「もっともっと欲しい」の貪欲の経済から、「足るを知る」知足の経済へ。さらにいのちを尊重する「持続の経済」へ。日本は幸せをとりもどすことができるでしょうか、考え、提言し、みなさんと語り合いたいと思います。(京都・龍安寺の石庭)
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竜安寺と石庭と吾唯知足と
〈折々のつぶやき〉19

 安原和雄
 このごろ想うこと、感じたこと、ささやかに実践していること―などを気の向くままに記していきたい。お盆のため田舎へ消息不明となっていて、このほど帰京した。〈折々のつぶやき〉19回目。(06年8月22日掲載)

 京都の竜安寺(臨済宗妙心寺派)といえば、石庭があまりにも有名である。このブログ「仏教経済塾」のトップページの絵柄がその石庭である。なぜ竜安寺の石庭なのか。

 ブログの題字「安原和雄の仏教経済塾」の下に次の文言がみえる。
 ―「もっともっと欲しい」の貪欲の経済から「足るを知る」知足の経済へ。あと10年で日本はどこまで幸せをとりもどせるか、考え、提言し、みなさんと語り合いたい―と。
 なぜ竜安寺と知足なのか。

 たしかに竜安寺といえば、だれしも名物、石庭を思い浮かべる。竜安寺を訪ねて、その石庭に向かって対座しない者はいないだろう。私も竜安寺は何度も訪れ、その都度石庭の前で足を留める。しばらく腰をおろしもする。

 しかし私の本当の狙いはもう一つの名物の方にある。裏庭に据えてあるつくばい(手水鉢)である。それには禅の格言、「吾唯知足」(われ、ただ足ることを知る)の文言を図形にして刻んである。「知足」の心構えをうたい込んでいるのである。

 このつくばいは水戸の黄門様で知られる水戸光圀が寄進したものとされているが、正確にいえば、注釈が必要である。
 実は観光客が目にするこのつくばいは、本物ではない。本物は別途保管されていることになっている。私は一人の観光客として「本物がみたい」と申し込んだことがあるが、にべもなく断られた。「本当に本物は保管してあるのかな」とも想ったが、そこは信じることにしよう。

 ちょっと脱線したが、私には「竜安寺と石庭」よりも「竜安寺と吾唯知足」の方に関心がある。私にとっては竜安寺といえば、知足なのである。仏教経済学の別称として「知足の経済学」と名づけるのも、こうした想いとかかわっている。

 もう一度脇道にそれると、吾唯知足を図形にしてあしらった手水鉢は全国のあちこちの寺にある。中国地方のある寺で見つけて、住職に「だれの寄進によるものか」と聞いたら、「いやなに、町の石工屋さんに頼んでつくってもらった」という返事に「なんだ、江戸時代の作ではないのか」とがっかりした思い出がある。

 あまり舞台裏を探ることに貪欲にならないで、ここでも知足の精神が最上の策? ということらしい。飽くなき貪欲の先に待っているものは、やはり失望、ということなのか。


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08年サミットは広島・長崎で
「核廃絶」を世界に宣言する時

安原和雄
 2006年8月6日の広島平和宣言、同月9日の長崎平和宣言のキーワードは「核廃絶」の一語に尽きる。これは広島・長崎の「原爆の日」の平和記念式典でうたい上げられた悲願である。今こそ、「核廃絶」への道筋を具体的に構想するときではないか。
 私(安原)は、2年後の2008年夏に日本で開かれる予定の主要国サミット(首脳会議)を広島・長崎で開催し、「核廃絶」宣言を世界に向けて発信するまたとない機会にすべきだと考える。(06年8月9日掲載)

▽「広島平和宣言」― 核兵器の奴隷となるか、それとも「核廃絶」をめざすか

まず秋葉忠利・広島市長が06年8月6日の平和記念式典でうたい上げた「広島平和宣言」を紹介しよう。そのポイントは以下の通り。 

*悪魔に魅入られた核兵器の奴隷と化した国の数はいや増し、人類は今、すべての国が奴隷となるか、すべての国が自由となるかの岐路に立たされています。

*10年前、国際司法裁判所は、「核兵器の使用・威嚇は一般的に国際法に反する」との判断を下した上で、「すべての国家には、すべての局面において核軍縮につながる交渉を、誠実に行い完了させる義務がある」と述べています。

*核兵器は都市を壊滅させることを目的とした非人道的かつ非合法な兵器です。私たちの目的は、「核抑止論」そして「核の傘」の虚妄を暴き、人道的・合法的な立場から市民の生存権を守ることにあります。
 迷える羊たちを核兵器による呪(のろい)から解き放ち、世界に核兵器からの自由をもたらす責任は今や、私たち世界の市民と都市にあります。私たちが目覚め起(た)つ時が来たのです。

*日本国政府には、核保有国に対して「核兵器廃絶に向けた誠実な交渉義務を果せ」と迫る、世界的運動を展開するよう要請します。そのためにも世界に誇るべき平和憲法を遵守し、さらに高齢化した被爆者の実態に即した人間本位の温かい援護策を充実するよう求めます。

 以上のように秋葉広島市長は「核兵器廃絶をめざして私たちが目覚め起つ時が来た」と宣言した。広島平和宣言のキーワードはまぎれもなく「核兵器廃絶」である。

▽広島のこども代表「平和への誓い」― 命を大切にし、精一杯生きる

 一方、こども代表として新谷望君(広島市立南観音小学校6年)と日米両国籍をもつスミス・アンジェリアさん(広島市立楽々園小学校6年)が「平和への誓い」を読み上げた。その骨子は次の通り。

*私たちは事件(注)を通して一つの命の重みを知りました。
この時奪われた命も、原子爆弾や戦争で奪われた多くの命も同じ命です。
一つの命について考えることは、多くの命について考えることにつながります。命は自分のものだけでなく、家族のものであり、その人を必要としている人のものでもあるのです。
(注)2005年11月、広島市で小学1年の少女(当時7歳)が下校途中に殺害された事件のこと。

*「平和」とは一体何でしょうか。
争いや戦争がないこと。いじめや暴力、犯罪、貧困、飢餓がないこと。
安心して学校へ行くこと、勉強すること、遊ぶこと、食べること。
私たちが当たり前のように過ごしているこうした日常も「平和」なのです。

*「平和」であるために、今必要なことは、自分の考えを伝えること、相手の考えを受け入れること、つまりお互いの心を開くことです。
心を開けば対話も生まれ、対話があれば争いも起きないはずです。

*自分だけでなく他の人のことを思いやること、みんなと仲良くすることも「平和」のためにできることです。
私たちは、命を大切にし、精一杯生きることを誓います。
私たちヒロシマのこどもは世界中の国々や人々との間の架け橋となり、「平和」の扉を開くために一歩一歩、歩み続けていくことを誓います。

 以上の「平和の誓い」は命の大切さを中心軸にした日常生活そのものの多様な平和の姿を描いている。こうして「平和=非戦」、すなわち平和を戦争がない状態に限定する従来の狭い平和観をあっという間に乗り越えている。
 大人たちの多くが狭い平和観にこだわっている間に、柔らかい思考のできるこどもたちが日常生活を素直に見つめて、その中から「平和=非戦、命、生活」という広い平和観を披露したところが素晴らしい。

▽「長崎平和宣言」 ― 核兵器全廃に向けて核軍縮と核不拡散に取り組むとき

 伊藤一長・長崎市長が8月9日の平和記念式典で述べた「長崎平和宣言」の骨子は次の通り。

*核保有国は、核軍縮に真摯に取り組もうとせず、なかでも米国はインドの核兵器開発を黙認して、原子力技術の協力体制を築きつつあります。
 一方で、核兵器保有を宣言した北朝鮮は、我が国をはじめ世界の平和と安全を脅かしています。すでに保有しているパキスタン、イスラエルや、そしてイランの核開発疑惑など、世界の核不拡散体制は崩壊の危機に直面しています。

*核兵器の威力に頼ろうとする国々は、今こそ被爆者をはじめ、平和を願う人々の声に謙虚に耳を傾け、核兵器の全廃に向けて、核軍縮と核不拡散に誠実に取り組むべきです。
核兵器は科学者の協力なしには開発できません。科学者は、自分の国のためだけではなく、人類全体の運命と自らの責任を自覚して、核兵器の開発を拒むべきです。

*繰り返して日本政府に訴えます。
被爆国の政府として、憲法の平和理念を守り、非核三原則の法制化と北東アジアの非核兵器地帯化に取り組んでください。

 以上の長崎平和宣言でも広島平和宣言と同様に「核廃絶」が強調されている。

▽小泉首相あいさつ ― しらじらしい「平和憲法順守」、「核廃絶」発言

 広島・長崎の平和宣言と子ども代表の「平和の誓い」に対し、双方の平和記念式典に参列した小泉純一郎首相はどういう平和観で対応しただろうか。首相あいさつの中で次のように述べた。

「犠牲者の御霊と市民の皆様の前で、今後とも、憲法の平和条項を順守し、非核三原則を堅持し、核兵器の廃絶と恒久平和の実現に向けて、国際社会の先頭に立ち続けることをお誓い申し上げます」と。

 その言やよし、である。しかし残念ながらその内容は真実から遠く離れている。
 まず「憲法の平和条項の順守」とは誠実な答えではない。自民党は新憲法草案で、平和憲法の理念について次の2点を改悪することを公表している。
*前文に盛り込まれている平和生存権を削除する。
*9条2項(軍備及び交戦権の否認)を削除し、自衛軍の保持を明記する。

 この改悪によって平和条項がどのように順守できるというのだろうか。
 米国に代表される戦争勢力の唱える「平和」とは、しばしば「平和を守るため」を口実に軍事力を行使することを意味するが、そういう戦争のための平和が念頭にあるのか。
 それとも改悪案は自民党案であり、政府案ではないといいたいのか。小泉首相は同時に自民党総裁でもあることをお忘れではあるまい。

 次に「核廃絶に向けて先頭に立ち続ける」とは具体的に何を意味するのか。
 日米安保=軍事同盟下で米国のいわゆる核抑止力に依存しているのが、わが国防衛政策の基本原則である。いいかえれば、口先では核廃絶を唱えながら、米国の「核の傘」を容認する立場を崩さず、憲法の平和条項も、非核三原則(核兵器をつくらず、持たず、持ち込ませず―の三原則)も事実上ないがしろにしているのが現実である。
 これでは内容空疎にしてしらじらしい「平和憲法順守」、「核廃絶」発言という以外に適切な表現を知らない。

▽大手6紙の社説(見出し)で核廃絶をうたったのは毎日新聞のみ

 「広島・原爆の日」の平和記念式典と広島平和宣言について翌日(8月7日付)の大手6紙はどのように伝えたかをみよう。いずれも一面で次のような見出しで報道した。
朝日新聞=核廃絶 市民起つ時 被爆61年広島市長平和宣言
毎日新聞=核廃絶 目覚め起つ時 広島平和宣言 原爆から61年
読売新聞=核廃絶 祈る広島 61回目原爆忌
日経新聞=核兵器廃絶訴え 35カ国の代表参列 広島61回目原爆の日
産経新聞=「世界との懸け橋に」 広島原爆忌 米国籍少女が「平和への誓い」
東京新聞=核保有国に軍縮交渉訴え 広島被爆61年 平和記念式典

 産経を除いて各紙の報道は「核廃絶」あるいは「核軍縮」を基調に据えている。広島平和宣言を素直に読めば、このような報道になるのは当然のことである。ところが各紙の社説・主張となると、様相は一変する。

 大手6紙の社説の見出しは以下の通りである。
朝日新聞=二重被爆が示すむごさ 広島と長崎(06年8月6日付)
毎日新聞=原爆の日 核兵器廃絶へ新たな一歩を(同日付)
読売新聞=原爆忌 『北』の核の脅威を見ない平和宣言(同日付)
日経新聞=日本は核拡散防止へ主導的役割果たせ(同日付)
東京新聞=原爆忌に考える 伝えたいものがある(同日付)
産経新聞=広島平和宣言 「北の核」への警告がない(8月7日付)

 「核兵器廃絶」を見出しで明確にうたったのは、毎日新聞だけである。
 一方、読売、産経に至っては「北の核の脅威」、つまり北朝鮮の核兵器開発や長距離(弾道弾)ミサイルの発射実験による「脅威」を強調し、広島平和宣言がそれに言及していないのは不可解であり、北朝鮮を戒めるべきだ、と主張している。
 いうまでもなく北朝鮮の核兵器開発や長距離ミサイルの発射実験を容認することはできない。しかし今ここで再確認し、強調すべきことは、世界からすべての核兵器を一掃する「核廃絶」という目標をゆるがせにしてはならないという一点である。平和をたしかなものにつくっていくためにはこれこそが原点である。

▽核廃絶めざして広島・長崎で主要国サミットの開催を

核廃絶は、その道程は険しく困難であるだろうが、決して不可能ではない。核廃絶を実現するためには何が必要だろうか。
 小泉首相が広島・長崎の平和式典で折角「核廃絶に向けて先頭に立ち続ける」と所信を表明したのだから、首相後継者にはその心情を活かしてもらいたい。
 具体策として私は、08年に日本が議長国として主宰する主要国サミット(首脳会議)を原爆の被災地、広島・長崎で開催し、「核廃絶」宣言を世界に向かって発信することを提案したい。そこから核廃絶への大きな一歩を踏み出すことができれば、これこそ日本の巨大な国際貢献として歴史に遺る評価を受けるだろう。

 ただ核廃絶実現のためには、主要国サミットの正式メンバーに核保有国、中国を新たに加えることが必要ではないか。
 06年7月ロシアが議長国となったサンクトペテルブルグ・サミットの正式参加国はロシア、日、米、英、独、仏、イタリア、カナダの8カ国である。経済大国へとのし上がりつつある中国は招待国としてこのサミットに参加したが、日本サミットで核廃絶を議題にするからには核保有国、中国を正式メンバーにする必要がある。

▽核不拡散よりも核大国の核軍縮を優先すること

 核廃絶に向けて歩み出すためには少なくとも以下の3つの条件が必要である。
1)核不拡散よりも核軍縮を最優先にすること
 ロシアでのサミットで採択された「核不拡散に関する声明」が「大量破壊兵器拡散は国際テロとともに国際平和と安全への著しい脅威となっている」と指摘していることからも分かるように、サミットの中心テーマは核拡散の防止にあった。

 しかし核5大国(米、ロシア、英、仏、中国)の核軍縮こそ優先すべきである。自国の大量核保有による身勝手な「核覇権主義」に固執したまま、核大国以外への核拡散を非難するのは公平とはいえない。
 核不拡散条約(NPT)は、その名称から誤解されやすいが、核不拡散だけでなく、核保有国の核軍縮の重要性もうたっていることを忘れてはならない。

2)米国のいわゆる二重基準を是正すること
 最大の核保有国、米国は北朝鮮、イランの核問題には「悪の枢軸」として、敵視する一方、イスラエル、インドの核には寛容に対処するという、いわゆる二重基準を止めることが不可欠である。この二重基準に米国が執着する限り、核不拡散も核廃絶も実現へ向かう可能性はないだろう。

3)日米安保=軍事同盟を解体し、非核地帯の拡大に努力すること
 核抑止力に依存する日米安保=軍事同盟が存在する限り、アジアにおける核廃絶は困難であろう。
 日米安保=軍事同盟のお陰で平和が保たれていると考えるのは錯覚である。例えば米軍によるイラク攻撃のための有力な出撃基地として機能しているのが、実は日米安保=軍事同盟下での在日米軍基地である。いいかえれば日米安保=軍事同盟はアジアに限らず中東までも含む広大な地域の平和への脅威となっている。そういう日米安保=軍事同盟は長期展望として解体するほかない。

 一方、東南アジア諸国連合(ASEAN)加盟の10カ国(ブルネイ、カンボジア、インドネシア、ラオス、マレーシア、ミャンマー、フィリピン、シンガポール、タイ、ベトナム)は、すでに1997年に東南アジア非核兵器地帯条約に調印している。
 日本が核廃絶に本気で取り組むためには、この非核地帯条約に日本も加わり、非核地帯を拡大していくことが求められる。
 これは長崎平和宣言がうたっている「北東アジアの非核兵器地帯化」構想に答える道でもある。


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自由貿易協定は憲法違反だ!
非武装・コスタリカからの訴え

 安原和雄
 「コスタリカ平和の会」(事務局長=弁護士・大山勇一氏、会の正式名称は「コスタリカの人々と手をたずさえて平和をめざす会」)は06年7月29、30の両日、小諸千曲川ほとりの温泉宿で、非武装で知られるコスタリカ(中米)に学ぶ「平和勉強会」を開いた。その主役はコスタリカから来日した大学院生の若者で、彼は米国がコスタリカに迫っている「中米自由貿易協定の批准」は憲法違反だとして6月、コスタリカ最高裁の憲法法廷に訴えた。
 なぜ憲法違反なのか。「中米自由貿易協定はコスタリカの平和生存権を侵害する」というのが彼の主張である。以下は私(安原)も参加した「平和勉強会」の報告である。(06年8月1日掲載、同日インターネット新聞「日刊ベリタ」に転載)

 まず「中米自由貿易協定の批准は憲法違反」と訴える大学院生のスピーチの内容(要旨)を以下に紹介したい。
〈話し手〉はロベルト・サモラ君(25歳)=現在、コスタリカ大学法科大学院生
 彼はもう一つの次のような憲法違反の判決を勝ち取った実績がある。
 ―米国のイラク攻撃(03年3月開始)に賛成する「有志連合」にコスタリカ政府が名を連ねたとき、彼はそれを憲法違反としてコスタリカ最高裁の憲法法廷に訴えた。これに対し、憲法法廷は04年9月、憲法違反であるとの判決を出し、有志連合のリストからコスタリカの国名を削除するようコスタリカ政府に求め、その通りになった。

〈通訳(スペイン語)兼解説〉は竹村 卓氏=富山大学人文学部教授、コスタリカ問題の専門家

▽中米自由貿易協定の狙いは「米国の覇権の維持」

 米国との自由貿易協定、いいかえれば米国が追求している自由貿易はラテンアメリカへのヘゲモニー(覇権)を米国が維持しよういう狙いがある。歴史的にいえば、米国は軍事的介入を行ってきたが、いまでは左翼政権もいくつかの国で登場しており、軍事的介入ができなくなった。そこで米国は通商貿易の形でラテンアメリカへの支配を行おうとしている。

 コスタリカでは水力発電、電信電話、医療保健などは公営である。そのお陰で電力・水道料金などは安い価格で供給されている。しかし他の中米諸国は米国の要請で民営化を受け入れ、安い価格でのサービスがむずかしくなっている。米国の民営化路線は、それによって儲けようという企みといえる。民営化という新自由主義の経験は明らかにネガティブなものである。自由貿易協定という名称は〈自由〉を銘打ってはいるが、コスタリカの人々に自由をもたらすものではない。

 米国がコスタリカに協定の批准を迫っているのは、米国にとってコスタリカが対中米政策の中でカギとなる国だからである。なぜカギになるかというと、コスタリカは社会的、経済的、かつ民主主義の点でも中米諸国の中で発展している国だからである。

〈安原のコメント〉
 目下、コスタリカが批准するかどうかが問題になっている中米自由貿易協定(CAFTA)の対象国はグアテマラ、ホンジュラス、エルサルバドル、ニカラグア、コスタリカの中米5カ国とカリブ海のドミニカを含める6カ国。このうちコスタリカを除く5カ国はすでに批准し、発効している。
 コスタリカは04年2月、協定に調印はしたが、いまなお批准していないため、協定は発効していない。ところが、06年2月の大統領選で僅差で当選したアリアス氏は新自由主義、自由貿易を容認する姿勢を打ち出している。だから批准、発効を阻止するためにサモラ君が憲法違反の訴えを起こした。

▽なぜ憲法違反なのか―コスタリカの平和生存権を侵害する

 中米自由貿易協定がなぜコスタリカの憲法違反といえるのか。
 第一はコスタリカの平和生存権を侵害することになるからである。
 同協定の付属文書に「小型武器(ピストルなど)、ミサイル搭載可能な戦車、装甲車、その他の武器の輸出入・取引は自由」という趣旨が記されている。文中の「その他の武器」という文言がくせもので、核兵器も含めて取引が自由、ということにもなりかねない。
 このように様々な武器の取引が自由になると、平和生存権を侵害することになる。コスタリカ憲法に平和生存権という文言が記されているわけではないが、これはコスタリカの人々が歴史的に努力して獲得してきたものである。

 上述した「米国のイラク攻撃に賛成する有志連合にコスタリカが加わるのは、憲法違反」という最高裁の判決文にも、その理由として「有志連合に加わるのは平和生存権の侵害」という趣旨が書かれている。憲法条文に明記されてはいないが、平和生存権は実在する権利と理解することができる。

〈安原のコメント〉
 自由貿易協定は目下、米国、日本を中心に関係各国との間で結ばれつつあるが、これを「平和生存権の侵害」という視点から憲法違反として最高裁の判断を求めるケースは珍しいのではないか。非武装で平和を追求する国として知られるコスタリカならではの訴えといえよう。
 なおコスタリカ憲法21条は「生命の不可侵性」を宣言しており、いのちを何よりも尊重する国柄である。

 第二の憲法違反の理由は、国際法上の「禁反言」(前言と矛盾する言動を禁じること)の規定に反するからである。
 現大統領のアリアス氏が主宰する「アリアス財団」がまとまた「小国での小火器(小型武器)利用の影響」に関する研究報告書は、「自由な取引によって小火器が出回れば、被害をもたらし、つまりは平和を脅かす」と結論づけている。これは大量の小型兵器は平和生存権の侵害を意味することをアリアス氏自身が認めたも同然である。

 しかも同大統領は以前「小火器の取引は禁止すべきであり、その取引は自由貿易には含まれない」と主張していた。ところが06年2月大統領に当選すると、その前言をひるがえす発言を行っている。これは国際法上の「禁反言」条項に反する。コスタリカ憲法7条は国際法上の規定を尊重すると定めているのだから、アリアス大統領の発言(反言)は憲法7条に反するだろう。

〈安原のコメント〉
 アリアス氏は、現在2回目の大統領職にあり、初回の在任中の1987年、非武装・永世・積極中立宣言(1983年)を基盤にした積極的な対話平和外交、中米和平協定調印などの功績でノーベル平和賞を受賞した。そのアリアス大統領が自身の前言をひるがえすような矛盾した言動をとっていることに法科大学院生の若者が「正義の怒り」を発したと評価できるだろう。

▽コスタリカ、日本ともに岐路に立つ平和憲法

 サモラ君が憲法違反の訴えを起こしたのは、以上のような理由からである。彼は再び憲法違反の判決を勝ち取ることができるかどうか、その行方は今のところ未知数である。
サモラ君は次のようにも指摘した。
 「中米自由貿易協定は、その名称から受ける印象と違って、貿易・経済に限らない性質のもので、米国の真の狙いは、コスタリカの平和を破壊することにあるのではないか。それが本当の目標ではないか」と。

 これには同感である。私は次のようにも読みとれるのではないかと思う。
 「米国の次の目標は、北朝鮮というよりもむしろコスタリカであり、その意図はコスタリカの平和路線の破壊にある。現在ラテンアメリカでは反米志向の左派政権が次々と誕生している。それに対する米国の反撃が始まった。その突破口と位置づけられているのがコスタリカではないか」と。

 中米のコスタリカは1949年の憲法改正によって軍隊を廃止し、警察力によって国内治安と沿岸警備に当たっている。コスタリカの国是は、①軍隊の廃止、②自然環境の保全、③平和・人権教育の重視―の三本柱で、軍隊廃止で浮いた財政資金を教育、医療などに回している。
 コスタリカは軍隊を廃止したまま、今日に至っており、ここが平和憲法9条で非武装(戦力の不保持、交戦権の否認)をうたっているにもかかわらず、日米安保=軍事同盟下で今日、強大な軍事力をもつに至った日本との大きな違いである。そういうコスタリカの平和憲法が自由貿易協定の批准・発効によって風穴を開けられるかどうかの岐路に立っているともいえる。

 一方、東アジアに位置する日本も、平和憲法9条の改悪によって平和理念を破棄し、「戦争への道」に公然と進むかどうかの岐路に立たされている。
 その裏で糸を引いているのがコスタリカでも、日本でもほかならぬ米国であるところが共通している。

▽葉っぱや虫たちも、そして自然も平和を求めている

 小諸千曲川を眺望できる温泉宿「中棚荘」の露天風呂に浸ったとき、目に付いたのが真っ白い紙片に書かれた「お願い」と題する次の文言である。

当館の露天風呂は
葉っぱや虫たちも大好きです
時々入りに来ています
お気になるようでしたら
逃がしてあげて下さい

 何気ない文章にもみえるが、私はそこに平和へのメッセージを読みとった。ここには葉っぱや虫たち、いいかえれば自然のいのちを尊重するこころ、気遣いを感じさせてくれる。

 この温泉宿は、実は「千曲川旅情の歌」などで知られる自然主義の代表作家、島崎藤村(1872~1943年)が定宿としていた。藤村が好んで使っていた部屋がそのまま残っており、手の届くほどの距離に千曲川を望むことができる。そこには自然が限りなく広がり、いのちがいっぱい息づいていた。それが平和であった。藤村はそう感じとったにちがいない。

▽平和観の転換を―狭い〈平和=非戦〉から広い〈平和=非暴力〉へ

 さて今日、平和はどこにあるのか。
 平和とは単に非戦の状態を指しているだけではない。〈平和=非戦〉という平和観は狭い平和観である。今日、かりに戦争がなくても、自然や人間のいのちが無造作に踏みにじられるか、軽視されるているのが日本の現実である。

 親殺し・子殺しなどの凶悪犯罪、自殺、過労死、交通事故などさまざまな事故死、生存権の否定につながる失業、自由・人権の無視、人間性の疎外、さらに浪費経済がもたらす資源エネルギーの収奪、地球環境の汚染・破壊、そのうえコスタリカの例のように自由の名の下に平和生存権を脅かす中米自由貿易協定―これらはいずれも21世紀型の多様な暴力である。
 もちろん戦争は究極の国家暴力であるが、それ以外の多様な暴力が続くかぎり、平和とはいえない。いいかえれば、〈平和=非暴力〉という広い平和観が求められる時代となった。
 平和生存権は人間に限らない。葉っぱや虫たち、そして自然全体も平和生存権をもっているという認識が必要である。

 平和をこのように広くとらえれば、平和は守るものではなく、新たにつくっていくものであることが理解できる。なぜならかりに戦争はなくとも、多様な暴力は世界規模で日常生活の中に実在しているからである。「平和=非戦を守る」という感覚の人が少なくないが、この感覚は戦争さえなければ、平和―ということになり、それは戦争以外の多様な暴力を容認する結果となりかねない。
 こうして日常的な多様な暴力に慣らされると、やがて究極かつ最大の暴力である戦争を拒否する感覚も鈍くなるだろう。

 戦争を含む多様な暴力を拒否し、現状変革によって非暴力の状態をつくっていく努力を重ねることこそが平和創造への道である。このことを考えさせられる小諸千曲川ほとりでの「平和勉強会」であった。


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