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「もっともっと欲しい」の貪欲の経済から、「足るを知る」知足の経済へ。さらにいのちを尊重する「持続の経済」へ。日本は幸せをとりもどすことができるでしょうか、考え、提言し、みなさんと語り合いたいと思います。(京都・龍安寺の石庭)
「いただきます」考
<折々のつぶやき>7

 安原和雄
 このごろ想うこと、感じたこと、ささやかに実践していること―などを気の向くままに記していきたい。<折々のつぶやき>7回目。(06年2月19日掲載)

 毎日新聞(06年2月4日付)は「暮らし豊かに 役立つページ」で<「いただきます」に多くの意見 「命」と「食」へ思い670通>という特集を組んでいる。大変興味深く読んだ。毎日新聞はノーベル平和賞受賞者のマータイ女史(2月12日再来日)とともに「もったいない」運動を展開している。
 「いただきます」は「もったいない」さらに「お陰様で」と並んで日常生活に復活・普及させるべきだとここ数年来考えてきた。モラルの再生もそこから始まるだろう。

 1950年代ころまではこの3つの言葉は日常生活に定着していた。それが高度経済成長、使い捨て、飽食、自己中心主義の時代の中でごみのように捨てられてしまい、食事前に「いただきます」とつぶやくことは「自分には関係ないよ」という雰囲気となった。
 このような風潮と、マナーが乱れ、世の中がひん曲がっていったのとは裏腹の関係にあるような印象がある。だから「いただきます」を復活・普及させることは世直しに通じるとも考えている。

 さて「いただきます」とは何を意味するのか、さらに何をいただくのかである。毎日新聞の特集によると、次のような気持ちや考え方が紹介されている。

*感謝、思いやりの気持ちを「いただきます」という6文字に込める。
*「あなたの命を私の命にさせていただく」(永六輔さん)と考える。
*自然の恵みや作った方々への感謝を表す。
*自分の命をつなぐ食事に感謝をささげるという意味での食前の祈り、あいさつ。 
 以上のキーワードは感謝と命である。

 私は「いただきます」には2つの意味があると理解している。
 まず何をいただくのかというと、動植物のいのちをいただくのである。人間は動植物のいのちをいただいて自分のいのちをつないでいるのだから、そこに「もったいない」、「お陰様で」という感謝の気持ちが生じるのは当然のこと。またいのちなのだから不必要に食べ物をとりすぎないこと、知足(足るを知ること)、節制の心も大切である。

 大量の食べ残しは相変わらず減らないが、食べ残しは動植物のいのちをごみと同じ感覚で捨てることであり、ひいては人間のいのちも粗末に扱うことになる。
 安土桃山時代の茶人で、簡素・清浄な茶道を大成した千利休(1522~1591年)は、「食は飢えぬほどにて事足れり」という至言を残している。噛みしめたい。

 もう一つ大事なことは、折角いただいたいのちをどう活かすかである。「いただきます」にはいのちを疎(おろそ)かにはできないという思いが込められている。もちろんできるだけ「世のため、人のため」に活かすことであり、これが利他主義の原点となる。
 利他主義というとむずかしく聞こえるかもしれないが、電車の中で席を譲るのも立派な利他主義の実践である。それがいただいたいのちを活かすことにもなる。

最近、東京近辺の駅での光景として、乗降の際、降りてくる人を押しのけて乗り込んでくる人が目立つ。早く席を取ろうというあせりなのか。これは周囲の人のことがみえない利己主義の振る舞いである。おそらく「いただきます」とつぶやいたこともない人たちなのだろう。

 いのちをいただくといえば、まず両親から人としてのいのちをいただく。感謝の心は何よりも両親に向けなければならないだろう。両親あってのわが命である。私事で恐縮だが、その両親もすでに幽明界を異にしている。だからなおさら私自身のいのちをどう活かすかを考えないわけにはいかない。

 毎日新聞の特集にみる小学6年生の作文も捨てがたい。「感謝の気持ちとして、いただきますをいう方がいい」、「マナーよりもマネーを優先するのはおかしい」など。金銭取引の次元の話ではなく、感謝し、いのちを大切に活かすという「かっこいい生き方」の問題であることを小学生たちもしっかりと理解しているらしいところは頼もしい。


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