである。第一、日本は強大な軍事力を持っている。第二、平和憲法下で日本は何度も事実上参戦している。日本は平和憲法のお陰で、自衛隊が参戦して人殺しをしたという事実はないと思っている人は多い。

 しかし日本は米軍支援で米軍の大量殺戮に手を貸してきた事実は歴然としている。最近の具体例ではイラク攻撃への支援がそうである。米軍の沖縄基地からの出撃への全面支援、さらにイラク攻撃に対する自衛隊の「人道支援」(陸上自衛隊のイラクへの派兵、ただし06年に撤退)、「後方支援」(海上自衛隊による米艦船への石油供給、航空自衛隊による輸送協力などは継続中)―という日本の役割分担が事実上の参戦である。後方支援なしには前線での戦闘も不可能であることは軍事問題の常識である。

 第三、今や「世界の中の軍事同盟」へと日米軍事同盟は変質している。重要なのは、9条を変えなくとも、「テロとの戦い」を名目に地球規模で自衛隊を派兵し、米軍の戦争を支援する態勢(防衛庁の防衛省への格上げ)になりつつあることで、その第一歩の実績をイラクへの自衛隊派兵でつくった。

 以上のような強大な軍事力保有、事実上の参戦、世界規模での派兵計画―の背景に平和憲法体制(=非武装が理念)と相反する日米安保=軍事同盟体制(=自衛力の維持発展が目標)が存在していることは明らかである。だから護憲を貫くためには日米安保=軍事同盟体制の解体を視野に収めておくことが不可欠である。いいかえれば護憲は平和憲法の「非武装の理念」をどう取り戻すかが核心となる。
そういう意味では「平和は守る」ものではなく、「平和はつくる」ものである。「憲法9条を守れ」ではなく、「9条を取り戻せ」あるいは「9条を生かそう」でなければならない。


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