「もっともっと欲しい」の貪欲の経済から、「足るを知る」知足の経済へ。さらにいのちを尊重する「持続の経済」へ。日本は幸せをとりもどすことができるでしょうか、考え、提言し、みなさんと語り合いたいと思います。(京都・龍安寺の石庭)
スポンサーサイト
上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。
--/--/--(--) --:--:--| スポンサー広告| トラックバック(-) コメント(-)
足利知足塾の近況報告(2)
 植物の命を守るしくみ

 安原和雄
 足利知足塾(塾長・柿澤さな江さん)が発足(2005年7月、栃木県足利市大岩町428の蕎麦(そば)屋さん「だいかいど大海戸」=店主・柿澤一雄さん=にて発足会を開催)してからちょうど1年経った。
 同塾会報「野の花通信」最新号(06年6月27日号)を手がかりに同塾(顧問・安原)の近況を報告したい。06年4月の第1回近況報告に次いで今回は2回目。(06年6月30日掲載)

▽ 植物のいのちを考える
 「野の花通信」最新号に「植物のいのちを考える」と題して、次のようなエッセイが載っている。以下に全文を転載する。

 今年の2月に母の形見の蝋梅と義父の形見の藤を移植しました。どちらも今まで住んでいた家の庭で10年以上生きてきた木なので、相当大きくなっていました。前の年に根を切って移植の準備をしておきました。果たして、新しい土地で再び命をつなぐことができるでしょうか?

 蝋梅は、おかげさまで春になると数枚の葉をつけ、花も数輪咲かせました。今は、葉数も増え、元気になってきました。来年はきっとすばらしい花をつけてくれることと思います。

 それに引きかえ、藤は5月になっても葉を1枚もつけませんでした。幹に傷をつけると緑色をしているので、まだ枯れていないことは確かです。いつ葉が出てくるのだろうと気になっていました。6月22日の朝、ふと藤の根元に目をやると紫色の花房がひとつありました。そして小さな葉が数枚。割り箸のような小さな枝についていたのでした。体全体にまで水分や栄養を送ることができず、今はここまでと1房の花をつけた藤の命に、植物の命を守るしくみを教えてもらったような気がしました。

▽ いのちの尊重と仏教経済学
 以上のエッセイのうち、特に締めくくりの「体全体にまで水分や栄養を送ることができず、今はここまでと1房の花をつけた藤の命に、植物の命を守るしくみを教えてもらったような気がしました」は「なるほど」と身体でうなずかされるような感慨を覚える。

 私(安原)がかねてから唱えてきた仏教経済学の核心となっているのが「いのちの尊重」で、このいのちは人間のいのちに限らない。動植物も含めて、この世の生きとし生けるものすべてのいのちを指している。
 それは「抽象的ないのち」でも、「知識としてのいのち」でもなく、日常の自然と暮らしの中に息づいていて、「語りかけてくるいのち」であることに、このエッセイを読んで気づかされる。
 そういういのちを実感できるのが本来の「日本人の情緒」ではないだろうか。21世紀の新しい経済学(思想)―仏教経済学が重視する「いのち」にひとつ厚味が加わったような気分になっている。

▽足るを知る生活の実践
 塾長の柿澤さんは日頃、「知足塾では勉強会も大事だが、それだけではなく、知足、すなわち足るを知る生活を実践してゆきたい。足るを知る生活とは、自然から与えられるもので十分、と受け止め、感謝することではないかと思う」と語っている。
 私流に翻訳すれば、「自然からの恵みは豊かであり、それ以上のものを貪欲に求めないこと―それが足るを知る生活の実践」と理解したい。

 柿澤さんは、そば屋と並んで、自宅周辺の自然を生かした農園・「柿の実農園」を経営しており、鶏などいのちを育てることに取り組んでいる。こうして農園が、知足を暮らしの中で実践し、生かす舞台にもなっている。

▽スローフードと蛍の鑑賞
 「野の花通信」最新号によると、知足塾の活動は野菜作りから自然の中でのスケッチ、さらにキャンドルナイトなどと多彩である。
 キャンドルナイトはキャンドル(ろうそく)の手作りから始まる。6月某日のこと、近隣の益子、佐野、太田、前橋などさまざまな地域からいろいろな人々が駆けつけた。広い自然の庭に散在している岩の上にろうそくを灯し、夕食は、粟とキビの入ったご飯でつくったおにぎりを味わった。歌の演奏もあり、加えて足利の夏の風物詩、飛び交う蛍の鑑賞となった。

 それに「中学1年生のユウヤ君が来年のイベントのあり方について提案してくれた」という若者からの頼もしいプレゼントまで付いた。私は残念ながら参加できなかったが、スローフードとともに知足を実践し、簡素の中に充実感を満喫するひとときではなかったかと想像をたくましくしている。
 「今年参加できなかった皆さん、来年はぜひお越し下さい」とは、塾長の呼びかけであり、期待でもある。

 今後、このような知足塾が全国のあちこちに誕生し、発展してゆくことを願っている。


(感想、提案歓迎! 下記の「コメント」をクリックして、自由に書き込んで下さい。実名ではなく、仮名でも結構です)
スポンサーサイト
「国民総幸福」の国・ブータン
〈折々のつぶやき〉18

 安原和雄
 このごろ想うこと、感じたこと、ささやかに実践していること―などを気の向くままに記していきたい。〈折々のつぶやき〉18回目。(06年6月25日掲載)

 毎日新聞の長期連載企画「縦並び社会」はなかなかの力作揃いである。特に第4部・海外の現場から⑧(2006年6月23日付)に注目した。題して〈「国民総幸福」の国〉である。この「幸せ」を売り物にしている国は、ヒマラヤ山脈東部に位置し、九州ほどの広さに約70万人が住み、農林業、電力を主産業とする小国・ブータン王国である。

 まず興味深い事実、データを以下にいくつか紹介したい。
*ブータンの首都で旅行代理店に勤務するDさん(31歳、家庭は妻と子ども2人)の月収は日本円に換算して約2万5000円の中流家庭。国民の平均年収は約8万3600円で、日本の約50分の1にすぎない。
*貧富の差はあるが、日本のようなホームレスはいない。
*医療費は全員無料で、国王も貧しい人も同じ医療を受けられる。ICU(集中治療室)を備える国立病院をはじめ全国に2000の医療機関がある。
*教育では日本の高校に相当する学校を卒業するまで学費は無料。
*政府の05年の調査では97%の人が「とても幸せ」「幸せ」と答えた。

 国、社会として目指している目標がこれまたユニークである。30年前、現国王がGNH(Gross National Happiness =国民総幸福)を国の新しい目標に掲げた。日本などのようなGNP(Gross National Product=国民総生産)で示される経済成長主義よりも「国民の幸せ」を重視し、その実現を追求してきた。その2本柱が教育と医療の無料制度である。

 なるほど所得水準は高いが、拝金主義(拝金教という一種の宗教ともいえる)が横行する中で国民の多くが忙しげに立ち回り、サラリーマンの大半は仕事上のストレスを感じている。失業者も多く、自殺者は年間3万人を超え、凶悪犯罪が日常茶飯事で、ゆとり・安心・安全とは無縁の社会に落ちぶれている。消費税引き上げ論もにぎやかであり、医療費など国民の負担はいよいよ重くなるばかりという国、その一方で、改憲派は平和共存権をうたう憲法前文と、戦力不保持と交戦権否認の憲法9条を改悪し、米国の世界規模での武力行使に加担しようと目論んでいる国―そういう大国・日本と違って、小国・ブータンはいかにも牧歌的風景を連想させる。

 しかしそのブータンも格差と変化の波に洗われつつある。その背景となっているのが急激なグローバリゼーション、情報化そして民主化であるらしい。

 国是の「GNH=国民総幸福」はどこへ行くのか? 腰砕けになるのだろうか。そうではないらしい。その答えは、「GNHの追求」を国の責務として、医療と教育の無料制度は今後も堅持すること―これがこの小国の決意である。

 「カネ、カネ」の経済大国・日本と「幸せ、幸せ」の小国・ブータン―あなたならどちらを選ぶか? やはりカネ? それとも幸せ? いや、カネも幸せも、というのは貪欲(どんよく)というものであり、それでは神仏による罰(ばち)があたる。欲張っては身の破滅を招く。

 06年9月で任期いっぱいとなる小泉政権の次の新しい首相選びは、実は我らがニッポン国の舵取りをどうするか、その選択と無関係ではない。深く深くかかわっている。海外の現場からの記者レポートを読みながら、私はそう考える。


(寸評、提案を歓迎! 下記の「コメント」をクリックして、自由に書き込んで下さい。実名入りでなくて結構です)
安原和雄著『平和をつくる構想』(新刊)
小泉改革とは異質の路線を選ぶとき

安原和雄
この記事は私自身の新著『平和をつくる構想―石橋湛山の小日本主義に学ぶ』(2006年6月中旬、澤田出版刊)の自己PRとさせていただく。

平和をつくる構想―石橋湛山の小日本主義に学ぶ 平和をつくる構想―石橋湛山の小日本主義に学ぶ
安原 和雄 (2006/06)
澤田出版

 (↑表紙写真をクリックしていただければ、amazon.co.jpの該当ページにジャンプします)

新著は小泉改革なるものへの批判を踏まえて、日本が選択すべきもう一つの路線を提案している。脱「石油浪費経済」のすすめ、日米安保体制=日米軍事同盟の解体、自衛隊の「非武装・地球救援隊」への全面改組―などが提案の具体例である。しかも世界最大のテロリスト集団はアメリカ国家権力であり、そのアメリカと日本との軍事同盟は世界の中で孤立への道を進みつつあるという視点を打ち出している点に特色がある。

以下に新著の〈はじめに〉、〈目次〉の主な項目、〈あとがき〉、さらに〈澤田出版〉の電話番号などを紹介したい。(06年7月6日更新)

◇〈はじめに〉

 小泉純一郎内閣が誕生(二〇〇一年四月)した直後に出版された中曽根康弘(元首相)、石原慎太郎(東京都知事)共著『永遠なれ、日本』の中で中曽根は小泉首相について次のように述べている。
 「小泉総理のしようとしていることは、いままで私がいってきたことの同一路線にある。憲法改正、首相公選、集団的自衛権行使の容認、靖国神社の公式参拝など私がいってきたことをすべて実現しようとしているのだから、こんなにありがたい人はいない。だからぜひ応援しようと思っている」

 これを読んで私は、当時華々しく登場してきた「小泉改革」なるものに危険な臭いを察知した。大方の予想を超えて政権の座を獲得した小泉首相は「自民党をぶっ壊す」などと自民党員らしからぬ言辞を弄していたこともあり、「小泉改革」にこれまでとは異なる改革路線を期待した人が多かった。なぜなのか。有り体にいえば、小泉改革の内実、真相、もう一歩進めていえば、その危険な意図が当時は必ずしも理解されていなかったからである。
 中曽根は同じ著書の中でこうも言っている。「私は戦後政治の総決算を唱えてやったが、小泉総理は第二次総決算をやって、ぜひ私の後を継いでもらいたい。(中略)確かに小泉総理と私の考え方は一致している。たぶん私と小泉総理さらに石原さんも同じ〈政治のDNA〉を持っているのではないかと思う」と。さらに「小泉総理には二十一世紀の日本の軌道をつくっていく捨て石になって欲しい」と激励し、大きな期待をかけもした。
 「同じ政治のDNA」とはいかにも中曽根流の表現だが、これに何を託しているのか。また小泉首相に期待する「二十一世紀の日本の軌道」とは何を意味しているのか。DNAとはいうまでもなく遺伝子本体のことだから、同じ政治のDNAとは、政治思想、政治に取り組む姿勢が共通していることを指している。問題はどういう内容の「日本の軌道」を設定しようとするのかである。一九八〇年代の中曽根政権時代(八二年~八七年)を振り返ってみれば、そこに答えを発見することができる。

 それは新保守主義であり、その一つは自由化・民営化路線である。これは弱肉強食の競争を推し進める自由市場原理主義の導入でもある。もう一つは軍事力増強路線である。これは日米軍事同盟強化を意味してもいる。小泉改革なるものは、この中曽根流新保守主義路線を継承発展させようとする目論見である。特に中曽根が期待したのは後者の日米軍事同盟強化の路線であった。冒頭に紹介した『永遠なれ、日本』はこのことをズバリ明示していた。

 こういう本質をもつ小泉改革がめざしたものは、一口にいえば小泉流新保守主義であり、悪しき大国主義路線であり、なりふり構わない対米追従路線である。小泉首相自身は二〇〇六年九月の自民党総裁任期終了とともに退陣するが、その自民党後継者が推進する路線も小泉路線をほぼ継承することになるだろう。
 その路線が平和憲法の改悪によって平和国家としての先導的役割を投げ捨てて、軍事国家としての性格を強めていくことは、二十一世紀における日本の路線選択として決して望ましいこととはいえない。新保守主義、大国主義、対米追随路線は暴力と戦争への道であり、道理に反し、世界から孤立し、かつての富国強兵の日本帝国が滅びたように再び亡国の運命をたどるほかない道である。

 それでは望ましい日本の路線選択はなにか。悪しき大国主義、「日米運命共同体」路線が挫折を余儀なくされるとすれば、それとは一八〇度異質のもう一つの路線を選択する以外に道はない。それは二十一世紀版小日本主義のすすめである。元首相で、ジャーナリストの大先達でもある石橋湛山は戦前から戦後にかけて小日本主義を唱えたことで知られる。その小日本主義の理念と精神を今日の時代にふさわしく継承発展させることが必要不可欠である。

 その二十一世紀版小日本主義は、同時に二十一世紀の新たな「平和をつくる」ための構想であり、その理念は「非暴力」であり、「簡素な経済」(=脱「石油浪費経済」)である。これは従来の暴力(=戦争、資源浪費、不公正、不平等など)、浪費経済、地球環境の汚染・破壊型へのアンチ・テーゼであり、地球と人類にとって和解と共生への道である。
 武村正義・元蔵相(元「新党さきがけ」代表)は、次のような心境を吐露している。
 「明治からずっと(日本は)大国主義でやってきた。軍事大国、そして経済大国として。でも、人口減となったいま、大国主義よサヨウナラ、小さくてもキラリと光る国へカジを切らないと。いよいよ真剣にそう思う」(〇六年三月十七日付『毎日新聞』・「特集 WORLD」)と。

 私自身、こういう心境に近い距離に立っているように想っている。 
 本書は、いわゆる小泉改革路線への批判から出発し、石橋湛山の小日本主義論に学びながら、平和(=非暴力)の世界をどうつくっていくか、その構想を試みた作品で、これからの日本の針路を見定めるうえで、一つの提言としてお役に立つことができれば、と心から願っている。(文中敬称略)
二〇〇六年 陽春    安原 和雄

◇〈目 次〉の主な項目

第一章 アメリカ「帝国」に未来はない
 一 『大国の興亡』から
 二 『帝国以後ーアメリカ・システムの崩壊』から
 三 『資本の帝国』から
 四 世界最大のテロリストは誰か?

第二章 小国主義こそ人類、地球の救世主
 一 軍隊を捨てた小国コスタリカ
 二 近代日本と小国主義の系譜
  
第三章 石橋湛山と小日本主義
 一 戦前編
 二 戦後編

第四章 二十一世紀版小日本主義と平和の創造
 一 反大国主義路線のすすめ
 二 「持続的発展」のすすめ
 三 「簡素な経済」のすすめ
 四 安保解体と「東アジア平和同盟」のすすめ

第五章 平和貢献と仏教のすすめ
 一 いのちの尊重と非暴力のすすめ
 二 知足、共生、中道と平和路線
 三 空観に立つ構造変革のすすめ
 四 「いのち尊重」の仏教経済学のすすめ

第六章 自衛隊を改組し、非武装「地球救援隊」をつくろう
 一 なぜ非武装の地球救援隊なのか
 二 地球救援隊構想の概要
 三 仏教と憲法の平和思想を生かして
 四 宮沢賢治の慈悲と利他の心

◇〈あとがき〉 

 本書には多くの日本人にとって目下、常識と思われていることとは異質の発想、視点、構想が盛り込まれている。それは次の八つの柱からなっている。
(1)アメリカ帝国は崩壊過程に入っており、世界で孤立を深めつつあること
(2)世界最大のテロリスト集団は軍産複合体を含むアメリカ国家権力であること
(3)日米安保体制=日米軍事同盟は、日本の安全保障に寄与するどころか、逆に世界にとって脅威となってきており、その解体が必要であること
(4)「平和を守る」という従来の平和観を超えて、「平和をつくる」という二十一世紀版平和観に立つこと
(5)大国主義を排し、小日本主義をすすめるときであり、軍隊を保持しない中米の小国コスタリカの非武装中立平和主義に学ぶこと
(6)石油浪費経済は暴力=戦争へと走りやすい傾向があり、簡素な経済・暮らしこそが平和をつくることに貢献すること
(7)日本国憲法の平和理念を活かすために自衛隊を全面改組し、非武装の「地球救援隊」(仮称)を創設すること
(8)いのちを軽視する現代経済学は、事実上破産しており、それに代わる新しい経済思想としていのちを尊重する仏教経済学(思想)の確立が急務であること

 われわれ日本人の多くは、とかく「アメリカの窓」―米国のメディアに依存した世界のニュース、アメリカ的価値観、日米間の政治・外交・経済上の緊密な相互関係など―を通して世界そして日本のかたちを考え、行動する癖がついている。しかしこれでは二十一世紀という時代がなにを求めているのか、世界はどの方向に進みつつあるのか、日本としてまた日本人の一人ひとりとしてどういう針路、生き方をめざすべきか、その肝腎なところがみえてこない。それだけではない。当のアメリカ国家権力が何を画策しているのか、そのこと自体も霞んでいてみえにくい。

 どうしたらよいだろうか。私はアメリカの窓への先入観、思い込み、執着心を一度捨ててみて、その束縛から自由になることが必要ではないかと考える。アメリカの窓とは異質の世界に目を向け直してみることである。そういう風に思い直せば、アメリカはたしかに巨大な存在ではあるが、同時に地球上の一つの存在でしかないことがみえてくる。

 私自身のささやかな体験を語ってみたい。
 東西冷戦のシンボルでもあった「ベルリンの壁」が崩壊したのは一九八九年暮れのことである。私はその前年の暮れに西ドイツを訪ねる機会があり、政府関係者らに東西ドイツ統一の可能性を問いただした。答えは異口同音に「近い将来にその可能性はない」であった。しかし一年後にベルリンの壁は崩れ、やがてドイツ統一が実現した。私は大方の予測を超える「歴史の激変」なるものを実感せざるを得なかった。そのドイツはアメリカのイラク戦争に「ノー」と協力を拒否し、いま独自の道を歩みつつある。

 ここ数年は途上国や小国を訪ねる機会が多い。
 二〇〇〇年暮れにネパールで開かれた日本・ネパールの仏教経済学研究者らによる「国際仏教経営フォーラム」に参加したときのことである。ネパールの若き仏教経済学徒が「二十一世紀には仏教経済思想のグローバル化をめざさなければならない」と言ってのけたのである。小国の気概というべきだろうか。多くの日本人にとってグローバル化とは、アメリカ主導のグローバル化しか念頭にないだろう。私は「日本人にこういうネパール人のような大胆な思考が可能だろうか」と内心舌を巻いたものである。
 二〇〇三年一月に中米の小国コスタリカを訪ねた。コスタリカは一九四九年の憲法改正で常備軍としての軍隊を廃止したことで知られる。その後、中立宣言を行うなど積極的な平和外交を展開し、アメリカの圧力に屈服することもなく、軍隊廃止を堅持してきた。そのユニークな平和追求路線には学ぶべき点が少なくない。
 〇五年三月には「ベトナム解放三〇周年記念ツアー」一行のひとりとしてベトナムを訪問し、ベトナム戦跡を歩いた。アメリカ軍による極悪非道の残虐行為として胸に焼き付いたのは、ベトナム中部のソンミ村における幼子を含む大虐殺であり、また全土で猛毒ダイオキシンのいわゆる枯れ葉剤が撒布され、多数の犠牲者たちがいまなお脳性マヒなどで苦しむ現実である。

 以上からいえることは、世界にとってアメリカ一国のみがすべてではなく、アメリカとは異質の国々が健在だという事実である。アメリカにとっては非常識なこれらの国々からみれば、アメリカこそ歴史感覚からずれた非常識な国に映っているのではないか。アメリカにとっての非常識は、実は世界にとっては次第に常識になりつつあるともいえる。二十一世紀初頭のいま現在は、そういう時代ではないだろうか。

 冒頭に掲げた八項目はアメリカ的視点にこだわれば、非常識と映るに違いない。しかしその非常識が新しいまっとうな姿となって、やがて世界や日本の常識になっていくだろうと私は考えている。歴史とは非常識が常識へと転回していく波乱と活力に満ちた道程とはいえないだろうか。              著者  安原和雄


*発行は「澤田出版(株)」〒101-0062 千代田区神田駿河台 1-5-6 コトー駿河台913 
TEL 03-5217-2781/FAX 03-5217-2782
*発売は「(株)民衆社」〒113-0033 文京区本郷 4-5-9-901
TEL 03-3815-8141/FAX 03-3815-8144
*定価は本体1,800円

(寸評、提案を歓迎! 下記の「コメント」をクリックして、自由に書き込んで下さい。実名入りでなくて結構です)
くるま依存症と成人病の増加
〈折々のつぶやき〉17

 安原和雄
 このごろ想うこと、感じたこと、ささやかに実践していること―などを気の向くままに記していきたい。<折々のつぶやき>17回目。(06年6月8日掲載)

心療内科医の海原 純子さんの次のような一文が目にとまった。

 車社会になり、歩かなくなると脚力は衰えるし、成人病が増加する。軟らかい食べ物ばかり食べる子どものあごが細くなってきたのも、よく知られている。何かに頼りすぎたり、使わない部分があるとどんどん委縮していくのだ。(中略)私は自分の力を衰えさせないようにしっかり使うことが、病気の予防に必要だと思っている。(中略)
自分が持って生まれてきた体や頭や感性を使おうということを時代遅れと冷笑しないでほしい。(『毎日新聞』2006年6月4日付「日曜くらぶ」から)

 特に「歩かなくなると脚力が衰えるし、成人病が増加する」という指摘には120%同感である。私は、(財)日本万歩クラブ発行の『帰れ 自然へ』(03年9月号)に〈歩くことと「社会の健康」〉と題するささやかな随想を寄せたことがある。その趣旨は次のようである。

 歩く健康には「個人の健康」と「社会の健康」の2種類があり、何よりも社会が健康でなければ、個人の健康もままならない。
 個人の健康でいえば、わが家は最寄りの駅まで徒歩で15分ほどなので、晴天なら原則として歩く。最近、エスカレーターを設置する駅が増えたが、私はそれに頼らず、階段利用派であるよう心掛けている。
 私の観察によると、9割近い人がエスカレーター依存症である。楽ができて便利だという感覚だろうが、私は「お気の毒に。寝たきり予備群か」(普通「予備軍」というが、ここでは「群れ」をなしているという意味もこめて、あえて「予備群」と呼ぶ)とつい思ってしまう。日頃歩くことを怠って、高齢者になって脚力が弱ってくれば、その先には寝たきりが待っている確率はかなり高いからである。

 さて歩くことと社会の健康がなぜ密接な関係にあるのか。それは歩くことが地球環境も含めて身近な環境の保全、美化、健全化すなわち社会の健康に貢献するからである。
 クルマで移動することは、排ガス(地球温暖化の原因である二酸化炭素=CO2など)をまき散らすだけでなく、事故による死傷、騒音、渋滞など社会的なマイナスが大きい。環境省によると、1人の輸送に必要なエネルギー消費量は、鉄道1に対し、バス2、マイカー6の比率である。つまりマイカーは交通機関の中では最多のエネルギー浪費型であり、最多の汚染ガスを排出し、環境悪化の元凶ともいえる。

私はマイカーを持っていないし、それでも一向に不便を感じない。むしろクルマ依存症を拒否することによって、ささやかながら社会の健康に貢献できると思えば、歩き甲斐を実感できる。その上、社会の健康が確保されれば個人の心身の健康にもプラスになって還ってくるはずだから、歩くことは健康に貢献する素敵な道楽とはいえないか。

以上の私の一文にみる感覚は、これからこそ日常の暮らしに必要であると信じている。残念ながら地方では「くるま社会」が構造化しているが、東京のような大都市では車依存症にかかると、かえって不便である。
 もっとも最近はバス利用が増えたが、歩くことを大切に思う心に変わりはない。そういう簡素な暮らし―それが豊かな暮らしでもある。豊かであるためにはなによりも健康であることが必要である。だから歩き、健康に留意する簡素な暮らし方は豊かさそのものともいえよう。


(寸評、提案を歓迎! 下記の「コメント」をクリックして、自由に書き込んで下さい。実名入りでなくて結構です)
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。