「もっともっと欲しい」の貪欲の経済から、「足るを知る」知足の経済へ。さらにいのちを尊重する「持続の経済」へ。日本は幸せをとりもどすことができるでしょうか、考え、提言し、みなさんと語り合いたいと思います。(京都・龍安寺の石庭)
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仏教小説『ごみを喰う男』の読み方
緑の思想と脱「経済成長」の勧め

安原和雄
 中村敦夫著『ごみを喰う男』(徳間書店、2007年1月刊)を読んだ。エリート警察官僚出身の僧侶が探偵として犯人捜しに知恵を傾ける。モデルとなっているのは東京都西多摩郡のごみ問題である。そのごみ処理にからんで犯罪が行われるという筋書きで、書名の『ごみを喰う男』はそこから来ている。
 「環境ミステリ-」と銘打ってあり、ミステリーの展開もおもしろいが、私が興味を抱いたのは、本書が仏教思想と緑の政治思想とをつなげて物語を創作し、そこに脱「経済成長」の考えを織り込んでいる点である。これは経済成長の旗を掲げる安倍晋三政権に対し暗に異議を申し立てている作品と読みたい。この種の小説は初めての試みだろう。そのさわりを私(安原)のコメントつきで紹介したい。(07年1月30日掲載、同日インターネット新聞「日刊ベリタ」に転載)

 中村氏はもう30年以上も前にテレビ・ドラマ「木枯らし紋次郎」のブームを巻き起こした。その後参議院議員になり、「みどりの会議」代表として環境問題を中心に活躍した。その頃私(安原)は、「みどりの会議」の政策構想について意見交換する立場にあった。同氏は04年政界を引退し、現在日本ペンクラブの環境委員会に籍を置いている。

▽地球規模の環境破壊を加速する「経済成長」信仰

 本書のあとがきに環境問題に関する次の一文がみられる。ここには環境破壊を加速する「経済成長」信仰とそのアンチ・テーゼとしての仏教思想とが簡潔に描かれている。

 環境破壊は、今や地球規模で加速している。
 地球温暖化は異常気象を促進し、将来的に農業を不可能にするだろう。工業的大量生産は、有害化学物質の乱用を是認し、大気、水、土壌の汚染を促進している。その他にも、日常生活で飛び交う電磁波、食品に注入される数百種類の化学物質など、生命環境はますます悪化している。

 これは、無限の「経済成長」を神と崇め、その目的にそぐわない一切の人間的なものを斬り捨ててきた近代史に原因がある。この信仰はさらに、大量破壊兵器のとめどない開発競争、そして終わりなき戦争へと突き進んでいる。
 しかし、無限の「経済成長」という目標は、それ自身大いなる虚妄である。なぜなら、それに必要な資源も、それを利用する個の生命環境も「有限」だからである。
 人間はたかが動物の一種であり、生態系の一部にすぎない。限度を超えた暴挙には、必ず報いがあるだろう。

 さて以下に仏教と緑の政治思想がらみの記述を作品の中からいくつか列記したい。これら仏教的な考え方、それをめぐる会話の展開が本書を仏教小説としてユニークな作品に仕立てているし、その上、環境政党「緑の党」が顔をのぞかせ、そこに脱「経済成長」を勧める姿勢が鮮明に浮かび上がってくる。

▽欲望の輪廻、そして足るを知る

*無常
 「無常という言葉の意味をご存じかな。生命あるものも無いものも、生も死も、すべては連関して影響しあっている。そして、絶えず変化し、進行している。人間社会の営みなんぞは、その運動の中で微粒子にも充たないケチなもんだ」
 「それを知ることが悟りですか」

*自然と共に
 「仏教は自然と共にある。その自然を破壊するのは、仏道に背くことだ」

*貪欲は最後には破裂する
 「欲望の輪廻とでも言いますかな」
 「何です、それ?」
 「小欲知足という言葉をご存じかな。人は生きてゆくのに必要な小さな欲望を持っている。それが充たされれば、満足して幸せを感じる。つまり足るを知るということです。しかしその欲望に貪欲という病原菌が入ると、欲望は汚れを増殖しながら急激に脹れ上がる。膨張するだけではなく、人から人へ伝染しましてな。しかし最後には破裂する。粉々になって地獄へ墜ちる。そしてまたどこかで、新たに欲望が脹らみ始める。この繰り返しには際限がない」

〈コメント〉
「無常」、「足るを知る=知足」はどちらも仏教のキーワードである。知足の対極にあるのが貪欲というむさぼりである。「欲望に貪欲という病原菌が入ると、欲望は汚れを増殖しながら脹れ上がり、最後には破裂し、粉々になって地獄へ堕ちる」というこの道理は多くの人々が分かっていると思いながら、それを自制することができない。
 気がついてみれば、企業トップにせよ、政治家にせよ、裁きを受けるために高い屏の中に放り込まれて、臍(ほぞ)を噛む、という事例は昨今、数限りない。
 「小欲知足」という表現か? それとも「少欲知足」なのか? 「小欲」よりも「少欲」の表現が多いと思うが、作品中の前者の説明を読むと、なるほど、と理解できる。

▽わたしの願いは、日本に緑の勢力を作ること

*新しい緑の政治思想
 「ヨーロッパを中心に世界各国で新しい緑の政治思想が芽生えています。自由主義や社会主義ではもう人類はもたない。行く先は核戦争と環境破壊の拡大しかないからです。ドイツでは緑の党が政権に入り、強い影響力を持っています。いちばん遅れているのが、経済大国であるアメリカと日本なんです。わたしの願いは、日本に緑の勢力を作ることなんです」
 「やりたいけど、まだまだ少数派なんだなあ・・・」
 「最初は何だって少数派から始まるのよ。ああだ、こうだと言ってないで、まず動くことが先だと思うな」

〈コメント〉
 「最初は何だって少数派から始まるのよ」というセリフも、当然の歴史認識であるにもかかわらず、そのことを多くの人が必ずしも自覚していないだけに効果的なセリフになっている。歴史は少数派が突破口を切り開き、参加型民主主義に支えられながら、新しい歴史がつくられていく。
 「ドイツでは緑の党が政権に入り、(中略)いちばん遅れているのが経済大国のアメリカと日本」という指摘は噛みしめてみる必要がある。なぜ日米が遅れているのか。経済大国であるためなのか、それとも経済大国にもかかわらず、なのか。
 恐らく前者のためではないか。経済大国としての体裁を取りつくろうための日米安保=軍事同盟を背景に、もはや有効性を失った軍事力に執着する軍事力神話の呪縛から自らを解放できないからであろう。激変とともに前方へ疾走する歴史の最後尾に、しかも後ろ向きに日米はついていて、その日米の足元がもつれているという印象がある。

▽持続できる循環型経済に転換を

*欲望という厄介な代物
 「欲望というやつは厄介な代物でな、一度たがが外れると、際限なく脹らみ続ける。結局は自分ばかりでなく、周囲の人々も奈落へ突き落とす」
 「それは、社会や国家についても言えることですね。バブルもそうだし、環境破壊や戦争への道にも当てはまります」

*ありえない無限の経済成長
 「大本の問題は経済のかたちにあるんです」
 「経済のかたち?」
 「一般にごみ問題の解決策は3Rといわれています」
 「3R?」
 「リデュース(減量)、リユース(再使用)、リサイクル(資源再利用)です。(中略)最も重要なのは最初のリデュースです。ごみの量が減らない限りは、手の打ちようがありません。ところが社会全体は、無限の経済成長を求めて、大量生産に向かっています。必要なものが揃ってしまうと、今度は無駄な浪費を奨励します。それが大量のごみを生み出すのです」

 「貪欲がふくらめば、それに比例してごみも増えるという構図か。しかしそれを止めれば、経済成長も止まりますな」
 「人間を追いつめるだけの成長は無意味ですね。それに無限の経済成長などというのはありえません。資源も生命環境も有限だからです。(中略)これからは過激な競争を止め、もっとゆったりと持続できる循環型経済に転換すべきだと思います。それには自分が住んでいる地域が重要なんです」

 「(略)できるだけ自給自足のライフスタイルを作ることです。農林業を重視し、ローテク技術を大切にする人間的経済を復興させることです。要らないものは作らない。要らないものは運ばない。そうすれば、ごみなんて自然になくなります」
 「すると、拙僧が唱える小欲知足も満更じゃありませんな」

〈コメント〉
 ここには二つの重要な認識が示されている。
 一つは「資源も生命環境も有限だから、無限の経済成長はありえない」であり、もう一つは「要らないものは作らない。要らないものは運ばない。そうすればごみは自然になくなる」である。その認識から導き出される経済の方向は「持続型循環経済」への転換しかあり得ない。
 歴代の保守政権はもちろん、現在の安倍政権も、経済成長を錦の御旗として振り回している。安倍首相の通常国会冒頭の施政方針演説(1月26日)に「成長」という文言が10回、一方、「美しい国」は7回出てくる。首相のうたい文句「美しい国・日本」づくりのためにはともかく「経済成長」が不可欠だという発想である。

 しかし経済成長、すなわち経済の量的膨張は、同時に大量の多種多様な汚染物質、廃棄物を排出する。ごみの山が美しい国づくりにどのようにして貢献できるというのか。首相らの「経済成長」信仰は、成長できなければ、経済は破綻するという思い込みに基づいている。そういう思い込み、思考停止病こそが環境問題を含めて経済や社会を混乱させつつあることに一体いつ気づくのか。

▽愚者たちの巣窟? いや、希望がないわけではない

*無明と希望
 消費社会の物欲の果てが、大量のごみを生み出す。そしてこのごみを喰いものにする者たちが、ごみ捨て場を舞台に醜悪な暗闘をくり返す。

 〈無明〉という文字が脳裏をよぎった。深い智慧や真実に触れることなく、薄汚い貪欲の中で蠢(うごめ)く畜生の世界を意味する。この美しい森林地帯は果たして〈無明の里〉なのか。人間社会は所詮(しょせん)、救い難い愚者たちの巣窟にすぎないのか。
 (中略)
〈いや・・・〉
 希望がないわけではない。(中略)
 この人々は自然と共生し、ゆったりとした社会をつくろうと努力している。
 彼らは宗教者ではないが、仏道と並行した道を歩んでいる。彼らがいる限り、未来は薔薇(ばら)色と言えないまでも、決して暗黒ではない。

〈コメント〉     
「いや・・・、希望がないわけではない」に読者は未来への希望と意欲と活力を見出すのではないだろうか。このまま日本を沈没させてしまうわけにはいかない。そのことを読者の胸に問いかけ、考えさせる作品になっている。


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激増する歩道の自転車暴走事故
脱「クルマ依存社会」を提案

安原和雄
自転車による歩行者の事故が最近増えている。私はマイカーは持っていないし、自分で運転する気もない。どちらかというと、歩行派で、「歩け、歩け」の方である。だから自転車には、人一倍理解があるつもりだが、歩道での乱暴な自転車には黙っていられない。 どうするか。「歩道は歩行者の聖域」という観念を育てたい。そのためには道路づくりの改革を含めて脱「クルマ依存社会」に着手しなければならない。(07年1月24日掲載、同月25日インターネット新聞「日刊ベリタ」に転載)

 最近、自転車通行についての批判、注文が相次いでいる。
 まず「自転車、法改正よりマナー徹底を」という新聞投書(07年1月23日付毎日新聞)が目についた。

 「自転車に乗る人たちのマナーの悪さが目立つ。(中略)狭い路地をわがもの顔で走る大人や2人乗り、携帯電話で話しながら自転車に乗る若者が多く、小さい子どもやお年寄りは安心して歩けない。道交法改正試案では〈児童・幼児が運転する場合など、場合により歩道通行を認める〉とあるが、一般の人たちの自転車運転時の交通ルールやマナーの習得を徹底すべきだと思う。(中略)社会の誰もが安全に自転車に乗り、安心して歩ける街でありたい」(会社員、44歳、東京・世田谷区)

▽歩道は歩行者の聖域である。だが、その現実は?

 さらに毎日新聞(07年1月21日付東京版)「発言席」に掲載された疋田智氏(自転車活用推進研究会理事)の「なぜ今〈自転車は歩道通行〉」という主張(要旨)を以下に紹介したい。

*自転車対歩行者の事故がこの10年間に4.6倍に激増した。それも歩道上の事故が増えており、自転車は「歩道上の凶器」となった。
*そもそも自転車は車道通行が当たり前だった。ところが30年前の1978年、道路交通法改正で条件付きの「歩道走行可能」に変えた。さらに06年11月警察庁の「自転車対策検討懇談会」がまとめた提言は実質上「自転車の車道締め出し」をめざしている。

*本来、自転車は環境に優しく、健康的で、渋滞を起こさない。自転車は自動車に代替してはじめて環境に貢献する。だから欧米各国はこぞって都市内交通を自転車に転換し、過度のクルマ依存社会から抜け出そうとしている。
*注目すべきは、それらの国々では例外なく自転車は必ず車道、もしくは車道側に作られた自転車レーンを走っていることだ。自転車の歩道通行が認められているのは、先進国では日本だけである。わが国でも車道に自転車レーンを整備するなど自転車にとって安全な走行空間にする必要がある。

*弱者優先の大原則がある以上、歩道は歩行者の聖域である。これからの高齢化社会ではどうしても歩道の安全が確保されなければならない。

 以上は、筋の通った主張であり、賛成したい。
 わが国の交通のあり方がかつての鉄道中心からクルマ(マイカー)中心に転換してからもう40年にもなる。「過度のクルマ依存社会」が定着してしまった。その裏でトヨタなど自動車メーカーの利益は膨らむ一方である。その挙げ句の果てが歩道の歩行者の安全度の顕著な低下である。

▽警鐘鳴らした著作『自動車の社会的費用』

 クルマ依存社会は弊害が多すぎる。宇沢弘文著『自動車の社会的費用』(岩波新書、1974年)は「クルマ社会の弊害と社会的費用」について次のように論じた。

 「社会的費用、つまりがクルマが社会、公共機関などに転嫁しているコストは1台当たり年間約200万円で、具体的には巨額の道路整備費、交通事故、健康被害、犯罪、公害、環境破壊などの弊害として現れる。自動車の便益を受けるクルマ所有者がこの社会的費用のほとんどを負担しなくて済むメカニズムによってクルマの異常な普及を可能にした。その結果、市民の健康、安全などの基本的権利が著しく侵害されている。だから所有者は社会的費用を負担すべきだ」と。

 同書がクルマ社会に警鐘を鳴らしてからすでに30年以上も経った。しかし有効な打開策はとられず、現実はむしろ悪化している。都市では車道にはクルマがあふれ、車道から自転車が閉め出され、その自転車が歩道で暴走し、主人公であるはずの人間様が恐縮しながら歩いている。
 クルマによる事故死は若干減ってはいるが、負傷者を含めれば、わが国全体としてむしろ増えて、年間100万人を超えている。

▽脱「クルマ依存社会」をめざして―高率環境税導入を

 今こそ脱「クルマ依存社会」を本気でめざすときである。そのためには思い切った手を打つ以外にない。

(1)まず高率環境税をクルマ所有者に課すこと
 現行の道路特定財源の主役、揮発油(ガソリン)税(06年度予算額29,600億円)を一般財源化し、これを環境税に振り替えて、もっと税率を高くする。それによって車利用の抑制効果を期待する。

 交通手段の中でもクルマはエネルギー多消費型であることを理解したい。環境省のデータによると、旅客輸送の場合、1人を1キロ輸送するのに鉄道1、バス1.8に対し自家用車は6.0のエネルギーを浪費する。このようなエネルギー効率の悪い自家用車を乗り回す時代ではもはやない。

 自動車の排ガス(二酸化炭素・CO2)は、地球温暖化に伴う異常気象(大型台風による死者など被害の頻発)、感染症の拡大、さらに将来懸念される食料・水不足などの元凶でもある。無造作に自動車を乗り回すことは、実は自分のいのちと暮らしを無意識のうちに損ねていることに気づくときである。

(2)大都市中心部へのマイカー乗り入れを禁止すること
 東京、横浜、大阪など大都市では鉄道やバス網が発達しており、特に中心部ではマイカーに頼る必要はない。その代わり地下鉄やバスの運賃を割安にし、マイカーから公共交通機関への乗り換えを促進する。この方式はヨーロッパではすでに実施されている。

 私の住まいは東京郊外で、マイカーは持っていないが、それを不便と感じたことはない。
むしろ持つこと自体がわずらわしいと思っている。旅をするとき、私はまず鉄道で、その先はバスか徒歩で移動し、できるだけ他人様のマイカーのお世話にならないように心掛けている。

▽将来の石油枯渇に備えて、自転車、徒歩中心の道路づくりを

(3)歩道を整備し、車道に自転車専用路をつくること
 最近の石油高騰が示唆しているように、石油などエネルギー資源が枯渇し、車に自由に乗れなくなるときが来るのはそれほど遠い将来のことではない。そのときに備えて、今の自動車中心の道路づくりから自転車、歩行重視の道路づくりへの転換を急ぐ必要がある。

 地方都市では歩道もろくに整備されていないところが少なくない。安全な歩道の確保が急務である。一方、大都市では車道に自転車専用路を付設することに着手したい。それに自動車専用の高速道路に自転車専用路を併設することも検討できないか。そうすれば中長距離移動に自転車を楽しむことができる。この狭い国土で高速道路を自動車専用に閉じこめておくのは、国土の有効活用上、もったいない話である。

(4)地方都市でコミュニティ・バスを多用すること
 私は郷里(広島県)へ帰省すると、自転車で移動することが多いが、違和感を覚える。というのは地方都市ではクルマなしには生活できないクルマ依存型が定着しているからである。マイカーの洪水によって地方鉄道や民営バスが大幅に縮小された。だからますますマイカーに依存するという悪循環に陥っており、多くの人はそれに慣らされている。

 このクルマ依存型から抜け出すのは容易ではない。地方の実情に合わせて小回りの利くコミュニティ・バス(市営、町営)をもっと多用することから変化のきっかけをつかめないだろうか。さらに脱クルマへの模索と平行して、現在1時間に1~2便しかない地方鉄道便をもっと増やしていく努力も必要だろう。


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21世紀の持続的経済社会とは
仏教経済学の視点から

安原和雄
 私はNPO「循環型社会研究会」(代表・山口民雄氏)主催のセミナー(07年1月17日東京都内で開催)で「21世紀の持続可能な経済社会とはー仏教経済学の視点から」というテーマで講話した。その趣旨は(1)仏教経済学の8つのキーワード、(2)「持続可能な発展」という概念の多面的な内容、(3)21世紀の持続的経済社会をめざす変革プランーの3つに大別できる。以下に質疑応答を含めて、その概要を報告したい。(07年1月19日掲載、同月20日インターネット新聞「日刊ベリタ」に転載)

▽仏教経済学の8つのキーワード―現代経済学とは異質の視点

 私が唱える仏教経済学は、いのち尊重を第一にして、知足、簡素、非暴力、多様性、共生、利他、持続性―の8つのキーワードからなっている。これを多くの大学経済学部で教えている現代経済学の特質と比較すれば、以下のように本質的に異なっている。(かっこ内が現代経済学の特質を示す)

*いのち尊重=人間は自然の一員。(いのち無視=自然を征服・支配・ 破壊)
*知足=欲望の自制、「これで十分」。(貪欲=欲望に執着、「まだ足りない」)
*簡素=美。(浪費・無駄=虚飾)
*非暴力=平和。(暴力=戦争)
*多様性=自然と人間・国のあり方の多様性、個性の尊重。(画一性)
*共生=いのちの相互依存。(孤立=いのちの分断、孤独)
*利他=利他的人間観。(私利=利己的人間観)
*持続性=持続可能な「発展」。(非持続性=持続不可能な「成長」)

 キーワードには挙げていないが、競争、貨幣、経済運営について補足すれば、以下のようである。
*競争=個性を磨いて連帯。(弱肉強食、利益追求のための過当競争)
*貨幣=非貨幣価値・非市場価値も尊重。(貨幣価値・市場価値のみが対象で、拝金主義と消費主義のすすめ)
*経済運営=脱「経済成長主義」、ゼロ成長のすすめ。(経済成長至上主義、プラス成長に執着)

 若干説明すると、仏教経済学は何よりもいのち尊重を掲げるが、現代経済学にはいのち尊重という思想は欠落している。効率や量的分析が中心である。仏教経済学が量よりも質を重視するのと大きく異なっている。
 仏教経済学では「世のため、人のため」を重視する利他的人間観を念頭に置いているが、一方、現代経済学は私利追求を第一と考える利己的人間観を前提に組み立てられている。これは企業利益追求第一主義や拝金主義につながる。その結果、企業では不祥事や経営破綻、個人では刑務所入りの事例が数限りない。
 (詳しくは、「安原和雄の仏教経済塾」に掲載の「〈緑の政治〉がめざす変革構想」、「なぜ〈仏教〉経済学なのか?」、「仏教経済学と八つのキーワード」―などを参照)

▽「持続可能な発展」は、地球さらに経済、安全保障まで含む多面的な内容

 「持続可能な発展」(Sustainable Development=持続的発展)を構成する柱を列挙すれば、以下のように多種多様である。これは『我ら共有の未来』(「環境と開発に関す世界委員会」が1987年に公表した報告)、『新・世界環境保全戦略』(世界自然保護基金、国際自然保護連合、国連環境計画が1991年に発表した提言)、さらに国連主催の第一回地球サミット(1992年ブラジルのリオデジャネイロで開催)が採択した「リオ宣言」などで提起されている。
 持続可能な発展という概念、思想は、「経済発展(=経済成長)と環境保全との両立」を意味するととらえるのは、狭すぎるし、正しくない。地球をはじめ政治、安全保障、経済、社会、文化に至る多様な要素が織り込まれていることに留意したい。

また『新・世界環境保全戦略』は、地球の生命共同体の尊重を重視し、それを持続可能な社会の倫理として位置づけ、「この倫理の確立には世界の諸宗教の支持が必要」と指摘している。しかも「地球上のすべての生命は、大きな相互依存システムの一部」という認識を示している。
 このような認識は仏教的な考え方でもあり、「持続可能な発展」という概念と仏教思想とはかかわり合っている点に目を向けたい。わが国ではこの点に留意するところが明確ではないので、特に指摘しておきたい。

・生命維持システムー大気、水、土、生物ーの尊重
・人類に限らず、地球上の生きとし生けるもののいのちの尊重
・長寿と健康な生活(食糧、住居、健康の基本的水準)の確保
・基礎教育(すべての子どもに初等教育を施し、非識字率を減らすこと)の達成
・雇用の確保、さらに失業と不完全就業による人的資源の浪費の解消
・生活必需品の充足、特に発展途上国の貧困の根絶
・公平な所得分配のすすめ、所得格差の是正
・景観や文化遺産、生物学的多様性、生態系の保全
・持続不可能な生産・消費・廃棄構造の改革と廃止
・エネルギーの節約と効率改善、再生可能もしくは汚染を引き起こさないエネルギー資源への転換
・環境の質の確保と文化的、精神的充足感の達成
・政治的自由、人権の保障、暴力からの解放
・核兵器の廃絶、軍事支出の大幅な削減、軍事同盟の解消

▽21世紀の持続的経済社会をめざす変革プラン

 以下に持続的経済社会をめざす変革プランを提示したい。これは平和憲法の次の5つの理念、権利・義務を生かす変革構想でもあることを強調したい。

憲法9条(戦争放棄、軍備及び交戦権の否認)
 13条(個人の尊重、生命・自由・幸福追求の権利の尊重)
 18条(奴隷的拘束及び苦役からの自由)
 25条(生存権、国の生存権保障義務)
 27条(労働の権利・義務、労働条件の基準、児童酷使の禁止)

特に18条に「奴隷的拘束からの自由」として「何人も、いかなる奴隷的拘束も受けない」という条項があることをどれだけの人が自覚しているだろうか。
 ただし勘違いしてはならない。一例を挙げれば、平和憲法(特に9条)は米国からの押しつけだから、改定する必要があると憲法改悪論者たちは言いつのるが、これは奴隷的拘束からの自由を意味しない。逆に米国による押しつけの見本ともいうべき日米安保体制について憲法改悪志向派が「堅持」を力説するのは不可解である。こういう思考停止病こそ精神的な奴隷的拘束に陥っているとはいえないだろうか。

 さて変革プランの主要な柱は次の通りである。いずれも固定観念、思考停止病からの脱出をめざして、いいかえれば精神的な奴隷的拘束から自由の身になって、仏教経済学の視点から構想してみたい。これは自由市場原理主義に立つ米国のブッシュ路線、日本の小泉・安倍路線とは異質の変革路線につながるものである。 

①循環型社会づくり(5R=Reduce、Reuse、Repair、Rental、Recycleへの取り組み)
②財政・税制のグリーン化(無駄な公共事業の削減、軍事費の撤廃、福祉の充実。消費税の廃止と高率環境税の導入、累進課税の強化など)
③車社会の構造改革(道路公団改革はなぜ道路拡張政策の追認となったのか)
④ワークシェアリング(仕事の分かち合い=自由時間の拡大、就業機会の確保)
⑤農業の再生と食料自給率の向上(地産地消、旬産旬消の感覚を取り戻そう)
⑥病人を減らし、健康人を増やす医療改革(治療モデルから健康モデルへの転換、禁煙の促進=タバコ税の大幅アップ)
⑦平和憲法に新たに「持続的発展」条項の導入を(憲法9条を守り、生かすこと)
⑧自衛隊の非武装「地球救援隊」(仮称)への全面改組(日米安保=軍事同盟の解体、東アジア平和共同体の結成)
 以下、柱ごとに概略述べたい。

▽軍事費の撤廃、すなわち真の非武装を視野において

①循環型社会づくり
 5RのうちReduce(削減)、すなわち生産の段階から省資源・省エネに徹し、廃棄物を最小に抑えることが肝心である。わが国では優先順位として最後の5番目に位置するリサイクル(再生利用のためには膨大なエネルギーが必要)に関心が集まりすぎている。

②財政・税制のグリーン化
 無駄な歳出をカットするためには軍事費(年間約5兆円)が本当に必要なのかどうか、すなわち憲法9条の理念を生かす非武装を視野に入れて論議すべき時である。一方、消費税増税については、高率環境税を導入すれば消費税廃止も可能だという選択もありうることを考えてみたい。
 軍事費や消費税を聖域視したうえでの歳出カットか増税か、という従来型の発想では財政・税制の望ましい姿は描けない。

③車社会の構造改革
 現在のマイカー中心から公共交通(鉄道、バス、市電など)、自転車、歩行中心の交通体系に変革しなければ、車中心の現行方式の道路づくりは果てしない。ヨーロッパにみられる自動車、自転車、歩道の3つを備えた道路づくりへと変えてゆきたい。

④ワークシェアリングの導入
 小泉政権時代の自由市場原理主義(弱肉強食)の強行によって失業、過労死、ノイローゼ、サービス残業などがむしろ悪化し、一部の「勝ち組」と大多数の「負け組」との格差も拡大した。打開策は、労働時間の短縮と雇用の確保をめざすワークシェアリング導入(例えば正社員とパートタイム従業員の時間当たり賃金格差を解消するオランダ・モデルが参考になる)だろう。これが新しい生き方、働き方につながる。

▽農と食と健康と―いのちを育てる農業の再生を

⑤農業の再生と食料自給率の向上
 食糧自給率40%(カロリー・ベース)は先進国では異常な低水準であり、地球温暖化と異常気象に伴う食料不足時代を迎えると、食料安全保障上、重大な懸念が生じる。対策として輸入依存度を減らし、自給率を高めることが必須条件となる。それには地産地消(その地域で育てた食材をその地域でいただく)の拡大が有力手段で、例えば学校給食を地産地消のモデルとしてもっと増やすことはできないか。
 農業のあり方として環境保全・健康貢献型農業への転換も不可欠である。「農業や漁業は〈生命維持産業〉」であり、「その従業者を増やしていくしかない」(小泉武夫東京農大教授の「私の視点」・07年1月15日付朝日新聞)に賛同したい。

⑥病人を減らし、健康人を増やす医療改革
 患者の医療費負担を高くして国民全体の医療費抑制を図る従来の医療改革は行き詰まっている。健康人を増やすためには健康奨励策を導入すべきであり、年間一度も医者にかからなかった者は健康保険料の一部返還請求権を持つこと、その一方で生活習慣病の患者負担は自己責任の原則に立って5割の負担に引き上げること―など新たな発想が必要ではないか。

 農と食と健康とは相互に依存し合っているわけで、農の再生を図りながら、健康人を増やすことに本気で取り組まなければ、やがて平均寿命は低下し、日本の未来は明るくない。

▽平和憲法に「持続的発展」条項の追加を

⑦平和憲法に新たに「持続的発展」条項の導入を
 憲法9条を守り、その理念を生かすという発想に立って、次の条文を追加する。
*9条への追加条文=「日本国民及び国は、世界の平和と持続的発展のために、世界の核を含む大量破壊兵器の廃絶と世界の通常軍事力の顕著な削減または撤廃に向けて努力しなければならない」

 さらに25条「すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する」の理念を地球環境時代の今日的要請に合致するように次の条文を追加する。
*25条への追加条文=「すべての国民、企業、各種団体及び国は生産、流通、消費及び廃棄のすべての経済及び生活の分野において、地球の自然環境と共生できる範囲内で持続的発展に努めなければならない」

 当面は9条改悪を阻止しなければならないが、単に「憲法を守れ」という発想だけでは地球環境時代の要請に十分には応えられない。長期的視野に立つて、多面的な内容をもつ持続的発展というキーワードを国のかたちの根幹に据えることが求められよう。

▽非武装「地球救援隊」を創設しよう

⑧自衛隊の非武装「地球救援隊」(仮称)への全面改組を
 なぜ非武装の地球救援隊なのか。
*21世紀の地球環境時代におけるわが国憲法の平和理念の活用であること。
 憲法9条は海外でも評価が高く、「9条は人類の英知。日本人はそのことを忘れないで欲しい」、「日本の平和憲法は宝。改憲はとんでもない」という声が多い。「今こそ米国憲法も〈9条〉を持つべきだ」(第二次大戦中に米国のB29爆撃機パイロットだったチャールズ・オーバービー・オハイオ大名誉教授)という意見さえある。

*地球環境時代における脅威は多様であり、軍事的脅威が主要な脅威ではないこと。
 脅威をいのち、自然、日常の暮らしへの脅威と捉えれば、主要な脅威は、地球生命共同体に対する汚染・破壊、つまり非軍事的脅威である。非軍事的脅威は地球温暖化、異常気象、砂漠化、大規模災害、感染症などの疾病、貧困、失業、社会的不公正など多様で、これら非軍事的脅威には戦闘機やミサイルでは対応できない。

 もちろん軍事力の直接行使が地球、自然、人命、暮らしへの破壊行為であることはいうまでもない。さらに軍事同盟は平和のための砦ではなく、むしろ意図的に脅威を挑発して「仮想敵」をつくる衝動が働く。そういう軍事同盟を解体するのは、上述した安全保障問題など多面的な要素を含む持続的発展の実践にほかならない。

*非武装化は、いのち・自然を尊重し、多様ないのちの共生を希求する仏教経済思想から必然的に導き出される望ましい政策選択であること。
この構想は1949年の憲法改正によって軍隊を廃止し、積極的な平和外交を展開している中米の小国、コスタリカの非武装平和外交の日本版ともいえる。

 武装組織である自衛隊の全面改組を前提とするこの構想が実を結ぶためにはアジア、中東における平和、すなわち非戦モデルの構築が不可欠である。そのための必要条件として日米安保体制=軍事同盟の解消と東アジア平和共同体の結成―を挙げておきたい。

▽日米は世界の中で孤立する可能性―日米安保解体への選択も

 講話後の質疑応答の一部を紹介したい。
問い:コスタリカやキューバなどに米国とは異質の路線を追求する反米ともいえる動きが強まっている。この点をどのように理解したらよいだろうか。

答え:中米の動きと並んで南米の新しい動向に注目したい。ベネズエラ、ブラジル、エクアドル、ニカラグア、ボリビアなどでは最近、左派政権の登場(あるいは再登場)により反・新自由主義(=反・自由市場原理主義)すなわち反米の姿勢が顕著になってきている。 一方、ブッシュ政権のイラク攻撃にドイツ、フランスは最初から同調しなかった。今ではイラク攻撃そのものの挫折が明白となり、米国内ではイラク戦争に反対の声が過半数に達している。
 このことはブッシュ政権が世界で孤立しつつあることを示している。そういうブッシュ政権と密着関係を維持しているのが小泉政権につづく安倍政権である。これでは日米ともに孤立への道を進むことにもなりかねない。

 その背景に日米安保体制=軍事同盟が存在していることを見逃してはならない。日米安保条約(1960年発効)第3条は日本の「自衛力の維持発展」を規定している。一方、平和憲法9条は非武装の理念を掲げており、この平和憲法体制と安保体制とは明らかに矛盾しているが、歴代の保守政権は安保体制を優先させ、平和憲法体制の空洞化を進めた。そして今や世界の中で孤立しつつある。

 望ましい政策選択は何か。進むべき道は安保体制を解体して、平和憲法体制を再建する以外にはない。日米安保体制の解消には米国が承知しないだろうという見方があることは承知しているが、ここで指摘したいのは、安保条約第10条(有効期間)の「10年経過後には一方の国が条約終了の意思を相手国に通告すれば、その1年後に条約は終了する」という規定である。
 国民に解消の意思があれば、この条文を活用すればよいのであり、米国の顔色をうかがうのは、それこそ精神的な奴隷的拘束に陥って自縄自縛になっているというほかない。

 参考までにいえば、毎日新聞(03年1月4日付)の世論調査によると、日米安保現状維持論は全体の37%、一方、「安保条約から友好条約にすべきだ」つまり条約から軍事色を排除すべきだという意見が33%、「安保条約をなくして中立を」が14%で、安保条約に批判的な意見が全体の半数近くにのぼった。
 日米安保体制を解体することが直ちに日米間の対立を意味するわけではないことを示唆している。


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デンマーク訪問記の紹介
「人間らしい生活」とは

安原和雄
 音楽教育者、早乙女直枝さんの「デンマークを訪ねて」と題する小冊子を最近読む機会があった。これは06年8月下旬から9月初めにかけて、作家、早乙女勝元さんを団長とする訪問団の一員として訪ね、その印象や分析をつづった作品で、「人間らしい生活とは」が中心テーマとなっている。
 実は私(安原)も参加する予定だったが、事情があって断念したいきさつ(この「仏教経済塾」に06年9月15日掲載の〈「反戦の思い」に導かれて〉参照)がある。そこで小冊子の内容をほんの一部にすぎないが、以下に安原のコメントつきで紹介したい。(07年1月15日掲載)

 デンマークはドイツと国境を接して北側に位置する小国(人口は約540万人、面積は北海道の半分くらい)である。小国とはいえ、シェークスピアの四大悲劇の一つ、ハムレット(デンマーク王子)の舞台、クロンボー城のほか、19世紀の童話作家・詩人として著名なアンデルセン―など世界的話題に事欠かない。
 それよりもここでは国民の幸福度が世界一高いという評判の実態に関心がある。早乙女さんの作品から印象記(要旨)を拾い出してみたい。

▽自転車王国のすごいところ

 自転車レーンを自転車が一列になってビュンビュン走る。競輪選手のように走るわけだからすごい。(中略)自転車はガスも出さないから、きれいでいい。そのうえ最近は工夫して、広告つき、スポンサーつき自転車もはじまり、誰でも無料で借りられるようになったらしい。自動車、自転車、歩道と、しっかり分かれている道路がすごくいい。

〈コメント〉
 日本との違いは何か。日本はあくまでも自動車中心の道路づくりになっていることである。大都市では最近歩道の整備が進みつつあるが、レーンが3つに分かれている道路づくりがお目見えするのはいつのことか。地方都市では歩道らしい歩道もなく、人間様が小さくなって歩いている姿も珍しくない。自動車メーカーが何兆円もの年間利益を稼いでも、それを疑問視しない風潮が変わらないかぎり、日本の道路づくりも変わらないのではないか。

▽「老人の家」、「障害者の家」などを訪ねて

 デンマークでは最近、老人の建物を施設とは呼ばないそうで、各自の部屋は1人で生活できるように1人ずつの「家」になっている。その家のドアーを出ると廊下があり、廊下の角にキッチンつきの居間(たまり場)があり、みんなと会いたいときそこへ集まってくる。この老人の家には美容院も歯医者さんも揃っている。

 知的障害者の建物も老人の家と同じように1人ずつの家になっている。ここには日本のように収容してやるというという考えはない。だから暖かい楽しいお家という感じである。
 だからこそこの国の人たちは約50%の所得税を払っている。高い税金も、教育、保育、老人、医療を死ぬまで保障するためなのだ。税金を払っても、何に使うか分からない日本の国とは違うのだ。だから子供たちも安心して、18歳になると親から離れて、独立していけるのだ。

〈コメント〉
 デンマークや北欧3国では国民の税負担率が高いことは日本でも知られているが、問題はその税金が誰のためにどのように使われているか、いいかえれば国民を幸せにするためなのか、それとも踏みつけにするためなのかである。税金の負担のあり方と使われ方について最近の新聞投書(07年1月14日付毎日新聞)を紹介しよう。

 「まずは企業が潤うことで、将来は家計にも恩恵が行き渡る」という不確かな理由をつけて、企業側は減税、庶民は増税。「税制を変える!! お前たちは『おこぼれ』を待っていろ」とは、国民も甘く見られたものだ。(中略)
 タウンミーティング、外務省のワイン購入、天下り官僚の退職金、ちょっと思い出しただけでも税金を湯水のように使っている。老人や障害者福祉を切り捨てても使われなければならない税金とは思えない。(中略)何としてでも増税を押し通そうとしている。
 誰のための「美しい日本」で、誰のために増税が必要なのか理解できない。貧富の差が広がり、多くの国民が生きるのにカスカスの時代に国家の発展などありえない。これでもか、これでもかと、国民を踏みつけにする政策はもうやめてほしい。
(主婦、59歳、静岡市)

 こういう新聞投書をデンマークの人が見たら、どういう感想をもらすだろうか。「日本は経済大国だと聞いていたから、豊かな国、つまり国民が幸せな国だと思っていたが、私たちの勘違いだったのかしら」ではないだろうか。

▽ビンを道路に捨てる人がいない

 デンマークではお店に入っても、袋は自分ので、店のは使わない。売ってるものは無添加、無農薬、有機栽培野菜、洗剤類も地球にやさしいもの。害になるものは売っていない、市民がそういうものは買わない。
 市内のゴミ処理場がとてもきれいだった。家庭のゴミもすべて、明け方5時~8時半ころまでに車で各地区の集積している中庭へ来て、持っていく。中庭なので道路に出さないし、カラスも来ない。街はきれいなのだ。
 それに自販機もない。もともと缶のものはあまりなくて、ビンが中心で、そのビンも1本10円くらいで引き取ってくれるから道路に捨てる人はいない。

 ゴミ処理場では生ゴミなどを燃やしてお湯を沸かして市内に配る。おまけに少し前に原子力発電は国民投票でなくしている。その代わり風車で電力をつくる努力をしている。この地球を大切にしていくにはどうしたらいいか、国中で取り組んでいるところがいい。私たちも少し不便だけれど、これからは見習っていかないといけない。

〈コメント〉
 こういう訪問記の一節に触れると、私自身は訪問の機会を逸したが、実際に訪問してきたような気分にもなってくる。早乙女さんは次のようにも感想をつづっている。

 「幸せの国」に関する調査では世界178か国の中で、デンマークが1位、日本は90位だった。日本では毎年自殺者が3万人を超えている。日本国憲法25条の「すべて国民は健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する」はいつになったら守られるのだろうか、と。

 多くの国民はそういう疑問を抱いているはずである。しかし軍事力を振り回す米政権と利益追求重視主義の大企業とチームを組む政府が続き、国民がそれを許すかぎり、憲法25条の精神、いいかえればこの訪問記のテーマ、「人間らしい生活」の実現は夢のまた夢にはならないだろうか。

▽なぜ? デンマークに民主主義が根づいているのか

 日本では「民主主義ってなあに?」と質問すると、「多数決のことかな?」と返ってくるけど、この国の人は、「自分で決めて、責任をとること」と答える。民主主義の根は深く、太い。例えば人事異動の時なども、上司の辞令で異動させられることは絶対にない。

 なぜこういう国になったのか。19世紀の後半にデンマークはドイツ軍などとの戦争に敗れている。国土の3分の1を失い、人口もがくんと減った。その際、「剣によって失ったものを鋤で取り戻そう」という国民運動によって荒地を開拓、農地へと切りかえた。
 それが今日の畜農産物の輸出大国の基礎になったといえる。日本の食糧自給率は、カロリーベースで40%だが、デンマークは300%だ。1世紀余も前に「転んでもタダでは起きぬ」と、内政へ国民生活へと目を向けたことが生活を豊かにして民主主義の土壌になったのではないか。

 同時代の日本は、明治の「富国強兵」策から、(中略)文字通りの「外征」が太平洋まで拡大し、国民は戦争資源の「民草」で雑草並みでしかなかった。他民族を人間扱いしなかった国が自国民の人権を尊重できるはずがない。それが戦後まで尾を引いて、現在もなお政治やすべてに「民」が欠落しているではないか。「幸せの国」1位と90位の開きは、民主主義の成熟度と無関係ではなさそうだ。

〈コメント〉
 上記の分析と見解には100%賛同したい。この問題は日本には民主主義は結局のところ育たないのか、というテーマでもある。この訪問記に次のような指摘もある。

 「この国では、自分で決めたこと考えたことは、赤ちゃんの時から大切にしている」、また「今、日本では日の丸、君が代いやです、といっても、無理やり口をこじ開けて歌わせられる。これって何だろうか?と思ってしまう。もともとヨーロッパにはおおぜいで一斉に何かをするという風習はなさそうだ」と。

 このことは、誤解を恐れずにいえば、赤ちゃんの時から「自分で決めて、責任をとる」ように育てるという含意であろう。常に「世間様のこと」が気になって、自分自身はどこかに浮遊している―そういう自分を自覚できない日本人の多くには、デンマーク型のこういう芸当は理解しにくい。

 だからこそ企業の経営トップたちが不始末をしでかしてテレビに、すなわち世間様に向かって一斉に頭を下げるという珍風景が多発する。それを見ながらただ舌打ちしているだけでは民主主義も「多数決のルール」としか理解できず、深く太くは育たないだろうし、「人間らしい生活」にもなかなか手が届きにくいのではないか。


(訪問記の紹介も、その文責は安原にあることをお断りしておきたい)
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07年元旦「社説」を読んで
歴史に学ぶ目が曇ってはいないか

安原和雄
 かつて社説を書く立場にあった者の一人として、元旦の社説は黙視できない。なぜなら元旦社説はそれぞれの新聞社としての基本的姿勢を表明する場であるはずだからである。大手6紙の社説を通読したが、物足りなさが拭えない。なぜか。「権力の監視役」としての批判力、構想力の不十分さを感じるからである。それは端的に言って過去の歴史の過ちに学ぶ目が曇っているためではないのか。今こそ歴史に学び、その智恵を競い合おうではないか。(07年1月2日掲載、同日インターネット新聞「日刊ベリタ」に転載)

 まず大手6紙の社説(産経のみ「主張」)の見出しを紹介しよう。
東京新聞「年のはじめに考える 新しい人間中心主義」
朝日新聞「戦後ニッポンを侮るな 憲法60年の年明けに」
毎日新聞「〈世界一〉を増やそう 挑戦に必要な暮らしの安全」
読売新聞「タブーなき安全保障論議を 集団的自衛権『行使』を決断せよ」
産経新聞「凛とした日本人忘れまい 家族の絆の大切さ再認識を」
日本経済新聞「開放なくして成長なし(1) 懐深く志高いグローバル国家に」

 以上のような見出しをみる限り、それぞれの視点から自由に論じているような印象を受けるが、全体を丹念に読んでみると、そこに一つの共通項が浮かび上がってくる。それは安全保障というキーワードである。ここでの安全保障は軍事力中心の「狭い安全保障」観に限らず、経済、社会も含めた「広い安全保障」観も含まれる。

▽東京新聞―人間中心主義をどう生かすか

 東京新聞は次のように書いている。
「〈戦後最長の景気拡大〉と〈企業空前の高収益〉がよそごとのような年明けです。この国の未来を取り戻さねばなりません。新しい人間中心主義によってです」
「行き過ぎの市場原理主義に否定されてしまった人間性が復活し、資本やカネでなく、新しいヒューマニズムが息づく社会―そんな選択であるべきです」
「悲願の改定教育基本法を成立させた安倍政権の次なる目標が改憲ですが、そこに盛り込まれている権力拘束規範から国民の行動拘束規範への転換こそ、勝ち組世襲集団の発想に思えるのです。国民のうちにある庶民感覚と感情のずれ。改憲に簡単にうなずけない理由のひとつです」と。

 ここには人間性否定の延長線上に浮上している改憲には賛成しがたいという主張を読み取ることができよう。いいかえればヒューマニズムの理念を生かす国のあり方、安全保障への視座であり、改憲とは異質のもう一つの道への模索と受け止めたい。
 この主張には賛成である。ただ新しい人間中心主義、ヒューマニズムとは、どういうイメージなのかについて積極的かつ具体的な言及が足りない点に不満が残る。

▽朝日新聞―「軍事より経済」で成功した戦後日本

 朝日新聞の主張はこうである。
「教育基本法の改正を終え、次は憲法だ、そう意気込む自民党の改憲案で最も目立つのは、9条を変えて〈自衛軍〉をもつことだ。安倍首相は任期中の実現を目指すといい、米国との集団的自衛権を認めようと意欲を見せる」
「軍事に極めて抑制的なことを〈普通ではない〉と嘆いたり、恥ずかしいと思ったりする必要はない。安倍首相は〈戦後レジームからの脱却〉を掲げるが、それは一周遅れの発想ではないか」
「〈軍事より経済〉で成功した戦後日本である。いま〈やっぱり日本も軍事だ〉となれば、世界にその風潮を助長してしまうだけだ。北朝鮮のような国にたいして〈日本を見ろ〉と言えることこそ、いま一番大事なことである」と。

 ここには日本が改憲と自衛軍の保持によって軍事力中心の安全保障(一般には「国家の安全保障」と称される)に急傾斜していくことに大きな懸念を表明している。そうなれば、北朝鮮の核武装にも言うべきことを言えなくなるだろうという姿勢とも受け取れる。
 この主張は大筋では正しい。では日本はどういう国のあり方を描くべきなのか。「地球貢献国家」宣言を提案している。検討に値するテーマであるが、これを社説の見出しに掲げていないところをみると、ここに社説の主眼があるとはいえない。ついでに問題提起をしてみた程度、という印象が残る。

▽毎日新聞―「世界一」のリストを増やしていくことを提案

 毎日新聞は以下のように論じている。
「日本に〈世界一〉はいくつあるだろう。(中略)〈男はつらいよ〉は世界一長い映画シリーズである。(中略)日本は世界一の長寿国である。年頭に当たって、私たちは、この世界一のリストを増やしていこうと、と提案する。世界的基準に照らして傑出したモノやサービス、世界に胸をはって誇れるような〈日本発の価値〉を増やそうという呼びかけだ」
「日本はさまざまな世界一を必要としている。なかでも世界一国民を大事にする政府である。世界一の政府を求めるならば、私たち自身が世界一啓発された有権者でなくてはならない」と。

 率直に言って、この社説は時代感覚がいささかずれてはいないか。今求められているのは「世界一」というよりも、世界における「オンリーワン」(唯一)ではないのか。いいかえれば個性的な輝きにこそ高い価値を見出すべき時代である。
 社説が主張している「世界に胸を張って誇れる価値」としてまず挙げるべきは「平和憲法9条」(戦争放棄、非武装)であろう。安倍晋三首相は1日付の年頭所感で憲法改正の必要性を強調した。安倍政権が目指す最大の課題は、9条改悪による自衛軍保持である。なぜこの戦後最大のテーマに正面から立ち向かって論じようとしないのか。権力との仲間意識に縛られて、「権力批判」というジャーナリズムの原点を投げ捨てたのだろうか。

▽読売新聞―消費税増税の早期決断を促す

 読売新聞の社説の主眼は以下の通りである。
「日本はならずもの国家の核と共存することになるのか。この安全保障環境の激変にどう対処すべきか」
「現在の国際環境下で日本が核保有するという選択肢は、現実的ではない。(中略)核保有が選択肢にならないとすれば、現実的には米国の核の傘に依存するしかない。核の傘を機能させるには日米同盟関係の信頼性を揺るぎないものに維持する努力が要る。同盟の実効性、危機対応能力を強化するため、集団的自衛権を〈行使〉できるようにすることが肝要だ。政府がこれまでの憲法解釈を変更すればいいだけのことだ。安倍首相は、決断すべきである」

「安全保障態勢の整備は、国家としての最も基本的な存立要件の一つだが、それを支えるには、経済・財政基盤もしっかりしていなくてはならない。(中略)消費税増は不可避だ。与党は消費税論議は秋から開始というが、事実上、参院選を意識しての先送りだ。(中略)それではとても09年度の導入には間に合わない。より早い論議開始・導入の決断を急ぐべきである」と。

 この種の社説は、「米ホワイトハウス・日本首相官邸」共同監修の主張を読まされているような印象を受ける。権力の側に立った社説である。読売新聞は昨年の元旦社説でも集団的自衛権(注)について同趣旨の主張であったから、持論なのだろう。それにしても「憲法解釈を変更すればいいだけのこと」とは、乱暴にすぎるのではないか。

(注)集団的自衛権は、日本が軍事的侵攻を受けない場合でも、同盟相手国の米国の艦隊などが侵攻に見舞われれば、それを軍事的に支援するもので、従来の政府解釈では現行平和憲法の下では行使できないとされている。ところが集団自衛権行使を容認することになれば、先制攻撃論に基づく米国の世界規模での軍事力行使に日本は付き合うことになりかねない。

 むしろ今年の主張の眼目は「消費税増は不可避だ。その導入を急げ」にあると読んだ。戦争体制を強化することは、戦時体制の米国の財政赤字増大をみるまでもなく、財政負担増に直結する。その財政負担増をまかなう手段が課税基盤が広く、大衆課税を意味する消費税増税である。「社会保障費増への対応」が増税の大義名分に掲げられるだろうが、それは世論操作でしかないことを承知しておく必要があろう。

▽産経新聞―なぜ「無国籍化と個の肥大や暴走を招いた」か

 産経新聞は次のように主張している。
「隣人を思いやり、苦悩を分かち合う共同体意識の再生も、いまほど求められている時代はない。家族は社会や国づくりの一番の基礎にある。家庭と共同体の再生こそ日本再生へのカギではないか」
「その意味で改正教育基本法の成立は価値ある重要な一歩といえる。(中略)教育基本法も憲法同様、人類の普遍的価値や個の尊重を強調するあまり、結果として無国籍化と個の肥大や暴走を招いた」と。

「家族は社会や国づくりの一番の基礎にある」との指摘は、その通りであろう。だから改正教育基本法の成立は価値があり、さらに憲法改正も必要だという主張らしいが、これはいささか飛躍してはいないか。なぜ「無国籍化と個の肥大や暴走を招いた」のか。それは平和憲法や改悪前の教育基本法の責任ではない。

 有り体にいえば、その責任は、多くの人が肯定してきた戦後の経済成長主義にある。成長政策を支えた経済思想―1980年代以降、今日までの規制緩和・廃止、民営化、自由化さらに弱肉強食の競争激化を背景に私利追求路線を推進してきた自由市場原理主義も含めて―は、いのちや共生の軽視、利己主義を特色とした。これを推進したのがほかならぬ自民党を中心とする保守政権である。自らの責任を棚に上げて、他者に責任を転嫁するのは、それこそ卑怯な振る舞いというべきである。

 しかも教育基本法改悪の裏には「国家のためにいのちを捨てる愛国心」を育てる意図をみてとることができる。安倍首相の著書『美しい国へ』は、そのことを明示していることを見逃すべきではない。

▽日本経済新聞―「国際心」が安全保障の礎になる

 日本経済新聞は経済専門紙らしく以下のように論じている。
「政府は小泉純一郎政権以来、対内直接投資の倍増計画を打ち出し、投資誘致に旗を振っているが、05年の日本の対内直接投資残高は国内総生産比でやっと2.2%。欧州連合(EU)の33.5%、米国の13.0%、中国の14.3%などに比べて、けた違いに低い」
「冷戦後のグローバル経済は直接投資の誘致競争の時代といっていい。(中略)直接投資は成長の切り札である。資本だけでなく、新しい製品、サービスや技術、経営ノウハウをもたらし、雇用機会を創出する。競争を通じて経営効率を高め、産業を高度化する。それは消費者の利益にも合致する。直接投資を受け入れる〈国際心〉が成長持続を確かにし、ひいては安全保障の礎になる」と。

 現代経済学者の作文ともいえる印象で、グローバル経済、成長経済の賛美論あるいは必要論に終始している。登場してくる〈国際心〉は、新渡戸稲造(国際連盟事務次長をつとめ、著書に『武士道』がある)の言葉で、世界に開かれた精神を指している。その国際心と安全保障とを連結させたところに社説の新味を見出すべきなのか。
 ただグローバル経済賛美論には大きな疑問を覚える。ここではノーベル経済学賞受賞の経済学者、スティグリッツ(米クリントン政権の大統領経済諮問委員長、世界銀行の上級副総裁兼チーフエコノミストなどを歴任)著『世界に格差をバラ撒いたグローバリズムを正す』からグローバル経済批判論を紹介しておきたい。

*1990~2002年の間に世界総人口のうち不平等が拡大傾向にある国々に住む人の割合は59%、不平等が縮小傾向の国々に住む人はわずかに5%にとどまった。先進国の多くでも、金持ちがより金持ちになる一方、貧困層は現状維持さえむずかしいという状況だった。
*グローバル化によって物質的利益を重んじる価値観が突出し、環境や生命を大切にする価値観がないがしろにされている。
*誰もが経済的利益を享受できるというグローバル化擁護論の主張に反し、先進国と途上国の双方に数多くの敗者がいる証拠が山ほどある。
*グローバル化は経済政策や文化のアメリカ化を意味してはならないが、しばしば、あってはならないことが現実となり、途上国に遺恨を抱かせてきた。

 以上からも分かるようにグローバル経済擁護論者すなわち市場経済賛美論者は、少し頭を冷やし、思い込みを離れて、現実を冷静に観察してはどうか。

▽世を乱し、日本の針路を危うくする3人の首相

 現在の日本がどの方向に進みつつあるのか、その位置を定めるにはやはり歴史に学ぶ必要がある。ここで問題を出したい。

問い:次の3人の政治家の共通点は何か。昭和の初めの田中義一首相、昭和30年代の岸信介首相、そして現在の安倍晋三首相(岸元首相の孫)―である。
答え:3人とも長州(山口県)出身である。その上、3人とも日本の針路を悲劇に追い込んだり、誤らせたり、あるいは今その道を進みつつある―という共通点がある。

 戦前の総力戦体制づくりが始まったのは治安維持法制定(国体の変革、私有財産制度の否認を目的とする結社活動および個人的行為を処罰する法律。1925年=大正14年=公布)からで、1928年(昭和3年)緊急勅令で死刑・無期刑を追加したのが田中義一内閣だった。
 同法は反政府的な思想や言論の自由の抑圧手段として利用され、権力批判は封じ込められた。その挙げ句の果てが日本の侵略戦争で日本人310万人、アジアで2000万人ともいわれる犠牲者を出し、かつての日本「帝国」は滅んだ。

 1960年の現行日米安保条約の締結によって現在の日米安保体制を創設したのが岸信介政権である。その時以来、「非武装理念」(平和憲法第9条)に立つ「平和憲法体制」と「自衛力の維持発展」(現行安保条約第3条)を掲げる「日米安保体制」との矛盾が拡大することになった。
 つまり自衛力という名の軍事力増強を優先させて、憲法9条の非武装の理念を事実上空洞化させたのが岸政権で、それ以降、白を黒と言いくるめる保守政権が続いている。政府が先頭に立って国民に嘘を言い続けてきたわけだから、これで世の中が乱れなかったら不思議であろう。

 そして今、安倍政権は「戦後レジームからの脱却」を唱え、戦前への回帰を志向しつつある。再び日本を滅ぼすのかという危惧の念を抑えきれないのは当然であろう。ただ残念ながら昨今のメディアの多くにはこういう歴史に学ぶ目が曇ってはいないだろうか。

▽朝日社説「狂気が国を滅ぼした」を読んで―非武装化の視点から

 元旦社説とは異なる朝日新聞社説「開戦65年 狂気が国を滅ぼした」(06年12月9日付)は歴史に学ぶ意欲をうかがわせる優れた論評である。過去の日本の狂気に何を学ぶかについて朝日社説が提起している点は以下の通りである。

*なぜ日本はあのような(戦争という)暴挙に走ったのか。
*冷静に考えれば、勝ち目がないことぐらい分かりそうなものだ。だが、体を張って「待った」をかける政治家も軍首脳もいなかった。
*真珠湾(攻撃)の日に「マスコミは戦争をあおり、国民もやった、やった、と熱狂した」 日本中を狂気が覆っていた。
*「あんなことは絶対に二度と起きない」と言い切ることはできまい。
*どうすれば踏みとどまれるのか。狂気に包まれる前に、現実に目を見開くことはできるのか。
*あの狂気やその種はこの世界からなくなったわけではない。過ちは今もどこかで繰り返され、戦争の悲惨は続く。

 上記の問題点の一つひとつが今日的である。問題はその狂気なるものがすでに始まっているのか、そうではないのかである。私はすでに始まっていると考える。それは何よりも日米安保=軍事同盟体制下で日米一体となって世界を視野に戦争できる国へと走りつつあるからである。憲法9条改悪はそれを意図している。
 軍事同盟には仮想敵からの脅威を意図的にかき立て、軍事同盟の自己保存・肥大化を図り、戦争を仕掛ける傾向がある。1940年に締結された日独伊3国軍事同盟がその具体例であろう。上記の朝日社説は日独伊3国同盟も破局への道のひとつととらえている。

 それならなぜ今の日米安保=軍事同盟体制を批判しないのか。この日米安保=軍事同盟をタブー視しないで批判すること―私は軍事同盟解体を唱えている―から新しい発想、アイデアが始まる。日本の新しい国づくりの構想もここから出直す必要がある。
 結論を急げば、私は日米安保解体後の針路として核保有、軍事大国化ではなく、それと180度異質の憲法9条の理念を生かす非武装化路線を視野においている。「いま、歴史に学ぶ」とは、これに尽きると考える。


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